1898年〜 製麺機から工作機械へ ── 自社NC「OSP」への賭け
オークマの業績推移:単体
- 1898年 大隈栄一が名古屋で大隈麺機商会を創業
- 1904年 工作機械の製造を開始
- 1916年 大隈麺機商会を大隈鐵工所に商号変更
- 1918年 株式會社大隈鐵工所に組織変更
- 1937年 本社を萩野工場(名古屋市北区辻町)に移転
- 1963年 自社製NC装置「OSP」の開発と、機械・制御を一体で設計する体制の構築 制御は専門メーカーに委ねるか、自社で抱えるか——大隈孝一社長が「機電一体」を選んだ15年の助走
- 1978年 大隈孝一社長の引責退陣と、大隈武雄社長による「ガラス張り経営」での再建 累積赤字36億円を前に、30年続いた技術者社長の体制をどう畳んだか
製麺機商会を工作機械に変えた草創期
1898年1月、大隈栄一が名古屋・石町で「大隈麺機商会」を創業した。佐賀から出てきた栄一が岳父から譲られた製麺機三台を売った代金300円を元手にした個人商会で、栄一はこのときまだ28歳だった。翌1899年、同郷の村岡嘉六が栄一に招かれて加わり、以後の村岡が草創期を支える右腕となる。製麺機で培った切削と駆動機構の設計が下地となり、1904年2月、日露戦争を前に立ち上がった機械需要をとらえて各種工作機械の製造に踏み込んだ。最初に手がけたのは弾丸旋盤や立削盤で、これが同社の工作機械生産の出発点となる。輸入に頼っていた旋盤やフライス盤を国内で供給する余地が広がり、製麺機械から工作機械への転換が同社の主軸を定めた。 [1][2][3][4]
- オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1898年1月 大隈栄一が名古屋で大隈麺機商会を創業(個人経営・製麺機械、資本金300円、栄一は当時28歳)
- [3]1904年2月 各種工作機械の製造を開始(製麺機から工作機械への転換)
- 中部財界人物伝(中部経済新聞社, 1957)
- [2]1899年 村岡嘉六が大隈栄一に招かれて名古屋に加わり、草創期の右腕となった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [4]1904年(明治37年)日露戦争開始にともない弾丸旋盤・立削盤などの製造を始め、これが工作機械生産のスタートとなった
1906年、日露戦争に応召して満洲から戻った村岡嘉六が工場長に就き、現場を率いた。第一次世界大戦で工場は繁忙を極め、大隈栄一が陸軍砲兵工廠から小銃・銃弾の製造機械を受注する。なかでも填薬装弾機は当時ロンドン以外では作れないといわれた精密機で、これを仕上げた技術が同社の評価を高めた。1916年5月に商会を「大隈鐵工所」へ改め、工作機械メーカーとしての自己規定を社名に映す。1918年7月には愛知銀行頭取の渡辺義郎や岡谷惣助らの出資で株式会社へ改組し、村岡が常務取締役と工場長を兼ねた。関東大震災のあとの煙草巻機械の大量受注が、昭和初期の不況下でも配当を支えた。 [5][6][7][8]
- 中部財界人物伝(中部経済新聞社, 1957)
- [5]1906年 村岡嘉六が工場長に就任(日露戦争に応召・満洲転戦から復帰後)
- [6]第一次大戦期に陸軍砲兵工廠から小銃・銃弾製造機械を受注し、填薬装弾機を完成
- オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
- [7]1916年5月 大隈麺機商会を大隈鐵工所と改称
- [8]1918年7月 株式會社大隈鐵工所に組織変更(愛知銀行頭取渡辺義郎・岡谷惣助らの出資、村岡が常務取締役兼工場長)
