明治時代を通じて藤田組の創業者である藤田伝三郎氏は、長州藩出身者(明治政府関係者)とのコネクションを生かして、商取引(商社)や土木工事によって業容を拡大。商取引においては、西南戦争の勃発時において、長州藩に協力したことで信頼を確保。土木工事では、長州藩出身者によって構成された明治政府から、東海道線(大阪〜京都)や、佐世保呉軍港、琵琶湖疏水の開削を受注し、業容を拡大した。このため、明治時代には「西の藤田組」として認知されていた。
もともと、藤田伝三郎氏の生家は、山口県萩で酒造業を営む裕福な家系であり、長州藩との関係性が、明治維新後に「政府からの工事受注」を獲得。業容の拡大を受けて、1881年には藤田組を設立。兄弟3名が出資し、藤田伝三郎史が3万円(出資比率50%)、藤田しか太郎氏が1.5万円(同25%)、久原正三郎氏が1.5万円(同25%)を出資し、兄弟によって藤田組を経営した。
藤田伝三郎氏は、土木以外の新規事業として鉱山経営に着眼。明治17年(1884年)9月18日に、明治政府は藤田組に官営小坂鉱山の払い下げを決定し、藤田組は鉱山経営に参入した。小坂鉱山は秋田県に存在する銀山であり、明治21年までは国内トップの産出量の大規模鉱山であった。
藤田組では鉱山事業に集中するため、従来の土木事業を「日本土木会社」に譲渡。藤田組は小坂鉱山の取得によって、鉱山業を主体とする資源会社に業態転換した。
また、資金面において、小坂鉱山の開発資金を毛利家(元長州藩主)からの借入金(20万円)によって確保した。このため、藤田組の小坂鉱山は、長州藩主による資金援助によって推進された。
藤田組は小坂鉱山払い下げ当時、本店を大阪に置く資本金6万円の組織組合による商社であった。社主は藤田伝三郎。天保12年(1841)5月15日、藤田伝三郎氏は長州萩の城下、南片河町の酒造家藤田半右衛門の四男として生まれた。(略)藤田家は代々酒造業を営む富商であったが父反右衛門は別に藩の小身者を相手に掛屋を開き、彼らの棒禄を抵当に金貸しをしてさらに財産を増やした。(略)
藤田組は明治17年、小坂鉱山の払い下げを受けると、翌18年1月、資本金を6万円から20万円に増し、同時に規則および職務章程の大改正を行なった。この年の8月、藤田伝三郎は鹿太郎・正三郎と連名で、元長州藩主であった毛利家に対して、鉱山経営の資本金として金20万円を借用したい旨願い出た。これは井上馨の口添えもあって9月に許可され(略)6回に分けて計20万円が貸与された。藤田組はこの借入金によって小坂・十和田両鉱山の整備を進める..(以下略)
小坂鉱山における経営課題は「金・銀・銅・亜鉛・鉛」が混合した黒色鉱石(黒鉱)を産出する特異性にあり、これらを分離するための新しい製錬技術が必要であった点にある。小坂鉱山の取得当初は、比較的製錬が容易な土鉱から銀を採掘できたが枯渇が予想されたため、黒鉱からの製錬が鉱山寿命を決定する要因となった。
黒鉱の処理に関しては世界的にも類例に乏しく、藤田組が独自に開発する必要があった。
ところが、鉱山取得から10年が経過しても技術の確立には至らず、小坂鉱山では土鉱を掘り尽くしつつあり、品位低下が進行。小坂鉱山の事業採算は赤字が続き、藤田組に融資をしていた毛利家は小坂鉱山の閉山を指示。明治33年に藤田組は小坂鉱山の閉山方針を決定した。
藤田組による小坂鉱山の閉山決定を受けて、藤田組の一族である久原房之助(藤田田三郎氏の兄弟)が現場責任者に就任した。これは、小坂鉱山の閉鎖にあたって混乱が予想されたため、藤田組の親族が経営にあたることが適任と判断されたためであった。
しかし、久原房之助は小坂鉱山の事業継続を望み、毛利家への説得を開始。ところが、毛利家は小坂鉱山の閉山を強く望んだため、久原氏は明治政府の有力政治家であった井上馨氏(長州出身)に相談し、事業継続の許可を得た。この結果、毛利家は藤田組における小坂鉱山の閉鎖撤回を認め、小坂鉱山の継続が決定した。
