アマダが飛躍するきっかけが、1950年代に独自開発した金属の切断機械(ハンドソー)である。だたし重要なのが、このような独自機械を開発する技術力を持ちながらも、販路形成を重視して投資を惜しまなかった点にある。
一般的に工作機械などを製造する産業財メーカーは、販路形成に疎いことが多い。これは技術力が差別要素になると仮定して「品質を高めることが販売促進に寄与する」という理屈に由来する。端的に言えば、技術が上、営業が下という序列であり、当然ながら営業への予算は相対的に少ない。
しかし、アマダの創業者である天田勇氏は、ハンドソーの顧客を「大企業から中小企業」まで幅広くカバーすることを目論み、技術的な差別要素ではなく、むしろ販路形成が鍵を握ると判断した。営業所を新設して代理店に依存しない販路を構築するとともに、資金力に乏しい中小企業の顧客には、分割払いを認めるなど、さまざまな販売施策を1960年代までに実施している。
当時は高度経済成長期の渦中にあり、産業財は「作れば売れる」時代であった。このため、工作機械業界や産業財のメーカーは、代理店に販売を任せるのが常識であり、アマダの販売政策は非常識な選択であった。
しかし、一見すると面倒な販路形成の先行投資を行ったことが、戦後に創業したアマダが「後発機械メーカー」でありながら、業界内で下剋上を果たした最大の要因となった。
優勝劣敗が鮮明になったのは1973年のオイルショックであり、この不況を機に技術に依存した機械メーカーが苦戦する一方、新興企業であるアマダは業容を拡大。1970年代を通じてアマダは、淀川プレス製作所、園池製作所、ワシノ機械といった、経営難に陥った上場企業を買収(出資を通じた経営支援)しており、業界再編の主導権を握った。これにより、技術と販売の両輪を持つことが、工作機械業界での経営の重要論点であったことが、実証された。
現在のアマダは保守・サービスに注力しているが、高度な技術力に驕らない芽は創業者の天田勇氏の経営に見出すことができ、同社の伝統と言って差し支えないだろう。
当時33歳であった天田勇氏は、終戦直後の1946年に機械工場を豊島区(高田南町)にて創業。創業資金は3,000円のみであり、軍需工場で使用されなくなった旋盤を1台導入し、親戚から焼け残りの長屋を借りて、機械の修理業に従事した。1948年6月には合資会社天田製作所を設立し、個人事業から法人となった。
創業経緯は、天田氏が機械工であったことに由来する。天田氏は小学校卒業後に機械修理工として奉公した経験があり、職人としてのキャリアを形成。戦時中は中国大陸にて従軍しており、終戦後に機械修理業で独立した。
創業時は機械の修理に従事しつつ、天田氏が某都議の選挙活動を手伝った縁で、東京都の水道局からバルブやコックゲートといった部品を受注した。ただし、機械屋であれば誰にでもできる仕事であり、継続受注には都議への接待が必要であったという。
1953年には増産のために、東京と中野区に移転。合資会社から株式会社に改組(株式会社天田製作所を設立)し、将来の発展に備えた。
この結果、1953年頃の天田製作所においては、売上高の50%以上が「東京都水道局向け」の製品販売で構成されていた。
ところが、1953年頃に東京と水道局における汚職が摘発され、天田製作所にも調査が入った。幸いにも天田製作所は摘発されなかったが、天田勇氏は「情けなさ」を感じ、役所向けの仕事から手を引くことを決めた。
創業時のアマダは機械を修理する個人事業であったが、義弟(天田勇氏の妻の実弟)で学生であった江守竜治氏(当時は東京商大に在籍・現在の一橋大)、実弟の天田力雄氏が参画し、天田家の兄弟が協力してアマダの経営にあたった。創業者の天田勇氏は技術に長けていたが、営業や集金業務などは江守氏が担当し、補完関係にあった。
1953年時点の従業員数は約30名であり、この時点では中小企業の規模感であった。
わたしも、一応の覚悟はした。汚職と呼ばれるほどのことはしていないつもりだったが、役人相手の仕事は、どこまでがつきあいで、どこから贈賄なのかわからない。いっしょに呑めば、業者が払うものと、むこうも決めているし、こっちもそのつもりでいる。会があれば酒を持って行くし、むこうもあてにしている。細かいことを叩けば、細かいとはいえほこりはでるにきまっている。みっともない話だが、帳簿をかかえてかくれるような、つまらないまねもした。なんでこんなことを、と思うとお役所相手の商売がつくづくいやになった。(略)
幸い何事もなくその一件は落着したが、それを契機に都庁の仕事から手を引いた。正直言って気持ちの上ではさばさばした。
だが、さばさばしたのは良かったが、総売り上げのうち、水道局の仕事が50パーセントを上廻っている。それを全部切ってしまうのだから大打撃である。現実の会社の経営は苦しくなった。修理の仕事は、ぼつぼつあったが、売り上げが半分以下になってしまったのだから、これから先のことを考えると、はなはだ心もとなかった。
天田勇氏は修理業や水道局向けの部品製造に従事していたものの、企業発展のためには独自製品を持つメーカーになるべきと考えていた。すでに先発メーカーが存在する領域は有望ではないと判断しており、未開拓な市場を探っていた。そして、知人からGHQがハンドソーを利用していることを聞き、月刊誌「アメリカン・マシナリ」に掲載された「ハンドソー」(帯鋸盤)に着眼した。これは金属加工のために、帯鋸を使用する機械装置であった。
