リクルートの創業者は、江副浩正氏である。東京大学在学中に「東大新聞」の制作に携わっており、企業の求人情報を新聞広告として募る「広告ビジネス」に足を踏み入れた。当時、学生新聞の広告は「麻雀」「書籍」などの広告が主流であり、就職活動の市場がニッチであったため就職広告の掲載は斬新なアイデアであった。
東大新聞時代には、丸紅とニチメンの会社説明会の開催を広告掲載。多くの東大生が説明会に参加したことで、企業からの信頼を獲得していた。これらの関係性が、リクルートの創業時にも生かされた。
江副浩正氏はリクルートの創業(1960年)から、1987年にリクルート事件で引責辞任するまで同社の社長を歴任。創業経営者としてリクルートのビジネスである「紙媒体を通じた広告ビジネス」を育て上げた。
就職試験のシーズンになると学内の掲示板に企業説明会の告知が出る。ちょうどその頃、丸紅が飯田と合併して丸紅飯田という会社になり、新しい会社として学内でやる企業説明会の広告を出したんです。それに予想を超える反響がありましてね。まず、大阪に人事部のある日綿実業(現ニチメン)が是非当社の案内広告も、と申し込んできたのを皮切りにして次々に告知広告が集まってきて、比較的早い時期に東大新聞の経営は軌道に乗り、安定しました。
1960年3月に大学新聞広告社を個人創業した。森ビルの雑居ビル「第2森ビル(東京西新橋)」の屋上に据えられた違法建築に入居し、2坪の事務所でリクルートが創業した。
創業時は、江副氏と、東大新聞に籍を置いていた鶴岡公氏の2名で事業に従事。就職活動のシーズン(2月〜7月)だけ忙しくなる季節性のあるビジネスだったため、出来る限り社員は雇わず、アルバイトで人手をまかなう方針で経営した。なお、アルバイトも学生を雇い、優秀なアルバイトを社員として雇用した。
事務所と言うより物置小屋に近いものでしたよ。当時、博報堂にいて手伝ってくれた森村稔(現リクルート専務)の大学時代の親しい友人で、私の先輩であった森ビルの森稔専務が好意で貸してくれたものでしてね。広さは2坪半、家賃7000円、敷金なし。西新橋の第2森ビルの屋上に作られたペントハウスで、トタン屋根だから夏は部屋の温度が40度近くになる(笑)。この違法建築の屋根裏部屋が、リクルートの創業の地です。
旧帝大、早稲田、慶應の学生新聞から広告枠を買い付けて、大手企業に販売するビジネスであった。高学歴の学生へのアプローチが可能となるため、学生をリクルーティングしたい大手企業が広告主として顧客となった。
このため、創業時の江副氏の仕事は、全国各地の大学に赴き、学生新聞の広告枠を仕入れることにあった。
江副氏の当時の仕事ぶりは、夜行で大阪へ行き、昼間は会社回り、夜は現地の大学新聞と打ち合わせ、夜行で東京に帰って、また朝から仕事というやり方で、創業から1年あまりは、日曜日を含めて半日休んだのが1回だけ。夜11時より早く帰宅するのはまれで、入浴も週1日以下。新聞を読む暇もない、若さのみが頼りの毎日だった
創業当時のリクルートの顧客は、「日綿実業(現・双日)」や「日立造船(大阪本社)」など、関西に拠点を置く大企業が中心であった。
リクルートの最初の顧客は日綿実業(現・双日)及び丸紅であった。これらの商社は大阪に拠点を置き繊維取引が本業であったが、取り扱い品目を拡大する上で東京進出を目論んでおり「東京大学を卒業する学生を採用したい」というニーズを持っていた。初年度の売上高は450万円だったという。
なお、顧客開拓の過程で、1963年に八幡製鉄(現日本製鐵)との取引を開始するにあたって、法人でないと経理(源泉徴収)の取り扱いに困るという理由から、江副氏は法人化を決定。要請があった翌日に「株式会社のつくり方」という著書を買い、資本金60万円で登記を完了した。これをもって、1963年に株式会社日本リクルートセンターを設立し、株式会社に組織変更した。
最初に手掛けたのは、現在のニチメンです。ただこれは、向こう様からぜひ東大の卒業生を取りたいとの申し出があったからです。最初にこちらからアプローチしたのは丸紅でした。
リクルートは大企業と取引をしていたが、社会的信用がない企業であったため、都市銀行からの融資を受けることができず、創業期は資金繰りに窮していた。
そこで、江副社長は芝信用金庫の田村町支店に赴き融資を依頼。田村町支店の行員は、リクルートのビジネスモデルを高く評価して融資を決定した。
ただし、江副氏の父親が所有していた土地を担保として、300万円の借入を実施している。
創業当初で信用力はないし、大手の銀行は相手にしてくれない。ということで、芝信用金庫の田村町支店にお願いに行きまして、「これだけの一流企業がこの仕事の必要性を認めているんです。ぜひ面倒を見てください」と頼み込みましてね。もちろん、父が人に貸していた土地、家屋を担保にしての借入だったが、窓口の人の理解がありまして「担保能力はないし、支店長は心配していたけど、私は、あなたのやろうとしている仕事は絶対に間違いない。あなたなら間違いない、と確信して頑張ったんですよ」と、2回目のお願いで300万円の融資を了承してもらった。あの時の言葉は一生、耳にこびりついて離れないでしょうね。
1962年に「企業への招待」の冊子を創刊し、企業から掲載広告を得るビジネスを開始。就職活動する学生に向けてDM(ハガキ)を送付して、希望者に冊子を配布した。当初から1000名以上の学生に配布しており、ニーズの高い冊子であったため、いかに企業から「掲載料≒広告」を徴収できるかが収益化の鍵を握った。
すなわち。リクルートのビジネスの特色である、広告媒体(=冊子)を自社で内製化しつつも、広告主を自ら開拓するという「広告と媒体の分業を取らない体制」は、企業への招待によって確立された。
企業に対しては広告の営業活動を行い、創刊号の掲載企業数は66社に及んだ。なお、営業活動の成約率は「都内で1日12〜13社訪問」「商談に進むのが6〜7社のうち1社」「最終的な商談成立は10社のうち1社」という打率であったという。
このため、営業活動では見込み顧客である大企業を中心に訪問数をいかに増やすかが重要となり、リクルートの営業の特色である「ビルを巡って足で稼ぐ営業スタイル」が定着した。
1966年に出版社のダイヤモンドが就職領域に参入し、情報冊子「就職ガイド」の刊行を開始した。当時のリクルートの売上高2億円に対して、10倍の売上規模のダイヤモンドが参入したため、厳しい状況が予想された。このため、リクルートは「非常事態宣言」を全社に号令し、新規開拓などの営業強化で対応した。
このため、就職領域においては市場独占には至らなかったものの、リクルートは先発企業として互角に戦った。
