コマツ の歴史

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沿革

1921〜2025年 1921年に竹内鉱業から分離独立し石川県小松町に設立された小松製作所が起源。1947年完成のD50から国産ブルドーザーを育て、1998年に稼働管理システムKomtraxを開発した。建設機械・車両の日本以外の売上高比率が91%に達する、世界の鉱山と工事現場を相手にする建機大手である。

沿革

1921年に竹内鉱業から分離独立し石川県小松町に設立された小松製作所が起源。

1947年完成のD50から国産ブルドーザーを育て、1998年に稼働管理システムKomtraxを開発した。建設機械・車両の日本以外の売上高比率が91%に達する、世界の鉱山と工事現場を相手にする建機大手である。

1921年〜創業期竹内鉱業からの独立とトラクター国産化による「第二の敗戦」

  1. 小松製作所を設立
  2. 竹内鉱業より小松電気製鋼所を譲受
  3. 粟津工場を新設。トラクターを量産
  4. 国産ブルドーザーを試作
  5. 河合良成氏が社長就任
  6. 占領軍のガソリン供給停止命令を受け、農林省がトラクター発注を白紙撤回。経営危機へ
コマツ売上高

1949年〜急成長期砲弾特需によるブルドーザー量産とマルA対策

  1. 東京、大阪の両証券取引所に株式を上場
  2. 米軍向け軍需砲弾の生産を強化
  3. 大阪工場を新設
  4. 池貝自動車製造を吸収合併し川崎工場に 中越電化工業を吸収合併し氷見工場に
  5. ブルドーザーの量産投資に注力
  6. 全社的品質管理を推進
  7. 小山工場を新設
  8. 河合良一氏が社長に就任
コマツ売上高1967年12月期1,063億円

1968年〜安定成長期油圧ショベルへの参入と小松アメリカの設立

  1. 油圧ショベルの製造に参入
  2. 小松アメリカを設立。海外輸出に注力
  3. 能川昭二氏が社長に就任
  4. メカトロニクス、新素材開発等の先端的高度技術研究のための研究所を新設
コマツ売上高1986年12月期6,050億円

1987年〜低迷期河合良一会長の社長解任と脱建機路線での不採算事業撤退

  1. 河合会長が能川社長を解任。経営が混乱へ
  2. 田中正雄氏が社長に就任
  3. ドレッサーと合弁設立
  4. 片田哲也氏が社長に就任
  5. 脱建機を決定。シリコンウエハーに積極投資
  6. 不採算事業から撤退
  7. 産業機械に関する営業の一部を譲渡
  8. 安崎暁氏が社長に就任
  9. 同年10月に鋳造事業の営業を譲渡
  10. Komtrax(機械稼働管理システム)を開発
コマツ売上高2000年3月期10,556億円

2001年〜転換期坂根正弘のダントツ経営と電子金属・農機事業の譲渡

  1. 坂根正弘氏が社長に就任
  2. ダントツ経営で構造改革に着手
  3. コマツ電子金属の株式の過半をSUMCOに譲渡
  4. 農林機器事業をハスクバーナ・ジャパンに譲渡
  5. 日平トヤマの株式の過半を取得
  6. 大型プレス機械の製品開発、販売・サービス事業を吸収分割によりコマツ産機に承継
  7. コマツユーティリティを吸収合併
  8. コマツディーゼルを吸収合併
コマツ売上高2016年3月期18,550億円

2017年〜安定成長期ジョイグローバル買収による鉱山機械の拡大

  1. ジョイグローバルを買収
  2. コマツ特機を吸収合併
  3. コマツキャブテックを吸収合併
  4. UMW Komatsu Heavy Equipmentを完全子会社化
  5. 今吉琢也氏が社長に就任
コマツ売上高2026年3月期41,328億円

系譜

前身は1921年設立の小松製作所。1952年に池貝自動車製造と中越電化工業を吸収合併し、2006年にコマツ電子金属の株式の過半をSUMCOに譲渡した。2017年にジョイグローバルを買収。選択と集中とクロスボーダーM&Aを並行して進めた。

系譜

前身は1921年設立の小松製作所。

1952年に池貝自動車製造と中越電化工業を吸収合併し、2006年にコマツ電子金属の株式の過半をSUMCOに譲渡した。2017年にジョイグローバルを買収。選択と集中とクロスボーダーM&Aを並行して進めた。

1921年1922年 1952年 1988年 2006年 2017年 2026年 小松製作所 1921年設立 小松電気製鋼所 1922年竹内鉱業より譲受 池貝自動車製造 1952年吸収合併・川崎 中越電化工業 1952年吸収合併・氷見 ドレッサー 1988年合弁設立 コマツ電子金属 2006年SUMCOへ譲渡 ジョイグローバル 2017年買収
長期業績の推移 1921〜2026年

業績

コマツ:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
1970年12月期〜2026年3月期

第1章 1921年〜 竹内鉱業からの独立とトラクター国産化による「第二の敗戦」

筆者考察y.sugiura, author

小松製作所が竹内鉱業から受け継いだ最も重いものは、鉱山機械の図面ではなく電気炉であった。鋳鋼を自分で溶かせる会社にとって、その鋳鋼を最も多く使う機械を作ることは、材料を外へ売るよりも利が大きい。大型の水圧プレスも、履帯で走る二トンのトラクターも、鋳鋼の使い道として選ばれている。1931年に農林省の要請でトラクターの国産化に手を挙げたとき、小松製作所が見ていたのは農業の将来というより、自社の電気炉と鋳造設備の稼働先だったのだろう。製品を選ぶ基準が需要の側ではなく自社の設備の側にあったからこそ、注文の主が民間から陸軍へ、陸軍から占領下の農政へと移っても、作る物だけを替えて生き延びることができた。

