1921年に竹内鉱業から分離独立し石川県小松町に設立された小松製作所が起源。
1947年完成のD50から国産ブルドーザーを育て、1998年に稼働管理システムKomtraxを開発した。建設機械・車両の日本以外の売上高比率が91%に達する、世界の鉱山と工事現場を相手にする建機大手である。
小松製作所が竹内鉱業から受け継いだ最も重いものは、鉱山機械の図面ではなく電気炉であった。鋳鋼を自分で溶かせる会社にとって、その鋳鋼を最も多く使う機械を作ることは、材料を外へ売るよりも利が大きい。大型の水圧プレスも、履帯で走る二トンのトラクターも、鋳鋼の使い道として選ばれている。1931年に農林省の要請でトラクターの国産化に手を挙げたとき、小松製作所が見ていたのは農業の将来というより、自社の電気炉と鋳造設備の稼働先だったのだろう。製品を選ぶ基準が需要の側ではなく自社の設備の側にあったからこそ、注文の主が民間から陸軍へ、陸軍から占領下の農政へと移っても、作る物だけを替えて生き延びることができた。
1947年に農林省がトラクターの発注を白紙に戻したとき、総生産額の6割を一夜で失った小松製作所に残ったのは、鋳鋼を溶かす炉と、陸軍の命令で3台だけ作ったブルドーザーの設計であった。前者が当座の食い扶持になり、後者が次の主力になる。トラクター生産を勧めた側の農林官僚であった河合良成氏が、発注を撤回された会社の社長としてその責任を引き受け、同じ履帯と同じ鋳鋼を使う別の製品へ会社を移し替えたという順序には筋が通っている。「第二の敗戦」で失われたのは売り先であって、作る力ではなかった。だから再建は、新しい技術を探すことではなく、手元の設備が次に何を作れるかを見きわめる作業になった。
コマツの源流は、土佐出身の実業家・竹内明太郎氏が率いた竹内鉱業にさかのぼる。竹内氏は佐賀県唐津の芳谷炭坑や石川県の遊泉寺銅山を経営し、鉱山機械の自製と修理のために1917年、遊泉寺銅山に近い石川県小松町へ小松鉄工所を開設した。初代所長には、国産自動車の先駆である快進社の橋本増治郎氏を迎えている。第一次大戦後の不況で親会社の竹内鉱業が事業を縮小すると、小松鉄工所を分離独立させる方針がとられ、1921年5月13日、資本金100万円で株式会社小松製作所が設立された。出発時の事業は鉱山機械・採掘機械にとどまらず電気製鋼による電気鋳鋼にも及び、機械と鉄鋼の二領域をあわせ持つ構成をとった。
設立の翌1922年4月、小松製作所は竹内鉱業から小松電気製鋼所を譲り受け、鋳鋼の内製から機械の組立までを自社でまかなえるようにした。だが関東大震災が親会社の竹内鉱業を行き詰まらせ、第一次大戦後の不況も重なって経営は苦境に沈む。これを立て直したのが、1925年に社長として迎えられた中村税氏であった。中村氏のもとで経営は危機を脱し、満州事変以降は鋳鋼とプレス機械の需要増に支えられて事業規模を拡大した。鋳鋼は月産で業界首位の生産量に達し、機械部門へ自家供給しながら高級鋳物を外販する構成をとっている。
小松製作所が鋳鋼と並ぶ柱に据えたのは、その鋳鋼を最も多く使う機械である大型のプレスであった。当時プレスを手がけていたのは神戸製鋼所や住友製鋼所など数社にとどまり、小松製作所は鉱山機械として水力・水圧関係のポンプと関連機械を製作してきたため、大型水圧プレスの技術的な下地を持っていた。1929年には電気炉を増設して機械の新組立工場を建て、1932年には高圧と低圧を切り替える水圧機を適用した800トン水圧鍛造プレスを陸軍名古屋造兵廠へ納めた。1935年には自動車の車台用として700トンクランクプレスを豊田自動織機製作所へ納めている。電気製鋼炉を使って製鋼から造機までを一貫させたのは当時のわが国で最初であり、鋳鋼を自製することが機械の受注を呼ぶ関係が、ここで組み上がった。
