住友金属鉱山 の歴史

更新:

創業 1927年
母体 住友財閥
創業地 大阪府大阪市
創業 1691年、住友家が愛媛で別子銅山の採掘を始めた。十六世紀末に京都で銅製錬を手が
1691年、住友家が愛媛で別子銅山の採掘を始めた。十六世紀末に京都で銅製錬を手がけた家業が鉱山経営へ広がったもので、別子の銅は住友化学住友電工住友林業住友銀行など住友系各社の元手となった。1876年には湿式収銅法による沈澱銅の生産に入り、鉱山専用鉄道・水力発電設備・銅電解工場・浮遊選鉱場を相次いで建てる。経営の形は1921年に住友合資会社へ移り、1927年7月には住友本社が236年続いた直営を住友別子鉱山として法人化した。1937年に住友炭鉱と合併して住友鉱業、財閥解体で1946年に井華鉱業、1950年に金属部門を分けて別子鉱業となり、1952年に住友金属鉱山へ改称している。
決断 掘る・製錬する・材料にするの三つを、どれも他社へ渡していない。1956年に日向製
掘る・製錬する・材料にするの三つを、どれも他社へ渡していない。1956年に日向製錬所でニッケル製錬を始め、1967年には青梅工場を新設して電子金属へ入り、1970年に新居浜ニッケル新工場、1971年に東予製錬所を建てた。1973年3月に祖業の別子銅山を282年で閉山したあとも掘る側から退かず、1969年に1,000万円で取得した鹿児島の菱刈が1985年7月に出鉱し、年約6トンの金を産出する国内唯一の商業金山になる。1986年に米モレンシー、1988年にPTインコの権益を取得し、2011年にはチリのシエラゴルダを取得して10年で全持分を譲渡した。減損を出したのちも権益の取得は止めず、2023年10月にケブラダブランカが開山し、2024年8月にはカナダのコテ金鉱山が商業生産に入った。
現況 稼いでいるのは製錬所ではなく、持分を持つ海外の鉱山である。2026年3月期の売上
稼いでいるのは製錬所ではなく、持分を持つ海外の鉱山である。2026年3月期の売上高は1兆7,416億円、営業利益は2,557億円。製錬が売上1兆3,501億円・利益916億円、資源が3,026億円・1,678億円、材料が2,845億円・153億円で、利益の6割を資源が生んだ。資源の中身はペルーのセロベルデ、チリのケブラダブランカ、カナダのコテといった海外鉱山の持分であり、いずれも住友金属鉱山が運営を握らない少数持分である。前期は製錬と材料で1,126億円の減損を計上して税引前利益が314億円まで減少したが、翌期は資源だけで1,678億円を取り戻した。
競合 損益は加工賃ではなく、銅と金の相場で決まる。三井金属は神岡を縮小して電子材料へ主
損益は加工賃ではなく、銅と金の相場で決まる。三井金属は神岡を縮小して電子材料へ主力を移し、2021年2月にはチリのカセロネスの権益も譲渡した。DOWA製錬所へ入れる原料を鉱石からリサイクルへ切り替えた。原料の入り口を外へ移した2社は、地金の価格そのものより製錬の手数料と回収量で採算が決まる。住友金属鉱山だけが権益を取得し続け、セロベルデ21%、ケブラダブランカ33.3%と少数持分で参加する。持分である以上、着工の時機は運営会社が決め、2011年に取得したシエラゴルダは2015年の操業開始が銅価格の急落と重なって、2016年に689億円の持分法投資損失を計上した。相場が上がる年に厚く稼ぐ代わりに、下がる年は製錬と材料が支えきれない。
長期業績の推移 1950〜2026年
住友金属鉱山:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

第1章 1691年〜 別子一山が住友の事業群を養った元禄の稼行開始から1950年の別子鉱業発足まで

1691年〜製錬の技を持つ銅商が掘り当てた一つの鉱床

銀を吹き分ける技を元手に山を持つ

伊予の別子で住友家が鉱床を見いだしたのは元禄三年(1690年)で、翌四年には幕府から許しを得て採掘に取りかかった。それ以前から住友家は鉱山の開発と経営を重ねており、源は十六世紀末に京都で始めた銅の製錬にあり、南蛮吹きと呼ばれる、銀と銅を分離する技法を早くに身につけたことで、日本の鉱業界で際立った位置を占めていた。別子銅山はそれ以降、幕府や諸大名に向けた金融業と肩を並べる住友家の中核事業となった粗銅から銀を取り出せる者の少ない時代に製錬工程を押さえていたことが、自前の山を手にしたときの利幅を左右したのだろう。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史「住友金属鉱山」
    • [1]元禄三年(1690年)に別子銅山を発見し、元禄四年に幕府の許可を得て稼行に着手した
    • [3]金銀銅を吹き分ける「南蛮吹き」の技術を修得していた鉱業家住友
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [2]住友家の鉱業は十六世紀の終わりに京都で銅製錬業を開始したことに始まる
    • [4]別子銅山は幕府・諸大名を相手とする金融業と並んで住友家の事業の中心となった
売らずに残した山へ西洋技術を入れる

四千の稼人を抱えていた別子では、その維持が難しく、山を売ってしまう案さえ一度は持ち上がったが、手放さないまま明治を迎えた。この間には、維新の戦乱に乗じて土佐藩が山を一時接収し、大阪鰻谷の銅蔵も封じられるという危うい局面もあった。旧来の技術のままでは高品位の鉱石が細って産出量が頭打ちとなり、広瀬宰平氏をはじめとする経営首脳は、西洋の新技術を入れて山そのものを作り替える道を選んだ。1873年にフランス人技師コワニー氏に別子の視察を依頼し、次いで本国から招いたルイ・ラロック氏のもとで『別子銅山目論見書』がまとまり、1876年には湿式収銅法で沈澱銅が採れるようになった

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史「住友金属鉱山」
    • [5]当時四千の稼人を抱えた別子銅山の維持は容易でなく、一時は同山売却の議も起こったが売らずに明治を迎えた
    • [6]維新の戦乱のさなかに別子銅山は土佐藩によって一時接収され、大阪鰻谷の銅蔵も封印された
    • [9]1873年にコワニーが別子銅山を視察、ルイ・ラロックが「別子銅山目論見書」を作成し、1876年に湿式収銅法による沈澱銅を得た
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [7]旧式技術による稼行のため高品位鉱が次第に少なくなり生産量は伸び悩んだ
    • [8]広瀬宰平以下の経営首脳が西洋新技術を採用して別子銅山の更新を図った
増産が呼び込んだ煙害を技術で断つ

