| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1951/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 14億円 | 1億円 | 8.6% |
| 1952/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 19億円 | 1億円 | 9.6% |
| 1953/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 38億円 | 2億円 | 7.6% |
| 1954/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 85億円 | 4億円 | 5.8% |
| 1955/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 113億円 | 5億円 | 4.8% |
| 1956/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 81億円 | 5億円 | 6.6% |
| 1957/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 111億円 | 8億円 | 7.4% |
| 1958/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 124億円 | 10億円 | 8.3% |
| 1959/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 165億円 | 13億円 | 7.8% |
| 1960/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 277億円 | 24億円 | 8.8% |
| 1961/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 443億円 | 40億円 | 9.2% |
| 1962/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 559億円 | 49億円 | 8.9% |
| 1963/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 606億円 | 42億円 | 7.0% |
| 1964/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 646億円 | 33億円 | 5.1% |
| 1965/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 700億円 | 30億円 | 4.3% |
| 1966/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 793億円 | 37億円 | 4.7% |
| 1967/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,063億円 | 50億円 | 4.7% |
| 1968/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,458億円 | 64億円 | 4.4% |
| 1969/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,076億円 | 96億円 | 4.6% |
| 1970/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,410億円 | 105億円 | 4.3% |
| 1971/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,139億円 | 65億円 | 3.0% |
| 1972/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,314億円 | 83億円 | 3.5% |
| 1973/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,746億円 | 127億円 | 4.6% |
| 1974/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,146億円 | 141億円 | 4.4% |
| 1975/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,608億円 | 217億円 | 6.0% |
| 1976/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,153億円 | 184億円 | 5.8% |
| 1977/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,534億円 | 144億円 | 4.0% |
| 1978/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 3,966億円 | 158億円 | 3.9% |
| 1979/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 4,567億円 | 202億円 | 4.4% |
| 1980/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 5,048億円 | 227億円 | 4.4% |
| 1981/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 5,674億円 | 272億円 | 4.7% |
| 1982/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 6,526億円 | 324億円 | 4.9% |