1947年に農林省がトラクターの発注を白紙に戻したとき、総生産額の6割を一夜で失った小松製作所に残ったのは、鋳鋼を溶かす炉と、陸軍の命令で3台だけ作ったブルドーザーの設計であった。前者が当座の食い扶持になり、後者が次の主力になる。トラクター生産を勧めた側の農林官僚であった河合良成氏が、発注を撤回された会社の社長としてその責任を引き受け、同じ履帯と同じ鋳鋼を使う別の製品へ会社を移し替えたという順序には筋が通っている。「第二の敗戦」で失われたのは売り先であって、作る力ではなかった。だから再建は、新しい技術を探すことではなく、手元の設備が次に何を作れるかを見きわめる作業になった。

1921年〜鉱山機械と電気鋳鋼で出発した機械メーカー

コマツの源流は、土佐出身の実業家・竹内明太郎氏が率いた竹内鉱業にさかのぼる。竹内氏は佐賀県唐津の芳谷炭坑や石川県の遊泉寺銅山を経営し、鉱山機械の自製と修理のために1917年、遊泉寺銅山に近い石川県小松町へ小松鉄工所を開設した。初代所長には、国産自動車の先駆である快進社の橋本増治郎氏を迎えている。第一次大戦後の不況で親会社の竹内鉱業が事業を縮小すると、小松鉄工所を分離独立させる方針がとられ、1921年5月13日、資本金100万円で株式会社小松製作所が設立された。出発時の事業は鉱山機械・採掘機械にとどまらず電気製鋼による電気鋳鋼にも及び、機械と鉄鋼の二領域をあわせ持つ構成をとった。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [1]竹内鉱業社長 竹内明太郎
    • [2]1917年 遊泉寺銅山近くの小松町へ小松鉄工所を開設
    • [3]初代所長 快進社の橋本増治郎
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1921年5月 竹内鉱業より小松鉄工所を分離独立し石川県小松町に株式会社小松製作所を設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「小松製作所」の項
    • [5]1921年5月13日 設立 資本金100万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]出発時の事業は鉱山機械・採掘機械と電気鋳鋼

設立の翌1922年4月、小松製作所は竹内鉱業から小松電気製鋼所を譲り受け、鋳鋼の内製から機械の組立までを自社でまかなえるようにした。だが関東大震災が親会社の竹内鉱業を行き詰まらせ、第一次大戦後の不況も重なって経営は苦境に沈む。これを立て直したのが、1925年に社長として迎えられた中村税氏であった。中村氏のもとで経営は危機を脱し、満州事変以降は鋳鋼とプレス機械の需要増に支えられて事業規模を拡大した。鋳鋼は月産で業界首位の生産量に達し、機械部門へ自家供給しながら高級鋳物を外販する構成をとっている。

  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1922年4月 竹内鉱業より小松電気製鋼所を譲受
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]製鋼から造機にいたる生産方式を確立
    • [9]関東大震災による親会社・竹内鉱業の行き詰まりと欧州大戦後の不況
    • [10]1925年 中村税を社長に迎えて経営危機を脱する
    • [11]満州事変以降 鋳鋼・プレス機械の需要増大で事業規模が拡大
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [12]鋳鋼は生産量業界第一位 自家使用が中心で外販は高級鋳物

小松製作所が鋳鋼と並ぶ柱に据えたのは、その鋳鋼を最も多く使う機械である大型のプレスであった。当時プレスを手がけていたのは神戸製鋼所や住友製鋼所など数社にとどまり、小松製作所は鉱山機械として水力・水圧関係のポンプと関連機械を製作してきたため、大型水圧プレスの技術的な下地を持っていた。1929年には電気炉を増設して機械の新組立工場を建て、1932年には高圧と低圧を切り替える水圧機を適用した800トン水圧鍛造プレスを陸軍名古屋造兵廠へ納めた。1935年には自動車の車台用として700トンクランクプレスを豊田自動織機製作所へ納めている。電気製鋼炉を使って製鋼から造機までを一貫させたのは当時のわが国で最初であり、鋳鋼を自製することが機械の受注を呼ぶ関係が、ここで組み上がった。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [13]プレスは鋳鋼を主要素材とし 他の機械類も鋳鋼を多量に必要とした
    • [14]当時のプレスメーカーは神戸製鋼所・住友製鋼所程度 当社は鉱山機械の水力・水圧ポンプにより大型水圧プレスの技術的基礎を持っていた
    • [15]昭和4年 電気炉を増設し機械の新組立工場を建設
    • [16]昭和7年 高低圧切替方式の水圧機を適用した800トン水圧鍛造プレスを陸軍名古屋造兵廠へ納入
    • [17]昭和10年 自動車シャシー用の700トン・クランクプレスを豊田自動織機製作所へ納入
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「小松製作所」の項
    • [18]電気製鋼炉を使用して製鋼造機の一貫方式を採用したのは当時のわが国で最初
参考文献[1]-[18]
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [1]竹内鉱業社長 竹内明太郎
    • [2]1917年 遊泉寺銅山近くの小松町へ小松鉄工所を開設
    • [3]初代所長 快進社の橋本増治郎
    • [13]プレスは鋳鋼を主要素材とし 他の機械類も鋳鋼を多量に必要とした
    • [14]当時のプレスメーカーは神戸製鋼所・住友製鋼所程度 当社は鉱山機械の水力・水圧ポンプにより大型水圧プレスの技術的基礎を持っていた
    • [15]昭和4年 電気炉を増設し機械の新組立工場を建設
    • [16]昭和7年 高低圧切替方式の水圧機を適用した800トン水圧鍛造プレスを陸軍名古屋造兵廠へ納入
    • [17]昭和10年 自動車シャシー用の700トン・クランクプレスを豊田自動織機製作所へ納入
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1921年5月 竹内鉱業より小松鉄工所を分離独立し石川県小松町に株式会社小松製作所を設立
    • [7]1922年4月 竹内鉱業より小松電気製鋼所を譲受
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「小松製作所」の項
    • [5]1921年5月13日 設立 資本金100万円
    • [18]電気製鋼炉を使用して製鋼造機の一貫方式を採用したのは当時のわが国で最初
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]出発時の事業は鉱山機械・採掘機械と電気鋳鋼
    • [8]製鋼から造機にいたる生産方式を確立
    • [9]関東大震災による親会社・竹内鉱業の行き詰まりと欧州大戦後の不況
    • [10]1925年 中村税を社長に迎えて経営危機を脱する
    • [11]満州事変以降 鋳鋼・プレス機械の需要増大で事業規模が拡大
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [12]鋳鋼は生産量業界第一位 自家使用が中心で外販は高級鋳物

