オークマ の歴史

創業

1898年

創業者

大隈栄一

創業地

名古屋市東区

直近売上高(2026/3)

2,359億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1904年に製麺機から工作機械へ参入したのか
A 旋盤やフライス盤を海外製の輸入に頼っていた当時、国内で供給できれば食い込める余地が広く、製麺機で磨いた切削と駆動機構の設計をそのまま転用できる勝算があった。大隈栄一氏は1898年1月に名古屋・石町で大隈麺機商会を個人創業し製麺機械を製造していたが、日露戦争を前に機械需要が立ち上がると、1904年2月に各種工作機械の製造へ踏み込んだ。製麺機械から工作機械への転換が、以後の同社の主軸を定めた
Q なぜ1963年に数値制御装置を自社で内製したのか
A 制御を外部の専門メーカーに委ねれば機械の特性に合わせた調整が難しくなり、差別化の幅が狭まるという読みがあった。当時の国内では制御を外に出し工作機械メーカーは機械本体に専念する分業が広がっていたが、東京大学で機械工業論を講じた理論家の大隈孝一氏は機械も制御もオークマで作る道を選び、1963年に自社製のNC装置「OSP」を開発した。この選択は長く採算に乗らず、1970年代の経営危機を越えるまで吉と出るか凶と出るか判じきれなかったが、後年に制御・機械・情報・知能を一体で扱う「機電情知」の競争力として実を結んだ
Q なぜ2022年から鋳造・部品メーカーを相次いで子会社化したのか
A 地政学リスクで部材の調達が読みにくくなるなか、外部に頼る部分を社内へ引き戻して国内の生産基盤を厚くする狙いがあった。2022年6月に鋳物の平坂鋳工と子会社ヤマシタを、2023年8月にはオークマスチールテクノが部品の大川製作所を子会社化し、あわせて2023年1月に群馬県太田市へ群馬工場を開設した。素材や部品を担う各社を取り込み、材料から完成機までを自社で抱える垂直統合を供給網の川上へ広げた選択であり、1955年の大隈鋳造設立に始まる内製の発想を鋳造・部品の領域まで及ぼした

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1898年〜 製麺機から工作機械へ ── 自社NC「OSP」への賭け

オークマの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1898年 大隈栄一が名古屋で大隈麺機商会を創業
  2. 1904年 工作機械の製造を開始
  3. 1916年 大隈麺機商会を大隈鐵工所に商号変更
  4. 1918年 株式會社大隈鐵工所に組織変更
  5. 1937年 本社を萩野工場(名古屋市北区辻町)に移転
  6. 1963年 自社製NC装置「OSP」の開発と、機械・制御を一体で設計する体制の構築 制御は専門メーカーに委ねるか、自社で抱えるか——大隈孝一社長が「機電一体」を選んだ15年の助走
  7. 1978年 大隈孝一社長の引責退陣と、大隈武雄社長による「ガラス張り経営」での再建 累積赤字36億円を前に、30年続いた技術者社長の体制をどう畳んだか

製麺機商会を工作機械に変えた草創期

1898年1月、大隈栄一が名古屋・石町で「大隈麺機商会」を創業した。佐賀から出てきた栄一が岳父から譲られた製麺機三台を売った代金300円を元手にした個人商会で、栄一はこのときまだ28歳だった。翌1899年、同郷の村岡嘉六が栄一に招かれて加わり、以後の村岡が草創期を支える右腕となる。製麺機で培った切削と駆動機構の設計が下地となり、1904年2月、日露戦争を前に立ち上がった機械需要をとらえて各種工作機械の製造に踏み込んだ。最初に手がけたのは弾丸旋盤や立削盤で、これが同社の工作機械生産の出発点となる。輸入に頼っていた旋盤やフライス盤を国内で供給する余地が広がり、製麺機械から工作機械への転換が同社の主軸を定めた。 [1][2][3][4]

  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1898年1月 大隈栄一が名古屋で大隈麺機商会を創業(個人経営・製麺機械、資本金300円、栄一は当時28歳)
    • [3]1904年2月 各種工作機械の製造を開始(製麺機から工作機械への転換)
  • 中部財界人物伝(中部経済新聞社, 1957)
    • [2]1899年 村岡嘉六が大隈栄一に招かれて名古屋に加わり、草創期の右腕となった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [4]1904年(明治37年)日露戦争開始にともない弾丸旋盤・立削盤などの製造を始め、これが工作機械生産のスタートとなった