金属加工に用いられるハンドソーは、国内メーカーは、ほぼ存在せず未開拓の領域であった。当時は、ハンドソーの国内市場が限定的と考えられており、大手工作機械メーカーが参入を見送ったことが背景があった。このため、日本政府(通産省)がハンドソー国産化のために、中堅企業であった大阪製作所に対して100万円の補助金を交付するなど、政府主導で市場を形成しようとした領域であった。
そこで、1954年頃に天田勇氏は大手の競合が存在しないハンドソーへの参入を決定して開発に着手した。自己資金で約2,000万円を投資して旋盤などの装置を約20台設置し、ハンドソーの開発をスタートした。
天田製作所は町工場であり、先発メーカーが製造する高額なハンドソーを海外から輸入することが難しい状況にあった。このため、天田勇氏はハンドソーの開発にあたって、カタログを参考に研究開発に従事。先発製品のパテント(特許)も把握しつつ、独自にハンドソーを開発する道を選択した。
この結果、1955年に独自のハンドソーとして「縦型帯鋸盤(コンターマシン)」の開発に成功した。アマダは「売り切りの機械」「消耗品である鋸刃」という2つ製品を揃えることによって、装置販売後も消耗品の収益を確保し、経営を安定化。1956年には祖業である修理業から撤退し、ハンドソーの製造に特化した。
海外の競合製品に対して、アマダは独自開発の製品を1/2の価格で販売。性能面でも遜色がなかったことから、日立製作所、日本製鋼所、汽車製造、川崎航空機(川崎重工)などの大企業への納入に成功した。主に金型製造において、金型の加工スピードを向上させる効果があり、引き合いが相次いだ。
1950年代から1960年代を通じてアマダのハンドソーはコスト競争力を武器に販売を拡大。1963年時点でアマダはコンターマシン(縦型帯鋸盤)で国内シェア80%を確保し、市場を独占した。
何にしてもやっぱり将来伸びるのはメーカーじゃなければ絶対ダメだ。しかも人のやっているものをやったのではどうにも追いつきようがないということで、新しいものはないかといろいろ探しているうちに、アメリカから帯鋸で金属切断をする機械が入ってきておるという。それはちょっと珍しいと思って調べてみたわけです。
そしてこれは非常に能率的な機械であるし、新しい1つの工作法と言いますか、そういうものはこれによって生まれるに違いない。これを一つやってみようということではじめたわけです。(略)
私どもはお話したとおり、とにかく町工場で金がないんですから、そういうもの(注:研究用の輸入機械)を買うわけにはいかない。カタログとか色々なものを集めまして、そういうもので私は研究したわけですかね。それで、どの部分がパテントになっているかということも調べまして、それは別にこの機械の致命傷になっているわけでもない。それで全部最初から独自で私自身で設計したものですから、どこにも抵触をしないというものをつくりました
量産に対応するために、神奈川県伊勢原に大規模工場の新設を決定。1961年2月時点のアマダの資本金800万円に対して、工場新設に2億円〜3億円の投資を計画した。このため、アマダは資本調達のために1961年10月に東証2部への株式上場を実施した。
工場新設のための資金調達(財務改善)を目的とし、1961年に東証2部に上場。1946年に創業してから約15年で株式上場に至っており、当時としてはスピーディーな上場であり、アマダは「花形株」(オール大衆, 1971/12)として注目を浴びた。
ハンドソーの販売にあたって、当初は安宅産業などの機械に強みがある商社を代理店として活用していたが、天田勇氏は自社で直接販売することで事業効率を改善できると考えた。そこで、1960年に天田製作所の営業部門を販売会社として分離し、1965年からは直接販売のための営業網の形成に本格着手した。
販売拡大にあたっては、中小企業の開拓が鍵を握ったが、それなりに高額な装置であることがボトルネックであった。そこで、アマダは分割払いによる販売を志向。資金力に乏しい中小企業に対して、金融支援を行うことで需要を喚起するなど、事業場の工夫を施している。
独創的な製品をつくるだけで事業が成功するとは限らない。強い営業力を持ち、これを最高度に発揮すること。事業成功のカギはむしろこの方ですよ。(略)
メーカーが販売を代理店に委ねると、とにかく伸び悩むものです。メーカーと販売店では、労働条件ひとつとりあげてみても、根本的な差異があって、どうしてもロスが出ます。だから、私はメーカー自身、営業力を持つべきだと、固く信じています。(略)
機械業界において、技術を比較することは難しい。大束な優劣はつけられるが、どうしても比較できない部分が沢山ある。だから私は「技術日本一」を口にしないことにしています。しかし、経理内容と販売高では日本一になりたい。それは営業力を充実してその真価を発揮することにより、実現することは決して不可能ではないと思いますね。
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