藤田組が小坂で学んだのは、鉱山の価値が鉱石の量ではなく、それを採取可能にする技術で決まるということだった。1896年の時点で銀に富む土鉱の残りは20カ月分しかなく、融資元の毛利家は条件に小坂の売却を挙げた。だが地下には黒鉱が大量に眠っていて、これは処理法が無いから価値が無いだけの鉱石である。久原房之助が入院中の井上馨へ日参して整理の枠を外させ、羽口炭という偶然の発見で自熔製錬が成ったとき、同じ山が閉山の対象から産銅界二位の資産へ変わった。技術が鉱石を資産に変える。この経験が藤田組の出発点にある。
ところが同じ判断力は、鉱業の外では働かなかった。1917年に藤田銀行と藤田鉱業を中核に置いた財閥構想は、他の財閥が石炭業や電線部門で銅価の変動を打ち消していたのに対し、打ち消す相手を持たなかった。第一次大戦後に電気銅がトン当り1,257円から526円へ下落すると、鉱産額の順位は第四位から第十六位へ滑り、1927年の藤田銀行破綻で9,000万円の日銀特融を負う。以後の20年、増産を求められながら資金が無くて減産した藤田組にとって、持っている山は稼ぐ資産ではなく、返済のための担保だった。
1884年9月18日、明治政府は官営小坂鉱山を藤田組へ払い下げた。工場払下概則によって主要鉱山が民間へ移された最初の一件で、以後1896年までに院内、阿仁、三池、佐渡などが古河、三井、三菱の手へ順に渡った。長州萩の酒造家に生まれた藤田伝三郎は、輸入に依存していた軍靴の製造を手がけて陸軍の御用商人となり、被服その他の需用品や西南戦争の人夫の口入れで利益を蓄え、1881年に実兄の藤田鹿太郎、久原庄三郎と資本金6万円の組合を組織した。鉱山へ入ったのは1880年に愛媛の市ノ川鉱山へ投資したのが最初である。払い下げを受けると資本金を20万円へ増やし、鉱山部門を順に広げた。小坂は官営時代から国内で最も技術水準の高い鉱山とされ、銀の年産は官営末期の5,100キログラムから1888年には7,554キログラムへ5割以上伸び、同年まで産出額は全国一位を保った。
銀に寄りかかった経営は十年あまりで行き詰まった。小坂の鉱床のうち銀に富む土鉱は上部にしかなく、1896年3月の調査で残量は約7.9万トン、20カ月分しかなかった。金本位制の採用方針が伝わると銀価は1匁18.3銭から翌年には13.2銭へ3割近く下がった。日清戦争後の反動不況では保有有価証券が大幅に値下がりし、1897年中の損失約60万円を含めて約100万円、当時の資本金60万円の二倍に近い赤字が見込まれた。藤田伝三郎は井上馨の仲立ちで毛利家から総計60万円を借り入れ、資金繰りの急場をしのいだが、課された条件は厳しく、小坂・大森両鉱山を売る方針を立てること、出資社員は責任を負って経営を離れること、児島湾干拓は毛利家の監督下で行うことの三つであった。毛利家の資金はあくまで干拓事業に向けたもので、経営の定まらない鉱業からは手を引けというのがその求めだった。
小坂閉止の方針が内定した1897年10月、藤田組は久原庄三郎の長子の久原房之助を28歳で所長へ昇格させた。久原は閉止の指令を受けながら再建を期していた。尽きたのは土鉱であって、黒鉱は地下に大量に眠っていたからである。黒鉱は金銀銅鉛亜鉛が混ざる日本特有の鉱種で、処理法は欧米に実績も文献もなく、独力で研究するほかなかった。毛利家の整理委員は小坂を畳めば14万から15万円が残ると算じたが、久原は4万円を足して19万円で製銅場を建てる案を持ち、入院中の井上馨のもとへ一週間通って小坂を整理の枠から外させた。技術の側は偶然に開いた。羽口から薪でつつき少量の石炭を入れると炉内の融着がとけると青山隆太郎が気づき、炉のつまりを防げるようになった。1899年4月以降に自熔製錬が成り、1900年に土鉱製錬を終えて、小坂は銀山から銅山へ転じた。
