歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1960年12月、電子機器の量産が始まろうとする時代に、片山一郎が東京都大田区で「ユニオン化学研究所」を設立した。大手工具メーカーの依頼を受け、自ら設計から製造まで手がけて、プリント配線板に穴をあける超硬ドリル(PCBドリル)を開発したのが原点である。創業者が経営者になっても社長室に設計机を置いて現場に身を置く技術者経営が、ここで同社の流儀になった。
決断決定的だったのは、生産を新潟県長岡に集約し、ドリルを削る研磨機など生産設備そのものを自社で開発・内製する道を選んだことである。1970年代から長岡で工場群を重ね、片山一郎は訪れるたび技術者を集めて改良を指示し、内製率を100%近くまで高めた。工具の形は競合に見えても、それを生む設備と加工技術は外から真似できない。この見えにくい優位がPCBドリルの世界トップシェアを支えた。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1960年代の東京の町工場が、大手の量産メーカーではなく工具メーカーとして出発できたのか
- A 大手工具メーカーから依頼された試作を、設計から製造まで自分の手で仕上げて納められたことが出発点である。1960年12月に片山一郎氏が東京都大田区で「ユニオン化学研究所」を設立し、テレビ・電卓など電子機器の量産が立ち上がる時代に、基板へ穴をあける超硬ドリル(PCBドリル)を自ら開発した。社長になってからも社長室に設計机を置いて現場に身を置く技術者経営が、ここで同社の流儀になった。
- Q なぜ1970年代に長岡へ生産を集め、工具だけでなく生産設備まで自社で内製する道を選んだのか
- A 工具の形は競合が見て真似できても、それを削り出す研磨機など生産設備と加工技術は外から見えず模倣されにくいため、設備ごと内製すれば差別化が長持ちすると見たからである。1976年から新潟県長岡で工場群を重ね、片山一郎氏は訪れるたび技術者を集めて改良を指示し、内製率を100%近くまで高めた。専用機を自前で開発することで設備投資も外部品より安く抑えられ、低コストと差別化を両立できた。この見えにくい優位が、世界市場の約3割(ユニオンツール推計)を占めるPCBドリルのトップシェアを支えた。
- Q なぜ2024年に見附で工場を重ね、超硬エンドミルの増産へ経営資源を振り向けたのか
- A PCBドリルは電子機器の設備投資の波をまともに受け、リーマンショックでは1年で売上がほぼ半減するほど振れるうえ、市場の伸びしろも限られていた。これに対しエンドミルは金型や自動車部品を削る用途で市場がPCBドリルより広く、しかもPCBドリルで磨いた超硬合金の加工とコーティングの技術をそのまま使える第二の柱になり得た。そこで2024年5月に超硬エンドミル増産を主目的とする見附第三工場を稼働させ、生産能力を2.5倍に引き上げて、長岡のPCBドリルと見附のエンドミルという二拠点体制を敷いた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1960年〜1995年 東京の町工場でのPCBドリル開発と長岡集約による事業の確立
1960年「ユニオン化学研究所」と片山一郎氏による試作研究
1960年12月、東京都大田区において前代表取締役会長の片山一郎氏が「株式会社ユニオン化学研究所」を設立し、ドリル・エンドミル・ロータリーバーなど工業用超硬精密工具の試作研究を開始した[1]。創業者の片山一郎氏は大手工具メーカーからの依頼を受け、東京の小さな町工場で自ら設計・製造に取り組み、プリント配線板用の超硬ドリル(PCBドリル)の開発を進めた[2]。設立直後の同社は研究開発主体の小規模事業者で、量産工場ではなく試作品の精度を追究する町工場として出発した。1990年代に入社した4代目の渡邉裕二社長によれば、片山一郎氏は社長就任後も社長室に設計机を置いて現場感覚を保ち続けたという[3]。創業者が経営者ではなく技術者として現場に身を置く流儀は、長く同社の文化として継承された。
1970年3月、同社は本社工場を新設してPCBドリル(プリント配線板用超硬ドリル)の生産を開始した[4]。1960年の試作研究から10年を経て、量産体制が立ち上がった節目にあたる。1970年代は日本の電子機器産業が量産化を本格化させた時期で、テレビ・ラジオ・電卓・電子計算機などの基板生産が立ち上がり、基板へ穴をあけるためのPCBドリルの需要が拡大していた局面である。1971年4月には工作機械製造部門を設けて「ドリルポインター」(刃先研磨機)の生産を開始し、ドリルの製造装置を内製する体制を整えた[5]。同年5月、商号を「株式会社ユニオン化学研究所」から「ユニオンツール株式会社」へ変更し、PCBドリルの本格生産を始めた[6]。社名変更は研究主体の試作組織から工具メーカーへの転換を制度として確認した節目である。
