コマツ の歴史

創業

1921年

創業者

※竹内鉱業

創業地

石川県小松市

直近売上高(2026/3)

41,328億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1956年に砲弾依存72%を捨ててブルドーザーへ全面転換できたのか
A 砲弾は米軍の発注が消えれば成り立たない事業であり、売上の72%をそこに置く構造は発注次第で浮き沈みする危うさを抱えていた。コマツが3年で建機メーカーへ移れたのは、需要が細ってから新事業を探したのではなく、1947年のD50完成以降、D80・D30と毎年のように新型ブルドーザーを投入して開発実績を積んでいたためである。1953年に休戦した朝鮮戦争の特需が縮小すると、1956年に大阪工場の生産を砲弾からブルドーザーへ全面転換し、蓄積した技術が即座に量産へ回った
Q なぜ1961年にキャタピラーの進出へ品質一点集中で対抗したのか
A 資本自由化でキャタピラーが新三菱重工と組んで国内へ入ると、河合良成氏は通産省へ抗議したが、日本全体の利益を理由に阻止を拒まれた。そこで対抗策を品質の一点に絞った。全国120店の直販網と鋳鋼からエンジンまでの一貫生産では劣勢になく、唯一の弱点が品質だと見たためである。マルA対策で部品4000点のうち3200点に課題を洗い出し、社内の反対を押し切って高速の米カミンズ製エンジンを採用した。1963年のD50Aでクレームは5分の1に減り、ブルドーザー国内シェア60〜65%を守り抜いた
Q なぜ2017年に米ジョイグローバルを買収したのか
A コマツの鉱山機械は露天掘り向けに限られ、超大型ロープショベルと坑内掘り機械という参入障壁の高い領域が空白のまま残っていた。世界最大手のキャタピラーはこの全域をフルラインで押さえており、自前で開発して追いつくには時間がかかりすぎた。そこで2017年4月、米ジョイグローバルを約28.9億ドルで買収し、空白だった超大型・坑内掘りを一度に埋めてフルライン化を実現した。両社を合わせた鉱山機械の売上はキャタピラーと肩を並べる水準となり、市況に振れやすい建機を鉱山向けの部品・サービスが下支えする構造へ近づいた

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1921年〜 竹内鉱業からの独立と、トラクター国産化がもたらした「第二の敗戦」

  1. 1921年 小松製作所を設立
  2. 1922年 竹内鉱業より小松電気製鋼所を譲受
  3. 1938年 粟津工場を新設。トラクターを量産
  4. 1943年 国産ブルドーザーを試作
  5. 1945年 トラクター受注が白紙撤回。経営危機へ
  6. 1947年 河合良成氏が社長就任

鉱山機械と電気鋳鋼で出発した機械メーカー

コマツの源流は、土佐出身の実業家・竹内明太郎氏が率いた竹内鉱業[1]にさかのぼる。竹内氏は佐賀県唐津の芳谷炭坑や石川県の遊泉寺銅山を経営し、鉱山機械の自製と修理のために1917年、遊泉寺銅山に近い石川県小松町へ小松鉄工所を開設[2]した。初代所長には、国産自動車の先駆である快進社の橋本増治郎氏を迎えている[3]。第一次大戦後の不況で親会社の竹内鉱業が事業を縮小すると、小松鉄工所を分離独立させる方針がとられ[4]、1921年5月13日、資本金100万円[5]で株式会社小松製作所が設立された。出発時の事業は鉱山機械・採掘機械にとどまらず電気製鋼による電気鋳鋼にも及び[6]、機械と鉄鋼の二領域をあわせ持つ構成をとった。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [1]竹内鉱業社長 竹内明太郎
    • [2]1917年 遊泉寺銅山近くの小松町へ小松鉄工所を開設
    • [3]初代所長 快進社の橋本増治郎
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1921年5月 竹内鉱業より小松鉄工所を分離独立し石川県小松町に株式会社小松製作所を設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「小松製作所」の項
    • [5]1921年5月13日 設立 資本金100万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]出発時の事業は鉱山機械・採掘機械と電気鋳鋼

設立の翌1922年4月、小松製作所は竹内鉱業から小松電気製鋼所を譲り受け[7]、鋳鋼の内製から機械の組立までを自社でまかなえるように[8]した。だが関東大震災が親会社の竹内鉱業を行き詰まらせ[9]、第一次大戦後の不況も重なって経営は苦境に沈む。これを立て直したのが、1925年に社長として迎えられた中村税氏[10]であった。中村氏のもとで経営は危機を脱し、満州事変以降は鋳鋼とプレス機械の需要増に支えられて事業規模を広げた[11]。鋳鋼は月産で業界首位の生産量に達し、機械部門へ自家供給しながら高級鋳物を外販する構成[12]をとっている。

  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1922年4月 竹内鉱業より小松電気製鋼所を譲受
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]製鋼から造機にいたる生産方式を確立
    • [9]関東大震災による親会社・竹内鉱業の行き詰まりと欧州大戦後の不況
    • [10]1925年 中村税を社長に迎えて経営危機を脱する
    • [11]満州事変以降 鋳鋼・プレス機械の需要増大で事業規模が拡大
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [12]鋳鋼は生産量業界第一位 自家使用が中心で外販は高級鋳物
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [1]竹内鉱業社長 竹内明太郎
    • [2]1917年 遊泉寺銅山近くの小松町へ小松鉄工所を開設
    • [3]初代所長 快進社の橋本増治郎
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1921年5月 竹内鉱業より小松鉄工所を分離独立し石川県小松町に株式会社小松製作所を設立
    • [7]1922年4月 竹内鉱業より小松電気製鋼所を譲受
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「小松製作所」の項
    • [5]1921年5月13日 設立 資本金100万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]出発時の事業は鉱山機械・採掘機械と電気鋳鋼
    • [8]製鋼から造機にいたる生産方式を確立
    • [9]関東大震災による親会社・竹内鉱業の行き詰まりと欧州大戦後の不況
    • [10]1925年 中村税を社長に迎えて経営危機を脱する
    • [11]満州事変以降 鋳鋼・プレス機械の需要増大で事業規模が拡大
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [12]鋳鋼は生産量業界第一位 自家使用が中心で外販は高級鋳物

トラクター国産化と、陸軍命令によるブルドーザー試作

鉱山機械と工作機械で足場を得た小松製作所は、他社の手がけない独自製品を探し、1931年に農林省の要請で農用トラクターの国産化へ乗り出した[13]。米国キャタピラー社製の小型トラクターを範として二トン履帯式トラクターを試作[14]し、これが国産第一号となる。翌1932年には改良型の小松G25型を完成させ、陸軍などへ納入した[15]。トラクターは得意の鋳鋼を多用できる製品[16]で、既存の製鋼設備をそのまま生かせる点が選択の決め手になっている。1938年5月には一貫生産を目的として小松市郊外に粟津工場を新設[17]し、満州開拓向けの量産を本格化させた[18]

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [13]1931年 農林省の要請で農用トラクター国産化に着手
    • [14]米国キャタピラー社製の小型トラクターを範とした二トン履帯式トラクターが国産第一号
    • [15]1932年 改良型の小松G25型を完成し陸軍へ納入
    • [16]得意の鋳鋼を多用できるトラクターが新たな主軸
    • [18]粟津工場で満州開拓向けの量産を本格化
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1938年5月 粟津工場を新設

