DOWA の歴史

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創業 1884年
創業者 藤田伝三郎
創業地 秋田県鹿角郡
創業 1884年9月、藤田伝三郎氏の藤田組が明治政府から秋田の官営小坂鉱山の払い下げを
1884年9月、藤田伝三郎氏の藤田組が明治政府から秋田の官営小坂鉱山の払い下げを受けた。金・銀・銅・亜鉛・鉛が混じる黒鉱は分離が難しく、取得から十年は製錬技術が立たずに赤字が続いた。1898年1月に乾式製錬、1902年6月には黒鉱自溶製錬の操業へこぎつけ、1906年に小坂を国内一の産出額へ押し上げる。1919年3月に豊崎圧延工場を新設して金属加工へ広げ、1945年12月に商号を同和鉱業へ改め、1949年7月に東京証券取引所へ上場した。2006年10月に持株会社へ移り、現在のDOWAホールディングスとなった。
決断 製錬所へ入れる原料を、自山の鉱石から輸入鉱、そして廃棄物へ替えてきた。1971年
製錬所へ入れる原料を、自山の鉱石から輸入鉱、そして廃棄物へ替えてきた。1971年2月、鉱石輸入の比率が上がって自山鉱の優位が崩れるなかで臨海型の秋田製錬を設立して輸入鉱へ切り替え、収益源を鉱山から製錬能力へ移す。国内採掘が終わったあとは、2002年4月に小坂製錬へ自動車シュレッダーダストの処理炉を置き、2006年10月には持株会社へ移って5つの事業会社へ分割した。同じ炉で家電と自動車の廃材から金・銀・銅を取り出す構えに変えたことが、鉱山を持たないまま製錬を続ける形を作った。
現況 売上の15%を占める環境・リサイクルが、事業利益の3割を生んでいる。2026年3
売上の15%を占める環境・リサイクルが、事業利益の3割を生んでいる。2026年3月期の売上高は7,454億円、営業利益は342億円、当期純利益は625億円だった。製錬が売上3,522億円・利益197億円で最大だが、環境・リサイクルは売上1,111億円で165億円を稼ぎ、利益率は15%に達する。金属加工1,473億円・98億円、電子材料961億円・11億円、熱処理340億円・27億円が続く。1999年11月に始めたROAを物差しにした事業構造改革で資産と人員を圧縮したことが、鉱山を持たない会社が製錬で稼ぎ続ける採算を残した。
競合 非鉄大手のなかで、原料の入り口を廃棄物へ移したのはDOWAだけである。住友金属鉱
非鉄大手のなかで、原料の入り口を廃棄物へ移したのはDOWAだけである。住友金属鉱山は2011年にチリのシエラゴルダ銅鉱山を取得し、鉱山権益で原料を確保する道を採った。三井金属は2001年に神岡鉱山の採掘を止めて電子材料へ移り、輸入精鉱とリサイクル原料で製錬を続けている。DOWAは2019年7月にメキシコのロス・ガトス鉱山を動かす一方、家電と自動車の廃材を集める側で規模を作り、環境・リサイクルを製錬に次ぐ収益源へ育てた。2025年4月には亜鉛関連3社を秋田製錬へ統合し、2030年度までに1,000億円規模を秋田の一拠点へ投じる。地金価格の上下ではなく、受け入れる廃棄物の量と処理料が採算を決めるようになり、鉱山を買い増す2社とは原料の入り口が分かれた。
長期業績の推移 1949〜2026年
DOWA:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1997年3月期〜2026年3月期

第1章 1884年〜 閉山指令を覆した黒鉱自熔製錬と、財閥構想の挫折から国策会社への経営権移転

筆者考察y.sugiura, author

藤田組が小坂で学んだのは、鉱山の価値が鉱石の量ではなく、それを採取可能にする技術で決まるということだった。1896年の時点で銀に富む土鉱の残りは20カ月分しかなく、融資元の毛利家は条件に小坂の売却を挙げた。だが地下には黒鉱が大量に眠っていて、これは処理法が無いから価値が無いだけの鉱石である。久原房之助が入院中の井上馨へ日参して整理の枠を外させ、羽口炭という偶然の発見で自熔製錬が成ったとき、同じ山が閉山の対象から産銅界二位の資産へ変わった。技術が鉱石を資産に変える。この経験が藤田組の出発点にある。

ところが同じ判断力は、鉱業の外では働かなかった。1917年に藤田銀行と藤田鉱業を中核に置いた財閥構想は、他の財閥が石炭業や電線部門で銅価の変動を打ち消していたのに対し、打ち消す相手を持たなかった。第一次大戦後に電気銅がトン当り1,257円から526円へ下落すると、鉱産額の順位は第四位から第十六位へ滑り、1927年の藤田銀行破綻で9,000万円の日銀特融を負う。以後の20年、増産を求められながら資金が無くて減産した藤田組にとって、持っている山は稼ぐ資産ではなく、返済のための担保だった。

1884年〜閉山指令を撤回させた黒鉱の自熔製錬

官営払下げ第一号を受けて鉱山へ入る

1884年9月18日、明治政府は官営小坂鉱山を藤田組へ払い下げた。工場払下概則によって主要鉱山が民間へ移された最初の一件で、以後1896年までに院内、阿仁、三池、佐渡などが古河、三井、三菱の手へ順に渡った。長州萩の酒造家に生まれた藤田伝三郎は、輸入に依存していた軍靴の製造を手がけて陸軍の御用商人となり、被服その他の需用品や西南戦争の人夫の口入れで利益を蓄え、1881年に実兄の藤田鹿太郎、久原庄三郎と資本金6万円の組合を組織した。鉱山へ入ったのは1880年に愛媛の市ノ川鉱山へ投資したのが最初である。払い下げを受けると資本金を20万円へ増やし、鉱山部門を順に広げた。小坂は官営時代から国内で最も技術水準の高い鉱山とされ、銀の年産は官営末期の5,100キログラムから1888年には7,554キログラムへ5割以上伸び、同年まで産出額は全国一位を保った。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [1]1884年9月18日 藤田組が明治政府から官営小坂鉱山の払い下げを受けた(同社の創立記念日)
    • [2]工場払下概則で最初に払い下げられた主要鉱山が小坂で、1896年までに院内・阿仁・大葛・三池・幌内・広島・佐渡・生野が古河・三井・三菱などへ払い下げられた
    • [3]藤田伝三郎は当時人の好まなかった製靴業に従事して陸軍御用商人の資格を得、軍靴から被服その他の需用品、西南戦争の人夫の口入れにおよんで大きな利益を収め、1881年に伝三郎・実兄藤田鹿太郎・久原庄三郎の三人の組合として資本金6万円の藤田組を称した
    • [4]1880年に市ノ川鉱山(愛媛県のアンチモニー鉱山)へ投資したのが藤田組の鉱山進出のきっかけ
    • [6]小坂の銀年産は官営末期の5,100キログラムから1888年に7,554キログラムへ増え、同年まで産出額は全国一位だった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「同和鉱業」
    • [5]小坂鉱山の払い下げを受けると資本金を6万円から20万円に増加し、鉱山部門を拡大した
資本金の二倍の赤字と毛利家が突きつけた閉山条件

銀に寄りかかった経営は十年あまりで行き詰まった。小坂の鉱床のうち銀に富む土鉱は上部にしかなく、1896年3月の調査で残量は約7.9万トン、20カ月分しかなかった。金本位制の採用方針が伝わると銀価は1匁18.3銭から翌年には13.2銭へ3割近く下がった。日清戦争後の反動不況では保有有価証券が大幅に値下がりし、1897年中の損失約60万円を含めて約100万円、当時の資本金60万円の二倍に近い赤字が見込まれた。藤田伝三郎は井上馨の仲立ちで毛利家から総計60万円を借り入れ、資金繰りの急場をしのいだが、課された条件は厳しく、小坂・大森両鉱山を売る方針を立てること、出資社員は責任を負って経営を離れること、児島湾干拓は毛利家の監督下で行うことの三つであった。毛利家の資金はあくまで干拓事業に向けたもので、経営の定まらない鉱業からは手を引けというのがその求めだった。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [7]1896年3月の調査で小坂の土鉱残量は約7.9万トン、約20カ月分しかなかった
    • [8]金本位制の採用方針が伝えられ、銀価は1896年の平均1匁18.3銭から1897年に平均13.2銭へ3割近く下落した
    • [9]日清戦争後の反動不況による有価証券の値下がりで1897年中の損失は約60万円、以前の分を加え約100万円の赤字が見込まれた。当時の藤田組の資本金は60万円
    • [10]藤田伝三郎は井上馨に依頼し、毛利家から藤田組へ総計60万円の融資が行なわれた
    • [11]毛利家の融資条件は、(一)小坂・大森両鉱山を売却する方針を立てる (二)出資社員は責任を負って経営から退き毛利家の参加する整理委員会が経営に当たる (三)児島湾干拓事業は毛利家監督のもとに施工する、の三つ
    • [12]毛利家は児島湾干拓事業に対して融資するのであって、経営が不安定な鉱業は切り捨てよという立場だった
井上馨への直訴と羽口炭が開いた自熔製錬