我々がこの仕事を始めた時、持っていたものといえば、わずかな広告営業の経験と印刷知識だけで、ゼロからのスタートに等しかった。(略)「リクルートブック」を創刊するときにも、どうすれば良いか何もわからなかったので、当然のことながら、「わからないことはお客様に聞く」という方法をとった。大学新聞で取引のあった会社を中心に、200社ばかりの企業を訪ね、採用担当者に直接、意見を聞いて回った。「配本の対象大学はどこに」「事務系と技術系は分けた方がいいか」あるいは「掲載量はいくらぐらいなら参画してもらえるか」と言ったことである。ツカ見本を作って、紙質の良否まで、見込み客に聞いて回った。
当初予想していたよりも企業側の見込み客は総じて好意的で、積極的に意見を提供していただいた方も少なくなかった。
1971年にリクルートは西新橋に本社ビルを竣工し、土地を同時に取得して不動産事業に本格参入した。以後、新橋・銀座地区においてオフィスを土地付きで新設することで、企業として「箔を付ける」ことを目論んだ。
1974年からは分譲マンションの販売に参入。きっかけは、長谷川工務店から「ネオコーポ行徳」を提案されたことが発端であり、マンション市場が急速に拡大することを期待して本格参入に至った。リクルートの創業者である江副氏と、長谷川工務店の副社長が高校時代の同窓であったことが、縁の始まりであった。
1970年代から1980年代にかけてリクルートは不動産事業に本格参入を果たし「情報誌」と「不動産」が主力事業となった。なお、分譲マンション事業に関しては、グループ会社の「リクルートコスモス社」で事業を遂行する形をとり、本社である日本リクルートセンターとは分離した。
この結果、1987年にはリクルートコスモスは売上高1757億円を記録し、日本リクルートセンターを凌駕するなど、急成長企業として注目を浴びた。ところが、リクルートコスモスの株式公開をめぐって収賄疑惑(リクルート事件)が発覚した点や、バブル崩壊による土地価格の暴落によって巨額損失を計上。リクルート本社がリクルートコスモスの経営危機を救済する形を取り、リクルートグループにおける「諸悪の根源」をもたらすに至った。
たまたま昭和49年に、長谷川工務店が建てたネオコーポ行徳の販売を引き受けたのが事業のこう矢である。リクルート・グループの創始者で当社の現会長の江副浩正が、中学以来の親友である長谷川工務店の合田副社長から、「ネオコーポ行徳をリクルートで売ってみないか」と言われ、もし売れ残ったら当社の社宅にして良い、ぐらいの気持ちでスタートした事業である。だが、事業を進めるにつれ、マーケット・チャンスの大きさを確信してきた。マンション事業は昭和40年代に始まった若い産業なので、当社のような後発組でも、研究と工夫を重ねれば、業界のトップまで行けるのではないかと、産業の若さに着目したのである。
リクルートの江副社長は、広告市場において「不動産広告」の割合が増加している点に着眼。1970年代を通じて分譲マンションや郊外戸建て(マイホーム)のニーズが高まりつつあり、成長市場として期待されていた。
そこで、リクルートは従来の「就職情報」からの多角化を狙い、「不動産・住宅」に関する情報流通に参入することを決定。1976年に首都圏地域に向けて情報誌「住宅情婦」を月刊で創刊した。ニーズは住宅ニーズが根強い「ファミリー層」に寄り添う形をとった。
1981年時点の住宅情報の収益源は「掲載広告(1ページ104万円)」および「雑誌売値(200円)」であった。1冊子あたりの売上高は「1363円」となり、掲載広告によって売り上げを確保するモデルを採用した。
なお、冊子の刊行開始から11カ月間は赤字が続いたものの、1年が経過した12号の発刊時点で認知度が高まり黒字化を達成。住宅情報により成約が広まるにつれて、掲載物件数が拡大するサイクルに突入した。この間、おとり物件を排除するために「情報審査部」を設けて品質を担保するなど、読者ニーズに応える体制を構築。
この結果、1982年頃の時点で首都圏版は「週刊」にて22万部を発刊するに至り、同年12月期に売上高150億円を達成。前年度比で2倍弱の売上成長となり、驚異的な伸び率を記録した。
住宅情報の成長により、1981年時点のリクルートの売上構成は変化。祖業の広告事業(リクルートブックなど)が271億円、住宅情報事業が154億円、教育新聞広告事業(進学ブック)が82億円、人事教育事業が39億円、その他52億円(研修・出版・映像)となり、広告事業に匹敵する規模に発展した。
このため、リクルートにとっては「住宅情報事業部」の好調が、祖業である「就職・転職情報」から脱却する契機となった。
新聞、テレビであれだけ氾濫している住宅広告・CMだ。うちの「住宅情報」はツーウェイ・コミュニケーション。供給者と需要者を結びつける理想的な形なはず。必ず世に受け入れられる。
1980年代を通じてリクルートは土地取得のための投資を積極化し、銀座周辺のオフィスおよびマンション分譲事業における用地取得を本格化した。1980年頃には日本軽金属から銀座のビルを約200億円で取得し、リクルートの本社ビル「G8」としての活用を開始した。
ただし、数百億円規模のキャッシュが必要となったため、これらの資金を銀行からの借入金によって充当する方向性をとった。特に、1983年度から1984年度にかけて、1年間で1000億円の借入を実施。この結果、1984年12月期の時点でリクルート(単体)において、資産合計2756億円に対して有利子負債(長短借入金)1998億円となり、有利子負債比率72.4%の水準に高まった。
銀行がリクルートに融資した理由は、情報誌を中心とするビジネスが好調で年間経常利益150億円を確保していたことや、バブル景気によって土地が値上がりしていたためであった。このため、リクルートは土地の含み益を前提とした財務戦略をとり、自己資本比率に配慮しない指針をとった。
自己資本比率を何%に持って行こうなどという財務バランスについてもビジョンは当社にはありません。必要な資金は可能な限り都合をつけます。
子会社のリクルートコスモスの未公開株式について、政治家に賄賂として提供したことが発覚し、日本の政財界を揺るがすスキャンダルに発展した。
この結果、リクルートは社会的な非難を受けて、リクルートの創業者である江副浩正は責任をとる形で社長を辞任した。加えて、リクルートに対する信頼が失墜し、リクルートの業績が低迷する原因となった。
なお、リクルートの創業者である江副浩正は2003年に執行猶予付きの有罪判決を受けた。その後、2013年に江副氏は76歳にて逝去。
