住友電工は、銅という素材を手放さないまま、その銅が使われる先を次々に広げた会社である。1897年の住友伸銅場は別子銅山の銅を国内で加工するための工場であり、裸銅線はその一品目に過ぎなかった。ところが電力と電話の全国普及で電線の需要が伸びると、1911年には電線部門だけを住友電線製造所として切り出し、1920年には住友総本店から独立させている。素材の川下にあった加工部門が、23年で独立した事業会社に育った。重要なのは、切り出しても銅から離れなかったことである。伸線用ダイスの研究から超硬工具イゲタロイが生まれ、電線の絶縁材料の蓄積から防振ゴムと航空機用燃料タンクが生まれた。枝はすべて電線を作る工程から出ており、外から買ってきた事業ではない。
戦前の住友電線製造所にとって、技術は買うものだった。1920年の米インターナショナル・ウェスタン・エレクトリック社との資本技術提携を皮切りに、1925年から1931年までの間に米英伊の有力5社と技術援助または特許実施の契約を結んでいる。自前で追いつくには欧米との差が大きすぎ、費用を払って時間を買う判断だった。ただし買った技術をそのまま使ってはいない。イタリアのピレリ社から導入したOFケーブルの原理は、送電線を使った長距離電話に必要な結合用蓄電器へ転用され、OF蓄電器という別の製品になった。1930年に研究部を独立させたのは、導入と転用を分けて扱うためである。終戦直前に資本金1億2,000万円・従業員約1万5,000名まで膨らんだ規模は、この技術基盤の上に軍需が乗った結果だった。
住友伸銅場が伸銅製品の事業の一部として製造に着手した裸銅線が、住友電工の直接の起点となった。その住友伸銅場は、1897年に住友本店が経営難の日本製銅を買い取って、大阪市北区安治川上通に開いたものである。さかのぼれば、源流は16世紀に住友家が始めた産銅業にある。素材の伸銅と加工品の電線ケーブルがひとつの工場から生まれたことが、のちの事業の広がり方を方向づけた。1899年に大阪製銅を買収して中之島分工場を設け、1900年に被覆線、1909年に通信用ケーブルを試作して、電線の品目を1つずつ増やしていった。住友家は別子銅山の近代化で財を成した財閥で、その銅を国内で付加価値の高い電線・通信ケーブルに加工する垂直統合モデルを住友伸銅場に託した形である。明治末期に電力事業と電話網が全国に広がり始めると国産電線の需要は拡大し、伸銅場は住友財閥の非鉄素材部門の中核として重要性を高めた。
1911年、住友伸銅場から電線製造業を分離して住友電線製造所を設置し、電力用・通信用・特殊用途まで含めたあらゆる電線ケーブルを供給できる専業メーカーに組み替えた。1916年には此花区恩貴島に大阪製作所を新設して工場を移し、1920年には住友総本店から独立し、資本金1,000万円の株式会社住友電線製造所として発足する。同じ1920年、米国のインターナショナル・ウェスタン・エレクトリック社(後のインターナショナル・スタンダード・エレクトリック社)と資本及び技術の提携を締結し、これが欧米の有力電線メーカーと技術提携を重ねていく端緒となった。1931年に超硬工具ブランド"イゲタロイ"の製造を開始すると並行して東海電線(現・住友電装)に資本参加し、1937年には東海護謨工業(現・住友理工)にも出資した。イゲタロイは電線伸線用ダイスの研究開発から発したもので、住友電線製造所が超硬工具事業へ進出した起点となり、同社を電線専業から総合非鉄素材メーカーへ押し広げた。電線という主幹から、超硬材料・ゴム・特殊金属線という枝が生え揃っていった時代で、この戦前の関係会社群が戦後に連結グループを形づくる土台となる。