戦時に入ると、小松製作所は陸海軍の要請で各種の牽引車や土工用車両を手がけた[19]。ブルドーザーもそのひとつで、副社長の河合良一氏が1963年に語ったところでは[20]、米軍が飛行場の造成に使う機械を日本でも作れという陸軍の命令があり、写真を手がかりに3台の試作車を製作した[21]という。試作車はフィリピンとガダルカナルへ送られたが、ガダルカナルへは着かず、フィリピンへ届いた分も使う間がないまま占領されている[22]。1943年の試作は量産に届かないまま[23]終戦を迎えた。国内にブルドーザーの稼働台数がほぼ無い状態[24]から、戦後の生産は始まっている。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [19]戦時に陸軍・海軍の要請で各種の牽引車や土工用車両を製作
    • [23]1943年 国産ブルドーザーを試作 量産には至らず
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [20]河合良一 1963年時点で小松製作所副社長
    • [21]陸軍の命令で写真をサンプルに3台の試作車を製作
    • [22]試作車はガダルカナルへ未着 フィリピン着分も使用前に占領
    • [24]終戦直後は国内のブルドーザー稼働台数がほぼ皆無
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [13]1931年 農林省の要請で農用トラクター国産化に着手
    • [14]米国キャタピラー社製の小型トラクターを範とした二トン履帯式トラクターが国産第一号
    • [15]1932年 改良型の小松G25型を完成し陸軍へ納入
    • [16]得意の鋳鋼を多用できるトラクターが新たな主軸
    • [18]粟津工場で満州開拓向けの量産を本格化
    • [19]戦時に陸軍・海軍の要請で各種の牽引車や土工用車両を製作
    • [23]1943年 国産ブルドーザーを試作 量産には至らず
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1938年5月 粟津工場を新設
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [20]河合良一 1963年時点で小松製作所副社長
    • [21]陸軍の命令で写真をサンプルに3台の試作車を製作
    • [22]試作車はガダルカナルへ未着 フィリピン着分も使用前に占領
    • [24]終戦直後は国内のブルドーザー稼働台数がほぼ皆無

発注の白紙撤回と、河合良成氏による再建

終戦後、小松製作所は国土300万町歩の開拓という食糧増産政策[25]に応じ、ガソリン式トラクターの生産へ転じた。同じ製品には新潟鉄工所や久保鉄工所など5社ほどが参入している[26]。ところが占領軍が日本へのガソリン供給停止を命じたため[27]、ガソリントラクターは製作できなくなった。1947年、農林省はこれを受けてトラクターの発注を全面的に白紙撤回[28]した。トラクターと農具は当時の総生産額の6割以上を占めており、その打ち切りは社内で「第二の敗戦」と呼ばれた[29]。主力を一夜で失った工場では賃上げを求める大争議が起こり、「東の東宝、西の小松」と並び称された百日闘争へ発展した[30]

  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [25]戦後 国土300万町歩の開拓
    • [26]新潟鉄工所・久保鉄工所ら5社程度がガソリントラクターを製作
    • [27]占領軍の日本に対するガソリン供給停止命令でガソリントラクターの製作が不能に
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [28]1947年 農林省がトラクター発注を白紙撤回
    • [29]トラクターと農具が総生産額の6割以上 打ち切りは「第二の敗戦」
    • [30]大争議は「東の東宝、西の小松」と並称された百日闘争へ発展

この難局で社長に迎えられた河合良成氏は、農林官僚として小松製作所にトラクター生産を勧めた経緯があり[31]、発注撤回に道義的な責任を感じていた。河合氏は復興金融金庫から3000万円の融資を引き出して争議を収拾し[32]、1947年末に社長へ就任すると、約700名の人員整理を断行して[33]再建に着手した。1949年5月には東京と大阪の両証券取引所へ株式を上場し[34]、外部から資金を調達する道も開いた。1947年にはD50ブルドーザーを完成させており[35]、戦時の試作で残した設計が製品として世に出ている。ただし土建業者が持つブルドーザーは国産品か進駐軍の払下げ品に限られ[36]、市場そのものがまだ小さかった。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [31]農林官僚出身の河合良成 トラクター生産を勧めた経緯から道義的責任
    • [32]復興金融金庫の融資3000万円で争議を収拾
    • [33]1947年末 河合良成が社長就任 約700名の人員整理
    • [35]1947年 D50ブルドーザーを完成
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1949年5月 東京・大阪の両証券取引所に株式を上場
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [36]当時のブルドーザーは進駐軍が焼跡整理に使用 土建業者の保有は国産品か進駐軍払下げ品
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [25]戦後 国土300万町歩の開拓
    • [26]新潟鉄工所・久保鉄工所ら5社程度がガソリントラクターを製作
    • [27]占領軍の日本に対するガソリン供給停止命令でガソリントラクターの製作が不能に
    • [36]当時のブルドーザーは進駐軍が焼跡整理に使用 土建業者の保有は国産品か進駐軍払下げ品
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [28]1947年 農林省がトラクター発注を白紙撤回
    • [29]トラクターと農具が総生産額の6割以上 打ち切りは「第二の敗戦」
    • [30]大争議は「東の東宝、西の小松」と並称された百日闘争へ発展
    • [31]農林官僚出身の河合良成 トラクター生産を勧めた経緯から道義的責任
    • [32]復興金融金庫の融資3000万円で争議を収拾
    • [33]1947年末 河合良成が社長就任 約700名の人員整理
    • [35]1947年 D50ブルドーザーを完成
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1949年5月 東京・大阪の両証券取引所に株式を上場

1949年〜 砲弾依存を断ち切った業態転換と、資本自由化に備えた品質防衛

コマツの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1949年 東京、大阪の両証券取引所に株式を上場
  2. 1949年 米軍向け軍需砲弾の生産を強化
  3. 1952年 大阪工場を新設
  4. 1952年 池貝自動車製造を吸収合併し川崎工場に 中越電化工業を吸収合併し氷見工場に
  5. 1956年 砲弾生産への依存を断ち、ブルドーザーを主力とする建設機械への業態転換 売上高の72%を占めた砲弾を手放し、小松製作所はどのように建設機械メーカーへ生まれ変わったか
  6. 1961年 資本自由化に備えたマルA対策——品質一点集中でキャタピラーに対抗 世界最大のキャタピラーの上陸を前に、河合良成社長はなぜ弱点の品質だけに全社を賭けたか
  7. 1962年 小山工場を新設

売上高の72%を占めた米軍向け砲弾特需

再建を急ぐ河合良成氏は朝鮮動乱を背景とする米軍向け砲弾の生産に活路を求め、1949年から砲弾生産を本格化させた[37]。占領軍が専用工場の保有を発注条件としたことから[38]、1952年10月には旧大阪陸軍造兵廠枚方製造所の払い下げを受けて大阪工場を新設[39]している。同年12月には池貝自動車製造を吸収合併して川崎工場とし、中越電化工業を吸収合併して氷見工場とした[40]。砲弾特需は巨額で、1952年から1955年までの4年間の受注額は4478万ドル余、日本円で約160億円に達し、全国の砲弾受注の約4割を占めた[41]

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [37]1949年から米軍向け砲弾生産を本格化
    • [38]占領軍が専用工場の保有を発注条件とする
    • [41]砲弾特需の受注額 1952〜1955年の4年間で4478万ドル余 約160億円 全国の砲弾受注の約4割
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [39]1952年10月 旧大阪陸軍造兵廠枚方製造所の払い下げで大阪工場を新設
    • [40]1952年12月 池貝自動車製造を吸収合併し川崎工場 中越電化工業を吸収合併し氷見工場

