| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1950/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1951/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1952/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1953/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1954/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1955/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1956/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1957/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1958/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1959/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1960/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1961/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1962/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1963/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1964/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1965/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1966/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1967/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1968/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1969/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1970/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1971/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1972/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1973/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1974/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1975/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1976/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 935億円 | 6億円 | 0.6% |
| 1977/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,191億円 | 7億円 | 0.5% |
| 1978/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 972億円 | -11億円 | -1.2% |
| 1979/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 935億円 | 3億円 | 0.3% |
| 1980/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,434億円 | 41億円 | 2.8% |
| 1981/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,351億円 | 6億円 | 0.4% |
| 1982/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,167億円 | 8億円 | 0.6% |
| 1983/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,198億円 | 18億円 | 1.5% |
| 1984/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,333億円 | 8億円 | 0.6% |
| 1985/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,287億円 | 19億円 | 1.4% |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,478億円 | 0億円 | 0.0% |
| 1993/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,364億円 | -34億円 | -1.5% |
| 1994/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,208億円 | -37億円 | -1.7% |
| 1995/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,564億円 | -17億円 | -0.7% |
| 1996/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,670億円 | 22億円 | 0.8% |
| 1997/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,886億円 | 96億円 | 3.3% |
| 1998/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,948億円 | 50億円 | 1.6% |
| 1999/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,504億円 | 35億円 | 1.3% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,328億円 | 20億円 | 0.8% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,397億円 | 49億円 | 2.0% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,221億円 | 2億円 | 0.0% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,210億円 | -26億円 | -1.2% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,346億円 | 86億円 | 3.6% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,541億円 | 106億円 | 4.1% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,163億円 | 145億円 | 4.5% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,587億円 | 263億円 | 5.7% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,758億円 | 245億円 | 5.1% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,468億円 | -281億円 | -8.2% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,074億円 | 43億円 | 1.3% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,798億円 | 85億円 | 2.2% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 3,924億円 | 106億円 | 2.7% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,193億円 | 152億円 | 3.6% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,439億円 | 233億円 | 5.2% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,642億円 | 265億円 | 5.7% |
| 2016/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,065億円 | 218億円 | 5.3% |
| 2017/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,105億円 | 261億円 | 6.3% |
| 2018/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,547億円 | 246億円 | 5.4% |
| 2019/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,529億円 | 149億円 | 3.2% |
| 2020/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,851億円 | 173億円 | 3.5% |
| 2021/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,880億円 | 218億円 | 3.7% |
| 2022/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 8,317億円 | 510億円 | 6.1% |
| 2023/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,800億円 | 250億円 | 3.2% |
| 2024/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 7,171億円 | 278億円 | 3.8% |
