池貝庄太郎(当時20歳)が田中久重工場(現・東芝)から独立し、池貝工場を個人創業した。1889年には日本で初めてとなる英国式9フィート旋盤の開発に成功し、輸入が主流であった工作機械の国産化に成功する。以後、池貝は日本における工作機械の名門企業として、旋盤およびフライス盤の製造によって業容を拡大する。
戦時中に軍需企業だった池貝は、終戦直後に企業再建整備法に指定され解体された。その後、1947年に2代目の池貝を設立して再スタートを切るが、この過程で池貝家は池貝に対する経営の影響力を失ったものと思われる。1960年代の池貝は興銀出身の経営者が社長を歴任した。
普通旋盤としては完成度の高い「A20」を開発。池貝の主力製品に育つものの、競合企業がより価格の安い旋盤を発売して対抗したため、池貝の収益性が徐々に低下する。
経営再建のために、興銀出身の舟橋邦夫が池貝の社長に就任。人員削減(300名の削減)や工場閉鎖(溝の口工場の売却)によって財務体質の改善を試みるが、NCやロボットといった最新技術や、工場新設といった設備投資への資金を捻出できなかった。