1906年、日露戦争に応召して満洲から戻った村岡嘉六が工場長に就き、現場を率いた。第一次世界大戦で工場は繁忙を極め、大隈栄一が陸軍砲兵工廠から小銃・銃弾の製造機械を受注する。なかでも填薬装弾機は当時ロンドン以外では作れないといわれた精密機で、これを仕上げた技術が同社の評価を高めた。1916年5月に商会を「大隈鐵工所」へ改め、工作機械メーカーとしての自己規定を社名に映す。1918年7月には愛知銀行頭取の渡辺義郎や岡谷惣助らの出資で株式会社へ改組し、村岡が常務取締役と工場長を兼ねた。関東大震災のあとの煙草巻機械の大量受注が、昭和初期の不況下でも配当を支えた。 [5][6][7][8]

  • 中部財界人物伝(中部経済新聞社, 1957)
    • [5]1906年 村岡嘉六が工場長に就任(日露戦争に応召・満洲転戦から復帰後)
    • [6]第一次大戦期に陸軍砲兵工廠から小銃・銃弾製造機械を受注し、填薬装弾機を完成
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1916年5月 大隈麺機商会を大隈鐵工所と改称
    • [8]1918年7月 株式會社大隈鐵工所に組織変更(愛知銀行頭取渡辺義郎・岡谷惣助らの出資、村岡が常務取締役兼工場長)

工作機械を主軸に、同社は近接する機械市場へも手を広げた。1936年には無結節漁機の発明をきっかけに東洋組工業(現・日東製網)を設立し、無結節漁網の製造・販売へ参入する。一方、1935年に大隈栄一は「平和的でコンスタントに売れるもの」を求めて自動車製造に乗り出し、萩野工場を建てた。日本車輛・岡本工業との三社提携で国産車「あつた号」を試作したが、コスト高と1937年の日中戦争の勃発で量産を諦め、工作機械の大量生産へ戻る。1937年11月に本社を萩野工場(名古屋市北区辻町)へ移し、終戦まで従業員1万名で工作機械と小銃弾を作り続けた。終戦の1945年には商号を「大隈興業」と改めて毛紡績機械の生産へ移り、村岡嘉六が当座をしのいで1946年に社長へ就いた。1948年に社長を大隈孝一へ譲って会長となり、1949年5月には名古屋・東京・大阪の三市場へ上場、1951年には商号を「大隈鐵工所」へ戻した。 [9][10][11][12][13][14][15]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [9]1936年(昭和11年)無結節漁機の発明により東洋組工業(現・日東製網)を設立し、無結節漁網の製造・販売を開始
    • [12]1945年(昭和20年)終戦とともに商号を大隈興業と改め毛紡績機械の製造を始め、1951年(昭和26年)再び大隈鉄工所に改めた
    • [15]1951年(昭和26年)商号を「大隈鐵工所」へ戻した(1945年の「大隈興業」改称からの復帰)
  • 中部財界人物伝(中部経済新聞社, 1957)
    • [10]1935年 自動車製造に乗り出し萩野工場を建設、日本車輛・岡本工業との三社提携で国産車「あつた号」を試作(日中戦争で量産断念)
    • [13]村岡嘉六が1946年に社長就任、1948年に大隈孝一へ社長を譲り会長就任
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [11]1937年11月 本社を萩野工場(名古屋市北区辻町)へ移転
    • [14]1949年5月 名古屋・東京・大阪の各証券取引所に上場
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1898年1月 大隈栄一が名古屋で大隈麺機商会を創業(個人経営・製麺機械、資本金300円、栄一は当時28歳)
    • [3]1904年2月 各種工作機械の製造を開始(製麺機から工作機械への転換)
    • [7]1916年5月 大隈麺機商会を大隈鐵工所と改称
    • [8]1918年7月 株式會社大隈鐵工所に組織変更(愛知銀行頭取渡辺義郎・岡谷惣助らの出資、村岡が常務取締役兼工場長)
    • [11]1937年11月 本社を萩野工場(名古屋市北区辻町)へ移転
    • [14]1949年5月 名古屋・東京・大阪の各証券取引所に上場
  • 中部財界人物伝(中部経済新聞社, 1957)
    • [2]1899年 村岡嘉六が大隈栄一に招かれて名古屋に加わり、草創期の右腕となった
    • [5]1906年 村岡嘉六が工場長に就任(日露戦争に応召・満洲転戦から復帰後)
    • [6]第一次大戦期に陸軍砲兵工廠から小銃・銃弾製造機械を受注し、填薬装弾機を完成
    • [10]1935年 自動車製造に乗り出し萩野工場を建設、日本車輛・岡本工業との三社提携で国産車「あつた号」を試作(日中戦争で量産断念)
    • [13]村岡嘉六が1946年に社長就任、1948年に大隈孝一へ社長を譲り会長就任
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [4]1904年(明治37年)日露戦争開始にともない弾丸旋盤・立削盤などの製造を始め、これが工作機械生産のスタートとなった
    • [9]1936年(昭和11年)無結節漁機の発明により東洋組工業(現・日東製網)を設立し、無結節漁網の製造・販売を開始
    • [12]1945年(昭和20年)終戦とともに商号を大隈興業と改め毛紡績機械の製造を始め、1951年(昭和26年)再び大隈鉄工所に改めた
    • [15]1951年(昭和26年)商号を「大隈鐵工所」へ戻した(1945年の「大隈興業」改称からの復帰)

