伊予の別子で住友家が鉱床を見いだしたのは元禄三年(1690年)で、翌四年には幕府から許しを得て採掘に取りかかった。それ以前から住友家は鉱山の開発と経営を重ねており、源は十六世紀末に京都で始めた銅の製錬にあり、南蛮吹きと呼ばれる、銀と銅を分離する技法を早くに身につけたことで、日本の鉱業界で際立った位置を占めていた。別子銅山はそれ以降、幕府や諸大名に向けた金融業と肩を並べる住友家の中核事業となった。粗銅から銀を取り出せる者の少ない時代に製錬工程を押さえていたことが、自前の山を手にしたときの利幅を左右したのだろう。
四千の稼人を抱えていた別子では、その維持が難しく、山を売ってしまう案さえ一度は持ち上がったが、手放さないまま明治を迎えた。この間には、維新の戦乱に乗じて土佐藩が山を一時接収し、大阪鰻谷の銅蔵も封じられるという危うい局面もあった。旧来の技術のままでは高品位の鉱石が細って産出量が頭打ちとなり、広瀬宰平氏をはじめとする経営首脳は、西洋の新技術を入れて山そのものを作り替える道を選んだ。1873年にフランス人技師コワニー氏に別子の視察を依頼し、次いで本国から招いたルイ・ラロック氏のもとで『別子銅山目論見書』がまとまり、1876年には湿式収銅法で沈澱銅が採れるようになった。
火薬と鑿岩機の使用、鉱山専用鉄道と複式空架索道の敷設、大斜坑の開鑿、水力発電設備と銅電解工場、浮遊選鉱場の建設が相次ぎ、別子の生産量は飛躍的に増えた。生産が増えるにつれ、製錬の排煙が周辺の農作物を傷める煙害が最大の難問となった。1905年に製錬所を瀬戸内海の四阪島へ移したが、それでも解決はもたらされず、支払った賠償金は1939年までに1968年時点の価格に見積もって50億円を超えた。抜本的な解決は、排煙中の亜硫酸ガスを皆無とする中和工場が完成した1939年まで待たねばならなかった。銅を増産するほど賠償が膨らむ関係を、住友は34年かけて技術のほうで断ち切ったことになる。
経営の形態も、産銅の規模に合わせて改められた。当初は住友総本店と称する個人企業であったものが、1921年に設立された住友合資会社の手に移る。1927年7月、住友本社は別子鉱山と四阪島製錬所を切り出して住友別子鉱山株式会社を設立し、236年続いた住友家の直営を法人の経営へ移した。1937年6月には住友別子鉱山と住友炭礦が合併して住友鉱業となり、鉱業経営の合理化を目的とするこの統合によって、三菱鉱業と並んで非鉄金属と石炭を兼営するわが国有数の鉱山会社となった。金属と石炭を一つの器へ入れたこの判断が、戦後に分割される単位をあらかじめ作ることになった。
1946年に商号を井華鉱業へ改めた会社は、1948年に過度経済力集中排除法による過度経済力集中会社の指定を受けた。全国で325社が同じ指定を受けている。住友の連系各社で分割を強いられたのは、住友鉱業ただ一社である。持株会社整理委員会との交渉の場でGHQが求めたのは、金属と石炭の分離にとどまらず、金属部門を採鉱と製錬という工程で、あるいは別子と鴻之舞というブロックで、さらに割ることであり、その意向は厳しかった。会社側は、金属と石炭はもともと別々に経営されていたのだから再び分けるのはやむを得ないと認めつつ、地区や工程ごとの細かな分割は鉱山経営の土台を揺るがすとして、最後まで退ける構えをとった。
金属部門の新会社には、井華鉱業から3億700万円、佐々連鉱業から300万円の現物出資があり、佐々連鉱山もその傘下に入った。会社は資本金3億1,000万円の別子鉱業株式会社として1950年3月1日に発足し、社名は第一鉱業や別子鴻之舞鉱業といった案を退けて、短く世に通った別子が選ばれた。別子・佐々連・国富・鴻之舞・北見の五鉱業所に大宮・砥沢の二鉱山を加えた事業所に、発足の時点で7,060人の社員がいた。株式は同年6月28日に東京・大阪・名古屋の三市場へ上場された。1952年6月に社名を住友金属鉱山へ改め、1954年9月末の従業員は8,330人となっている。