工作機械を主軸に、同社は近接する機械市場へも手を広げた。1936年には無結節漁機の発明をきっかけに東洋組工業(現・日東製網)を設立し、無結節漁網の製造・販売へ参入する。一方、1935年に大隈栄一は「平和的でコンスタントに売れるもの」を求めて自動車製造に乗り出し、萩野工場を建てた。日本車輛・岡本工業との三社提携で国産車「あつた号」を試作したが、コスト高と1937年の日中戦争の勃発で量産を諦め、工作機械の大量生産へ戻る。1937年11月に本社を萩野工場(名古屋市北区辻町)へ移し、終戦まで従業員1万名で工作機械と小銃弾を作り続けた。終戦の1945年には商号を「大隈興業」と改めて毛紡績機械の生産へ移り、村岡嘉六が当座をしのいで1946年に社長へ就いた。1948年に社長を大隈孝一へ譲って会長となり、1949年5月には名古屋・東京・大阪の三市場へ上場、1951年には商号を「大隈鐵工所」へ戻した。 [9][10][11][12][13][14][15]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [9]1936年(昭和11年)無結節漁機の発明により東洋組工業(現・日東製網)を設立し、無結節漁網の製造・販売を開始
- [12]1945年(昭和20年)終戦とともに商号を大隈興業と改め毛紡績機械の製造を始め、1951年(昭和26年)再び大隈鉄工所に改めた
- [15]1951年(昭和26年)商号を「大隈鐵工所」へ戻した(1945年の「大隈興業」改称からの復帰)
- 中部財界人物伝(中部経済新聞社, 1957)
- [10]1935年 自動車製造に乗り出し萩野工場を建設、日本車輛・岡本工業との三社提携で国産車「あつた号」を試作(日中戦争で量産断念)
- [13]村岡嘉六が1946年に社長就任、1948年に大隈孝一へ社長を譲り会長就任
- オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
- [11]1937年11月 本社を萩野工場(名古屋市北区辻町)へ移転
- [14]1949年5月 名古屋・東京・大阪の各証券取引所に上場
- オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1898年1月 大隈栄一が名古屋で大隈麺機商会を創業(個人経営・製麺機械、資本金300円、栄一は当時28歳)
- [3]1904年2月 各種工作機械の製造を開始(製麺機から工作機械への転換)
- [7]1916年5月 大隈麺機商会を大隈鐵工所と改称
- [8]1918年7月 株式會社大隈鐵工所に組織変更(愛知銀行頭取渡辺義郎・岡谷惣助らの出資、村岡が常務取締役兼工場長)
- [11]1937年11月 本社を萩野工場(名古屋市北区辻町)へ移転
- [14]1949年5月 名古屋・東京・大阪の各証券取引所に上場
- 中部財界人物伝(中部経済新聞社, 1957)
- [2]1899年 村岡嘉六が大隈栄一に招かれて名古屋に加わり、草創期の右腕となった
- [5]1906年 村岡嘉六が工場長に就任(日露戦争に応召・満洲転戦から復帰後)
- [6]第一次大戦期に陸軍砲兵工廠から小銃・銃弾製造機械を受注し、填薬装弾機を完成
- [10]1935年 自動車製造に乗り出し萩野工場を建設、日本車輛・岡本工業との三社提携で国産車「あつた号」を試作(日中戦争で量産断念)
- [13]村岡嘉六が1946年に社長就任、1948年に大隈孝一へ社長を譲り会長就任
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [4]1904年(明治37年)日露戦争開始にともない弾丸旋盤・立削盤などの製造を始め、これが工作機械生産のスタートとなった
- [9]1936年(昭和11年)無結節漁機の発明により東洋組工業(現・日東製網)を設立し、無結節漁網の製造・販売を開始
- [12]1945年(昭和20年)終戦とともに商号を大隈興業と改め毛紡績機械の製造を始め、1951年(昭和26年)再び大隈鉄工所に改めた
- [15]1951年(昭和26年)商号を「大隈鐵工所」へ戻した(1945年の「大隈興業」改称からの復帰)
大隈孝一の技術経営と自社NC「OSP」