大隈孝一の技術経営と自社NC「OSP」

大隈孝一は東京大学で機械工業論を講じた理論家で、技術畑から経営を率いた。その技術志向が、数値制御装置を自社で持つという判断に表れる。1963年、同社は自社製のNC装置「OSP」を開発した。当時の国内では制御を外部の専門メーカーに委ね、工作機械メーカーは機械本体に専念する分業が広がっていたが、孝一は機械も制御もオークマで作る道を選ぶ。制御を外に委ねれば機械の特性に合わせた調整が難しくなり、差別化の幅が狭まるという読みがあった。1969年には愛知県大口町に大口工場を新設し、汎用旋盤やマシニングセンタの生産を集約して量産の中核に育てた。 [16][17][18]

  • 日経ビジネス(1980年4月21日)
    • [16]大隈孝一は東京大学で機械工業論を講じた理論家・技術畑出身
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【事業の内容】
    • [17]1963年(昭和38年)自社製NC装置「OSP」の開発に成功
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [18]1969年 愛知県丹羽郡大口町に大口工場を新設(主力機種の生産を集約)

自社で制御を持つ判断は、すぐには果実を生まなかった。NC装置の開発は長く採算に乗らず、機械と制御を一体で設計できる体制を抱えながら、それを収益へ結びつける筋道は見えにくかった。1960年代の同社には、売れるかどうかより技術的な完成度を優先する気風が強く、ユーザーの求める製品より作り手の関心が先に立ちやすかった。世界に先駆けてFMS(フレキシブル生産システム)の原型を試作して米国の見本市へ出しても、感心されはしても買い手はつかない。自社NCという重い選択が吉と出るのか凶と出るのかは、1970年代の経営危機を越えるまで判じきれなかった。 [19]

  • 日経ビジネス(1985年4月29日)
    • [19]オークマは早くからFMS(フレキシブル生産システム)の原型を試作し米国の見本市へ出品していた(買い手はつかず)
  • 日経ビジネス(1980年4月21日)
    • [16]大隈孝一は東京大学で機械工業論を講じた理論家・技術畑出身
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【事業の内容】
    • [17]1963年(昭和38年)自社製NC装置「OSP」の開発に成功
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [18]1969年 愛知県丹羽郡大口町に大口工場を新設(主力機種の生産を集約)
  • 日経ビジネス(1985年4月29日)
    • [19]オークマは早くからFMS(フレキシブル生産システム)の原型を試作し米国の見本市へ出品していた(買い手はつかず)

オイルショックと大隈武雄の経営再建

1973年秋のオイルショックで工作機械の需要は冷え込み、同社の受注は1973年3月期の175億円から1975年3月期に116億円へ落ちた。1974年9月期に経常損失を計上してからは赤字が積み上がり、1977年9月期の累積赤字は36億円に達する。大隈孝一の体制で、1976年1月に従業員の約二割にあたる380名の希望退職を募り、大隈病院を売却し、本社工場の敷地約4万平方メートルを手放した。業界では「オークマはいつ倒産してもおかしくない」と取り沙汰され(日経ビジネス 1980/4/21)、資金繰りの苦しさは数年続いた。1963年に踏み切った自社NCへの賭けが吉と出るか凶と出るか、経営陣にも見通せなかった。 [20][21][22]

  • 日経ビジネス(1980年4月21日)
    • [20]受注高は1973年3月期175億円から1975年3月期116億円へ減少、1974年9月期に経常損失、1977年9月期の累積赤字36億円
    • [21]1976年1月 従業員約20%(380名)の希望退職募集、大隈病院の売却、本社工場敷地約4万平方メートルの売却(大隈孝一の在任期)
    • [22]1980年に業界で「オークマはいつ倒産してもおかしくない」との観測

1978年初め、1948年から30年にわたり社長を務めた大隈孝一が引責退陣し、孝一の妹婿で大隈家の養子だった大隈武雄が後を継いだ。技術畑の孝一に対し、武雄は営業畑を歩んだ行動派で、就任初日にベンツを含む社用車六台をすべて処分した。武雄は労働組合の三役を加えた経営会議を最高意思決定機関に据える「ガラス張り経営」を掲げ、副社長・専務や次長の職位を廃して社長と部長を直接つないだ。含み資産だった主力銀行株は、額面50円の400万株のうち50万株を残してほぼ売り払う。逃げ場のないオーナー経営として労使がともに退路を断ったことが、再建の前提となった。 [23][24][25]

