豊田佐吉氏は明治時代を通じて織機の発明に携わってきた。1890年に「木製人力織機」を発明したのを皮切りに織機の開発を本格化させ、生涯を通じて織機の国産化に従事した。
特に、1924年に開発した「無停止杼換式豊田自動織機(G型)」は、運転中に「よこ糸」を自動補給する機構を持っており、工場の生産性を高めるため、画期的な織機として市場に受け入れられた。このG型織機の発明が「豊田自動織機」の設立に至る大きな理由となっている。
豊田佐吉氏は発明家としては順調に織機を開発してきた一方で、経営者としては苦難の道を歩んだ。
豊田佐吉氏が1918年に「豊田紡織」を設立する前にも複数の企業を設立したが、いずれも他人資本を入れた共同出資(佐吉氏はマジョリティーでの出資は行わなかったと推察)の形態をとっていた。このため、経営状態が悪化すると、豊田佐吉氏は責任をとって辞任することを何度も繰り返しており、結果として「豊田佐吉氏が発明した織機」を取り扱う企業が複数生まれてしまった。
1892年に東京台東区にて創業した工場、1889年に三井物産と共同で事業化した「織機製造会社」、1907年に共同出資で設立した「豊田式織機(現:豊和工業)」など、いずれも経営不振の責任をとって豊田佐吉氏は辞任している。
このため、豊田佐吉氏は共同出資形態による資本政策に翻弄される時期が長く続いた。
1918年に豊田佐吉氏は独立資本による繊維工場(紡織)として「豊田紡織」を設立した。自ら出資することで経営権を握り、経営から追い出されない資本形態をとった。
豊田紡織の設立の狙いは、織機量産のための試験工場の稼働にあった。豊田佐吉氏は自動織機の開発を続けていたが、実際に量産工場で稼働した際の試験を行う必要があると考え、自らが紡織の経営に携わることにした。
この過程で、1924年に「無停止杼換式豊田自動織機(G型)」を発明し、量産工場における実用化に目処が立ったため、織機の製造を行う別法人の設立を検討した。
| 日時 | 経歴 | 備考 |
| 1885 | 生まれ | |
| 1891 | 豊田式木製人力織機を発明 | |
| 1892 | 織布工場を開業(東京都台東区千束) | 業績不振で開業後1年で閉鎖 |
| 1891 | 豊田式糸繰返機を発明 | |
| 1896 | 豊田式木鉄混製動力織機を発明 | 日本初の動力織機を開発 |
| 1899 | 三井物産と共同で織機製造会社を設立 | 不況により佐吉氏は辞任へ |
| 1903 | 豊田式鉄製自動織機を発明(T型) | |
| 1907 | 豊田式織機を設立(現:豊和工業) | 三井物産の勧めで設立するも不況で辞任へ |
| 1911 | 豊田自動織布工場 | 独立資本で会社設立 |
1926年に「豊田自動織機」を設立し、織機の量産を開始した。設立と同時に、豊田紡織の子会社として「豊田自動織機」が設立される形となった。
工場の新設にあたっては、豊田紡織が工場を設けていた愛知県刈谷市(当時の刈谷町)を選定した。当時の刈谷町長であった大野一造氏(トヨタ生産方式で著名な大野耐一氏の実父)が地域雇用を生み出すという考えで、率先して豊田紡織の工場誘致を実施した。この経緯から、トヨタグループと刈谷町長は懇意となり、刈谷周辺(西三河地区)に工場を新設させることになった。
豊田自動織機は「G型」の量産に着手したことで、設立直後から売上を拡大。特に、織機の技術が世界的に見ても優れたものであったため、繊維産業の本場であったイギリスのプラット社に対して、特許実施権の付与を行なっている。
豊田佐吉氏の後継者であった豊田喜一郎氏は、国内で普及しつつあった乗用車に着眼。1930年前後の自動車は輸入車が中心であり、国産の大衆乗用車メーカーが存在しなかったため、豊田喜一郎氏は乗用車の量産を目標に自動車事業に参入することを決めた。
1937年に豊田自動織機の自動車部を独立する形で「トヨタ自動車工業」を設立した。会社分離をした理由は、主に陸軍向けの軍需トラックの生産工場に指定(自動車製造事業法)されたことにある。
当時は戦時体制に入りつつあり、自動車製造に関しては自動車製造事業法による許可制となった。このため、豊田自動織機の自動車部門(トヨタ自動車)が業界再編に巻き込まれずに単独で存続する保証がなく、自動車事業の分離を決定したものと推察される。
また、軍用トラックの量産にあたっては、量産工場の建設に設備投資が必要であったことから、財務リスクを別会社として担う必要があったことや、豊田家が自動車製造を国家的事業とみなして「その利益を一族で独占する」ことを避けたことが会社分離の理由であった。
乗用車の研究開発には莫大な費用が必要であり、これらを織機・紡機によって捻出された利益を充当することで、自動車に対する研究開発費用に割り当てた。特に、1929年に豊田自動織機が英プラット社に対して譲渡した特許による利益により、自動車開発が一段と加速したと言われている。