| 1983/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 6,113億円 | 306億円 | 5.0% |
| 1984/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 5,756億円 | 237億円 | 4.1% |
| 1985/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 5,995億円 | 228億円 | 3.8% |
| 1986/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 6,050億円 | 135億円 | 2.2% |
| 1987/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 5,390億円 | 90億円 | 1.6% |
| 1988/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/12 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,197億円 | 108億円 | 1.1% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,699億円 | 30億円 | 0.3% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,548億円 | 13億円 | 0.1% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,189億円 | 102億円 | 1.1% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 9,993億円 | 142億円 | 1.4% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,989億円 | 181億円 | 1.6% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 11,040億円 | 192億円 | 1.7% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,615億円 | -123億円 | -1.2% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,556億円 | 133億円 | 1.2% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,963億円 | 69億円 | 0.6% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,358億円 | -806億円 | -7.8% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 10,279億円 | 30億円 | 0.2% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 11,273億円 | 269億円 | 2.3% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 13,560億円 | 590億円 | 4.3% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 16,121億円 | 1,142億円 | 7.0% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 18,933億円 | 1,646億円 | 8.6% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 22,430億円 | 2,087億円 | 9.3% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 20,217億円 | 787億円 | 3.8% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 14,315億円 | 335億円 | 2.3% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 18,431億円 | 1,507億円 | 8.1% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 19,817億円 | 1,670億円 | 8.4% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 18,849億円 | 1,263億円 | 6.7% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 19,536億円 | 1,595億円 | 8.1% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 19,786億円 | 1,540億円 | 7.7% |
| 2016/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 19,854億円 | 1,374億円 | 6.9% |
| 2017/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 18,029億円 | 1,133億円 | 6.2% |
| 2018/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 25,011億円 | 1,964億円 | 7.8% |