久原房之助氏は、懸案だった黒鉱の処理技術について、海外の製錬方法を参考にしつつ技術を改善し、明治33年(1902年)に「黒鉱自溶製錬試験」に成功。明治35年には製錬所を稼働して本格生産を開始した。黒鉱自溶製錬のメリットは、必要な燃料が少なく、製錬コストの大幅な低下にあった。
これにより、小坂鉱山における金・銀・銅の産出量が増加。明治39年時点において、日本国内のすべて鉱山における生産額で、小坂鉱山が競合鉱山(足尾・別子など)をおさえて国内トップとなった。小坂鉱山の再建により、藤田組の経営も軌道に乗った。
藤田組は主力の小坂鉱山の枯渇を見据えて、国内における有力鉱山の取得を本格化。1915年に花岡鉱山(秋田県)、1916年に柵原鉱山をそれぞれ取得し、鉱山ポートフォリオを拡充した。
1915年に藤田組は、小林清一郎氏が保有する花岡鉱山(秋田県)の買収を決定。128万円で鉱山および鉄道(花岡〜大館)などを取得した。ところが、買収直後から採掘していた鉱床の品位が低下したため、新たな鉱床の探索に注力。1916年に「堂屋敷大鉱床」を発見し、藤田組において花岡鉱山は、小坂鉱山に次ぐ大規模鉱山となった。
1916年に藤田組は岡山県の柵原鉱山の取得を開始。吉井川流域の南和気村を中心に、個人や小規模な会社が保有する11の鉱山を次々と買収し、これらを「柵原鉱山」として運営した。柵原鉱山では、硫化鉱が豊富に存在したことから、肥料などの原料として出荷された。
1971年のニクソンショックによる国内鉱山の競争力低下や、石油から硫黄の回収が進んだことで硫化鉱の採算が悪化。同和鉱業における全ての国内鉱山において採算が悪化した。
このため、1970年代以降、同和工業では国内鉱山の大規模な縮小を本格化し、1万名規模だった従業員数を、1990年代までに3000名規模までに削減(すなわち合計7000名の削減)した。この間、同和鉱業における経営課題は余剰人員の削減であり、不動産などの固定資産の売却によって収益を確保した。
私は入社以来、一貫して労務畑を歩んできました。過去4回実施した合理化に全て関わっています。最盛期1万人いた従業員が3000人に減っていく過程をつぶさに見てきました。
1973年の合理化の時が最も辛かった思い出です。花岡鉱業所の総務部長から本社に戻った途端、花岡の人員整理を説得に行く役目を背負わされました。つい昨日まで和気あいあいと一緒に仕事をしていた仲間に解雇を伝えるのです。言葉に表せない思いがありました。「亭主の首を切るのか」と奥さんたちに涙を流して訴えられました。(略)
労働組合とは時に激しく渡り合いました。しかし、今になってみれば、友人には組合の人が大勢います。私は会社に2回辞表を出していますが、2回とも組合に救われました。立場は違っても腹を割って精一杯理解しようと心がけてきたからかもしれません。
1990年代を通じて同和鉱業は業績が低迷。バブル期に主力の製錬事業に次ぐ新事業の開発を推進したものの、採算性に基づく事業撤退の判断を先送りにしたため、結果として全社の連結業績は増収減益の基調となった。加えて、利益に関しては有価証券や土地の売却によって捻出しており、事業から創出される利益は限定的となっていた。
同和鉱業では構造改革の推進を決定し、社内で10名のチームを編成した。これは、人員削減を伴う改革であり、社内の反対が予想されることから、少数チームによる計画策定に踏み切った。推進チームでは、吉川廣和(当時専務)氏が中心となり、構造改革のプランを策定した。
1999年11月に同和鉱業(金谷浩一郎・社長)は、業績悪化を受けて構造改革の遂行を発表。人員削減のために希望退職者の募集を決定し、2000年2月までに322名が退職を決めて応募した。
誠に恥ずかしながら、歴史と伝統にあぐらをかいた典型的な成熟企業と言いますか、大企業病を患った老舗会社だったと思います。例えば古い会社ですから、取得原価の小さいただ同然の土地や株式などの資産をたくさん持っていて、それらを売り食いする。一方、業態は典型的なプロダクトアウト産業で、非鉄金属の素材から作りさえすればいい。だから、売る努力は必要なから作りさえすればいい。だから作ることが大事であるという文化です。
