DOWA

の歴史

創業

1884年

創業者

藤田伝三郎

創業地

秋田県鹿角郡

直近売上高(2025/3)

6,786億円

長期業績と転換点(1996/3〜2025/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ藤田組は1902年に黒鉱自溶製錬の完成へ十年以上を投じたのか
A 小坂が産したのは金・銀・銅・亜鉛・鉛が混じる黒鉱で、各成分を分離できなければ他社は手を出せず、藤田組はこの難物を技術で握れば独占できると見た。1884年の払い下げ後、製錬技術が確立できず赤字が十年続き融資元の毛利家から閉山指示が出たが、久原房之助氏が井上馨の支持で撤回を勝ち取る。1902年に黒鉱自溶製錬を完成させ、1906年に小坂を国内産出額一位へ押し上げた。他社が扱えない混合鉱を技術で握る事業観は、ここで固まった。
Q なぜ2002年就任の吉川廣和は黒字事業まで含む18事業を売却したのか
A 鉱山の縮退に伴い不動産や株式の売却益で赤字を繕う延命が30年続き、本業の収益力が落ちても延命できる猶予が改革を遅らせていた。2002年就任の吉川廣和氏は、市場性・競争力・社員のやる気の三基準を満たさない18事業を、整理対象の7割が黒字でも解散・売却する「雑木林経営」を断行する。残した事業を環境リサイクル・電子材料・金属加工・熱処理に集中させ、独立した複数事業が景気の波ごとに利益を補い合う収益構造へ移した。2007年3月期に当期純利益263億円の過去最高益を達成した
Q なぜDOWAは2025年以降、秋田の一拠点へ資本を集めるのか
A 鉱種と地域を分けて景気の波を相殺してきた会社が、回収できる元素とリサイクル原料の幅を広げ、製錬とリサイクルを一体で運転すれば一拠点で稼げると見た。2024年に秋田製錬を100%子会社化し、2025年4月に亜鉛関連3社を吸収合併して一貫操業体制に束ねた。2025年5月の中期計画2027で秋田の製錬・リサイクル複合コンビナート再構築へ2030年度まで1,000億円規模を投じ、原資には保有上場株式を2030年度までに半減させる売却資金を充てる

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

1884年〜 藤田組と鉱山事業の確立、黒鉱自溶製錬への挑戦

  1. 1884年藤田組が小坂鉱山を買収(同和鉱業の創業)
  2. 1897年小坂で水力発電を開始
  3. 1898年小坂で黒鉱乾式製錬の操業を開始
  4. 1902年小坂で黒鉱自溶製錬の操業を開始
  5. 1915年国内で有力鉱山を買収
  6. 1919年豊崎圧延工場を設置し金属加工事業を開始
  7. 1928年豊崎伸銅所(現DOWAメタル)を設立

DOWAの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

閉山指示を覆した久原房之助の技術革新

1881年に藤田伝三郎が兄弟三名の出資を得て藤田組を正式に設立し、1884年には明治政府から官営小坂鉱山の払い下げを受けて鉱山経営に参入した。開発資金は元長州藩主の毛利家から20万円を借り入れて調達する形で確保されたという経緯を持つ。小坂鉱山は金・銀・銅・亜鉛・鉛という複数の金属成分が混合した特異な黒鉱を産出する珍しい鉱山であり、これらの金属を効率的に分離する製錬技術の確立こそが事業化の最大の鍵として長期にわたり認識されていた。鉱山取得後の初期は試行錯誤が続き、経営的には苦しい局面が続いた。 [1][2][3][4]

  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [1]1881年に藤田伝三郎が兄弟3名(藤田伝三郎・兄藤田鹿太郎・久原庄三郎)で藤田組(合名会社)を組織
  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1884年9月 藤田組が明治政府から官営小坂鉱山の払い下げを受け鉱山経営に参入
    • [4]小坂鉱山は金・銀・銅・亜鉛・鉛が混在する黒鉱を産出し、各成分の分離製錬が事業化の鍵だった
  • 藤田組史
    • [3]小坂鉱山取得の開発資金として旧長州藩主毛利家から20万円を借り入れ