1988年に後任として位田氏がリクルートの社長に就任。本業の情報誌に回帰する方針を打ち出すとともに、社会的信用を取り戻すために企業理念の制定などを行った。
しかし、不動産事業からの撤退を決断できなかった。このため、1990年頃から進行したバブル崩壊によって、グループ会社のリクルートコスモスで土地含み益が消滅し、巨額な有利子負債が重しとなる状態が発生した。これらの負債をリクルート本社が肩代わりする形をとったため、リクルートの財務状況が大きく毀損する状態となった。
江副氏の逮捕に伴って同氏が株式売却の意向を表明し、リクルートは資本政策上の問題を抱えることになった。リクルートは非上場企業であったため、江副氏が保有する株式の引受先が必要になった。そこで、江副氏は独断で大手小売業の「ダイエー」との株式交換を実施。自身のリクルートの株式を35.2%を売却したことで、リクルートはダイエーの関係会社となった。
ダイエーへの株式売却は唐突であったため、リクルート創業者の江副氏と、後任のリクルート社長の位田氏は深刻な意見対立に陥った。位田氏は不動産事業に関与せず、ダイエーとの人材交流を行わない独立路線を目指したのに対して、江副氏は不動産事業の継続と、ダイエーからの人員派遣を容認するように考えていた。すでに江副氏は退任したにもかかわらず、経営に口出しをする形となり、経営陣の反感を買った。
このため、リクルートの創業者と経営陣は深刻な対立関係となり、ダイエーは両者の対立の混乱に巻き込まれる形となった。
2000年前後にダイエーが経営危機に陥ったことを受けて、リクルートはダイエーから株式の買い戻しを実施。2000年にリクルートは1000億円で株式25.2%を取得。
残りの約10%の株式については、2006年までに「あおぞら銀行・アドバンテッジ・農林中金」の3社が約550億円で取得した。この結果、2006年までにリクルートはダイエーとの関係に終止符を打ち、独立経営に回帰した。
ダイエーへの株式売却は・・
江副氏:リクルートが銀行管理下に置かれるよりも、ダイエーグループ入りした方が従業員にとって幸せと考えた。
位田氏:銀行管理下に置かれる状況に至っていない。リクルートグループは自主再建できる。株式売却は株主の一人がダイエーに代わっただけのことに過ぎない。
グループ再建について
江副氏:リクルート、リクルートファイナンスは兄弟関係にあるのだから、仲良く協力して再建に取り組んでほしい
位田氏:債務保証はしていないし、法的に面倒を見なければいけないという義務はない。役員会の了承を得て、リクルートにとってマイナスにならない範囲で支援する。
ダイエーとの人材交流について
江副氏:親戚となった以上は、例えばリクルートコスモスの社員が出向しても良いと思う
位田氏:こちらから人を出す気はないし、ダイエーからも役員以外の派遣もあり得ない
バブル崩壊によってリクルートのグループ会社である「リクルートコスモス(不動産会社)」の財務状況が悪化。同社の経営を救済するために、不動産事業で生まれた有利子負債について、リクルート本社が肩代わりすることで倒産を回避する道を選択した。
なお、リクルート単体では株式上場をしておらず、事業運営にあたっては「本業収益」「金融機関からの借入」でキャッシュを確保しており、地道に借金を返済する道しか残されていなかった。加えて、FY1998における「資産に対する有利子負債比率」は約80%%に及んでおり、本業収益が頭打ちになって借金の返済が滞ることは、リクルートの倒産(債務超過)を意味した。
返済計画の面で、1995年3月期末時点でリクルート本社の有利子負債は1.4兆円に及んでおり、数年で返済が完了する規模ではなかった。当時のリクルートの営業利益は600億円であり、借金返済には20年以上がかかるため、リクルートとしては「借金返済をしつつ、本業収益を強化する。しかし借金のために再投資は不可」という難しい状況で、事業を遂行する必要が生じた。
このため、1990年代から2000年代に通じて、リクルートは本業で生まれた収益を「借金返済」に当てることで、事業経営を遂行。投下資本が小さいサービス業(情報産業・HR派遣領域)を中心に収益を強化することで、地道に借金を返済していった。2000年代にはリクルート単体で営業利益1000億円を確保できようになり、有利子負債の返済ペースが速まった。
なお、リクルートは有利子負債の圧縮にあたって、特別損失の計上を利用している。これは、リクルートコスモスから引き継いだ膨大な負債(不動産などの不良資産と推察)について、特別損失の計上によって資産の再評価を行なったためと推察される。なお、単年度の一括で特別損失を計上しなかった理由は不明だが、仮に不良資産を一括で損失計上した場合、リクルート単体の財務がもたない(債務超過に転落)ためであったと推定される。
この結果、2007年にリクルートの有利子負債は375億円となり、財務体質の健全化を完了した。ただしその代償として、企業買収といった投下資本が必要な積極施策を打つことができず、事業成長の面では課題が残った。
30歳以上のリクルートの社員が退職時する際に「1000万円」を退職金として支払うOPT制度を開始。社員が独立や転職をしやすい仕組みを整備し、人員数を抑制してコストカットを維持するとともに、社内を若手中心の組織で維持する方向性をとった。この結果、1997年頃のリクルートにおける離職率は「6〜8%」で推移した。
ただし、リクルートの経営陣としては、スリムな組織を維持できた一方で、優秀とみなされる社員が転職する事象に対して、本音ベースでは悩みを抱えていた。それでもOPT制度が推進された理由は、巨額な有利子負債を完済する上で、固定費を最小限に抑えて高収益を維持する必要があり、結果として高齢かつ高給な社員を雇い続けることが難しいためであったと推察される。
2010年代までのリクルートは「38歳に退職金が最大になる」(2014/1/29東洋経済オンライン)と言われ、年齢層とピラミッド組織構造が維持される人事制度をとった。このため、リクルートは「人材輩出企業」として長らく注目を浴びることになった。
ただし、退職金の優遇制度は2021年に廃止し、人事制度における方針転換を行なっている。
ただ、昨今の私の心配は、離職率が6〜8%になりますと、やはり優秀な人が流出しているんじゃないかということです。実際、当社の決算を銀行の方に説明した時、「松永真里さんみたいな優秀な方も辞められたんですね」と、おたくは大丈夫ですかみたいなご質問をいただいたことがあります。社内にも(オプトとかフレックス選択定年は)やめてくれと言わんばかりの制度なので、もっと人を引き留めるグリップを強めようという意見があるんです。