火薬と鑿岩機の使用、鉱山専用鉄道と複式空架索道の敷設、大斜坑の開鑿、水力発電設備と銅電解工場、浮遊選鉱場の建設が相次ぎ、別子の生産量は飛躍的に増えた。生産が増えるにつれ、製錬の排煙が周辺の農作物を傷める煙害が最大の難問となった。1905年に製錬所を瀬戸内海の四阪島へ移したが、それでも解決はもたらされず、支払った賠償金は1939年までに1968年時点の価格に見積もって50億円を超えた。抜本的な解決は、排煙中の亜硫酸ガスを皆無とする中和工場が完成した1939年まで待たねばならなかった銅を増産するほど賠償が膨らむ関係を、住友は34年かけて技術のほうで断ち切ったことになる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史「住友金属鉱山」
    • [10]火薬・鑿岩機の使用、鉱山専用鉄道と複式空架索道の敷設、大斜坑(東延斜坑)の開鑿、水力発電設備・銅電解工場・浮遊選鉱場の建設により別子銅山の生産量は飛躍的に増加した
    • [11]別子の操業では煙害問題が困難の最たるものであった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [12]1905年に製錬所を四阪島へ移転したが煙害の解決はもたらされなかった
    • [13]煙害の賠償金は1939年までに1968年時点の価格に見積もって50億円を上回った
    • [14]1939年に排煙中の亜硫酸ガスを皆無とする中和工場が完成し煙害が抜本的に解決された
参考文献[1]-[14]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史「住友金属鉱山」
    • [1]元禄三年(1690年)に別子銅山を発見し、元禄四年に幕府の許可を得て稼行に着手した
    • [3]金銀銅を吹き分ける「南蛮吹き」の技術を修得していた鉱業家住友
    • [5]当時四千の稼人を抱えた別子銅山の維持は容易でなく、一時は同山売却の議も起こったが売らずに明治を迎えた
    • [6]維新の戦乱のさなかに別子銅山は土佐藩によって一時接収され、大阪鰻谷の銅蔵も封印された
    • [9]1873年にコワニーが別子銅山を視察、ルイ・ラロックが「別子銅山目論見書」を作成し、1876年に湿式収銅法による沈澱銅を得た
    • [10]火薬・鑿岩機の使用、鉱山専用鉄道と複式空架索道の敷設、大斜坑(東延斜坑)の開鑿、水力発電設備・銅電解工場・浮遊選鉱場の建設により別子銅山の生産量は飛躍的に増加した
    • [11]別子の操業では煙害問題が困難の最たるものであった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [2]住友家の鉱業は十六世紀の終わりに京都で銅製錬業を開始したことに始まる
    • [4]別子銅山は幕府・諸大名を相手とする金融業と並んで住友家の事業の中心となった
    • [7]旧式技術による稼行のため高品位鉱が次第に少なくなり生産量は伸び悩んだ
    • [8]広瀬宰平以下の経営首脳が西洋新技術を採用して別子銅山の更新を図った
    • [12]1905年に製錬所を四阪島へ移転したが煙害の解決はもたらされなかった
    • [13]煙害の賠償金は1939年までに1968年時点の価格に見積もって50億円を上回った
    • [14]1939年に排煙中の亜硫酸ガスを皆無とする中和工場が完成し煙害が抜本的に解決された

1927年〜直営236年の終わりとGHQが命じた金石分離

家産だった山を会社の器へ移す

経営の形態も、産銅の規模に合わせて改められた。当初は住友総本店と称する個人企業であったものが、1921年に設立された住友合資会社の手に移る。1927年7月、住友本社は別子鉱山と四阪島製錬所を切り出して住友別子鉱山株式会社を設立し、236年続いた住友家の直営を法人の経営へ移した。1937年6月には住友別子鉱山と住友炭礦が合併して住友鉱業となり、鉱業経営の合理化を目的とするこの統合によって、三菱鉱業と並んで非鉄金属と石炭を兼営するわが国有数の鉱山会社となった金属と石炭を一つの器へ入れたこの判断が、戦後に分割される単位をあらかじめ作ることになった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [15]当初は「住友総本店」と称する個人企業で、1921年に設立された住友合資会社へ移った
  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
    • [16]1927年7月 住友本社が別子鉱山等を分離し住友別子鉱山㈱を設立(236年の直営を法人化)
    • [17]1937年6月 住友別子鉱山と住友炭礦を合併し住友鉱業㈱を設立
  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [18]住友鉱業は1937年6月に住友別子鉱山と住友炭礦が合併して出来た会社で、当時三菱鉱業と並んで非鉄金属と石炭を兼営するわが国有数の鉱山会社であった
業種の分割は呑み、工程の細分は拒む

1946年に商号を井華鉱業へ改めた会社は、1948年に過度経済力集中排除法による過度経済力集中会社の指定を受けた。全国で325社が同じ指定を受けている。住友の連系各社で分割を強いられたのは、住友鉱業ただ一社である。持株会社整理委員会との交渉の場でGHQが求めたのは、金属と石炭の分離にとどまらず、金属部門を採鉱と製錬という工程で、あるいは別子と鴻之舞というブロックで、さらに割ることであり、その意向は厳しかった。会社側は、金属と石炭はもともと別々に経営されていたのだから再び分けるのはやむを得ないと認めつつ、地区や工程ごとの細かな分割は鉱山経営の土台を揺るがすとして、最後まで退ける構えをとった

  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
    • [19]1946年 住友鉱業から井華鉱業へ商号変更
  • 住友金属鉱山二十年史(住友金属鉱山, 1970)二章 別子鉱業の誕生
    • [20]1948年2月と3月に全国で325社が集排法により過度経済力集中会社の指定を受けた
    • [22]GHQは金属部門と石炭部門の分割に加え、金属部門を採鉱と製錬、あるいは別子ブロックと鴻之舞ブロックに分割する意向を示した
    • [23]会社は金属・石炭の分割はやむを得ないとしつつ、地区別・工程別の細分は鉱山経営の基盤を危うくするのであくまで避ける方針を立てた
  • 私の住友昭和史(1988)6章 財閥解体後の住友
    • [21]住友においては住友鉱業が集中排除法の適用によって金属鉱山と石炭とに分割を余儀なくされた以外は、全部の事業が存続した
社員7,060人で第二会社として船出する