取得から十年を経過しても製錬技術は確立されず赤字経営が続いたため、融資元の毛利家から小坂鉱山の正式な閉山指示が出された。しかし閉山処理のために着任した久原房之助は事業継続の必要性を強く主張し、井上馨の個人的な支持を得ることで閉鎖指示の撤回を実現するという歴史的な巻き返しを果たした。1902年にはついに黒鉱自溶製錬の技術が確立されて生産が本格化し、1906年には小坂鉱山が生産額で国内全鉱山中一位を達成するという逆転を成し遂げた。閉山の危機を乗り越えて技術革新によって成功を勝ち取った経験は、藤田組の経営哲学の原点として長く社内で語り継がれた。 [5][6][7][8]

  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [5]閉山処理に着任した久原房之助が事業継続を主張し、井上馨の個人的支持で毛利家の閉山指示撤回を実現
    • [7]1906年に小坂鉱山が国内全鉱山中の生産額一位を達成
    • [8]取得から十年を経ても製錬技術が確立せず赤字が続き、融資元の毛利家から閉山指示が出された
  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1902年(6月)小坂で黒鉱自溶製錬の操業を開始(生産が本格化)

黒鉱自溶製錬の成功は日本の非鉄金属業界における技術的な画期として評価され、藤田組は一挙に国内有数の鉱山会社としての地位を獲得した。久原房之助が示した事業継続への強い意志と技術的挑戦への情熱は、その後の藤田組・同和鉱業の経営文化の核心を成す要素として組織の中に受け継がれ、何度もの危機を乗り越える原動力となり続けた。小坂鉱山の技術的成功は単なる一企業の成果にとどまらず、日本の鉱山業全体の近代化に貢献する象徴的な出来事として広く認知された。

  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [1]1881年に藤田伝三郎が兄弟3名(藤田伝三郎・兄藤田鹿太郎・久原庄三郎)で藤田組(合名会社)を組織
    • [5]閉山処理に着任した久原房之助が事業継続を主張し、井上馨の個人的支持で毛利家の閉山指示撤回を実現
    • [7]1906年に小坂鉱山が国内全鉱山中の生産額一位を達成
    • [8]取得から十年を経ても製錬技術が確立せず赤字が続き、融資元の毛利家から閉山指示が出された
  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [2]1884年9月 藤田組が明治政府から官営小坂鉱山の払い下げを受け鉱山経営に参入
    • [4]小坂鉱山は金・銀・銅・亜鉛・鉛が混在する黒鉱を産出し、各成分の分離製錬が事業化の鍵だった
    • [6]1902年(6月)小坂で黒鉱自溶製錬の操業を開始(生産が本格化)
  • 藤田組史
    • [3]小坂鉱山取得の開発資金として旧長州藩主毛利家から20万円を借り入れ

花岡・柵原の取得が生む鉱山分散の戦略

小坂鉱山の鉱脈品位の低下に備えるため、藤田組は新規鉱山の取得を積極的に進める経営方針を打ち出すこととなった。1915年には秋田県の花岡鉱山を128万円で買収したが、買収直後に品位低下に見舞われるという不運に見舞われる局面を経験した。しかし翌1916年に堂屋敷大鉱床を発見するという幸運を得て、花岡鉱山は小坂鉱山に次ぐ主力鉱山に成長した。同年には岡山県で11の小規模鉱山を統合して柵原鉱山を新たに形成し、硫化鉱の安定的な供給拠点を確保する動きも並行して進められた。 [9][10][11]

  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1915年 秋田県の花岡鉱山を128万円(128万円)で買収
  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [10]1916年 堂屋敷大鉱床を発見し、花岡鉱山が小坂鉱山に次ぐ主力鉱山に成長
    • [11]1916年 岡山県で11の小規模鉱山を統合して柵原鉱山を形成(硫化鉱の供給拠点)