藤田組は1884年に官営小坂鉱山の払い下げを受けて鉱山経営に参入したが、黒鉱の製錬技術を確立できず赤字が続いた。融資元の毛利家が閉山を指示する中、久原房之助氏が井上馨氏の支持を得て事業継続を実現した。1902年に黒鉱自溶製錬を成功させ、1906年には生産額で国内全鉱山中1位を達成した。製錬技術の確立が鉱山の存廃と藤田組の経営基盤を左右した事例である。
藤田組の創業者・藤田伝三郎氏は、長州藩出身者(明治政府関係者)との関係を活かし、西南戦争時の協力や東海道線(大阪〜京都)・琵琶湖疏水などの土木工事受注を通じて業容を拡大した。1881年に兄弟3名の出資(総額6万円)で藤田組を設立し、藤田伝三郎氏が3万円(出資比率50%)、藤田鹿太郎氏と久原正三郎氏がそれぞれ1.5万円(同25%)を拠出した。明治時代には「西の藤田組」として広く認知される存在となった。
1884年9月18日、明治政府は藤田組に対して官営小坂鉱山(秋田県)の払い下げを決定し、藤田組は鉱山経営に参入した。小坂鉱山は明治21年まで国内トップの産出量を誇る大規模銀山であった。開発資金については、元長州藩主の毛利家から20万円の借入金を確保し、井上馨氏の口添えによって融資が実現した。従来の土木事業は日本土木会社に譲渡し、藤田組は鉱山業を主体とする資源会社へと業態転換した。
小坂鉱山は金・銀・銅・亜鉛・鉛が混合した黒色鉱石(黒鉱)を産出する特異な鉱山であり、これらを分離するための新しい製錬技術の確立が不可欠であった。取得当初は比較的製錬が容易な土鉱から銀を採掘できたが枯渇が予想され、黒鉱の製錬技術が鉱山の寿命を決定する要因となった。鉱山取得から10年が経過しても技術は確立されず、赤字が続いたため、融資元の毛利家が閉山を指示し、1900年に藤田組は閉山方針を決定した。
閉山処理のため現場責任者に就任した久原房之助氏(藤田伝三郎氏の一族)は、事業継続を主張して毛利家への説得を開始した。しかし毛利家の閉山意志は固く、久原氏は明治政府の有力政治家・井上馨氏(長州出身)に相談して事業継続の支持を取り付けた。この結果、毛利家は小坂鉱山の閉鎖撤回を認め、事業継続が決定した。久原氏は懸案であった黒鉱の処理技術について、海外の製錬方法を参考にしつつ独自の改良を進めた。
1902年、久原房之助氏は黒鉱自溶製錬試験に成功し、1904年には製錬所を稼働させて本格生産を開始した。黒鉱自溶製錬は必要な燃料が少なく製錬コストを大幅に低下させる利点を持っており、小坂鉱山の経営採算を一変させた。黒鉱から金・銀・銅を効率的に分離回収することが可能となり、産出量は飛躍的に増加した。この技術は世界的にも類例が乏しく、藤田組が独自に確立した製錬法であった。
黒鉱自溶製錬の実用化により、1906年時点で日本国内の全鉱山における生産額において、小坂鉱山は足尾銅山・別子銅山などの競合鉱山を抑えて国内1位となった。閉山方針の決定から6年で国内トップの鉱山に再建されたことで、藤田組の経営基盤が確立された。この製錬技術の蓄積は、後の同和鉱業における電子材料・環境リサイクル事業の技術基盤となった。
藤田組は1884年に官営小坂鉱山の払い下げを受けて鉱山経営に参入したが、黒鉱の製錬技術を確立できず赤字が続いた。融資元の毛利家が閉山を指示する中、久原房之助氏が井上馨氏の支持を得て事業継続を実現した。1902年に黒鉱自溶製錬を成功させ、1906年には生産額で国内全鉱山中1位を達成した。製錬技術の確立が鉱山の存廃と藤田組の経営基盤を左右した事例である。
藤田組は小坂鉱山払い下げ当時、本店を大阪に置く資本金6万円の組織組合による商社であった。社主は藤田伝三郎。天保12年(1841)5月15日、藤田伝三郎氏は長州萩の城下、南片河町の酒造家藤田半右衛門の四男として生まれた。(略)藤田家は代々酒造業を営む富商であったが父反右衛門は別に藩の小身者を相手に掛屋を開き、彼らの棒禄を抵当に金貸しをしてさらに財産を増やした。(略)
藤田組は明治17年、小坂鉱山の払い下げを受けると、翌18年1月、資本金を6万円から20万円に増し、同時に規則および職務章程の大改正を行なった。この年の8月、藤田伝三郎は鹿太郎・正三郎と連名で、元長州藩主であった毛利家に対して、鉱山経営の資本金として金20万円を借用したい旨願い出た。これは井上馨の口添えもあって9月に許可され(略)6回に分けて計20万円が貸与された。藤田組はこの借入金によって小坂・十和田両鉱山の整備を進める..(以下略)
花岡鉱山の買収は、取得直後に鉱床の品位低下に直面するという想定外の事態を経験しながらも、堂屋敷大鉱床の発見によって主力鉱山に転じた事例である。鉱山買収における不確実性と、探鉱投資の継続がもたらす逆転の構造を示す。一方、柵原鉱山では11の小規模鉱山を統合する手法を採り、非鉄金属ではなく肥料原料としての硫化鉱に着目した。鉱種と取得手法の双方を分散させた点に、単一資源への依存を回避する藤田組の資源戦略が表れている。
藤田組の主力であった小坂鉱山(秋田県)は、1884年の官営払い下げ以来、黒鉱自溶製錬技術の確立を経て1906年には国内全鉱山中で生産額第1位を達成するまでに成長していた。小坂鉱山は金・銀・銅・亜鉛・鉛が混合した黒鉱を産出する特異な鉱山であり、藤田組が独自に確立した製錬技術が競争力の源泉であった。しかし、取得から30年が経過する中で、長年の大規模採掘に伴う鉱脈の品位低下が進行しており、将来的な枯渇が見込まれる状況にあった。藤田組は主力鉱山の鉱量減少に備え、国内における有力鉱山の取得を本格化する方針を打ち出した。
