1691年〜 住友の原点事業と近代化、戦後分離までの道程
- 1927年住友別子鉱山株式会社を設立
- 1937年住友別子鉱山と住友炭鉱を合併・住友鉱業を設立
- 1939年電気ニッケルの生産を開始
- 1946年社名を井華鉱業に改称
- 1950年東京証券取引所市場第一部に上場
- 1950年金属部門を分離・住友金属鉱山(別子鉱業)を設立
- 1952年社名を別子鉱業から住友金属鉱山に改称
住友金属鉱山の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
別子採掘が住友財閥の資本循環を生む源泉
住友家の鉱業は十六世紀の終りに京都で銅製錬業を始めたことに源を持ち、銀と銅を吹き分ける「南蛮吹き」の技術を早くから習得して日本の鉱業界に特異な地位を占めた。鉱山の開発と経営に経験を重ねた住友家は元禄三年(1690年)に別子銅山を発見し、ただちに幕府の許可を得て別子開坑に着手、1691年に愛媛県で採掘を正式に開始した。以後およそ200年以上にわたって住友家の中核事業となり、別子銅山は幕府や諸大名を相手とする金融業と並んで住友家の事業の中心となった。別子銅山から得られる銅は、鉱山機械を担う住友機械工業、化学肥料の住友化学、銅加工の住友電工、植林を担う住友林業、金融の住友銀行など多岐にわたる住友系事業群の資本供給源として重要な役割を果たし、住友財閥という複合企業体の形成と維持を基礎から支えた。江戸期から続く鉱山経営のノウハウは、住友家の経営哲学の原点として受け継がれた。 [1][2][3][4][5]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]住友家の鉱業は十六世紀の終りに京都で銅製錬業を開始したのに始まる
- [2]住友家は銀と銅を吹き分ける「南蛮吹き」の技術を習得していた
- [3]元禄三年(1690年)に別子銅山を発見し、幕府の許可を得て別子開坑に着手
- [5]別子銅山は幕府や諸大名を相手とする金融業と並んで住友家の事業の中心となった
- 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [4]1691年 別子銅山の稼行開始(住友家直営)
別子銅山は維新の際に土佐藩によって一時接収される危機に見舞われたが、これを切り抜けて明治を迎えた。旧式技術による操業のため高品位鉱は次第に少なくなり生産量が伸び悩むなか、広瀬宰平氏以下当時の経営者は積極的に西洋新技術を採用して別子銅山の更新を図った。1873年にはフランス人技師コワニー氏が別子銅山を視察し、続いてルイ・ラロック氏が「別子銅山目論見書」をつくりあげ、1876年には湿式収銅法による沈澱銅を生産するに至った。さらに火薬やさく岩機、鉱山専用鉄道や複式空架索道、大斜坑、水力発電設備や銅電解工場、浮遊選鉱場の建設が相次ぎ、生産量は飛躍的に増加して今日の大をなす基礎が築かれた。明治政府の殖産興業政策と歩調を合わせて鉱山の機械化と規模拡大が進み、住友家の財閥形成の経済的な基盤を強化した。明治末から大正期にかけての別子銅山は、日本最大級の銅産出量を記録する生産拠点として業界内で存在感を示した。 [6][7][8][9]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [6]別子銅山は維新の際に土佐藩によって一時接収される危機があったが切り抜けて明治を迎えた
- [7]広瀬宰平以下の経営者が西洋新技術を採用して別子銅山の更新を図った
- [8]1873年 フランス人技師コワニーが別子銅山を視察し、ルイ・ラロックが「別子銅山目論見書」を作成
- [9]1876年 湿式収銅法による沈澱銅を生産するに至った
経営の形態も整えられ、当初は「住友総本店」と称する個人企業であったものが1921年に設立された住友合資会社の手に移り、1927年7月には住友本社が236年にわたる長年の直営体制を、住友別子鉱山株式会社を正式に設立することで鉱山事業の法人経営化を実現する。住友家の事業の中で最も長い歴史を持つ原点事業の法人化であった。別子の操業で長く最大の難問であった煙害は、1905年の製錬所の四阪島移転でも解決とならず、支出した賠償金は1939年までに当時の価格で50億円を上回る巨額に達したが、同年に排煙中の亜硫酸ガスを皆無とする中和工場を完成させて抜本的な解決をみた。1937年には住友炭鉱と合併して住友鉱業へと改組され、戦後の財閥解体の過程では1946年に井華鉱業へ改称したうえで、翌1947年の住友本社解体に際して鴻之舞金山を中心とする一連の金属鉱山と国富製錬所を一括買収し、1950年には金属部門を分離する形で別子鉱業が正式に発足して、非鉄金属の独立企業としての歩みを開始した。さらに1952年には別子鉱業から住友金属鉱山へ改称し、住友グループ系列の非鉄金属企業としての位置づけを社名でも明確にした。 [10][11][12][13][14][15][16][17]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [10]当初は「住友総本店」と称する個人企業で、1921年に設立された住友合資会社に移った
- [12]1905年 煙害対策で製錬所を四阪島へ移転したが解決とならず、賠償金は1939年までに当時の価格で50億円を上回った
- [13]1939年 排煙中の亜硫酸ガスを皆無とする中和工場を完成し煙害を抜本解決
- [15]1947年の住友本社解体に際して鴻之舞金山を中心とする金属鉱山と国富製錬所を一括買収
- 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [11]1927年7月 住友本社が別子鉱山等を分離し住友別子鉱山㈱を設立(236年の直営を法人化)
- [14]1937年6月 住友別子鉱山と住友炭鉱を合併し住友鉱業㈱を設立