金属部門の新会社には、井華鉱業から3億700万円、佐々連鉱業から300万円の現物出資があり、佐々連鉱山もその傘下に入った。会社は資本金3億1,000万円の別子鉱業株式会社として1950年3月1日に発足し、社名は第一鉱業や別子鴻之舞鉱業といった案を退けて、短く世に通った別子が選ばれた。別子・佐々連・国富・鴻之舞・北見の五鉱業所に大宮・砥沢の二鉱山を加えた事業所に、発足の時点で7,060人の社員がいた。株式は同年6月28日に東京・大阪・名古屋の三市場へ上場された。1952年6月に社名を住友金属鉱山へ改め、1954年9月末の従業員は8,330人となっている

  • 住友金属鉱山二十年史(住友金属鉱山, 1970)二章 別子鉱業の誕生
    • [24]井華鉱業から3億700万円、佐々連鉱業から300万円を現物出資して別子鉱業を設立
    • [25]1950年3月1日 金属部門が資本金3億1,000万円の別子鉱業株式会社として発足
    • [26]社名案には「第一鉱業」「別子鴻之舞鉱業」もあったが、簡潔で世間に知られている「別子」の名が採られた
    • [27]発足時の事業所は別子・佐々連・国富・鴻之舞・北見の五鉱業所と大宮・砥沢の二鉱山、社員総数は7,060人
    • [28]別子鉱業株式は1950年6月28日に東京・大阪・名古屋の各市場へ上場された
  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
    • [29]1952年6月 別子鉱業から住友金属鉱山へ改称
  • 株式会社年鑑 1955年版「住友金属鉱山」
    • [30]1954年9月30日現在の従業員は8,330人
参考文献[15]-[30]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [15]当初は「住友総本店」と称する個人企業で、1921年に設立された住友合資会社へ移った
  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
    • [16]1927年7月 住友本社が別子鉱山等を分離し住友別子鉱山㈱を設立(236年の直営を法人化)
    • [17]1937年6月 住友別子鉱山と住友炭礦を合併し住友鉱業㈱を設立
    • [19]1946年 住友鉱業から井華鉱業へ商号変更
    • [29]1952年6月 別子鉱業から住友金属鉱山へ改称
  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [18]住友鉱業は1937年6月に住友別子鉱山と住友炭礦が合併して出来た会社で、当時三菱鉱業と並んで非鉄金属と石炭を兼営するわが国有数の鉱山会社であった
  • 住友金属鉱山二十年史(住友金属鉱山, 1970)二章 別子鉱業の誕生
    • [20]1948年2月と3月に全国で325社が集排法により過度経済力集中会社の指定を受けた
    • [22]GHQは金属部門と石炭部門の分割に加え、金属部門を採鉱と製錬、あるいは別子ブロックと鴻之舞ブロックに分割する意向を示した
    • [23]会社は金属・石炭の分割はやむを得ないとしつつ、地区別・工程別の細分は鉱山経営の基盤を危うくするのであくまで避ける方針を立てた
    • [24]井華鉱業から3億700万円、佐々連鉱業から300万円を現物出資して別子鉱業を設立
    • [25]1950年3月1日 金属部門が資本金3億1,000万円の別子鉱業株式会社として発足
    • [26]社名案には「第一鉱業」「別子鴻之舞鉱業」もあったが、簡潔で世間に知られている「別子」の名が採られた
    • [27]発足時の事業所は別子・佐々連・国富・鴻之舞・北見の五鉱業所と大宮・砥沢の二鉱山、社員総数は7,060人
    • [28]別子鉱業株式は1950年6月28日に東京・大阪・名古屋の各市場へ上場された
  • 私の住友昭和史(1988)6章 財閥解体後の住友
    • [21]住友においては住友鉱業が集中排除法の適用によって金属鉱山と石炭とに分割を余儀なくされた以外は、全部の事業が存続した
  • 株式会社年鑑 1955年版「住友金属鉱山」
    • [30]1954年9月30日現在の従業員は8,330人

1954年〜国内鉱山の限界と、資本金の大半を賭けた海外鉱源

ニッケルの品不足が高率配当を生む

発足からの数年、業績は良好だった。朝鮮戦争の好況のもとで別子銅山が復興し、鴻之舞金山が高収益を上げ、戦後合併した佐々連鉱山も好調で、なかでも1952年に再開したニッケル事業が際立っていた。1954年4月からの半期でみると、電気銅の生産は能力12,000トンに対して9,503トンにとどまる一方、電気ニッケルは能力720トンに対して721トンと、設備をいっぱいまで動かしている。同年に西ドイツと大口の長期輸出契約をまとめたあと、国内でも電気通信・ニッケル貨幣・メッキの需要が伸びて極端な品不足となった。トン当たり113万円だった平均売価は、1956年下期から翌年上期に170万〜182万円へ上がっている。1955年下期から1956年下期まで18%の高率配当が続いた

  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [31]朝鮮戦争の好況下で別子銅山の復興、鴻之舞金山の高収益、戦後合併した佐々連鉱山の好業績に加え、1952年に再開したニッケル事業が極めて好調だった
    • [33]1954年に西ドイツと大口の長期輸出契約に成功、電気通信・ニッケル貨幣・メッキの需要が伸び、1954年下期にトン当たり113万円だった平均売価が1956年下期〜1957年上期には170万〜182万円になった
    • [34]1955年下期から1956年下期まで18%の高率配当を実施した
  • 株式会社年鑑 1955年版「住友金属鉱山」
    • [32]1954年4月〜9月の生産実績は電気銅9,503トン(能力12,000トン)、電気ニッケル721トン(能力720トン)
借金で探鉱する体質を計画で締め直す

神武景気のあとのナベ底景気で業況は一転し、1958年の電気ニッケル生産は前年比42%の減少となった。主力の銅とニッケルの不振は、それ自体の痛手より経営体質の脆さを露わにした点で重かった。神武景気で一時減った借入金が、業績の悪化とともに再び増えたのである。減耗する資源を掘る鉱山会社は探鉱に多額の資金を投じ続けねばならないが、国内の鉱山は規模が小さく鉱量も品位も劣り、その探鉱費を内部留保ではなく借入金で賄っていた。1960年6月、政府は「貿易・為替自由化計画の大綱」を決定する田中外次社長は年頭から自由化対策を急ぐよう強調し、同年7月に経理部のなかへ計画課を、技術スタッフを組織化する鉱山部と冶金部を置く機構改革を行った見込みなしと判じて探鉱を打ち切る決断を、誰がどの数字で下すのかを決めるための機構であった。