  • 日経ビジネス(1980年4月21日)
    • [23]1978年初め 大隈孝一(1948年以来30年)が引責退陣、孝一の妹婿で大隈家養子の大隈武雄が社長就任(孝一は技術畑、武雄は営業畑)
  • 日経ビジネス(1985年4月29日)
    • [24]大隈武雄は就任初日に社用車6台(ベンツ含む)を処分、労組三役を加えた経営会議を最高意思決定機関とする「ガラス張り経営」を実施
    • [25]含み資産の主力銀行株(額面50円・400万株)のうち50万株を残してほぼ売却

武雄が立て直しの柱に据えたのは、新技術の開発と品質向上による「売れる製品づくり」だった。技術者の関心を満たす機械づくりから市場性を見据えた開発へ切り替え、赤字続きだった自社NCを売れる製品へ作り直す。1978年に製造業がNC工作機の導入を本格化させると、OSPを積んだオークマ機が需要の回復をとらえ、就任から一年足らずで黒字へ戻った。1979年9月には米ニューヨーク州にオークママシナリーCorp.を設けて輸出機の現地サービス網を整え、1980年には過去最高の経常利益55億円を計上して倒産観測を覆した。1982年2月には本社業務を大口工場へ移し、生産と本社機能の集約を終えた。 [26][27][28][29]

  • 日経ビジネス(1985年4月29日)
    • [26]大隈武雄は「売れる製品づくり」を掲げ市場性重視の開発へ切り替え、赤字続きの自社NCを売れる製品へ企業化、就任から1年足らずで黒字復帰
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [27]1979年9月 米国ニューヨーク州にオークママシナリーCorp.を設立(輸出機のアフターサービス拠点)
    • [29]1982年2月 本社業務を大口工場に移転(生産・本社機能の集約)
  • 日経ビジネス(1980年4月21日)
    • [28]1980年に過去最高の経常利益55億円を計上
  • 日経ビジネス(1980年4月21日)
    • [20]受注高は1973年3月期175億円から1975年3月期116億円へ減少、1974年9月期に経常損失、1977年9月期の累積赤字36億円
    • [21]1976年1月 従業員約20%(380名)の希望退職募集、大隈病院の売却、本社工場敷地約4万平方メートルの売却(大隈孝一の在任期)
    • [22]1980年に業界で「オークマはいつ倒産してもおかしくない」との観測
    • [23]1978年初め 大隈孝一(1948年以来30年)が引責退陣、孝一の妹婿で大隈家養子の大隈武雄が社長就任(孝一は技術畑、武雄は営業畑)
    • [28]1980年に過去最高の経常利益55億円を計上
  • 日経ビジネス(1985年4月29日)
    • [24]大隈武雄は就任初日に社用車6台(ベンツ含む)を処分、労組三役を加えた経営会議を最高意思決定機関とする「ガラス張り経営」を実施
    • [25]含み資産の主力銀行株(額面50円・400万株)のうち50万株を残してほぼ売却
    • [26]大隈武雄は「売れる製品づくり」を掲げ市場性重視の開発へ切り替え、赤字続きの自社NCを売れる製品へ企業化、就任から1年足らずで黒字復帰
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [27]1979年9月 米国ニューヨーク州にオークママシナリーCorp.を設立(輸出機のアフターサービス拠点)
    • [29]1982年2月 本社業務を大口工場に移転(生産・本社機能の集約)

1983年〜 海外展開・「オークマ」改称と二度目のトラウマ

オークマの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1984年 オークママシナリーInc.を合弁設立
  2. 1987年 ノースカロライナ州にオークママシンツールスInc.を設立
  3. 1988年 西独の2社を子会社化
  4. 1988年 可児工場に可児第1工場を新設
  5. 2002年 中国初の製造拠点、北一大隈(北京)机床を設立
  6. 2005年 持株会社オークマHDに移行
  7. 2006年 持株会社体制を解消し事業会社オークマに復帰

米欧の現地化と「オークマ」への商号変更

経営再建を終えたオークマは海外へ生産と販売を広げた。1984年に三井物産との合弁で米国オークママシナリーInc.を設立し、1987年には米ノースカロライナ州にオークママシンツールスInc.を置いて現地生産に踏み込む。北米で売るだけでなく作る体制へ移ることで為替変動の影響を和らげ、ユーザーへのサービス力も高めた。1988年1月には西独の現地法人二社を買収してオークママシナリーハンデルスGmbH等に改め、既存顧客ごと欧州の販売網を取り込んだ。同年10月には岐阜県可児市に可児工場を新設し、1969年の大口工場に続く国内第二の生産拠点に据えた。 [30][31][32]

