明治18年2月(1885年)に藤倉善八氏が東京(神田淡路町)において、綿・絹巻の巻線の製造を開始。日本における電線製造のパイオニアと言われ、東京都内において電線を中心とした様々な線の生産に従事した。
明治26年からは当時は珍しかった「ゴム」に着眼し、ゴム被覆によるゴム線の開発に着手した。
ところが、明治34年に藤倉善八氏(当時59歳)が逝去したため、ゴム線の開発に従事していた松本留吉(藤倉氏の弟)が事業を継承し、1910年に藤倉電線護謨合名会社を設立。1910年には株式会社への組織変更を実施し、資本金50万円で藤倉電線株式会社(現フジクラ)を設立した。
このため、フジクラにおける創業は、藤倉善八氏が神田淡路町で「巻線」の製造を開始した1885年が創業年に相当する。合名会社の設立の点では1901年、株式会社としての設立の点では、1910年が設立年にあたる。
1910年の藤倉電線の会社設立に際して、松本留吉氏が社長に就任。1938年に逝去するまで、藤倉電線の社長を歴任した。この間、深川工場(本社工場)の新設による電線の量産体制の確立や、通信省向けのケーブル納入などを果たし、電線およびケーブルメーカーとして、藤倉電線の業容を拡大させた。
その一方で、戦前を通じて、電線業界においては後発メーカーとして、財閥系の電線会社が台頭。住友財閥(住友電工)、古河財閥(古河電工)、日立財閥(日立電線)の3強体制が確立され、フジクラは業界3〜5位に甘んじる形となった。これは、財閥メーカーが鉱山経営をする中で、産出する銅を有効活用するために電線に製造し、量産のための積極投資を志向したことによる。
したがって、藤倉電線は国内における電線製造の先発企業であったが、財閥系のバックグラウンドが無いた目に資金面で不利となり、トップシェアを確保できない状況にあった。
自動車向けのワイヤハーネスに本格参入。しかし後発参入であり、矢崎総業・住友電工・古河電工に追随できず。
電電公社向けの通信ケーブルの専門工場として、千葉県に佐倉工場を新設。1980年代には先端製品である光ファイバーの量産を開始し、フジクラにおける新製品の生産拠点として稼働
高度経済成長期を通じて、電線業界では積極投資を志向した「住友電工」と「古河電工」がシェアを確保。この結果、1970年代から1980年代にかけてフジクラは、電線各種製品(被覆・銅線・アルミ線)において、シェア3位〜5位に低迷した。
狭いスペースに対して効率的に設置できる光ファイバーとして「SWR・WTC」の販売に注力することを決定。グローバルで需要が拡大するクラウドのデータセンター向けを中心に販売。
「SWR」は「スパイダー・ウェブ・リボン」、「WTC」は「ラッピング・チューブ・ケーブル」の略です。従来は光ファイバー同士を全長にわたって接着していましたが、SWRは所々を接着し、広げると網状になっています。これを集約したものがWTCで、どの方向にも柔軟に曲げることができ、より高密度に光ケーブルを細くできるため、狭いスペースでもより多くのファイバーを入れられます。フジクラ発の技術で国内外から高い評価を受けています。