1959年4月に焼結金属工業株式会社(現・SMC)を東京都千代田区にて設立。創業者は東京タングステン株式会社に勤務していた大村進氏であり「ステンレス・ブロンズの焼結理論」を研究していた技術者でもあった。
祖業は、空気圧機器向けに、空気中に含まれるゴミを除去した上で綺麗な空気を送り込むためのフィルター部品の製造を開始した。このフィルターの原料には「焼結濾過体」を活用しており、大村進氏が研究していた焼結理論が活用された。
続いて、創業翌年の1960年には空気圧機器の製造に参入し、部品から完成品へと事業領域を拡大。空気圧機器は、化学プラント・自動車・工作機械などの生産設備における自動化ソリューション(主に出し入れの制御)の1つであり、工場内のオートメーションの進行とともに引き合いが増大した。空気圧制御の機器は、それほど精密な制御は必要とされず、導入コストも安いことが他の自動化機器(機械制御・油圧制御)と比較されたときの優位性であった。
そこで、焼結金属工業では、創業期から「顧客工場における人件費削減」を付加価値とした空気圧機器の開発・製造・販売に従事。1988年の株式上場の時点で、売上高のうち90%が空気圧に関する製品によって構成された。
空気圧制御機器の完成品は「圧縮空気作成」「除湿」「圧力調整」「方向制御」の各フローを経ることによって制御を実現しており、それぞれにおいて「コンプレッサー」「圧縮空気浄化機器」「空気圧補助機器」「シリンダー」を必要とした。
このうち、SMCでは、1960年の時点では「空気圧補助機器」のみの製造であったが、1971年までにコンプレッサーを除くすべての主要部品(圧縮空気浄化機器、シリンダー)の生産を開始。空気圧制御機器に関する主要機構を内製化し、空気圧機器の総合メーカーを志向した。
当社は昭和34年4月、焼結金属フィルターの製造・販売を目的に、東京都千代田区に設立された焼結金属工業株式会社として発足したが、この製品は空気圧機器の中のゴミを取り除く濾過体ということで、以後、空気とのつながりが強くなった。
翌35年には空気圧機器の分野に進出。当初は重化学工業用のプロセス・オートメーションが主力だったが、その頃から自動車・工作機械などの加工産業で人手不足からオートメ化が進み、これに伴って空気圧制御機器が取り入れるようになってきた時代の要請に対応し、当社は36年以降一貫して空気圧制御機器の品種拡大を図っていた。
大阪営業所の新設を手始めに営業網を強化。1963年4月には名古屋営業所(管轄中部・東海・北陸地区)、1977年には広島営業所(管轄は中国・四国地方)を新設して主要な工場地帯をカバー。この結果、1988年時点で、全国5営業所・38出張所・約97者の代理店を組織することで、工場向けの空気圧機器の販売網を形成した。なお、営業所が出張所をコントロールする体制によって、営業所単位でPLの結果責任を背負った。
代理店経由の販売も認めたが、「営業所のパートナー」という位置付けで直接販売を優先する営業体制をとった。
また、代理店の在庫保有を禁止。理由は推定だが、空気圧制御機器は品目数が多く(約24万点)、流通経路内における在庫管理が難しいことから、在庫管理はSMCの本社が受け持つ形をとったと思われる。
(注:SMCのホロン経営とは)会社の組織を小さなグループに分け、それぞれが独自に、自立した仕事をしていくという仕組です。(略)例えば、伝票1つとっても、製品が30万品目に及んでいるのですから、これを組織的に処理するのは困難です。それで、ユーザーとその部署をダイレクトに結び、その部署で処理したほうがいいということもあったわけです。営業では、もう何年も前から、4営業所体制を15営業所体制にして、その下に地域の出張所をつけ、それぞれのグループで自主的にやってもらっています。
空気圧機器における技術的な差別化は難しい一方で、顧客の生産ラインに影響するクリティカルな製品であった。さまざま業種の自動化ニーズに応えるために数万〜数十万単位と品目数が多い特性もあった。このため、多品種を即納するニーズはあったものの、一筋縄では実現しない課題として存在した。
そこで、SMCでは、空気圧制御機器の「製造・販売」を行うだけでなく、製造と販売を一体化することによって、顧客に対して「即納」という付加価値を提供する方向姿勢を見出した。
1968年にSMCは草加に工場を新設したのを皮切りに、1980年代までに「草加・筑波」などの関東圏に工場を新設。そして、最終製品として加工される「5000種類の基本形」を在庫として工場で保持。
営業所からの受注がFAXで届き次第、工場で在庫を加工して数10万〜30万種類に及ぶ最終製品の生産を実現した。この仕組みにより、受注から48時間以内に顧客に納入する体制を1983年までに整えた。
すなわち、SMCはBSにおいて在庫(棚卸資産)のリスクを背負いつつも、納期という付加価値を高めることで、PLにおける収益の確保を狙った。
なお、5000に及ぶ基本形の在庫をどのように保管するかにSMCにおけるノウハウが存在。1992年の時点で、社内の数名の社員(数学専攻者)が統計学を活用して需要予測をたて、SMCで保持すべき在庫を決定する体制をとった。
即納の付加価値を訴求するために、1983年の時点でSMCはオンライン(ファックス)による受発注の体制を構築。生産・販売・流通をすべてコンピュータで管理し、営業所の発注・出荷データを工場に連携し、在庫状況を勘案して生産を実施する仕組みを構築した。
この結果、受注から納入までの平均時間として48時間を実現し、SMCは即納を行う空気圧機器メーカーとして認知された。
私は、なにか事をなす時には、前もって準備しておかなければ、それはできかねると思っているんですがね、会社の仕組みも同じで、いくら売れるだろうと予想が立てば、その製品をつくる能力を備えておくために、前もって投資をする、ということです。実際にそのようにしてきましたが、そのへんは成功してきたと思います。私どもでは競合相手に比べて設備投資が先行していた。その面では非常に有利だったですね。
その予測も、科学的に行こうという方向を取ったのが良かったんだと思います。うちには、そういうことを管理している部署がありましてね。4、5人いるんですが、みな数学専攻のもので、数理統計学などを使って、予測を確かなものにしていくわけです。非常に的確に予測しましてね。ですから、その予測をもとに確信を持つ準備ができました。
1977年3月期に売上高106億円(税引後利益3.5億円・従業員数約1000名)を計上して100億円を突破した。1973年のオイルショックによって設備投資がストップしたため一時的に売上成長が低迷したが、1976年ごろから国内製造業における設備投資が再開され、自動化へのニーズが高まったことでSMCの売り上げも拡大した。
1979年時点における顧客は「トヨタ自動車・デンソー・日立製作所・富士電機・千代田化工」など。特にトヨタ系企業向けには、愛知県に豊田出張所を設置してきめ細やかに対応することで、継続的に受注を獲得したと推定される。
1989年の社長就任から1999年(退任時93歳)に至るまで代表取締役(社長・会長)を歴任。高田氏はSMSの創業期から専務として、同社の発展に寄与した。以後、高田社長は約30年超にわたりトップダウンでSMCの経営に従事
円高ドル安の進行を受けて、SMCは海外生産比率の向上を急いだ。10%の目標を設定し、米国・中国における現地法人を通じた工場増設を決定
北京で6万坪の用地を確保。合弁会社SMC北京製造を通じて、中国における空気圧制御機器の製造を本格化