1923年の関東大震災は、関東に工場を構えていた古河と藤倉の両社を直撃した。震災の前と同じ価格で製品を納めたのは、物価が軒並み急騰するなかでの住友電線製造所の判断であり、目先の利益を追うより長く続く信用を重んじるという住友の事業方針に沿ったこの対応が、最大の需要家である逓信省での評価を定めた。被災を免れたのは関西の此花区恩貴島に大阪製作所を構えていた同社だけで、復興に要るケーブルの供給はほとんど同社の独占となっていた。1932年、日本電気の経営を日本側に移す交渉で住友合資東京支店長の矢島富造氏が震災時の対応を説明すると、ITT社長はその席で経営の委託を決めたといい、価格と信用のどちらで応じるかという選択の影響は、十年後の系列関係にまで及んだ。
創立以来、住友電線製造所は研究施設の拡充と外国技術の導入に費用を惜しまなかった。1920年のインターナショナル・ウェスタン・エレクトリック社との提携に加え、1925年から1931年までの間に米英伊の有力5社と技術援助または特許実施契約を締結している。とりわけ地下ケーブルの遅れは大きく、ケーブル内部で生じるガスと湿気が絶縁の劣化を招く仕組みが解明できていなかった。そこで1927年5月、提携先の紹介で英国スタンダード電話電線会社から超高圧ケーブル製造設備の導入を交渉し、続いてイタリアのピレリ社へOFケーブルの特許権譲渡を申し入れた。契約は1928年1月と6月に相次いで成立する。1930年には研究部を独立させ、技術の向上を専任の組織へ委ねている。買った技術を自社の設計へ作り変える工程が、ここで社内に根を張った。
1931年6月、逓信省は住友電線製造所にガタパーチャ海底電線工場の建設を内命した。海底線の絶縁体に使うガタパーチャは当時なお英国とドイツからの輸入に頼っており、国産化は政府の政策課題だった。ただし逓信省の計画は発注量が小さく、そのまま生産しても採算には乗らなかった。住友電線製造所は1931年7月、ウェスタン・エレクトリック社が電話用に開発した絶縁抵抗のより高いパラガッタ海底電線の特許実施権を取得し、製造設備ごと入れ替えている。大阪市港区鶴浜町の海底電線工場は1932年2月に完成し、同年9月に対馬と釜山を結ぶ106キロ、1934年には宗谷海峡の170キロを受注した。国策の枠に入りながら、採算の取れる技術へ載せ替える判断だった。
1939年、社名を住友電線製造所から住友電気工業株式会社に変更した。1929年のOFケーブルの応用製品OF蓄電器の発明、1931年以降のイゲタロイ超硬工具、1932年の耐酸ニッケル線など特殊金属線、続くピアノ線、1943年の防振ゴム、1948年の焼結製品と、電線の外側へ品目を拡大していた実態に、社名が追いついた形である。特殊金属線とピアノ線は後の特殊線事業部の発端となり、超硬工具と焼結製品は粉末合金事業部の発端となった。防振ゴムや航空機用燃料タンクなどの工業用ゴム製品にも進み、電線絶縁材料で蓄えた技術を別の用途へ振り向けた。1941年には伊丹市に伊丹製作所を、1943年には名古屋製作所を開設し、戦時下の軍需増産に合わせて生産拠点を拡張した。主力工場だった大阪製作所と新設の伊丹製作所は、戦後長く量産拠点の中核となった。戦時中は陸海軍向けの特殊電線や超硬工具の生産に動員され、住友財閥の中でも軍需色の強い事業会社となった。終戦直前には資本金1億2,000万円・従業員約1万5,000名にまで膨らんだが、大阪製作所と名古屋製作所は空襲で大きな被害を受けた。1945年の敗戦後は民需転換を迫られ、財閥解体の直撃を免れる形で住友電工本体は会社組織を維持しながら戦後の再出発を図った。
財閥解体で住友本社が解散し販売の整備を迫られたため、1946年に東京・名古屋・福岡へ支店・出張所を開設して販売網を全国に張り直した。戦後復興は早く、1948年には電線の生産が戦前の水準を回復している。1949年には戦後の財閥解体と証券市場再開を受けて東京・大阪・名古屋の3証券取引所に株式を上場した。同じ1949年、架空送電線工事部門に進出し、後に主力事業となる自動車用ワイヤーハーネス事業にも参入している。送電網の建設工事と、自動車の配線束(ハーネス)という2つの新事業が同じ年に立ち上がり、戦前からの電線メーカーが送電・自動車・通信という戦後の巨大インフラ産業に足場を構築する構図がほぼ出揃った。戦後の復興期を経て1950年代以降は日本の電力9社の送電網整備や、トヨタ・日産をはじめとする国産自動車メーカーの量産立ち上がりに歩調を合わせ、送配電ケーブルとワイヤーハーネスの安定供給で存在感を強めた。