機が熟するまでは、この意図が外部に漏れることの無いよう、最新の注意が払われ、自動車に関する調査研究は、全て喜一郎の個人的研究として、工場の片隅で極秘に進められた。また自動車事業に必要な量産技術・精密技術は、紡織機製作にはぜいたくと思われるものであっても、出来る限りこれを取り入れて、密かにその要請が図られた。たまたま1929年12月には、自動織機の特許を英国プラット社に譲渡する契約が結ばれ、その譲渡代金が喜一郎の手に入り、研究資金も豊富になったので、この頃から急速に研究が進んだ。(略)
こうした喜一郎の決断も、社長豊田利三郎の支持に負うところが大きかったことは言うまでもない。自動車事業が必要とする膨大な資金の調達は、すべて利三郎があたり、当社の社長としてはもちろん、豊田紡合う類は豊田紡織廠の社長として、それぞれの会社で得た利益の多くを、自動車事業のために惜しみなく投入したのである。
戦時体制により織機生産を停止。軍需生産にシフト
終戦後に豊田自動織機は「織機・紡機」の生産を再開し、繊維機械メーカーとして戦後復興した。特に、1950年に勃発した「朝鮮戦争」による特需景気により、繊維業界における設備投資が公共となったことで、豊田自動織機の繊維機械に対する引き合いが強まり好業績を記録した。
ところが、繊維業界は景気変動に左右されやすく、朝鮮特需が終焉すると再び繊維機械(織機・紡機)の需要が低迷。豊田自動織機の業績が低迷したため、繊維機械に頼らない事業を創ることが至上命題となった。
1958年に豊田自動織機は、織機・紡機の生産拠点であった「栄生工場」の閉鎖を決定。これにより繊維機械の製造は本社である「刈谷工場」に集約する形となった。
豊田自動織機とトヨタ自動車の社長を兼任していた石田退三氏は、1950年代前半の時点で、繊維機械の需要が長期的に低迷すると洞察した。その上で問題になったのが、紡機・織機の生産に従事する従業員のうち、約1600名が余剰人員になる可能性があったことであった。
そこで、石田退三社長は人員削減ではなく、トヨタ自動車からの「自動車部品・車両組立」の下請け生産に参入することで、雇用問題を解決することを検討した。当時は自動車の需要が増大しつつあったが、トヨタ自動車だけでは増産に対応できず、豊田自動織機が下請けとして自動車関連製品をOEMとして生産することが立案された。
1952年12月に豊田自動織機は、トヨタ自動車向けの自動車部品「S型エンジンの製造」に参入した。約1年後の1953年10月には車両組立に参入した。
豊田自動織機は繊維機械で余剰になった人員を「自動車」に振り分けることで、繊維機械(紡機・織機)では原価低減を図るとともに、自動車関連品の下請け生産で雇用を維持することを目論んだ。
生産拠点として、1953年に名機製作所の大府工場を買収して「共和工場(愛知県大府市)」として新設。トヨタ自動車の下請け生産の拠点として位置付けた。
1955年に豊田自動織機は「車両部」を組織として発足し、トヨタ自動車向け下請け生産を本格展開した。
織機の海外現地生産を開始するも採算が合わず。約5年で撤退へ
1956年頃から豊田自動織機は、繊維機械に次ぐ主力事業を模索するため、新規事業の推進を決めた。それまでの主力事業であった繊維機械は経済不況により需要が低迷しており、新規事業の推進によって余剰人員問題を解決する狙いがあった。
豊田自動織機がトヨタ自動車向けに生産していた「S型エンジン」を利用できるという点から、特殊車両の領域で新規事業が立案された。S型エンジンを産業車両に転用した新規事業として「フォークリフト」、同じくS型エンジンを農業車両に転用した新規事業として「耕うん機(トラクター)」の開発に着手するに至った。
1956年に豊田自動織機はフォークリフトに着目して生産を開始した。
参入の経緯は、トヨタ自動車の社内でフォークリフトを活用したことで、工場内の生産性が向上したことにあった。そこで、豊田自動織機は「豊田自動織機で培った鋳物の技術」を転用できることや、トヨタ自動車の下請け生産を通じて培った「エンジン製造」を活用できることを鑑みて、フォークリフトへの参入を決定した。
なお、フォークリフトの開発にあたっては、実際に試作車のフォークリフトをトヨタ自動車の工場で活用することで、現場のニーズに応える製品開発を行った。
フォークリフトの参入にあたって問題になったのが、全国をカバーする販路であった。豊田自動織機は「織機・紡機」が主力事業であり、産業車両向けの販路を持ち合わせていなかった。
そこで、フォークリフトの販売については、トヨタ自動車(自工)の販売会社「トヨタ自動車販売」に委託する方針を決めた。トヨタ自販はすでに全国に乗用車の販売のための販路を構築しており、この販路にフォークリフトを乗せることで市場開拓を目論んだ。
1957年10月に豊田自動織機は「耕うん機」の販売を開始。農業機械に新規参入した。