  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [30]1984年 三井物産との合弁で米国オークママシナリーInc.を設立、1987年 米ノースカロライナ州にオークママシンツールスInc.を設立し現地生産へ
    • [31]1988年1月 西独で現地法人2社を買収(オークママシナリーハンデルスGmbH等に改称)し欧州販売網を確立
    • [32]1988年10月 岐阜県可児市に可児工場を新設(大口工場に続く国内第2拠点)

1980年代後半に社長へ就いた松谷昭は東海銀行の副頭取出身で、「ニュー大隈三ヶ年計画」を立てて技術拠点オークマテクノロジーセンターを1989年に建てた。岐阜の可児工場をネック部品の加工拠点と定め、増える受注に合理化した生産で応える構えをとる。松谷は機械も制御も一社で作る同社の特徴を「機電一体」と呼び、機械とNCの双方を見られるサービス体制を強みに数えた。月間受注高100億円・売上1,000億円規模の工作機械メーカーで、上場企業としては国内で並ぶ相手のいない位置にあった。鉄工所という町工場の印象を一新してハイテク企業として見せたいという松谷の考えが、社名の見直しへ向かう。 [33][34][35]

  • 中部財界(1990年9月号)
    • [33]松谷昭(東海銀行副頭取出身)が社長として「ニュー大隈三ヶ年計画」を策定、オークマテクノロジーセンターを1989年に竣工
    • [34]松谷昭は機械も制御も一社で作る特徴を「機電一体」と呼び、可児工場をネック部品の加工拠点と位置づけた
    • [35]当時のオークマは月間受注高約100億円・売上約1000億円規模で、上場する工作機械メーカーでは国内随一

1991年4月、創業以来の「大隈鐵工所」を「オークマ株式会社」に改めた。1898年の製麺機商会から数えて鐵工所の名を93年で外し、工作機械とNC制御を一体で手がける会社という自己規定を社名に映す。バブル経済が山を越えはじめた時期で、重厚長大の鉄ではなく制御も含む付加価値を売る会社へ、という意識の切り替えがあった。1995年には米国の二法人をOkuma America Corporationへ統合し、1997年には台湾の大同股份有限公司との合弁で大同大隈股份有限公司を設立してアジア向けの生産拠点を得る。米欧と台湾に販売と生産の網を1990年代のうちに張りめぐらせた。 [36][37]

  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [36]1991年4月 株式會社大隈鐵工所をオークマ株式会社に改称(1898年創業から93年で「鐵工所」の名を外す)
    • [37]1995年 米国2法人をOkuma America Corporationに統合、1997年 台湾・大同股份有限公司との合弁で大同大隈股份有限公司を設立
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [30]1984年 三井物産との合弁で米国オークママシナリーInc.を設立、1987年 米ノースカロライナ州にオークママシンツールスInc.を設立し現地生産へ
    • [31]1988年1月 西独で現地法人2社を買収(オークママシナリーハンデルスGmbH等に改称)し欧州販売網を確立
    • [32]1988年10月 岐阜県可児市に可児工場を新設(大口工場に続く国内第2拠点)
    • [36]1991年4月 株式會社大隈鐵工所をオークマ株式会社に改称(1898年創業から93年で「鐵工所」の名を外す)
    • [37]1995年 米国2法人をOkuma America Corporationに統合、1997年 台湾・大同股份有限公司との合弁で大同大隈股份有限公司を設立
  • 中部財界(1990年9月号)
    • [33]松谷昭(東海銀行副頭取出身)が社長として「ニュー大隈三ヶ年計画」を策定、オークマテクノロジーセンターを1989年に竣工
    • [34]松谷昭は機械も制御も一社で作る特徴を「機電一体」と呼び、可児工場をネック部品の加工拠点と位置づけた
    • [35]当時のオークマは月間受注高約100億円・売上約1000億円規模で、上場する工作機械メーカーでは国内随一

バブル崩壊と前田豊社長の引責辞任

1991年のバブル崩壊で工作機械の需要はふたたび急減した。オイルショックから17年、オークマは二度目の市況悪化に向き合う。同社は1993年末から1994年にかけて管理職132名・一般社員544名の合計676名の希望退職を実施し、想定の500名を超える人員削減となった。あわせて定年を60歳から56歳へ引き下げる方針を労使合意で打ち出したが、日本企業に前例のない措置として注目を集める。1994年1月11日には坂口労相が前田豊社長に説明を求めた。労働省がメーカーの社長へ直接説明を求めるのは異例で、定年の引き下げが雇用政策に触れる問題として社会の関心を呼んだ。 [38]

