1873年〜 三菱財閥の資源会社から鉱山閉鎖までの長い道程
- 1873年三菱商会が吉岡鉱山を買収
- 1893年三菱合資会社を設立
- 1917年直島製錬所を設置
- 1918年三菱鉱業株式会社を設立
- 1950年石炭・非鉄金属を会社分離
- 1963年小名浜製錬を設立
- 1968年尾去沢鉱山で品位低下・生産規模を縮小
三菱マテリアルの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
吉岡取得から三菱鉱業設立へ至る形成の連鎖
三菱商会は1873年に岡山県の吉岡鉱山を買収して鉱山経営に正式に参入し、以後は1887年に尾去沢、1896年に生野・明延の各鉱山を取得して国内有数の非鉄金属鉱山網を傘下に収めた。石炭事業でも大夕張・高島・端島といった炭鉱を保有する形で事業の幅を広げ、1918年には鉱業部門を分離独立させて三菱鉱業を設立した。三菱財閥の中核事業の一つとして三菱鉱業は戦前期の日本の鉱業界で存在感を長らく保ち続け、戦時中の資源統制の時期においても国家の資源供給を担う重要な役割を果たした。第二次世界大戦が進むと、三菱鉱業は国家の要請と重工業の需要に応えるため金属加工部門を新設し、1942年2月に東京金属工業(現・大井工場)、1944年1月に新潟金属工業所(現・新潟工場)、1945年4月に非鉄金属工業所(現・桶川工場)を相次いで設置した。これらの加工拠点が、後の三菱金属鉱業の事業基盤を形づくる出発点となった。 戦後の財閥解体の過程を経て、三菱鉱業は1948年2月に過度経済力集中排除法の指定を受け、1950年には石炭事業が三菱鉱山に、非鉄金属事業が太平鉱業として分離独立する組織再編が実施された。非鉄金属事業を引き継いだ第二会社は鉱山・製錬・金属加工の三部門に属する資産と事業の一切を承継し、資本金7億円をもって分離独立したのち、1952年12月に三菱金属鉱業へと商号を改めた。三菱金属鉱業はのちに三菱金属へとさらに商号を変更し、戦前から継承された技術蓄積と鉱山経営のノウハウを基礎として独立企業としての歩みを開始となった。三菱金属は尾去沢・細倉・生野・明延の四鉱業所を主力として事業を組み立てたが、いずれも従業員数千人を超える事業所であり、地域雇用と密接に結びついた企業城下町型の事業モデルを抱えていた点が後年の縮小局面の難しさを規定する要素となった。 [1][2][3][4][5]
- 三菱マテリアル 有価証券報告書 第99期(2024年3月期)【沿革】
- [1]1873年に吉岡鉱山を買収したのは三菱商会。三菱合資会社の設立は1893年で、1873年時点では三菱合資会社は未成立のため本文の買収主体を三菱商会に訂正した
- [2]1873年 吉岡鉱山を買収し金属鉱山経営に着手
- [3]1918年4月 鉱業部門を分離独立し三菱鉱業を設立
- [4]1950年4月 財閥解体で石炭事業が三菱鉱山に、非鉄金属事業が太平鉱業として分離独立
- [5]太平鉱業はのちに三菱金属へ商号変更(1973年12月/中間に三菱金属鉱業を経る)
独立後の三菱金属鉱業は、鉱山・製錬・加工の三部門を経営の三本柱に据えて拠点整備を重ね、1953年12月に秋田製錬所を設置し、1954年10月には妙法鉱山を買収して非鉄金属の一貫供給体制を厚くした。1962年1月には米レイノルズ社との提携で三菱レイノルズ・アルミニウムを設立し、1963年12月には小名浜製錬を設立してアルミと銅製錬の両面で素材事業を広げた。あわせて1960年代には非鉄金属事業の枠を超えた多角化の動きが本格化し、独ワルター社との提携によって三菱ワルター工具を設立するなど超硬工具分野への進出が進められた。鉱山以外の事業基盤の構築にも着手することで収益源の分散を志向したが、当時はあくまで鉱山経営が会社の中心であり、超硬工具事業はまだ規模が限定的な補完事業に留まっていた。1968年3月期には赤字の鉱山部門を縮小して桶川工場も赤字から脱却し、売上高478億8,000万円・税引利益8億3,000万円を計上して1割配当を継続するなど、鉱山・製錬・加工の三部門が総合金属メーカーとしての収益を下支えした。もっとも超硬工具分野への先行投資は、後年に本業の鉱山事業が縮小していく中で代替的な収益の柱に育ち、結果的に戦略的な先見性を持った判断として評価される展開を辿ることとなった。 [6][7][8]
- 三菱マテリアル 有価証券報告書 第99期(2024年3月期)【沿革】
- [6]1962年 独ワルター社との提携により三菱ワルター工具を設立し超硬工具分野へ進出