1931年〜トラクター国産化と、陸軍命令によるブルドーザー試作

鉱山機械と工作機械で足場を得た小松製作所は、他社の手がけない独自製品を探し、1931年に農林省の要請で農用トラクターの国産化へ乗り出した。米国キャタピラー社製の小型トラクターを範として二トン履帯式トラクターを試作し、これが国産第一号となる。翌1932年には改良型の小松G25型を完成させ、陸軍などへ納入した。トラクターは得意の鋳鋼を多用できる製品で、既存の製鋼設備をそのまま生かせる点が選択の決め手になっている。1938年5月には一貫生産を目的として小松市郊外に粟津工場を新設し、満州開拓向けの量産を本格化させた。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [19]1931年 農林省の要請で農用トラクター国産化に着手
    • [20]米国キャタピラー社製の小型トラクターを範とした二トン履帯式トラクターが国産第一号
    • [21]1932年 改良型の小松G25型を完成し陸軍へ納入
    • [22]得意の鋳鋼を多用できるトラクターが新たな主軸
    • [24]粟津工場で満州開拓向けの量産を本格化
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1938年5月 粟津工場を新設

戦時に入ると、小松製作所は陸海軍の要請で各種の牽引車や土工用車両を手がけた。ブルドーザーもそのひとつで、副社長の河合良一氏が1963年に語ったところでは、米軍が飛行場の造成に使う機械を日本でも作れという陸軍の命令があり、写真を手がかりに3台の試作車を製作したという。試作車はフィリピンとガダルカナルへ送られたが、ガダルカナルへは着かず、フィリピンへ届いた分も使う間がないまま占領されている。1943年の試作は量産に届かないまま終戦を迎えた。国内にブルドーザーの稼働台数がほぼ無い状態から、戦後の生産は始まっている。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [25]戦時に陸軍・海軍の要請で各種の牽引車や土工用車両を製作
    • [29]1943年 国産ブルドーザーを試作 量産には至らず
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [26]河合良一 1963年時点で小松製作所副社長
    • [27]陸軍の命令で写真をサンプルに3台の試作車を製作
    • [28]試作車はガダルカナルへ未着 フィリピン着分も使用前に占領
    • [30]終戦直後は国内のブルドーザー稼働台数がほぼ皆無

粟津工場の稼働に続き、小松製作所は1939年に同工場へ鋳造工場を増設し、あわせてハルピンにトラクターの修理工場を設けた。戦時が深まると、注文の主が移るのにつれて作る機種そのものが入れ替わっていく。兵器の製作に使う工作機械は輸入が困難になって国産化が求められ、1941年、小松製作所は油圧式の金切円鋸盤と円鋸刃研磨盤を試作せよという総動員試験研究命令を受けた。試作した二機種は成績優秀の公式認定を得て、1943年には直接間接の軍需向けを一手に引き受け、終戦までに円鋸盤127台と研磨盤50台を陸海軍工廠や航空機メーカーへ納めている。削岩機類の生産は1943年まで続いて累計1万個を超え、海軍の要請でその製造設備を転用した艦船建造用の鋲締機も約4200個を製作した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「小松製作所」の項
    • [31]昭和14年 粟津工場に鋳造工場を増設
    • [32]昭和14年 ハルピンにトラクター修理工場を設立
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [33]戦局の進行により兵器製作用工作機械類の輸入が困難となり国産化が要請された
    • [34]昭和16年 油圧式金切円鋸盤と同円鋸刃研磨盤の試作について総動員試験研究命令を受ける
    • [35]昭和18年 金切円鋸盤の直接間接軍需向けを一手に引き受ける
    • [36]終戦までに円鋸盤127台・研磨盤50台を製作し陸海軍工廠や航空機メーカーで使用
    • [37]削岩機類の生産は昭和18年まで継続し合計1万個を越えた
    • [38]海軍の要請で削岩機製造設備を転用し艦船建造用の鋲締機を約4200個製造
参考文献[19]-[38]
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [19]1931年 農林省の要請で農用トラクター国産化に着手
    • [20]米国キャタピラー社製の小型トラクターを範とした二トン履帯式トラクターが国産第一号
    • [21]1932年 改良型の小松G25型を完成し陸軍へ納入
    • [22]得意の鋳鋼を多用できるトラクターが新たな主軸
    • [24]粟津工場で満州開拓向けの量産を本格化
    • [25]戦時に陸軍・海軍の要請で各種の牽引車や土工用車両を製作
    • [29]1943年 国産ブルドーザーを試作 量産には至らず
    • [33]戦局の進行により兵器製作用工作機械類の輸入が困難となり国産化が要請された
    • [34]昭和16年 油圧式金切円鋸盤と同円鋸刃研磨盤の試作について総動員試験研究命令を受ける
    • [35]昭和18年 金切円鋸盤の直接間接軍需向けを一手に引き受ける
    • [36]終戦までに円鋸盤127台・研磨盤50台を製作し陸海軍工廠や航空機メーカーで使用
    • [37]削岩機類の生産は昭和18年まで継続し合計1万個を越えた
    • [38]海軍の要請で削岩機製造設備を転用し艦船建造用の鋲締機を約4200個製造
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1938年5月 粟津工場を新設
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [26]河合良一 1963年時点で小松製作所副社長
    • [27]陸軍の命令で写真をサンプルに3台の試作車を製作
    • [28]試作車はガダルカナルへ未着 フィリピン着分も使用前に占領
    • [30]終戦直後は国内のブルドーザー稼働台数がほぼ皆無
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「小松製作所」の項
    • [31]昭和14年 粟津工場に鋳造工場を増設
    • [32]昭和14年 ハルピンにトラクター修理工場を設立