鉱山機械と工作機械で足場を得た小松製作所は、他社の手がけない独自製品を探し、1931年に農林省の要請で農用トラクターの国産化へ乗り出した。米国キャタピラー社製の小型トラクターを範として二トン履帯式トラクターを試作し、これが国産第一号となる。翌1932年には改良型の小松G25型を完成させ、陸軍などへ納入した。トラクターは得意の鋳鋼を多用できる製品で、既存の製鋼設備をそのまま生かせる点が選択の決め手になっている。1938年5月には一貫生産を目的として小松市郊外に粟津工場を新設し、満州開拓向けの量産を本格化させた。
戦時に入ると、小松製作所は陸海軍の要請で各種の牽引車や土工用車両を手がけた。ブルドーザーもそのひとつで、副社長の河合良一氏が1963年に語ったところでは、米軍が飛行場の造成に使う機械を日本でも作れという陸軍の命令があり、写真を手がかりに3台の試作車を製作したという。試作車はフィリピンとガダルカナルへ送られたが、ガダルカナルへは着かず、フィリピンへ届いた分も使う間がないまま占領されている。1943年の試作は量産に届かないまま終戦を迎えた。国内にブルドーザーの稼働台数がほぼ無い状態から、戦後の生産は始まっている。
粟津工場の稼働に続き、小松製作所は1939年に同工場へ鋳造工場を増設し、あわせてハルピンにトラクターの修理工場を設けた。戦時が深まると、注文の主が移るのにつれて作る機種そのものが入れ替わっていく。兵器の製作に使う工作機械は輸入が困難になって国産化が求められ、1941年、小松製作所は油圧式の金切円鋸盤と円鋸刃研磨盤を試作せよという総動員試験研究命令を受けた。試作した二機種は成績優秀の公式認定を得て、1943年には直接間接の軍需向けを一手に引き受け、終戦までに円鋸盤127台と研磨盤50台を陸海軍工廠や航空機メーカーへ納めている。削岩機類の生産は1943年まで続いて累計1万個を超え、海軍の要請でその製造設備を転用した艦船建造用の鋲締機も約4200個を製作した。
終戦後、小松製作所は国土300万町歩の開拓という食糧増産政策に応じ、ガソリン式トラクターの生産へ転じた。同じ製品には新潟鉄工所や久保鉄工所など5社ほどが参入している。ところが占領軍が日本へのガソリン供給停止を命じたため、ガソリントラクターは製作できなくなった。1947年、農林省はこれを受けてトラクターの発注を全面的に白紙撤回した。トラクターと農具は当時の総生産額の6割以上を占めており、その打ち切りは社内で"第二の敗戦"と呼ばれた。主力を一夜で失った工場では賃上げを求める大争議が起こり、『東の東宝、西の小松』と並び称された百日闘争へ発展した。
この難局で社長に迎えられた河合良成氏は、農林官僚として小松製作所にトラクター生産を勧めた経緯があり、発注撤回に道義的な責任を感じていた。河合氏は復興金融金庫から3000万円の融資を引き出して争議を収拾し、1947年末に社長へ就任すると、約700名の人員整理を断行して再建に着手した。1949年5月には東京と大阪の両証券取引所へ株式を上場し、外部から資金を調達する道も開いた。1947年にはD50ブルドーザーを完成させており、戦時の試作で残した設計が製品として世に出ている。ただし土建業者が持つブルドーザーは国産品か進駐軍の払下げ品に限られ、市場そのものがまだ小さかった。
再建の当座を支えたのは、機械ではなく鋳鋼であった。1947年に始まった傾斜生産方式で石炭と鉄鋼へ資金と資材が優先的に注がれると、小松製作所には炭車や連結チェーンの注文が集まり、占領軍が発注した貨車や機関車の部品も加わって、1948年のうちに鋳鋼の生産は月産420〜450トンへ戻った。機械のほうは何を作っても売れない時代で、小松製作所は漁船用のディーゼルから紡毛機まで手当たり次第に試した。舶用ディーゼルは2年間で40台を製作しただけで打ち切った。そのなかで歩留まりがよく先の見込める製品として残ったのがブルドーザーであった。1948年の製作は14台にとどまり故障が続いたため、いったん生産を止めて改良し、1949年から粟津工場でエンジンから本体までの一貫生産に入った。