小坂閉止の方針が内定した1897年10月、藤田組は久原庄三郎の長子の久原房之助を28歳で所長へ昇格させた。久原は閉止の指令を受けながら再建を期していた。尽きたのは土鉱であって、黒鉱は地下に大量に眠っていたからである。黒鉱は金銀銅鉛亜鉛が混ざる日本特有の鉱種で、処理法は欧米に実績も文献もなく、独力で研究するほかなかった。毛利家の整理委員は小坂を畳めば14万から15万円が残ると算じたが、久原は4万円を足して19万円で製銅場を建てる案を持ち、入院中の井上馨のもとへ一週間通って小坂を整理の枠から外させた。技術の側は偶然に開いた。羽口から薪でつつき少量の石炭を入れると炉内の融着がとけると青山隆太郎が気づき、炉のつまりを防げるようになった。1899年4月以降に自熔製錬が成り、1900年に土鉱製錬を終えて、小坂は銀山から銅山へ転じた。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [13]1897年10月、藤田組は久原庄三郎の長子である久原房之助を28歳で小坂鉱山所長に昇格させた
    • [14]久原房之助は小坂鉱山の閉止指令を受けたが、内心はあくまで鉱山の再建を図ろうと考えていた
    • [15]鉱量が二年足らずというのは土鉱のことであって、黒鉱は多量に地下に眠っていた
    • [16]黒鉱は日本の特産ともいうべき鉱種で、その処理法について欧米での実績・文献がなく、独力で研究を要した
    • [17]久原房之助は、毛利家整理委員の算定(小坂を畳めば14〜15万円残る)に4万円を追加して19万円で製銅場をつくる案を持ち、入院中の井上馨のもとへ一週間通って面会し、小坂鉱山だけを整理の枠から外させた
    • [18]青山隆太郎が羽口から薪でつつき少量の石炭を投入すると融着した鉱石がとけることに気づき、これが羽口炭の始まりで炉内のつまりを防げるようになった
    • [19]自熔製錬の成功は1899年4月以降で、1900年に土鉱製錬を終止し、小坂鉱山は銀山から銅山へ転換した
参考文献[1]-[19]
  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [1]1884年9月18日 藤田組が明治政府から官営小坂鉱山の払い下げを受けた(同社の創立記念日)
    • [2]工場払下概則で最初に払い下げられた主要鉱山が小坂で、1896年までに院内・阿仁・大葛・三池・幌内・広島・佐渡・生野が古河・三井・三菱などへ払い下げられた
    • [3]藤田伝三郎は当時人の好まなかった製靴業に従事して陸軍御用商人の資格を得、軍靴から被服その他の需用品、西南戦争の人夫の口入れにおよんで大きな利益を収め、1881年に伝三郎・実兄藤田鹿太郎・久原庄三郎の三人の組合として資本金6万円の藤田組を称した
    • [4]1880年に市ノ川鉱山(愛媛県のアンチモニー鉱山)へ投資したのが藤田組の鉱山進出のきっかけ
    • [6]小坂の銀年産は官営末期の5,100キログラムから1888年に7,554キログラムへ増え、同年まで産出額は全国一位だった
    • [7]1896年3月の調査で小坂の土鉱残量は約7.9万トン、約20カ月分しかなかった
    • [8]金本位制の採用方針が伝えられ、銀価は1896年の平均1匁18.3銭から1897年に平均13.2銭へ3割近く下落した
    • [9]日清戦争後の反動不況による有価証券の値下がりで1897年中の損失は約60万円、以前の分を加え約100万円の赤字が見込まれた。当時の藤田組の資本金は60万円
    • [10]藤田伝三郎は井上馨に依頼し、毛利家から藤田組へ総計60万円の融資が行なわれた
    • [11]毛利家の融資条件は、(一)小坂・大森両鉱山を売却する方針を立てる (二)出資社員は責任を負って経営から退き毛利家の参加する整理委員会が経営に当たる (三)児島湾干拓事業は毛利家監督のもとに施工する、の三つ
    • [12]毛利家は児島湾干拓事業に対して融資するのであって、経営が不安定な鉱業は切り捨てよという立場だった
    • [13]1897年10月、藤田組は久原庄三郎の長子である久原房之助を28歳で小坂鉱山所長に昇格させた
    • [14]久原房之助は小坂鉱山の閉止指令を受けたが、内心はあくまで鉱山の再建を図ろうと考えていた
    • [15]鉱量が二年足らずというのは土鉱のことであって、黒鉱は多量に地下に眠っていた
    • [16]黒鉱は日本の特産ともいうべき鉱種で、その処理法について欧米での実績・文献がなく、独力で研究を要した
    • [17]久原房之助は、毛利家整理委員の算定(小坂を畳めば14〜15万円残る)に4万円を追加して19万円で製銅場をつくる案を持ち、入院中の井上馨のもとへ一週間通って面会し、小坂鉱山だけを整理の枠から外させた
    • [18]青山隆太郎が羽口から薪でつつき少量の石炭を投入すると融着した鉱石がとけることに気づき、これが羽口炭の始まりで炉内のつまりを防げるようになった
    • [19]自熔製錬の成功は1899年4月以降で、1900年に土鉱製錬を終止し、小坂鉱山は銀山から銅山へ転換した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「同和鉱業」
    • [5]小坂鉱山の払い下げを受けると資本金を6万円から20万円に増加し、鉱山部門を拡大した

1906年〜鉱業の外へ広げた財閥構想と第一次大戦後の転落

土砂四トンを掘って鉱石一トンを採る採掘法へ変える

小坂の採掘法を変えたのは、1908年2月に辻元謙之助が出した露天掘の提案だった。鉱床を余さず採れる代わり、鉱石一トンにつき四トンの土砂を掘り取らねばならず、コスト高を恐れる反対論が強かった。病中の藤田伝三郎が自ら会議を主宰して一カ月以上議論させ、社外から招いた井上匡四郎の賛成意見を得て採用に踏み切った。製錬では銀の散逸を懸念して反射炉を使っていたが、転炉でも銀の減りは全含有量の1〜2%にとどまると分かり、ベセマー転炉とラトー式ターボ・ブロワーを据えた。沈澱銅の採収が再び始まった。含有銅量は1909年に75トンだったものが、1911年には300トンとなり、その後は年ごとに500トンに届いた。それに先立つ1908年9月には、索道では追いつかなくなった搬出のために森林鉄道を買い取り、大館から小坂までの全線22キロを開通させていた。金・銀・銅はそろって全国の上位を占め、合算した金額では国内の鉱山で首位に立った。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [20]1908年2月、伝三郎社長の特命で採掘法を研究した辻元謙之助が露天掘の実施を提案した
    • [21]露天掘は鉱床を余すところなく採掘できる一方、鉱石一トン当たり四トンの土砂を掘り取る必要があり、コスト高を懸念する強硬な反対論が起こった
    • [22]病中の藤田伝三郎社長が自ら会議を主宰して一カ月以上議論させ、社外から招いた井上匡四郎博士の賛成意見によって露天掘が採用された
    • [23]転炉でも銀は全含有量の1〜2%しか減らないと分かり、ベセマー転炉とラトー式ターボ・ブロワーが設置された
    • [24]沈澱銅採収の復活により含有銅量は1909年の75トンから1911年に300トン、以後毎年500トンとなった
    • [25]索道では貨物が消化しきれず、森林鉄道を買収して1908年9月に大館〜小坂間の全線22キロを完成させた(小坂鉄道)
    • [26]小坂鉄道の開通後、金・銀・銅とも全国鉱山の上位を占め、合計金額では全国一の産額となった
鉱量六年という計算が促した買山

露天掘を進めれば小坂の鉱量は六カ年で掘り尽くすという見積もりが出ており、小坂のみに頼り続けるわけにはいかなかった。製錬に回す鉱石を確保しようと、藤田組は明治末年から1918年までに、自ら操業を始めた山と買い取った山を合わせて30を超える鉱山を手中にし、後に主力となったのはそのうち二つである。花岡は、小坂で黄鉱が不足していたときに売り手が日立鉱山と競り合わせた山で、藤田組は1915年4月、鉄道などの付属物件込みで128万円を払って取得した。柵原は素硫化鉄鉱しか出ない山で、20万円という山代金が高すぎるとして一度は買わないことになったが、買山を担当した山下成一が、社長が決めないなら自分で金を工面して買い、会社を辞めると進退をかけて迫り、判断が覆った『社長が買うことにきめて下さらないなら、私自身なんとか金策して買うから、おいとまを願います』。買収後に探鉱を進めると、確定鉱量はおよそ375万トンに上った。ところが1918年7月の豪雨で坑内が水に沈み、39名が亡くなったため、本格的な開発は1920年ごろにずれ込んだ。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [27]露天掘の実施で小坂の鉱量は六カ年で尽きると計算されていた
    • [28]明治末年から1918年にかけて操業を開始したり買収したりした鉱山はおよそ30以上にのぼった
    • [29]1915年4月11日、小坂で黄鉱が欠乏していた時期に、六鉱区の山代と花岡〜大館間の鉄道など付属物件を含む代金128万円で花岡鉱山の売買契約を締結した(売り手は日立鉱山とも交渉し両者を競合させていた)
    • [30]柵原は素硫化鉄鉱のみで山代金20万円が高く一度は見送られたが、買山責任者・帯江所長の山下成一が進退をかけて主張し、坂仲輔総務理事を経て平太郎社長の決裁を得て1916年に買収した
    • [31]柵原の買収後に探鉱した結果、1917年には確定鉱量約375万トン、推定も同規模あることが分かった
    • [32]1918年7月、数日来の豪雨で柵原の坑内が水没し民家をものんで39名の人命が失われ、本格的開発は1920年ごろまで延びた
銀行と鉱業を柱にした財閥構想が折れる

