日露戦争の勃発を受けて、日本陸軍はオークマに対して旋盤製造を要請。陸軍から送られてきた図面を参考に、弾丸信管用の先番の製造を開始して工作機械に参入した。以後、オークマは陸軍向けの旋盤メーカーとして業容を拡大する。
日中戦争の勃発により、日本では兵器生産が喫緊の課題となる。そこで、日本陸軍はオークマに軍需生産に特化するように求め、オークマは製麺機械・毛織物機械・乗用車といった工作機械以外の事業を休止し、工作機械の製造に専念。研削盤の専門工場として名古屋市に上飯田工場を新設し、軍需企業としての色彩が濃くなった。
工作機械の位置決めをおこなう数値制御(Numeric Control)をオークマは自社開発してOSPとして発表。日本国内では富士通(ファナック)が工作機械を手掛けないNCの専門メーカーであったのに対し、オークマは工作機械とNCを両方手がけるメーカーとしてのポジションを確保する。
オイルショックによる経済不況によってオークマの業績が悪化。経営再建のために、終戦直後から社長を務めた大隈孝一が社長を退任し、娘婿の大隈武雄が社長に就任した。固定費削減のために従業員の20%にあたる380名の希望退職者の募集、名古屋市内の工場式の一部売却など、社長の個人所有していた高級車・ベンツの売却など、リストラによる財務体質の削減に追われた。なお、業界内では「オークマはいつ倒産してもおかしくない」(1980/4/21日経ビジネス)と言われたという。
オイルショックの布教が一段落すると、1978年ごろから日本の製造業は生産性の高いNC工作機を導入。オークマのOSPを搭載したNC工作機械の需要が高まったことを受けて、オークマは業績を回復。1980年には過去最高の経常利益55億円を計上し、経営再建を成し遂げた。
生産の合理化のために、1980年に新設した大口工場に本社機能を移転。以後、オークマは国内工場に投資することにより、海外進出よリモ国内生産によってグローバルで競争する道を進めた。
円高ドル安の進行によって、日本の製造業が相次いで東南アジアでの工場投資を進める中、オークマは日本国内への投資を継続。岐阜県に可児工場を新設し、1997年には可児工場にマシニングセンタ専用組立工場を新設するなど、国内での生産投資を続け、海外市場には現地にサービス拠点を設けて輸出する体制を整える。