しかし砲弾は売上高の72%を占めるまでに膨らみ[42]、米軍の発注ひとつで浮き沈みする収益構造を抱え込んだ。一方でブルドーザーの生産も続いており、1952年から1953年頃には月産10台から15台、1955年頃には月産20台から30台の水準へ伸びている[43]。輸入はほとんどなく、土建業者が持つのは国産品か進駐軍の払下げ品に限られたため、国内の稼働台数は国内生産量からほぼ算定できた[44]。稼働台数が実質ゼロの地点から出発した市場だけに、ブルドーザーの生産増加率は他の機種を上回る高い水準を保っている[45]

  • 実業の世界52(10)(1955年7月)
    • [42]砲弾が売上高の72%を占める収益構造
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [43]昭和27〜28年頃 ブルドーザー月産10〜15台 昭和30年頃 月産20〜30台
    • [44]ブルドーザーの輸入はほとんど無く国内稼働台数は生産量から算定可能
    • [45]稼働台数ゼロからの出発でブルドーザーの生産増加率が大
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [37]1949年から米軍向け砲弾生産を本格化
    • [38]占領軍が専用工場の保有を発注条件とする
    • [41]砲弾特需の受注額 1952〜1955年の4年間で4478万ドル余 約160億円 全国の砲弾受注の約4割
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [39]1952年10月 旧大阪陸軍造兵廠枚方製造所の払い下げで大阪工場を新設
    • [40]1952年12月 池貝自動車製造を吸収合併し川崎工場 中越電化工業を吸収合併し氷見工場
  • 実業の世界52(10)(1955年7月)
    • [42]砲弾が売上高の72%を占める収益構造
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [43]昭和27〜28年頃 ブルドーザー月産10〜15台 昭和30年頃 月産20〜30台
    • [44]ブルドーザーの輸入はほとんど無く国内稼働台数は生産量から算定可能
    • [45]稼働台数ゼロからの出発でブルドーザーの生産増加率が大

砲弾を捨ててブルドーザーへ——1956年の業態転換

1953年に朝鮮戦争が休戦して砲弾特需が縮小すると[46]、小松製作所は1956年5月、正式に払い下げを受けた大阪工場の生産を軍需からブルドーザーへ全面的に切り替える方針を決めた[47]。1950年の時点でブルドーザーは総生産額の53%を占めており[48]、砲弾を手放しても主力となる製品が既に育っていた。1947年のD50完成から毎年のように新型を投入し、1954年には生産累計1000台を超えている[49]。年間の総売上高は1958年に124億円へ達し[50]、1959年12月期には売上高92億円・利益7億円強と当時の過去最高[51]を記録した。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [46]1953年 朝鮮動乱の休戦で砲弾特需が縮小
    • [47]1956年5月 大阪工場の生産を軍需からブルドーザーへ全面転換
    • [48]1950年時点でブルドーザーが総生産額の53%
    • [49]1954年 ブルドーザー生産累計1000台を突破
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [50]1958年 年間総売上高124億円
  • コマツ100年史
    • [51]1959年12月期 売上高92億円・利益7億円強で当時の過去最高

転換を支えたのは道路整備の需要で、国と道路公団と地方公共団体をあわせた道路投資額は1954年の610億円から1958年に1372億円、1961年に3156億円、1962年に4149億円へ伸びた[52]。1961年に始まった第三次道路整備五箇年計画の規模は2兆3000億円に達し[53]、1963年の投資額は5200億円から5300億円と見込まれている[54]。ブルドーザーの販売はこの工事量に連動し、総販売量の4分の1程度が道路関係に向かった[55]。あわせて1957年から全国の都道府県に支店・営業所網を置き、代理店を介さず自社で建設機械を売る形[56]へ切り替えている。

  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [52]道路投資額 1954年610億円 1958年1372億円 1961年3156億円 1962年4149億円
    • [53]1961年開始の第三次道路整備五箇年計画は2兆3000億円規模
    • [54]1963年の道路投資額見込み 5200〜5300億円
    • [55]ブルドーザー総販売量の4分の1程度が道路関係
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [56]1957年から全国都道府県に支店・営業所網を設け直販体制を構築
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [46]1953年 朝鮮動乱の休戦で砲弾特需が縮小
    • [47]1956年5月 大阪工場の生産を軍需からブルドーザーへ全面転換
    • [48]1950年時点でブルドーザーが総生産額の53%
    • [49]1954年 ブルドーザー生産累計1000台を突破
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [50]1958年 年間総売上高124億円
    • [52]道路投資額 1954年610億円 1958年1372億円 1961年3156億円 1962年4149億円
    • [53]1961年開始の第三次道路整備五箇年計画は2兆3000億円規模
    • [54]1963年の道路投資額見込み 5200〜5300億円
    • [55]ブルドーザー総販売量の4分の1程度が道路関係
  • コマツ100年史
    • [51]1959年12月期 売上高92億円・利益7億円強で当時の過去最高
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [56]1957年から全国都道府県に支店・営業所網を設け直販体制を構築

資本自由化とマルA対策——品質一点への集中

1960年に政府が貿易為替自由化計画大綱を決めると、機械類の輸入自由化が進み[57]、資本自由化も日程にのぼった。世界のブルドーザー市場の過半を占めるキャタピラー社が、新三菱重工との合弁で日本国内での生産を準備する[58]。河合良成氏は通産省に抗議したものの[59]、国策の流れを止めることは難しいと判断し、対抗策を品質改善の一点に絞った。販売網と生産力では劣らず、信頼性と耐久性だけがキャタピラー製品に及ばない[60]という認識があったためである。小松製作所は1961年頃に社内へ自由化対策本部を設け、ブルドーザーの設計変更に着手した[61]

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [57]1960年 政府が貿易為替自由化計画大綱を決定し機械類の輸入自由化が進行
    • [59]河合良成が通産省へ抗議のうえ対抗策を品質改善へ集中
    • [60]販売網・生産力では対等で品質のみがキャタピラー製品に劣後
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [58]キャタピラー社が新三菱重工との合弁で日本国内生産を準備
    • [61]自由化対策本部を設置し設計変更に着手

1961年8月にはマルA対策本部を置き、専務取締役の河合良一氏を責任者に据えて[62]いる。トランプのエースになぞらえた名称[63]で、社内のいかなる案件よりも優先する運動と位置づけた。ユーザー批判会で182項目、クレーム解析と稼働調査で1657カ所の問題点を洗い出し、部品4000点のうち約8割にあたる約3200点へ改良[64]を施している。統計的品質管理にとどまらない総合的品質管理を全社へ導入し、自主開発の方針を曲げて米カミンズ社のエンジン搭載にも踏み切った[65]。需要の多い3機種について各32台ずつ計96台の試作車を作り、6台を昼夜兼行の耐久試験に、90台を技術者付きで市場へ出して稼働状況を調べている[66]

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [62]1961年8月 マルA対策本部を設置 責任者は専務取締役・河合良一
    • [63]運動名はトランプのエースに由来し社内の最優先事項と位置づけ
    • [64]ユーザー批判会182項目 クレーム解析・稼働調査1657カ所 部品4000点のうち約8割 約3200点を改良
    • [65]統計的品質管理でなく総合的品質管理を全社導入 米カミンズ社エンジンを搭載
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [66]需要の多い3機種で各32台計96台の試作車 6台を耐久試験 90台を技術者付きで販売し稼働調査