| 2019/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 27,252億円 | 2,564億円 | 9.4% |
| 2020/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 24,448億円 | 1,538億円 | 6.2% |
| 2021/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 21,895億円 | 1,062億円 | 4.8% |
| 2022/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 28,023億円 | 2,249億円 | 8.0% |
売上高の72%を砲弾に依存していた小松製作所が3年間で建設機械中心の収益構造へ転換できた背景には、転換決定の10年前から蓄積されたブルドーザーの開発実績がある。1947年以降に複数機種の設計・製造を継続していたことで、砲弾需要の縮小が確定した段階で即座に量産体制へ移行できる技術的基盤が整っていた。需要消失後に新事業を模索するのではなく、事前の技術蓄積が業態転換の速度と確度を規定した構造である。
1950年代に入ると米軍向け砲弾の受注が先細りとなり、小松製作所は収益構造の抜本的な転換を迫られた。同社は売上高の72%を砲弾に依存しており、1955年頃には朝鮮戦争の終結にともなって砲弾需要の縮小が確定的となっていた。砲弾製造の主力拠点であった大阪工場では稼働率の低下が懸念され、代替となる量産品目の確保が喫緊の経営課題として浮上した。当時の証券アナリストからは「米軍次第で浮き沈みする危険な事業」と評され、市場からの信認も低下しつつあった。
一方で、小松製作所は1947年にD50ブルドーザーを完成させて以降、D80・D30・D120・D40と毎年のように新型機種を投入しており、1954年には生産台数の累計が1000台を突破する実績を積み上げていた。加えて、日本政府が「道路整備5カ年計画」を策定し、道路建設やダム建設といった公共事業の本格化が見込まれていた。公共事業の拡大は建設現場の機械化需要を増大させるため、ブルドーザーをはじめとする建設機械への需要が伸長することが予測されていた。
1956年5月、小松製作所は大阪工場の主要生産品目を「米軍向け砲弾」から「ブルドーザー」に転換する方針を決定した。砲弾製造に使用していた生産設備をブルドーザーの量産向けに再編し、大阪工場をブルドーザー専用の量産拠点として整備した。既に開発を完了していた複数機種の生産ノウハウを活用することで、量産体制の立ち上げを短期間で実現することを目指した。この決定により、小松製作所は砲弾依存からの脱却を図り、建設機械メーカーへの本格的な業態転換に踏み出した。
量産体制の構築にあたっては、1947年以降に蓄積したブルドーザーの開発・試作実績が重要な基盤となった。D50からD40に至る複数機種の設計・製造を通じて培った技術的知見と、粟津工場での量産経験が、大阪工場における生産ラインの迅速な立ち上げを可能にした。砲弾製造で培った金属加工技術も建機部品の製造に転用可能であり、既存の生産設備を改修する形で量産体制を整備した。並行して新製品の開発投入も継続し、1959年にはD250ブルドーザーを市場に投入するなど製品ラインナップの拡充を推進した。
こうした取り組みの結果、政府の道路整備5カ年計画の本格実施やダム建設にともなう建機需要の増大に支えられ、小松製作所は1959年12月期に売上高92億円・利益7億円強を計上し、いずれも創業以来の過去最高を記録した。建設機械が総生産高の約70%を占めるまでに事業構成が変化し、わずか3年前には売上高の72%を砲弾に依存していた収益構造は、建設機械を主力とする業態へと転換された。
業態転換が短期間で実現した背景には、転換を決定する以前から約10年にわたって蓄積されたブルドーザーの開発実績がある。砲弾需要の縮小が確定的となった段階で初めて建機に着手したのではなく、1947年以降の継続的な開発投資が量産決定時に即座に活用可能な状態にあったことが、転換の速度と確度を支えた。この業態転換により、小松製作所は国内トップの建設機械メーカーとしての基盤を確立し、1960年代のキャタピラー社との競争に臨む出発点を形成した。
売上高の72%を砲弾に依存していた小松製作所が3年間で建設機械中心の収益構造へ転換できた背景には、転換決定の10年前から蓄積されたブルドーザーの開発実績がある。1947年以降に複数機種の設計・製造を継続していたことで、砲弾需要の縮小が確定した段階で即座に量産体制へ移行できる技術的基盤が整っていた。需要消失後に新事業を模索するのではなく、事前の技術蓄積が業態転換の速度と確度を規定した構造である。
小松製作所は72%を砲弾に依存している。これが切れたらお手上げである。(略)こうした水物の米軍発注に依存している会社は米軍次第で浮き沈みする危険な事業である。同社株は絶対に安定投資株と言えないわけだ。同社株を一刻も早く売り放って、他の堅実な安定投資株に乗り換えるのが賢明である。
1959年12月期の売上高は、6月期に比べまして25%強上回る92億円余に達し、その利益はまだ7億円強を計上することができました。この数字は、当社創業以来の新記録で、ここ3年毎期記録を更新しているわけであります。
この増収の原因は、何と言っても、当社総生産高の約70%を占める建設機械が、国内では政府の重点政策である、道路整備五カ年計画の実施が本格化してまいったことと、一方、インド、インドネシアへの輸出増大によって、さらに一段と売上が伸び、月々業界第1位を占めたことにあります。
キャタピラー三菱の設立に際し河合良成社長は通産省への政治的阻止を断念し、対抗策を品質改善に一点集中させた。販売網と生産体制では劣位になく、唯一の弱点であった品質に経営資源を集中する判断であった。部品4000点のうち3200点に課題を発見する網羅的な品質調査と、社内の抵抗を押し切ったカミンズ製エンジンの導入により、クレーム発生数を5分の1に削減。限られた資本で巨大企業に対抗する際に、勝負の論点を絞り込む戦略設計の事例である。