1955年上期、小松製作所の総売上高61億5000万円のうち45億1000万円は砲弾であった。売上の7割が兵器という会社を、この時点で建設機械メーカーと呼ぶのは無理がある。それでもこの4年間は、のちのブルドーザー量産にとって必要な時間だった。砲弾は利が薄い代わりに毎月6〜7億円の現金を確実に運び、その確実さが銀行の信用に変わり、信用が池貝自動車製造の合併と枚方造兵廠の払い下げ、すなわち京浜と大阪の生産拠点に変わったからである。河合良成氏が渡米のたびに発注の打ち切りを疑い、特需が細りきる前に兵器部門を畳んだのは、砲弾を事業としてではなく、資本を積むための手段として見ていたためだろう。
1962年にキャタピラー・トラクタ社が新三菱重工業と組んで日本へ入ると決まったとき、小松製作所に足りなかったのは販売力でも生産力でもなく、2000時間ぶんの耐久性であった。全国120カ所の直販網も、道路整備計画が生んだ需要も、オーバーホールまで3000時間しかもたない機械の上に載っていた。認可を1年遅らせた反対運動は、市場を守る行為であると同時に、時間を買う行為でもあった。買った時間で作られたのが、JISを上回る特殊規格と、設計から営業までを品質で結ぶ管理の仕組みである。1964年のデミング賞実施賞は品質の証明であると同時に、国内を守るために組んだ仕組みが、そのまま輸出に耐える体に変わったことの確認でもあった。
1949年、超均衡財政を求めるドッジ・ラインが敷かれると、小松製作所の受注は一夜で消えた。河合良成社長は粟津工場で鋳鋼の電気炉の前に立っていたとき本社からの電報を受け取り、鉄道の注文は全部取り消しになる、炉の湯は鋼塊にしておくほかないと工場長から告げられている。鋳鋼の最大の注文主は国鉄で、主に貨車の台枠を作っていた。会社はかねて懸案だった小松工場の粟津工場への統合を急ぎ、生産能率の向上と経費の節減を図った。それでも足りず、受注可能額に見合う人員の枠を設けて超過分を配置転換する方針をとる。1949年12月には粟津工場で火災が起き、機械組立工場が全焼して設備機械244台と仕掛中のブルドーザー19台を失っている。
工場の統合で生じた過剰人員は、従業員約2500名の28%に達した。整理を避ける手として小松製作所が選んだのは、米軍が神奈川県淵野辺の旧陸軍相模造兵廠で日本側に行わせていた重機械の修理、すなわちPD作業の入札であった。河合社長は世間が出血受注と騒ぐほどの価格で応札し、1949年8月に相模作業所を設けて600名を配置転換した。収益はもとより多くを見込めなかったが、修理の対象がブルドーザーやスクレーパー、パワーショベルなど当時の日本では珍しい機械であったため、技術を習得する機会になり、地方の会社であった小松製作所が中央へ出る足がかりにもなった。ドッジ整理に苦しんだ小松製作所の事業は、1950年に降ってわいた朝鮮動乱でにわかに活況を呈した。
1950年6月に始まった朝鮮動乱は、ドッジ不況下の産業界に特別需要をもたらした。1953年7月の休戦後はむしろ兵器特需が主軸となり、小松製作所は既存の工場に余力がないことから、1952年に池貝自動車製造と中越電化工業の合併、および旧陸軍枚方造兵廠の払い下げを一気に具体化した。払い下げを受けた敷地には同年10月、大阪工場が発足する。1952年から1955年までの4年間の砲弾受注額は4478万ドル余、日本円で約160億円に上り、全砲弾受注のおよそ4割を占めた。1955年上期には総売上高61億5000万円のうち砲弾が45億1000万円と、73%を占めている。砲弾は利こそ薄かったが毎月6〜7億円の現金収入をもたらし、確実な見返りがあることで銀行の信用も高まった。
小松製作所が砲弾から手を引いたのは、特需が細りきる前であった。河合良成氏は数度の渡米から米国がいつ砲弾の発注を止めるか分からないと見て、あらかじめ備えたうえで兵器部門を極端に縮小し、全力を産業機械へ向けた。1953年3月の朝鮮戦争の終結で特需は激減し、日平産業や津上製作所など主要な兵器製造会社は相次いで破綻・休業に追い込まれたが、小松製作所は全工場をブルドーザーを中心とする生産体制へ切り換え、増産へ向かった。1956年からは払い下げを受けた大阪工場も民需に転換し、鋳鋼と重機械類の製造を始めている。兵器で積んだ資本と工場が、そのまま建設機械の量産へ移し替えられた。