小坂の採掘法を変えたのは、1908年2月に辻元謙之助が出した露天掘の提案だった。鉱床を余さず採れる代わり、鉱石一トンにつき四トンの土砂を掘り取らねばならず、コスト高を恐れる反対論が強かった。病中の藤田伝三郎が自ら会議を主宰して一カ月以上議論させ、社外から招いた井上匡四郎の賛成意見を得て採用に踏み切った。製錬では銀の散逸を懸念して反射炉を使っていたが、転炉でも銀の減りは全含有量の1〜2%にとどまると分かり、ベセマー転炉とラトー式ターボ・ブロワーを据えた。沈澱銅の採収が再び始まった。含有銅量は1909年に75トンだったものが、1911年には300トンとなり、その後は年ごとに500トンに届いた。それに先立つ1908年9月には、索道では追いつかなくなった搬出のために森林鉄道を買い取り、大館から小坂までの全線22キロを開通させていた。金・銀・銅はそろって全国の上位を占め、合算した金額では国内の鉱山で首位に立った。
露天掘を進めれば小坂の鉱量は六カ年で掘り尽くすという見積もりが出ており、小坂のみに頼り続けるわけにはいかなかった。製錬に回す鉱石を確保しようと、藤田組は明治末年から1918年までに、自ら操業を始めた山と買い取った山を合わせて30を超える鉱山を手中にし、後に主力となったのはそのうち二つである。花岡は、小坂で黄鉱が不足していたときに売り手が日立鉱山と競り合わせた山で、藤田組は1915年4月、鉄道などの付属物件込みで128万円を払って取得した。柵原は素硫化鉄鉱しか出ない山で、20万円という山代金が高すぎるとして一度は買わないことになったが、買山を担当した山下成一が、社長が決めないなら自分で金を工面して買い、会社を辞めると進退をかけて迫り、判断が覆った『社長が買うことにきめて下さらないなら、私自身なんとか金策して買うから、おいとまを願います』。買収後に探鉱を進めると、確定鉱量はおよそ375万トンに上った。ところが1918年7月の豪雨で坑内が水に沈み、39名が亡くなったため、本格的な開発は1920年ごろにずれ込んだ。
1917年、藤田組は諸事業を再編して財閥の形をとった。中核は二つで、資本金1,000万円の藤田銀行の設立と、鉱業部門を資本金3,000万円で分離した藤田鉱業の設立である。鉱業だけでは発展に限りがあるという判断だった。他の財閥は、景気の波に左右されにくい石炭業や、銅が安くなるほど得をする電線部門を抱えていたが、藤田にはそうした総合性がなかった。第一次大戦が終わると、電気銅の価格は1916年12月にトン当り1,257円だったのが、1921年3月には526円まで落ちた。藤田鉱業は1919年に犬島製錬所を住友へ売却して帯江や大森を休廃山とし、鉱産額の順位も1912年の第四位から1919年には第十六位へ下がった。1927年の金融恐慌では藤田銀行が破綻し、全財産を担保に差し出して日銀から9,000万円の特別融資を受け、この額は市中銀行向け特融の総額6億8,000万円の13%を占めた。
日銀の監督下で運営は消極的にならざるをえなかったが、柵原だけは別格だった。大正末から硫安と人絹の工業が伸び、硫酸の原料となる硫化鉄鉱の需要が急増していたからである。1928年4月、藤田鉱業は野口遵の率いる日本窒素肥料および朝鮮窒素肥料と柵原硫化鉄鉱長期需給契約を結んだ。日窒側は興南と水俣・延岡の工場で使う硫酸に柵原鉱だけを使い他の原料を買わない、藤田側は1929年1月から20年にわたり年15万トンを供給する取り決めで、日窒は運搬施設の起業へ約一カ年分の鉱石代に当たる250万円を融資した。1929年10月には巨大な第三鉱体が見つかり、1931年2月に片上鉄道が全線開通して索道輸送は全廃された。柵原の産出は1928年ごろの年20万トン台から1936年には50.2万トンへ伸び、銅価の下がった1929年下期以降は小坂と花岡をはるかに凌いで全事業の支柱となった。