- [16]財閥解体の過程で1946年に井華鉱業へ改称・1950年3月に金属部門を分離して別子鉱業を設立・1952年6月に住友金属鉱山へ改称(1950年時点の社名は別子鉱業)
- [17]1952年6月 別子鉱業から住友金属鉱山へ改称(住友グループ系列の非鉄金属企業としての位置づけを明確化)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]住友家の鉱業は十六世紀の終りに京都で銅製錬業を開始したのに始まる
- [2]住友家は銀と銅を吹き分ける「南蛮吹き」の技術を習得していた
- [3]元禄三年(1690年)に別子銅山を発見し、幕府の許可を得て別子開坑に着手
- [5]別子銅山は幕府や諸大名を相手とする金融業と並んで住友家の事業の中心となった
- [6]別子銅山は維新の際に土佐藩によって一時接収される危機があったが切り抜けて明治を迎えた
- [7]広瀬宰平以下の経営者が西洋新技術を採用して別子銅山の更新を図った
- [8]1873年 フランス人技師コワニーが別子銅山を視察し、ルイ・ラロックが「別子銅山目論見書」を作成
- [9]1876年 湿式収銅法による沈澱銅を生産するに至った
- [10]当初は「住友総本店」と称する個人企業で、1921年に設立された住友合資会社に移った
- [12]1905年 煙害対策で製錬所を四阪島へ移転したが解決とならず、賠償金は1939年までに当時の価格で50億円を上回った
- [13]1939年 排煙中の亜硫酸ガスを皆無とする中和工場を完成し煙害を抜本解決
- [15]1947年の住友本社解体に際して鴻之舞金山を中心とする金属鉱山と国富製錬所を一括買収
- 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [4]1691年 別子銅山の稼行開始(住友家直営)
- [11]1927年7月 住友本社が別子鉱山等を分離し住友別子鉱山㈱を設立(236年の直営を法人化)
- [14]1937年6月 住友別子鉱山と住友炭鉱を合併し住友鉱業㈱を設立
- [16]財閥解体の過程で1946年に井華鉱業へ改称・1950年3月に金属部門を分離して別子鉱業を設立・1952年6月に住友金属鉱山へ改称(1950年時点の社名は別子鉱業)
- [17]1952年6月 別子鉱業から住友金属鉱山へ改称(住友グループ系列の非鉄金属企業としての位置づけを明確化)
製錬拠点整備と別子閉山へ至る構造転換
1950年代以降の住友金属鉱山は国内事業の近代化を積極的に推進していく方針を打ち出し、1956年には子会社の日向製錬所を設立してニッケル製錬の生産拠点を整備する動きを加速させた。1965年には中央研究所を正式に設置して技術開発体制を強化し、1967年には青梅工場を新設することによって電子金属事業への本格的な参入を果たす形で事業の幅を広げた。1970年には新居浜ニッケル新工場、1971年には東予製錬所を相次いで新設し、製錬技術の高度化と生産能力の拡大を並行して進める経営戦略が打ち出される局面が展開された。 [18][19][20][21]
- 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [18]1956年9月 子会社 日向製錬所を設立しフェロニッケル生産開始
- [19]1965年8月 市川市に中央研究所(現 市川研究センター)を建設
- [20]1967年9月 電子金属事業部の青梅工場(東京都青梅市・現 青梅事業所)完成
- [21]1970年6月 新居浜ニッケル新工場完成・1971年2月 東予製錬所(現 東予工場)完成
一方で1962年以降は国内鉱山の閉山を進める方針への転換が進められ、鉱脈の品位低下と円高進行という厳しい外部環境の変化に対応する経営判断が相次いで下されることとなった。これらの構造変化に対応する中で、住友金属鉱山は採掘事業から製錬・加工事業への移行を進めていく方向性を経営戦略の中心に据えるようになった。国内採掘拠点の縮小と製錬・加工への集中という事業モデルの転換は、資源企業から素材企業への自己定義の更新を伴う根本的な経営改革にあたる歴史的な移行期を形成する重要な局面となった。 [22]
- 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [22]1962年以降 国内鉱山の閉山を本格化
1973年3月には住友家の原点事業である別子銅山がついに閉山を迎え、元禄期から282年にわたって連続的に続けられてきた別子銅山の長い歴史に正式な区切りがつけられる歴史的な節目を経験した。閉山後の住友金属鉱山は採掘から製錬・加工へと事業の重心を移し、海外からの原料調達と国内製錬所での付加価値創出を主要な柱とする新たな事業構造へと作り替えた。住友家の経営哲学の原点事業の終焉という重い歴史的経験が、以後の海外資源開発と先端材料分野への展開を後押しする内部的な原動力となり、住友金属鉱山の経営文化に刻まれた。 [23]
- 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [23]1973年3月 別子銅山を閉山(元禄期から282年)
- 住友金属鉱山 有価証券報告書 第100期(2025年3月期)【沿革】
- [18]1956年9月 子会社 日向製錬所を設立しフェロニッケル生産開始
- [19]1965年8月 市川市に中央研究所(現 市川研究センター)を建設
- [20]1967年9月 電子金属事業部の青梅工場(東京都青梅市・現 青梅事業所)完成
- [21]1970年6月 新居浜ニッケル新工場完成・1971年2月 東予製錬所(現 東予工場)完成
- [22]1962年以降 国内鉱山の閉山を本格化
- [23]1973年3月 別子銅山を閉山(元禄期から282年)