もちろん、別の見方もあって、「ある時期に五千数百人もいたのが、今では3000人位で大変活性化している。非常に素晴らしい組織の再構築をされたんですね」なんて言われることもありますけれど。要するに2通りの見方があって難しいですね。
1997年に河野栄子氏が社長に就任。リクルートとしては初の女性社長として注目を集めるとともに、女性でも活躍できる会社というイメージを浸透させるきっかけとなった。
河野氏は1969年にリクルートへ入社して以来、営業として貢献。従来のテレアポ営業に疑問を抱き、企業を直接訪問する「飛び込み営業」のスタイルをゼロから確立し、社内で一目置かれる存在となった。飛び込み営業では、売り込み先の企業に対して競合企業の情報を提供することによって、商談の糸口を掴んだという。
河野氏は副社長を2年間歴任するなかで、事業統括として業務を遂行。本業の収益を確保したことが評価され社長に抜擢された。ただし、リクルート事件の直後の1991年に位田氏が社長に就任した時点で、河野氏は次期社長候補として確実視されていたともいう。
1997年から2003年にかけて、河野氏はリクルートの社長を歴任。この間、本業で高収益(営業利益率約30%)を確保することによって有利子負債を圧縮し、リクルートの財務体質の改善に寄与した。
その一方で、インターネットの普及というタイミングに巡り合いながらも新規事業の創出で苦戦。有利子負債の返済を急ぐ必要があり、ネット領域などの新事業に注力できなかったという事情もあるが、この結果としてネット関連事業(ECなど)には出遅れ、依然として「情報誌」ないし「既存サービスのネット化」にとどまった。人材派遣領域でも子会社「リクルートスタッフィング」を通じて売上成長を成し遂げるが、業界5位に甘んじた。
このため、リクルートの事業内容に変化はなく、組織運営における課題が浮き彫りとなった。優秀な社員が成長著しい他社(NTTドコモ、サイバーエージェント、楽天など)に転職し、キーパーソンとして活躍する事象が多発した。
ただし、これらの遠因となった「巨額な有利子負債」を作り上げた根源は、リクルートの創業者である江副氏であり、河野氏が背負うべき責ではないという側面もある。
1980年代を通じて派遣業の一部解禁を受けて、1987年にリクルートは子会社「シーズスタッフ」を設立して人材派遣業に参入した。子会社による参入理由は、免許など法令に準拠するためと思われる。
ただし、1990年代を通じて人材派遣業は通訳などの一部の業種にも限られており、市場の拡大は限定的であった。参入4年目の1991年時点で売上高100億円を達成するが、その後はバブル崩壊直後による派遣需要(専門職ニーズ)の一時的な縮小により、売上成長が鈍化した。
2000年前後に日本政府による派遣業の規制緩和が進行し、特に製造業向けの派遣解禁を受けて、人材派遣の市場拡大が決定的となった。この規制緩和によって、バブル崩壊による固定費削減の波と、派遣ニーズがマッチし、結果として「派遣業の市場急拡大」の趨勢となった。
そこで、1999年頃からリクルートは人材派遣業の事業展開を本格化。人材派遣子会社の商号を「リクルートスタッフィング」に変更し、急増するアウトソーシングおよび人材派遣のニーズに対応した。
事業展開においては専門分野に特化するのではなく、幅広い業種を募集。全方位における派遣ニーズを汲み取る形で、売上成長を志向した。
リクルートスタッフィングは首都圏などの都心部では業容を拡大していたが、地方展開が手薄な問題があった。そこで、各地方における有力な人材派遣会社を買収することで展開地域を拡大。求職者および派遣先を買収を通じて確保することで、規模の拡大を志向した。
2004年に売上高約120億円のオリファを買収することで、札幌・仙台・広島・福岡の拠点を拡充するなど、地方展開は買収に頼る形へ。国内の拠点数は約40箇所を確保するに至り、派遣ニーズを全国的にカバーする体制を整えた。
この結果、ピーク時の2009年3月期にはリクルートスタッフィング(単体)で売上高1728億円、リクルート連結における派遣カンパニーでも売上高2317億円を計上した。
リクルートスタッフィングは1980年代に参入した先発組であったが、バブル崩壊後の1990年代に競合対比で決定的な差をつけられる事態に陥った。業界トップのスタッフサービスが」広告宣伝(TVCM)への積極的な出稿」と「1社でも多く訪問する営業体制の強化(頭脳営業の放棄)」により躍進した。
この結果、リクルートスタッフィングは「派遣社員の量的確保」と「派遣先の量的確保」の両面で出遅れ、2007年時点で国内人材派遣業界における売上高で5位と低迷した。
このため、リクルートは「リクルートスタッフィング」の単体での成長を諦め、2007年12月に業界1位の「スタッフサービスHD」の買収に踏み切る形となった。(詳細は後述)
2008年頃からリーマンショックの影響を受けて、リクルートスタッフィングの成長が鈍化。2011年3月期には売上高1272億円となり、大幅な減収決算となった。景気悪化を受けて、リクルートスタッフィングでは従業員500名の削減(減少)を行うなど、経営体質の強化に舵を切った。
1990年代までのリクルートは情報誌においては「大都市圏」を基軸として発刊しており、地方をカバーしていないという問題に直面していた。これは、対象人口が少ないローカルな地域においては「専門誌」のニーズが、少ないことが理由であった。
そこで、1994年にローカルな地域に「総合的な生活情報」を提供するための冊子として「サンロクマル」の配布を開始し、ローカルビジネスに参入した。想定読者は20〜30代の働く女性としたため、結果として広告の主戦場は「エステ」となった。
対象地域は札幌などの13エリアであり「地域×総合誌」を志向することによって、ローカル企業に対する広告ニーズの発掘を模索した。ただし、地方において情報誌を成り立たせることは容易ではなく、赤字が続いたという。
日本国内におけるクーポンビジネスは、景品表示法によって規制されてきたが1980年代後半から徐々に緩和。これを受けて、1990年代以降に様々なクーポンビジネスが誕生し、新しい集客手段として注目を集めつつあった。
時を同じくして、1990年代を通じてリクルートは「サンロクマル」の展開地域の中でも、札幌地区の業績が好調な点に着目。その理由は、クーポンの配布をメインにした冊子構成をとっていることであり、リクルートの本社はクーポンを前面に打ち出したローカル冊子を全国展開すべく、新冊子の企画を本格化した。