1960年に日本政府は「資本自由化大綱」を公表し、外資企業が日本市場に参入できるよう産業別に段階的な規制緩和を進める方針を明示した。戦後の日本政府は国内企業の育成・保護を目的として欧米企業の日本進出を政策的に制限しており、外資との関係は技術提携などに限定されていた。資本自由化大綱は外資企業が日本法人を設立して直接的に参入する道筋を示すものであり、日本企業がグローバル競争にさらされることを意味した。産業界の経営者の間では危機感が急速に広がった。
資本自由化を受けて、建設機械の世界最大手である米キャタピラー社が日本進出を決定した。1961年頃にキャタピラー経営陣が来日し、新三菱重工業と折半出資で合弁会社を設立する方針を示した。1963年にキャタピラー三菱が設立され、1965年には「CAT D4Dブルドーザ国産第1号機」を投入した。キャタピラー社と三菱重工はともに巨大資本を擁しており、三菱重工の資本力と組み合わせた競争力はコマツにとって重大な脅威であった。加えて、当時はコマツのブルドーザーの耐久時間がキャタピラー車の約半分とされていた。
コマツの河合良成社長は、キャタピラー三菱の設立認可に対して通産省に抗議を申し入れ、建機業界における資本自由化の延期を求めた。しかし通産省は「個々の会社の利害よりも日本全体の利益を優先する」との立場を崩さず、キャタピラーの日本進出を合弁方式で許可した。河合社長は政治的な阻止が困難であると判断し、対抗策の論点を「品質改善」に絞る方針を決定した。国内トップの販売網と生産体制は既に整備されているため、品質のみが防衛の鍵になると判断したためであった。
品質改善策として、全社的品質管理(QC)の導入と「マルA対策」を実施した。品質対策室は8つの調査項目を設定し、過去1年間のクレーム内容の検討、自社製品と競合品のオーバーホール実績調査、全国の作業現場への技術者派遣による使用状況調査などを実施した。調査の結果、部品4000点のうち80%にあたる3200点に課題を発見した。並行して1961年に米カミンズ社とディーゼルエンジンの技術提携を締結し、社内の反対を押し切って高性能エンジンの導入にも踏み切った。
1963年9月にマルA対策を反映したブルドーザー「D50A」の市販を開始した。特殊鋼に関する課題を中心に部品レベルから品質を改善した結果、クレーム発生数は従来製品の5分の1に減少した。品質改善と並行して既存工場への設備投資も積極化しており、1960年から1964年にかけて120億円、1969年から1970年にかけて500億円の設備投資を実施した。ブルドーザーの機種ごとに特定工場で生産を特化させることで、品質と生産効率の両立を図る体制を構築した。
1960年代から1970年代にかけて、コマツはブルドーザーの国内販売においてシェア60〜65%を維持した。競合のキャタピラー三菱のシェアは30%前後で推移し、合弁設立以前に三菱が保有していた水準と同程度にとどまった。3位以下の日特金属や日立製作所はシェアを低下させる結果となり、コマツとキャタピラー三菱による2社寡占の構造が形成された。マルA対策を起点とする品質改善の取り組みは、コマツが国内建機市場における首位を堅持するための基盤となった。
キャタピラー三菱の設立に際し河合良成社長は通産省への政治的阻止を断念し、対抗策を品質改善に一点集中させた。販売網と生産体制では劣位になく、唯一の弱点であった品質に経営資源を集中する判断であった。部品4000点のうち3200点に課題を発見する網羅的な品質調査と、社内の抵抗を押し切ったカミンズ製エンジンの導入により、クレーム発生数を5分の1に削減。限られた資本で巨大企業に対抗する際に、勝負の論点を絞り込む戦略設計の事例である。
1962年6月のことである。折半出資でキャタピラー三菱を設立することを通産省に認可申請したいというニュースが入った。私はただちに通産省に対して提携認可に抗議を申し込んだ。(略)
しかし、通産省はあくまで許可(注:キャタピラーによる合弁会社の設立)の方針を動かさず、われわれのこの申し入れに対して、通産省の当局の趣旨は
「君の会社ではキャタ社ほどの優良製品をつくれないじゃないか。つくれないとなれば、そういった個々の会社の利害よりも、日本全体の利害を考えているのだ。優秀な製品を作れば、外国へも進出できる。そうすれば、アメリカの資本が少々日本に入っても、大局的に見ると、日本の利益になるではないか。既存メーカーは将来到底キャタピラー社の品質に及ばないのだから諦めよ」
というのであった。
そこで、私は非常に苦悩した。道は2つである。1つは降伏することである。三菱プラス「キャタ」という重圧に対して小松は果たして戦えるか。小松は多数の従業員や家族を率い、数万の株主を擁している。だから思い切って妥協をやり、双方で株式の持ち合いなどの方法を考えるのも一つであるなどと苦慮し、新三菱社長との会談の際にも、遠回しにそれとなく触れたこともあった。
もう一つは毅然として戦うことだ。全小松の人心も一丸となっている。幹部の陣容もがっちりしている。何の恐るところがあるか。私はもちろん敢闘を心に決めた。
1961年8月、キャタ社と新三菱さんの提携を予知するや、ただちに生産関係重役を責任者として、総重役擁護の下にこの「マルA対策」にあたらしめた。そしてキャタ社の進出について、私は一番どの点を恐れたか。それは、販売でも価格でも、生産能力でもない。品質である。
販売力については私は自信を持っている。全国に直販システムによる120店の販売網をもち、これに丸紅飯田、三井物産、木下産商その他数店の大手商社を代理店として、他のどのメーカーにも劣らぬ一台販売網を握っている。
次に生産面であるが、これとても小松、粟津、大阪、川崎の各工場で、鋳鋼からエンジンに至る一貫生産体制が整っており、キャタ社・新三菱がいかなる工場を建てようとも、その能力においては負けはしない自信があった。
なぜ、わが社がカミンズ・エンジンの搭載にふみ切ったか疑問をいだかれる方があろう。そのわけは、今日まで、小松は自己製品のエンジンを川崎工場で生産しており、しかも、その性能については業界で広く好評を得ているから、なぜいまさらカミンズに振り替えたかという疑問である。
