1921年〜 竹内鉱業からの独立と、トラクター国産化がもたらした「第二の敗戦」
- 1921年 小松製作所を設立
- 1922年 竹内鉱業より小松電気製鋼所を譲受
- 1938年 粟津工場を新設。トラクターを量産
- 1943年 国産ブルドーザーを試作
- 1945年 トラクター受注が白紙撤回。経営危機へ
- 1947年 河合良成氏が社長就任
鉱山機械と電気鋳鋼で出発した機械メーカー
コマツの源流は、土佐出身の実業家・竹内明太郎氏が率いた竹内鉱業[1]にさかのぼる。竹内氏は佐賀県唐津の芳谷炭坑や石川県の遊泉寺銅山を経営し、鉱山機械の自製と修理のために1917年、遊泉寺銅山に近い石川県小松町へ小松鉄工所を開設[2]した。初代所長には、国産自動車の先駆である快進社の橋本増治郎氏を迎えている[3]。第一次大戦後の不況で親会社の竹内鉱業が事業を縮小すると、小松鉄工所を分離独立させる方針がとられ[4]、1921年5月13日、資本金100万円[5]で株式会社小松製作所が設立された。出発時の事業は鉱山機械・採掘機械にとどまらず電気製鋼による電気鋳鋼にも及び[6]、機械と鉄鋼の二領域をあわせ持つ構成をとった。
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [1]竹内鉱業社長 竹内明太郎
- [2]1917年 遊泉寺銅山近くの小松町へ小松鉄工所を開設
- [3]初代所長 快進社の橋本増治郎
- 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
- [4]1921年5月 竹内鉱業より小松鉄工所を分離独立し石川県小松町に株式会社小松製作所を設立
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「小松製作所」の項
- [5]1921年5月13日 設立 資本金100万円
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [6]出発時の事業は鉱山機械・採掘機械と電気鋳鋼
設立の翌1922年4月、小松製作所は竹内鉱業から小松電気製鋼所を譲り受け[7]、鋳鋼の内製から機械の組立までを自社でまかなえるように[8]した。だが関東大震災が親会社の竹内鉱業を行き詰まらせ[9]、第一次大戦後の不況も重なって経営は苦境に沈む。これを立て直したのが、1925年に社長として迎えられた中村税氏[10]であった。中村氏のもとで経営は危機を脱し、満州事変以降は鋳鋼とプレス機械の需要増に支えられて事業規模を広げた[11]。鋳鋼は月産で業界首位の生産量に達し、機械部門へ自家供給しながら高級鋳物を外販する構成[12]をとっている。
- 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
- [7]1922年4月 竹内鉱業より小松電気製鋼所を譲受
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [8]製鋼から造機にいたる生産方式を確立
- [9]関東大震災による親会社・竹内鉱業の行き詰まりと欧州大戦後の不況
- [10]1925年 中村税を社長に迎えて経営危機を脱する
- [11]満州事変以降 鋳鋼・プレス機械の需要増大で事業規模が拡大
- 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
- [12]鋳鋼は生産量業界第一位 自家使用が中心で外販は高級鋳物
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [1]竹内鉱業社長 竹内明太郎
- [2]1917年 遊泉寺銅山近くの小松町へ小松鉄工所を開設
- [3]初代所長 快進社の橋本増治郎
- 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
- [4]1921年5月 竹内鉱業より小松鉄工所を分離独立し石川県小松町に株式会社小松製作所を設立
- [7]1922年4月 竹内鉱業より小松電気製鋼所を譲受
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「小松製作所」の項
- [5]1921年5月13日 設立 資本金100万円
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [6]出発時の事業は鉱山機械・採掘機械と電気鋳鋼
- [8]製鋼から造機にいたる生産方式を確立
- [9]関東大震災による親会社・竹内鉱業の行き詰まりと欧州大戦後の不況
- [10]1925年 中村税を社長に迎えて経営危機を脱する
- [11]満州事変以降 鋳鋼・プレス機械の需要増大で事業規模が拡大
- 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
- [12]鋳鋼は生産量業界第一位 自家使用が中心で外販は高級鋳物
トラクター国産化と、陸軍命令によるブルドーザー試作
鉱山機械と工作機械で足場を得た小松製作所は、他社の手がけない独自製品を探し、1931年に農林省の要請で農用トラクターの国産化へ乗り出した[13]。米国キャタピラー社製の小型トラクターを範として二トン履帯式トラクターを試作[14]し、これが国産第一号となる。翌1932年には改良型の小松G25型を完成させ、陸軍などへ納入した[15]。トラクターは得意の鋳鋼を多用できる製品[16]で、既存の製鋼設備をそのまま生かせる点が選択の決め手になっている。1938年5月には一貫生産を目的として小松市郊外に粟津工場を新設[17]し、満州開拓向けの量産を本格化させた[18]。
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [13]1931年 農林省の要請で農用トラクター国産化に着手
- [14]米国キャタピラー社製の小型トラクターを範とした二トン履帯式トラクターが国産第一号
- [15]1932年 改良型の小松G25型を完成し陸軍へ納入
- [16]得意の鋳鋼を多用できるトラクターが新たな主軸
- [18]粟津工場で満州開拓向けの量産を本格化
- 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
- [17]1938年5月 粟津工場を新設