1947年〜発注の白紙撤回と、河合良成氏による再建

終戦後、小松製作所は国土300万町歩の開拓という食糧増産政策に応じ、ガソリン式トラクターの生産へ転じた。同じ製品には新潟鉄工所や久保鉄工所など5社ほどが参入している。ところが占領軍が日本へのガソリン供給停止を命じたため、ガソリントラクターは製作できなくなった。1947年、農林省はこれを受けてトラクターの発注を全面的に白紙撤回した。トラクターと農具は当時の総生産額の6割以上を占めており、その打ち切りは社内で"第二の敗戦"と呼ばれた。主力を一夜で失った工場では賃上げを求める大争議が起こり、『東の東宝、西の小松』と並び称された百日闘争へ発展した。

  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [39]戦後 国土300万町歩の開拓
    • [40]新潟鉄工所・久保鉄工所ら5社程度がガソリントラクターを製作
    • [41]占領軍の日本に対するガソリン供給停止命令でガソリントラクターの製作が不能に
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [42]1947年 農林省がトラクター発注を白紙撤回
    • [43]トラクターと農具が総生産額の6割以上 打ち切りは「第二の敗戦」
    • [44]大争議は「東の東宝、西の小松」と並称された百日闘争へ発展

この難局で社長に迎えられた河合良成氏は、農林官僚として小松製作所にトラクター生産を勧めた経緯があり、発注撤回に道義的な責任を感じていた。河合氏は復興金融金庫から3000万円の融資を引き出して争議を収拾し、1947年末に社長へ就任すると、約700名の人員整理を断行して再建に着手した。1949年5月には東京と大阪の両証券取引所へ株式を上場し、外部から資金を調達する道も開いた。1947年にはD50ブルドーザーを完成させており、戦時の試作で残した設計が製品として世に出ている。ただし土建業者が持つブルドーザーは国産品か進駐軍の払下げ品に限られ、市場そのものがまだ小さかった。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [45]農林官僚出身の河合良成 トラクター生産を勧めた経緯から道義的責任
    • [46]復興金融金庫の融資3000万円で争議を収拾
    • [47]1947年末 河合良成が社長就任 約700名の人員整理
    • [49]1947年 D50ブルドーザーを完成
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [48]1949年5月 東京・大阪の両証券取引所に株式を上場
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [50]当時のブルドーザーは進駐軍が焼跡整理に使用 土建業者の保有は国産品か進駐軍払下げ品

再建の当座を支えたのは、機械ではなく鋳鋼であった。1947年に始まった傾斜生産方式で石炭と鉄鋼へ資金と資材が優先的に注がれると、小松製作所には炭車や連結チェーンの注文が集まり、占領軍が発注した貨車や機関車の部品も加わって、1948年のうちに鋳鋼の生産は月産420〜450トンへ戻った。機械のほうは何を作っても売れない時代で、小松製作所は漁船用のディーゼルから紡毛機まで手当たり次第に試した。舶用ディーゼルは2年間で40台を製作しただけで打ち切った。そのなかで歩留まりがよく先の見込める製品として残ったのがブルドーザーであった。1948年の製作は14台にとどまり故障が続いたため、いったん生産を止めて改良し、1949年から粟津工場でエンジンから本体までの一貫生産に入った。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [51]昭和22年初頭 石炭・鉄鋼を超重点産業とする傾斜生産方式が始まる
    • [52]石炭重点政策により炭車・連結チェーンなど鋳鋼品の需要が増加
    • [53]貨車・機関車など車両部品の生産増加では占領軍の発注が大きな比重を占めた
    • [54]昭和23年中に鋳鋼の生産高が月産420〜450トンへ回復
    • [56]舶用ディーゼルエンジンは昭和23・24の2年間に計40台を製作し以後生産中止
    • [58]昭和23年にブルドーザ14台を製作するも故障続発で生産を一時停止 昭和24年から粟津工場でエンジンから本体まで一貫生産
  • 『歴史をつくる人々』1964年「防御から進撃へ」(小松製作所 河合良成)
    • [55]河合良成 機械は何をつくってもだめな時代でマリン・ジーゼルや紡毛機などに手を出した
    • [57]河合良成 たった一つ歩どまりのよい将来見込みのある製品がブルドーザーだった
参考文献[39]-[58]
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [39]戦後 国土300万町歩の開拓
    • [40]新潟鉄工所・久保鉄工所ら5社程度がガソリントラクターを製作
    • [41]占領軍の日本に対するガソリン供給停止命令でガソリントラクターの製作が不能に
    • [50]当時のブルドーザーは進駐軍が焼跡整理に使用 土建業者の保有は国産品か進駐軍払下げ品
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [42]1947年 農林省がトラクター発注を白紙撤回
    • [43]トラクターと農具が総生産額の6割以上 打ち切りは「第二の敗戦」
    • [44]大争議は「東の東宝、西の小松」と並称された百日闘争へ発展
    • [45]農林官僚出身の河合良成 トラクター生産を勧めた経緯から道義的責任
    • [46]復興金融金庫の融資3000万円で争議を収拾
    • [47]1947年末 河合良成が社長就任 約700名の人員整理
    • [49]1947年 D50ブルドーザーを完成
    • [51]昭和22年初頭 石炭・鉄鋼を超重点産業とする傾斜生産方式が始まる
    • [52]石炭重点政策により炭車・連結チェーンなど鋳鋼品の需要が増加
    • [53]貨車・機関車など車両部品の生産増加では占領軍の発注が大きな比重を占めた
    • [54]昭和23年中に鋳鋼の生産高が月産420〜450トンへ回復
    • [56]舶用ディーゼルエンジンは昭和23・24の2年間に計40台を製作し以後生産中止
    • [58]昭和23年にブルドーザ14台を製作するも故障続発で生産を一時停止 昭和24年から粟津工場でエンジンから本体まで一貫生産
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [48]1949年5月 東京・大阪の両証券取引所に株式を上場
  • 『歴史をつくる人々』1964年「防御から進撃へ」(小松製作所 河合良成)
    • [55]河合良成 機械は何をつくってもだめな時代でマリン・ジーゼルや紡毛機などに手を出した
    • [57]河合良成 たった一つ歩どまりのよい将来見込みのある製品がブルドーザーだった