それはこういうことなのだ。つまり、高速度エンジンが技術的に素晴らしく進歩したので、ブル用エンジンの世界的傾向も次第に中速から高速に移りつつあるのだ。これは何もブルだけのことではなく、ハイ・エフィシェンシーはすべての産業の命題でもあるのだ。いままで、低速エンジンを搭載していた小松としても、当然、こうした世界のすう勢を見のがすことはできない。そこでアメリカのヘイウェー・ディーゼルトラックの7割に、エンジンを供給しているという「実績」を持つエンジン、そして米国市場においてキャタ社製エンジンとの競争において広く引き離しているエンジンを選んだわけである。(略)
ある一部の特殊な機種を除いて、ほとんどのものにカミンズ・エンジンを搭載することにはしたが、しかし、これまでには、社内的にたいへんな抵抗に出会った。今日まで、トラの子のように、えいえいとして育ててきたエンジンをすべてカミンズに取り替えるというのだから、とくに工場現場からの抵抗が強かった。(略)
その気持ちはよくわかってはいたが、「載せられんことはないじゃないか。大きなエンジンの代わりに、小さなエンジンを載せる。それが載らんという道理はない。これくらい明瞭なことはどこにあるか」と言って、私は叱咤した。こうした一種の執着、「情」というものを知らない私ではない。しかし、そんな甘っちょろいものに負けてはおれない「時」なのだ。厳しい現実、熾烈な戦いに勝つためには、冷厳な裁決もしなければならないということは、これは経営者の「孤独」というものであろうか。現場でも「社長がそこまでいうなら、ひとつカミンズ搭載に努力してみよう」ということになって、種々検討を開始した。
小松製作所といえば、すぐに「ブルドーザー」が浮かんでくる。それほど、ブルドーザーは、同社の得意中の得意事業である。単に、ブルドーザーの最大手として、微動だにしない実力を持っているだけでなく、わが国最大の総合建設機械メーカーである。と同時に、ことブルドーザーにおいては、米キャタピラ社についで世界で2番目のメーカーである。ブルドーザー国内生産の約60%を同社で占めている事実が物語るように、その強みはまったく圧倒的である。(略)
周知のように、同社は金沢の片田舎にあって、それも、労働争議で倒産寸前の形から発足したものである。当時、果たして誰が今日の小松製作所の大成を予想し得たであろうか。
コマツが油圧ショベルに約10年遅れで参入しながら8年で国内首位を獲得できた要因は、技術力よりも販売網の構造的優位にある。国内650カ所の直販拠点はキャタピラー三菱の200カ所、日立建機の350カ所を大きく上回り、ブルドーザーと油圧ショベルの顧客層が重複していたことで既存網がそのまま拡販に機能した。後発企業が先発を逆転する構造として、製品そのものではなく販売チャネルの規模が競争優位を決定した事例である。
1960年代を通じて油圧機器の技術革新が進み、建設機械の主力製品がブルドーザーから油圧ショベルへと移行する市場構造の変化が進行していた。1950年代から1960年代にかけては道路新設やダム建設といった大規模土木工事が需要の中心であり、整地作業に適したブルドーザーが建機市場の主役を占めていた。しかし1970年代以降は下水道敷設や道路改修など社会インフラの改良・維持管理に関する工事が増加し、掘削能力に優れた油圧ショベルへの需要が急速に高まりつつあった。
油圧ショベル市場では、キャタピラー三菱や日立建機といった先発メーカーが既に製品を投入して市場の開拓を進めており、後発企業にとっては参入障壁が存在していた。コマツはブルドーザーで国内シェア60%超を確保していたものの、油圧ショベルの分野では後発の立場にあった。建機市場の需要構造がブルドーザーからショベルへと移行する中で、油圧ショベルにおけるシェアを確保できるか否かが、建機業界におけるコマツの中長期的な競争力を左右する重要な経営課題として認識されていた。
油圧ショベルへの参入にあたり、コマツは米ビサイラス・エリー社と技術提携を実施した。同社の油圧ショベル技術を基盤として、日本の建設現場における土質や作業条件に適合するよう改良を加えた製品の開発に着手した。1968年5月に油圧ショベル「15-H」の生産を開始し、ブルドーザーの販売で構築した全国の直販網を通じて市場に投入した。先発のキャタピラー三菱と日立建機を追う形でのスタートとなり、参入初年度の1969年時点における国内シェアは第3位の14%にとどまった。
コマツが油圧ショベルで国内シェアを大きく伸長させる転機となったのは、1972年に開発・投入した改良型の「15HT-2」であった。従来製品と比較して耐久性を大幅に向上させたことで、建設現場からの引き合いが増加した。コマツの販売拠点数は国内650カ所に達しており、キャタピラー三菱の200カ所、日立建機の350カ所を大きく上回っていた。ブルドーザーと油圧ショベルの顧客層が重複していたことから、既存の直販網がそのまま油圧ショベルの拡販に有効に機能した。
1976年にコマツは油圧ショベルの国内シェアで首位を獲得した。先発メーカーに対して約10年遅れでの参入であったにもかかわらず、ビサイラス・エリー社との技術提携による製品開発力と、ブルドーザーの販売で培った全国650カ所の直販網の活用が奏功した形であった。特に耐久性を向上させた「15HT-2」の投入以降はシェアの拡大が加速し、1979年には国内シェア21%、1987年には32%に到達した。油圧ショベルはブルドーザーに次ぐコマツの主力製品として定着した。
油圧ショベルでの国内首位の獲得により、コマツはブルドーザーと油圧ショベルの両製品群で国内トップシェアを持つ唯一の建機メーカーとなった。建設現場では同一メーカーからの一括調達がメンテナンスや部品調達の面で合理的であり、2製品での首位は相互に販売を補強する構造を生んだ。この事業基盤を土台として、コマツは1980年代以降の海外展開と製品ラインナップの拡充を進め、キャタピラー社に次ぐ世界第2位の建設機械メーカーへと規模を拡大していった。
コマツが油圧ショベルに約10年遅れで参入しながら8年で国内首位を獲得できた要因は、技術力よりも販売網の構造的優位にある。国内650カ所の直販拠点はキャタピラー三菱の200カ所、日立建機の350カ所を大きく上回り、ブルドーザーと油圧ショベルの顧客層が重複していたことで既存網がそのまま拡販に機能した。後発企業が先発を逆転する構造として、製品そのものではなく販売チャネルの規模が競争優位を決定した事例である。