竹内鉱業から機械部門(小松鉄工所)が独立する形で、1921年に小松製作所が会社設立された。竹内鉱業が鉱山採掘を本業として、九州唐津の「芳谷炭坑」、石川県の「遊泉寺銅山」、茨城県の「茨城無煙炭鉱」を保有していた。鉱山採掘を合理化する中で、機械部門を設置したことが小松製作所の創業経緯であった。独立後の小松製作所は、事業面では鉱山機械・採掘機械に加えて、電気製鋼による電気鋳鋼にも従事しており、機械と鉄鋼の2つの領域で事業展開した。
1931年に農林省からの要請でG25型トラクターの製造を開始して産業用車両に参入。1938年にトラック量産のための粟津工場を新設し、満州開拓公社向けに本格販売した。
戦時中に陸軍および海軍からの要請を受けて、米国で普及していたブルドーザの研究開発を開始。6台を太平洋の激戦地だったアッツ島に搬出したが、海上輸送中に消息不明となった。量産には課題が多く試作車の完成にとどまったが、戦後のコマツが「トラクター(農機)からブルドーザ(建機)」に業態転換するきっかけとなった
1945年の終戦後、コマツは民需転換を行い、政府の食料増産政策に合わせてトラクターの生産に従事した。ところが、1947年に農林省は占領軍によるガソリン供給休止の方針を受け、トラクターの発注を白紙撤回。コマツは主力事業のトラクターの製造中止を余儀なくされた。このため、工場の従業員は手持ち無沙汰となり、賃上げを求めて大規模ストライキ(100日ストライキ)を実施。過激な左翼が紛れ込んだこともあり、工場運営がストップしてコマツは経営危機に陥った。
労働問題の解決のために、元官僚(農務省出身)の河合良成氏が.小松製作所の社長に就任。河合氏は農務省時代にコマツにトラクター生産を推奨したことから責任を抱き、労働問題の解決に奔走した。なお、1960年代まで河合良成氏は小松製作所の社長を歴任し「労働問題の解決」「砲弾製造から建機製造への転換(1955年〜)」「キャタピラー対策のための品質改善(1961年〜)」といった経営施策を通じて、小松製作所を国内トップの建機メーカーに育て上げた。
米軍向け砲弾を量産することで工場稼働率を改善。収益を確保してストライキは収束へ
1950年代を通じてコマツ製作所は「ブルドーザー」の開発を積極化した。新製品を毎年のように投入することで、砲弾から建機への業態転換を図った。
1955年頃に小松製作所は米軍向けの砲弾の受注が先細りとなり、砲弾に依存できない状況が確定した。そこで、1956年に小松製作所は大阪工場の生産品目を「米軍向け砲弾」から「ブルドーザー」に転換。朝鮮戦争の終結による砲弾需要の縮小を見据えて、生産設備をブルドーザー製造に転換することで、建機の量産体制を構築した。
小松製作所は72%を砲弾に依存している。これが切れたらお手上げである。(略)こうした水物の米軍発注に依存している会社は米軍次第で浮き沈みする危険な事業である。同社株は絶対に安定投資株と言えないわけだ。同社株を一刻も早く売り放って、他の堅実な安定投資株に乗り換えるのが賢明である。
1950年代後半に日本国内では政府が主導する「道路建設5カ年計画」が進展。道路建設が活発化したことで建設機械の需要が増加した。同時にダム建設も活発化し、公共事業全般が活性化した。このため、ブルドーザーなど、建設現場の合理化が可能な建機への需要が増大した。
この結果、需要に支えられる形で、小松製作所は砲弾から建設機械(ブルドーザーなど)への業態転換を果たした。1959年12月期には売上高および利益がともに過去最高を達成した。
1959年12月期の売上高は、6月期に比べまして25%強上回る92億円余に達し、その利益はまだ7億円強を計上することができました。この数字は、当社創業以来の新記録で、ここ3年毎期記録を更新しているわけであります。
この増収の原因は、何と言っても、当社総生産高の約70%を占める建設機械が、国内では政府の重点政策である、道路整備五カ年計画の実施が本格化してまいったことと、一方、インド、インドネシアへの輸出増大によって、さらに一段と売上が伸び、月々業界第1位を占めたことにあります。
