1884年〜 藤田組と鉱山事業の確立、黒鉱自溶製錬への挑戦
- 1884年藤田組が小坂鉱山を買収(同和鉱業の創業)
- 1897年小坂で水力発電を開始
- 1898年小坂で黒鉱乾式製錬の操業を開始
- 1902年小坂で黒鉱自溶製錬の操業を開始
- 1915年国内で有力鉱山を買収
- 1919年豊崎圧延工場を設置し金属加工事業を開始
- 1928年豊崎伸銅所(現DOWAメタル)を設立
DOWAの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
閉山指示を覆した久原房之助の技術革新
1881年に藤田伝三郎が兄弟三名の出資を得て藤田組を正式に設立し、1884年には明治政府から官営小坂鉱山の払い下げを受けて鉱山経営に参入した。開発資金は元長州藩主の毛利家から20万円を借り入れて調達する形で確保されたという経緯を持つ。小坂鉱山は金・銀・銅・亜鉛・鉛という複数の金属成分が混合した特異な黒鉱を産出する珍しい鉱山であり、これらの金属を効率的に分離する製錬技術の確立こそが事業化の最大の鍵として長期にわたり認識されていた。鉱山取得後の初期は試行錯誤が続き、経営的には苦しい局面が続いた。 [1][2][3][4]
- 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
- [1]1881年に藤田伝三郎が兄弟3名(藤田伝三郎・兄藤田鹿太郎・久原庄三郎)で藤田組(合名会社)を組織
- DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [2]1884年9月 藤田組が明治政府から官営小坂鉱山の払い下げを受け鉱山経営に参入
- [4]小坂鉱山は金・銀・銅・亜鉛・鉛が混在する黒鉱を産出し、各成分の分離製錬が事業化の鍵だった
- 藤田組史
- [3]小坂鉱山取得の開発資金として旧長州藩主毛利家から20万円を借り入れ
取得から十年を経過しても製錬技術は確立されず赤字経営が続いたため、融資元の毛利家から小坂鉱山の正式な閉山指示が出された。しかし閉山処理のために着任した久原房之助は事業継続の必要性を強く主張し、井上馨の個人的な支持を得ることで閉鎖指示の撤回を実現するという歴史的な巻き返しを果たした。1902年にはついに黒鉱自溶製錬の技術が確立されて生産が本格化し、1906年には小坂鉱山が生産額で国内全鉱山中一位を達成するという逆転を成し遂げた。閉山の危機を乗り越えて技術革新によって成功を勝ち取った経験は、藤田組の経営哲学の原点として長く社内で語り継がれた。 [5][6][7][8]
- 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
- [5]閉山処理に着任した久原房之助が事業継続を主張し、井上馨の個人的支持で毛利家の閉山指示撤回を実現
- [7]1906年に小坂鉱山が国内全鉱山中の生産額一位を達成
- [8]取得から十年を経ても製錬技術が確立せず赤字が続き、融資元の毛利家から閉山指示が出された
- DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [6]1902年(6月)小坂で黒鉱自溶製錬の操業を開始(生産が本格化)
黒鉱自溶製錬の成功は日本の非鉄金属業界における技術的な画期として評価され、藤田組は一挙に国内有数の鉱山会社としての地位を獲得した。久原房之助が示した事業継続への強い意志と技術的挑戦への情熱は、その後の藤田組・同和鉱業の経営文化の核心を成す要素として組織の中に受け継がれ、何度もの危機を乗り越える原動力となり続けた。小坂鉱山の技術的成功は単なる一企業の成果にとどまらず、日本の鉱山業全体の近代化に貢献する象徴的な出来事として広く認知された。
- 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
- [1]1881年に藤田伝三郎が兄弟3名(藤田伝三郎・兄藤田鹿太郎・久原庄三郎)で藤田組(合名会社)を組織
- [5]閉山処理に着任した久原房之助が事業継続を主張し、井上馨の個人的支持で毛利家の閉山指示撤回を実現
- [7]1906年に小坂鉱山が国内全鉱山中の生産額一位を達成
- [8]取得から十年を経ても製錬技術が確立せず赤字が続き、融資元の毛利家から閉山指示が出された
- DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [2]1884年9月 藤田組が明治政府から官営小坂鉱山の払い下げを受け鉱山経営に参入
- [4]小坂鉱山は金・銀・銅・亜鉛・鉛が混在する黒鉱を産出し、各成分の分離製錬が事業化の鍵だった
- [6]1902年(6月)小坂で黒鉱自溶製錬の操業を開始(生産が本格化)
- 藤田組史
- [3]小坂鉱山取得の開発資金として旧長州藩主毛利家から20万円を借り入れ
花岡・柵原の取得が生む鉱山分散の戦略