1963年9月に第一次対策車を市販し[67]、品質改善の成果を反映したD50Aを「スーパー」シリーズとして発売すると、クレーム発生数は従来の5分の1へ減った[68]。保証期間も300時間・3カ月から600時間・6カ月へ延ばしている[69]。この時点でブルドーザーの国内市場占拠率は約60%で業界第一位を保ち[70]、モーターグレーダー、フォークリフト、ショベルローダーでも首位を占めた[71]。総売上高に占める構成比は建設機械が62%から63%、産業車輛が17%程度、産業機械が7%である[72]。会社の規模も5年で様変わりし、1958年上期と1963年上期を比べると資本金は22億5000万円から150億円、総資産は142億円から826億円、売上は59億円から296億円へ拡大した[73]

  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [67]1963年9月 第一次対策車を発表し市販開始
    • [70]1963年時点のブルドーザー国内市場占拠率 約60%で業界第一位
    • [71]モーターグレーダー・フォークリフト・ショベルローダーでも第一位
    • [72]総売上高構成比 建設機械62〜63% 産業車輛17%程度 産業機械7%
    • [73]1958年上期→1963年上期 資本金22億5000万円→150億円 総資産142億円→826億円 売上59億円→296億円
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [68]D50Aをスーパーシリーズとして発売しクレーム発生数が従来の5分の1へ減少
    • [69]保証期間を300時間・3カ月から600時間・6カ月へ延長
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [57]1960年 政府が貿易為替自由化計画大綱を決定し機械類の輸入自由化が進行
    • [59]河合良成が通産省へ抗議のうえ対抗策を品質改善へ集中
    • [60]販売網・生産力では対等で品質のみがキャタピラー製品に劣後
    • [62]1961年8月 マルA対策本部を設置 責任者は専務取締役・河合良一
    • [63]運動名はトランプのエースに由来し社内の最優先事項と位置づけ
    • [64]ユーザー批判会182項目 クレーム解析・稼働調査1657カ所 部品4000点のうち約8割 約3200点を改良
    • [65]統計的品質管理でなく総合的品質管理を全社導入 米カミンズ社エンジンを搭載
    • [68]D50Aをスーパーシリーズとして発売しクレーム発生数が従来の5分の1へ減少
    • [69]保証期間を300時間・3カ月から600時間・6カ月へ延長
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [58]キャタピラー社が新三菱重工との合弁で日本国内生産を準備
    • [61]自由化対策本部を設置し設計変更に着手
    • [66]需要の多い3機種で各32台計96台の試作車 6台を耐久試験 90台を技術者付きで販売し稼働調査
    • [67]1963年9月 第一次対策車を発表し市販開始
    • [70]1963年時点のブルドーザー国内市場占拠率 約60%で業界第一位
    • [71]モーターグレーダー・フォークリフト・ショベルローダーでも第一位
    • [72]総売上高構成比 建設機械62〜63% 産業車輛17%程度 産業機械7%
    • [73]1958年上期→1963年上期 資本金22億5000万円→150億円 総資産142億円→826億円 売上59億円→296億円

1968年〜 油圧ショベルの後発逆転と輸出主導への転換、そして脱建機への傾斜

コマツの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1968年 油圧ショベルへの後発参入と小松ビサイラス——直販網で挑んだ総合建機化 技術で先行できない後発は、どのように先発を逆転しようとしたか——製品か、販売網か
  2. 1970年 小松アメリカを設立。海外輸出に注力
  3. 1985年 メカトロニクス、新素材開発等の先端的高度技術研究のための研究所を新設
  4. 1987年 河合会長が能川社長を解任。経営が混乱へ
  5. 1988年 ドレッサーと合弁設立
  6. 1993年 「脱建機」多角化とコマツ電子金属への巨額投資、初の連結赤字 建設機械のシクリカルな変動を嫌った多角化は、なぜシリコンウエハーで裏目に出たか
  7. 1994年 不採算事業から撤退

10年遅れの参入を覆した650カ所の直販網

ブルドーザーで国内首位を固めた小松製作所は、一機種に偏った事業構成を長期の課題として抱えていた[74]。パワーショベルはブルドーザーに次ぐ有力機種で、土木工事ではブルドーザー4台に対しパワーショベル1台[75]がおおむね使われる。1959年に大阪工場で自主開発機SP04を完成させたものの、油圧機器の不備[76]から本格生産には届かなかった。そこで提携による開発へ切り替え、米ビサイラス・エリー社と三井物産との3社出資で小松ビサイラスを設立[77]し、1963年6月に認可を得ている[78]。あわせて1962年12月にはエンジン用鋳鉄部品を担う小山工場を新設[79]した。

  • コマツ100年史
    • [74]一機種に偏った事業構成が長期的な課題
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [75]土木工事のブルドーザーとパワーショベルの使用比率は4対1
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [76]1959年 大阪工場でSP04油圧式パワーショベルを完成 油圧機器の不備で本格生産に至らず
    • [77]米ビサイラス・エリー社・三井物産との3社出資で小松ビサイラスを設立
    • [78]1963年6月 小松ビサイラスの設立認可
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [79]1962年12月 小山工場を新設

油圧ショベルへの本格参入は1968年5月で、業界平均より約10年遅れる後発[80]であった。ビサイラス・エリー社との技術提携を基盤に「15-H」の生産を始めた[81]が、油圧ショベルの国内生産シェアは1974年時点で14%にとどまる。同じ年のキャタピラー三菱は16%で、後発の不利がそのまま数字に出た。転機は1972年に投入した改良型「15HT-2」[82]で、耐久性の向上が建設現場の引き合いを増やしている。シェアは1979年に21%へ上がり、キャタピラー三菱の18%を初めて上回った。技術の後発を、既存事業で築いた販売チャネルの規模でおぎなう構図[83]である。

  • コマツ100年史
    • [80]1968年5月 油圧ショベル事業へ本格参入 業界より約10年後発
    • [81]米ビサイラス・エリー社との技術提携を基盤に油圧ショベル15-Hの生産を開始
    • [82]1972年 改良型15HT-2を投入
    • [83]製品の優劣でなく既存事業で築いた販売チャネルの規模が競争優位を決定

後発逆転を支えたのは営業網の広さで、1957年から築いた直販体制[84]はブルドーザーによって全国へ張りめぐらされていた。油圧ショベルでも拠点は国内650カ所に達し、キャタピラー三菱の200カ所や日立建機の350カ所を大きく上回る規模が、ブルドーザーの既存顧客と重なる油圧ショベルの拡販にそのまま働いた。1976年には油圧ショベルの国内シェア首位を獲得し、1987年には32%へ高めている。同年のキャタピラー三菱は14%、日立建機は28%であった。ブルドーザーでも1973年に国内販売シェア65%へ達しており、二つの主力機種で国内首位を占める唯一の建機メーカーとなった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [84]1957年から全国都道府県に支店・営業所網を設け直販体制を構築
  • コマツ100年史
    • [74]一機種に偏った事業構成が長期的な課題
    • [80]1968年5月 油圧ショベル事業へ本格参入 業界より約10年後発
    • [81]米ビサイラス・エリー社との技術提携を基盤に油圧ショベル15-Hの生産を開始
    • [82]1972年 改良型15HT-2を投入
    • [83]製品の優劣でなく既存事業で築いた販売チャネルの規模が競争優位を決定
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [75]土木工事のブルドーザーとパワーショベルの使用比率は4対1
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [76]1959年 大阪工場でSP04油圧式パワーショベルを完成 油圧機器の不備で本格生産に至らず
    • [77]米ビサイラス・エリー社・三井物産との3社出資で小松ビサイラスを設立
    • [78]1963年6月 小松ビサイラスの設立認可
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [79]1962年12月 小山工場を新設
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [84]1957年から全国都道府県に支店・営業所網を設け直販体制を構築