1976年長岡進出と1979年本格移転、生産拠点の新潟県集約
1976年12月、ユニオンツールは新潟県長岡市妙見町に工場を設置し、「ローラーガイド」(直線運動軸受の構成部品)の専用工場とした[7]。長岡進出のきっかけは、創業者の片山一郎氏が知人からの誘いで長岡での仕事を始めたことに遡る[8]。長岡市は江戸期から鋳造・板金・工作機械の集積地として知られ、東京と大阪の中間に位置する立地条件、雪国の人材気質、地域内での部品調達網の存在といった条件が、内製主体の精密工具メーカーにとって有利に働く土地柄であった。1979年7月には新潟県長岡市摂田屋町に長岡工場を新設移転し、東京の本社工場機能の一部を新潟へ移した[9]。
長岡集約は単発の工場移転にとどまらず、その後20年にわたる拠点整備を新潟県内で連鎖させた。1985年1月には長岡市長岡南部工業団地内に長岡工場第二工場を新設、1988年12月には熱処理棟、1991年4月には第三工場、1997年11月には第四工場、2001年8月には第五工場と、PCBドリル需要の拡大に応じて新潟県内で生産能力を増強した[10][11]。創業者の片山一郎氏は長岡工場を訪問するたびに技術者を集めて直接指示を出す姿勢を貫き、現場での直接対話を通じた改良の積み重ねが60年にわたる成長を支える基盤となった[12]。設備の内製と量産技術の蓄積が長岡で進み、PCBドリル製造に必要な精密加工技術と熱処理・コーティング技術が同地に集約された。
1981年米国合弁から1995年100%子会社化までの海外展開と1989年店頭登録
1981年3月、ユニオンツールは米国カリフォルニア州に合弁会社「MEGATOOL INC.」(現「U.S. UNION TOOL, INC.」)を設立し、PCBドリルの現地生産を開始した[13]。1985年3月には台湾に子会社「台湾佑能工具股份有限公司」を設立、PCBドリルの現地生産を開始した[14]。1989年6月には日本証券業協会の店頭登録銘柄として登録され、資本市場での認知も得た[15]。同年6月、ヨーロッパにおける販売会社の資本関係再編成に伴い、スイス子会社「UNION TOOL EUROPE S.A.」を設立し、欧州拠点も整えた[16]。
1990年代前半、世界のプリント基板産業はパソコン・移動体通信機器の需要拡大で量産規模が急成長した。1994年10月、ユニオンツールはMEGATOOL INC.の株式を取得して子会社化、1995年4月にはMEGATOOL INC.とUNION TOOL EUROPE S.A.の株式を取得して100%子会社化、同年12月には中国に子会社「佑能工具(上海)有限公司」を設立した[17][18][19]。1981年の合弁形態で始まった海外展開は10年余で完全子会社による直接展開体制へ移行し、米国・台湾・スイス・中国の4極での生産・販売体制が整った。海外拠点は当初PCBドリルの現地生産を担ったが、1990年代後半以降は国内(長岡)に生産機能を集約し、海外拠点は販売・サービス中心へ移行する流れが定着した。
1996年〜2014年 東証上場とPCBドリル世界トップシェア、長岡集約の完成
1996年東証二部上場と1998年一部指定、片山貴雄社長の体制での量産投資
1996年1月、ユニオンツールは東京都品川区南大井四丁目に本社事務所を移設し、同年2月には同所を本店所在地とした[20]。設立から36年を経て東京の本社機能を再整備した。1996年3月には静岡県駿東郡長泉町に三島研究所を開設し、新製品開発の研究機能を本社・長岡の生産拠点とは別の地に置く体制を整えた[21]。1996年9月、ユニオンツールは東京証券取引所市場第二部に株式を上場し、1989年の店頭登録から7年で上場会社へ移行した[22]。1997年8月には台湾佑能工具股份有限公司の株式を取得して100%子会社化、1997年11月に長岡工場第四工場を新設し、量産投資を継続した[23]。1998年2月には香港に「UNION TOOL HONG KONG LTD.」を設立、同年5月には東京証券取引所市場第一部への上場を果たした[24]。