小坂鉱山の鉱脈品位の低下に備えるため、藤田組は新規鉱山の取得を積極的に進める経営方針を打ち出すこととなった。1915年には秋田県の花岡鉱山を128万円で買収したが、買収直後に品位低下に見舞われるという不運に見舞われる局面を経験した。しかし翌1916年に堂屋敷大鉱床を発見するという幸運を得て、花岡鉱山は小坂鉱山に次ぐ主力鉱山に成長した。同年には岡山県で11の小規模鉱山を統合して柵原鉱山を新たに形成し、硫化鉱の安定的な供給拠点を確保する動きも並行して進められた。 [9][10][11]
- DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [9]1915年 秋田県の花岡鉱山を128万円(128万円)で買収
- 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
- [10]1916年 堂屋敷大鉱床を発見し、花岡鉱山が小坂鉱山に次ぐ主力鉱山に成長
- [11]1916年 岡山県で11の小規模鉱山を統合して柵原鉱山を形成(硫化鉱の供給拠点)
非鉄金属鉱山と硫化鉱山という性質の異なる鉱種を組み合わせて取得することで、単一鉱山への依存から意識的に脱却する分散戦略が藤田組の経営方針として明確化された。秋田県と岡山県という地理的にも異なる場所に分散した複数の鉱山で収益基盤を確保する体制が構築され、藤田組は国内有数の鉱山会社としての基盤を一段と固めていくこととなった。小坂のみに頼らずこの間に操業を開始あるいは買収した鉱山は三十を超え、藤田組はわが国産銅界の四大会社の一つに数えられて明治末から大正にかけて当時の諸財閥と並ぶ地歩を築いた。鉱種と地理の両面における分散戦略は後年の経営危機を乗り越える際の重要な支柱となり、同社の経営の柔軟性を支える構造的な要素として定着した。 [12][13]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [12]小坂以外に操業を開始あるいは買収した鉱山は30以上にのぼり、花岡鉱山・柵原鉱山もそこに含まれた
- [13]藤田組はわが国産銅界の四大会社の一つに躍進し、明治末から大正にかけて当時の諸財閥と並ぶ地歩を築いた
藤田組は1917年に財閥形態へ移行して鉱業部門を藤田鉱業として分離し、第一次大戦後の不況と昭和初期の金融恐慌を経て、1937年3月には合名会社藤田組を合併して株式会社藤田組へと改組した。さらに太平洋戦争下の1942年5月には帝国鉱業開発と東北興業という二つの国策会社が資本参加し、戦時統制下で同社の経営は国策と深く結びついた。こうした変遷を経て1945年には役員の一新を機に商号を同和鉱業へ変更し、戦後は1949年に東京証券取引所に上場を果たして独立した上場企業としての歩みを開始した。1884年の小坂鉱山取得から数えて60年余りに及ぶ鉱山経営の蓄積が、戦後の独立企業としての再出発の基礎を形成する重要な経営資源となった。 [14][15][16][17][18][19]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [14]大正6年(1917年)藤田組が財閥形態をとり、鉱業部門が藤田鉱業(原文「藤田鉄業」)として分離した
- [15]昭和12年(1937年)3月 合名会社藤田組を合併して株式会社藤田組へ改組した
- [16]太平洋戦争中の昭和17年(1942年)5月 帝国鉱業開発と東北興業の二国策会社が資本参加した
- DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [17]1945年 役員の一新を機に商号を同和鉱業株式会社に変更(戦後20年12月)
- [18]1949年(7月)東京証券取引所に株式上場
- [19]1884年の小坂鉱山取得から数えて約60年(founding.mdでは65年)に及ぶ鉱山経営の蓄積
- DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [9]1915年 秋田県の花岡鉱山を128万円(128万円)で買収
- [17]1945年 役員の一新を機に商号を同和鉱業株式会社に変更(戦後20年12月)
- [18]1949年(7月)東京証券取引所に株式上場
- [19]1884年の小坂鉱山取得から数えて約60年(founding.mdでは65年)に及ぶ鉱山経営の蓄積
- 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
- [10]1916年 堂屋敷大鉱床を発見し、花岡鉱山が小坂鉱山に次ぐ主力鉱山に成長
- [11]1916年 岡山県で11の小規模鉱山を統合して柵原鉱山を形成(硫化鉱の供給拠点)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [12]小坂以外に操業を開始あるいは買収した鉱山は30以上にのぼり、花岡鉱山・柵原鉱山もそこに含まれた
- [13]藤田組はわが国産銅界の四大会社の一つに躍進し、明治末から大正にかけて当時の諸財閥と並ぶ地歩を築いた
- [14]大正6年(1917年)藤田組が財閥形態をとり、鉱業部門が藤田鉱業(原文「藤田鉄業」)として分離した
- [15]昭和12年(1937年)3月 合名会社藤田組を合併して株式会社藤田組へ改組した
- [16]太平洋戦争中の昭和17年(1942年)5月 帝国鉱業開発と東北興業の二国策会社が資本参加した