国内主導から輸出主導への構造転換

成長軸は国内から海外へ移り、1963年時点の輸出は総売上の6%から7%、ブルドーザー売上の10%[85]にすぎなかったが、日本全体のブルドーザー輸出高の90%余[86]を小松製作所が占めている。インド国防省と技術提携して現地での国産化を進め、すでに1000台以上[87]のブルドーザーを輸出していた。1970年2月には小松アメリカを設立[88]し、米国市場の開拓に入る。売上構成は1969年に輸出249億円・国内1827億円で輸出比率12%だったものが、1982年には輸出4177億円・国内2349億円と逆転し、輸出比率は64%へ達した。

  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [85]1963年時点の輸出は総売上の6〜7% ブルドーザー売上の10%
    • [86]日本全体のブルドーザー輸出高の90%余を小松製作所が占める
    • [87]インド国防省と技術提携し現地国産化を推進 1000台以上を輸出
  • コマツ100年史
    • [88]1970年2月 小松アメリカを設立

輸出の拡大と並行して技術と生産の両面で海外勢との競争に備え、1985年4月にはメカトロニクスや新素材といった先端技術を扱う研究所を新設[89]し、1988年9月には米ドレッサー社との合弁でコマツドレッサーカンパニーを設立[90]して北米に生産拠点を得た。この合弁会社は、のちに米州コマツカンパニーへ商号を変え、コマツアメリカへ事業統合[91]されている。ただし規模の拡大は1980年代に止まり、1980年の単独売上高5048億円は、1999年3月期の単独売上高4757億円を上回っており[92]、単独の経常利益は1982年、連結の純利益は1981年が過去最高[93]であった。

  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [89]1985年4月 メカトロニクス・新素材開発等の先端的高度技術研究のための研究所を新設
    • [90]1988年9月 米ドレッサー社と合弁でコマツドレッサーカンパニーを設立
    • [91]コマツドレッサーカンパニーは米州コマツカンパニーへ商号変更後コマツアメリカへ事業統合
  • 日経ビジネス 1999年8月16日号「コマツ 多角化戦略で失速 エレクトロニクスへの巨額投資失敗 国内建機も不振、初の連結赤字に」
    • [92]1980年の単独売上高5048億円が1999年3月期の単独売上高4757億円を上回る
    • [93]単独経常利益は1982年 連結純利益は1981年が過去最高
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
    • [85]1963年時点の輸出は総売上の6〜7% ブルドーザー売上の10%
    • [86]日本全体のブルドーザー輸出高の90%余を小松製作所が占める
    • [87]インド国防省と技術提携し現地国産化を推進 1000台以上を輸出
  • コマツ100年史
    • [88]1970年2月 小松アメリカを設立
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [89]1985年4月 メカトロニクス・新素材開発等の先端的高度技術研究のための研究所を新設
    • [90]1988年9月 米ドレッサー社と合弁でコマツドレッサーカンパニーを設立
    • [91]コマツドレッサーカンパニーは米州コマツカンパニーへ商号変更後コマツアメリカへ事業統合
  • 日経ビジネス 1999年8月16日号「コマツ 多角化戦略で失速 エレクトロニクスへの巨額投資失敗 国内建機も不振、初の連結赤字に」
    • [92]1980年の単独売上高5048億円が1999年3月期の単独売上高4757億円を上回る
    • [93]単独経常利益は1982年 連結純利益は1981年が過去最高

「脱建機」とシリコンウエハーへの傾斜

停滞を打開する方向を打ち出したのは、1989年に社長へ就任した片田哲也氏[94]である。建設機械の海外生産拠点を整える一方、売上高の半分を建機以外の多角化部門で占めるという「脱建機」の路線[95]を明確にした。1991年には東京・赤坂の本社屋上に据えられていたトレードマークのブルドーザーを撤去[96]している。1993年4月には脱建機を正式に決め、シリコンウエハー事業へ積極的に投資[97]する方針を固めた。翌1994年6月にはコマツ産機とコマツ工機を設立して産業機械に関する営業の一部を譲渡[98]し、1997年7月にはコマツキャステックスを設立して同年10月に鋳造事業を移している[99]

  • 日経ビジネス 1999年8月16日号「コマツ 多角化戦略で失速 エレクトロニクスへの巨額投資失敗 国内建機も不振、初の連結赤字に」
    • [94]1989年 片田哲也が社長就任 グローバル化と多角化を打ち出す
    • [95]売上高の半分を建機以外の多角化部門とする脱建機路線
    • [96]1991年 東京・赤坂の本社屋上のブルドーザーを撤去
  • コマツ100年史
    • [97]1993年4月 脱建機を決定しシリコンウエハーへ積極投資
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [98]1994年6月 コマツ産機・コマツ工機を設立し産業機械に関する営業の一部を譲渡
    • [99]1997年7月 コマツキャステックスを設立し同年10月に鋳造事業を譲渡

エレクトロニクスへの進出そのものは古く、キャタピラーの日本進出を控えた1960年に設立したコマツ電子金属[100]に始まる。しかし同社は信越半導体や住友シチックスに海外展開で後れ、国内では3位以内にありながら世界では5、6番手[101]にとどまっていた。1995年に社長となった安崎暁氏は、世界市場の成長性では建機よりエレクトロニクスが勝ると判断[102]して投資を集中させる。コマツ電子金属は1994年から1995年ごろに米国と台湾への工場新設を決め、1997年3月期から1999年3月期までの3年間で1300億円を超える設備投資[103]を実行した。連結ベースのエレクトロニクス部門への設備投資は1997年度795億円、1998年度618億円で、それ以前の100億円前後[104]から一段跳ねている。

  • 週刊東洋経済 2007年3月10日号「企業・産業 建機ブームの長期化見据え、改革断行 首位キャタピラーに挑む絶好調コマツの勝算」
    • [100]1960年 キャタピラーの日本進出前にコマツ電子金属を設立
  • 日経ビジネス 1999年8月16日号「コマツ 多角化戦略で失速 エレクトロニクスへの巨額投資失敗 国内建機も不振、初の連結赤字に」
    • [101]コマツ電子金属は信越半導体・住友シチックスに海外展開で後れ 国内3位以内・世界5〜6番手
    • [102]1995年 安崎暁が社長就任 建機よりエレクトロニクスの成長性が勝ると判断し投資を集中
    • [103]コマツ電子金属は1994〜1995年ごろ米国・台湾への工場新設を決定 1997年3月期〜1999年3月期の3年で1300億円超の設備投資
    • [104]連結エレクトロニクス部門の設備投資 1997年度795億円 1998年度618億円 それ以前は100億円前後
  • 日経ビジネス 1999年8月16日号「コマツ 多角化戦略で失速 エレクトロニクスへの巨額投資失敗 国内建機も不振、初の連結赤字に」
    • [94]1989年 片田哲也が社長就任 グローバル化と多角化を打ち出す
    • [95]売上高の半分を建機以外の多角化部門とする脱建機路線
    • [96]1991年 東京・赤坂の本社屋上のブルドーザーを撤去
    • [101]コマツ電子金属は信越半導体・住友シチックスに海外展開で後れ 国内3位以内・世界5〜6番手
    • [102]1995年 安崎暁が社長就任 建機よりエレクトロニクスの成長性が勝ると判断し投資を集中
    • [103]コマツ電子金属は1994〜1995年ごろ米国・台湾への工場新設を決定 1997年3月期〜1999年3月期の3年で1300億円超の設備投資
    • [104]連結エレクトロニクス部門の設備投資 1997年度795億円 1998年度618億円 それ以前は100億円前後
  • コマツ100年史
    • [97]1993年4月 脱建機を決定しシリコンウエハーへ積極投資
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [98]1994年6月 コマツ産機・コマツ工機を設立し産業機械に関する営業の一部を譲渡
    • [99]1997年7月 コマツキャステックスを設立し同年10月に鋳造事業を譲渡
  • 週刊東洋経済 2007年3月10日号「企業・産業 建機ブームの長期化見据え、改革断行 首位キャタピラーに挑む絶好調コマツの勝算」
    • [100]1960年 キャタピラーの日本進出前にコマツ電子金属を設立