  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [35]1958年の電気ニッケル生産は海外市況の悪化と内需減退により前年比42%の減少となった
    • [36]神武景気で一時減少した借入金が業績悪化とともに増加し経営体質を弱めた
    • [37]国内鉱山は規模が小さく鉱量・品位とも劣る傾向にあり、探鉱費は内部留保ではなく借入金に依存していた
    • [38]1960年6月に政府が「貿易・為替自由化計画の大綱」を決定した
    • [39]1960年の年頭に田中外次社長が自由化対策を急ぐよう強調、同年7月に経理部の中に計画課を設け、鉱山部と冶金部を設置する本社機構の改革が行われた
資本金32億円の会社が21億円を投じる

米国の大手産銅会社アサルコは、140万ドルをかけた探鉱で相当量の鉱石を確かめながら、品位が低く採算に乗らないとみてオプションを手放していた。1960年秋、会社はその鉱床、カナダ・ブリティッシュコロンビア州ハイランドバレーのベスレヘム鉱床へ投融資し、経営資源をそこへ集中させると決めた。開発資金21億円は当時の資本金32億円から見ても巨額で、露天掘りの経験も会社にはなく、資金調達を担う経理担当者は反対したが、開発に踏み出す意志は河上健次郎専務が決め、1961年2月には交渉団がカナダへ渡った。取り決めでは、総起業費770万ドル余のうち500万ドルを融資、50万ドルを投資し、見返りに生産が始まってから10年3カ月の間、この鉱山から出る銅精鉱をすべて独占して買い取ることになった。日本の産銅会社が海外の鉱山に自ら開発資金を出したのは、これが初めてだった

  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [40]米国の大手産銅会社アサルコが140万ドルを投入して探鉱しかなりの鉱量を確認したが、品位が低く採算の目処が立たないとしてオプションを放棄した
    • [41]1960年秋にカナダ・ブリティッシュコロンビア州ハイランドバレーのベスレヘム鉱山開発について最終的な態度を決める会議が開かれた
    • [42]開発資金21億円は当時の資本金32億円からみて巨額であり、露天掘の経験も会社になかった
    • [43]資金調達の責任を負う経理担当者から反対が出たが、河上健次郎専務の決定で開発の意志決定がなされ、1961年2月に交渉団がカナダへ渡った
    • [44]総起業費770万ドル余のうち500万ドルを融資、50万ドルを投資し、生産開始日から10年3カ月にわたり同鉱山産出の全銅精鉱を独占的に購入する条件
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [45]自主開発では住友金属鉱山が1961年から手掛けたカナダのベスレヘム銅鉱山が初めてであった
参考文献[31]-[45]
  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [31]朝鮮戦争の好況下で別子銅山の復興、鴻之舞金山の高収益、戦後合併した佐々連鉱山の好業績に加え、1952年に再開したニッケル事業が極めて好調だった
    • [33]1954年に西ドイツと大口の長期輸出契約に成功、電気通信・ニッケル貨幣・メッキの需要が伸び、1954年下期にトン当たり113万円だった平均売価が1956年下期〜1957年上期には170万〜182万円になった
    • [34]1955年下期から1956年下期まで18%の高率配当を実施した
    • [35]1958年の電気ニッケル生産は海外市況の悪化と内需減退により前年比42%の減少となった
    • [36]神武景気で一時減少した借入金が業績悪化とともに増加し経営体質を弱めた
    • [37]国内鉱山は規模が小さく鉱量・品位とも劣る傾向にあり、探鉱費は内部留保ではなく借入金に依存していた
    • [38]1960年6月に政府が「貿易・為替自由化計画の大綱」を決定した
    • [39]1960年の年頭に田中外次社長が自由化対策を急ぐよう強調、同年7月に経理部の中に計画課を設け、鉱山部と冶金部を設置する本社機構の改革が行われた
    • [40]米国の大手産銅会社アサルコが140万ドルを投入して探鉱しかなりの鉱量を確認したが、品位が低く採算の目処が立たないとしてオプションを放棄した
    • [41]1960年秋にカナダ・ブリティッシュコロンビア州ハイランドバレーのベスレヘム鉱山開発について最終的な態度を決める会議が開かれた
    • [42]開発資金21億円は当時の資本金32億円からみて巨額であり、露天掘の経験も会社になかった
    • [43]資金調達の責任を負う経理担当者から反対が出たが、河上健次郎専務の決定で開発の意志決定がなされ、1961年2月に交渉団がカナダへ渡った
    • [44]総起業費770万ドル余のうち500万ドルを融資、50万ドルを投資し、生産開始日から10年3カ月にわたり同鉱山産出の全銅精鉱を独占的に購入する条件
  • 株式会社年鑑 1955年版「住友金属鉱山」
    • [32]1954年4月〜9月の生産実績は電気銅9,503トン(能力12,000トン)、電気ニッケル721トン(能力720トン)
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [45]自主開発では住友金属鉱山が1961年から手掛けたカナダのベスレヘム銅鉱山が初めてであった

第2章 1973年〜 山を捨て、買鉱と金と材料へ移る別子閉山から菱刈開山とモレンシー取得まで

筆者考察y.sugiura, author

鉱山会社にとって、山を閉じることは事業そのものをやめることに近い。住友金属鉱山は1973年に別子銅山を、1979年に佐々連鉱山を閉じ、掘る対象を一つも持たない鉱山会社になった。ただし手放したのは採掘という一工程で、製錬と販売の工程は残っている。十六世紀の終わりに京都で銅製錬業として始まったこの家業は、もともと自分の山を持たず、他人の産銅を集めて銀と銅を吹き分ける商いだった。元禄四年に別子を掘り当ててから282年かけて掘る会社になった住友が、掘らない会社の側へ戻ったとみることもできる。

山を閉じるには金が要る。別子と鴻之舞の閉山損失は会社が抱えきれない規模と見込まれ、これを埋めたのは1960年に資本金32億円のうち21億円を投じて取得したカナダ・ベスレヘム鉱山の株式であった。一株18ドルでの売却益は80億円弱に達し、株を手放しても鉱石は従来どおり引き取れた。安定した鉱源を得るために打った手の利益が、13年後にその鉱源を要らなくする側の費用へ充てられたことになる。この順番を先に作れた会社だけが、同業より早く身軽になり、金と電子材料へ資金を回せた。