第2章 1949年〜 砲弾特需によるブルドーザー量産とマルA対策

筆者考察y.sugiura, author

1955年上期、小松製作所の総売上高61億5000万円のうち45億1000万円は砲弾であった。売上の7割が兵器という会社を、この時点で建設機械メーカーと呼ぶのは無理がある。それでもこの4年間は、のちのブルドーザー量産にとって必要な時間だった。砲弾は利が薄い代わりに毎月6〜7億円の現金を確実に運び、その確実さが銀行の信用に変わり、信用が池貝自動車製造の合併と枚方造兵廠の払い下げ、すなわち京浜と大阪の生産拠点に変わったからである。河合良成氏が渡米のたびに発注の打ち切りを疑い、特需が細りきる前に兵器部門を畳んだのは、砲弾を事業としてではなく、資本を積むための手段として見ていたためだろう。

1962年にキャタピラー・トラクタ社が新三菱重工業と組んで日本へ入ると決まったとき、小松製作所に足りなかったのは販売力でも生産力でもなく、2000時間ぶんの耐久性であった。全国120カ所の直販網も、道路整備計画が生んだ需要も、オーバーホールまで3000時間しかもたない機械の上に載っていた。認可を1年遅らせた反対運動は、市場を守る行為であると同時に、時間を買う行為でもあった。買った時間で作られたのが、JISを上回る特殊規格と、設計から営業までを品質で結ぶ管理の仕組みである。1964年のデミング賞実施賞は品質の証明であると同時に、国内を守るために組んだ仕組みが、そのまま輸出に耐える体に変わったことの確認でもあった。

資本金の推移 朝鮮動乱期から1963年上期まで(億円)

7.5 朝鮮動乱期 15 30年1月 22.5 32年10月 35 34年7月 60 35年9月 150 38年上期

1949年〜特需に頼って越えたドッジ不況と、砲弾が残した資本

1949年、超均衡財政を求めるドッジ・ラインが敷かれると、小松製作所の受注は一夜で消えた。河合良成社長は粟津工場で鋳鋼の電気炉の前に立っていたとき本社からの電報を受け取り、鉄道の注文は全部取り消しになる、炉の湯は鋼塊にしておくほかないと工場長から告げられている。鋳鋼の最大の注文主は国鉄で、主に貨車の台枠を作っていた。会社はかねて懸案だった小松工場の粟津工場への統合を急ぎ、生産能率の向上と経費の節減を図った。それでも足りず、受注可能額に見合う人員の枠を設けて超過分を配置転換する方針をとる。1949年12月には粟津工場で火災が起き、機械組立工場が全焼して設備機械244台と仕掛中のブルドーザー19台を失っている。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [59]昭和24年 ドッジ・ラインによる不況が当社の出鼻をくじいた
    • [62]昭和24年 小松工場を粟津工場へ統合し生産能率の向上と経費の節減を図る
    • [63]受注可能額に見合った人員の枠を設け過剰人員は配置転換する措置を講じた
    • [64]昭和24年12月29日 粟津工場の火災で機械組立工場が全焼し設備機械244台と完成・仕掛中のブルドーザ19台を焼失
  • 『歴史をつくる人々』1964年「防御から進撃へ」(小松製作所 河合良成)
    • [60]河合良成 粟津工場で電報を受け取り工場長から鉄道の注文が全部取り消しになると告げられた
    • [61]河合良成 鋳鋼の最大の注文主は国鉄で主に貨車のシャーシを製作していた

工場の統合で生じた過剰人員は、従業員約2500名の28%に達した。整理を避ける手として小松製作所が選んだのは、米軍が神奈川県淵野辺の旧陸軍相模造兵廠で日本側に行わせていた重機械の修理、すなわちPD作業の入札であった。河合社長は世間が出血受注と騒ぐほどの価格で応札し、1949年8月に相模作業所を設けて600名を配置転換した。収益はもとより多くを見込めなかったが、修理の対象がブルドーザーやスクレーパー、パワーショベルなど当時の日本では珍しい機械であったため、技術を習得する機会になり、地方の会社であった小松製作所が中央へ出る足がかりにもなった。ドッジ整理に苦しんだ小松製作所の事業は、1950年に降ってわいた朝鮮動乱でにわかに活況を呈した。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [65]三工場の粟津統合により従業員約2500名の28%が過剰人員となった
    • [66]米軍は極東地域で破損した重機械類を旧陸軍相模造兵廠内で日本側に修理させる計画を持っていた
    • [67]昭和24年8月 出血受注と騒がれた入札を経て相模作業所を創設し600名を配置転換
    • [68]PD作業では当時の日本では珍しい機械類に接し技術習得の機会となった
    • [69]相模作業所は中央進出の足がかりとなる利点があった
  • 『歴史をつくる人々』1964年「防御から進撃へ」(小松製作所 河合良成)
    • [70]河合良成 一時はドッジ整理に苦しんだが昭和25年の朝鮮動乱で事業はにわかに活況を呈した