大隈孝一は東京大学で機械工業論を講じた理論家で、技術畑から経営を率いた。その技術志向が、数値制御装置を自社で持つという判断に表れる。1963年、同社は自社製のNC装置「OSP」を開発した。当時の国内では制御を外部の専門メーカーに委ね、工作機械メーカーは機械本体に専念する分業が広がっていたが、孝一は機械も制御もオークマで作る道を選ぶ。制御を外に委ねれば機械の特性に合わせた調整が難しくなり、差別化の幅が狭まるという読みがあった。1969年には愛知県大口町に大口工場を新設し、汎用旋盤やマシニングセンタの生産を集約して量産の中核に育てた。 [16][17][18]
- 日経ビジネス(1980年4月21日)
- [16]大隈孝一は東京大学で機械工業論を講じた理論家・技術畑出身
- オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【事業の内容】
- [17]1963年(昭和38年)自社製NC装置「OSP」の開発に成功
- オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
- [18]1969年 愛知県丹羽郡大口町に大口工場を新設(主力機種の生産を集約)
自社で制御を持つ判断は、すぐには果実を生まなかった。NC装置の開発は長く採算に乗らず、機械と制御を一体で設計できる体制を抱えながら、それを収益へ結びつける筋道は見えにくかった。1960年代の同社には、売れるかどうかより技術的な完成度を優先する気風が強く、ユーザーの求める製品より作り手の関心が先に立ちやすかった。世界に先駆けてFMS(フレキシブル生産システム)の原型を試作して米国の見本市へ出しても、感心されはしても買い手はつかない。自社NCという重い選択が吉と出るのか凶と出るのかは、1970年代の経営危機を越えるまで判じきれなかった。 [19]
- 日経ビジネス(1985年4月29日)
- [19]オークマは早くからFMS(フレキシブル生産システム)の原型を試作し米国の見本市へ出品していた(買い手はつかず)
- 日経ビジネス(1980年4月21日)
- [16]大隈孝一は東京大学で機械工業論を講じた理論家・技術畑出身
- オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【事業の内容】
- [17]1963年(昭和38年)自社製NC装置「OSP」の開発に成功
- オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
- [18]1969年 愛知県丹羽郡大口町に大口工場を新設(主力機種の生産を集約)
- 日経ビジネス(1985年4月29日)
- [19]オークマは早くからFMS(フレキシブル生産システム)の原型を試作し米国の見本市へ出品していた(買い手はつかず)
オイルショックと大隈武雄の経営再建
1973年秋のオイルショックで工作機械の需要は冷え込み、同社の受注は1973年3月期の175億円から1975年3月期に116億円へ落ちた。1974年9月期に経常損失を計上してからは赤字が積み上がり、1977年9月期の累積赤字は36億円に達する。大隈孝一の体制で、1976年1月に従業員の約二割にあたる380名の希望退職を募り、大隈病院を売却し、本社工場の敷地約4万平方メートルを手放した。業界では「オークマはいつ倒産してもおかしくない」と取り沙汰され(日経ビジネス 1980/4/21)、資金繰りの苦しさは数年続いた。1963年に踏み切った自社NCへの賭けが吉と出るか凶と出るか、経営陣にも見通せなかった。 [20][21][22]
- 日経ビジネス(1980年4月21日)
- [20]受注高は1973年3月期175億円から1975年3月期116億円へ減少、1974年9月期に経常損失、1977年9月期の累積赤字36億円
- [21]1976年1月 従業員約20%(380名)の希望退職募集、大隈病院の売却、本社工場敷地約4万平方メートルの売却(大隈孝一の在任期)
- [22]1980年に業界で「オークマはいつ倒産してもおかしくない」との観測