すなわち、ホットペッパーにおける「地域特化型のクーポン冊子」というビジネスの構想を最初に実現したのは、札幌地区における「サンロクマル」に携わった人々であり、その人々こそがホットペッパーの真の意味での創刊に携わった人という側面がある。
2000年7月にリクルートは「ホットペッパー」を試験創刊し、地方都市である「新潟・長岡・高松」の3か所で配布を開始した。これらの地域でのテストを経て、2001年7月には8エリア「渋谷・新宿・銀座・名古屋・茨木高槻・姫路・熊本・郡山」での配布を開始した。
この間、リクルートは地域の区切り方を模索していたと思われる。ホットペッパーは特定の地域を対象とした「クーポンつき広告冊子」であり、商圏人口と人口密度によって、冊子が扱うべき商圏範囲が規定されるためである。よって、収益を最大化できる地域の区切り方に関して、その傾向を見出そうとしたと推定される。この結果、2km圏内に商圏が集中する地域を一つの区切りとした。
2001年7月にホットペッパーの配布エリアは30地域に及び、本格的な全国展開に至った。冊子は無料であり、店頭や駅などのラックで配布する形式をとった。
全国展開にあたって、リクルートの広告営業網が手薄な地方都市においては、各地域の有力な広告会社と提携。すでにある営業基盤を生かして、ホットペッパーの迅速な立ち上げを志向した。
2002年には「ホットペッパー」を全国で400万部配布する体制を整え、2002年度におけるホットペッパーの売上高は147億円を達成。クーポン付きの無料冊子として急成長を遂げた。
ところが、2000年代後半に売上高400億円台に到達したものの、同業他社による参入により競争が激化。2010年3月期にはリーマンショックによる広告市況への悪化もあり、ホットペッパーを担当する「街の生活領域」において売上高が前年度対比2.8%減の減収決算(売上高465億円)となった。以後、ホットペッパーの業績は非開示となり、全容の把握は困難となった。業績低迷を受けて、2010年ごろからホットペッパーの美容版(ホットペッパービューティー・2007年提供開始)において、「クーポン冊子」ではなく「顧客予約サイト」としての価値を訴求する道をとった。
この一方で、地域の生活情報誌としての「ホットペッパー」の価値は低減。webの普及によりクーポン冊子のニーズが減少し、2023年にリクルートはホットペッパーの冊子配布の休止を決定した。
R25の創刊のきっかけは、リクルートの社内新規事業の応募制度を通じて、25歳以上の男性をターゲットとした情報誌が立案されたことに始まる。ホットペッパーに次ぐ情報誌であり、相対的に手薄であった「男性読者層」「大企業向け広告」を開拓する狙いがあった。
「ホットペッパー」が女性向けのクーポン冊子という位置付けに対して、「R25」は男性向けの情報誌という位置づけで運営。25歳以上の都内で働く男性サラリーマンに対して需要がある情報を提供する冊子として、提供は週替わり(毎週木曜日発刊)とした。なお、創刊号における誌面比率は、全52ページのうち、編集記事37ページ、広告ページ15ページとした。
この結果、リクルートとしては成長が期待できる無料冊子の市場において、働く女性層に向けた「ホットペッパー」と、働く男性層に向けた「R25」という棲み分けを狙った。
創刊当初から首都圏において大々的な展開を決定。2004年3月のプレ創刊では「都内を中心に20万部」を発刊し、3ヶ月後の2004年7月からは「首都圏全域で50万部」を発刊する体制をとった。
主な配布場所は都内の主要駅(私鉄・地下鉄)を中心に、サラリーマンの通勤導線を重視。R25はホットペッパーが開拓した「東京都内の地下鉄駅のラック」を中心に、配布場所を確保した。
ホットペッパーが中小企業(飲食店・美容室など)が広告主であったのに対して、R25は大企業からの広告獲得を目論んだ。これは、ホットペッパーが個人店で利用できるクーポンを売りにしていたのに対して、R25の顧客は「都内勤務のサラリーマン」であり、ビジネス層にアプローチしたい大企業からの広告獲得を目論んでいた。
ただし、R25では広告単価を高額に設定したこともあり、広告獲得に苦戦したという。このため、2005年にリクルートと電通が共同出資して「株式会社Media Shakers」を設立。大企業向けの広告営業に強い電通と組むことで、R25の高単価な広告獲得の実現を目指した。とはいえ、営業を電通に任せる形となったため、広告獲得のコミッションを支払う必要があり、R25におけるリクルート側の利益が圧迫される形となった。
2010年代以降にスマートフォンが普及すると、隙間時間にスマホサイトを閲覧することが定着し、冊子ニーズが減少。R25は発行部数維持のために、2009年に「週刊(月4回〜)」から「隔週(月2回〜)」に変更。2011年からは大阪・名古屋での冊子配布を決定するが、伸び悩みが継続した。
2014年7月からは首都圏のみに特化して名古屋・大阪での配布を中止。発行部数は従来の55万部から25万部へと半減させ、広告単価を下げることで存続を図った。ただし、これらの施策も効果に乏しく、2015年にリクルートはR25の紙面配布における休刊を決定した。
その後もR25はwebメディアによる運営を2017年まで続けたが、メディアを取り巻く競争環境が厳しく広告の確保に苦戦。2017年にR25を運営する「株式会社Media Shakers」をサイバーエージェントに売却することで合意した(売却額は非開示)。
2005年にリクルートは子会社のリクルートコスモスの売却を決定。バブル崩壊により財務危機を招いた不動産事業から完全撤退をすることを決めた。
リクルートコスモスは財務体質の健全化に目処が立ったことを受け、売却の目処が立ったことからMBOによる売却を実施した。売却先は投資ファンドのユニゾンキャピタルであり、リクルートとしては「HR・情報」の領域に経営資源を集中した。
リクルートによる売却後、リクルートコスモスは商号を「コスモスイニシア」に変更して株式上場を維持。引き続き不動産販売を中心とした事業展開を志向した。
ところが2008年のリーマンショックを機に業績が悪化。マンション販売も低迷し、保有していたマンション在庫(不動産)の価格が暴落したコスモスイニシアは451億円の債務超過となり、財務危機に陥った。自力での経営再建は困難となり、2009年にADR手続きを実施して実質的に倒産した。
コスモスイニシアは金融機関からの支援(債権放棄)を受けて事業および株式上場を継続。同時に大和ハウスからの出資を受け、2013年には大和ハウスによって子会社化された。