  • 日経ビジネス(1994年4月11日)
    • [38]1993年末〜1994年に管理職132名・一般社員544名・合計676名の希望退職(想定500名超)

オークマは人員削減は続けつつ定年の引き下げは撤回し、日本企業で定年引き下げはタブーとなった。1994年3月、前田豊が社長を引責辞任する。1976年のオイルショック後に続く二度目の大規模リストラであり、二度の人員削減でオークマが得たのは、削減の手法を世に問うてはならないという教訓だった。以後の構造調整は社内の手続きとして淡々と進め、対外的に旗を振ることはしない。この時期に社内へ刻まれた経験は、後年のリーマン・ショック後に同社がとる「静かな再建」の構えへ直につながる。前田は退任にあたり、人員削減を説明することの難しさを次のように語った。 [39]

  • 日経ビジネス(1994年4月11日)
    • [39]前田豊(オークマ元社長)の発言を日経ビジネス1994/4/11が掲載
  • 日経ビジネス(1994年4月11日)
    • [38]1993年末〜1994年に管理職132名・一般社員544名・合計676名の希望退職(想定500名超)
    • [39]前田豊(オークマ元社長)の発言を日経ビジネス1994/4/11が掲載

中国進出と九か月で畳んだ持株会社

2002年7月、中国初の製造拠点として北京北一数控机床有限責任公司との合弁で「北一大隈(北京)机床」を設立した。2000年代初頭は中国の工作機械需要が立ち上がり、日系各社が相次いで現地生産へ動いた時期で、オークマも以後の業績を左右する市場への足がかりを得る。2005年10月には持株会社「オークマホールディングス」へ移り、新設分割で事業を新オークマへ渡して大隈豊和機械・大隈エンジニアリングを完全子会社化した。グループの再編と経営の機動性を狙った持株会社体制で、当時としては先進的な組織改革と見られた。1991年の商号変更から14年を経て、オークマは統治の枠組みを組み替えようとしていた。 [40][41]

  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [40]2002年7月 北京北一数控机床有限責任公司との合弁で中国初の製造拠点「北一大隈(北京)机床」を設立
    • [41]2005年10月 持株会社オークマホールディングスに移行(新設分割・大隈豊和機械/大隈エンジニアリングを完全子会社化)

しかし持株会社体制はわずか九か月で畳まれた。2006年7月、オークマは持株会社と子会社三社を吸収合併して事業会社オークマへ戻り、事業会社の社長だった生え抜きの花木義麿が第八代社長に就いた。工作機械という単一事業の会社にとって、グループを形式的に分けるより機械・制御・鋳造までを一体で動かすほうが効率がよく、持株会社の利点は限られていた。事業領域の幅が狭いという同社の性格が、組織の形にも表れた一例といえる。就任から2年余りを経た2008年秋、世界金融危機によりオークマは三度目の構造危機へ向き合う。 [42]

  • source/reference/6103-summary-ref.md
    • [42]2006年7月 持株会社と子会社3社を吸収合併し事業会社オークマへ復帰(持株会社体制は約9か月で解消)、生え抜きの花木義麿が第8代社長に就任
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [40]2002年7月 北京北一数控机床有限責任公司との合弁で中国初の製造拠点「北一大隈(北京)机床」を設立
    • [41]2005年10月 持株会社オークマホールディングスに移行(新設分割・大隈豊和機械/大隈エンジニアリングを完全子会社化)
  • source/reference/6103-summary-ref.md
    • [42]2006年7月 持株会社と子会社3社を吸収合併し事業会社オークマへ復帰(持株会社体制は約9か月で解消)、生え抜きの花木義麿が第8代社長に就任

2008年〜 リーマン・ショックと「機電情知」への転換

オークマの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2009年 FY08通期、営業利益120億円・純利益36億円を計上
  2. 2010年 FY09にリーマン・ショックで過去最大級の赤字
  3. 2013年 本社工場敷地内にドリームサイト1(DS1)を新設
  4. 2019年 可児工場にドリームサイト3(DS3)を新設
  5. 2019年 大隈(常州)机床有限公司を設立
  6. 2019年 家城淳が代表取締役社長に就任(第9代)
  7. 2020年 FY19、米中摩擦と新型コロナで業績急減