1917年、藤田組は諸事業を再編して財閥の形をとった。中核は二つで、資本金1,000万円の藤田銀行の設立と、鉱業部門を資本金3,000万円で分離した藤田鉱業の設立である。鉱業だけでは発展に限りがあるという判断だった。他の財閥は、景気の波に左右されにくい石炭業や、銅が安くなるほど得をする電線部門を抱えていたが、藤田にはそうした総合性がなかった。第一次大戦が終わると、電気銅の価格は1916年12月にトン当り1,257円だったのが、1921年3月には526円まで落ちた。藤田鉱業は1919年に犬島製錬所を住友へ売却して帯江や大森を休廃山とし、鉱産額の順位も1912年の第四位から1919年には第十六位へ下がった。1927年の金融恐慌では藤田銀行が破綻し、全財産を担保に差し出して日銀から9,000万円の特別融資を受け、この額は市中銀行向け特融の総額6億8,000万円の13%を占めた。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [33]1917年、藤田組は財閥形態をとって諸事業を再編成した
    • [34]構想の中心は資本金1,000万円の藤田銀行の設立と、鉱業部門を資本金3,000万円で分離した藤田鉱業の設立だった
    • [35]財閥形態をとったのは、鉱業だけでは発展に限界があると考えたため
    • [36]他の財閥は景気変動に縁の薄い石炭業や銅価低落を逆に有利にする電工部門を持つ有機的なコンツェルンだったのに対し、藤田組はそのような総合性に欠けていた
    • [37]電気銅価格は大戦中の1916年12月にトン当り1,257円の最高値をつけたのち、1919年3月に609円、1921年3月に526円へ下落した
    • [38]藤田鉱業は1919年に犬島製錬所を閉鎖して住友へ売却し、1920年帯江、1921年大荒沢、1923年大森が休廃山となった
    • [39]大手鉱山会社の鉱産額順位で、1912年に第四位だった藤田は1919年に第十六位へ落ちた
    • [40]1927年の金融恐慌で藤田銀行が破綻し、藤田銀行・藤田組・藤田個人・藤田鉱業の全財産を担保に日銀から9,000万円の特別融資を受けた
    • [41]当時の市中銀行に対する日銀特融総額は6億8,000万円で、藤田銀行が受けた9,000万円はその13%に当たる
参考文献[20]-[41]
  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [20]1908年2月、伝三郎社長の特命で採掘法を研究した辻元謙之助が露天掘の実施を提案した
    • [21]露天掘は鉱床を余すところなく採掘できる一方、鉱石一トン当たり四トンの土砂を掘り取る必要があり、コスト高を懸念する強硬な反対論が起こった
    • [22]病中の藤田伝三郎社長が自ら会議を主宰して一カ月以上議論させ、社外から招いた井上匡四郎博士の賛成意見によって露天掘が採用された
    • [23]転炉でも銀は全含有量の1〜2%しか減らないと分かり、ベセマー転炉とラトー式ターボ・ブロワーが設置された
    • [24]沈澱銅採収の復活により含有銅量は1909年の75トンから1911年に300トン、以後毎年500トンとなった
    • [25]索道では貨物が消化しきれず、森林鉄道を買収して1908年9月に大館〜小坂間の全線22キロを完成させた(小坂鉄道)
    • [26]小坂鉄道の開通後、金・銀・銅とも全国鉱山の上位を占め、合計金額では全国一の産額となった
    • [27]露天掘の実施で小坂の鉱量は六カ年で尽きると計算されていた
    • [28]明治末年から1918年にかけて操業を開始したり買収したりした鉱山はおよそ30以上にのぼった
    • [29]1915年4月11日、小坂で黄鉱が欠乏していた時期に、六鉱区の山代と花岡〜大館間の鉄道など付属物件を含む代金128万円で花岡鉱山の売買契約を締結した(売り手は日立鉱山とも交渉し両者を競合させていた)
    • [30]柵原は素硫化鉄鉱のみで山代金20万円が高く一度は見送られたが、買山責任者・帯江所長の山下成一が進退をかけて主張し、坂仲輔総務理事を経て平太郎社長の決裁を得て1916年に買収した
    • [31]柵原の買収後に探鉱した結果、1917年には確定鉱量約375万トン、推定も同規模あることが分かった
    • [32]1918年7月、数日来の豪雨で柵原の坑内が水没し民家をものんで39名の人命が失われ、本格的開発は1920年ごろまで延びた
    • [33]1917年、藤田組は財閥形態をとって諸事業を再編成した
    • [34]構想の中心は資本金1,000万円の藤田銀行の設立と、鉱業部門を資本金3,000万円で分離した藤田鉱業の設立だった
    • [35]財閥形態をとったのは、鉱業だけでは発展に限界があると考えたため
    • [36]他の財閥は景気変動に縁の薄い石炭業や銅価低落を逆に有利にする電工部門を持つ有機的なコンツェルンだったのに対し、藤田組はそのような総合性に欠けていた
    • [37]電気銅価格は大戦中の1916年12月にトン当り1,257円の最高値をつけたのち、1919年3月に609円、1921年3月に526円へ下落した
    • [38]藤田鉱業は1919年に犬島製錬所を閉鎖して住友へ売却し、1920年帯江、1921年大荒沢、1923年大森が休廃山となった
    • [39]大手鉱山会社の鉱産額順位で、1912年に第四位だった藤田は1919年に第十六位へ落ちた
    • [40]1927年の金融恐慌で藤田銀行が破綻し、藤田銀行・藤田組・藤田個人・藤田鉱業の全財産を担保に日銀から9,000万円の特別融資を受けた
    • [41]当時の市中銀行に対する日銀特融総額は6億8,000万円で、藤田銀行が受けた9,000万円はその13%に当たる

1928年〜柵原の硫化鉄鉱が支えた消極経営と国策会社への経営権移転

20年の供給契約で柵原を支柱に変える

日銀の監督下で運営は消極的にならざるをえなかったが、柵原だけは別格だった。大正末から硫安と人絹の工業が伸び、硫酸の原料となる硫化鉄鉱の需要が急増していたからである。1928年4月、藤田鉱業は野口遵の率いる日本窒素肥料および朝鮮窒素肥料と柵原硫化鉄鉱長期需給契約を結んだ。日窒側は興南と水俣・延岡の工場で使う硫酸に柵原鉱だけを使い他の原料を買わない、藤田側は1929年1月から20年にわたり年15万トンを供給する取り決めで、日窒は運搬施設の起業へ約一カ年分の鉱石代に当たる250万円を融資した。1929年10月には巨大な第三鉱体が見つかり、1931年2月に片上鉄道が全線開通して索道輸送は全廃された。柵原の産出は1928年ごろの年20万トン台から1936年には50.2万トンへ伸び、銅価の下がった1929年下期以降は小坂と花岡をはるかに凌いで全事業の支柱となった。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [42]日銀特融以後、藤田の事業は日銀の厳重な監督下におかれて運営は消極的になったが、柵原鉱山の硫化鉱部門は増産起業を行なうほどで別格のホープだった
    • [43]大正末期から硫安・人絹工業の興隆がめざましく過燐酸石灰の需要も増え、硫酸を多く使うこれらの事業により硫化鉄鉱の需要が著しく増えた
    • [44]1928年4月、藤田鉱業は野口遵の率いる日本窒素肥料・朝鮮窒素肥料との間に「柵原硫化鉄鉱長期需給契約」を結んだ
    • [45]契約内容は、日窒側が興南工場と内地の水俣・延岡の関係会社工場で使用する硫酸製造にはもっぱら柵原硫化鉄鉱を使い他の原料を買い入れない、藤田側は1929年1月以降20年にわたり年15万トン(最初二年は13.5万トン)を供給する、というもの。日窒は運搬施設の新起業に対し約一カ年分の鉱石代に当たる250万円を融資した
    • [46]1929年10月に柵原第三鉱体が発見され、柵原の鉱量は数倍になった
    • [47]1931年2月に片上鉄道が全線開通し、索道輸送は全廃された
    • [48]柵原の硫化鉄鉱生産量は1928〜29年の年20万トン台から1936年に50.2万トンへ増え、銅価の下落した1929年下期から柵原の利益は小坂・花岡をはるかにしのぎ藤田全事業の支柱となった
捨てていた亜鉛を泡で分けて採る

