2025/3 売上高40,849億円
2025/3 営業利益2,712億円
2025/3 従業員-
創業1926年
創業地愛知県刈谷町
創業者豊田佐吉

豊田自動織機は1926年に豊田佐吉がG型自動織機の製造を目的に設立した。1933年に社内に自動車部を新設してトヨタ自動車の源流となり、戦後はフォークリフト・カーエアコン用コンプレッサーに多角化した。トヨタ自動車向けの受託生産が売上の過半を占める構造が半世紀以上にわたって定着し、フォークリフトで世界首位を確保する一方、2017年のVanderlande買収で物流ソリューション事業にも進出した。社名に「織機」を残しながら実態は物流・自動車の企業である。

歴史概略

第1期: 織機メーカーから自動車事業の創出(1926〜1950)

豊田佐吉の発明と企業化

豊田佐吉は1890年に木製人力織機の特許を取得して以来、30年以上にわたり織機の発明に取り組んだ。共同出資形態で設立した会社から繰り返し退く挫折を経て、1918年に独立資本で豊田紡織を設立し、試験工場の自前化でG型織機の実用化に成功した。1926年11月に豊田紡織の子会社として豊田自動織機製作所を愛知県刈谷町に設立した。

G型織機は英プラット社に特許実施権を供与するほどの技術水準を持っていた。その特許収入を原資に、後継者の豊田喜一郎が国産乗用車の量産を構想し、1933年に社内に自動車部を新設した。1937年に自動車部をトヨタ自動車工業として分離し、織機メーカーの社内プロジェクトとして始まった自動車事業はわずか4年で独立企業となった。

豊田自動織機40年史

自動車部の分離とトヨタグループの起点

自動車部の分離にあたっては、軍用トラックの量産に伴う設備投資リスクを本体から切り離す必要があったこと、そして豊田家が自動車製造の利益を一族で独占しない意図があったことが背景にある。1937年8月の分離時、社長の豊田利三郎は豊田紡織や織機の利益を惜しみなく自動車事業に投入していた。

戦時体制で織機生産は停止され、軍需品の製造にシフトした。終戦後は織機・紡機の生産を再開し、1949年に東京証券取引所に上場したが、朝鮮特需の終焉で繊維機械の需要は長期低迷に転じた。豊田自動織機は創業の祖業が構造的な不振に陥る中で、次の事業を模索する局面を迎えた。

豊田自動織機40年史

第2期: 多角化とトヨタ依存構造の固定化(1952〜2000)

トヨタ向けOEMとフォークリフトへの転換

豊田自動織機とトヨタ自動車の社長を兼任していた石田退三は、繊維機械の長期低迷で約1600名の余剰人員が見込まれる中、人員削減ではなくトヨタ向けOEM生産で雇用を維持する道を選んだ。1952年にS型エンジンの製造を開始し、1953年に共和工場を新設して車両組立にも参入した。並行して1956年にフォークリフトの生産を開始し、トヨタ自販の販路を活用して1960年代に国内シェア1位を確保した。

一方、同じS型エンジンの転用で1957年に参入した農機は、ヤンマーやクボタが押さえる農村販路を構築できず1969年に撤退した。販路の有無が2事業の明暗を分けた。フォークリフトは1977年に国内シェア38%に達し、繊維機械に代わる自社製品の柱となった。

有価証券報告書 沿革

長草工場の新設と受託生産の拡大

1967年に愛知県大府市に長草工場を新設し、トヨタ自動車の大衆車の委託生産を拡大した。1978年にスターレット、1987年にはスプリンター、さらにカムリの生産を受託し、売上高の50%以上がトヨタ向けの構造が定着した。1987年のスプリンター受託は、プラザ合意後の円高不況で業績が低迷する中でトヨタに経営支援を要請した結果であった。

カーエアコン用コンプレッサーの量産も1960年から開始し、デンソー向けの部品供給を拡充した。1982年にはエンジン専門の碧南工場を新設するなど、トヨタグループ向けの生産基盤を拡充し続けた。織機メーカーとしての創業時の姿は薄れ、フォークリフトと自動車OEMを主力とする企業への転換が完了した。

有価証券報告書 沿革

第3期: 物流ソリューションとガバナンスの課題(2000〜現在)

Vanderlande買収と物流事業のグローバル化

2016年に独キオンがデマティック社を買収し、フォークリフトと物流システムの統合提案が可能になったことで豊田自動織機に危機感が生まれた。2017年にバスティアン社と約1400億円でVanderlande社を連続買収し、物流ソリューション事業で世界4位に浮上した。eコマースの拡大が物流自動化の需要を押し上げる中、フォークリフト単品からシステム提案へと業界構造が変化しつつあった。