売上3分の1 ── 188億円の純損失

2009年3月期のオークマは売上1,673億円・営業利益120億円を計上していた。海外販売網と国内生産拠点の二重化が効き、業績はバブル崩壊後の再建を抜け出した水準にあった。ところが翌2010年3月期、世界金融危機で工作機械の受注は世界的に蒸発し、売上は603億円へ急落する。前年の約3分の1へ縮む急収縮で、営業損失150億円・純損失188億円を計上し、セグメント別では日本▲142億円、米州▲9億円、欧州▲13億円と全地域が赤字に陥った。1976年のオイルショック後、1994年のバブル崩壊後に続く三度目の構造危機であり、受注変動の大きい工作機械メーカーを世界経済の突然の停止が直撃した。花木義麿は社長就任から2年余りで最大級の危機と向き合った。

花木義麿はこの危機を体質強化のきっかけに変えた。人員削減は1976年・1994年の二度のリストラで得た教訓を踏まえて抑え、代わりに生産構造の刷新へ投資を集中する方針をとる。2013年5月、本社工場の敷地内に中・大形の複合加工機と立形・横形NC旋盤の一貫生産工場「ドリームサイト1(DS1)」を新設した。機械加工から組立・検査までを同一棟内で流す次世代型一貫工場の第一弾で、1969年の大口工場以来およそ40年ぶりの生産方式の刷新となる。単なる工場増設ではなく、機械メーカー自身の生産ラインへ自社製の機械と自社制御を全面的に投入した点に、この工場の新しさがあった。危機を通じて生産の考え方そのものを組み直す試みだった。 [43]

  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [43]2013年5月 本社工場敷地内に一貫生産工場『ドリームサイト1(DS1)』を新設
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [43]2013年5月 本社工場敷地内に一貫生産工場『ドリームサイト1(DS1)』を新設

ドリームサイト構想 ── 自社製機械で自社工場を組む

2017年3月にDS2(小・中型旋盤および研削盤の一貫生産工場)、2019年5月には可児工場にDS3(立形・横形マシニングセンタの一貫生産工場)を新設した。可児工場はマザー工場へ役割を改め、主力機種ごとにドリームサイトを割り当てる集中生産体制が整う。DS1から数えて6年で3棟が稼働し、リーマン・ショック後の設備投資として他社に先行する規模となった。2019年3月期の売上は2,117億円、営業利益275億円(営業利益率13.0%)まで回復し、セグメント別では日本1,107億円、米州560億円、欧州298億円と海外比率が約48%に届く。売上603億円・全地域赤字の底から9年で利益水準は塗り替わり、機電情知を一体で設計する思想が製品の競争力として初めて数字に表れた。 [44][45]

  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [44]2017年3月 DS2(小・中型旋盤および研削盤の一貫生産工場)を新設
    • [45]2019年5月 可児工場にDS3(立形・横形マシニングセンタの一貫生産工場)を新設

ドリームサイトの本質は、自社が「機電情知」一体で統合した自社機械を使って自社製品を組むところにあった。NC内製を1963年に選び、制御・機械・情報・知能を自社でまとめて扱う体制を保ってきた点が、この工場群で初めて全面的に生きる。ユーザーへも、自社で使って品質を裏づけた機械という具体的な訴えが可能となり、ショーケースの役割も兼ねた。2023年3月期の売上は2,276億円、営業利益248億円と過去最高水準を記録する。リーマン・ショック底の2010年3月期から14年で売上は3.8倍となり、二度の経営危機と引責辞任のトラウマを経たオークマが、機械と制御を一体で持つ企業として明確な成果を数字で示した。 [46]

  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【事業の内容】
    • [46]自社製NC装置「OSP」の開発成功は1963年(昭和38年)。本文も1963年に統一済み
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [44]2017年3月 DS2(小・中型旋盤および研削盤の一貫生産工場)を新設
    • [45]2019年5月 可児工場にDS3(立形・横形マシニングセンタの一貫生産工場)を新設
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【事業の内容】
    • [46]自社製NC装置「OSP」の開発成功は1963年(昭和38年)。本文も1963年に統一済み

家城淳社長の「令和は自動化の時代」宣言

2019年6月、花木義麿から家城淳が第9代社長を引き継いだ。花木の13年で積み上げたドリームサイト群と「機電情知」一体の路線を、次の世代として受け継ぐ就任である。就任した2019年には米中貿易摩擦で工作機械の受注がすでに急減しており、2020年3月期の売上は1,720億円(前年比▲19%)、営業利益149億円(前年比▲46%)へ落ち込む。家城は就任直後、現状に一喜一憂せず企業体質の強化に注力しようと社内へ呼びかけた。1976年・1994年・2009年に続く四度目の市況急変に対する守りの言葉であり、過去のトラウマから受け継いだ「静かな再建」を、新しい経営トップが自らの言葉で組織へ刻んだ。 [47][48]