同じころ、黒鉱から金属を分けて採る研究が実を結んだ。それまでの生鉱吹きでは銅と金銀だけを採り、7%ほど含まれる亜鉛は錣に残したまま捨てていた。技師の高田実が英米の研究雑誌から浮遊選鉱の考え方を得て、ある薬液に銅をつかませ、別の薬液に亜鉛をつかませて泡で分ける方法を試した。1927年に本社の試験で目鼻がつき、高田は小坂へ赴任したが、試験工場の建設は難航し、花岡鉱業所に神山選鉱場が立って操業に入ったのは1931年1月だった。亜鉛価格が下落していて利益は出なかったものの、黒鉱から銅精鉱と亜鉛精鉱を分離することに成功し、続いて鉛精鉱の分離も成った。これによって花岡の利益は二倍以上になった。一つの鉱石から採れる金属の種類を増やすこの技術は、後年に銅と亜鉛の精鉱を分けて亜鉛製錬を別に立てる道まで通じていた。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [49]生鉱吹きでは銅・金銀分をとって亜鉛分は錣に含まれたまま捨てており、小坂の黒鉱錣の中には7%くらいの亜鉛分が入っていたといわれる
    • [50]技師の高田実が英米の研究雑誌から浮遊選鉱の考え方を得た。浮遊選鉱はある化学液が銅をつかみ別の化学液が亜鉛をつかむ性質を使い、泡に付着させて精鉱を採る選鉱法
    • [51]1927年に本社での試験研究に目鼻がつき高田技師は小坂へ赴任したが、障害があって花岡鉱業所に神山選鉱場を建設し、操業開始は1931年1月になった
    • [52]亜鉛価格が下落して利益は出なかったが、黒鉱から銅と亜鉛の精鉱を分離することに成功し、続いて鉛精鉱の分離にも成功した
    • [53]銅・亜鉛・鉛の精鉱が浮遊選鉱で分離できるようになり、花岡の利益は二倍以上になった
資金が足りず減産し、所有ごと手放す

日銀特融の返済に追われていた会社は、他社並みに起業資金を集めることができなかった。時局の要請は増産だったのに、産銅量は1938年の9,616トンが頂点で、1941年には6,650トンと3割落ち込んだ。鉱量が尽きたわけではなく、探鉱を進めれば手つかずの部分があり、欠けていたのは開発資金であった。1940年2月に藤田平太郎社長が急死すると、債権者の日銀は監督の姿勢を硬くし、経営と資本を切り離すよう露骨に求めた。1941年9月の株主総会で社長の藤田光一は代表権のない会長へ退き、旧役員もほぼ全員が退陣した。1942年5月に帝国鉱業開発と東北興業が2,000万円を折半で引き受け、1943年12月、譲渡代金を未確定のまま藤田家所有の100万株が鉱発名義へ書き換えられた。増産を求める国家と返済を求める債権者の板挟みが、所有そのものを手放させたのだろう。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [54]日銀特融の返済に追われて増産起業資金の調達が他の鉱山会社のように容易でなく、特融を受けざるをえなくなった経営の失敗が長く尾を引いていた
    • [55]藤田組の産銅量は1938年の9,616トンをピークに1941年には6,650トンへ3割減少した
    • [56]藤田組の生産不振は埋蔵鉱量が無くなったためではなく、探鉱すれば未開発部分が残っており、足りないのは開発に要する資金だった
    • [57]1940年2月に藤田平太郎社長が肺炎のため急逝すると日銀の監督方針が硬化し、日銀は藤田組経営者の刷新と経営・資本の分離を露骨に要求した
    • [58]1941年9月の株主総会で藤田光一社長は代表権のない会長へ退き、副社長の光彦は相談役へ後退、旧役員は新山敏介を除き全員が退陣した
    • [59]1942年5月、帝国鉱業開発と東北興業の二国策会社が株式会社藤田組に資本参加し、公称資本金5,000万円を7,000万円として2,000万円分を両者が折半で引き受けた
    • [60]1943年12月、譲渡株式代金を未確定のまま藤田家の所有株式100万株を帝国鉱業開発名義へ書き換えるという措置がとられた
参考文献[42]-[60]
  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [42]日銀特融以後、藤田の事業は日銀の厳重な監督下におかれて運営は消極的になったが、柵原鉱山の硫化鉱部門は増産起業を行なうほどで別格のホープだった
    • [43]大正末期から硫安・人絹工業の興隆がめざましく過燐酸石灰の需要も増え、硫酸を多く使うこれらの事業により硫化鉄鉱の需要が著しく増えた
    • [44]1928年4月、藤田鉱業は野口遵の率いる日本窒素肥料・朝鮮窒素肥料との間に「柵原硫化鉄鉱長期需給契約」を結んだ
    • [45]契約内容は、日窒側が興南工場と内地の水俣・延岡の関係会社工場で使用する硫酸製造にはもっぱら柵原硫化鉄鉱を使い他の原料を買い入れない、藤田側は1929年1月以降20年にわたり年15万トン(最初二年は13.5万トン)を供給する、というもの。日窒は運搬施設の新起業に対し約一カ年分の鉱石代に当たる250万円を融資した
    • [46]1929年10月に柵原第三鉱体が発見され、柵原の鉱量は数倍になった
    • [47]1931年2月に片上鉄道が全線開通し、索道輸送は全廃された
    • [48]柵原の硫化鉄鉱生産量は1928〜29年の年20万トン台から1936年に50.2万トンへ増え、銅価の下落した1929年下期から柵原の利益は小坂・花岡をはるかにしのぎ藤田全事業の支柱となった
    • [49]生鉱吹きでは銅・金銀分をとって亜鉛分は錣に含まれたまま捨てており、小坂の黒鉱錣の中には7%くらいの亜鉛分が入っていたといわれる
    • [50]技師の高田実が英米の研究雑誌から浮遊選鉱の考え方を得た。浮遊選鉱はある化学液が銅をつかみ別の化学液が亜鉛をつかむ性質を使い、泡に付着させて精鉱を採る選鉱法
    • [51]1927年に本社での試験研究に目鼻がつき高田技師は小坂へ赴任したが、障害があって花岡鉱業所に神山選鉱場を建設し、操業開始は1931年1月になった
    • [52]亜鉛価格が下落して利益は出なかったが、黒鉱から銅と亜鉛の精鉱を分離することに成功し、続いて鉛精鉱の分離にも成功した
    • [53]銅・亜鉛・鉛の精鉱が浮遊選鉱で分離できるようになり、花岡の利益は二倍以上になった
    • [54]日銀特融の返済に追われて増産起業資金の調達が他の鉱山会社のように容易でなく、特融を受けざるをえなくなった経営の失敗が長く尾を引いていた
    • [55]藤田組の産銅量は1938年の9,616トンをピークに1941年には6,650トンへ3割減少した
    • [56]藤田組の生産不振は埋蔵鉱量が無くなったためではなく、探鉱すれば未開発部分が残っており、足りないのは開発に要する資金だった
    • [57]1940年2月に藤田平太郎社長が肺炎のため急逝すると日銀の監督方針が硬化し、日銀は藤田組経営者の刷新と経営・資本の分離を露骨に要求した
    • [58]1941年9月の株主総会で藤田光一社長は代表権のない会長へ退き、副社長の光彦は相談役へ後退、旧役員は新山敏介を除き全員が退陣した
    • [59]1942年5月、帝国鉱業開発と東北興業の二国策会社が株式会社藤田組に資本参加し、公称資本金5,000万円を7,000万円として2,000万円分を両者が折半で引き受けた
    • [60]1943年12月、譲渡株式代金を未確定のまま藤田家の所有株式100万株を帝国鉱業開発名義へ書き換えるという措置がとられた

第2章 1945年〜 柵原の硫化鉄鉱が支えた復興と、内の岱・松峰の発見から臨海共同製錬への転換

筆者考察y.sugiura, author

戦後の同和鉱業を支えたのは、北の銅ではなく西の硫化鉄鉱だった。柵原は関西で使う硫酸原料の50%を供給する世界最大の硫化鉄鉱山で、一トンの増産が米三〇石の増収に相当すると計算された。ところが品位が高くコストが安いという理由で安く買い上げられる側に置かれ、統制が解けるまでに5億1,200万円を他社の鉱山へ供出している。それでも会社が保ったのは、この一山の利益が北の探鉱をまかない続けたからである。1959年の内の岱と1963年の松峰は、十年分の探鉱費が火山灰二〇〇メートルの下で当たった結果だった。

自山鉱を握る会社であることは、1960年代の同和にとって競争優位だった。だが自山鉱は増やせる資源ではない。小坂の亜鉛製錬が月産1,600トンでは自山鉱すら処理しきれないと分かったとき、会社は海外鉱を混ぜて大量に処理する臨海製錬所を六社で建てる側へ回る。同じ時期、重油脱硫の回収硫黄が柵原の値打ちを崩し、堂屋敷は終掘し、四山で1,000名を超える人員が削られた。掘って売る会社から、他人の鉱石を処理して稼ぐ会社へ。原料をどこから取るかが移ったことが、この30年の帰結だった。