北川一栄氏が1956年に立てた多角化の方針は、新しい市場を探す話ではなかった。電線の需要は電力需要の伸びまでしか伸びない ── その見切りが先にあり、電線を作る過程で身についた技術を別の製品へ配り直すことが方針の中身だった。伸線用ダイスから生まれた超硬工具、絶縁材料から生まれたゴムとプラスチック、そして電子線照射電線・フレキシブルプリント回路・化合物半導体。どれも電線の工程か材料の延長にある。電線比率75%を50対50へ引き下げるという目標は、電線を減らす目標ではなく、電線の外側にどれだけ積めるかを測る物差しだった。1963年3月期に電線ケーブルと兼業部門の比率が7対3まで動いたのは、その物差しが働いた結果である。
1973年春に光ファイバの試験設備を建てると決めたとき、住友電気工業は電線が作れば売れる好況の只中にいた。常務会に慎重論が出なかったのはそのためだが、この決定を難しくしたのは決めた瞬間ではなく、半年後にオイルショックが来たことだった。銅は有限な資源で、産出国が結束すれば買い手は弱い立場に立たされる。一方でガラスの原料となる石英は地球上にほぼ無尽蔵にある。銅の電線で生きてきた会社が、銅を要らなくする技術へ資源を集中する ── その判断を支えたのは、1950年代半ばから続けたミリ波通信の行き詰まりだった。減衰率という性能では実用圏に届いていたのに、鉄管が曲がらないという施工の壁で商用化できなかった経験が、技術がどの軸で死ぬかを教えていた。
戦争によって欧米との技術交流は断たれ、住友電気工業の技術水準の立ち遅れは著しかった。1948年に電線の生産が戦前の水準へ戻ったあとに残った課題は、量ではなく質である。1950年9月、戦前から関係のあった米インターナショナル・スタンダード・エレクトリック社との技術提携契約を復活させ、1952年にはウェスタン・エレクトリック社との提携も戻した。1953年にはインターナショナル・ゼネラル・エレクトリック社とアメリカン・エレクトロ・メタル社、1954年にはイタリアのピレリ社と、新たに技術提携を結んでいる。並行して多数の技術者を海外へ派遣した。戦前に築いた提携網をまず復元し、足りない分野だけを新規に足すという順序だった。
1950年には独創的なホルマール電線を完成させ、1952年には27万5,000ボルト超高圧送電用の鋼心アルミ撚線、1954年には発泡ポリエチレンケーブル、1955年にはポリエチレン同軸ケーブルを相次いで完成した。並行して被覆線・電力ケーブル・通信ケーブル・粉末合金の各工場で機械設備の高能率化と近代化を進めている。ホルマール電線もポリエチレンケーブルも、戦前の紙と油とゴムに代わる合成樹脂を絶縁体に用いた製品だった。製品の水準は輸入代替にとどまらず、インドと英国の各社に対して裸電線・OF式蓄電器・ホルマール電線の製造技術を指導するまでになった。1960年代に入ると技術輸出は定着し、インドの2社へ超硬工具と電力ケーブルを、台湾の太平洋電線へ電線ケーブルを、プラント輸出を含む形で供与している。絶縁材料の世代交代を先に済ませたことが、技術を買う側から売る側へ回る足場になった。
1949年6月に数度の増資で資本金6,000万円となったのち、1951年8月に8億円、1952年12月に20億円、1957年1月に30億円へと引き上げ、1960年3月時点の資本金は45億円に達した。1951年8月の増資ではインターナショナル・スタンダード・エレクトリック社との資本提携も復活し、同社の持株比率は17%強となっている。売上高は1955年3月期の56億7,000万円から、1958年3月期に88億1,098万9,000円、1960年3月期には162億484万9,000円へ伸びた。主要な取引先は日本電信電話公社・日本国有鉄道と各電力会社であり、送電網と通信網の拡張がそのまま売上を押し上げる構造にあった。