1960年に日本政府は「資本自由化大綱」を公表し、日本市場に対して外資企業が自由に参入できるよう、産業別に徐々に規制緩和を行う方針を明示した。戦後に日本政府は国内企業の育成・保護の観点から欧米外資企業の日本進出を政策によって阻止しており、技術提携などに限られた。1960年に公表された資本自由化大綱は、外資企業が日本法人の設立を通じて日本市場に参入することを示唆しており、日本企業もグローバル競争にさらされることを意味した。このため、日本企業の経営者は危機感を抱き、資本自由化への対応が経営の重要な論点となった。
ただし、産業界からの反対が熾烈だったこともあり、実際には資本自由化は30〜40年にわたって段階的に実施された。まずは産業別に「合弁方式」による日本進出を認め、1990年代にようやく外資100%による日本進出が認められるようになった。
1960年の資本自由化を受けて、グローバル企業である米キャタピラー社が日本進出を決定。1961年ごろにキャタピラー経営陣が来日し、新三菱重工業(現・三菱重工)の建機事業と合弁会社を設立することで日本市場に進出する方針を示した。1963年にキャタピラー三菱が合弁設立され、2年後の1965年に新型製品「CAT D4D ブルドーザ国産第一号機」を投入するなど、コマツと競争する姿勢を鮮明にした。
キャタピラー社と三菱重工は巨大資本を抱える会社であり、一方の石川県発祥のコマツはローカル企業にすぎず、建機の国内競争ではコマツの劣勢が予想された。加えて、当時は「小松のブルドーザーはキャタピラー車に比べると耐久時間が約半分。とても太刀打ちできたものでなかった」(実業の世界64(4))と言われており、品質面で劣勢であった。
河合良成(コマツ・当時社長)は、通産省(現・経産相)に対して建機業界で資本自由化を早急に進めることに対して抗議。キャタピラー社の日本進出を政治面で阻止ないし遅らせることを目論んだ。なお、河合良成氏は、コマツの社長就任前は、貴族院の議員を歴任するなど政治方面に明るい人物であった
しかし、通産省としては、他の業種と同じく建機においても資本自由化を進めたい意図があり、両者の主張は平行線となった。最終的には通産省は「日本全体の利益」を優先し、キャタピラーの日本進出を合弁という形で許可をした。
1962年6月のことである。折半出資でキャタピラー三菱を設立することを通産省に認可申請したいというニュースがはいった。私はただちに通算手おに対して提携認可に抗議を申し込んだ。(略)
しかし、通産省はあくまで許可(注:キャタピラーによる合弁会社の設立)の方針を動かさず、われわレノこの申し入れに対して、通産省の当局の趣旨は
「君の会社ではキャタ社ほどの優良製品をつくれないじゃないか。つくれないとなれば、そういったここの会社の利害よりも、日本全体の利害を考えているのだ。優秀な製品を作れば、外国へも進出できる。そうすれば、アメリカの資本が少々日本に入っても、太局的に見ると、日本の利益になるではないか。既存メーカーは将来ととうていキャタピラー社の品質に及ばないのだから諦めよ」
というのであった。
そこで、私は非常に苦悩した。道は2つである。1つは降伏することである。三菱プラス「キャタ」という重圧に対して小松は果たして戦えるか。小松は多数の授業員や家族をひきい、数マンの株主を擁している。だから思い切って妥協をやり、双方で株式の持合などの方法を考えるのも一つであるなどと苦慮し、新三菱社長との会談の際にも、遠回しにそれとなく触れたこともあった。
もう一つは毅然として戦うことだ。全小松の人心も一丸となっている。幹部の陣容もがっちりしている。なんの恐るところがあるか。私はもちろん敢闘を心に決めた。
コマツの経営陣は、キャタピラー社の日本進出を受けて直ちに対抗策を立案。河合良成(当時社長)は、論点を「品質改善」に絞った。これは、コマツはすでに建機(ブルドーザー)において、国内でトップの販売網と生産体制を擁していたため、残る品質のみがキャタピラー社への防衛に効くと判断したためである。