柵原鉱山の硫化鉄鉱生産量 1947年〜1951年(万トン)

27 1947 31.5 1948 36.5 1949 40.5 1950 43.5 1951
  • 価格統制下の増産で、同じ四年間に松尾鉱山は2.3倍、日立鉱山は3.5倍に伸びたのに対し、柵原は1.6倍にとどまった。
  • 出所は産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)。

1945年〜藤田の名を外して出直した同和鉱業と、柵原一山の利益

藤田家の誰も残らない役員陣が商号を変える

1945年12月27日、株式会社藤田組は商号を同和鉱業株式会社へ改めた。同族会社的な商号を近代組織的な商号へ改めるという趣旨だったが、実態としては藤田家の関係者がすでに役員陣に一人も残っていなかった。同月の株主総会で帝国鉱業開発社長の菅礼之助が会長となり、社長は欠員のまま再出発した。久留島秀三郎は満鉄に長く在籍し、鞍山鉄山の露天掘を手がけた技術畑の経営者だった。この久留島を1946年10月に社長へ推したのは菅である。菅は1946年6月に小坂・花岡操業方針対策委員会を置いて再建策の調査を託していたが、石炭庁長官への就任を求められ、会長職を九カ月で退いた。対策委員会が同年10月に出した答申は、花岡では低品位鉱の採掘をやめて高品位鉱を小坂の熔鉱炉へ回すこと、利の厚い硫化鉄鉱を積極的に増やすこと、余った人員を整理することを求めていた。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [61]1945年12月27日、株式会社藤田組は商号を同和鉱業株式会社へ改めた
    • [62]商号変更は同族会社的商号から近代組織的商号へという趣旨で、すでに藤田家の関係者は重役陣に残っていなかった
    • [63]1945年12月の株主総会で古市六三が会長を辞任し、帝国鉱業開発社長の菅礼之助が会長に就任した。社長は欠員のままだった
    • [64]久留島秀三郎は長く満鉄に勤務し、鞍山鉄山の露天掘を実施した技術出身の経営者
    • [65]菅前会長の推薦により1946年10月、久留島秀三郎が同和鉱業社長に就任した
    • [66]菅会長は1946年6月に小坂・花岡操業方針対策委員会を設けて再建調査を依頼したが、石炭庁長官への就任を要請され九カ月で会長を辞任した
    • [67]小坂・花岡操業方針対策委員会は1946年10月1日、(一)小坂へ高品位鉱を送れるよう切羽を整理し低品位鉱の採掘をやめる (二)花岡の採掘計画は重点的にしあとは保坑する (三)採算のよい硫化鉄鉱の増産を積極化する (四)花岡の過剰人員を整理する、と報告した
未払利息と分割指定という二つの負債を外す

新発足の同和鉱業には、処理せねばならない二つの負債があった。一つは日銀特融で、元本はほぼ返していたが未払利息が約4,000万円残り、帝国鉱業開発への肩代わりを日銀が認めていなかった。担保に入っていたのは藤田家の財産であり、藤田側も取り戻しに協力せねばならない。1948年6月、日銀、鉱発、藤田鉱業、同和の四社で、藤田鉱業が1,600万円、鉱発が1,900万円、同和が差額の約500万円を支払うという方針が決まった。もう一つは過度経済力集中排除法で、同和は1948年2月に第一次指定を受け、小坂・花岡の北部二山と柵原の西部一山へ分割される見込みとなった。柵原を切り離せば、戦時の乱掘で荒れた北の二山は立ち直れないと見られていた。米国の対日政策が転換して同年11月に指定は取り消され、1949年7月には鉱発所有の旧株100万株と新株20万株が公開された。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [68]戦時中に日銀特融の元本はほぼ返済していたが未払利息が約4,000万円あり、帝国鉱業開発への肩代わりを日銀は認めていなかった
    • [69]日銀への差入れ担保が藤田家の財産だったため、藤田鉱業(のちの藤田興業)も担保取り戻しに協力する必要があった
    • [70]1948年6月、日銀・帝国鉱業開発・藤田鉱業・同和鉱業の四社間で、藤田鉱業が1,600万円、鉱発が1,900万円、同和が差額約500万円を支払う方針が決まった
    • [71]同和鉱業は1948年2月に過度経済力集中排除法の第一次指定を受け、北部二山(小坂・花岡)と西部一山(柵原)の二会社に分割されるかにみえた
    • [72]柵原を切り離した場合、戦時中の強行生産・乱掘・機械の酷使がたたった小坂・花岡は立ち直れないという見通しだった
    • [73]米国の対日政策転換を受けて1948年11月に集中排除法の指定が取り消され、同和は二分割を免れた
    • [74]1949年7月、帝国鉱業開発が所有する同和鉱業株式の旧株100万株・新株20万株が証券処理調整協議会を通じて公開された
安く買い上げられる側に立って五年抗議する

食糧増産が至上の課題となるなか、肥料の原料である硫化鉄鉱を増やすことが国策に据えられ、戦後の復興は柵原の山にかかることになった。計算の上では、柵原鉱を一トン増やせば米が三〇石多くとれるとされ、1947年度は全国100万トンのうち30万トンが柵原の責任額となった。しかし価格は反対の方向に働いた。生産者価格はコストに基づき、消費者価格は硫黄品位に応じて決める二重価格制が敷かれ、コストの低い柵原鉱の買上げ価格は硫黄分1%当たり11円余にとどまる一方、ほかの鉱山の鉱石には19円弱が支払われた。品位の高い鉱石が安く買われ、その差益が競合する大手の鉱山への補助に回る仕組みである。久留島秀三郎は『鉱山は慈善事業じゃない』と国会にもGHQにも訴え続け『鉱山は慈善事業じゃない』、統制が解かれる1951年3月までに柵原が他鉱山へ供出した額は5億1,200万円を超えた。

  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [75]戦後は食糧不足の解決のため肥料の増産が要請され、肥料原料の硫化鉄鉱の増産が急がれた。終戦後の同和復興の中心は柵原鉱山だった
    • [76]柵原鉱一トンの増産は米三〇石の増収に相当すると計算され、1947年度は全国100万トンのうち柵原の責任額30万トンとされた
    • [77]生産者価格はコスト主義、消費者価格は硫黄品位に応じたメリット主義という二重価格制で、柵原鉱石は硫黄分1%当たり11円余、松尾鉱石は15円弱、その他は19円弱と決められた
    • [78]第三種鉱山には日立・別子・細倉など同和以上の財閥系大会社が経営する鉱山が含まれ、柵原鉱の犠牲で全国の硫化鉱山へ補助金が支払われる形になっていた
    • [79]硫化鉄鉱の統制は1951年3月に解除され、その間に柵原鉱山は総計5億1,200万円以上を第二種・第三種鉱山へ補助金として出したのと同じ結果になった
参考文献[61]-[79]
  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [61]1945年12月27日、株式会社藤田組は商号を同和鉱業株式会社へ改めた
    • [62]商号変更は同族会社的商号から近代組織的商号へという趣旨で、すでに藤田家の関係者は重役陣に残っていなかった
    • [63]1945年12月の株主総会で古市六三が会長を辞任し、帝国鉱業開発社長の菅礼之助が会長に就任した。社長は欠員のままだった
    • [64]久留島秀三郎は長く満鉄に勤務し、鞍山鉄山の露天掘を実施した技術出身の経営者
    • [65]菅前会長の推薦により1946年10月、久留島秀三郎が同和鉱業社長に就任した
    • [66]菅会長は1946年6月に小坂・花岡操業方針対策委員会を設けて再建調査を依頼したが、石炭庁長官への就任を要請され九カ月で会長を辞任した
    • [67]小坂・花岡操業方針対策委員会は1946年10月1日、(一)小坂へ高品位鉱を送れるよう切羽を整理し低品位鉱の採掘をやめる (二)花岡の採掘計画は重点的にしあとは保坑する (三)採算のよい硫化鉄鉱の増産を積極化する (四)花岡の過剰人員を整理する、と報告した
    • [68]戦時中に日銀特融の元本はほぼ返済していたが未払利息が約4,000万円あり、帝国鉱業開発への肩代わりを日銀は認めていなかった
    • [69]日銀への差入れ担保が藤田家の財産だったため、藤田鉱業(のちの藤田興業)も担保取り戻しに協力する必要があった
    • [70]1948年6月、日銀・帝国鉱業開発・藤田鉱業・同和鉱業の四社間で、藤田鉱業が1,600万円、鉱発が1,900万円、同和が差額約500万円を支払う方針が決まった
    • [71]同和鉱業は1948年2月に過度経済力集中排除法の第一次指定を受け、北部二山(小坂・花岡)と西部一山(柵原)の二会社に分割されるかにみえた
    • [72]柵原を切り離した場合、戦時中の強行生産・乱掘・機械の酷使がたたった小坂・花岡は立ち直れないという見通しだった
    • [73]米国の対日政策転換を受けて1948年11月に集中排除法の指定が取り消され、同和は二分割を免れた
    • [74]1949年7月、帝国鉱業開発が所有する同和鉱業株式の旧株100万株・新株20万株が証券処理調整協議会を通じて公開された
    • [75]戦後は食糧不足の解決のため肥料の増産が要請され、肥料原料の硫化鉄鉱の増産が急がれた。終戦後の同和復興の中心は柵原鉱山だった
    • [76]柵原鉱一トンの増産は米三〇石の増収に相当すると計算され、1947年度は全国100万トンのうち柵原の責任額30万トンとされた
    • [77]生産者価格はコスト主義、消費者価格は硫黄品位に応じたメリット主義という二重価格制で、柵原鉱石は硫黄分1%当たり11円余、松尾鉱石は15円弱、その他は19円弱と決められた
    • [78]第三種鉱山には日立・別子・細倉など同和以上の財閥系大会社が経営する鉱山が含まれ、柵原鉱の犠牲で全国の硫化鉱山へ補助金が支払われる形になっていた
    • [79]硫化鉄鉱の統制は1951年3月に解除され、その間に柵原鉱山は総計5億1,200万円以上を第二種・第三種鉱山へ補助金として出したのと同じ結果になった