同じころ、黒鉱から金属を分けて採る研究が実を結んだ。それまでの生鉱吹きでは銅と金銀だけを採り、7%ほど含まれる亜鉛は錣に残したまま捨てていた。技師の高田実が英米の研究雑誌から浮遊選鉱の考え方を得て、ある薬液に銅をつかませ、別の薬液に亜鉛をつかませて泡で分ける方法を試した。1927年に本社の試験で目鼻がつき、高田は小坂へ赴任したが、試験工場の建設は難航し、花岡鉱業所に神山選鉱場が立って操業に入ったのは1931年1月だった。亜鉛価格が下落していて利益は出なかったものの、黒鉱から銅精鉱と亜鉛精鉱を分離することに成功し、続いて鉛精鉱の分離も成った。これによって花岡の利益は二倍以上になった。一つの鉱石から採れる金属の種類を増やすこの技術は、後年に銅と亜鉛の精鉱を分けて亜鉛製錬を別に立てる道まで通じていた。
日銀特融の返済に追われていた会社は、他社並みに起業資金を集めることができなかった。時局の要請は増産だったのに、産銅量は1938年の9,616トンが頂点で、1941年には6,650トンと3割落ち込んだ。鉱量が尽きたわけではなく、探鉱を進めれば手つかずの部分があり、欠けていたのは開発資金であった。1940年2月に藤田平太郎社長が急死すると、債権者の日銀は監督の姿勢を硬くし、経営と資本を切り離すよう露骨に求めた。1941年9月の株主総会で社長の藤田光一は代表権のない会長へ退き、旧役員もほぼ全員が退陣した。1942年5月に帝国鉱業開発と東北興業が2,000万円を折半で引き受け、1943年12月、譲渡代金を未確定のまま藤田家所有の100万株が鉱発名義へ書き換えられた。増産を求める国家と返済を求める債権者の板挟みが、所有そのものを手放させたのだろう。
戦後の同和鉱業を支えたのは、北の銅ではなく西の硫化鉄鉱だった。柵原は関西で使う硫酸原料の50%を供給する世界最大の硫化鉄鉱山で、一トンの増産が米三〇石の増収に相当すると計算された。ところが品位が高くコストが安いという理由で安く買い上げられる側に置かれ、統制が解けるまでに5億1,200万円を他社の鉱山へ供出している。それでも会社が保ったのは、この一山の利益が北の探鉱をまかない続けたからである。1959年の内の岱と1963年の松峰は、十年分の探鉱費が火山灰二〇〇メートルの下で当たった結果だった。
自山鉱を握る会社であることは、1960年代の同和にとって競争優位だった。だが自山鉱は増やせる資源ではない。小坂の亜鉛製錬が月産1,600トンでは自山鉱すら処理しきれないと分かったとき、会社は海外鉱を混ぜて大量に処理する臨海製錬所を六社で建てる側へ回る。同じ時期、重油脱硫の回収硫黄が柵原の値打ちを崩し、堂屋敷は終掘し、四山で1,000名を超える人員が削られた。掘って売る会社から、他人の鉱石を処理して稼ぐ会社へ。原料をどこから取るかが移ったことが、この30年の帰結だった。
1945年12月27日、株式会社藤田組は商号を同和鉱業株式会社へ改めた。同族会社的な商号を近代組織的な商号へ改めるという趣旨だったが、実態としては藤田家の関係者がすでに役員陣に一人も残っていなかった。同月の株主総会で帝国鉱業開発社長の菅礼之助が会長となり、社長は欠員のまま再出発した。久留島秀三郎は満鉄に長く在籍し、鞍山鉄山の露天掘を手がけた技術畑の経営者だった。この久留島を1946年10月に社長へ推したのは菅である。菅は1946年6月に小坂・花岡操業方針対策委員会を置いて再建策の調査を託していたが、石炭庁長官への就任を求められ、会長職を九カ月で退いた。対策委員会が同年10月に出した答申は、花岡では低品位鉱の採掘をやめて高品位鉱を小坂の熔鉱炉へ回すこと、利の厚い硫化鉄鉱を積極的に増やすこと、余った人員を整理することを求めていた。
新発足の同和鉱業には、処理せねばならない二つの負債があった。一つは日銀特融で、元本はほぼ返していたが未払利息が約4,000万円残り、帝国鉱業開発への肩代わりを日銀が認めていなかった。担保に入っていたのは藤田家の財産であり、藤田側も取り戻しに協力せねばならない。1948年6月、日銀、鉱発、藤田鉱業、同和の四社で、藤田鉱業が1,600万円、鉱発が1,900万円、同和が差額の約500万円を支払うという方針が決まった。もう一つは過度経済力集中排除法で、同和は1948年2月に第一次指定を受け、小坂・花岡の北部二山と柵原の西部一山へ分割される見込みとなった。柵原を切り離せば、戦時の乱掘で荒れた北の二山は立ち直れないと見られていた。米国の対日政策が転換して同年11月に指定は取り消され、1949年7月には鉱発所有の旧株100万株と新株20万株が公開された。