非電線部門は規模が小さく、電線のほかに手がけていたのは超硬工具イゲタロイを軸とする粉末合金とピアノ線くらいだった。戦後の1940年代後半から1950年代半ばにかけて、全売上高に占める電線の割合は75%前後で動いていた。1956年に社長に就いた北川一栄氏は、電線の需要は電力需要と歩調を合わせる程度にしか増えないと判断し、電線だけで伸び続けるには限りがあるとみた。北川氏が打ち出したのは、電線の絶対額は保ったまま他部門を伸ばし、両者の比率をいずれ50対50にもっていくという方針であり、何かを削らずに足すだけの形は、既存事業を担う人々の反発を招きにくい組み立てだった。
1961年5月、横浜市に新鋭工場の横浜製作所を開設し、1962年には品質管理の最高の栄誉とされたデミング賞を受賞、1963年には大阪府泉南郡に熊取研究所を開設した。1962年12月には資本金を90億円から135億円へ増資している。1963年度の設備投資予定額は55億円で、内訳は横浜製作所第2期工事に19億円、超硬工具その他粉末冶金製品の製造設備の合理化と増強に12億5,000万円、研究設備の全般的整備と新研究所の建設に11億円だった。投資額の4割強が粉末合金と研究設備へ向かっており、多角化は予算配分の水準で実行されていた。
1962年3月期の売上高235億5,091万8,000円に対して営業利益は14億1,593万8,000円だったが、1963年3月期は売上高211億9,364万5,000円・営業利益3億9,120万4,000円へ落ち込んだ。営業利益は1年で4分の1近くまで縮んでいる。1963年3月末の従業員数は7,021名、平均年齢30.4歳・平均勤続9.9年だった。一方で兼業部門の伸びは電線ケーブル部門を上回り、1963年3月期の売上は電線とケーブルが141億7,209万2,000円、特殊金属線や粉末合金製品を含むその他製品が70億2,155万3,000円で、およそ7対3の構成となった。1968年には従業員約9,500名・年間売上高約1,000億円に達し、国内最大の電線ケーブルメーカーの位置を保っている。
未来の通信方式として住友電気工業が1950年代半ばから取り組んでいたのは、光ではなくミリ波だった。ミリ波通信用の導波管は、絶縁した銅線をガラスのテープで巻き、それを鉄管に通す構造をとっていた。1キロメートル当たりの減衰率を2デシベルまで下げられれば実用化できるとされ、1960年代前半にはその目標にあと一歩まで迫った。だが詰めの段階で困難がいくつも重なった。なかでも鉄管は硬くて曲がらず、この欠点のために本格的な商用化は行き詰まった。曲げやすさではガラス繊維が勝り、こちらの課題は、レーザー光線が通るほど透明なガラスをつくれるかどうかに絞られていった。年単位の探索を要するこうした研究を引き受けたのが、1963年に開設された熊取研究所である。減衰率という性能の軸では実用圏に入りながら、敷設のしやすさという別の軸で退けられた技術だった。
北川氏の路線は、鍋島綱利氏と阪本勇氏の社長時代に品目の形をとった。1962年に電子線照射イラックスチューブ、1964年に電子線照射電線の製造を始め、1968年には兄弟会社の日本電気が手がけるコンピュータを利用した交通管制システムを事業化し、1969年にフレキシブルプリント回路、1970年に化合物半導体の製造へ進んだ。ガリウム砒素やインジウム燐といった化合物半導体は、光を電気に、電気を光に変える光電変換の装置に欠かせない素材である。電線の製造工程と材料技術の延長線上に品目を足しながら、その先端が光通信の部品へ届いていた。