1952年〜関西が稼ぎ東北を探る二ブロックと、内の岱・松峰の発見

関西の利益で東北の探鉱を回す

同和の事業は関西と東北の二つのブロックに分かれ、関西には柵原鉱山・尼崎選鉱場・岡山製錬所、東北には小坂と花岡の両鉱山、小坂製錬所、岩手の赤金鉱山が属していた。1949年の売上は硫化鉄鉱が54.0%、電気銅が37.5%を占めた。当時世界最大の硫化鉄鉱山だった柵原は、関西の硫酸製造に回る硫化鉄鉱のうち50%、全国でも約30%をまかなっていた。同和はこの柵原で上げた利益を北へ回し、小坂・花岡の立て直しと新しい鉱床の探鉱の元手にした。小坂は1953年、米国ドル社の特許による焙焼炉を用いた湿式製錬法を導入し、以前は錣として捨てていた亜鉛を回収できるようになった。1957年8月には、藤田家の手元に残った事業を受け継いでいた藤田興業を合併し、かつての藤田組の姿が同和鉱業の形でよみがえった。

  • 証券アナリストジャーナル 新井友蔵(1965年)
    • [80]事業は関西と東北の二ブロックに分かれ、関西に柵原鉱山・尼崎選鉱場・岡山製錬所、東北に秋田県の小坂鉱山・花岡鉱山・小坂製錬所と岩手県の赤金鉱山を持っていた
    • [82]柵原鉱山は関西地区で製造される硫酸の原料となる硫化鉄鉱の50%、日本全体の約30%を供給する、日本で最大かつ世界でも最大の硫化鉄鉱山だった
    • [83]新井友蔵社長は、柵原鉱山の利益によって北の小坂・花岡の回復と新しい鉱床の探鉱に努めることができたと述べている
    • [85]1957年8月に同系の藤田興業を合併し、ここではじめて往年の藤田組が同和鉱業として再現された
  • 証券 新規上場会社紹介(1949年)
    • [81]1949年4月から7月の売上構成は硫化鉄鉱54.0%、電気銅37.5%、金4.6%
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「同和鉱業」
    • [84]小坂では米国ドル社の特許によるフリュオ・ソリッド焙焼炉を使う世界最初の湿式製錬法を採用し、従来は錣中に廃棄されていた亜鉛の回収が可能になった
火山灰の下を撃って大鉱床を掘り当てる

十和田火山の噴出物のため、秋田の北鹿地域は地表から二〇〇メートルほどが火山灰に覆われ、外に顔を出していたのは小坂の旧鉱床などわずかだった。それでも鉱山を探し出すことこそ鉱山会社の本分であり、同和は1950年から10年ほど小坂地区の探鉱に力を注いだ末、1959年6月、旧鉱床の南約二キロで内の岱鉱床に行き当たった。銅2.5%、亜鉛4%、鉛1.5%の品位を持ち、鉱量はおよそ1,000万トンという優れた鉱床だった。1962年7月に始まった選鉱は月に3万5,000トンを処理し、銅量で約950トンと国内一位の産銅量に達した。この発見を機に花岡の周辺も精力的に探り、1963年6月、花岡から1.5キロ離れた地点で鉱量約2,000万トンの松峰鉱床が見つかった。当時の探鉱費は月8,000万円に達していた。

  • 証券アナリストジャーナル 新井友蔵(1965年)
    • [86]秋田地区は十和田火山の爆発により地表から二〇〇メートルほど火山灰をかぶっており、露出していたのは小坂の旧鉱床と日東金属の相内鉱床だけだった
    • [87]新井友蔵社長は「鉱山会社の仕事は鉱山を見つけるところにある」と述べている
    • [88]1950年以来約10年をかけて小坂地区を精力的に探鉱した結果、1959年6月に小坂の旧鉱床から南約二キロの地点で内の岱鉱床を発見した
    • [89]内の岱の鉱量は約1,000万トン、銅品位2.5%、亜鉛4%、鉛1.5%のほか金銀を含む優良鉱床
    • [90]内の岱は1962年7月に開発・選鉱を開始し、月3万5,000トンを処理して銅量約950トン、日本一位の産銅量を上げた
    • [91]内の岱発見から四年目の1963年6月、花岡から1.5キロ離れた地点で松峰鉱床を発見した。鉱量は約2,000万トン、品位は銅2%、亜鉛3%、鉛1.5%
    • [92]探鉱の費用は探鉱準備金とは別に月間8,000万円を使っていた
製錬と加工へ広げず鉱業の専業にとどまる

戦後に国内資源が荒れると、非鉄各社は諸外国から鉱石を輸入して製錬し地金を販売する事業や、地金の加工、さらに石油への進出を選んだ。同和はそのいずれも採らず、鉱業の専業に終始した。1965年時点の自山鉱比率は、業界平均が30%であるのに対し、同和鉱業と三菱金属が最も高かった。原料を自ら握る構造は製錬費の外部流出を抑える一方、鉱床の発見に業績が縛られることをも意味した。電気銅の生産量は1955年の9,211トンから1961年に2万3,836トン、1965年には4万3,730トンへ、10年で4.7倍になった。売上のうち銅の比重が急に大きくなったのは、内の岱の開発が進んだ結果である。銅の建値は1965年にトン当り34万7,000円まで騰がり、ロンドン金属取引所の相場と生産者建値の二本建てになっていた。

  • 証券アナリストジャーナル 新井友蔵(1965年)
    • [93]戦後に国内資源が荒廃すると、諸外国から鉱石を輸入して製錬し地金を販売する製錬業に力を入れる会社、地金の加工に力を入れる会社、非鉄のほか石油にも進出する会社があった
    • [94]同和鉱業は鉱業の専業ということに終始しており、これが当社の特長だと新井友蔵社長は述べている
    • [95]自山鉱比率は業界平均が30%で、同和鉱業と三菱金属がトップ、次に日本鉱業と住友金属、それから古河鉱業の順だと新井友蔵社長は答えている
    • [97]1962年以降に同和鉱業の売上のうち銅売上の比重が急に大きくなったのは、内の岱の開発が進んだ結果
    • [98]銅の建値は1965年にトン当り34万7,000円まで騰貴し、ロンドン金属取引所(LME)相場と生産者建値の二本建てになっていた
  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [96]電気銅の生産量は1955年9,211トン、1961年2万3,836トン、1965年4万3,730トン
参考文献[80]-[98]
  • 証券アナリストジャーナル 新井友蔵(1965年)
    • [80]事業は関西と東北の二ブロックに分かれ、関西に柵原鉱山・尼崎選鉱場・岡山製錬所、東北に秋田県の小坂鉱山・花岡鉱山・小坂製錬所と岩手県の赤金鉱山を持っていた
    • [82]柵原鉱山は関西地区で製造される硫酸の原料となる硫化鉄鉱の50%、日本全体の約30%を供給する、日本で最大かつ世界でも最大の硫化鉄鉱山だった
    • [83]新井友蔵社長は、柵原鉱山の利益によって北の小坂・花岡の回復と新しい鉱床の探鉱に努めることができたと述べている
    • [85]1957年8月に同系の藤田興業を合併し、ここではじめて往年の藤田組が同和鉱業として再現された
    • [86]秋田地区は十和田火山の爆発により地表から二〇〇メートルほど火山灰をかぶっており、露出していたのは小坂の旧鉱床と日東金属の相内鉱床だけだった
    • [87]新井友蔵社長は「鉱山会社の仕事は鉱山を見つけるところにある」と述べている
    • [88]1950年以来約10年をかけて小坂地区を精力的に探鉱した結果、1959年6月に小坂の旧鉱床から南約二キロの地点で内の岱鉱床を発見した
    • [89]内の岱の鉱量は約1,000万トン、銅品位2.5%、亜鉛4%、鉛1.5%のほか金銀を含む優良鉱床
    • [90]内の岱は1962年7月に開発・選鉱を開始し、月3万5,000トンを処理して銅量約950トン、日本一位の産銅量を上げた
    • [91]内の岱発見から四年目の1963年6月、花岡から1.5キロ離れた地点で松峰鉱床を発見した。鉱量は約2,000万トン、品位は銅2%、亜鉛3%、鉛1.5%
    • [92]探鉱の費用は探鉱準備金とは別に月間8,000万円を使っていた
    • [93]戦後に国内資源が荒廃すると、諸外国から鉱石を輸入して製錬し地金を販売する製錬業に力を入れる会社、地金の加工に力を入れる会社、非鉄のほか石油にも進出する会社があった
    • [94]同和鉱業は鉱業の専業ということに終始しており、これが当社の特長だと新井友蔵社長は述べている
    • [95]自山鉱比率は業界平均が30%で、同和鉱業と三菱金属がトップ、次に日本鉱業と住友金属、それから古河鉱業の順だと新井友蔵社長は答えている
    • [97]1962年以降に同和鉱業の売上のうち銅売上の比重が急に大きくなったのは、内の岱の開発が進んだ結果
    • [98]銅の建値は1965年にトン当り34万7,000円まで騰貴し、ロンドン金属取引所(LME)相場と生産者建値の二本建てになっていた
  • 証券 新規上場会社紹介(1949年)
    • [81]1949年4月から7月の売上構成は硫化鉄鉱54.0%、電気銅37.5%、金4.6%
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「同和鉱業」
    • [84]小坂では米国ドル社の特許によるフリュオ・ソリッド焙焼炉を使う世界最初の湿式製錬法を採用し、従来は錣中に廃棄されていた亜鉛の回収が可能になった
  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
    • [96]電気銅の生産量は1955年9,211トン、1961年2万3,836トン、1965年4万3,730トン