発足からの数年、業績は良好だった。朝鮮戦争の好況のもとで別子銅山が復興し、鴻之舞金山が高収益を上げ、戦後合併した佐々連鉱山も好調で、なかでも1952年に再開したニッケル事業が際立っていた。1954年4月からの半期でみると、電気銅の生産は能力12,000トンに対して9,503トンにとどまる一方、電気ニッケルは能力720トンに対して721トンと、設備をいっぱいまで動かしている。同年に西ドイツと大口の長期輸出契約をまとめたあと、国内でも電気通信・ニッケル貨幣・メッキの需要が伸びて極端な品不足となった。トン当たり113万円だった平均売価は、1956年下期から翌年上期に170万〜182万円へ上がっている。1955年下期から1956年下期まで18%の高率配当が続いた。
神武景気のあとのナベ底景気で業況は一転し、1958年の電気ニッケル生産は前年比42%の減少となった。主力の銅とニッケルの不振は、それ自体の痛手より経営体質の脆さを露わにした点で重かった。神武景気で一時減った借入金が、業績の悪化とともに再び増えたのである。減耗する資源を掘る鉱山会社は探鉱に多額の資金を投じ続けねばならないが、国内の鉱山は規模が小さく鉱量も品位も劣り、その探鉱費を内部留保ではなく借入金で賄っていた。1960年6月、政府は「貿易・為替自由化計画の大綱」を決定する。田中外次社長は年頭から自由化対策を急ぐよう強調し、同年7月に経理部のなかへ計画課を、技術スタッフを組織化する鉱山部と冶金部を置く機構改革を行った。見込みなしと判じて探鉱を打ち切る決断を、誰がどの数字で下すのかを決めるための機構であった。
米国の大手産銅会社アサルコは、140万ドルをかけた探鉱で相当量の鉱石を確かめながら、品位が低く採算に乗らないとみてオプションを手放していた。1960年秋、会社はその鉱床、カナダ・ブリティッシュコロンビア州ハイランドバレーのベスレヘム鉱床へ投融資し、経営資源をそこへ集中させると決めた。開発資金21億円は当時の資本金32億円から見ても巨額で、露天掘りの経験も会社にはなく、資金調達を担う経理担当者は反対したが、開発に踏み出す意志は河上健次郎専務が決め、1961年2月には交渉団がカナダへ渡った。取り決めでは、総起業費770万ドル余のうち500万ドルを融資、50万ドルを投資し、見返りに生産が始まってから10年3カ月の間、この鉱山から出る銅精鉱をすべて独占して買い取ることになった。日本の産銅会社が海外の鉱山に自ら開発資金を出したのは、これが初めてだった。
鉱山会社にとって、山を閉じることは事業そのものをやめることに近い。住友金属鉱山は1973年に別子銅山を、1979年に佐々連鉱山を閉じ、掘る対象を一つも持たない鉱山会社になった。ただし手放したのは採掘という一工程で、製錬と販売の工程は残っている。十六世紀の終わりに京都で銅製錬業として始まったこの家業は、もともと自分の山を持たず、他人の産銅を集めて銀と銅を吹き分ける商いだった。元禄四年に別子を掘り当ててから282年かけて掘る会社になった住友が、掘らない会社の側へ戻ったとみることもできる。
山を閉じるには金が要る。別子と鴻之舞の閉山損失は会社が抱えきれない規模と見込まれ、これを埋めたのは1960年に資本金32億円のうち21億円を投じて取得したカナダ・ベスレヘム鉱山の株式であった。一株18ドルでの売却益は80億円弱に達し、株を手放しても鉱石は従来どおり引き取れた。安定した鉱源を得るために打った手の利益が、13年後にその鉱源を要らなくする側の費用へ充てられたことになる。この順番を先に作れた会社だけが、同業より早く身軽になり、金と電子材料へ資金を回せた。