当時は列島改造ブームで景気が熱を帯び、電線はつくった分だけ売れていた。金のかかる光ファイバに開発費を注ぐことについても、慎重論は皆無だった。研究に具体化の見通しがついたのは1973年春のことで、住友電気工業の常務会は同じ春、試験設備の建設を認めた。開発を後押ししたのは、日本電信電話公社が光通信に強い関心を寄せていたことと、銅には限りがあり、産出国が力を増せば消費国は不利な立場に追い込まれるという読みだった。これに対し、ガラスの原料である石英は地球上にいくらでもあるといってよい。その1973年の秋にオイルショックが起き、日本経済は深い不況に落ち込む。光ファイバ・ケーブルの製造開始は翌1974年である。
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|---|---|---|---|---|
| 1897〜1949年銅から電線へ ── 住友財閥の素材部門 | 日本製銅の買収を足がかりとする銅線製造事業の立ち上げ 1897年、住友本店は日清戦争後の不景気で経営が行き詰まった日本製銅を買収し、直営事業として大阪市北区安治川上通に住友伸銅場を開設した。銅板・銅棒とともに銅線の製造を開始し、住友電気工業は現在もこの年を創業として数えている。別子銅山で掘った銅を国内で製品へ変える工程を、住友が自ら抱え込んだ判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 被覆線の製造開始 | ★ | |||
| 住友伸銅場からの電線部門の切り出しと、独立した経営基盤の確立 1911年8月、住友は住友伸銅場から電線製造業を分離し、住友電線製造所を設けた。伸銅場から建物・機械・原料品などの資産と負債を引き継ぎ、200人足らずで発足した電線ケーブルの専業体制で、住友電気工業はこの年を創立としている。同じ年の秋には電力用鉛被紙ケーブルの実用化に日本で初めて成功した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| エナメル線の製造開始、大阪製作所の地に新工場が竣工 | ★ | |||
| 住友総本店から独立し住友電線製造所として設立 | ★ | |||
| イゲタロイ(超硬工具)製造開始、東海電線に資本参加 | ★★ | |||
| 社名を住友電気工業に商号変更 | ★ | |||
| 岸要 | 焼結製品の販売開始 | ★ | ||
| 岸要 | 東京・大阪・名古屋の各証券取引所に上場 | ★ | ||
| 岸要 | ワイヤーハーネス事業と架空送電線工事に参入 | ★ | ||
| 1950〜1973年電線依存からの多角化 ── 横浜製作所と光ファイバへの資源集中 | 岸要 | 太陽電設工業に資本参加 | ★ | |
| 北川一栄 | 横浜製作所を開設 | ★ | ||
| 北川一栄 | 電子線照射イラックスチューブの製造開始、本社を移転 | ★ | ||
| 北川一栄 | 電子線照射電線の製造開始 | ★ | ||
| 鍋島綱利 | 交通管制システムを事業化 | ★ | ||
| 鍋島綱利 | FPC(フレキシブルプリント回路)の製造開始 | ★ | ||
| 阪本勇 | 化合物半導体の製造開始 | ★ | ||
| 1974〜1998年光ファイバと化合物半導体、ナイジェリア通信網受注とワイヤーハーネスの海外展開 | 亀井正夫 | 光ファイバ・ケーブルの製造開始 | ★★ | |
| 亀井正夫 | 営業年度を年1回に変更 | ★ | ||
| 亀井正夫 | ナイジェリア大規模通信網工事を受注 | ★ | ||
| 亀井正夫 | 初の時価発行増資を実施 | ★ | ||
| 川上哲郎 | 合成ダイヤモンド単結晶製品の事業化 | ★ | ||
| 川上哲郎 | スミトモ エレクトリック ワイヤリング システムズを設立 | ★ | ||
| 倉内憲孝 | スミトモ エレクトリック ライトウェーブを設立 | ★ | ||
| 1999〜2008年ブレーキ・電力ケーブル事業の分社と独ハーネス買収、住友電装の完全子会社化 | 倉内憲孝 | ブレーキ・ABS事業を住友電工ブレーキシステムズに営業譲渡 | ★ | |
| 倉内憲孝 | 高分子機能製品事業を住友電工ファインポリマーとして分社化 | ★ | ||