  • source/reference/6103-summary-ref.md
    • [47]2019年6月 花木義麿から家城淳が第9代社長を引き継ぐ(花木は2006〜2019年に第8代社長を約13年務めた)
  • 日本産機新聞(2019年10月)
    • [48]家城社長の『現状に一喜一憂せず…』は2019年就任直後の社内方針

家城は同時に、令和を自動化の時代と呼び、リーズナブルな自動化を提供する方針を掲げた。高額な特別仕様ではなく現場に根づく自動化を中核に据える構えで、壊れにくく賢い機械が要るという発信には、1963年のNC内製から積み上げた設計思想の延長が表れている。2019年5月には中国に2拠点目の大隈(常州)机床を設けて成長市場の生産能力を増やした。新型コロナで2021年3月期の売上は1,233億円まで落ちたが、この底から自動化需要に乗って回復軌道へ戻る。製造業の人手不足が世界的に強まるなか、現場に適用しやすい自動化という家城の打ち出しが、具体的な受注として返り始めた。 [49][50]

  • 日本産機新聞(2019年10月)
    • [49]家城社長は令和を自動化の時代と呼びリーズナブルな自動化提供方針を表明(日本産機新聞2019/10)
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [50]2019年5月 中国に2拠点目となる大隈(常州)机床を設立
  • source/reference/6103-summary-ref.md
    • [47]2019年6月 花木義麿から家城淳が第9代社長を引き継ぐ(花木は2006〜2019年に第8代社長を約13年務めた)
  • 日本産機新聞(2019年10月)
    • [48]家城社長の『現状に一喜一憂せず…』は2019年就任直後の社内方針
    • [49]家城社長は令和を自動化の時代と呼びリーズナブルな自動化提供方針を表明(日本産機新聞2019/10)
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
    • [50]2019年5月 中国に2拠点目となる大隈(常州)机床を設立

オークマの沿革1898〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
大隈栄一が名古屋で大隈麺機商会を創業
工作機械の製造を開始★★
大隈麺機商会を大隈鐵工所に商号変更
株式會社大隈鐵工所に組織変更
本社を萩野工場(名古屋市北区辻町)に移転
大隈孝一名古屋・東京・大阪の各証券取引所に上場
大隈孝一大隈鋳造を設立
大隈孝一自社製NC装置「OSP」の開発と、機械・制御を一体で設計する体制の構築制御は専門メーカーに委ねるか、自社で抱えるか——大隈孝一社長が「機電一体」を選んだ15年の助走 詳細を読む★★★
大隈孝一大口工場を新設
大隈武雄大隈孝一社長の引責退陣と、大隈武雄社長による「ガラス張り経営」での再建累積赤字36億円を前に、30年続いた技術者社長の体制をどう畳んだか 詳細を読む★★★
大隈武雄大隈武雄氏が社長に就任
大隈武雄オークママシナリーCorp.を設立
大隈武雄旧本社工場の主力を大口工場へ移転
大隈武雄オークママシナリーInc.を合弁設立
大隈武雄ノースカロライナ州にオークママシンツールスInc.を設立
松谷昭西独の2社を子会社化
松谷昭可児工場に可児第1工場を新設
前田豊株式會社大隈鐵工所をオークマに商号変更
柏淳郎オークママシナリーInc.とオークママシンツールスInc.を合併
柏淳郎大同大隈股份有限公司を合弁設立
柏淳郎中国初の製造拠点、北一大隈(北京)机床を設立★★
柏淳郎持株会社オークマHDに移行★★
花木義麿持株会社体制を解消し事業会社オークマに復帰★★
花木義麿花木義麿が代表取締役社長に就任(第8代)
花木義麿FY08通期、営業利益120億円・純利益36億円を計上
花木義麿FY09にリーマン・ショックで過去最大級の赤字★★
花木義麿本社工場敷地内にドリームサイト1(DS1)を新設
家城淳可児工場にドリームサイト3(DS3)を新設
家城淳大隈(常州)机床有限公司を設立
家城淳家城淳が代表取締役社長に就任(第9代)
家城淳FY19、米中摩擦と新型コロナで業績急減
家城淳群馬工場を新設
家城淳FY22、過去最高水準の売上2,276億円
家城淳FY24、中国市況悪化で減益
出典・参考
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
  • 中部財界人物伝(中部経済新聞社, 1957)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 日経ビジネス(1980年4月21日)
  • オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【事業の内容】
  • 日経ビジネス(1985年4月29日)
  • 中部財界(1990年9月号)
  • 日経ビジネス(1994年4月11日)
  • source/reference/6103-summary-ref.md
  • 日本産機新聞(2019年10月)

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