元禄四年に稼行を始めた別子銅山は、282年を経た1973年3月に閉山した。藤崎章社長は鉱山勤務が長く、ヤマへの思い入れは誰よりも強かったが、採算の上では閉山しか選べないと判断した。鉱脈の規模や含有量は実際に掘らない限り分からず、探鉱費と製品価格を突き合わせる計算だけでは社内が納得しないため、閉山の直前にわざわざ大斜坑を掘る工事を実施した。約30億円を投じたこの工事を、同氏は『伝統ある別子鉱山の葬式代』と呼んだ『約30億円かかりましたが、まあ、伝統ある別子鉱山の葬式代ですな』。同社が他社より早く主力鉱山を畳み、身軽な体質に移れたのは、計画の成果というより、鉱量が他社の主力鉱山より先に尽きたという巡り合わせによるものだったという。
主力二山の閉山で避けられないのが、巨額の閉山損失だった。長期安定の鉱源として押さえてきたベスレヘム社の株式を、会社は売ることに決めた。背景には、1965年以降に老朽化が進んだ別子と鴻之舞の両鉱山があり、1970年を過ぎて業績が悪化すると閉山は避けられず、その損失は耐えがたいと見込まれていた。交渉を一任された藤崎氏が一株18ドルで売却して会社は80億円弱のキャピタルゲインを得、別子・鴻之舞を閉じながらも損失を決算の表に出さずに済んだ。しかも鉱石はそれまでどおり引き取れたため、株を手放しても鉱源確保の仕組みは失われなかった。1960年の21億円の投資が、13年後には山を閉じる費用を賄ったことになる。
二度にわたった人員削減のうち最初は1962年から1963年にかけてで、東北と北海道の三山を閉じ、従業員を8,000人から5,000人に減らした。鉱山業全体はこの頃まだ勢いがあり、国内鉱石を使った銅生産が12万1,000トンの頂点をつけるのは1969年のことだった。二度目の削減は石油ショック後で、1971年のニクソンショックによる円高に石油ショックが追い打ちをかけ、非鉄金属鉱山の探鉱坑道の総延長は1975年に10万4,000メートルへ短くなった。1973年の藤崎氏の社長就任後、従業員は3,000人台まで一段と減り、社内では、皆が乗っていては船が沈むので誰かが降りて泳いでくれ、という言い方が交わされた『みんな乗っているとボートが沈んじゃうから誰か泳いでくれよ』。
掘る会社から買って製錬する会社への組み替えは、設備の側から進んだ。1966年5月に鉛・亜鉛のISP製錬を始めて非鉄金属の総合生産者への道を一歩進めたのち、国際競争力と量産効果を求めて四国の東予地区に大型の製錬所を建設する。1970年6月に新居浜ニッケル新工場が、1971年2月に東予製錬所が完成し、1956年に小規模で始めたフェロニッケルは1973年に新鋭の大規模工場へ一元集約された。銅では国内鉱石の比率が下がり続け、1964年に海外鉱石が6割を超え、1967年には75%に達している。この時期に各社が建てた製錬設備が、のちに国内鉱山から撤退して海外の鉱石で銅を生産する買鉱製錬業者としての競争力の根幹を支えることになる。
鉱源を海の底に求める試みもあった。当時は、銅の輸出国4カ国がCIPECを作って産油国に倣う動きを見せるなど、資源を持つ国の資源ナショナリズムが強まっていた。鉱石原料のほぼ全量を海外から仕入れる同社にとって、長く安定して使える供給源を自ら押さえることが課題となり、1974年6月に海洋資源室を設けて、12人の体制でマンガン団塊の開発を始めた。開発の舞台はハワイ諸島周辺の海域で、探査と採掘は10回ほど行われ、ロープにつないだ籠を連続して深海に下ろすCLB方式を用いた。10年先を行くとされた米国勢を追うのではなく、欧州メーカーと技術で肩を並べることが当面の目標で、事業化は1980年を見込んだ。1980年に企業化がどこまで進んだかは資料からは分からないが、陸の鉱山を閉じていた時期に代わりの鉱源を海に求めていたことは確かである。