| 岡山紀男 | 創業以来の高圧電力ケーブルを日立電線との折半会社へ移した祖業の切り出し 2001年10月、住友電気工業は高圧電力用電線事業を株式会社ジェイ・パワーシステムズへ営業譲渡した。譲受会社は日立電線との折半出資で、住友電気工業の議決権比率は50%、持分法適用関連会社である。 移したのは高圧・特別高圧電力ケーブルの開発・製造・輸出で、2004年10月には国内電力会社向け販売事業も同社へ譲渡した。1897年の創業以来の本業のうち、電力会社向けの高圧領域を単独では持たない体制へ移した。 詳細を読む | |||
| 岡山紀男 | 高圧電力用電線事業をジェイ・パワーシステムズに営業譲渡 | ★★ | ||
| 岡山紀男 | ADSL事業・特殊金属線・巻線事業を会社分割 | ★ | ||
| 松本正義 | 独ワイヤーハーネスメーカーの買収と併せた自動車配線事業の囲い込み 2006年3月、住友電気工業と住友電装はドイツのフォルクスワーゲン ボードネッツェ社を買収し、翌2007年8月には議決権の53.9%にとどまっていた住友電装を株式交換で完全子会社とした。松本正義社長のもとで、自動車用ワイヤーハーネスをグループの主力に据え直す一連の判断であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 松本正義 | 住友電装を完全子会社化、日新電機を子会社化 | ★★ | ||
| 2009〜2016年リーマンショックの急減益とジェイ・パワーシステムズ・住電日立ケーブルの取り込み | 松本正義 | リーマンショックで営業利益が急減 | ★★ | |
| 松本正義 | 日欧中の当局の摘発と競争法コンプライアンス規程の制定 2010年2月、自動車用ワイヤーハーネス及び同関連製品の取引について公正取引委員会の立入検査を受けた。欧州連合と米国を含む海外の競争当局も同時に調査に入り、処分は日本・欧州・中国の三極に及んだ。公正取引委員会は2012年1月19日に課徴金2,102百万円の納付を命じ、中国・国家発展改革委員会は2014年8月に2億9,040万元を課している。 松本正義社長のもとで選んだのは、各国当局の調査に協力する道だった。欧州委員会は2013年7月に欧州競争法に違反する行為があったと決定したが、住友電気工業と英国子会社に対する課徴金は免除されている。 詳細を読む | |||
| 松本正義 | ジェイ・パワーシステムズを完全子会社化、住電日立ケーブルを子会社化 | ★★ | ||
| 2017〜2026年井上治体制での日新電機完全子会社化と独電力ケーブル買収、過去最高益 | 井上治 | 井上治氏が社長に就任(松本正義から交代) | ★ | |
| 井上治 | 茨城製作所を開設、テクノアソシエを子会社化 | ★ | ||
| 井上治 | 日新電機・テクノアソシエを完全子会社化 | ★★ | ||
| 井上治 | 独の電力ケーブルメーカー、ズートカーベル ゲーエムベーハーを子会社化 | ★ | ||
| 井上治 | 設備工事の上場子会社を手放し、自動車部材の上場子会社を100%取り込むグループの入れ替え 2025年10月30日、住友電気工業は取締役会で、連結子会社である住友理工を公開買付けにより完全子会社とすること、および連結子会社である住友電設の全株式を手放すことを同時に決議した。住友理工への公開買付けは12月15日に終了して株券等所有割合は49.64%から91.36%となり、株式売渡請求を経て2026年2月1日に100%へ達した。住友電設株式は2026年3月24日に譲渡し、上場子会社2社の入れ替えが完了した。 詳細を読む | |||
| 井上治 | 通期売上高・営業利益とも過去最高を更新 | ★ | ||
| 井上治 | 住友電設売却・住友理工完全子会社化を公表 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(住友電工)