売上高の推移 1973年3月期〜1985年3月期(億円)

1,067.9 1973 1,765.28 1975 1,859 1977 2,850 1980 2,625 1983 3,943 1985
  • 単体・日本基準の売上高。
  • 出所は会社年鑑 1976年版(上下期合算)および会社年鑑 1986年版の損益計算書。

1973年〜主力二山の閉山と、葬式代と呼ばれた大斜坑

閉めるために30億円を掘る

元禄四年に稼行を始めた別子銅山は、282年を経た1973年3月に閉山した藤崎章社長は鉱山勤務が長く、ヤマへの思い入れは誰よりも強かったが、採算の上では閉山しか選べないと判断した。鉱脈の規模や含有量は実際に掘らない限り分からず、探鉱費と製品価格を突き合わせる計算だけでは社内が納得しないため、閉山の直前にわざわざ大斜坑を掘る工事を実施した。約30億円を投じたこの工事を、同氏は『伝統ある別子鉱山の葬式代』と呼んだ『約30億円かかりましたが、まあ、伝統ある別子鉱山の葬式代ですな』。同社が他社より早く主力鉱山を畳み、身軽な体質に移れたのは、計画の成果というより、鉱量が他社の主力鉱山より先に尽きたという巡り合わせによるものだったという

  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
    • [46]1973年3月 別子銅山を閉山(元禄四年の稼行開始から282年)
  • 日経ビジネス 1982年8月9日号
    • [47]藤崎章社長は鉱山勤務が長く人一倍ヤマへの愛着が強かったが、冷静に考えれば閉山せざるを得なかった
    • [48]鉱脈の大きさや含有量は掘ってみなければ分からず採算計算だけでは社内が納得しないため、別子鉱山では最後に大斜坑を掘った
    • [49]大斜坑の費用は約30億円で、藤崎章社長はこれを別子鉱山の葬式代と表現した
    • [50]同業他社より早く主力鉱山を閉めて身軽になれたのは計画的にやったからというより、他社の主力鉱山より早く鉱量が乏しくなった幸運だったという
カナダの株を売って閉山損を埋める

主力二山の閉山で避けられないのが、巨額の閉山損失だった。長期安定の鉱源として押さえてきたベスレヘム社の株式を、会社は売ることに決めた。背景には、1965年以降に老朽化が進んだ別子と鴻之舞の両鉱山があり、1970年を過ぎて業績が悪化すると閉山は避けられず、その損失は耐えがたいと見込まれていた。交渉を一任された藤崎氏が一株18ドルで売却して会社は80億円弱のキャピタルゲインを得、別子・鴻之舞を閉じながらも損失を決算の表に出さずに済んだ。しかも鉱石はそれまでどおり引き取れたため、株を手放しても鉱源確保の仕組みは失われなかった1960年の21億円の投資が、13年後には山を閉じる費用を賄ったことになる。

  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [51]閉山損失に備えてベスレヘム社の株式を売却することになった
    • [52]1965年以降に別子・鴻之舞の両鉱山は老朽化し、1970年を過ぎると業績悪化により閉山不可避となったが、巨額の閉山損失は耐え難いものであった
    • [53]藤崎章が交渉の全権を委ねられ一株18ドルで売却し、80億円弱のキャピタルゲインを得た
    • [54]この利益により別子・鴻之舞の閉山にもかかわらず損失を表面に出さずに済んだ
    • [55]株式を手放しても鉱石は従来どおり引き取ることができた
8,000人を3,000人台まで落とす

二度にわたった人員削減のうち最初は1962年から1963年にかけてで、東北と北海道の三山を閉じ、従業員を8,000人から5,000人に減らした。鉱山業全体はこの頃まだ勢いがあり、国内鉱石を使った銅生産が12万1,000トンの頂点をつけるのは1969年のことだった。二度目の削減は石油ショック後で、1971年のニクソンショックによる円高に石油ショックが追い打ちをかけ、非鉄金属鉱山の探鉱坑道の総延長は1975年に10万4,000メートルへ短くなった。1973年の藤崎氏の社長就任後、従業員は3,000人台まで一段と減り、社内では、皆が乗っていては船が沈むので誰かが降りて泳いでくれ、という言い方が交わされた『みんな乗っているとボートが沈んじゃうから誰か泳いでくれよ』

  • 日経ビジネス 1982年8月9日号
    • [56]1962〜1963年に東北・北海道の三山を閉め、8,000人いた従業員を5,000人に減らした
    • [59]石油ショック後、1973年に社長となった藤崎章のもとで従業員は3,000人台まで減らされた
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [57]国内鉱石からの銅生産は1969年に12万1,000トンでピークを記録した
    • [58]1971年のニクソンショックによる円高と石油ショックの影響で、非鉄金属鉱山の探鉱坑道の総延長は1975年に10万4,000メートルまで減少した
参考文献[46]-[59]
  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
    • [46]1973年3月 別子銅山を閉山(元禄四年の稼行開始から282年)
  • 日経ビジネス 1982年8月9日号
    • [47]藤崎章社長は鉱山勤務が長く人一倍ヤマへの愛着が強かったが、冷静に考えれば閉山せざるを得なかった
    • [48]鉱脈の大きさや含有量は掘ってみなければ分からず採算計算だけでは社内が納得しないため、別子鉱山では最後に大斜坑を掘った
    • [49]大斜坑の費用は約30億円で、藤崎章社長はこれを別子鉱山の葬式代と表現した
    • [50]同業他社より早く主力鉱山を閉めて身軽になれたのは計画的にやったからというより、他社の主力鉱山より早く鉱量が乏しくなった幸運だったという
    • [56]1962〜1963年に東北・北海道の三山を閉め、8,000人いた従業員を5,000人に減らした
    • [59]石油ショック後、1973年に社長となった藤崎章のもとで従業員は3,000人台まで減らされた
  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [51]閉山損失に備えてベスレヘム社の株式を売却することになった
    • [52]1965年以降に別子・鴻之舞の両鉱山は老朽化し、1970年を過ぎると業績悪化により閉山不可避となったが、巨額の閉山損失は耐え難いものであった
    • [53]藤崎章が交渉の全権を委ねられ一株18ドルで売却し、80億円弱のキャピタルゲインを得た
    • [54]この利益により別子・鴻之舞の閉山にもかかわらず損失を表面に出さずに済んだ
    • [55]株式を手放しても鉱石は従来どおり引き取ることができた
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [57]国内鉱石からの銅生産は1969年に12万1,000トンでピークを記録した
    • [58]1971年のニクソンショックによる円高と石油ショックの影響で、非鉄金属鉱山の探鉱坑道の総延長は1975年に10万4,000メートルまで減少した