コスモスイニシアが2009年に451億円の債務超過に陥ったことから、結果としてリクルートによる同社の売却は「成功」となった。リーマンショック直前の不動産市況が良いタイミングで同社を切り離したことで、数百億円の損失を抱えずに済む形となった。
当社は、リクルートコスモス設立以来、筆頭株主として資本関係を継続してまいりました。平成初頭のバブル崩壊時には、約3,500億円に上るリクルートコスモス関連不動産を取得し、同社の再建計画の実現に協力いたしましたが、その後は、大株主としての立場で互いの独自性を尊重し、それぞれの事業推進に取り組んでおります。
一方当社は、当社グループの再建計画を実行すべく、「事業の選択と集中」を経営方針に掲げ、従来からの主力事業であります人材関連事業、及び情報サービス事業への経営資源の集中を進め、ノンコア事業からの撤退、売却を行ってまいりました。このグループ再建計画も概ね最終局面を迎えつつある現状において、改めてリクルートコスモスグループとの資本関係についても見直す中、ユニゾン及びリクルートコスモスとの間で有意義な合意を得たため、ここにリクルートコスモスの経営権をユニゾンに移行することを決定いたしました。
2007年12月にリクルートは国内1位の派遣会社「スタッフサービスHD」の買収を決定した。同社は非上場企業であったが、積極的な営業展開によって、事業規模を拡大していた。
リクルートの狙いは業界首位の確保であった。すでにリクルートは子会社の「リクルートスタッフィング」にて派遣事業を展開していたが、売上高1500億円前後であり業界5位に甘んじていた。そこで、業界1位のスタッフサービスHDを買収することで、業界トップに躍り出ることを狙った。
ところが買収直後の2008年にリーマンショックが発生。日本国内では臨時雇用者の契約終了が相次ぎ、派遣各社で業績が悪化。リクルートの派遣2社(スタッフサービス、リクルートスタッフィング)においても業績が悪化する事態に陥った。
このため、リクルートは派遣事業の縮小(人員削減)を実施するなど、スタッフサービスHDの買収直後から前途多難なスタートとなった。
2012年にリクルートHDのCEOに就任した峰岸真澄氏は「HR分野でグローバルのトップ企業になる」という戦略を遂行した。このため、2010年代以降のリクルートの経営戦略の主眼は、国内ではなくグローバル展開に変化した。
リクルートがグローバル展開にあたって買収を選択した理由は、2000年代の中国への単独進出で失敗した経験があったためであった。現地の社員をマネジメントできず、結果として組織運営に苦戦した。
このため、海外進出は企業買収による参入を基本路線とし、まずは2010年代前半までに10億円前後の小粒な企業買収を繰り返すことで、買収後のPMIのノウハウを構築していった。
そして、PMIのノウハウが一定量たまった2012年の時点で、大規模な買収を実行する体制を整えた。買収における予算規模は非開示だが、1000億円前後の買収枠(予算)を確保したものと思われる。
2010年前後のリクルートにおける買収は、海外における「派遣会社」の買収が中心であった。このため、テック企業を目指す路線は、明確には打ち出されていなかった。したがって、リクルートのHR領域でトップを目指す方向性の中の具体策である「何を中心に展開するか」という軸に、テック路線という方向性は、社長を含めた経営陣の間では、考慮されていなかったと推定される。
2012年に社長になったのですが、最初のアジェンダというのは、グローバルか国内かという選択でした。もともとは国内の人材派遣会社、今でいうメディア&ソリューションが基盤だったんですよ。海外の売上比率は3.7%くらいしかなかった。
国内では主要な領域は全てナンバーワンのポジションでしたから、もっと強いナンバーワンになるのか、それとも海外に打って出るのかというクリティカルな論点でした。社長就任前の10年ごろからこの議論はしていたのですが、どうせ海外に出るんだったら中途半端にではなく、われわれのオリジンである人材ビジネスの世界ナンバーワンになるぞと決めました。
自前で進出するかM&A(企業の合併・買収)をするかについては、2000年初頭に中国に進出したときの反省がありました。商習慣も分からないし、日本のビジネスモデルとマネジメントをそのまま持っていってもうまくいかなかった。ですので、M&Aにしました。(略)
(注:Indeedが買収候補に上がったときは)「何だ、その会社は」と(笑)。まだあまり知られていない会社だったので。当時、われわれは「人材ビジネスのナンバーワン企業になる」とアナウンスしていたので、世界中の人材ビジネスのプレーヤーを探して交渉していたのですが、そのときに数社あった候補のうちの一社でした。
実はその数社の中には、古いビジネスモデルだけれども、うちが買収すれば間接コストの削減や、削減による相当なリターンを得られるという会社もありました。その会社はIndeedよりもっと安かった。Indeedは04年に創業して、何十億円も赤字を出していた時期があったのに1000億円という買収金額でしたからね(笑)。
日本では無名だったテック企業であるIndeedが買収候補のパイプラインにあげられた理由は、リクルートの社員として新規事業開発を担当していた出木場久征氏(2012年当時36歳)が、同社の創業者に惚れ込み、事業の将来性を見込んで買収を提案したためであった。
すなわち、Indeed案件は、リクルートの経営陣が率先して検討した始めたわけではなく、出木場久征氏という個人が熱望したことが発端となっている。
リクルート社内では、Indeedの買収検討と並行して、別の候補として派遣領域の海外企業の買収検討が進められた。このため、リクルートの経営陣は「安定収益が可能な派遣領域」と「未知なるテクノロジー領域」で天秤をかける形となった。
Indeedは検索求人を展開するベンチャー企業(2004年創業)であり、2012年時点で社員数550名前後のテック企業であった。
業績面では、売上収益100〜200億円(日本円換算)を計上していたと言われるが、年間数十億円の赤字を垂れ流しており、買収時のPERは0倍であった。コストの内訳は非開示だが、ユーザー確保のための広告宣伝(販促)や、システム開発のための人員と推定される。
このため、Indeedの買収にあたっては「将来の黒字化」を前提とした、成長企業の側面を評価した買収になることを意味した。
株主であるVCなどから売却可能性を打診されたことを受けて、リクルートは買収のためのDDを開始。数週間から1ヶ月という短い期間でDDを完了し、経営陣は買収の是非を検討した。なお、Indeedの買収の想定価格は1000億円前後であり、簡単に決断できる規模感ではなかった。
