ディスコ(創業時の商号は第一製砥所)の創業者は、関家三男氏である。関家三男氏の息子たちもディスコの経営に従事し、2023年の現在に至るまで関家一族による同族経営を持続している。
広島県呉の海軍工廠に勤務していた関家三男氏が自営業を始めた。技術者ではなかったため、職人を採用し、工業用砥石のビジネスを開始した。広島県には呉を中心に軍需工場が集積していたため、主に海軍向けに砲弾を磨くための「工業砥石」の生産に従事した。ただし、後発参入だったため受注に苦戦したという。
1958年までのディスコは「有限会社」であり、中小企業だったと推察される。
終戦後に第一製砥所は、積算電力計の内部に使用する磁石の「切断砥石」の生産を開始。1.2mmの間隔で磁石を切断する技術を生み出し、従来の「磨く」から「切断する」へと領域を拡大。切断砥石でシェア100%を確保した。
大手万年筆メーカーだった「パイロット社」の依頼を受けて、0.14mm(140ミクロン)のレジノイド砥石を開発。万年筆向けの砥石で国内市場を独占し、ボールペンが普及するまではディスコの業績を支えた。
1965年になって、ある万年筆メーカーさんからの依頼で、ペン先の溝を切る砥石を開発しました。当時、共同開発とか開発費援助のお話も、いろいろなメーカーからあったらしいのですが、それはお断りしいて、当社独自で開発しました。それで、万年筆の筆ペン先を一手に切るようになったのです。
1970年代を通じてIC(集積回路)が普及し、シリコンウエハーを切断する「半導体切断機」の需要が増加。ディスコはダイシングソーを、TI(テキサスインスツルメンツ)、モトローラ、フェアチャイルドなどの世界的な半導体メーカーへの納入に成功する。
新規事業として推し進めていた「半導体拡散炉」から撤退し、50億円の損失を確定。加えて、半導体向けの需要が低迷したことから、ディスコは最終赤字に転落した。この結果、賃金カット、残業規制、早期退職制度の導入など、経費節減の施策を打ち出すなど苦しい状況に置かれた。
ディスコは社内における意思統一と、事業への投資領域を明確化するために「ディスコバリューズ」を制定。事業領域を「切る・削る・磨く」という分野に絞ることを決め、それ以外の新規事業への投資をストップした。加えて、経常利益に応じて社員が使える経費をコントロールする制度を導入し、ディスコの社員一人一人が利益を意識する仕組みづくりに邁進する。