1970年〜掘る設備から買って製錬する設備への組み替え

海外鉱石を受ける製錬所を先に建てる

掘る会社から買って製錬する会社への組み替えは、設備の側から進んだ。1966年5月に鉛・亜鉛のISP製錬を始めて非鉄金属の総合生産者への道を一歩進めたのち、国際競争力と量産効果を求めて四国の東予地区に大型の製錬所を建設する。1970年6月に新居浜ニッケル新工場が、1971年2月に東予製錬所が完成し、1956年に小規模で始めたフェロニッケルは1973年に新鋭の大規模工場へ一元集約された。銅では国内鉱石の比率が下がり続け、1964年に海外鉱石が6割を超え、1967年には75%に達している。この時期に各社が建てた製錬設備が、のちに国内鉱山から撤退して海外の鉱石で銅を生産する買鉱製錬業者としての競争力の根幹を支えることになる

  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [60]1966年5月に鉛・亜鉛製錬をISP製錬法で開始し、国際競争力の涵養と量産効果の追求のため四国東予地区に大型製錬所を建設した
    • [62]1956年に小規模に始めたフェロニッケルは1973年に新鋭大規模工場へ一元集約された
  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
    • [61]1970年6月 新居浜ニッケル新工場完成、1971年2月 東予製錬所完成
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [63]銅では1964年に海外鉱石の比率が6割を超え、1967年には75%に達した
    • [64]1965年から1969年にかけて各社が新増設した製錬設備が、国内鉱山経営から撤退して海外鉱石で銅を生産する買鉱製錬業者の競争力の根幹を支えている
陸の山を閉じながら海へ鉱源を探す

鉱源を海の底に求める試みもあった。当時は、銅の輸出国4カ国がCIPECを作って産油国に倣う動きを見せるなど、資源を持つ国の資源ナショナリズムが強まっていた。鉱石原料のほぼ全量を海外から仕入れる同社にとって、長く安定して使える供給源を自ら押さえることが課題となり、1974年6月に海洋資源室を設けて、12人の体制でマンガン団塊の開発を始めた。開発の舞台はハワイ諸島周辺の海域で、探査と採掘は10回ほど行われ、ロープにつないだ籠を連続して深海に下ろすCLB方式を用いた。10年先を行くとされた米国勢を追うのではなく、欧州メーカーと技術で肩を並べることが当面の目標で、事業化は1980年を見込んだ1980年に企業化がどこまで進んだかは資料からは分からないが、陸の鉱山を閉じていた時期に代わりの鉱源を海に求めていたことは確かである。

  • 日経ビジネス 1975年6月9日号
    • [65]ザンビア・ザイール・チリ・ペルーの産銅4カ国がCIPECを結成するなど資源保有国の資源ナショナリズムが台頭した
    • [66]原料鉱石のほとんどを海外に依存するわが国は、常に長期安定供給源を自らの手で確保する必要に迫られていた
    • [67]1974年6月に海洋資源室を新設し、スタッフ12人でマンガン団塊開発の推進母体とした
    • [68]ハワイ諸島周辺海域で10回ほど研究段階の探査・採掘を行い、採掘方式はカゴをロープに結んで深海に沈めるCLB方式を採った
    • [69]マンガン団塊の開発が事業に結びつくのは1980年と言われ、当面の目標は10年遅れているといわれる米国メーカーではなく欧州メーカーとの力の差をなくすことにあった
海外の大型開発が逆風で折れる

海外での大型開発の多くは、悪いタイミングで本格生産に入った。1966年に探査権を獲得したザイールのムソシ銅鉱山は、日本鉱業を中心に産銅6社が参加して1972年から生産を始めた。国内では1979年に佐々連鉱山を閉じ、会社は名目だけでなく実態としても自前の鉱山を持たない鉱山会社となった。海外では、ザイールの事業が周辺国の政情不安のために鉱石の輸送経路の確保に難渋した。1983年には現地鉱山会社をザイール政府へ引き渡し、総額約530億円の損失を出して全面的に撤退している。マレーシアのマムート銅鉱山も1967年に探査権を取得した案件だったが、円高に苦しみ、1987年に経営権を現地側に委ねた。国内の鉱山から早くに手を引いたことは、後になって良い結果につながった

  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [70]1966年にザイールのムソシ銅鉱山の探査権を獲得し、日本鉱業を中心に住友金属鉱山ほか産銅6社が参加、1972年から生産を始めた
    • [72]ザイールでは周辺国の政情不安で鉱石輸送ルートの確保に苦労し、1983年にザイール政府へ現地鉱山会社を譲渡して総額約530億円の損失を出し全面撤退した
    • [73]1967年に探査権を得たマレーシアのマムート銅鉱山は円高に苦しむなか1987年に経営権を現地側へ委ねた
  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [71]1979年に佐々連鉱山を閉鎖して名実ともに鉱山を持たぬ鉱山会社になった
    • [74]結果として国内鉱山の早期撤収はのち良好な結果をもたらした
参考文献[60]-[74]
  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
    • [60]1966年5月に鉛・亜鉛製錬をISP製錬法で開始し、国際競争力の涵養と量産効果の追求のため四国東予地区に大型製錬所を建設した
    • [62]1956年に小規模に始めたフェロニッケルは1973年に新鋭大規模工場へ一元集約された
    • [71]1979年に佐々連鉱山を閉鎖して名実ともに鉱山を持たぬ鉱山会社になった
    • [74]結果として国内鉱山の早期撤収はのち良好な結果をもたらした
  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
    • [61]1970年6月 新居浜ニッケル新工場完成、1971年2月 東予製錬所完成
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
    • [63]銅では1964年に海外鉱石の比率が6割を超え、1967年には75%に達した
    • [64]1965年から1969年にかけて各社が新増設した製錬設備が、国内鉱山経営から撤退して海外鉱石で銅を生産する買鉱製錬業者の競争力の根幹を支えている
    • [70]1966年にザイールのムソシ銅鉱山の探査権を獲得し、日本鉱業を中心に住友金属鉱山ほか産銅6社が参加、1972年から生産を始めた
    • [72]ザイールでは周辺国の政情不安で鉱石輸送ルートの確保に苦労し、1983年にザイール政府へ現地鉱山会社を譲渡して総額約530億円の損失を出し全面撤退した
    • [73]1967年に探査権を得たマレーシアのマムート銅鉱山は円高に苦しむなか1987年に経営権を現地側へ委ねた
  • 日経ビジネス 1975年6月9日号
    • [65]ザンビア・ザイール・チリ・ペルーの産銅4カ国がCIPECを結成するなど資源保有国の資源ナショナリズムが台頭した
    • [66]原料鉱石のほとんどを海外に依存するわが国は、常に長期安定供給源を自らの手で確保する必要に迫られていた
    • [67]1974年6月に海洋資源室を新設し、スタッフ12人でマンガン団塊開発の推進母体とした
    • [68]ハワイ諸島周辺海域で10回ほど研究段階の探査・採掘を行い、採掘方式はカゴをロープに結んで深海に沈めるCLB方式を採った
    • [69]マンガン団塊の開発が事業に結びつくのは1980年と言われ、当面の目標は10年遅れているといわれる米国メーカーではなく欧州メーカーとの力の差をなくすことにあった