1950年6月に始まった朝鮮動乱は、ドッジ不況下の産業界に特別需要をもたらした。1953年7月の休戦後はむしろ兵器特需が主軸となり、小松製作所は既存の工場に余力がないことから、1952年に池貝自動車製造と中越電化工業の合併、および旧陸軍枚方造兵廠の払い下げを一気に具体化した。払い下げを受けた敷地には同年10月、大阪工場が発足する。1952年から1955年までの4年間の砲弾受注額は4478万ドル余、日本円で約160億円に上り、全砲弾受注のおよそ4割を占めた。1955年上期には総売上高61億5000万円のうち砲弾が45億1000万円と、73%を占めている。砲弾は利こそ薄かったが毎月6〜7億円の現金収入をもたらし、確実な見返りがあることで銀行の信用も高まった。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [71]昭和25年6月の朝鮮動乱による国連軍の特別需要でドッジ不況下の産業界が活気づいた
    • [72]昭和27年 重車両修理や砲弾の受注に既存工場の余力がなく池貝自動車製造の合併と旧陸軍枚方造兵廠の払い下げを具体化
    • [74]昭和27〜30年の4年間の当社砲弾受注額は4478万ドル余(約160億円)で全砲弾受注の約4割
    • [75]昭和30年上期は総売上高61億5000万円のうち砲弾が45億1000万円で73%
    • [76]砲弾生産は毎月6〜7億円の現金収入があり利は薄くても資金的に有利で銀行の信用も高まった
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [73]1952年10月 大阪工場を新設
参考文献[59]-[76]
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [59]昭和24年 ドッジ・ラインによる不況が当社の出鼻をくじいた
    • [62]昭和24年 小松工場を粟津工場へ統合し生産能率の向上と経費の節減を図る
    • [63]受注可能額に見合った人員の枠を設け過剰人員は配置転換する措置を講じた
    • [64]昭和24年12月29日 粟津工場の火災で機械組立工場が全焼し設備機械244台と完成・仕掛中のブルドーザ19台を焼失
    • [65]三工場の粟津統合により従業員約2500名の28%が過剰人員となった
    • [66]米軍は極東地域で破損した重機械類を旧陸軍相模造兵廠内で日本側に修理させる計画を持っていた
    • [67]昭和24年8月 出血受注と騒がれた入札を経て相模作業所を創設し600名を配置転換
    • [68]PD作業では当時の日本では珍しい機械類に接し技術習得の機会となった
    • [69]相模作業所は中央進出の足がかりとなる利点があった
    • [71]昭和25年6月の朝鮮動乱による国連軍の特別需要でドッジ不況下の産業界が活気づいた
    • [72]昭和27年 重車両修理や砲弾の受注に既存工場の余力がなく池貝自動車製造の合併と旧陸軍枚方造兵廠の払い下げを具体化
    • [74]昭和27〜30年の4年間の当社砲弾受注額は4478万ドル余(約160億円)で全砲弾受注の約4割
    • [75]昭和30年上期は総売上高61億5000万円のうち砲弾が45億1000万円で73%
    • [76]砲弾生産は毎月6〜7億円の現金収入があり利は薄くても資金的に有利で銀行の信用も高まった
  • 『歴史をつくる人々』1964年「防御から進撃へ」(小松製作所 河合良成)
    • [60]河合良成 粟津工場で電報を受け取り工場長から鉄道の注文が全部取り消しになると告げられた
    • [61]河合良成 鋳鋼の最大の注文主は国鉄で主に貨車のシャーシを製作していた
    • [70]河合良成 一時はドッジ整理に苦しんだが昭和25年の朝鮮動乱で事業はにわかに活況を呈した
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [73]1952年10月 大阪工場を新設

1956年〜砲弾からブルドーザーへの主力交代と、直販網の全国展開

小松製作所が砲弾から手を引いたのは、特需が細りきる前であった。河合良成氏は数度の渡米から米国がいつ砲弾の発注を止めるか分からないと見て、あらかじめ備えたうえで兵器部門を極端に縮小し、全力を産業機械へ向けた。1953年3月の朝鮮戦争の終結で特需は激減し、日平産業や津上製作所など主要な兵器製造会社は相次いで破綻・休業に追い込まれたが、小松製作所は全工場をブルドーザーを中心とする生産体制へ切り換え、増産へ向かった。1956年からは払い下げを受けた大阪工場も民需に転換し、鋳鋼と重機械類の製造を始めている。兵器で積んだ資本と工場が、そのまま建設機械の量産へ移し替えられた。

  • 『歴史をつくる人々』1964年「防御から進撃へ」(小松製作所 河合良成)
    • [77]河合良成 数回の渡米で砲弾注文の休止を予見し事前に準備して兵器部門を極端に縮小し全力を産業機械へ向けた
    • [78]朝鮮事変の終結で特需は激減し日平産業・津上製作所など主な兵器製造会社は相次いで破綻休業
    • [79]河合良成 あらゆる工場をブルドーザー中心の産業機械生産体制へ切り換え増産を図った
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [80]払下げを受けた大阪工場では民需転換を実施し昭和31年より鋳鋼および重機械類の製造を開始