1961年8月、キャタ社と新三菱さんの提携を予知するや、ただちに生産関係重役を責任者として、総重役擁護の下にこの「マルA対策」にあたらしめた。そしてキャタ社の進出について、私は一番どの点を恐れたか。それは、販売でも価格でも、生産能力でもない。品質である。
販売力については私は自信を持っている。全国に直販システムによる120店の販売網をもち、これに丸紅飯田、三井物産、木下産商その他数店の大手商社を代理店として、他のどのメーカーにも劣らぬ一台販売網を握っている。
次に生産面であるが、これとても小松、粟津、大阪、川崎の各工場で、鋳鋼からエンジンに至る一貫生産体制が整っており、キャタ社・新三菱がいかなる工場を建てようとも、その能力においては負けはしない自信があった。
1961年にコマツは米カミンズ社とディーゼルエンジンに関する技術提携を締結した。この理由は、高性能なエンジンをコマツが内製化することが難しいと判断し、カミンズからの技術導入により克服することを目論んだためであった。
ただし、コマツの社内ではそれまでエンジンを内製化してきたこともあり、カミンズの提携に車内で反対論が噴出した。それでも、コマツの河合良成社長は社内の反対論をおし切って、カミンズとの提携を決めた。
なぜ、わが社がカミンズ・エンジンの搭載にふみ切ったか疑問をいだかれる方があろう。そのわけは、今日まで、小松は自己製品のエンジンを川崎工場で生産しており、しかも、その性能については業界で広く好評を得ているから、なぜいまさらカミンズに振り替えたかという疑問である。
それはこういうことなのだ。つまり、高速度エンジンが技術的に素晴らしく進歩したので、ブル用エンジンの世界的傾向も次第に中速から高速に移りつつあるのだ。これは何もブルだけのことではなく、ハイ・エフィシェンシーはすべての産業の命題でもあるのだ。いままで、低速エンジンを搭載していた小松としても、当然、こうした世界のすう勢を見のがすことはできない。そこでアメリカのヘイウェー・ディーゼルトラックの7割に、エンジンを供給しているという「実績」を持つエンジン、そして米国市場においてキャタ社製エンジンとの競争において広く引き離しているエンジンを選んだわけである。(略)
ある一部の特殊な機種を除いて、ほとんどのものにカミンズ・エンジンを搭載することにはしたが、しかし、これまでには、社内的にたいへんな抵抗に出会った。今日まで、トラの子のように、えいえいとして育ててきたエンジンをすべてカミンズに取り替えるというのだから、とくに工場現場からの抵抗が強かった。(略)
その気持ちはよくわかってはいたが、「載せられんことはないじゃないか。大きなエンジンの代わりに、小さなエンジンを載せる。それが載らんという道理はない。これくらい明瞭なことはどこにあるか」と言って、私は叱咤した。こうした一種の執着、「情」というものを知らない私ではない。しかし、そんな甘っちょろいものに負けてはおれない「時」なのだ。厳しい現実、熾烈な戦いに勝つためには、冷厳な裁決もしなければならないということは、これは経営者の「孤独」というものであろうか。現場でも「社長がそこまでいうなら、ひとつカミンズ搭載に努力してみよう」ということになって、種々検討を開始した。
コマツの「品質対策質」では、マルA対策車の開発にあたって、8つ調査項目を提示。調査から浮き彫りになった課題を解決することで、マルA対策社の開発に反映した。
以下、小松の品質対策室が公表した「生産技術20(1)(216)」の記述を記載。
1.過去1ヵ年間の自社製品のクレーム内容の検討
2.過去1ヵ年間の自社製品、国内外他社競合品のオーバホール実績調査
3.過去1ヶ月間の同上精密調査
4.第中小規模別のユーザーの声(潜在クレーム要望事項)の調査
5.補給部品、修理部品のもーたりティの調査