1996年の社長就任から2014年2月まで約18年にわたり同社を率いた2代目社長の片山貴雄社長は、創業者である父親から事業を引き継いだ後、生産技術力と内製設備への投資を経営の柱に据えた[25]。片山貴雄社長は社長就任後の15年間で優秀な技術者の確保を最重点に置き、社員2人ほどを常に大学の研究室に通わせて修士・博士レベルの思考を身に付けさせる方針をとった[26]。技術者育成と内製設備の投資という方針が、PCBドリルの量産規模拡大と精度向上を両立させる経営判断の中核であった。1953年生まれの片山貴雄社長は1976年東京理科大学工学部卒業、1979年にユニオンツール入社というキャリアで、技術畑出身の経営者として現場感覚を保ちながらPCBドリルの世界トップシェア確立期を主導した[27]。
1999年UTドライ・2009年ULFコート ── PCBドリルと並ぶ超硬エンドミルへの事業拡張
1999年7月、ユニオンツールは超硬エンドミル「UTドライ」を開発し、生産を開始した[28]。エンドミルは穴をあけるPCBドリルとは異なり、金属表面を3次元形状に削り出す工具で、自動車・金型・電子機器の精密加工市場で需要が拡大していた製品分野である。ユニオンツールはPCBドリルで蓄積した超硬合金加工技術とコーティング技術を転用し、エンドミル事業を第二の柱として育てる方針を1990年代末から開始した。2000年5月にはシンガポールに子会社「UNION TOOL SINGAPORE PTE LTD.」を設立、2001年8月には長岡工場第五工場を新設し、PCBドリルとエンドミルの両事業のための生産能力を増強した[29][30]。
2002年11月には中国に「東莞佑能工具有限公司」、2003年4月にはさらに中国に「優能工具(上海)有限公司」を設立し、中国市場におけるPCBドリル販売・サービス網を強化した[31]。2005年9月にはU.S. UNION TOOL, INC.のPCBドリル現地生産を中止し、北米市場向けの供給を国内(長岡)からの輸出に切り替えた[32]。海外現地生産から国内集約への切り替えは、長岡で培った内製設備による生産技術力を一極で運用する方が品質安定と原価低減の両面で有利という経営判断であった。2006年10月には新潟県中部産業団地内に見附工場を開設し、長岡市外でも生産拠点を持つ体制を整えた[33]。2008年2月には長岡工場内に子会社「ユニオンエンジニアリング株式会社」を設立し、生産設備の設計・製造機能を子会社化した[34]。
リーマンショック前後の2007年〜2008年に同社の業績はピークを打ち、FY07(2007年11月期)に売上高30,354百万円・純利益5,651百万円、FY08(2008年11月期)に売上高29,366百万円を計上したが、FY09(2009年11月期)には世界の電子機器設備投資の急減で売上高16,353百万円・純利益164百万円と前年比でほぼ半減に近い水準まで落ち込んだ。電子機器産業の景気循環がPCBドリル需要に直結し、2年で売上が半減するほど業績を振らせる構造はこの時期に表面化した。2009年6月、同社は「ULFコートドリル」および「新接合ドリル」を開発・生産開始し、PCBドリル製品の差別化を強化した[35]。ULFは「DLC(ダイヤモンド・ライク・カーボン)コーティング」を改良した薄膜技術で、工具の長寿命化と穴品質改善、高アスペクト比加工を実現する技術として位置付けられた。2011年11月には東京都品川区南大井六丁目に本店を移転、2012年5月にはダイヤモンドコーティングエンドミル「UDCシリーズ」を開発し生産を開始した[36]。UDCシリーズは超硬合金などの高硬度材の加工を、従来の研削・放電加工ではなく切削加工で可能にする技術として業界内で評価を得た。2012年6月には本社内に子会社「ユニオンビジネスサービス株式会社」を設立し、グループ内の事務・管理機能を子会社化した[37]。リーマンショックからの業績回復はFY13(2013年11月期)売上高18,247百万円、FY14(2014年11月期)売上高20,679百万円と進み、PCBドリル中心の事業構造のなかで景気変動の振幅を緩める製品ミックスへの移行が始まった。
2015年〜2025年 エンドミル事業の本格拡張と新潟県内三工場体制の完成
2014年大平博社長就任とエンドミル事業拡張、2017年保育所「ゆにおんの杜」開設
2014年2月25日、片山貴雄社長は会長へ移り、3代目社長として大平博社長が就任した[38]。1980年新潟大学工学部卒業、1989年ユニオンツール入社、2011年執行役員、2012年取締役、2013年常務という経歴を経ての社長就任で、新潟県出身・新潟大卒という長岡拠点との縁の深い経営者であった[39]。大平社長の体制では決算期を11月から12月に変更し(FY15は2015年12月期で13ヶ月決算)、PCBドリル中心の事業構造からエンドミル事業の本格拡張への移行を進めた。