海外での大型開発の多くは、悪いタイミングで本格生産に入った。1966年に探査権を獲得したザイールのムソシ銅鉱山は、日本鉱業を中心に産銅6社が参加して1972年から生産を始めた。国内では1979年に佐々連鉱山を閉じ、会社は名目だけでなく実態としても自前の鉱山を持たない鉱山会社となった。海外では、ザイールの事業が周辺国の政情不安のために鉱石の輸送経路の確保に難渋した。1983年には現地鉱山会社をザイール政府へ引き渡し、総額約530億円の損失を出して全面的に撤退している。マレーシアのマムート銅鉱山も1967年に探査権を取得した案件だったが、円高に苦しみ、1987年に経営権を現地側に委ねた。国内の鉱山から早くに手を引いたことは、後になって良い結果につながった。
1981年8月、鹿児島県の菱刈鉱区から高品位の金鉱脈が出た。探査を担ったのは金属鉱業事業団で、住友金属鉱山の貢献は鉱区権の保有にとどまるとの見方もあったが、藤崎氏自身は運に恵まれた結果だったと認めている。菱刈鉱山は1985年2月に開山したが、それより前の1982年の段階で、同氏は旧来の非鉄金属のうち将来性があるのは金だけだと考えていた。ただし金山に頼れば別子・鴻之舞の繰り返しになるとして、金で得た利益は多角化に回すと明言していた。山を捨てたばかりの会社が国内最大の金山を得たあとに、その山を収益源の中心に据えなかったところに、この時期の経営の重心が表れている。
多角化の中身は、非鉄金属の周辺にある材料だった。1977年1月、リードフレームの生産に着手した。事業領域は集積回路のリードフレームにとどまらず、素子と端子をつなぐボンディングワイヤ、ゲルマニウムなどの単結晶、発光ダイオード向けのガリウムリン、時計の電池に用いる過酸化銀にまで広がった。1981年時点で日本国内の生産額は約2,300億円に上り、その先5年は年率20%超の成長が予想される分野だった。藤崎氏は、三菱金属が戦前からの蓄積を持つのに対し、自社は1960年代半ばに着手したばかりで出遅れていると位置づけ、技術によってしか活路は開けないとして、電子材料と原子力分野の技術者確保に動いた。素材面では、高温・高圧や超低温にも耐える極限材料の追求を研究開発陣へ指示した。
鉱山を持たない会社が権益によって鉱源を持ち直したのも、この時期である。1986年2月に米国アリゾナ州のモレンシー銅山の権益を取得し、1988年7月にはPTインターナショナルニッケルインドネシアの株式を取得した。売上構成の移り方はこの転換をそのまま映している。非鉄は縮みが避けられない業種で、新しい分野へ出ていけた企業だけが残るというのが1982年時点の会社の前提であり、その裏には銅の電線用途を光ファイバーが、亜鉛のダイカスト製品をアルミ合金が奪うという需要の変化の読みがあった。売上の構成は、1975年3月期に電気銅34%、フェロニッケル14%、電気金14%、電子機器材料4%だったのが、1985年3月期には金49%、銅13%、ニッケル10%、電子機器材料9%へ移っている。
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|---|---|---|---|---|
| 1691〜1972年別子一山が住友の事業群を養った | 住友家直営だった銅山と四阪島製錬所の切り出しによる会社組織への移行 1927年7月、住友合資会社は直営してきた別子鉱山と四阪島製錬所などを分離し、資本金1,500万円の住友別子鉱山株式会社を設立した。1691年の稼行開始から数えて236年、住友家が直に抱えてきた鉱山事業が、初めて独立した鉱山会社の形を得た。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 住友別子鉱山と住友炭鉱を合併・住友鉱業を設立 | ★ | |||