非鉄金属鉱山と硫化鉱山という性質の異なる鉱種を組み合わせて取得することで、単一鉱山への依存から意識的に脱却する分散戦略が藤田組の経営方針として明確化された。秋田県と岡山県という地理的にも異なる場所に分散した複数の鉱山で収益基盤を確保する体制が構築され、藤田組は国内有数の鉱山会社としての基盤を一段と固めていくこととなった。小坂のみに頼らずこの間に操業を開始あるいは買収した鉱山は三十を超え、藤田組はわが国産銅界の四大会社の一つに数えられて明治末から大正にかけて当時の諸財閥と並ぶ地歩を築いた。鉱種と地理の両面における分散戦略は後年の経営危機を乗り越える際の重要な支柱となり、同社の経営の柔軟性を支える構造的な要素として定着した。 [12][13]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [12]小坂以外に操業を開始あるいは買収した鉱山は30以上にのぼり、花岡鉱山・柵原鉱山もそこに含まれた
    • [13]藤田組はわが国産銅界の四大会社の一つに躍進し、明治末から大正にかけて当時の諸財閥と並ぶ地歩を築いた

藤田組は1917年に財閥形態へ移行して鉱業部門を藤田鉱業として分離し、第一次大戦後の不況と昭和初期の金融恐慌を経て、1937年3月には合名会社藤田組を合併して株式会社藤田組へと改組した。さらに太平洋戦争下の1942年5月には帝国鉱業開発と東北興業という二つの国策会社が資本参加し、戦時統制下で同社の経営は国策と深く結びついた。こうした変遷を経て1945年には役員の一新を機に商号を同和鉱業へ変更し、戦後は1949年に東京証券取引所に上場を果たして独立した上場企業としての歩みを開始した。1884年の小坂鉱山取得から数えて60年余りに及ぶ鉱山経営の蓄積が、戦後の独立企業としての再出発の基礎を形成する重要な経営資源となった。 [14][15][16][17][18][19]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [14]大正6年(1917年)藤田組が財閥形態をとり、鉱業部門が藤田鉱業(原文「藤田鉄業」)として分離した
    • [15]昭和12年(1937年)3月 合名会社藤田組を合併して株式会社藤田組へ改組した
    • [16]太平洋戦争中の昭和17年(1942年)5月 帝国鉱業開発と東北興業の二国策会社が資本参加した
  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1945年 役員の一新を機に商号を同和鉱業株式会社に変更(戦後20年12月)
    • [18]1949年(7月)東京証券取引所に株式上場
    • [19]1884年の小坂鉱山取得から数えて約60年(founding.mdでは65年)に及ぶ鉱山経営の蓄積
  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1915年 秋田県の花岡鉱山を128万円(128万円)で買収
    • [17]1945年 役員の一新を機に商号を同和鉱業株式会社に変更(戦後20年12月)
    • [18]1949年(7月)東京証券取引所に株式上場
    • [19]1884年の小坂鉱山取得から数えて約60年(founding.mdでは65年)に及ぶ鉱山経営の蓄積
  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [10]1916年 堂屋敷大鉱床を発見し、花岡鉱山が小坂鉱山に次ぐ主力鉱山に成長
    • [11]1916年 岡山県で11の小規模鉱山を統合して柵原鉱山を形成(硫化鉱の供給拠点)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [12]小坂以外に操業を開始あるいは買収した鉱山は30以上にのぼり、花岡鉱山・柵原鉱山もそこに含まれた
    • [13]藤田組はわが国産銅界の四大会社の一つに躍進し、明治末から大正にかけて当時の諸財閥と並ぶ地歩を築いた
    • [14]大正6年(1917年)藤田組が財閥形態をとり、鉱業部門が藤田鉱業(原文「藤田鉄業」)として分離した
    • [15]昭和12年(1937年)3月 合名会社藤田組を合併して株式会社藤田組へ改組した
    • [16]太平洋戦争中の昭和17年(1942年)5月 帝国鉱業開発と東北興業の二国策会社が資本参加した