すでに、ヤンマー、久保田鉄工(クボタ)、井関農機、佐藤造機、小松製作所(コマツ)とった各社が参入しており、豊田自動織機は後発参入となった。
農機市場では、先発参入をしていたヤンマーが、全国の農村に販路を確保しており、後発企業からの防衛に成功した。このため、後発の豊田自動織機は農機の販売に苦戦した。
豊田自動織機の農機の売上高は低迷が続いたため、1969年に農機からの撤退を決めた。このため、新規事業のうち、フォークリフトは事業を軌道に乗せた一方、農機は撤退に至っており、明暗が分かれた。
新規事業の面では、1950年代後半を通じて「フォークリフト」で売上を拡大した。1960年代の時点で国内シェア1位を確保し、競合との競争で優位に立った。
下請け生産の面では、トヨタ自動車向けのエンジン製造・車両組立により売上を拡大。1960年代以降は、豊田自動織機の売上高の50%以上をトヨタ自動車向けの下請け生産が占める形となった。
この結果、1960年代を通じて豊田自動織機は「フォークリフト」「トヨタ自動車向け下請け生産」の拡大によって、売上高を増大した。この間、繊維機械(織機・紡機)の売上は低迷しており、これらの祖業の不振をカバーする形で新規事業を軌道にのせた。
1967年5月に豊田自動織機は自動車組み立て工場として「長草工場」を愛知県大府市に新設した。
1966年ごろから日本国内ではモータリゼーションが進展し、トヨタ自動車における大衆乗用車(カローラなど)の生産量が増大したことを受けて、豊田自動織機としても受託生産量を増加するために工場の新設を決定した。
1978年に豊田自動織機は、長草工場においてトヨタ自動車の車種「スターレット」の製造を開始した。以後、長草工場では乗用車生産ラインを「スターレット」向けとし、トヨタ自動車から委託された特定車種の生産に従事するようになった。
1970年代を通じて豊田自動織機は、トヨタ向けの自動車関連品の製造によって売上高を拡大した。売上規模としても全社対比で50%近くを受託生産が占めるようになり、豊田自動織機は「トヨタ自動車の下請け企業」としての特色を濃くした。
1970年に豊田自動織機は産業用車両(フォークリフトなど)の量産のために、高浜工場(愛知県高浜市)を新設した。エンジン以外の組み立て工程を中心に、高浜工場に生産を集約することで、生産効率の向上を目論んだ。
豊田自動織機はフォークリフトにおいて、国内シェア1位(1977年時点で・38%)を持続した。
1970年代を通じて豊田自動織機は、デンソー向けのカーエアコン部品(カーエアコン向けコンプレッサー)の量産体制を構築した。ラインは刈谷工場に設置し、需要が低迷する織機・紡機のラインを縮小する代わりに、カーエアコン部品の量産を本格化した。
豊田自動織機は1950年代にカーエアコン向けコンプレッサーに参入していたが、国内でカーエアコンが普及したのはデンソーが量産体制を敷いた1980年前後であった。よって、豊田自動織機もデンソーの量産体制の構築に合わせて設備投資を実施し、カーエアコンの市場拡大に対応した。
1970年代を通じて豊田自動織機は「カーエアコン向けコンプレッサー(販売先はデンソー)」の売上を拡大した。これにより、豊田自動織機は自動車事業において、トヨタ自動車向けの「乗用車委託生産」「エンジン生産」に加えて、デンソー向けの「カーエアコン用コンプレッサー」を主力事業として育てた。
エンジン工場専門を新設
1985年のプラザ合意によって円高ドル安が進行すると、日本国内における製造業が競争力を喪失。この結果、工場を中心に国内の設備投資がストップした。
このため、豊田自動織機の「織機・紡機」は国内販売で苦境に陥り、フォークリフトなどの産業用車両も同様に販売不振に陥った。
1987年に豊田自動織機はトヨタ自動車に対して経営支援を要請し、トヨタが販売する乗用車「スプリンター」の受託生産を決定した。長草工場に50億円を投資することで休眠中の1ラインを改修し、スプリンターの委託生産を開始した。また、1988年からは「カムリ」の生産も開始し、トヨタ向けの委託生産の拡充を図った。
産業用車両の現地生産を開始
産業用車両の現地生産を開始
委託生産
委託生産
リーマンショックによる需要減が影響
フォークリフト用アタッチメントを製造
2017年に豊田自動織機はVanderlande Industries HDを1446億円で買収した。オランダに本社を置くVanderlande社は物流ソリューション(小包・郵便向けの搬送・仕分け・ピッキングシステムなど)のサービスを提供しており、物流における事業拡大のために買収に踏み切った。
2017年以降、豊田自動織機は「産業用車両・物流」において売上高を拡大。ネット通販の普及より、グローバルで物流施設への投資が盛んに行われたことが追い風となった。
車載電池の量産