Vanderlande社は空港手荷物処理システムや小売物流に強みを持ち、50拠点・約4500名の体制でグローバルに展開していた。2017年3月期時点で繊維機械の売上高比率は2.9%にまで縮小しており、社名に「織機」を残しながら実態は物流・自動車の企業であるという乖離が数字の上でも明確になった。

有価証券報告書 沿革

エリオットの株主提案と親子構造への問い

2025年6月にトヨタ自動車が豊田自動織機に対するTOBを1株16300円で予告した。米エリオット・マネジメントは保有比率を7%超まで積み増し、TOB価格がNAVに対して過小であると主張した。エリオットの指摘の核心は、豊田自動織機の自動車事業のROICが平均2.3%と資本コストを下回り、トヨタとの非対称な価格交渉が企業価値を毀損しているという点であった。

2024年3月期の連結売上高は4兆849億円・当期純利益2712億円であった。エリオットは持合い株式の全面解消と自動車事業への投資規律是正により、2028年3月までにNAVが1株4万円超に達すると試算した。1950年代の雇用維持策として始まったトヨタ向けOEMが半世紀以上にわたって固定化してきた構造に、資本市場から初めて正面から異議が申し立てられた。

有価証券報告書 沿革Reuters 2026/2/3

重要な意思決定

192611
株式会社豊田自動織機製作所を設立

豊田佐吉氏は織機の発明家として卓越していたが、共同出資形態による企業化では経営権を維持できず、設立した会社から繰り返し退いた。1918年に独立資本で豊田紡織を設立し、試験工場を自前で持つことでG型織機の実用化に成功、1926年に豊田自動織機の設立に至った。技術の優位と事業の成立は別の問題であり、資本政策の設計が企業の存続を規定することを、佐吉氏の30年以上にわたる試行錯誤が示している。

19339
自動車部を新設(トヨタ自動車の創業)

豊田自動織機の自動車参入は、G型織機の特許収入と織機事業の利益を原資とした社内プロジェクトとして始まった。喜一郎氏の極秘研究と利三郎氏の資金調達という役割分担のもと開発が進み、戦時体制下の自動車製造事業法を契機に会社分離に至った。既存事業の利益を新規事業の原資とする構造と、事業リスクの分離という判断が、トヨタ自動車の誕生を規定した。

195212
トヨタ向け自動車エンジンの生産開始

朝鮮特需の終焉で繊維機械の需要が長期低迷し、約1,600名の余剰人員が見込まれた。石田退三社長は人員削減ではなく、トヨタ自動車向けの自動車部品・車両組立のOEM生産に参入することで雇用を維持する道を選んだ。繊維機械の人員を自動車に振り分けるという判断は、トヨタグループの企業間関係を前提として成立したものであり、織機メーカーから自動車関連メーカーへの構造転換の起点となった。

19563
新規事業による多角化

フォークリフトと農機という2つの新規事業は、いずれもS型エンジンの転用という同じ技術的基盤から出発した。しかし、フォークリフトはトヨタ自販の全国販路を活用できた一方、農機はヤンマー等が押さえる農村販路を独自に構築できなかった。技術の転用可能性だけでなく、販路へのアクセスが新規事業の成否を規定した事例であり、トヨタグループの企業間関係が豊田自動織機の多角化を可能にした構造を示している。

19675
長草工場を新設

モータリゼーションの進展に伴うトヨタ自動車の増産需要に応える形で長草工場を新設し、スターレットの委託生産を開始した。売上高の50%近くをトヨタ向け受託生産が占める構造が定着し、豊田自動織機の事業構造はトヨタ自動車の生産計画に連動する形に固定化された。

20175
Vanderlande Industries HDを買収

独キオンがデマティック社を買収しフォークリフトと物流システムの統合提案が可能になったことが、豊田自動織機の危機感を喚起した。バスティアン社とVanderlande社の連続買収で物流ソリューション世界4位に浮上し、フォークリフト単品からシステム提案への業界構造変化に対応した。eコマース拡大という市場の追い風と、競合の動きに対する防衛的な動機が重なったM&Aであった。

20261
エリオットの株主提案を否定

エリオットの提案が問うているのは、豊田自動織機の経営判断だけではない。トヨタグループという企業集団が、グループ全体の最適化を追求する過程で、個別企業の少数株主の利益をどこまで犠牲にしてよいのか、という構造的な問いである。自動車事業のROIC平均2.3%という数字は、豊田自動織機がトヨタの生産体制を支えるために資本コストを下回る投資を続けてきたことを示唆する。持合い株式の存在は、この構造を外部から見えにくくする装置として機能してきた。改定後TOBの18,800円とNAV40,000円超という乖離が示すのは、「グループの論理」と「資本市場の論理」の間に横たわる溝の深さである。

出所