1945年〜 鉱山縮小と事業転換の模索、希望退職への踏み切り

  1. 1945年商号を同和鉱業株式会社に変更
  2. 1949年東京証券取引所に株式上場
  3. 1958年東京熱処理工業を子会社化し熱処理事業を開始
  4. 1963年花岡松峰鉱床を発見
  5. 1965年電子材料事業に参入
  6. 1972年鉱山の規模縮小・人員削減を実施
  7. 2000年構造改革を発表・希望退職者を募集

DOWAの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

鉱山縮小と新規事業の種まきが並走する時代

1971年のニクソンショックによる円高の急速な進行と硫化鉱の採算悪化が同時に重なったことで、同和鉱業の全ての国内鉱山で経営が圧迫される厳しい局面が長く続くこととなった。1970年代以降に1万名規模であった従業員数を1990年代までに3,000名規模へと縮小する雇用調整を実施し、同時に不動産など固定資産の売却で収益を確保する苦しい経営が続いた。1977年には環境リサイクル事業に参入するという後年につながる重要な布石を打ち、同年12月には危機突破特別委員会を発足させて全社的な構造改革の議論を本格化させる動きを見せた。 [20][21][22][23]

  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1971年のニクソンショック(円高進行)と硫化鉱の採算悪化が重なり全国内鉱山で採算が悪化
    • [21]1970年代以降に1万名規模だった従業員を1990年代までに3,000名規模へ縮小(約7,000名減)
    • [22]1977年(10月)環境リサイクル事業に参入
    • [23]1977年12月 危機突破特別委員会を発足

1965年には電子材料事業に参入するという先行的な布石を打ち、1982年には半導体材料研究所を設置するなど、本業の鉱山事業以外の新事業の種まきも並行的に進められた。1989年には小坂製錬所を分離して小坂製錬を正式に設立し、1992年にはセラミック基板の製造拠点として塩尻工場を新設するなど、電子材料分野での投資も拡大していく動きを見せた。しかし1990年代を通じて不採算事業の撤退判断が先送りされる傾向が強く、資産売却で利益を捻出する経営体質が定着していく状況が続いたため、抜本的な経営改革の必要性が社内で高まっていく時期を迎えることとなった。 [24][25][26][27]

  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1965年(11月)電子材料事業に参入
    • [25]1982年(8月)半導体材料研究所を設置
    • [26]1989年(3月)小坂製錬所を分離して小坂製錬を設立
    • [27]1992年(12月)塩尻工場を新設(セラミック基板の製造拠点)

鉱山縮小と新事業の種まきが並行して進む時期の同和鉱業は、長い歴史を持つ伝統企業特有の慣性の強さと、新たな事業領域への挑戦という二つの力が同時に作用する独特の経営局面を経験した。環境リサイクルや電子材料という将来の成長分野への布石は早い段階で打たれていたものの、これらを事業の中核に据えるための意思決定と資源配分の再構築は遅々として進まず、歴史と伝統に安住する企業文化からの脱皮という根本的な課題が社内に長く残存することとなっていた。後年の経営判断にも強く影響を及ぼすこととなった。後年の経営判断にも強く影響を及ぼすこととなった。後年の経営判断にも強く影響を及ぼすこととなった。

  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1971年のニクソンショック(円高進行)と硫化鉱の採算悪化が重なり全国内鉱山で採算が悪化
    • [21]1970年代以降に1万名規模だった従業員を1990年代までに3,000名規模へ縮小(約7,000名減)
    • [22]1977年(10月)環境リサイクル事業に参入
    • [23]1977年12月 危機突破特別委員会を発足
    • [24]1965年(11月)電子材料事業に参入
    • [25]1982年(8月)半導体材料研究所を設置
    • [26]1989年(3月)小坂製錬所を分離して小坂製錬を設立
    • [27]1992年(12月)塩尻工場を新設(セラミック基板の製造拠点)