1966年〜硫黄と亜鉛の需給が変えた原料と、閉じる側に回った鉱山

自山鉱だけでは埋まらない製錬所を六社で建てる

選鉱技術が進んで銅精鉱と亜鉛精鉱に分けられるようになり、湿式で銅と亜鉛を同時に製錬する必要はなくなった。小坂は流動焙焼炉を改造して1966年8月に月産1,600トンの湿式亜鉛製錬を始めたが、自山鉱すら全量を処理できず、残りは三菱金属鉱業の秋田製錬所へ委託に出していた。国際競争力を持つには海外鉱を加えて大量に処理する臨海製錬所が要った。1965年4月に亜鉛製錬委員会を置き、1967年5月に秋田市飯島地区を建設地と決めた。当初は単独の設備とする計画だったが、1967年8月の鉱業審議会答申が大型化と共同化を求め、共同製錬方式へ変わった。1970年11月に六社の社長会を開催し、1971年2月に同和の出資52%で秋田製錬を設立した。飯島製錬所は1972年7月に本格操業へ入り、第一期は国内鉱月約8,000トン、海外鉱月約5,000トンを処理した。

  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [99]選鉱技術の進歩により銅・亜鉛両精鉱への分離が可能となり、それまでのような湿式銅・亜鉛同時製錬の必要がなくなった
    • [100]小坂鉱山は流動焙焼炉を改造して1966年8月に月産1,600トンの湿式亜鉛製錬を始めたが、その能力では自山鉱すらも全量を処理できず、残りは三菱金属鉱業の秋田製錬所に委託製錬に出していた
    • [101]国際競争力をもつためには海外鉱をも加えて大量に処理する大規模臨海製錬所の建設が不可欠だった
    • [102]1965年4月に亜鉛製錬委員会を設置して製錬方式・設置場所等を検討し、1967年5月に秋田市飯島地区を製錬所建設地と決定した
    • [103]当初は新製錬所を独自設備として建設する計画だったが、1967年8月の鉱業審議会答申が製錬所の大型化と乱立回避のための共同化を求めたことから、共同製錬方式へ変わった
    • [104]1970年11月12日に同和鉱業・日本鉱業・住友金属鉱山・三井金属鉱業・三菱金属鉱業・東邦亜鉛の六社社長会を開き、1971年2月に秋田製錬を設立した。出資比率は同和52%、日本鉱業・住友金属鉱山各14%、三井金属鉱業10%、三菱金属鉱業・東邦亜鉛各五%
    • [105]飯島製錬所は1971年1月に月産6,500トンの第一期工事へ着工し1972年1月完成、7月より本格操業に入った。第一期操業では国内鉱月約8,000トン、海外鉱月約5,000トンを処理した
崩落を機に堂屋敷の終掘を決める

北の鉱山は逆の方向へ動いていた。花岡の堂屋敷で1915年の開発以来掘り出された量は、戦前の31年間が553万トン、戦後の30年間が580万トンである。優れた鉱体を掘り終えた後は衛星鉱体の採掘に移っていたが、維持すべき坑道が延びて支保の費用が膨らみ、運搬の能率も落ちていた。存廃を検討するため1971年11月に堂屋敷鉱山部合理化委員会が設けられたが、その矢先の1972年3月、堤沢南鉱体の坑内が大きく崩れ、地表にも大きな亀裂が走って、露天掘の排水が西部坑内に流れ込んだ。同年5月に本社が送った調査団の報告は、先行きの発展につながる材料が見当たらず、残った鉱石を掘るほど保安上の危険が増すとして、二百数十名を整理し、残りの人員は松峰・深沢へ配転するまで操業を続けるという内容だった。希望退職の募集と再就職の斡旋は1972年10月に始まった。1973年3月20日には鉱山用具を埋める鍬納式が営まれ、堂屋敷の歴史は閉じた。

  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [106]1915年の当社開発以来の堂屋敷およびその周辺鉱床の銅鉱採掘量は、戦前31年間553万トン(品位2.90%)、戦後30年間580万トン(品位1.55%)
    • [107]堂屋敷は優秀鉱体が逐次掘り尽くされ衛星鉱体の採掘へ移行した関係で維持坑道が長くなり、支保に多大の経費を要するほか運搬能率の低下、鉱況悪化が顕著となった
    • [108]1971年11月に堂屋敷鉱山部合理化委員会が設置されて存廃の検討が進むさなか、1972年3月中旬に堤沢南鉱体坑内で大崩落が発生し地表にも大亀裂が入り、堤沢露天掘の排水が西部坑内に落水した
    • [109]1972年5月に本社から派遣された堂屋敷調査団は、今後の発展を期すべき材料はなく残鉱の採掘も保安上の危険が日を追って深まるとして、二百数十名に及ぶ人員を整理し、残った人員は松峰・深沢へ配転するまで操業を続けるという報告を行なった
    • [110]1972年10月に入り、希望退職者の募集、他企業への再就職斡旋、堂屋敷坑の撤収作業が開始された
    • [111]1973年3月20日、堂屋敷鉱山部事務所東側の旧土場跡地に鉱山用具を埋める鍬納式を執り行ない、堂屋敷は幕を閉じた
石油から出る硫黄が柵原の値打ちを崩す

柵原の地位を崩したのは競合鉱山ではなく、石油だった。重油脱硫による回収硫黄が市場へ出回り始め、非鉄製錬の工程から出る回収硫酸と合わせて、硫黄の需給構造そのものが変わったからである。1972年の合理化案で柵原鉱業所は月産3万5,000トン程度へ生産を落とし、従業員を約500名減らす対象とされた。花岡は約300名、小坂は約250名を減じ、赤金鉱業所は別会社として分離する案で、組合は協議が整わぬうちの新会社設立は協約違反だとして四山全面二四時間ストで応じた。入社以来労務畑を歩いた韮谷定敏は、最盛期に1万人だった従業員が3,000人へ減る過程に立ち会い、1973年の合理化では花岡鉱業所へ人員整理を説得しに行く役目を負った。掘る会社から、掘れなくなった後で何を食べていくかを決める会社へ、経営の課題は入れ替わっていた。