1981年〜「非鉄は地盤沈下産業」という見切りと、金と電子材料

金山を当てても金山に頼らない

1981年8月、鹿児島県の菱刈鉱区から高品位の金鉱脈が出た。探査を担ったのは金属鉱業事業団で、住友金属鉱山の貢献は鉱区権の保有にとどまるとの見方もあったが、藤崎氏自身は運に恵まれた結果だったと認めている。菱刈鉱山は1985年2月に開山したが、それより前の1982年の段階で、同氏は旧来の非鉄金属のうち将来性があるのは金だけだと考えていた。ただし金山に頼れば別子・鴻之舞の繰り返しになるとして、金で得た利益は多角化に回すと明言していた山を捨てたばかりの会社が国内最大の金山を得たあとに、その山を収益源の中心に据えなかったところに、この時期の経営の重心が表れている。

  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
    • [75]1981年8月 菱刈鉱区で高品位金鉱脈を発見
    • [77]1985年2月 菱刈鉱山を開山(鹿児島県)
  • 日経ビジネス 1982年8月9日号
    • [76]菱刈鉱山の発見は金属鉱業事業団の探査によるもので、住友鉱山はそこに鉱区権を持っていただけという声もあり、藤崎章は幸運だったことを否定するつもりはないと述べた
    • [78]藤崎章は従来型の非鉄金属で唯一期待できるのが金だと述べた
    • [79]金山に頼れば別子・鴻之舞の二の舞になるとして、稼ぎは多角化へ注ぎ込む方針を示した
半導体の周辺材料へ技術者を集める

多角化の中身は、非鉄金属の周辺にある材料だった。1977年1月、リードフレームの生産に着手した。事業領域は集積回路のリードフレームにとどまらず、素子と端子をつなぐボンディングワイヤ、ゲルマニウムなどの単結晶、発光ダイオード向けのガリウムリン、時計の電池に用いる過酸化銀にまで広がった。1981年時点で日本国内の生産額は約2,300億円に上り、その先5年は年率20%超の成長が予想される分野だった。藤崎氏は、三菱金属が戦前からの蓄積を持つのに対し、自社は1960年代半ばに着手したばかりで出遅れていると位置づけ、技術によってしか活路は開けないとして、電子材料と原子力分野の技術者確保に動いた。素材面では、高温・高圧や超低温にも耐える極限材料の追求を研究開発陣へ指示した

  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
    • [80]1977年1月 リードフレームの生産を開始
  • 日経ビジネス 1982年8月9日号
    • [81]集積回路のリードフレーム、ボンディングワイヤ、ゲルマニウムなどの単結晶、発光ダイオード用のガリウムリン、時計の電池に使う過酸化銀を手掛けていた
    • [82]1981年の日本の生産額はおよそ2,300億円で、向こう5年間は年率20%を超える伸びを見込める市場だった
    • [83]戦前からの技術蓄積がある三菱金属とは違い1960年代半ばから始めたばかりであり、技術で道を開くしかないとして電子材料・原子力の技術者のスカウトを進めた
    • [84]素材については高温・高圧や超低温の下で使える極限性を追求するよう研究開発陣に指示した
掘らずに権益で鉱源を持ち直す

鉱山を持たない会社が権益によって鉱源を持ち直したのも、この時期である。1986年2月に米国アリゾナ州のモレンシー銅山の権益を取得し、1988年7月にはPTインターナショナルニッケルインドネシアの株式を取得した。売上構成の移り方はこの転換をそのまま映している。非鉄は縮みが避けられない業種で、新しい分野へ出ていけた企業だけが残るというのが1982年時点の会社の前提であり、その裏には銅の電線用途を光ファイバーが、亜鉛のダイカスト製品をアルミ合金が奪うという需要の変化の読みがあった。売上の構成は、1975年3月期に電気銅34%、フェロニッケル14%、電気金14%、電子機器材料4%だったのが、1985年3月期には金49%、銅13%、ニッケル10%、電子機器材料9%へ移っている