取得候補となったのは、秋田県の花岡鉱山と岡山県の柵原鉱山であった。花岡鉱山は銅・鉛・亜鉛を産出する非鉄金属鉱山であり、小坂鉱山と同じ秋田県北部に立地することから製錬インフラの活用が期待された。一方の柵原鉱山は硫化鉱を豊富に産出する鉱山であり、当時は農業用肥料の原料として硫黄の需要が高まっていたため、安定的な収益が見込まれた。藤田組は非鉄金属と硫化鉱という異なる鉱種の鉱山を取得することで、単一鉱山・単一鉱種への依存を脱却する方針を採った。
1915年4月に藤田組は、小林清一郎氏が保有する花岡鉱山(秋田県)の買収を決定し、128万円で鉱山本体および花岡から大館までの鉄道を取得した。ところが、買収直後から採掘していた鉱床の品位が低下したため、藤田組は新たな鉱床の探索に注力した。1916年に「堂屋敷大鉱床」と呼ばれる大規模鉱床を発見したことで状況が一変し、花岡鉱山は藤田組において小坂鉱山に次ぐ規模の主力鉱山としての地位を確立した。
1916年9月には、岡山県の柵原鉱山の取得にも着手した。吉井川流域の南和気村を中心に、個人や小規模な会社が保有する11の鉱山を次々と買収し、これらを「柵原鉱山」として一体的に運営する体制を構築した。柵原鉱山では硫化鉱が豊富に存在し、肥料などの化学品原料として出荷された。花岡鉱山と柵原鉱山の取得により、藤田組は小坂鉱山のみに依存する経営構造から脱却し、秋田県と岡山県に分散した複数の鉱山で収益基盤を確保する体制へと移行した。
花岡鉱山の買収は、取得直後に鉱床の品位低下に直面するという想定外の事態を経験しながらも、堂屋敷大鉱床の発見によって主力鉱山に転じた事例である。鉱山買収における不確実性と、探鉱投資の継続がもたらす逆転の構造を示す。一方、柵原鉱山では11の小規模鉱山を統合する手法を採り、非鉄金属ではなく肥料原料としての硫化鉱に着目した。鉱種と取得手法の双方を分散させた点に、単一資源への依存を回避する藤田組の資源戦略が表れている。
同和鉱業の構造改革で注目すべきは、社内の大半が反対する中で改革推進派の吉川氏を後任社長に据えた金谷社長の人事判断である。10名の少数チームで改革を始動させ、開始後2年間の業績悪化を許容しながら方針を堅持した過程は、鉱山会社の歴史と伝統に根差した変革抵抗を突破するために必要だった時間軸を示す。資産の売り食いで延命できた1990年代の猶予期間が、逆説的に改革の着手を遅らせた構造にも留意すべきである。
1990年代を通じて同和鉱業は業績が低迷した。バブル期に主力の製錬事業に次ぐ新事業の開発を推進したものの、採算性に基づく事業撤退の判断を先送りにしたため、全社の連結業績は増収減益の基調が続いた。利益については有価証券や土地の売却によって捻出しており、事業そのものから創出される利益は限定的であった。本業の収益力が低下する一方で、取得原価の低い土地や有価証券の売却益で決算を維持する構造は持続性を欠いていた。
同和鉱業の組織文化にも構造的な課題が存在した。鉱山会社としての歴史と伝統に依拠した体質が根付いており、手続きを重視する本社中心の官僚主義的な意思決定、事業の存廃が社内政治で左右される風土、非鉄金属の在庫や借入金を保有すること自体をステータスとする慣行が定着していた。吉川廣和氏(当時専務)はこの状態では会社の将来が見えないと判断し、抜本的な事業構造改革の必要性を社内に訴えた。しかし、社内の大半は改革に反対する姿勢を示した。
社内の大多数が反対する中、同和鉱業は構造改革の推進を決定し、吉川廣和氏を中心とする10名のチームを編成した。人員削減を伴う改革であり組織全体の反発が予想されたことから、全社的な合意形成ではなく少数チームによる計画策定に踏み切った。推進チームでは吉川氏が改革プランの策定を主導し、労働組合との対立を経ながらも具体的な施策を取りまとめた。前任の金谷浩一郎社長は改革推進派の吉川氏を後任候補に据える判断を下した。
1999年11月に同和鉱業(金谷浩一郎・社長)は業績悪化を受けて構造改革の遂行を発表し、人員削減のために希望退職者の募集を決定した。2000年2月までに322名が応募し退職した。改革開始後は事業の縮小に伴い売上が減少し、2年間にわたって業績が悪化したが、吉川氏は方針を堅持した。3年目の2002年頃から利益が回復し始めたことで、改革の妥当性が数値で裏付けられ、吉川氏が2002年4月に社長に就任する布石となった。
同和鉱業の構造改革で注目すべきは、社内の大半が反対する中で改革推進派の吉川氏を後任社長に据えた金谷社長の人事判断である。10名の少数チームで改革を始動させ、開始後2年間の業績悪化を許容しながら方針を堅持した過程は、鉱山会社の歴史と伝統に根差した変革抵抗を突破するために必要だった時間軸を示す。資産の売り食いで延命できた1990年代の猶予期間が、逆説的に改革の着手を遅らせた構造にも留意すべきである。
誠に恥ずかしながら、歴史と伝統にあぐらをかいた典型的な成熟企業と言いますか、大企業病を患った老舗会社だったと思います。例えば古い会社ですから、取得原価の小さいただ同然の土地や株式などの資産をたくさん持っていて、それらを売り食いする。一方、業態は典型的なプロダクトアウト産業で、非鉄金属の素材から作りさえすればいい。だから、売る努力は必要なから作りさえすればいい。だから作ることが大事であるという文化です。
私は官僚主義、またはネオ官僚と言っていますが、手続きを大事にする、本社が一番偉くて威張りくさっている。また、内向き文化で、外よりも内で仲良く肩組んで、毎晩酒を飲んで社長の悪口を言っていても会社が成り立つ、というような典型的な会社だったと思います。そういうことでは先が見えるので、事業構造改革をやろうということになったわけです。
吉川社長は社内の9割が反対する中で18事業からの撤退を断行し、整理対象の70%が黒字であったにもかかわらず撤退に踏み切った。環境リサイクル分野では小坂製錬に最終処分場と約100億円の新型炉を新設し、不要資産の一括売却と有利子負債の圧縮も並行して実施した。2007年3月期には当期純利益263億円の過去最高益を達成し、トップシェア15事業を擁する収益構造への転換に至った。