食糧増産が至上の課題となるなか、肥料の原料である硫化鉄鉱を増やすことが国策に据えられ、戦後の復興は柵原の山にかかることになった。計算の上では、柵原鉱を一トン増やせば米が三〇石多くとれるとされ、1947年度は全国100万トンのうち30万トンが柵原の責任額となった。しかし価格は反対の方向に働いた。生産者価格はコストに基づき、消費者価格は硫黄品位に応じて決める二重価格制が敷かれ、コストの低い柵原鉱の買上げ価格は硫黄分1%当たり11円余にとどまる一方、ほかの鉱山の鉱石には19円弱が支払われた。品位の高い鉱石が安く買われ、その差益が競合する大手の鉱山への補助に回る仕組みである。久留島秀三郎は『鉱山は慈善事業じゃない』と国会にもGHQにも訴え続け『鉱山は慈善事業じゃない』、統制が解かれる1951年3月までに柵原が他鉱山へ供出した額は5億1,200万円を超えた。
同和の事業は関西と東北の二つのブロックに分かれ、関西には柵原鉱山・尼崎選鉱場・岡山製錬所、東北には小坂と花岡の両鉱山、小坂製錬所、岩手の赤金鉱山が属していた。1949年の売上は硫化鉄鉱が54.0%、電気銅が37.5%を占めた。当時世界最大の硫化鉄鉱山だった柵原は、関西の硫酸製造に回る硫化鉄鉱のうち50%、全国でも約30%をまかなっていた。同和はこの柵原で上げた利益を北へ回し、小坂・花岡の立て直しと新しい鉱床の探鉱の元手にした。小坂は1953年、米国ドル社の特許による焙焼炉を用いた湿式製錬法を導入し、以前は錣として捨てていた亜鉛を回収できるようになった。1957年8月には、藤田家の手元に残った事業を受け継いでいた藤田興業を合併し、かつての藤田組の姿が同和鉱業の形でよみがえった。
十和田火山の噴出物のため、秋田の北鹿地域は地表から二〇〇メートルほどが火山灰に覆われ、外に顔を出していたのは小坂の旧鉱床などわずかだった。それでも鉱山を探し出すことこそ鉱山会社の本分であり、同和は1950年から10年ほど小坂地区の探鉱に力を注いだ末、1959年6月、旧鉱床の南約二キロで内の岱鉱床に行き当たった。銅2.5%、亜鉛4%、鉛1.5%の品位を持ち、鉱量はおよそ1,000万トンという優れた鉱床だった。1962年7月に始まった選鉱は月に3万5,000トンを処理し、銅量で約950トンと国内一位の産銅量に達した。この発見を機に花岡の周辺も精力的に探り、1963年6月、花岡から1.5キロ離れた地点で鉱量約2,000万トンの松峰鉱床が見つかった。当時の探鉱費は月8,000万円に達していた。
戦後に国内資源が荒れると、非鉄各社は諸外国から鉱石を輸入して製錬し地金を販売する事業や、地金の加工、さらに石油への進出を選んだ。同和はそのいずれも採らず、鉱業の専業に終始した。1965年時点の自山鉱比率は、業界平均が30%であるのに対し、同和鉱業と三菱金属が最も高かった。原料を自ら握る構造は製錬費の外部流出を抑える一方、鉱床の発見に業績が縛られることをも意味した。電気銅の生産量は1955年の9,211トンから1961年に2万3,836トン、1965年には4万3,730トンへ、10年で4.7倍になった。売上のうち銅の比重が急に大きくなったのは、内の岱の開発が進んだ結果である。銅の建値は1965年にトン当り34万7,000円まで騰がり、ロンドン金属取引所の相場と生産者建値の二本建てになっていた。