1999年〜 二度の赤字とダントツ経営、そして鉱山機械への拡張

コマツの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1999年 「脱建機」多角化とコマツ電子金属への巨額投資、初の連結赤字 建設機械のシクリカルな変動を嫌った多角化は、なぜシリコンウエハーで裏目に出たか
  2. 2001年 坂根正弘氏の「ダントツ経営」による経営構造改革とV字回復 1990年代の多角化の行き詰まりと大幅な赤字にどう向き合い、コマツをどう建て直したか——固定費削減と差別化を同時に進めた構造改革
  3. 2001年 ダントツ経営で構造改革に着手
  4. 2006年 コマツ電子金属の株式の過半をSUMCOに譲渡
  5. 2007年 農林機器事業をハスクバーナ・ジャパンに譲渡
  6. 2008年 日平トヤマの株式の過半を取得
  7. 2017年 米ジョイ・グローバル買収による鉱山機械のフルライン化 資源市況が底にある時期に、大橋徹二社長はなぜ約3,000億円で持たざる領域を買い足したか

連結初の赤字と、会社始まって以来の営業赤字

賭けは半導体不況に打ち砕かれ、1998年のシリコンウエハー市場は面積ベースで前年比9%、金額ベースでは20%以上縮小[105]した。コマツ電子金属は1999年3月期に連結売上高622億円に対して197億円の赤字[106]を計上した。本業の建設機械も国内の内需不振に見舞われて多角化部門の赤字を吸収しきれず[107]、コマツの1999年3月期は123億円の連結赤字となり、1964年に連結決算を導入して以来初めての赤字[108]を記録した。コマツ電子金属は1997年に完成した米国工場の稼働を停止し、1999年3月にその株式を親会社のコマツへ譲渡[109]している。

  • 日経ビジネス 1999年8月16日号「コマツ 多角化戦略で失速 エレクトロニクスへの巨額投資失敗 国内建機も不振、初の連結赤字に」
    • [105]1998年のシリコンウエハー市場は面積ベース前年比9% 金額ベース20%以上縮小
    • [106]コマツ電子金属の1999年3月期 連結売上高622億円に対し197億円の赤字
    • [107]国内建機の内需不振でエレクトロニクス部門の赤字を本業の利益で吸収できず
    • [108]1999年3月期 123億円の連結赤字 1964年の連結決算導入以来初の赤字
    • [109]1997年完成の米国工場を稼働停止 1999年3月に株式をコマツへ譲渡

赤字は一度で終わらず、1996年以降は国内の公共事業と足並みをそろえて主力の建設機械事業が悪化[110]した。2002年3月期には会社始まって以来初の営業赤字へ転落[111]し、連結の最終損益も806億円の赤字[112]となった。1990年代の建設機械不況の過程で国内工場を四つ閉鎖し、生産能力を4割落としていた[113]が、それでも収支は反転しなかった。経営の安定化につなげようとしたエレクトロニクス事業も期待を裏切っていた[114]。原因は多角化部門だけではなく、主力の建設機械部門そのものが、赤字すれすれの水準まで落ち込んでいた[115]

  • 週刊東洋経済 2005年11月26日号「ビジネスリポート02 『建設機械は新しい成長産業だ』コマツ 大リストラ後の大ブーム」
    • [110]1996年以降 国内公共事業と足並みをそろえた建設機械事業の悪化
    • [111]2002年3月期 会社始まって以来初の営業赤字
    • [113]1990年代の建設機械不況で国内工場4つを閉鎖し生産能力を4割削減
    • [114]経営の安定化を狙ったエレクトロニクス事業も期待を裏切る
    • [115]主力の建設機械部門の収益が赤字すれすれの水準
  • 小松製作所 有価証券報告書(2002年3月期)
    • [112]2002年3月期 連結最終損益806億円の赤字
  • 日経ビジネス 1999年8月16日号「コマツ 多角化戦略で失速 エレクトロニクスへの巨額投資失敗 国内建機も不振、初の連結赤字に」
    • [105]1998年のシリコンウエハー市場は面積ベース前年比9% 金額ベース20%以上縮小
    • [106]コマツ電子金属の1999年3月期 連結売上高622億円に対し197億円の赤字
    • [107]国内建機の内需不振でエレクトロニクス部門の赤字を本業の利益で吸収できず
    • [108]1999年3月期 123億円の連結赤字 1964年の連結決算導入以来初の赤字
    • [109]1997年完成の米国工場を稼働停止 1999年3月に株式をコマツへ譲渡
  • 週刊東洋経済 2005年11月26日号「ビジネスリポート02 『建設機械は新しい成長産業だ』コマツ 大リストラ後の大ブーム」
    • [110]1996年以降 国内公共事業と足並みをそろえた建設機械事業の悪化
    • [111]2002年3月期 会社始まって以来初の営業赤字
    • [113]1990年代の建設機械不況で国内工場4つを閉鎖し生産能力を4割削減
    • [114]経営の安定化を狙ったエレクトロニクス事業も期待を裏切る
    • [115]主力の建設機械部門の収益が赤字すれすれの水準
  • 小松製作所 有価証券報告書(2002年3月期)
    • [112]2002年3月期 連結最終損益806億円の赤字

販管費6%の差を断つ——坂根正弘氏の構造改革

2001年6月、坂根正弘氏が社長へ就任[116]した。大阪市立大学工学部出身の技術者で、1991年には米国の合弁会社の社長[117]を務めていた。その合弁会社は赤字が続いており、坂根氏は3年間で工場も人員も半分に減らしている[118]。米国での経験から得たのは、ここまでやれば生き残れるとはっきりしたら小出しにせず短期間で一気に断行する[119]、という判断の型であった。就任後に最も強い危機感を覚えたのも、建設機械部門の収益が赤字すれすれになっていた点[120]である。坂根氏の初仕事は、その低収益の原因を徹底して究明すること[121]だった。

  • 週刊東洋経済 2005年11月26日号「ビジネスリポート02 『建設機械は新しい成長産業だ』コマツ 大リストラ後の大ブーム」
    • [116]2001年6月 坂根正弘が社長就任
    • [117]坂根正弘 大阪市立大学工学部出身 1991年に米国合弁会社の社長
    • [118]米国合弁会社で3年間に工場と人員を半減
    • [119]小出しにせず短期間で一気に断行するという判断基準
    • [120]就任時に最も強い危機感を持ったのは建設機械部門の収益が赤字すれすれになった点
    • [121]初仕事は建設機械部門の低収益の原因究明

究明で浮かんだ事実のひとつは、国内の建設機械が赤字続きの乱売合戦に陥り、海外で稼いだ利益をすべて食っていた[122]ことである。もうひとつの販売管理費の高さは数字にはっきり出ており、世界8カ国で生産する20トンクラスの油圧ショベルの製造原価を比べると日本が最も低いにもかかわらず、営業利益率はキャタピラーより常に6%低かった[123]。コマツは会社始まって以来の早期退職制度を実施して約1100人を削減[124]し、顧客の要求に合わせて複雑化していた機種構成を統合し、子会社の統廃合も進めて[125]、6%分にあたる販管費500億円を一気に削っている[126]