私は官僚主義、またはネオ官僚と言っていますが、手続きを大事にする、本社が一番偉くて威張りくさっている。また、内向き文化で、外よりも内で仲良く肩組んで、毎晩酒を飲んで社長の悪口を言っていても会社が成り立つ、というような典型的な会社だったと思います。そういうことでは先が見えるので、事業構造改革をやろうということになったわけです。
2002年に吉川氏が同和鉱業の社長に就任。吉川氏は1999年から同和鉱業における構造改革のプロジェクトに従事しており、これらの成果に基づき社長に抜擢された。このため、吉川氏の社長就任は、1999年からスタートした構造改革の路線を継続し、同和鉱業の経営改革をさらに推進することを示唆した。
社長就任の決定打は、1999年から推進した構造改革が、業績面において3年目(2002年ごろ)から数値成果を収めるようになったためと思われる。
なお、構造改革については、同和鉱業の社内では「社員の9割が反対」する事案であったが、吉川氏は改革を推進。このため、吉川社長の社長抜擢は、社内の総意に基づく人事ではなく、前任社長(金谷氏)が「改革は不可避」と考え、あえて挑戦的な社長抜擢の人事を決断したと推定される。
2002年前後における同和鉱業の経営課題は主に「不採算事業の存在(PL)」「資産効率の悪化(BS)」に存在した。そこで、吉川社長の就任とともに、事業面の改革を通じてPLの改善を志向し、同時並行で不要なアセット(土地・有価証券・借入金)を圧縮することで経営効率の改善を意図した。
事業構造改革を始める時、社内の90%以上は反対でした。諸先輩は全員反対という中で事業構造改革を始めました。本にも書きましたが、事業構造改革を始めたのは10人です。10人で社内を説得したわけです。労働組合はストライキするぞと脅してくるし、諸先輩はもちろん現役の多くも反対です。それでも「これまでの状態では当社は生き残れない」ということを粘り強く説得して、事業構造改革に入ったわけです。(略)
大変な思いをしてスタートさせたんですが、スタートしたら売上は下がるわ。2年もそうした状態が続くと社内も動揺します。反対した連中は、吉川のバカと言って怒る(笑)。
だけど、どう考えても会社が生き残るためには構造改革をやるっきゃないんですよね。それでまあここで粘る。3年目になったらちょっと利益が出てきた。おおっ、売上も伸びてきたぞ。いろんな事業の芽が出てきた。それで急速に伸びていったというわけです。
吉川社長の就任と同時に、同和鉱業において事業の選別を開始。従来の経営においては「黒字・赤字」によって事業の存続可否を決定していたが、吉川社長は下記3つの基準で判断する方向に切り替えた。
①製品または商品に市場が存在し、将来にわたってマーケットが伸びること
②競争力があること
③社員にやる気があること
吉川社長は上記の基準を全て満たす事業のみ、存続を決定。それまでの同和鉱業において、事業の存続可否は社内における政治力(社内の有力者がスタートした事業か?)によって決定されていたが、これらの慣習を否定し、市場および競争力の観点から事業の存廃を決定した点に新しさが存在した。
この結果、構造改革を通じて18の事業を解散または閉鎖売却し、不採算事業の整理に至った。整理対象のうち70%が黒字経営であったが、撤退に踏み切った。
事業の選別を進める過程で、同和鉱業はニッチな領域において高シェアを狙える領域に集中した。この結果、2008年頃時点で、トップシェア製品による売上高の合計が約1200億円となった。
高シェア事業は、いずれも売上高ベースで最大でも250億円の規模であり、小粒な事業の集積が同和鉱業の業績を支える構造となった。このため、同和鉱業は「製錬技術」を核として、ニッチな市場に対して高シェアを狙える様々な製品・事業によって構成することを経営の基本路線とした。これらの方針について、吉川社長は「雑木林経営」と形容した。