戦時に入ると、小松製作所は陸海軍の要請で各種の牽引車や土工用車両を手がけた[19]。ブルドーザーもそのひとつで、副社長の河合良一氏が1963年に語ったところでは[20]、米軍が飛行場の造成に使う機械を日本でも作れという陸軍の命令があり、写真を手がかりに3台の試作車を製作した[21]という。試作車はフィリピンとガダルカナルへ送られたが、ガダルカナルへは着かず、フィリピンへ届いた分も使う間がないまま占領されている[22]。1943年の試作は量産に届かないまま[23]終戦を迎えた。国内にブルドーザーの稼働台数がほぼ無い状態[24]から、戦後の生産は始まっている。
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [19]戦時に陸軍・海軍の要請で各種の牽引車や土工用車両を製作
- [23]1943年 国産ブルドーザーを試作 量産には至らず
- 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
- [20]河合良一 1963年時点で小松製作所副社長
- [21]陸軍の命令で写真をサンプルに3台の試作車を製作
- [22]試作車はガダルカナルへ未着 フィリピン着分も使用前に占領
- [24]終戦直後は国内のブルドーザー稼働台数がほぼ皆無
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [13]1931年 農林省の要請で農用トラクター国産化に着手
- [14]米国キャタピラー社製の小型トラクターを範とした二トン履帯式トラクターが国産第一号
- [15]1932年 改良型の小松G25型を完成し陸軍へ納入
- [16]得意の鋳鋼を多用できるトラクターが新たな主軸
- [18]粟津工場で満州開拓向けの量産を本格化
- [19]戦時に陸軍・海軍の要請で各種の牽引車や土工用車両を製作
- [23]1943年 国産ブルドーザーを試作 量産には至らず
- 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
- [17]1938年5月 粟津工場を新設
- 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
- [20]河合良一 1963年時点で小松製作所副社長
- [21]陸軍の命令で写真をサンプルに3台の試作車を製作
- [22]試作車はガダルカナルへ未着 フィリピン着分も使用前に占領
- [24]終戦直後は国内のブルドーザー稼働台数がほぼ皆無
発注の白紙撤回と、河合良成氏による再建
終戦後、小松製作所は国土300万町歩の開拓という食糧増産政策[25]に応じ、ガソリン式トラクターの生産へ転じた。同じ製品には新潟鉄工所や久保鉄工所など5社ほどが参入している[26]。ところが占領軍が日本へのガソリン供給停止を命じたため[27]、ガソリントラクターは製作できなくなった。1947年、農林省はこれを受けてトラクターの発注を全面的に白紙撤回[28]した。トラクターと農具は当時の総生産額の6割以上を占めており、その打ち切りは社内で「第二の敗戦」と呼ばれた[29]。主力を一夜で失った工場では賃上げを求める大争議が起こり、「東の東宝、西の小松」と並び称された百日闘争へ発展した[30]。
- 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
- [25]戦後 国土300万町歩の開拓
- [26]新潟鉄工所・久保鉄工所ら5社程度がガソリントラクターを製作
- [27]占領軍の日本に対するガソリン供給停止命令でガソリントラクターの製作が不能に
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [28]1947年 農林省がトラクター発注を白紙撤回
- [29]トラクターと農具が総生産額の6割以上 打ち切りは「第二の敗戦」
- [30]大争議は「東の東宝、西の小松」と並称された百日闘争へ発展
この難局で社長に迎えられた河合良成氏は、農林官僚として小松製作所にトラクター生産を勧めた経緯があり[31]、発注撤回に道義的な責任を感じていた。河合氏は復興金融金庫から3000万円の融資を引き出して争議を収拾し[32]、1947年末に社長へ就任すると、約700名の人員整理を断行して[33]再建に着手した。1949年5月には東京と大阪の両証券取引所へ株式を上場し[34]、外部から資金を調達する道も開いた。1947年にはD50ブルドーザーを完成させており[35]、戦時の試作で残した設計が製品として世に出ている。ただし土建業者が持つブルドーザーは国産品か進駐軍の払下げ品に限られ[36]、市場そのものがまだ小さかった。
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [31]農林官僚出身の河合良成 トラクター生産を勧めた経緯から道義的責任
- [32]復興金融金庫の融資3000万円で争議を収拾
- [33]1947年末 河合良成が社長就任 約700名の人員整理
- [35]1947年 D50ブルドーザーを完成
- 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
- [34]1949年5月 東京・大阪の両証券取引所に株式を上場
- 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
- [36]当時のブルドーザーは進駐軍が焼跡整理に使用 土建業者の保有は国産品か進駐軍払下げ品
- 証券アナリストジャーナル 1963年9月号「小松製作所の現状と将来」(副社長・河合良一)
- [25]戦後 国土300万町歩の開拓
- [26]新潟鉄工所・久保鉄工所ら5社程度がガソリントラクターを製作
- [27]占領軍の日本に対するガソリン供給停止命令でガソリントラクターの製作が不能に
- [36]当時のブルドーザーは進駐軍が焼跡整理に使用 土建業者の保有は国産品か進駐軍払下げ品
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [28]1947年 農林省がトラクター発注を白紙撤回
- [29]トラクターと農具が総生産額の6割以上 打ち切りは「第二の敗戦」
- [30]大争議は「東の東宝、西の小松」と並称された百日闘争へ発展
- [31]農林官僚出身の河合良成 トラクター生産を勧めた経緯から道義的責任
- [32]復興金融金庫の融資3000万円で争議を収拾
- [33]1947年末 河合良成が社長就任 約700名の人員整理
- [35]1947年 D50ブルドーザーを完成
- 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
- [34]1949年5月 東京・大阪の両証券取引所に株式を上場