DOWAホールディングスは1884年に藤田組が官営小坂鉱山を取得したことに始まる。黒鉱自溶製錬の技術を確立して国内最大の鉱山に育て、花岡鉱山や柵原鉱山の取得で鉱山群を拡充した。戦後は同和鉱業として非鉄金属製錬を展開したが、1970年代の鉱山規模縮小を経て、2002年に吉川廣和社長が環境リサイクル事業への集中投資を断行し、鉱山会社から環境・リサイクル企業へと事業構造を転換した。
歴史概略
1884年〜1945年藤田組と鉱山事業の確立
小坂鉱山の取得と黒鉱自溶製錬の確立
1881年に藤田伝三郎氏が兄弟3名の出資で藤田組を設立し、1884年に明治政府から官営小坂鉱山の払い下げを受けて鉱山経営に参入した。開発資金は元長州藩主の毛利家から20万円を借り入れて調達した。小坂鉱山は金・銀・銅・亜鉛・鉛が混合した黒鉱を産出する特異な鉱山であり、これらを分離する製錬技術の確立が事業化の鍵であった。
取得から10年を経ても技術は確立されず赤字が続いたため、融資元の毛利家が閉山を指示した。閉山処理のため着任した久原房之助氏は事業継続を主張し、井上馨氏の支持を得て閉鎖撤回を実現した。1902年に黒鉱自溶製錬に成功し、1906年には生産額で国内全鉱山中1位を達成した。
花岡鉱山・柵原鉱山の取得と鉱山群の拡充
小坂鉱山の鉱脈品位低下に備え、藤田組は新規鉱山の取得を進めた。1915年に秋田県の花岡鉱山を128万円で買収したが、買収直後に品位低下に見舞われた。しかし翌1916年に堂屋敷大鉱床を発見し、小坂に次ぐ主力鉱山に転じた。同年には岡山県で11の小規模鉱山を統合して柵原鉱山を形成し、硫化鉱の供給拠点を確保した。
非鉄金属と硫化鉱という異なる鉱種の鉱山を取得することで、単一鉱山への依存から脱却する分散戦略が採られた。秋田県と岡山県に分散した複数の鉱山で収益基盤を確保する体制が構築され、藤田組は国内有数の鉱山会社としての基盤を固めた。1945年には商号を同和鉱業に変更し、1949年に東京証券取引所に上場した。
1945年〜1999年鉱山縮小と事業転換の模索
国内鉱山の規模縮小と新規事業への進出
1971年のニクソンショックによる円高と硫化鉱の採算悪化により、同和鉱業の全ての国内鉱山で経営が圧迫された。1970年代以降、1万名規模であった従業員を1990年代までに3000名規模へ削減し、不動産などの固定資産売却で収益を確保する苦しい経営が続いた。1977年には環境リサイクル事業に参入し、同年12月に危機突破特別委員会を発足させた。
1965年に電子材料事業に参入し、1982年に半導体材料研究所を設置するなど新事業の種まきも進めた。1989年には小坂製錬所を分離して小坂製錬を設立し、1992年にはセラミック基板の製造拠点として塩尻工場を新設した。しかし1990年代を通じて不採算事業の撤退判断が先送りされ、資産売却で利益を捻出する体質が定着していた。
構造改革の始動と希望退職
1999年末、同和鉱業は業績悪化を受けて構造改革を発表した。吉川廣和氏(当時専務)を中心とする10名のチームが改革を主導したが、社内の9割が反対する状況であった。吉川氏は「歴史と伝統にあぐらをかいた典型的な成熟企業」であったと当時を振り返っている。前任の金谷浩一郎社長は社内の大半が反対する中で改革推進派の吉川氏を後任候補に据える人事を決断した。
2000年2月までに322名の希望退職者を募集し、事業の縮小を開始した。改革開始後は売上が減少し2年間にわたって業績が悪化したが、3年目の2002年頃から利益が回復し始め、構造改革の数値面での妥当性が裏付けられた。この実績が2002年の吉川氏の社長就任の布石となった。
環境・リサイクル企業への転換(2002〜現在)
吉川改革と過去最高益の達成
2002年4月に吉川廣和氏が社長に就任し、事業の存廃を「市場の将来性・競争力・社員のやる気」の3基準で判断する方針に転換した。全基準を満たさない18事業を解散・閉鎖・売却し、整理対象の70%は黒字事業であったにもかかわらず撤退に踏み切った。残存事業はニッチ市場で高シェアを確保できる領域に集中させ、吉川氏はこの方針を「雑木林経営」と称した。
環境リサイクル事業を注力分野の中核に据え、2004年に小坂製錬で管理型最終処分場を新設、2006年には約100億円を投じてリサイクル対応の新型炉を建設した。不要資産の一括売却と有利子負債の圧縮も並行して実施し、2007年3月期に当期純利益263億円の過去最高益を達成した。トップシェア15事業を擁する収益構造が形成された。
直近の動向と海外展開
2006年に商号をDOWAホールディングスに変更し、持株会社体制に移行した。2007年にヤマハメタニクスを買収し、2008年に亜鉛リサイクル事業に参入するなど環境・リサイクル分野の拡充を続けた。2009年3月期にはリーマンショックで赤字転落したが、事業構造改革で築いた収益基盤により比較的短期間で回復を果たした。
海外では1994年にメキシコのティサパ鉱山、2019年にロス・ガトス鉱山の操業を開始し、亜鉛の資源権益を確保している。2023年にはインドネシアで環境・リサイクル事業を開始し、国内で培った技術を海外に展開する段階に入った。2022年3月期には金属市況の高騰により過去最高益を更新している。鉱山会社から環境・リサイクル企業への転換を果たしたDOWAは、その技術基盤を海外へ展開する新たな成長局面にある。
藤田組は1884年に官営小坂鉱山の払い下げを受けて鉱山経営に参入したが、黒鉱の製錬技術を確立できず赤字が続いた。融資元の毛利家が閉山を指示する中、久原房之助氏が井上馨氏の支持を得て事業継続を実現した。1902年に黒鉱自溶製錬を成功させ、1906年には生産額で国内全鉱山中1位を達成した。製錬技術の確立が鉱山の存廃と藤田組の経営基盤を左右した事例である。