9割反対を押し切った構造改革の始動

1999年末に同和鉱業は業績の悪化を受けて本格的な構造改革を正式に発表し、吉川廣和(当時専務)を中心とする十名のチームが改革の実行を主導した。しかし社内の9割が改革案に反対するという厳しい状況であり、吉川は後年になって当時の同和鉱業を歴史と伝統にあぐらをかいた典型的な成熟企業であったと率直に振り返っている。前任の金谷浩一郎社長は社内の大半が反対する逆風の中で、改革推進派の吉川を自身の後任候補に据える人事を断行するという決断を下し、構造改革を実行できる体制を整える布石とした。 [28][29][30]

    • [28]1999年末(11月)同和鉱業が構造改革を発表、吉川廣和(当時専務)を中心とする10名のチームが主導
    • [29]改革案に社内の9割が反対する状況だった
    • [30]前任の金谷浩一郎社長が改革推進派の吉川を後任候補に据える人事を断行

2000年2月までには322名の希望退職者を募集する形で事業の縮小を開始し、以後は不採算事業の整理と新規事業への経営資源の再配分を同時並行で進める局面が展開された。改革開始の直後は売上が減少して二年間にわたって業績が悪化する厳しい時期が続いたが、三年目の2002年頃から利益が回復し始め、構造改革の方向性の数値面での妥当性が実績として裏付けられる状況となった。この実績が2002年の吉川廣和の社長就任の決定的な布石となり、以後の吉川改革の本格的な展開の基礎を形成した。 [31][32][33]

    • [31]2000年2月までに322名の希望退職者が応募し退職
    • [32]改革開始直後は2年間業績が悪化し、3年目の2002年頃から利益が回復
    • [33]この実績が2002年の吉川廣和の社長就任の布石となった

構造改革の実行過程における社内の強い抵抗とその克服という経験は、DOWAの経営史における重要な転換点として後年まで語り継がれる出来事となった。歴史と伝統を持つ企業が自己変革を遂げることの難しさと、それを可能にする経営陣の強い意思と実績による説得の重要性が同社の経営文化に組み込まれ、以後の経営判断においても伝統にとらわれない選択と集中の方針が一貫して貫かれていく基盤が形成されることとなった。1990年代後半の苦しい経験があったからこそ、2002年以降の大胆な事業転換が実現可能になったと評価されている。

    • [28]1999年末(11月)同和鉱業が構造改革を発表、吉川廣和(当時専務)を中心とする10名のチームが主導
    • [29]改革案に社内の9割が反対する状況だった
    • [30]前任の金谷浩一郎社長が改革推進派の吉川を後任候補に据える人事を断行
    • [31]2000年2月までに322名の希望退職者が応募し退職
    • [32]改革開始直後は2年間業績が悪化し、3年目の2002年頃から利益が回復
    • [33]この実績が2002年の吉川廣和の社長就任の布石となった

2002年〜 環境・リサイクル企業への転換と過去最高益の達成

  1. 2002年吉川廣和氏が社長就任・環境リサイクル事業に集中投資
  2. 2002年中国で金属加工事業を開始
  3. 2003年中国で環境・リサイクル事業を開始
  4. 2006年タイで金属加工事業を開始
  5. 2009年Modern Asia Environmental Holdingsを子会社化
  6. 2011年熱処理事業がインドへ本格進出
  7. 2015年メキシコで熱処理事業を開始