  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [112]重油脱硫による回収硫黄および非鉄金属製錬過程から出る回収硫酸により、硫黄の需給構造が変化した。出光興産千葉製油所の重油脱硫による回収硫黄日産180トンがすでに市場に出回っていた
    • [113]1972年の合理化案で柵原鉱業所は月産3万5,000トン程度へ生産を落とさざるをえず、従業員を約500名減らす対象とされた
    • [114]同じ合理化案で花岡鉱業所は約300名、小坂鉱業所は約250名を減じ、赤金鉱業所は別会社(160名程度)として分離することとされた
    • [115]1972年8月、赤金の第二会社として江刺興業の設立手続きを行なうことに対し組合は協議が整わぬうちの設立は協約違反だとして取下げを要求、8月19日に四山全面二四時間スト、8月22〜25日に指名ストが行なわれた
  • 日経ビジネス(1994年3月14日号)
    • [116]韮谷定敏は入社以来一貫して労務畑を歩き、最盛期1万人の従業員が3,000人に減っていく過程をつぶさに見た。1973年の合理化で花岡鉱業所の人員整理を説得しに行った役目を最もつらい思い出に挙げている
参考文献[99]-[116]
  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
    • [99]選鉱技術の進歩により銅・亜鉛両精鉱への分離が可能となり、それまでのような湿式銅・亜鉛同時製錬の必要がなくなった
    • [100]小坂鉱山は流動焙焼炉を改造して1966年8月に月産1,600トンの湿式亜鉛製錬を始めたが、その能力では自山鉱すらも全量を処理できず、残りは三菱金属鉱業の秋田製錬所に委託製錬に出していた
    • [101]国際競争力をもつためには海外鉱をも加えて大量に処理する大規模臨海製錬所の建設が不可欠だった
    • [102]1965年4月に亜鉛製錬委員会を設置して製錬方式・設置場所等を検討し、1967年5月に秋田市飯島地区を製錬所建設地と決定した
    • [103]当初は新製錬所を独自設備として建設する計画だったが、1967年8月の鉱業審議会答申が製錬所の大型化と乱立回避のための共同化を求めたことから、共同製錬方式へ変わった
    • [104]1970年11月12日に同和鉱業・日本鉱業・住友金属鉱山・三井金属鉱業・三菱金属鉱業・東邦亜鉛の六社社長会を開き、1971年2月に秋田製錬を設立した。出資比率は同和52%、日本鉱業・住友金属鉱山各14%、三井金属鉱業10%、三菱金属鉱業・東邦亜鉛各五%
    • [105]飯島製錬所は1971年1月に月産6,500トンの第一期工事へ着工し1972年1月完成、7月より本格操業に入った。第一期操業では国内鉱月約8,000トン、海外鉱月約5,000トンを処理した
    • [106]1915年の当社開発以来の堂屋敷およびその周辺鉱床の銅鉱採掘量は、戦前31年間553万トン(品位2.90%)、戦後30年間580万トン(品位1.55%)
    • [107]堂屋敷は優秀鉱体が逐次掘り尽くされ衛星鉱体の採掘へ移行した関係で維持坑道が長くなり、支保に多大の経費を要するほか運搬能率の低下、鉱況悪化が顕著となった
    • [108]1971年11月に堂屋敷鉱山部合理化委員会が設置されて存廃の検討が進むさなか、1972年3月中旬に堤沢南鉱体坑内で大崩落が発生し地表にも大亀裂が入り、堤沢露天掘の排水が西部坑内に落水した
    • [109]1972年5月に本社から派遣された堂屋敷調査団は、今後の発展を期すべき材料はなく残鉱の採掘も保安上の危険が日を追って深まるとして、二百数十名に及ぶ人員を整理し、残った人員は松峰・深沢へ配転するまで操業を続けるという報告を行なった
    • [110]1972年10月に入り、希望退職者の募集、他企業への再就職斡旋、堂屋敷坑の撤収作業が開始された
    • [111]1973年3月20日、堂屋敷鉱山部事務所東側の旧土場跡地に鉱山用具を埋める鍬納式を執り行ない、堂屋敷は幕を閉じた
    • [112]重油脱硫による回収硫黄および非鉄金属製錬過程から出る回収硫酸により、硫黄の需給構造が変化した。出光興産千葉製油所の重油脱硫による回収硫黄日産180トンがすでに市場に出回っていた
    • [113]1972年の合理化案で柵原鉱業所は月産3万5,000トン程度へ生産を落とさざるをえず、従業員を約500名減らす対象とされた
    • [114]同じ合理化案で花岡鉱業所は約300名、小坂鉱業所は約250名を減じ、赤金鉱業所は別会社(160名程度)として分離することとされた
    • [115]1972年8月、赤金の第二会社として江刺興業の設立手続きを行なうことに対し組合は協議が整わぬうちの設立は協約違反だとして取下げを要求、8月19日に四山全面二四時間スト、8月22〜25日に指名ストが行なわれた
  • 日経ビジネス(1994年3月14日号)
    • [116]韮谷定敏は入社以来一貫して労務畑を歩き、最盛期1万人の従業員が3,000人に減っていく過程をつぶさに見た。1973年の合理化で花岡鉱業所の人員整理を説得しに行った役目を最もつらい思い出に挙げている

第3章 1977-2001 (気が向いたら執筆します!) 危機突破特別委員会と環境リサイクル・半導体材料への展開、2000年の構造改革

第4章 2002-2026 (気が向いたら執筆します!) 吉川廣和社長の環境リサイクル集中投資とDOWAHD、ロス・ガトス亜鉛鉱山

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歴史年表 1884〜2023年

DOWAの沿革1884〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1884〜1944年閉山指令を覆した黒鉱自熔製錬と、財閥構想の挫折から国策会社への経営権移転藤田組が官営鉱山を受け、黒鉱自溶製錬で果たした再生

1884年9月、長州萩出身で奇兵隊を経た藤田伝三郎氏の藤田組が、明治政府の工場払下概則の改正を受けて秋田県北秋田郡小坂村の官営小坂鉱山の払下げを受け、鉱山業へ参入した。金・銀・銅・亜鉛・鉛が混在する黒鉱の製錬に長く苦しんだが、現場の久原房之助氏が1902年6月に黒鉱自溶製錬の操業に成功し、1906年には小坂が国内全鉱山中の生産額一位に達した。戦時統制を経て1945年12月に同和鉱業株式会社へ改称し、1949年7月に東京証券取引所へ上場している。

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★★★
小坂で水力発電を開始★
小坂で黒鉱乾式製錬の操業を開始★
小坂で黒鉱自溶製錬の操業を開始★★
国内で有力鉱山を買収★★
豊崎圧延工場を新設し金属加工事業に参入★★
豊崎伸銅所を設立★
1945〜1976年柵原の硫化鉄鉱が支えた復興と、内の岱・松峰の発見から臨海共同製錬への転換商号を同和鉱業に変更★
久留島秀三郎東京証券取引所に株式上場★
久留島秀三郎東京熱処理工業を子会社化し熱処理事業に参入★★
新井友蔵花岡松峰鉱床を発見★
新井友蔵電子材料事業に参入★
新井友蔵臨海型の亜鉛拠点の新設と、自山鉱から輸入鉱への原料の切り替え

1971年2月、同和鉱業が輸入鉱を原料とする臨海型の亜鉛製錬所として秋田製錬を設立し、翌1972年11月に秋田市飯島へ秋田工場を置いた。内の岱・松峰という大鉱床の発見が続いて国内鉱山が産出の頂点にあった時期に、自山鉱の処理では追いつかない製錬能力の不足を、海に面した新設備で埋めた投資である。

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★★★
新井友蔵鉱山の規模縮小・人員削減を実施★★
1977〜2001年危機突破特別委員会と環境リサイクル・半導体材料への展開、2000年の構造改革小森英夫環境リサイクル事業に参入★
小森英夫危機突破特別委員会を発足★
西田堯半導体材料研究所を新設★
韮谷定敏小坂製錬所を分離・小坂製錬を設立★
韮谷定敏塩尻工場を新設・セラミック基板の製造★
原田謙三亜鉛鉱山の操業開始(ティサパ鉱山)★
金谷浩一郎1999年の緊急対策に始まる事業構造改革と、ROAを物差しにした資産・人員の圧縮

1999年11月、同和鉱業が当時の従業員の1割以上に相当する希望退職の募集と賃金カットを含む緊急対策を発動し、翌2000年度から3年間でROAを2%から5%へ引き上げる中期計画に着手した。指揮したのは同年6月に専務へ昇進したばかりの吉川廣和氏で、2002年に社長へ就任した後も資産圧縮を続けた。

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★★★
金谷浩一郎廃棄物処理事業に参入★
2002〜2026年吉川廣和社長の環境リサイクル集中投資とDOWAHD、ロス・ガトス亜鉛鉱山吉川廣和吉川廣和氏が社長就任・環境リサイクル事業に集中投資★★
河野正樹5部門を10社へ分社し、事業運営の権限を事業会社へ移す再配置

2006年5月16日の取締役会でDOWAメタルマインなど10社との吸収分割契約の締結を決議し、同年6月28日の定時株主総会の承認を経て、10月1日に分社型吸収分割で製錬・環境・リサイクル・電子材料・金属加工・熱処理の5部門を各社へ移した。同日、商号を同和鉱業からDOWAホールディングスへ改めている。 承継させた資産は10社合計で221,007百万円、負債は145,042百万円で、うちDOWAメタルマイン1社が資産126,285百万円を占めた。持株会社に残したのは、グループ全体戦略の策定・推進、最適な経営資源の配分、コンプライアンス等の戦略機能である。

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★★★
河野正樹リーマンショックにより赤字転落★
山田政雄熱処理事業を本格展開★
山田政雄熱処理事業に参入★
関口明亜鉛鉱山の操業開始(ロス・ガトス鉱山)★
関口明金属市況の高騰により過去最高益★
関口明環境・リサイクル事業に参入★
出典・参考 6件
出典・参考
  • 創業百年史 [本編](同和鉱業, 1985)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「同和鉱業」
  • 産業フロンティア物語 非鉄金属〈同和鉱業〉(1966年)
  • 証券アナリストジャーナル 新井友蔵(1965年)
  • 日経ビジネス(1994年3月14日号)
  • 証券 新規上場会社紹介(1949年)

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