選鉱技術が進んで銅精鉱と亜鉛精鉱に分けられるようになり、湿式で銅と亜鉛を同時に製錬する必要はなくなった。小坂は流動焙焼炉を改造して1966年8月に月産1,600トンの湿式亜鉛製錬を始めたが、自山鉱すら全量を処理できず、残りは三菱金属鉱業の秋田製錬所へ委託に出していた。国際競争力を持つには海外鉱を加えて大量に処理する臨海製錬所が要った。1965年4月に亜鉛製錬委員会を置き、1967年5月に秋田市飯島地区を建設地と決めた。当初は単独の設備とする計画だったが、1967年8月の鉱業審議会答申が大型化と共同化を求め、共同製錬方式へ変わった。1970年11月に六社の社長会を開催し、1971年2月に同和の出資52%で秋田製錬を設立した。飯島製錬所は1972年7月に本格操業へ入り、第一期は国内鉱月約8,000トン、海外鉱月約5,000トンを処理した。
北の鉱山は逆の方向へ動いていた。花岡の堂屋敷で1915年の開発以来掘り出された量は、戦前の31年間が553万トン、戦後の30年間が580万トンである。優れた鉱体を掘り終えた後は衛星鉱体の採掘に移っていたが、維持すべき坑道が延びて支保の費用が膨らみ、運搬の能率も落ちていた。存廃を検討するため1971年11月に堂屋敷鉱山部合理化委員会が設けられたが、その矢先の1972年3月、堤沢南鉱体の坑内が大きく崩れ、地表にも大きな亀裂が走って、露天掘の排水が西部坑内に流れ込んだ。同年5月に本社が送った調査団の報告は、先行きの発展につながる材料が見当たらず、残った鉱石を掘るほど保安上の危険が増すとして、二百数十名を整理し、残りの人員は松峰・深沢へ配転するまで操業を続けるという内容だった。希望退職の募集と再就職の斡旋は1972年10月に始まった。1973年3月20日には鉱山用具を埋める鍬納式が営まれ、堂屋敷の歴史は閉じた。
柵原の地位を崩したのは競合鉱山ではなく、石油だった。重油脱硫による回収硫黄が市場へ出回り始め、非鉄製錬の工程から出る回収硫酸と合わせて、硫黄の需給構造そのものが変わったからである。1972年の合理化案で柵原鉱業所は月産3万5,000トン程度へ生産を落とし、従業員を約500名減らす対象とされた。花岡は約300名、小坂は約250名を減じ、赤金鉱業所は別会社として分離する案で、組合は協議が整わぬうちの新会社設立は協約違反だとして四山全面二四時間ストで応じた。入社以来労務畑を歩いた韮谷定敏は、最盛期に1万人だった従業員が3,000人へ減る過程に立ち会い、1973年の合理化では花岡鉱業所へ人員整理を説得しに行く役目を負った。掘る会社から、掘れなくなった後で何を食べていくかを決める会社へ、経営の課題は入れ替わっていた。
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|---|---|---|---|---|
| 1884〜1944年閉山指令を覆した黒鉱自熔製錬と、財閥構想の挫折から国策会社への経営権移転 | 藤田組が官営鉱山を受け、黒鉱自溶製錬で果たした再生 1884年9月、長州萩出身で奇兵隊を経た藤田伝三郎氏の藤田組が、明治政府の工場払下概則の改正を受けて秋田県北秋田郡小坂村の官営小坂鉱山の払下げを受け、鉱山業へ参入した。金・銀・銅・亜鉛・鉛が混在する黒鉱の製錬に長く苦しんだが、現場の久原房之助氏が1902年6月に黒鉱自溶製錬の操業に成功し、1906年には小坂が国内全鉱山中の生産額一位に達した。戦時統制を経て1945年12月に同和鉱業株式会社へ改称し、1949年7月に東京証券取引所へ上場している。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 小坂で水力発電を開始 | ★ | |||
| 小坂で黒鉱乾式製錬の操業を開始 | ★ | |||
| 小坂で黒鉱自溶製錬の操業を開始 | ★★ | |||
| 国内で有力鉱山を買収 | ★★ | |||
| 豊崎圧延工場を新設し金属加工事業に参入 | ★★ | |||
| 豊崎伸銅所を設立 | ★ | |||
| 1945〜1976年柵原の硫化鉄鉱が支えた復興と、内の岱・松峰の発見から臨海共同製錬への転換 | 商号を同和鉱業に変更 | ★ | ||