| 電気ニッケルの生産を開始 | ★ | |||
| 社名を井華鉱業に商号変更 | ★ | |||
| 田中外次 | 金属部門を分離・住友金属鉱山(別子鉱業)を設立 | ★ | ||
| 田中外次 | 東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 田中外次 | 住友金属鉱山に商号変更 | ★ | ||
| 田中外次 | 子会社日向製錬所を設立 | ★ | ||
| 河上健次郎 | 国内鉱山の閉山を本格化 | ★ | ||
| 河上健次郎 | 中央研究所を施設 | ★ | ||
| 河上健次郎 | 青梅工場を新設(電子金属事業) | ★ | ||
| 河上健次郎 | 新居浜ニッケル新工場を新設 | ★ | ||
| 河上健次郎 | 東予製錬所を新設 | ★ | ||
| 1973〜1990年山を捨て、買鉱と金と材料へ移る | 藤崎章 | 別子鉱山を閉山 | ★★ | |
| 藤崎章 | リードフレーム生産を開始 | ★★ | ||
| 藤崎章 | 菱刈鉱区で高品位金鉱脈を発見 | ★ | ||
| 藤森正路 | 菱刈鉱山を開山(鹿児島県) | ★★ | ||
| 藤森正路 | モレンシー銅山の権益取得 | ★ | ||
| 篠崎昭彦 | PTインターナショナルニッケルインドネシアの株式取得 | ★ | ||
| 1991〜2010年チリ・中国の銅プロジェクトとJCO臨界事故、HPALによるニッケル製錬 | 篠崎昭彦 | チリ・カンデラリア銅鉱床の開発PJに参加 | ★★ | |
| 青柳守城 | 中国・金隆銅業有限公司に資本参加 | ★ | ||
| 青柳守城 | 海外資源事業統括会社SMM Americaを設立 | ★ | ||
| 青柳守城 | JOC東海事業所で臨界事故が発生 | ★ | ||
| 福島孝一 | 国内事業の整理統合を本格化 | ★ | ||
| 福島孝一 | 三井金属と亜鉛製錬で合弁会社を設立 | ★ | ||
| 福島孝一 | フィリピン・コーラルベイHPAL生産開始 | ★★ | ||
| 福島孝一 | ポコ金山の生産開始 | ★ | ||
| 家守伸正 | フィリピンNickel Asia Corporationに資本参加 | ★ | ||
| 2011〜2026年シエラゴルダ銅鉱山の取得と損失、ケブラダブランカの開山と電池材料工場 | 家守伸正 | チリでの権益取得から、二度の減損を経た全持分の売却までの撤退 住友金属鉱山は2011年5月、住友商事と共同で、カナダのクアドラFNXマイニングがチリに保有するシエラゴルダ銅鉱山開発プロジェクトへ参画した。開発資金拠出分を含め約7億2,400万米ドルを出資し、権益の45%を取得している。生産開始後に二度の減損を計上し、2021年10月に全持分の豪サウス32への譲渡を決め、2022年2月に実行した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 中里佳明 | フィリピン・タガニートHPAL生産開始 | ★★ | ||
| 中里佳明 | チリ・シエラゴルダ銅鉱山の生産を開始 | ★★ | ||
| 中里佳明 | シエラゴルダ銅鉱山で損失計上 | ★★ | ||
| 中里佳明 | モレンシー銅山の権益を追加取得 | ★ | ||
| 野崎明 | 2021年中期経営計画を策定 | ★ | ||
| 野崎明 | チリ・ケブラダブランカ銅鉱山の開山 | ★ | ||
| 松本伸弘 | コテ金鉱山で商業生産を開始 | ★ | ||
| 松本伸弘 | 電池材料事業本部新居浜工場が竣工 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(住友金属鉱山)