  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
    • [85]1986年2月 モレンシー銅山の権益取得
    • [86]1988年7月 PTインターナショナルニッケルインドネシアの株式取得
  • 日経ビジネス 1982年8月9日号
    • [87]藤崎章は非鉄はしょせん地盤沈下産業であり、新しい分野に展開できたところが生き残ると述べた
    • [88]銅は電線需要が大半で光通信になれば相当部分が光ファイバーに代わり、亜鉛のダイカスト製品はアルミ合金などに取って代わられるという見方を示した
  • 会社年鑑 1976年版 住友金属鉱山 品目別売上高
    • [89]1975年3月期の品目別売上構成は電気銅34%、フェロニッケル14%、電気金14%、電子機器材料4%
  • 会社年鑑(1986年版)住友金属鉱山 品目別売上高
    • [90]1985年3月期の品目別売上構成は金49%、銅13%、ニッケル10%、電子機器材料9%
参考文献[75]-[90]
  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
    • [75]1981年8月 菱刈鉱区で高品位金鉱脈を発見
    • [77]1985年2月 菱刈鉱山を開山(鹿児島県)
    • [80]1977年1月 リードフレームの生産を開始
    • [85]1986年2月 モレンシー銅山の権益取得
    • [86]1988年7月 PTインターナショナルニッケルインドネシアの株式取得
  • 日経ビジネス 1982年8月9日号
    • [76]菱刈鉱山の発見は金属鉱業事業団の探査によるもので、住友鉱山はそこに鉱区権を持っていただけという声もあり、藤崎章は幸運だったことを否定するつもりはないと述べた
    • [78]藤崎章は従来型の非鉄金属で唯一期待できるのが金だと述べた
    • [79]金山に頼れば別子・鴻之舞の二の舞になるとして、稼ぎは多角化へ注ぎ込む方針を示した
    • [81]集積回路のリードフレーム、ボンディングワイヤ、ゲルマニウムなどの単結晶、発光ダイオード用のガリウムリン、時計の電池に使う過酸化銀を手掛けていた
    • [82]1981年の日本の生産額はおよそ2,300億円で、向こう5年間は年率20%を超える伸びを見込める市場だった
    • [83]戦前からの技術蓄積がある三菱金属とは違い1960年代半ばから始めたばかりであり、技術で道を開くしかないとして電子材料・原子力の技術者のスカウトを進めた
    • [84]素材については高温・高圧や超低温の下で使える極限性を追求するよう研究開発陣に指示した
    • [87]藤崎章は非鉄はしょせん地盤沈下産業であり、新しい分野に展開できたところが生き残ると述べた
    • [88]銅は電線需要が大半で光通信になれば相当部分が光ファイバーに代わり、亜鉛のダイカスト製品はアルミ合金などに取って代わられるという見方を示した
  • 会社年鑑 1976年版 住友金属鉱山 品目別売上高
    • [89]1975年3月期の品目別売上構成は電気銅34%、フェロニッケル14%、電気金14%、電子機器材料4%
  • 会社年鑑(1986年版)住友金属鉱山 品目別売上高
    • [90]1985年3月期の品目別売上構成は金49%、銅13%、ニッケル10%、電子機器材料9%

第3章 1991-2010 (気が向いたら執筆します!) チリ・中国の銅プロジェクトとJCO臨界事故、HPALによるニッケル製錬

第4章 2011-2026 (気が向いたら執筆します!) シエラゴルダ銅鉱山の取得と損失、ケブラダブランカの開山と電池材料工場

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

歴史年表 1927〜2024年

住友金属鉱山の沿革1927〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1691〜1972年別子一山が住友の事業群を養った住友家直営だった銅山と四阪島製錬所の切り出しによる会社組織への移行

1927年7月、住友合資会社は直営してきた別子鉱山と四阪島製錬所などを分離し、資本金1,500万円の住友別子鉱山株式会社を設立した。1691年の稼行開始から数えて236年、住友家が直に抱えてきた鉱山事業が、初めて独立した鉱山会社の形を得た。

詳細を読む
★★★
住友別子鉱山と住友炭鉱を合併・住友鉱業を設立
電気ニッケルの生産を開始
社名を井華鉱業に商号変更
田中外次金属部門を分離・住友金属鉱山(別子鉱業)を設立
田中外次東京証券取引所市場第一部に上場
田中外次住友金属鉱山に商号変更
田中外次子会社日向製錬所を設立
河上健次郎国内鉱山の閉山を本格化
河上健次郎中央研究所を施設
河上健次郎青梅工場を新設(電子金属事業)
河上健次郎新居浜ニッケル新工場を新設
河上健次郎東予製錬所を新設
1973〜1990年山を捨て、買鉱と金と材料へ移る藤崎章別子鉱山を閉山★★
藤崎章リードフレーム生産を開始★★
藤崎章菱刈鉱区で高品位金鉱脈を発見
藤森正路菱刈鉱山を開山(鹿児島県)★★
藤森正路モレンシー銅山の権益取得
篠崎昭彦PTインターナショナルニッケルインドネシアの株式取得
1991〜2010年チリ・中国の銅プロジェクトとJCO臨界事故、HPALによるニッケル製錬篠崎昭彦チリ・カンデラリア銅鉱床の開発PJに参加★★
青柳守城中国・金隆銅業有限公司に資本参加
青柳守城海外資源事業統括会社SMM Americaを設立
青柳守城JOC東海事業所で臨界事故が発生
福島孝一国内事業の整理統合を本格化
福島孝一三井金属と亜鉛製錬で合弁会社を設立
福島孝一フィリピン・コーラルベイHPAL生産開始★★
福島孝一ポコ金山の生産開始
家守伸正フィリピンNickel Asia Corporationに資本参加
2011〜2026年シエラゴルダ銅鉱山の取得と損失、ケブラダブランカの開山と電池材料工場家守伸正チリでの権益取得から、二度の減損を経た全持分の売却までの撤退

住友金属鉱山は2011年5月、住友商事と共同で、カナダのクアドラFNXマイニングがチリに保有するシエラゴルダ銅鉱山開発プロジェクトへ参画した。開発資金拠出分を含め約7億2,400万米ドルを出資し、権益の45%を取得している。生産開始後に二度の減損を計上し、2021年10月に全持分の豪サウス32への譲渡を決め、2022年2月に実行した。

詳細を読む
★★★
中里佳明フィリピン・タガニートHPAL生産開始★★
中里佳明チリ・シエラゴルダ銅鉱山の生産を開始★★
中里佳明シエラゴルダ銅鉱山で損失計上★★
中里佳明モレンシー銅山の権益を追加取得
野崎明2021年中期経営計画を策定
野崎明チリ・ケブラダブランカ銅鉱山の開山
松本伸弘コテ金鉱山で商業生産を開始
松本伸弘電池材料事業本部新居浜工場が竣工
出典・参考 12件
出典・参考
  • 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
  • 住友金属鉱山二十年史(住友金属鉱山, 1970)二章 別子鉱業の誕生
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)2篇 日本会社史「住友金属鉱山」
  • 株式会社年鑑 1955年版「住友金属鉱山」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 会社年鑑 1976年版 住友金属鉱山 品目別売上高
  • 会社年鑑(1986年版)住友金属鉱山 品目別売上高
  • 日本産業史(日経文庫)第3巻 鉄鋼・金属「非鉄金属鉱業-高度成長に乗り頂点を極める」
  • 日経ビジネス 1975年6月9日号
  • 日経ビジネス 1982年8月9日号
  • 私の住友昭和史(1988)9章「海外資源の確保と多角化」住友金属鉱山会長 藤崎章談
  • 私の住友昭和史(1988)6章 財閥解体後の住友

免責事項およびポリシー