ブルドーザーの需要を作ったのは道路であった。国と地方公共団体、道路公団を合わせた道路投資額は1954年の610億円から1958年に1372億円、1961年には3156億円へ増え、1961年に着手された第三次道路整備計画は2兆3000億円という規模だった。1963年の時点で、小松製作所のブルドーザーの総販売量のうち道路関係へ向かうのは4分の1ほどにとどまり、残りは土地造成や河川、工場内の原料運搬、除雪に使われていた。一方、1953年に着工した佐久間ダムでは使用機械のほとんどが米国製で、国産の大型機は掘削現場で能率が劣り故障も多く、工期を左右しない工程へ回された。小松製作所は大型化を進め、1960年には国産最大のD250ブルドーザーを開発している。

  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [81]わが国の道路投資額は昭和29年610億円 33年1372億円 36年3156億円
    • [82]昭和36年着手の第三次道路整備計画は2兆3000億円の規模
    • [83]ブルドーザーの総販売量のうち道路関係は4分の1程度 ほかは土地造成・河川・工場の原料運搬・森林・除雪用
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [84]佐久間ダムの使用機械はほとんどが米国製で国産機は掘削現場で能率が悪く故障が続出した
    • [85]昭和35年 国産最大のD250ブルドーザを開発

建設機械を売る仕組みは、代理店ではなく自前の網で作られた。1957年から全国の都道府県に支店・営業所・出張所を置いて建設機械の直販体制を敷き、1958年4月には社長直属の営業本部を新設して、販売の企画とサービス活動の計画を一つの機構へ集めた。同年6月には熊本・岡山・長野・山形など27カ所へ出張所を新設している。1960年4月には部品ディーラーだった同和商事を小松サービス販売と改め、サービス機構の全部と専従者162名をそこへ移した。これを支える資金は増資でまかない、資本金は1957年10月の22億5000万円から1959年7月に35億円、1960年9月に60億円へ増え、公募分のプレミアムを含め2回の増資で42億500万円を調達した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [86]昭和32年から全国都道府県に支店・営業所・出張所網を設置し建設機械の直販体制をつくる
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [87]昭和33年4月 社長直属の営業本部を新設し販売の企画・促進とサービス活動の計画を担当するスタッフ部門を置いた
    • [88]昭和33年6月 熊本・岡山・長野・山形など全国27カ所に出張所を新設
    • [89]昭和35年4月 部品機材販売ディーラーの同和商事を小松サービス販売と改称しサービス機構全部と専従者162名を移管
    • [90]資本金は昭和32年10月22億5000万円 34年7月35億円 35年9月60億円 2回の増資で公募プレミアムを含め42億500万円を調達
参考文献[77]-[90]
  • 『歴史をつくる人々』1964年「防御から進撃へ」(小松製作所 河合良成)
    • [77]河合良成 数回の渡米で砲弾注文の休止を予見し事前に準備して兵器部門を極端に縮小し全力を産業機械へ向けた
    • [78]朝鮮事変の終結で特需は激減し日平産業・津上製作所など主な兵器製造会社は相次いで破綻休業
    • [79]河合良成 あらゆる工場をブルドーザー中心の産業機械生産体制へ切り換え増産を図った
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [80]払下げを受けた大阪工場では民需転換を実施し昭和31年より鋳鋼および重機械類の製造を開始
    • [86]昭和32年から全国都道府県に支店・営業所・出張所網を設置し建設機械の直販体制をつくる
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [81]わが国の道路投資額は昭和29年610億円 33年1372億円 36年3156億円
    • [82]昭和36年着手の第三次道路整備計画は2兆3000億円の規模
    • [83]ブルドーザーの総販売量のうち道路関係は4分の1程度 ほかは土地造成・河川・工場の原料運搬・森林・除雪用
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [84]佐久間ダムの使用機械はほとんどが米国製で国産機は掘削現場で能率が悪く故障が続出した
    • [85]昭和35年 国産最大のD250ブルドーザを開発
    • [87]昭和33年4月 社長直属の営業本部を新設し販売の企画・促進とサービス活動の計画を担当するスタッフ部門を置いた
    • [88]昭和33年6月 熊本・岡山・長野・山形など全国27カ所に出張所を新設
    • [89]昭和35年4月 部品機材販売ディーラーの同和商事を小松サービス販売と改称しサービス機構全部と専従者162名を移管
    • [90]資本金は昭和32年10月22億5000万円 34年7月35億円 35年9月60億円 2回の増資で公募プレミアムを含め42億500万円を調達

1961年〜キャタピラー上陸に対したマルA対策と、デミング賞実施賞

1960年に政府が貿易為替の自由化を早急に拡大する方針を打ち出すと、建設機械の輸入制限も外れ、ブルドーザーは1964年1月までに全機種が自由化された。そこへ世界最大のブルドーザーメーカーであるキャタピラー・トラクタ社が1961年春から日本への資本進出に動き、1962年6月30日、新三菱重工業との合弁で国内にブルドーザー製造会社を設立すると発表する。同社のブルドーザー売上高は世界の50%以上を占めていた。小松製作所はただちに通商産業省へ反対を伝え、日立製作所や三菱日本重工業も同調したが、三菱三重工の合併が具体化すると三菱日本重工業は共同戦線から抜け、日立製作所も離れた。反対を続けて認可を1963年6月まで延ばし、その間に品質を改良するのが会社の意図であった。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [91]昭和35年の貿易為替自由化方針により建設機械の輸入制限が撤廃され ブルドーザは昭和39年1月までに全機種が輸入自由化
    • [92]昭和36年春からキャタピラー・トラクタ社が日本への資本進出に動き 37年6月30日に新三菱重工業との合弁でブルドーザ製造会社の設立を発表
    • [93]キャタピラー・トラクタ社のブルドーザ売上高は世界の50%以上
    • [94]当社は通産省に反対を伝え日立製作所・三菱日本重工業も同調したが 三菱三重工の合併が具体化すると三菱日本重工業が脱落し日立製作所も抜けた
    • [95]反対運動によりキャタピラー三菱の設立認可は昭和38年6月まで延引 その間にブルドーザの品質改良を進める意向だった