その上で、2012年に米国のHRテック企業のIndeedを10億ドルで買収することを決断した。リクルートとしては約1000億円を投じた初の巨額買収であった。
なお、買収を決断した峰岸社長に対して、某役員から「買収に失敗したら車内の立場が悪化するよ」と進言されるなど、Indeedの買収を巡ってはリクルートHDの社内でも議論が紛糾したと思われる。それでも買収を決断したのは、峰岸社長がテクノロジーの将来性に賭けたためと推察される。
2012年のIndeedの買収を機に、リクルートHDは「無形固定資産」を計上。当時のリクルートは非上場企業であるためIndeedに該当する詳細な金額は非開示だが、買収金額がほぼそのまま無形固定資産(のれん・ソフトウェア・顧客関連資産・技術関連資産)に計上されたと推定される。
このため、2012年を境にリクルートの無形固定資産が増加。リクルートとしては買収による財務負担を軽減する目的もあり、2014年に東証1部への株式上場を選択するに至った。
もう“恋”みたいなものでしたよね。いろいろ話しているうちに、創業者が大好きになった。この人、いいな。いいこと考えてる。この人と仕事がしたい。買収するときには、会社から“経済性とかなんとか”と、いろいろ言われるんですが……(笑)。
でも、効率的に採用ができる、ということは、確実に社会の効率を上げるわけです。人を採用したい、と考えたら、あっという間に応募が来て、すぐ今日にでも採用に至れる。仕事を探している人は、あっという間に理想の会社が探せる。そんなことができたら、最高じゃないですか。だから、僕らはそんな世界を目指して突き進むわけです
Indeed買収後の経営は、同社の買収を社内提案した出木場久征氏がIndeed CEOに就任し、経営責任を負った。当時のリクルートの社長は峰岸真澄氏であったが、Indeedの経営の最終決定権は出木場氏が握った。
出木場氏買収後のIndeedの経営について、できるだけ統合をしないPMIを目指したという。その上で、リクルートHD社長ではなく、現地で経営に携わる出木場氏が意思決定を行うことで、Indeedの経営陣および社員から信頼されるようになったという。
また、Indeedの経営にあたって、エンジニア組織を重視。出木場CEOは「少なくともネットビジネスの世界では、コードを書けない人間は、世の中にイノベーションを起こすことができないんです。イノベーションを起こすモノを作るエンジニアこそが、価値のある人で。だから、僕のような経営者は、その手助けをするのが唯一の仕事だと思っています」(2015/4/15エンジニアType)と考え、現場のエンジニアを信頼して権限委譲した。
一度交渉して日本に持ち帰り、戻ってきて答えが変わっていたら相手に見透かされます。「俺がリーダーなんだ」と認識させることで、買収後の運営もやりやすくなりました。今思えば、よく会社は私にすべてを任せたなと思います。ちょうど峰岸が社長になって初めての買収だったこともあり、「これが失敗したらあなたの求心力に関わりますよ」と苦言を呈する取締役もいたと聞いています。そのとき峰岸は「出木場が問題ないと言っています」と堂々と言い放った。これは私の中でも「ちゃんとやらなきゃ」という思いが強くなります。そして、あと5年は会社を辞められなくなったなと思いました(笑)。
2010年代を通じてIndeedの急成長がHRテクノロジーの売上拡大を牽引。この結果、リクルートの収益源は「紙媒体の情報誌」から「webを通じたサービス提供」に変貌。特に業績好調なindeedに対する期待感から、2021年頃のピーク時にはリクルートHDの時価総額が9兆円を突破するなど、投資家から一定の評価を得た。
リクルートHDとしても、Indeedの成長によってテックカンパニーに転身。Indeed以外の事業も紙媒体頼りのビジネスから脱却する方向性を見据えて、システム開発の内製化体制を整えるようになった。
リクルートの社員であった山口文洋氏が高校生向けのスマホアプリ「受験サプリ(スタディサプリ)」を発案し、リクルートの新規事業コンテストを経て事業化が決定された。
なお、山口氏は「受験サプリの生みの親」(2015/06/29NewsPicks)と形容され、一方でリクルートの社員で受験サプリに携わった松尾慎治氏も「発案者」(2014/4/25 ITmedia)と言及されており、この辺りはリクルートの新規事業における「伝統」を踏襲している。
スタートは、「すべてのまなびをすべての人々に届けたい」というアイディアです。最高の教育がすべて無料で提供される世界がきたら、出自に関係なくすべての人が平等にチャンスを得ることができ、その結果、進行する格差社会のデフスパイラルが止まるきっかけになるかもしれないと思いました。そこで、最初のステップとして年間30~50万円かかる予備校がタダもしくは格安になったらいいな、と考えました。
スマホアプリの開発にあたって、土井浩司氏(開発リード)を筆頭に10名の開発チームを組成。2014年までに40名体制の開発チームに増員され、スタディーサプリの開発を担った。
なお、受験サプリの創業当時の開発体制が内製なのか、外注なのかは不明であるが、スマホの黎明期でノウハウが外注先になかったと思われ、リクルートは受験サプリの開発を内製化したと推察される。
PCは学生時代に研究データの分析やシュミレーションに使うくらいで、プライベートではネットをする程度なので、正直ITの知識はほとんどありませんでした。なので、今後の成長に期待して選んでもらえたのだと思います。最初に担当したのは、研修でやっていたような、顧客(受験生)のニーズがどこにあるのかを理解して、サービスやシステムに落とし込む作業です。企画担当と打ち合わせをしながら1つ1つを具体化し、その内容をエンジニアと実際のシステムに反映させていきました。最初は右も左も分からない状態から始めたので苦労しましたが、その分学ぶことも多かったです。
受験サプリの展開において、最大のボトルネックになったのが、学生から人気の高い予備校講師の確保であった。リクルートは大企業であったものの、すでに予備校業界ではサテライトなどの動画教材を展開しており、わざわざ予備校講師が、実績に乏しいスタディサプリに講義動画を提供する理由はなかった。
山口氏は社内の伝手を辿って、英語の人気講師「肘井学氏」への接触に成功。さらに、肘井氏からの紹介により数学の人気講師「山内恵介氏」との接触にも成功し、英語・数学の2科目の講座担当者の協力を取り付けた。これを受けて、両予備校講師は、所属する予備校を退職した。