「選択と集中」の経営を徹底したお陰でトップシェアの商品が非常に多いわけです(略)。主にニッチ分野ですが、推定シェアの欄で7事業が世界のトップシェアです。残る8事業が日本のトップシェアです。先ほどお話しした通りニッチな事業ですが、15事業がトップシェアです。売上で言いますと1200億円。全体の当社の売上高の25%がトップシェア。実はこれが当社の安定収益源になっています。
わが社は数百億円とか1千億円オーダーの投資ができる会社じゃないわけです。総合的に考えてもダメなので、やはりニッチの分野をたくさん持とうと、私は雑木林経営と言っています。大木はなかなか育たないから小ぶりで良い木をたくさん作ろうやと、1本倒れてもあとが支えられるような会社にしようということでやってきました。
2002年の時点で、同和鉱業は注力事業のうち、特に「環境リサイクル」の領域で積極投資を行う方針を決定。歴史的に技術力を培ってきた製錬技術を活用し、都市鉱山として電子機器の廃品から希少金属を回収する事業を強化した。
環境リサイクル事業における投資の軸となったのが、2004年に子会社・小坂製錬において「最終処分場」を新設したことであった。すでに小坂鉱山は品位低下により採掘を停止していたが、製錬設備は残されたため、これらの設備を活用して、最終処分場を隣接させることによって、都市鉱山として再生することを意図した。
最終処分場の新設は、地元自治体からの協力が不可欠であるが、同和鉱業は小坂鉱山を通じて地元の雇用確保に貢献してきた経緯もあり、これらの関係性によって最終処分場の新設許可を得ることができたと推定される。
2006年5月に同和鉱業は、子会社の小坂製錬を通じてリサイクルに対応した新型炉(TSL炉)の新設を決定した。新型炉では、廃棄された電子機器などから希少な貴金属(金・銀)を回収するための設備であり、約100億円の設備投資を決定した。
すでに2004年に小坂製錬では最終処分場の新設を決定しており、廃棄物の受け入れ体制を整えたことから、これらの廃棄物を埋め立て処分する前の段階で、希少金属をリサイクルによって回収する新型炉の設置に踏み切った。
2000年の時点において、同和鉱業は資産効率が低い状態であった。これは、歴史的に有価証券を保有してきたことや、土地を価格が安い時期に取得した結果、事業とは関連の薄い資産が積み上がったことによる。1990年代まではこれらの資産を細々と売却することによって、事業利益の悪化をカバーしてきたが、2000年の構造改革を機に、不要な資産の一括売却に踏み切った。
従来の同和鉱業では貴金属の値上がりを期待して、在庫として長期間保持することを問題しなかった。このため、在庫が膨れ上がり資産効率が悪化したため、構造改革を通じて在庫の圧縮を実施。損失計上を許容し、在庫削減を図った。
1990年代を通じて同和鉱業は銀行からの借入を実施。特に資金需要はなかったが、銀行からの借り入れができることをステータスと判断し、結果として不要な有利子負債が積み上がる状態となった。このため、BS改善の一環として、有利子負債の削減に踏み切った。
代表的なものとして、資産については土地株式等温存型、まあ少しずつちまちま売っていくという温存型から、使わない土地や株式は一挙に売り払っていくか活用するかという考え方に変えました。
在庫も非鉄金属はいずれ値上がりするのがわかっているので、在庫を持っていることを悪いことだと思っていない。在庫は「罪」庫であると社内で言い続け、在庫はとにかく損切りしてでも処理せよということで在庫の圧縮を進めてきました。
有利子負債については、借金も財産のうちだとか、金貸してくれるうちが花なんだよというか、実力がある→金貸してくれる→借金が増える、なんて気にするなというのが当時の文化でしたが、一切認めずにこれは圧縮していく。
選択と集中の結果、2007年3月期にDOWAホールディングス(2006年に同和鉱業から商号変更)は過去最高益となる当期純利益263億円を達成。各事業セグメントにおいて利益を確保したことで、収益性の改善に至った。