2002年4月、1999年から構造改革プロジェクトを主導してきた吉川廣和氏が同和鉱業の社長に就任した。前任の金谷浩一郎社長は、社内の9割が改革に反対する状況下において、改革推進派の吉川氏をあえて後任に据える人事を決断した。1999年に10名のチームで開始した構造改革が、3年目の2002年頃から業績面で数値成果を示し始めたことが、この人事決定の背景にあったと推定される。
2002年前後の同和鉱業は、不採算事業の温存による収益力の低下と、事業に関連の薄い土地・有価証券・貴金属在庫の蓄積による資産効率の悪化という2つの構造的課題を抱えていた。1990年代を通じて有価証券や土地の売却によって利益を捻出する状態が続いており、事業そのものから創出される利益は限定的であった。吉川社長の就任は、事業面のPL改善と不要資産の圧縮によるBS改善を同時に推進する体制の構築を意味した。
吉川社長は事業の存廃を3つの基準(市場の将来性があること、競争力があること、社員にやる気があること)で判断する方針に切り替え、全基準を満たさない18の事業を解散・閉鎖・売却した。整理対象の70%は黒字事業であったが撤退に踏み切った。従来は社内の政治力によって事業の存廃が決まっていたが、市場と競争力を基準とする判断に転換した点に特徴があった。残存事業はニッチ市場で高シェアを確保できる領域に集中させ、吉川社長はこの方針を「雑木林経営」と表現した。
注力分野の中核には環境リサイクル事業を据え、製錬技術を活用した都市鉱山事業を強化した。2004年に子会社・小坂製錬において管理型最終処分場を新設し、2006年には廃電子機器から貴金属(金・銀)を回収するリサイクル対応の新型炉(TSL炉)を約100億円で建設した。採掘を停止していた小坂鉱山の製錬設備と、長年の操業を通じて培った地元自治体との関係を活用することで、廃棄物の受け入れから希少金属の回収までを一貫して行う体制を構築した。
財務面では、事業と関連の薄い土地・有価証券の一括売却、値上がりを期待して保持していた貴金属在庫の損切りによる圧縮、資金需要のない銀行借入の削減を実行した。従来の同和鉱業では資産保有や借入能力をステータスとする文化が根付いていたが、構造改革を通じてこれらの慣行を転換し、資産効率の改善を図った。不要資産の売却と有利子負債の削減によりバランスシートの健全化が進んだ。
選択と集中の結果、2007年3月期にDOWAホールディングス(2006年に同和鉱業から商号変更)は当期純利益263億円の過去最高益を達成した。トップシェア製品による売上高合計は約1200億円(全社売上高の25%)に達し、各事業セグメントで利益を計上する収益構造に転換した。2008年頃には世界トップシェア7事業、国内トップシェア8事業の計15事業がトップシェアを占め、鉱山会社から環境・リサイクル企業への転換が進んだ。
吉川社長は社内の9割が反対する中で18事業からの撤退を断行し、整理対象の70%が黒字であったにもかかわらず撤退に踏み切った。環境リサイクル分野では小坂製錬に最終処分場と約100億円の新型炉を新設し、不要資産の一括売却と有利子負債の圧縮も並行して実施した。2007年3月期には当期純利益263億円の過去最高益を達成し、トップシェア15事業を擁する収益構造への転換に至った。
事業構造改革を始める時、社内の90%以上は反対でした。諸先輩は全員反対という中で事業構造改革を始めました。本にも書きましたが、事業構造改革を始めたのは10人です。10人で社内を説得したわけです。労働組合はストライキするぞと脅してくるし、諸先輩はもちろん現役の多くも反対です。それでも「これまでの状態では当社は生き残れない」ということを粘り強く説得して、事業構造改革に入ったわけです。(略)
大変な思いをしてスタートさせたんですが、スタートしたら売上は下がるわ。2年もそうした状態が続くと社内も動揺します。反対した連中は、吉川のバカと言って怒る(笑)。
だけど、どう考えても会社が生き残るためには構造改革をやるっきゃないんですよね。それでまあここで粘る。3年目になったらちょっと利益が出てきた。おおっ、売上も伸びてきたぞ。いろんな事業の芽が出てきた。それで急速に伸びていったというわけです。
「選択と集中」の経営を徹底したお陰でトップシェアの商品が非常に多いわけです(略)。主にニッチ分野ですが、推定シェアの欄で7事業が世界のトップシェアです。残る8事業が日本のトップシェアです。先ほどお話しした通りニッチな事業ですが、15事業がトップシェアです。売上で言いますと1200億円。全体の当社の売上高の25%がトップシェア。実はこれが当社の安定収益源になっています。
わが社は数百億円とか1千億円オーダーの投資ができる会社じゃないわけです。総合的に考えてもダメなので、やはりニッチの分野をたくさん持とうと、私は雑木林経営と言っています。大木はなかなか育たないから小ぶりで良い木をたくさん作ろうやと、1本倒れてもあとが支えられるような会社にしようということでやってきました。
代表的なものとして、資産については土地株式等温存型、まあ少しずつちまちま売っていくという温存型から、使わない土地や株式は一挙に売り払っていくか活用するかという考え方に変えました。
在庫も非鉄金属はいずれ値上がりするのがわかっているので、在庫を持っていることを悪いことだと思っていない。在庫は「罪」庫であると社内で言い続け、在庫はとにかく損切りしてでも処理せよということで在庫の圧縮を進めてきました。
有利子負債については、借金も財産のうちだとか、金貸してくれるうちが花なんだよというか、実力がある→金貸してくれる→借金が増える、なんて気にするなというのが当時の文化でしたが、一切認めずにこれは圧縮していく。