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [7]1962年1月 三菱レイノルズ・アルミニウムを設立、1963年12月 小名浜製錬を設立
- [8]1968年3月期に赤字の鉱山部門を縮小し桶川工場も赤字から脱却、売上高478億8,000万円・税引利益8億3,000万円を計上し1割配当を継続(『企業の歴史:明治百年』の記述。財務CSVに該当期の値なしで未照合)
- 三菱マテリアル 有価証券報告書 第99期(2024年3月期)【沿革】
- [1]1873年に吉岡鉱山を買収したのは三菱商会。三菱合資会社の設立は1893年で、1873年時点では三菱合資会社は未成立のため本文の買収主体を三菱商会に訂正した
- [2]1873年 吉岡鉱山を買収し金属鉱山経営に着手
- [3]1918年4月 鉱業部門を分離独立し三菱鉱業を設立
- [4]1950年4月 財閥解体で石炭事業が三菱鉱山に、非鉄金属事業が太平鉱業として分離独立
- [5]太平鉱業はのちに三菱金属へ商号変更(1973年12月/中間に三菱金属鉱業を経る)
- [6]1962年 独ワルター社との提携により三菱ワルター工具を設立し超硬工具分野へ進出
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [7]1962年1月 三菱レイノルズ・アルミニウムを設立、1963年12月 小名浜製錬を設立
- [8]1968年3月期に赤字の鉱山部門を縮小し桶川工場も赤字から脱却、売上高478億8,000万円・税引利益8億3,000万円を計上し1割配当を継続(『企業の歴史:明治百年』の記述。財務CSVに該当期の値なしで未照合)
15年閉鎖が鉱業再合同の条件を生む帰結
1971年のニクソンショックによる円高と1970年前後からの鉱脈品位低下が重なったことで、三菱金属は1972年から国内鉱山の段階的な閉鎖に着手した。下川・古遠部・松木・細倉・明延の五鉱山をまず子会社として分離し、1973年には生野鉱山を、1978年には尾去沢鉱山を順次閉山するといった具合に、国内非鉄金属鉱山の縮小を15年にわたって続けた。1985年のプラザ合意で円高が進行すると、1986年から1987年にかけて残る四鉱山も相次いで閉山に追い込まれ、15年という長い時間をかけた段階的閉鎖の過程がほぼ完了するかたちとなった。 [9]
- 三菱マテリアル 有価証券報告書 第99期(2024年3月期)【沿革】
- [9]1972年から国内鉱山の段階的閉鎖(経営分離)に着手
鉱山閉鎖の過程では単に生産拠点を閉じるだけでなく、跡地に加工工場を新設するなど地域の雇用維持への配慮が払われた点が三菱金属の経営方針の特徴として記憶されている。地方部に長年根付いていた企業城下町を一挙に崩壊させない形での緩やかな事業転換を志向する経営判断は、後の合併後の経営統合の円滑化にも資する組織文化として内部に受け継がれた。鉱山閉鎖の経験は社内に蓄積され、不採算事業を長期の時間軸で整理するという三菱マテリアル独特の経営スタイルの基礎を形成する契機となった。
国内鉱山の閉鎖がほぼ完了したことによって、戦後の財閥解体以来分離されていた三菱金属と三菱鉱業セメントの合併条件がついに整うこととなった。藤村正哉社長は合併について、歴代の経営者もいずれ一緒になりたいと考えていたものの合併の条件が整っていなかったと述べ、鉱山と炭鉱の整理完了こそが40年越しの再合同の前提を成り立たせたことを示唆した。鉱業の縮小局面がそのまま再統合の前提条件となるという逆説的な構造が、1990年2月の三菱マテリアル発足という戦後素材産業史における重要な節目を生む決定的な背景となった。 [10][11]
- 三菱マテリアル 有価証券報告書 第2期(1992年3月期)【沿革】
- [10]藤村正哉は三菱鉱業セメント社長として1990年の合併に臨み、合併後の三菱マテリアル社長。歴代経営者も合併を望んだが条件が整っていなかった旨を述べた
- [11]1990年2月 三菱金属と三菱鉱業セメントの合併で三菱マテリアルが発足
- 三菱マテリアル 有価証券報告書 第99期(2024年3月期)【沿革】
- [9]1972年から国内鉱山の段階的閉鎖(経営分離)に着手
- 三菱マテリアル 有価証券報告書 第2期(1992年3月期)【沿革】
- [10]藤村正哉は三菱鉱業セメント社長として1990年の合併に臨み、合併後の三菱マテリアル社長。歴代経営者も合併を望んだが条件が整っていなかった旨を述べた
- [11]1990年2月 三菱金属と三菱鉱業セメントの合併で三菱マテリアルが発足