6.全国の作業現場に技術者を派遣し、地域別、作業条件別、土地条件別の使用状況の調査
7.全国の修理工場に技術者を派遣しオーバホールの実態を調査
8.競合社の分解精密調査
これらの調査の結果、部品4000点のうち80%に及ぶ3200点数に課題を発見。特殊鋼に関する課題が多く、これらの課題を部品の面から解決していった。
そして、1963年9月にマルA対策ブルドーザー「D50A」の市販を開始。市販後はクレーム発生数を従来製品と比べて1/5に削減する成果を収めた。
1960年代から1970年代にかけて、小松はブルドーザ(ないし建機)の国内販売において、シェア60〜65%をキープした。競合のキャタピラ三菱のシェアは30%で推移し、合弁以前に三菱が持っていたシェアと平行線であった。
コマツのシェア維持によって、国内では2社の寡占となり、競合していた3位〜4位企業(日特金属と日立製作所)はシェアを落とす形となった。このため、コマツの「マルA対策」は、建機市場における寡占の傾向を決定づけた。
小松製作所といえば、すぐに「ブルドーザー」が浮かんでくる。それほど、ブルドーザーは、同社の得意中の得意事業である。単に、ブルドーザーの最大手として、微動だにしない実力を持っているだけでなく、わが国最大の総合建設機械メーカーである。と同時に、ことブルドーザーにおいては、米キャタピラ社についで世界で2番目のメーカーである。ブルドーザー国内生産の約60%を同社で占めている事実が物語るように、その強みはまったく圧倒的である。(略)
周知のように、同社は金沢の片田舎にあって、それも、労働争議で倒産寸前の形から発足したものである。当時、果たして誰が今日の小松製作所の大成を予想し得たであろうか。
1960年代を通じて世界的に油圧機器の技術が向上し、機械式ショベルから油圧式ショベルへの技術変化が発生した。
また、建機市場でも主力製品がブルドーザーからショベルに変化した。1950年代から1960年代は「土木工事」向けの需要が多く、道路新設やダム建設のためにブルドーザーの需要が旺盛だったが、1970年代以降は下水道敷設や道路改修といった社会インフラの改良需要が増加し、ショベルに対する需要が高まった。つまり、1970年代以降は油圧ショベルのシェアを握れるかが、建機業界における趨勢を決めることを意味した。
油圧式ショベルへの参入にあたって、コマツは米ビサイラス・エリー社と技術提携を実施。日本の国土に合わせて改良した油圧ショベルの開発を開始した。
そして、1968年にコマツは油圧ショベル「15-H」の生産を開始し、ブルドーザーで培った販売網を通じて販売を開始した。当初は、先発のキャタピラ三菱と日立建機を追うかたちとなり、1969年時点の国内シェアは第3位(14%)であった。
コマツが油圧ショベルでシェアを大きく伸ばすきっかけとなったのは、1972年に開発した「15HT-2」であった。従来製品よりも耐久性を向上したことで引き合いが増加し、国内シェアの増加に貢献した。
油圧ショベルの展開にあたって、コマツはブルドーザーの販売網を活用。1970年代時点の販売網について、コマツが国内650拠点、対してキャタピラー三菱は国内200拠点、日立建機は国内350拠点であり、コマツが優位であった。ブルドーザーの顧客と油圧ショベルの顧客は同じであることから、競合に対して販売面でコマツは優位に立つ。
1976年にコマツは油圧ショベルで国内1位を確保した。先発メーカーに対して10年遅れの参入であったが、ブルドーザーで培った販売網と耐久性に優れた油圧ショベルの開発により、シェアの奪還に成功した。以後、コマツはブルドーザーに加えて、油圧ショベルを主力製品として展開した。
脱建機を掲げてコマツ電子(シリコンウエハー生産)に投資。競合の信越化学に追随できずに苦境へ
米国の鉱山掘削機械メーカーであるジョイグローバル社(従業員数13,400名・2015年時点)の買収を決定。石炭の露天掘りの鉱山機械に強みがあり、コマツは鉱山機械のフルナインナップ化を目論んだ