なお、予備校講師からの買い付け契約の内容(コンテンツ原価)は不明である。推定だが、人気講師への交渉にあたって、それなりの金額を提示したと思われる。よって、コンテンツ確保にそれなりの投資が必要な点が、競合の(資金力に乏しい)ベンチャー企業に対する牽制になったと思われる。
以後、コンテンツの仕入れを強化し、2014年までに講師による1000時間の動画を確保した。
そう、人脈がずっと論点になったのです。僕は誰も知り合いがいなかったので、とにかく社内で知り合いに先生がいないか声をかけました。そうしたら、幸運なことに、肘井学先生(スタディサプリ英語講師。“英語成績アップの請負人”)が最終審査前に見つかったのです。今は多少丸くなりましたが、当時の肘井先生は“ジャックナイフ”のように尖っていましたよ(笑)。
後日談ですが、本人から聞いた話ですと「リクルートの馬の骨とも知れない若造がオンライン講座をしようとしている。オンライン教育なんて、どこの予備校もチャレンジしているけれどなかなかうまくいっていない。何を青臭いこと言っているんだ。断ってやる」というモードで来たらしいです。
ただ、そこで真摯に熱く向き合ったら、協力してもらえることになった。そうしたら、肘井先生から「数学も必要だろう。たまたま同じ予備校にもうひとり“ジャックナイフ”がいるから、一緒に口説きに行こう」と言われました。12月のクリスマス、名古屋のマリオットホテル。そこで口説き落としたのが、山内恵介先生(スタディサプリ数学講師。“数学の本質理解のトレーナー”)です。
2011年に「受験サプリ」としてスマホアプリをリリースした。
プライシングについては、アプリ提供開始時点から迷走していた。事業構想段階では「受験生に対して無料」で提供することで、学生の個人情報を収集し、ターゲットに対して広告を送付できる「広告代理型」のビジネスを志向していた。だが、良質なコンテンツを提供するためには、コンテンツの仕入れに対する投資が不可欠と考え、無料を軸とした広告ビジネスではなく、課金を軸にする方針に変更した。
しかし、受験サプリのリリース時点(テストリリース)では、1講座あたりの5000円(60分*10回で1講座)の買い切り型に設定したため、高額なサービスとして普及しなかった。5000円の根拠は、予備校に通った場合の支出に比べて安価であることが理由だっが、当時のwebサービスの相場と比べて高額であり、集客に苦戦したという。
実は元々、受験サプリの原型というのは現在の有料モデルではありませんでした。無料の受験コンテンツを高校生に提供すれば、それを利用する子供達の会員データベースができる。それに対して例えば早稲田大学が、東京大学を第一志望にしている高校生に広告を送る。こうした、リクルートでは一般的なマッチングと広告のモデルを想定していました。
ただ、色々考えていくうちに、単に無料の模擬試験や過去問題を提供して広告で少し収益を上げたとしても、それで世の中は変えていけないな、と思いついたんです。子供達が自己実現するための大学の合格に向けて、一番近道になる勉強をする。それに必要なのはやはり、予備校での授業や通信教育などのしっかりしたコンテンツではないかと。
でも、一方でこうした予備校などは、非常に良いものですが利用するためにかなりお金がかかります。それならば、我々のサービスでは、最低限のお金はいただきつつ、質の高い授業を提供しようと。幸い、今ではスマートフォンをはじめスマートデバイスが普及している。それをターゲットにすれば、広がっていくのではないかという読みがありました。
受験サプリを普及させるために、1講座あたり5000円の買い切りから、月額980円へのSaaSへの転換と大胆な値下げを決定した。損益分岐点に至るには数十万のユーザーを確保する必要があったが、大量集客によってアプリを成り立たせる方針に思い切った転換をした。
また、集客のために2012年からテレビCMの放映を開始した。ただし「受験」を連想させるCMで、ユーザーからの評判は好ましくなかったという。
そこで改めて考えたことが、やはりこれは、あくまでインターネットサービスの1つなんだということですね。動画視聴のサービスであれば、月額5000円なんて設定はまずありえない。消費者の立場から、ネットサービスとして許容できる金額設定はどこか。それが980円という、適度でありつつ教育格差の解消も可能な金額設定だろうと考えました。
この場合、やはり何十万人という会員規模にならなければ、損益分岐点を超えていくことはできない。長期的な視点で投資もオペレーションも大変ですが、最初にそれを進めれば競合は真似できない。高単価で限られた世帯を相手にした「縦」のサービスではなく、「横」に広がった事業設計でなければならない。こうした分析はものすごくやりました。
980円への値下げによって有料会員数が増加。2016年3月末時点で有料会員数16.7万名を記録して黒字化(金額非開示)を達成した。
また、2020年を通じたコロナの蔓延により、リモートによる教育需要が増加したことを受けて、値上げにもかかわらず、スタディサプリの有料会員が1年間で約2倍に激増(FY2021:79.9万名→FY2021:157万名)した。
| FY | 有料会員数 | 月額利用料 |
| 2015/6 | 13.3万人 | 980円/月 |
| 2016/3 | 16.7万人 | 980円/月 |
| 2017/3 | 24.4万人 | 980円/月 |
| 2018/3 | n/a | 980円/月 |
| 2019/3 | 61.4万人 | 980円/月 |
| 2020/3 | 79.9万人 | 980円/月 |
| 2021/3 | 157万人 | 2178円/月 |
長らく非上場であったが、海外展開のための資金調達のために株式上場を決定。上場時の時価総額は1.7兆円で、上場に伴って2138億円を資金調達
オランダ(欧州)の人材派遣会社USG Peopleの株式100%を1811億円で買収することを決定。リクルートHDではFY2020の経営目標として「人材領域におけるグローバルNo.1企業となること」を掲げており、買収に踏み切った。
求人企業のレビューサービスを展開する米国企業Glass Doorの買収を決定。リクルートが運営するIndeedの求人検索と相乗効果が高いと判断し、買収に踏み切った。
FY2021にリクルートHDは当期利益2977億円(前年同1316億円)を計上し、過去最高益を達成した。Indeedを中心とするHRテクノロジー事業が収益貢献した一方、派遣事業は相対的に低収益に陥る。
買収や投資による自己資金の用途がないことから、自社株買を決定
買収や投資による自己資金の用途がないことから、自社株買を決定