  • 週刊東洋経済 2005年11月26日号「ビジネスリポート02 『建設機械は新しい成長産業だ』コマツ 大リストラ後の大ブーム」
    • [122]国内建設機械の乱売合戦が海外の利益を消尽
    • [123]世界8カ国生産の20トンクラス油圧ショベルは日本の製造原価が最低 営業利益率はキャタピラーより常に6%低い
    • [124]早期退職制度で約1100人を削減
    • [125]機種構成の統合と子会社の統廃合
    • [126]販管費6%分 500億円を削減

エレクトロニクスにも手を入れ、コマツ電子金属は米国でのシリコンウエハー製造から撤退して台湾プラスチックとの合弁生産へ移った[127]。多結晶シリコンを製造していたAsimlは、ノルウェー企業へ株式を売却[128]している。固定費の削減だけで翌期の営業利益は330億円の黒字へ浮上[129]した。2003年3月期に黒字転換した[130]のち、2005年3月期には1983年3月期以来22年ぶりに営業利益で過去最高を更新[131]した。2006年10月にはコマツ電子金属の発行済株式の過半をSUMCOへ譲渡して非連結化[132]し、1960年に始まったエレクトロニクスから撤退を完了させた。

  • 週刊東洋経済 2005年11月26日号「ビジネスリポート02 『建設機械は新しい成長産業だ』コマツ 大リストラ後の大ブーム」
    • [127]コマツ電子金属は米国のシリコンウエハー製造から撤退し台湾プラスチックとの合弁生産へ移行
    • [128]多結晶シリコンのAsimlをノルウェー企業へ株式売却
    • [129]固定費削減のみで翌期の営業利益330億円の黒字
  • 小松製作所 有価証券報告書(2003年3月期)
    • [130]2003年3月期 黒字転換
  • 週刊東洋経済 2007年3月10日号「企業・産業 建機ブームの長期化見据え、改革断行 首位キャタピラーに挑む絶好調コマツの勝算」
    • [131]2005年3月期 1983年3月期以来22年ぶりに営業利益で過去最高を更新
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [132]2006年10月 コマツ電子金属の発行済株式の過半をSUMCOへ譲渡
  • 週刊東洋経済 2005年11月26日号「ビジネスリポート02 『建設機械は新しい成長産業だ』コマツ 大リストラ後の大ブーム」
    • [116]2001年6月 坂根正弘が社長就任
    • [117]坂根正弘 大阪市立大学工学部出身 1991年に米国合弁会社の社長
    • [118]米国合弁会社で3年間に工場と人員を半減
    • [119]小出しにせず短期間で一気に断行するという判断基準
    • [120]就任時に最も強い危機感を持ったのは建設機械部門の収益が赤字すれすれになった点
    • [121]初仕事は建設機械部門の低収益の原因究明
    • [122]国内建設機械の乱売合戦が海外の利益を消尽
    • [123]世界8カ国生産の20トンクラス油圧ショベルは日本の製造原価が最低 営業利益率はキャタピラーより常に6%低い
    • [124]早期退職制度で約1100人を削減
    • [125]機種構成の統合と子会社の統廃合
    • [126]販管費6%分 500億円を削減
    • [127]コマツ電子金属は米国のシリコンウエハー製造から撤退し台湾プラスチックとの合弁生産へ移行
    • [128]多結晶シリコンのAsimlをノルウェー企業へ株式売却
    • [129]固定費削減のみで翌期の営業利益330億円の黒字
  • 小松製作所 有価証券報告書(2003年3月期)
    • [130]2003年3月期 黒字転換
  • 週刊東洋経済 2007年3月10日号「企業・産業 建機ブームの長期化見据え、改革断行 首位キャタピラーに挑む絶好調コマツの勝算」
    • [131]2005年3月期 1983年3月期以来22年ぶりに営業利益で過去最高を更新
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [132]2006年10月 コマツ電子金属の発行済株式の過半をSUMCOへ譲渡

グレーターアジアと、鉱山機械のフルライン化

本業へ絞ったあとの収益源は機械の稼働データで、GPSを組み込んだ機械稼働管理システムKOMTRAXが建設機械の位置と稼働状況を通信回線で把握[133]する。2001年から国内の主要機種へ標準装備し、中国で導入して効果が実証されると、2006年からは欧米でも標準装備[134]へ広げた。市場では中東から中国・ロシアまでを含む「グレーターアジア」を主戦場に定め、建設・鉱山機械の売上に占める比率は2000年度の15%から2005年に27%へ高まっている[135]。2005年10月には11年ぶりとなる国内新工場の同時建設を発表し、総投資額300億円[136]を投じて2007年1月に茨城工場と金沢工場を稼働させた[137]

  • 週刊東洋経済 2005年11月26日号「ビジネスリポート02 『建設機械は新しい成長産業だ』コマツ 大リストラ後の大ブーム」
    • [133]KOMTRAXはGPSを組み込み建設機械の位置と稼働状況を通信回線で把握
    • [134]2001年から国内主要機種にKOMTRAXを標準装備 2006年から欧米も標準装備
    • [135]グレーターアジアの売上比率 2000年度15%→2005年27%
    • [136]2005年10月 11年ぶりの国内新工場2つを同時建設 総投資額300億円
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [137]2007年1月 茨城工場・金沢工場を新設

2007年6月には野路國夫氏が社長へ昇格し、坂根氏は代表権のある会長へ就く[138]。2007年3月期は3期連続の過去最高益[139]となった。もっともキャタピラーとの規模差は残り、2006年度の総売上高はキャタピラーの約5兆円に対しコマツは約1.8兆円で、建設機械に限っても約3.1兆円対約1.5兆円[140]である。差の主因は市場構成にあり、日本市場は1990年代前半まで世界の40%を占めたが、2005年時点で15%程度へ落ち、代わって首位となった米国でキャタピラーが40%のシェア[141]を握っていた。中国では2011年、地場の三一重工が販売台数でコマツから年間首位を僅差で奪っている[142]

  • 週刊東洋経済 2007年3月10日号「企業・産業 建機ブームの長期化見据え、改革断行 首位キャタピラーに挑む絶好調コマツの勝算」
    • [138]2007年6月 野路國夫が社長昇格 坂根正弘は代表権のある会長へ
    • [139]2007年3月期 3期連続の過去最高益
    • [140]2006年度 総売上高 キャタピラー約5兆円 コマツ約1.8兆円 建設機械では約3.1兆円対約1.5兆円
  • 週刊東洋経済 2005年11月26日号「ビジネスリポート02 『建設機械は新しい成長産業だ』コマツ 大リストラ後の大ブーム」
    • [141]日本市場は世界の40%から15%程度へ低下 米国でキャタピラーが40%のシェア
  • 週刊東洋経済 2012年3月17日号「スペシャルリポート02 コマツ抜いた中国勢 不気味な躍進の裏側」
    • [142]2011年 中国市場で三一重工が販売台数の年間首位をコマツから奪取

残された課題は鉱山機械の品ぞろえで、コマツは坑内掘り向けの機械や、露天掘り向けの積込重量400トン級ロープショベルやドラグライン、ドリルを持たなかった[143]。2016年7月21日、大橋徹二氏のもとでコマツは米ジョイ・グローバルを1株28.3ドル・総額約28.9億ドルで買収すると発表[144]し、2017年4月に手続きを完了[145]した。ジョイ・グローバルは1884年創業の鉱山機械大手で、従業員は約1万3400人、2015年10月期の連結売上高は約31.7億ドル[146]であった。2021年7月にはスマートコンストラクション事業の権利義務の一部をランドログへ承継させ、同社はEARTHBRAIN[147]へ商号を変えている。2022年3月期の連結売上高は2兆8023億円、株主に帰属する当期純利益は2249億円[148]を記録した。