ブルドーザーの需要を作ったのは道路であった。国と地方公共団体、道路公団を合わせた道路投資額は1954年の610億円から1958年に1372億円、1961年には3156億円へ増え、1961年に着手された第三次道路整備計画は2兆3000億円という規模だった。1963年の時点で、小松製作所のブルドーザーの総販売量のうち道路関係へ向かうのは4分の1ほどにとどまり、残りは土地造成や河川、工場内の原料運搬、除雪に使われていた。一方、1953年に着工した佐久間ダムでは使用機械のほとんどが米国製で、国産の大型機は掘削現場で能率が劣り故障も多く、工期を左右しない工程へ回された。小松製作所は大型化を進め、1960年には国産最大のD250ブルドーザーを開発している。
建設機械を売る仕組みは、代理店ではなく自前の網で作られた。1957年から全国の都道府県に支店・営業所・出張所を置いて建設機械の直販体制を敷き、1958年4月には社長直属の営業本部を新設して、販売の企画とサービス活動の計画を一つの機構へ集めた。同年6月には熊本・岡山・長野・山形など27カ所へ出張所を新設している。1960年4月には部品ディーラーだった同和商事を小松サービス販売と改め、サービス機構の全部と専従者162名をそこへ移した。これを支える資金は増資でまかない、資本金は1957年10月の22億5000万円から1959年7月に35億円、1960年9月に60億円へ増え、公募分のプレミアムを含め2回の増資で42億500万円を調達した。
1960年に政府が貿易為替の自由化を早急に拡大する方針を打ち出すと、建設機械の輸入制限も外れ、ブルドーザーは1964年1月までに全機種が自由化された。そこへ世界最大のブルドーザーメーカーであるキャタピラー・トラクタ社が1961年春から日本への資本進出に動き、1962年6月30日、新三菱重工業との合弁で国内にブルドーザー製造会社を設立すると発表する。同社のブルドーザー売上高は世界の50%以上を占めていた。小松製作所はただちに通商産業省へ反対を伝え、日立製作所や三菱日本重工業も同調したが、三菱三重工の合併が具体化すると三菱日本重工業は共同戦線から抜け、日立製作所も離れた。反対を続けて認可を1963年6月まで延ばし、その間に品質を改良するのが会社の意図であった。
全国120カ所の販売拠点で直販する体制はすでに整い、販売にも生産にも心配はなかった。問題は品質にあった。初回のオーバーホールまでキャタピラー社製が5000時間もつのに、小松製作所のブルドーザーは3000時間が限度と言われ、厳しい現場では故障が相次いだ。この弱点を埋める対策は、会社のどんな重大な用件にも先んじるという意味を込め、トランプで何にでも勝つ札であるエースになぞらえてマルAと名づけられた。1961年8月、専務取締役の河合良一氏を責任者とする対策本部が置かれ、専任は1〜2名にとどめて各部門から人を集めるタスクフォース方式が採られた。ユーザーの批判会で挙がった問題点は182項目、クレームの解析と稼働現地の調査を合わせると1657カ所に達した。
1961年11月に定めた品質目標は、第一回オーバーホールまでの実働時間5000時間、機能率90%と、キャタピラー社製に並ぶ水準であった。実現のため、当初はコストを度外視して品質を確保し、原価の引き下げは後から研究するという順序が採られ、材料と部品にはJIS規格を上回る特殊規格が設けられた。対策の前と比べてクレームは5分の1以下となり、5000時間という目標も足回り装置以外では到達した。それを支えたのは、統計による抜き取り検査の域を超え、設計から営業までをつなぐ総合的品質管理を全社で進めたことである。1964年10月には産業機械メーカーとして初めてデミング賞実施賞を受けたが、これに先立つ同年6月30日、社長を17年間務めた河合良成氏は会長となり、社長の座は河合良一氏へ移っていた。守りのために入れた品質管理は、こうして輸出に打って出る足場となった。
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事実根拠:出所(コマツ)