1978年初め、1948年から30年にわたり社長を務めた大隈孝一が引責退陣し、孝一の妹婿で大隈家の養子だった大隈武雄が後を継いだ。技術畑の孝一に対し、武雄は営業畑を歩んだ行動派で、就任初日にベンツを含む社用車六台をすべて処分した。武雄は労働組合の三役を加えた経営会議を最高意思決定機関に据える「ガラス張り経営」を掲げ、副社長・専務や次長の職位を廃して社長と部長を直接つないだ。含み資産だった主力銀行株は、額面50円の400万株のうち50万株を残してほぼ売り払う。逃げ場のないオーナー経営として労使がともに退路を断ったことが、再建の前提となった。 [23][24][25]
- 日経ビジネス(1980年4月21日)
- [23]1978年初め 大隈孝一(1948年以来30年)が引責退陣、孝一の妹婿で大隈家養子の大隈武雄が社長就任(孝一は技術畑、武雄は営業畑)
- 日経ビジネス(1985年4月29日)
- [24]大隈武雄は就任初日に社用車6台(ベンツ含む)を処分、労組三役を加えた経営会議を最高意思決定機関とする「ガラス張り経営」を実施
- [25]含み資産の主力銀行株(額面50円・400万株)のうち50万株を残してほぼ売却
武雄が立て直しの柱に据えたのは、新技術の開発と品質向上による「売れる製品づくり」だった。技術者の関心を満たす機械づくりから市場性を見据えた開発へ切り替え、赤字続きだった自社NCを売れる製品へ作り直す。1978年に製造業がNC工作機の導入を本格化させると、OSPを積んだオークマ機が需要の回復をとらえ、就任から一年足らずで黒字へ戻った。1979年9月には米ニューヨーク州にオークママシナリーCorp.を設けて輸出機の現地サービス網を整え、1980年には過去最高の経常利益55億円を計上して倒産観測を覆した。1982年2月には本社業務を大口工場へ移し、生産と本社機能の集約を終えた。 [26][27][28][29]
- 日経ビジネス(1985年4月29日)
- [26]大隈武雄は「売れる製品づくり」を掲げ市場性重視の開発へ切り替え、赤字続きの自社NCを売れる製品へ企業化、就任から1年足らずで黒字復帰
- オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
- [27]1979年9月 米国ニューヨーク州にオークママシナリーCorp.を設立(輸出機のアフターサービス拠点)
- [29]1982年2月 本社業務を大口工場に移転(生産・本社機能の集約)
- 日経ビジネス(1980年4月21日)
- [28]1980年に過去最高の経常利益55億円を計上
- 日経ビジネス(1980年4月21日)
- [20]受注高は1973年3月期175億円から1975年3月期116億円へ減少、1974年9月期に経常損失、1977年9月期の累積赤字36億円
- [21]1976年1月 従業員約20%(380名)の希望退職募集、大隈病院の売却、本社工場敷地約4万平方メートルの売却(大隈孝一の在任期)
- [22]1980年に業界で「オークマはいつ倒産してもおかしくない」との観測
- [23]1978年初め 大隈孝一(1948年以来30年)が引責退陣、孝一の妹婿で大隈家養子の大隈武雄が社長就任(孝一は技術畑、武雄は営業畑)
- [28]1980年に過去最高の経常利益55億円を計上
- 日経ビジネス(1985年4月29日)
- [24]大隈武雄は就任初日に社用車6台(ベンツ含む)を処分、労組三役を加えた経営会議を最高意思決定機関とする「ガラス張り経営」を実施
- [25]含み資産の主力銀行株(額面50円・400万株)のうち50万株を残してほぼ売却
- [26]大隈武雄は「売れる製品づくり」を掲げ市場性重視の開発へ切り替え、赤字続きの自社NCを売れる製品へ企業化、就任から1年足らずで黒字復帰
- オークマ 有価証券報告書 第161期(2025年3月期)【沿革】
- [27]1979年9月 米国ニューヨーク州にオークママシナリーCorp.を設立(輸出機のアフターサービス拠点)
- [29]1982年2月 本社業務を大口工場に移転(生産・本社機能の集約)