明治時代から大正時代にかけて、神戸に拠点を置く有力貿易商であった鈴木商店は「製鋼事業」への参入を決定。明治28年に小林製鋼所(神戸市脇浜に拠点)を買収して「神戸製鋼所」として運営を開始した。
鈴木商店に買収される前において、小林製鋼所は製鋼事業の展開を予定していたが、明治38年の「出鋼式」において、炉から製品の取り出しに失敗。設備が停止し、その後も生産改善に失敗し続けたため、稼働から1ヶ月で破綻した。
鈴木商店は小林製鋼所に対して、設備輸入などに55万円の融資を行っており、債権者の観点から企業再生のために小林製鋼所を取得するに至った。
このため、鈴木商店による小林製鋼所の取得後も、平炉の稼働が安定しない問題が続いた、この結果、製鋼所の運営開始から赤字が続き、銀行からの要請により工場閉鎖も検討されたという。それでも、鈴木商店の創業者である金子氏は「製鋼業は国家的事業でもあり、企業初期の苦痛はなんとしても耐えねばならない」(商工経済10(5))と考えて、欠損を出しつつも事業を継続した。
転機は明治42年に呉工廠から「揚弾機製品」を受注したことであった。軍需によって業績が安定し、明治44年(1911年)に鈴木商店から製鋼事業を分離することで、株式会社神戸製鋼所を設立した。
大正時代を通じて、神戸製鋼所は製鋼メーカーとして主に軍需に従事。1906年には鋳鍛鋼の生産、1913年には1200tプレス機の輸入、1916年には鋼材(鉄鋼圧延製品)の製造を開始。製品面では、これらの加工技術をいかして、船舶用クランクシャフト・魚雷用空気圧縮機(呉工廠と協力して開発)・潜水艦用ディーゼルエンジンなどの製造に従事した。
このため、神戸製鋼所はコモディティーである製鋼(部品)のみならず、付加価値の高い機械領域(完成品)にも参入し、製鋼から機械まで手掛ける総合メーカーを志向した。
1950年代を通じて神戸製鋼は「平炉メーカー」であり、原料となる銑鉄の供給は冨士製鐵(のちの新日本製鐵)などから依存していた。一方で、同じく平炉メーカーである川崎製鉄と住友金属工業は、銑鉄を内製化するために高炉の新設による「銑鋼一貫体制」を目指した。
そこで、神戸製鋼所も平炉から高炉による銑鋼一貫の生産体制を志向した。仮に銑鉄供給を内製化した場合、製鋼における原料・輸送費のコストダウンに加えて、銑鉄生産時に生じる熱・ガスを利用した自家発電にも活用でき、結果として製鋼のコストが抑制できることが期待できた。高炉建設前の計画段階において、神戸製鋼所は高炉稼働による「年間16億円の増益効果」「年間6億円の純利益増加」を試算した。
これらの計画を踏まえ、銑鉄の内製化による「銑鋼一貫体制」を確立するために、高炉の新設を計画した。ただし、高炉の新設にあたっては、工場の新設に加えて、高炉の建設費用、高炉の稼働費用(1高炉あたり400名が従事)など、数百億円の投資が必要であった。これに対して神戸製鋼の年間税引前利益は約10億円であった。
神戸製鋼は高炉の新設のために、灘浜工場(神戸製鉄所)の新設を決定。神戸市における「神戸港東部臨海工業地帯造成計画」によって埋め立てられた土地を取得し、埋め立て用地に高炉を含めた製鋼所の新設を決定した。
1959年1月に神戸製鋼は灘浜工場(神戸製鋼所)における第1高炉を稼働し、銑鋼一貫体制を確立した。神戸製鋼所においては、1962年に第2号高炉、1966年に第3号高炉をそれぞれ新設し、3つの高炉が稼働する大規模な製鉄所として運営した。
神戸製鋼が3号高炉の稼働までに投資した累計額は750億円に及んだ。
神戸製鉄所の新設による巨額投資に備えるため、神戸製鋼所は借入および増資による調達を実施した。
借入の面では、1959年8月に世界銀行から1000万ドル(36億円)の借款契約に調印したのを皮切りに調達を本格化。1963年3月期末時点で、長期借入金369億円・短期借入金149億円・社債127億円となり、有利子負債合計645億円に対する総資産は1629億円であり、有利子負債比率は約40%に及んだ。
なお、1963年3月末時点における最大の債権者は米国のプルデンシャル生命保険であり、108億円の長期借入金の残高が存在した。これは、1961年6月に神戸製鋼所がプルデンシャル保険と3000万ドルの借款契約に調印したことが理由であり、外資系保険会社の資金が灘浜工場の設備投資にも投入されたことを意味する。
借入による過小資本を防ぐために、増資による資本調達も併せて実施。1959年10月に資本金を120億円に増資、1960年には同200億円に増資、1961年8月には同320億円に増資し、自己資本比率の悪化を抑制した。
当社を取り巻く戦後の鉄鋼業界は、敗戦による混乱から立ち直るにしたがって、銑鋼一貫体制を有する八幡製鐵、富士製鐵、日本鋼管の先発3社と、他社との差が顕著になってきた。特に昭和20年代の後半から鉄鋼需要の拡大に伴い設備拡張の機運があり、盛り上がる中であって、常に銑鉄、鉄屑の安定確保に悩む平炉メーカーは、高炉建設への欲求を一層強めていった。
当時の神戸製鋼の置かれていた立場は、「座して先発の系列下に入るか、航路を建設してみずから一貫メーカーとなるか」の文字通り帰路に立たされてたのである。
こうした状況の中で、大手平炉メーカーである川崎製鉄、住友金属光お行が相次いで一貫メーーカーへの道を歩み、当社も、銑鉄の確保を目指して、昭和24年尼崎製鉄の経営に参加したが、さらに進んで、灘浜(神戸市灘区)の埋立地に巨額の資金を要する一貫製鉄所の建設に乗り出した。
灘浜工場(神戸製鉄所)に次ぐ銑鉄一貫の大規模工場として、兵庫県加古川に製鉄所の新設を決定。1966年から1975年までの10年間に累計3400億円の投資を実施した。1970年8月に加古川製鉄所の第1高炉を稼働させ、神戸製鋼所は「神戸製鉄所・加古川製鉄所」の2拠点で銑鋼一貫体制を確立した。
1977年に高橋孝吉氏が代表取締役社長に就任。オイルショック後の鉄鋼需要の低迷を受けて「複合経営」を提唱し、鉄鋼以外の事業展開を志向した。多角化という言葉は用いずに、既存事業との相乗効果を意識した事業展開を志向した。
私は、昭和52年に社長に就任した時から、「複合経営」を社の内外で提唱してきた。今では、この言葉もありふれたものになったが、当時は「なぜ多角経営ではなくて、複合経営なのか」と奇異に思う人も少なくなかった。私は、別に言葉の遊びをしたわけではない。従来の「多角経営」では、事業が「多角になるだけ」だから、これからの時代にはふさわしくないと考えたのだ。私としては、様々の事業部門が横に有機的に結びつき、相乗効果を上げる経営のあり方を構想し、あえて「複合」としたわけである。
いうまでもなく、高度成長が終焉して以来、鉄鋼にしろ、機械にしろ、すべての産業が構造変化の波に現れている。互いに垣根を越えて協力しあい、新展開を図らなければ、沈没する。かつてのように各事業部門が、独立採算をとり、まるで別会社のように勝手にやっているだけでは危うい。