DOWAの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

雑木林経営が15事業の高シェアを生む

2002年4月に吉川廣和が同和鉱業の社長に正式に就任し、事業の存廃を判断する際の新たな基準として市場の将来性・競争力・社員のやる気という三つの基準を打ち出す抜本的な経営方針転換に踏み切った。この三つの基準のいずれかを満たさない18事業を解散・閉鎖・売却の対象として断行し、整理対象の70%が黒字事業であったにもかかわらず撤退に踏み切るという意思決定を下した。残存する事業はニッチ市場において高いシェアを確保できる領域に集中させる方針が打ち出され、吉川自身はこの方針を独自に「雑木林経営」と呼んで社内外に発信した。後年の経営判断にも強く影響を及ぼすこととなった。 環境リサイクル事業を注力分野の中核に据える戦略が明確化され、2004年には小坂製錬において管理型最終処分場を新設し、2006年には約100億円を投じてリサイクル対応の新型炉を建設するなど、環境リサイクル分野への集中投資が実行された。不要資産の一括売却と有利子負債の圧縮も並行して実施され、2007年3月期には当期純利益263億円という過去最高益を達成する劇的な成果を収めることとなった。トップシェアを誇る15事業を擁する収益構造が形成され、雑木林経営の正しさが業績面でも裏付けられた。 [34][35][36][37][38][39]

    • [34]2002年4月 吉川廣和が同和鉱業の社長に就任、市場の将来性・競争力・社員のやる気の三基準を打ち出す
    • [35]三基準のいずれかを満たさない18事業を解散・閉鎖・売却(整理対象の70%が黒字)
    • [36]残存事業をニッチ市場で高シェアを確保できる領域に集中、吉川がこの方針を「雑木林経営」と呼んだ
    • [38]2006年 約100億円を投じてリサイクル対応の新型炉(TSL炉)を建設
    • [39]トップシェアを誇る15事業を擁する収益構造が形成(2008年頃に世界7・国内8の計15事業)
  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [37]2004年 小坂製錬で管理型最終処分場を新設

吉川改革は、同和鉱業の経営史における最大級の転換点となり、歴史と伝統を持つ素材企業が抜本的な事業構造転換を完了した事例として業界内外で評価される存在となった。環境リサイクル事業を中心とする新たな事業構造は、鉱山会社としての歴史を踏まえつつも全く異なる自己定義を獲得する画期的な変貌として記憶され、2000年代以降のDOWA経営の基本線として定着していくこととなった。雑木林経営という独自の概念は、選択と集中の手法論として他社にも影響を与える経営哲学として業界内で広く参照される存在となった。

    • [34]2002年4月 吉川廣和が同和鉱業の社長に就任、市場の将来性・競争力・社員のやる気の三基準を打ち出す
    • [35]三基準のいずれかを満たさない18事業を解散・閉鎖・売却(整理対象の70%が黒字)
    • [36]残存事業をニッチ市場で高シェアを確保できる領域に集中、吉川がこの方針を「雑木林経営」と呼んだ
    • [38]2006年 約100億円を投じてリサイクル対応の新型炉(TSL炉)を建設
    • [39]トップシェアを誇る15事業を擁する収益構造が形成(2008年頃に世界7・国内8の計15事業)
  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [37]2004年 小坂製錬で管理型最終処分場を新設

持株会社移行と海外リサイクル展開の本格化

2006年には商号をDOWAホールディングスに正式に変更し、持株会社体制への移行を実現する形で事業ポートフォリオ管理の機動性を一段と高める組織改革に踏み切った。2007年にはヤマハメタニクスを買収し、2008年には亜鉛リサイクル事業に本格参入するなど、環境・リサイクル分野の事業の拡充を続けた。2009年3月期にはリーマンショックの影響で一時的に赤字転落する局面を経験したが、吉川改革で築かれた収益基盤の強さによって比較的短期間で業績回復を果たすことができ、構造改革の成果の耐久力が証明された。 海外展開の面では、1994年にメキシコのティサパ鉱山、2019年にロス・ガトス鉱山の操業を相次いで開始し、亜鉛の資源権益を二鉱山体制で押さえた。2023年にはインドネシアで環境・リサイクル事業を開始し、国内で長年培ってきた環境リサイクル技術を海外市場に展開する新たな成長局面に入ることとなった。2022年3月期には金属市況の歴史的な高騰を背景として過去最高益を更新するなど、業績面でも好調に推移している状況が示されており、鉱山会社から環境・リサイクル企業への転換を果たしたDOWAは、その技術基盤を海外へ展開する新たな成長段階に到達した状況にある。 [40][41][42][43][44][45]