全国120カ所の販売拠点で直販する体制はすでに整い、販売にも生産にも心配はなかった。問題は品質にあった。初回のオーバーホールまでキャタピラー社製が5000時間もつのに、小松製作所のブルドーザーは3000時間が限度と言われ、厳しい現場では故障が相次いだ。この弱点を埋める対策は、会社のどんな重大な用件にも先んじるという意味を込め、トランプで何にでも勝つ札であるエースになぞらえてマルAと名づけられた。1961年8月、専務取締役の河合良一氏を責任者とする対策本部が置かれ、専任は1〜2名にとどめて各部門から人を集めるタスクフォース方式が採られた。ユーザーの批判会で挙がった問題点は182項目、クレームの解析と稼働現地の調査を合わせると1657カ所に達した。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [96]当時すでに全国120カ所の販売拠点による直販システムを確立していた
    • [97]キャタピラー社のブルドーザは5000時間までオーバホールを要さないのに対し当社は3000時間が限度といわれ過酷な作業下では故障が多発
    • [98]マルAとは社内のいかなる重大事よりも優先することを意味しトランプのオールマイティのエースから取った
    • [99]昭和36年8月 専務取締役河合良一を責任者とするマルA対策本部を設置 専任要員は1〜2名でタスクフォース方式を主体とした
    • [100]ユーザー批判会で指摘された問題点は182項目 クレーム解析や稼働現地調査で1657カ所の問題点が判明

1961年11月に定めた品質目標は、第一回オーバーホールまでの実働時間5000時間、機能率90%と、キャタピラー社製に並ぶ水準であった。実現のため、当初はコストを度外視して品質を確保し、原価の引き下げは後から研究するという順序が採られ、材料と部品にはJIS規格を上回る特殊規格が設けられた。対策の前と比べてクレームは5分の1以下となり、5000時間という目標も足回り装置以外では到達した。それを支えたのは、統計による抜き取り検査の域を超え、設計から営業までをつなぐ総合的品質管理を全社で進めたことである。1964年10月には産業機械メーカーとして初めてデミング賞実施賞を受けたが、これに先立つ同年6月30日、社長を17年間務めた河合良成氏は会長となり、社長の座は河合良一氏へ移っていた。守りのために入れた品質管理は、こうして輸出に打って出る足場となった。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [101]昭和36年11月 マルA対策の品質目標として第一回オーバホールまでの実働時間5000時間・機能率90%を設定
    • [102]当初はコストを無視してまず品質を確保しそののちにコストダウンを研究するという非常手段をとった
    • [103]JIS規格を上回る特殊規格を用い適合しない材料や部品は使用しないこととした
    • [104]クレームはマルA対策実施前の5分の1以下となり 第一回オーバホールまでの5000時間は足回り装置を除いて達成
    • [105]統計的品質管理にとどまらず経営・研究・設計・製造・営業の各部門を品質に結びつける総合的品質管理を導入
    • [106]昭和39年10月15日 1964年度デミング賞実施賞の授賞通知 産業機械メーカーでの獲得は当社が初
    • [107]昭和39年6月30日 17年間社長の職にあった河合良成が会長となり副社長河合良一が社長に昇格
参考文献[91]-[107]
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [91]昭和35年の貿易為替自由化方針により建設機械の輸入制限が撤廃され ブルドーザは昭和39年1月までに全機種が輸入自由化
    • [92]昭和36年春からキャタピラー・トラクタ社が日本への資本進出に動き 37年6月30日に新三菱重工業との合弁でブルドーザ製造会社の設立を発表
    • [93]キャタピラー・トラクタ社のブルドーザ売上高は世界の50%以上
    • [94]当社は通産省に反対を伝え日立製作所・三菱日本重工業も同調したが 三菱三重工の合併が具体化すると三菱日本重工業が脱落し日立製作所も抜けた
    • [95]反対運動によりキャタピラー三菱の設立認可は昭和38年6月まで延引 その間にブルドーザの品質改良を進める意向だった
    • [96]当時すでに全国120カ所の販売拠点による直販システムを確立していた
    • [97]キャタピラー社のブルドーザは5000時間までオーバホールを要さないのに対し当社は3000時間が限度といわれ過酷な作業下では故障が多発
    • [98]マルAとは社内のいかなる重大事よりも優先することを意味しトランプのオールマイティのエースから取った
    • [99]昭和36年8月 専務取締役河合良一を責任者とするマルA対策本部を設置 専任要員は1〜2名でタスクフォース方式を主体とした
    • [100]ユーザー批判会で指摘された問題点は182項目 クレーム解析や稼働現地調査で1657カ所の問題点が判明
    • [101]昭和36年11月 マルA対策の品質目標として第一回オーバホールまでの実働時間5000時間・機能率90%を設定
    • [102]当初はコストを無視してまず品質を確保しそののちにコストダウンを研究するという非常手段をとった
    • [103]JIS規格を上回る特殊規格を用い適合しない材料や部品は使用しないこととした
    • [104]クレームはマルA対策実施前の5分の1以下となり 第一回オーバホールまでの5000時間は足回り装置を除いて達成
    • [105]統計的品質管理にとどまらず経営・研究・設計・製造・営業の各部門を品質に結びつける総合的品質管理を導入
    • [106]昭和39年10月15日 1964年度デミング賞実施賞の授賞通知 産業機械メーカーでの獲得は当社が初
    • [107]昭和39年6月30日 17年間社長の職にあった河合良成が会長となり副社長河合良一が社長に昇格

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出典・参考 6件
出典・参考
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「小松製作所」の項
  • 『歴史をつくる人々』1964年「防御から進撃へ」(小松製作所 河合良成)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)

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