| 久留島秀三郎 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 久留島秀三郎 | 東京熱処理工業を子会社化し熱処理事業に参入 | ★★ | ||
| 新井友蔵 | 花岡松峰鉱床を発見 | ★ | ||
| 新井友蔵 | 電子材料事業に参入 | ★ | ||
| 新井友蔵 | 臨海型の亜鉛拠点の新設と、自山鉱から輸入鉱への原料の切り替え 1971年2月、同和鉱業が輸入鉱を原料とする臨海型の亜鉛製錬所として秋田製錬を設立し、翌1972年11月に秋田市飯島へ秋田工場を置いた。内の岱・松峰という大鉱床の発見が続いて国内鉱山が産出の頂点にあった時期に、自山鉱の処理では追いつかない製錬能力の不足を、海に面した新設備で埋めた投資である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 新井友蔵 | 鉱山の規模縮小・人員削減を実施 | ★★ | ||
| 1977〜2001年危機突破特別委員会と環境リサイクル・半導体材料への展開、2000年の構造改革 | 小森英夫 | 環境リサイクル事業に参入 | ★ | |
| 小森英夫 | 危機突破特別委員会を発足 | ★ | ||
| 西田堯 | 半導体材料研究所を新設 | ★ | ||
| 韮谷定敏 | 小坂製錬所を分離・小坂製錬を設立 | ★ | ||
| 韮谷定敏 | 塩尻工場を新設・セラミック基板の製造 | ★ | ||
| 原田謙三 | 亜鉛鉱山の操業開始(ティサパ鉱山) | ★ | ||
| 金谷浩一郎 | 1999年の緊急対策に始まる事業構造改革と、ROAを物差しにした資産・人員の圧縮 1999年11月、同和鉱業が当時の従業員の1割以上に相当する希望退職の募集と賃金カットを含む緊急対策を発動し、翌2000年度から3年間でROAを2%から5%へ引き上げる中期計画に着手した。指揮したのは同年6月に専務へ昇進したばかりの吉川廣和氏で、2002年に社長へ就任した後も資産圧縮を続けた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 金谷浩一郎 | 廃棄物処理事業に参入 | ★ | ||
| 2002〜2026年吉川廣和社長の環境リサイクル集中投資とDOWAHD、ロス・ガトス亜鉛鉱山 | 吉川廣和 | 吉川廣和氏が社長就任・環境リサイクル事業に集中投資 | ★★ | |
| 河野正樹 | 5部門を10社へ分社し、事業運営の権限を事業会社へ移す再配置 2006年5月16日の取締役会でDOWAメタルマインなど10社との吸収分割契約の締結を決議し、同年6月28日の定時株主総会の承認を経て、10月1日に分社型吸収分割で製錬・環境・リサイクル・電子材料・金属加工・熱処理の5部門を各社へ移した。同日、商号を同和鉱業からDOWAホールディングスへ改めている。 承継させた資産は10社合計で221,007百万円、負債は145,042百万円で、うちDOWAメタルマイン1社が資産126,285百万円を占めた。持株会社に残したのは、グループ全体戦略の策定・推進、最適な経営資源の配分、コンプライアンス等の戦略機能である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 河野正樹 | リーマンショックにより赤字転落 | ★ | ||
| 山田政雄 | 熱処理事業を本格展開 | ★ | ||
| 山田政雄 | 熱処理事業に参入 | ★ | ||
| 関口明 | 亜鉛鉱山の操業開始(ロス・ガトス鉱山) | ★ | ||
| 関口明 | 金属市況の高騰により過去最高益 | ★ | ||
| 関口明 | 環境・リサイクル事業に参入 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(DOWA)