  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [40]2006年(10月)商号をDOWAホールディングス株式会社に変更し持株会社体制へ移行
    • [41]2007年(11月)ヤマハメタニクスを買収
    • [42]2008年(3月)亜鉛リサイクル事業に本格参入
    • [43]1994年(10月)メキシコのティサパ鉱山の操業を開始
    • [44]2019年(7月)メキシコのロス・ガトス鉱山の操業を開始
    • [45]2023年(1月)インドネシアで環境・リサイクル事業を開始

製錬・リサイクル複合コンビナートという独自のビジネスモデルの再構築も経営課題に浮上しており、小坂製錬所における銅製錬系設備の補修や秋田製錬における定修の実施など、長期的な操業体制の最適化を目指す取組みが進められている。この再構築は単なる設備更新ではなく、環境リサイクル事業と製錬事業を一体として運営することで両者のシナジーを最大限に引き出す新たな事業モデルの確立を目指すものであり、DOWA独自の競争優位の源泉を維持・強化する戦略的な取組みである。

  • DOWAホールディングス 有価証券報告書【沿革】
    • [40]2006年(10月)商号をDOWAホールディングス株式会社に変更し持株会社体制へ移行
    • [41]2007年(11月)ヤマハメタニクスを買収
    • [42]2008年(3月)亜鉛リサイクル事業に本格参入
    • [43]1994年(10月)メキシコのティサパ鉱山の操業を開始
    • [44]2019年(7月)メキシコのロス・ガトス鉱山の操業を開始
    • [45]2023年(1月)インドネシアで環境・リサイクル事業を開始

DOWAの沿革1884〜2023年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
藤田組が小坂鉱山を買収(同和鉱業の創業)★★★
小坂で水力発電を開始★★
小坂で黒鉱乾式製錬の操業を開始★★
小坂で黒鉱自溶製錬の操業を開始★★★
国内で有力鉱山を買収★★★
豊崎圧延工場を設置し金属加工事業を開始★★
豊崎伸銅所(現DOWAメタル)を設立
商号を同和鉱業株式会社に変更
東京証券取引所に株式上場
東京熱処理工業を子会社化し熱処理事業を開始★★
花岡松峰鉱床を発見
電子材料事業に参入
秋田製錬を設立(臨海型亜鉛製錬)
鉱山の規模縮小・人員削減を実施★★
環境リサイクル事業に参入
危機突破特別委員会を発足
半導体材料研究所を設置
小坂製錬所を分離・小坂製錬を設立
塩尻工場を新設・セラミック基板の製造
メキシコで亜鉛鉱山の操業開始(ティサパ鉱山)
構造改革を発表・希望退職者を募集★★★
日本パールを買収・廃棄物処理事業に進出
吉川廣和吉川廣和氏が社長就任・環境リサイクル事業に集中投資★★★
吉川廣和中国で金属加工事業を開始★★
吉川廣和中国で環境・リサイクル事業を開始★★
吉川廣和小坂製錬(株)で管理型最終処分場を新設
河野正樹小坂製錬(株)でリサイクル新型炉を新設
河野正樹商号をDOWAホールディングス株式会社に変更
河野正樹タイで金属加工事業を開始★★
河野正樹ヤマハメタニクスを買収
山田政雄亜鉛リサイクル事業に参入
山田政雄Modern Asia Environmental Holdingsを子会社化★★
山田政雄リーマンショックにより赤字転落
山田政雄熱処理事業がインドへ本格進出★★
山田政雄メキシコで熱処理事業を開始★★
関口明メキシコで亜鉛鉱山の操業開始(ロス・ガトス鉱山)
関口明金属市況の高騰により過去最高益
関口明インドネシアで環境・リサイクル事業を開始
出典・参考

免責事項およびポリシー