2016年12月、ユニオンツールは新潟県見附市中部産業団地内に見附第二工場を新設した[40]。2006年の見附工場開設に続く新潟県内の生産拠点拡張で、PCBドリルとは別ライン体制でエンドミル増産に対応する体制を整えた。2017年4月には長岡工場の敷地内に地域開放型の事業所内保育所「ゆにおんの杜 南陽保育園」を開設し、社員の子だけでなく地域の子どもも受け入れる保育施設として運営を始めた[41]。女性が活躍できる環境づくりへの貢献を目的に掲げた施策で、長岡を本拠とする精密工具メーカーが地域社会との関係を強化する一環でもあった。2017年12月にはタイに子会社「UNION TOOL (THAILAND) CO., LTD.」を設立し、東南アジアでの販売・サービス拠点も整えた[42]。
2021年5月、ユニオンツールは超硬エンドミル「Vシリーズ」を開発し生産を開始した[43]。エンドミル新製品の継続投入で、PCBドリル一本足の事業構造からPCBドリル+エンドミルの二本柱体制への移行が進んだ。2022年4月には東京証券取引所の市場区分見直しにより、市場第一部からプライム市場へ移行した[44]。FY22(2022年12月期)の連結売上高は29,091百万円・純利益4,996百万円と、リーマンショック前のピークを超える水準まで業績は回復した。FY22時点で同社の事業構成はPCBドリルが約7割、エンドミルが約2割を占める割合で、PCBドリルの世界トップシェアを維持しながらエンドミル比率の拡大を進める方針が定着した[45]。
2024年見附第三工場と2025年渡邉裕二社長の体制でのエンドミル拡張
2024年5月、ユニオンツールは新潟県見附市中部産業団地内に見附第三工場を新設した[46]。同工場は超硬エンドミル増産を主目的とした拠点で、PCBドリル中心の長岡工場群とは別ラインでエンドミル世界市場の拡販に対応する設計となった。渡邉社長はエンドミルの世界市場規模がPCBドリルを上回ると見て、PCBドリルの成長速度を超えるペースでエンドミル売上を伸ばす計画を掲げ、PCBドリル維持を前提に、PCBドリルより市場規模の広いエンドミルでのシェア獲得を成長戦略の主軸に据えた。FY24(2024年12月期)の連結売上高は32,606百万円・純利益5,283百万円、FY25(2025年12月期)には売上高40,165百万円・純利益6,114百万円と、見附第三工場の稼働開始とエンドミル拡販で過去最高水準に達した。
2025年3月、大平社長は退任し、4代目社長として渡邉裕二社長が就任した[47]。1968年新潟県長岡市生まれ、長岡工業高等専門学校から長岡技術科学大学大学院修士課程修了後の1992年にユニオンツール入社、技術畑一筋でケミカルエッチング部署・直動機器部門・米国法人駐在を経て、2017年技術本部工具技術部長、2020年執行役員技術本部長、2021年取締役という経歴を歩んだ生え抜きの技術者である[48]。渡邉社長は、メーカーの競争力の根幹を生産技術力に置き、設備を含めた生産技術力で競合他社と差別化するうえで内製の利点があるとの立場を示し、創業者の片山一郎氏以来の内製設備による生産技術力の重視を経営方針として明示した[49]。渡邉社長は同時に、製品を作る能力に比べて売る力が弱く「良い物を作れば売れる」という意識が組織内に残ること、コモディティ化が進む工具では企画段階で訴求点を定める必要があることを率直に指摘し、技術一辺倒の組織文化の課題を浮き彫りにした。差別化の困難さについても、競合の中国メーカーは工具の形状を見て簡単に模倣できるため、差別化の源泉は最終的に生産設備と生産技術力にしかなく、見た目が同じでも中身の異なる製品を作り続ける必要があるとの見立てを示し、内製設備という見えにくい競争優位を継続して磨き続ける方針を明示した。海外売上比率は2010年代の50%程度から、円安進行とエンドミル展開で2025年時点では70%を超え、北米・欧州というPCBドリルより市場規模の大きい地域での売上拡大が今後の成長機会となる構造である[50]。
1960年に東京の町工場で創業者の片山一郎氏が設立したユニオン化学研究所は、PCBドリルの開発成功と長岡集約による生産技術力の蓄積を経て、世界シェア上位のニッチトップ企業として65年の歴史を歩んだ[51]。PCBドリル世界シェアの維持、見附第三工場を起点とするエンドミル事業のグローバル拡張、内製設備と生産技術力を競争優位の中核に据える経営判断、これらを束ねるのが渡邉裕二社長の体制でのユニオンツールに残った経営課題である[52]。