  • コマツ「ジョイ・グローバル社の買収について」(2016年7月21日)
    • [143]坑内掘り向け機械と露天掘り向け超大型ロープショベル・ドラグライン・ドリルを保有せず
    • [144]2016年7月21日 米ジョイ・グローバルを1株28.3ドル・総額約28.9億ドルで買収すると発表
    • [146]ジョイ・グローバルは1884年創業 従業員約1万3400人 2015年10月期の連結売上高約31.7億ドル
  • コマツ「ジョイ・グローバル社の買収完了のお知らせ」(2017年4月6日)
    • [145]2017年4月 ジョイ・グローバルの買収手続きが完了
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [147]2021年7月 スマートコンストラクション事業の権利義務の一部をランドログへ承継し同社はEARTHBRAINへ商号変更
  • 小松製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [148]2022年3月期 連結売上高2兆8023億円 当社株主に帰属する当期純利益2249億円
  • 週刊東洋経済 2005年11月26日号「ビジネスリポート02 『建設機械は新しい成長産業だ』コマツ 大リストラ後の大ブーム」
    • [133]KOMTRAXはGPSを組み込み建設機械の位置と稼働状況を通信回線で把握
    • [134]2001年から国内主要機種にKOMTRAXを標準装備 2006年から欧米も標準装備
    • [135]グレーターアジアの売上比率 2000年度15%→2005年27%
    • [136]2005年10月 11年ぶりの国内新工場2つを同時建設 総投資額300億円
    • [141]日本市場は世界の40%から15%程度へ低下 米国でキャタピラーが40%のシェア
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [137]2007年1月 茨城工場・金沢工場を新設
    • [147]2021年7月 スマートコンストラクション事業の権利義務の一部をランドログへ承継し同社はEARTHBRAINへ商号変更
  • 週刊東洋経済 2007年3月10日号「企業・産業 建機ブームの長期化見据え、改革断行 首位キャタピラーに挑む絶好調コマツの勝算」
    • [138]2007年6月 野路國夫が社長昇格 坂根正弘は代表権のある会長へ
    • [139]2007年3月期 3期連続の過去最高益
    • [140]2006年度 総売上高 キャタピラー約5兆円 コマツ約1.8兆円 建設機械では約3.1兆円対約1.5兆円
  • 週刊東洋経済 2012年3月17日号「スペシャルリポート02 コマツ抜いた中国勢 不気味な躍進の裏側」
    • [142]2011年 中国市場で三一重工が販売台数の年間首位をコマツから奪取
  • コマツ「ジョイ・グローバル社の買収について」(2016年7月21日)
    • [143]坑内掘り向け機械と露天掘り向け超大型ロープショベル・ドラグライン・ドリルを保有せず
    • [144]2016年7月21日 米ジョイ・グローバルを1株28.3ドル・総額約28.9億ドルで買収すると発表
    • [146]ジョイ・グローバルは1884年創業 従業員約1万3400人 2015年10月期の連結売上高約31.7億ドル
  • コマツ「ジョイ・グローバル社の買収完了のお知らせ」(2017年4月6日)
    • [145]2017年4月 ジョイ・グローバルの買収手続きが完了
  • 小松製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [148]2022年3月期 連結売上高2兆8023億円 当社株主に帰属する当期純利益2249億円

コマツの沿革1921〜2022年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
小松製作所を設立
竹内鉱業より小松電気製鋼所を譲受
粟津工場を新設。トラクターを量産
国産ブルドーザーを試作★★
トラクター受注が白紙撤回。経営危機へ★★
河合良成氏が社長就任★★
東京、大阪の両証券取引所に株式を上場
米軍向け軍需砲弾の生産を強化
大阪工場を新設
池貝自動車製造を吸収合併し川崎工場に 中越電化工業を吸収合併し氷見工場に
砲弾生産への依存を断ち、ブルドーザーを主力とする建設機械への業態転換売上高の72%を占めた砲弾を手放し、小松製作所はどのように建設機械メーカーへ生まれ変わったか 詳細を読む★★★
資本自由化に備えたマルA対策——品質一点集中でキャタピラーに対抗世界最大のキャタピラーの上陸を前に、河合良成社長はなぜ弱点の品質だけに全社を賭けたか 詳細を読む★★★
小山工場を新設
河合良一油圧ショベルへの後発参入と小松ビサイラス——直販網で挑んだ総合建機化技術で先行できない後発は、どのように先発を逆転しようとしたか——製品か、販売網か 詳細を読む★★★
河合良一小松アメリカを設立。海外輸出に注力
河合良一メカトロニクス、新素材開発等の先端的高度技術研究のための研究所を新設
河合良一河合会長が能川社長を解任。経営が混乱へ
片田哲也ドレッサーと合弁設立
片田哲也「脱建機」多角化とコマツ電子金属への巨額投資、初の連結赤字建設機械のシクリカルな変動を嫌った多角化は、なぜシリコンウエハーで裏目に出たか 詳細を読む★★★
片田哲也不採算事業から撤退
片田哲也産業機械に関する営業の一部を譲渡
片田哲也同年10月に鋳造事業の営業を譲渡
片田哲也Komtrax(機械稼働管理システム)を開発
片田哲也坂根正弘氏の「ダントツ経営」による経営構造改革とV字回復1990年代の多角化の行き詰まりと大幅な赤字にどう向き合い、コマツをどう建て直したか——固定費削減と差別化を同時に進めた構造改革 詳細を読む★★★
片田哲也ダントツ経営で構造改革に着手★★
野路國夫コマツ電子金属の株式の過半をSUMCOに譲渡★★
野路國夫農林機器事業をハスクバーナ・ジャパンに譲渡
野路國夫日平トヤマの株式の過半を取得
野路國夫大型プレス機械の製品開発、販売・サービス事業を吸収分割によりコマツ産機に承継
野路國夫コマツユーティリティを吸収合併
大橋徹二コマツディーゼルを吸収合併
大橋徹二米ジョイ・グローバル買収による鉱山機械のフルライン化資源市況が底にある時期に、大橋徹二社長はなぜ約3,000億円で持たざる領域を買い足したか 詳細を読む★★★
小川啓之コマツ特機を吸収合併
小川啓之コマツキャブテックを吸収合併
出典・参考
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「小松製作所」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
  • 実業の世界52(10)(1955年7月)
  • コマツ100年史
  • 日経ビジネス 1999年8月16日号「コマツ 多角化戦略で失速 エレクトロニクスへの巨額投資失敗 国内建機も不振、初の連結赤字に」
  • 週刊東洋経済 2007年3月10日号「企業・産業 建機ブームの長期化見据え、改革断行 首位キャタピラーに挑む絶好調コマツの勝算」
  • 週刊東洋経済 2005年11月26日号「ビジネスリポート02 『建設機械は新しい成長産業だ』コマツ 大リストラ後の大ブーム」
  • 小松製作所 有価証券報告書(2002年3月期)
  • 小松製作所 有価証券報告書(2003年3月期)
  • 週刊東洋経済 2012年3月17日号「スペシャルリポート02 コマツ抜いた中国勢 不気味な躍進の裏側」
  • コマツ「ジョイ・グローバル社の買収について」(2016年7月21日)
  • コマツ「ジョイ・グローバル社の買収完了のお知らせ」(2017年4月6日)
  • 小松製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【主要な経営指標等の推移】

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