日本特殊陶業 の歴史

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創業 1936年
母体 日本碍子
創業地 愛知県名古屋市
創業 1936年10月、日本碍子が1921年から蓄えたセラミック焼結技術のうち、点火プ
1936年10月、日本碍子が1921年から蓄えたセラミック焼結技術のうち、点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を継承して独立し、愛知県名古屋市で資本金100万円の日本特殊陶業が発足した。初代社長には日本碍子の江副孫右衛門氏が就任している。1937年4月には自社ブランドNGKを冠した点火プラグの製造を開始したが、戦時下は航空機用へ傾き、1943年6月に濾過器と耐酸モルタルの部門を日本碍子へ返還した。1949年5月には東京・名古屋両証券取引所へ上場する。終戦の1945年11月に従業員2,000名を解雇しており、輸入品の国産化という設立目的は、需要が消えた地点から立て直された。
決断 国際規格の消耗部品であることを、そのまま海外展開の条件に変えてきた。1956年1
国際規格の消耗部品であることを、そのまま海外展開の条件に変えてきた。1956年1月の渡米視察を境に工数低減による量産へ転換し、1966年には点火プラグの国内生産量シェア70%を確保する。1959年8月にはブラジルに全額出資の製造販売会社を設立し、輸出ではなく現地生産で欧米系メーカーの需要を取り込んだ。1967年10月には絶縁体で培ったアルミナ焼成とメタライズ封着を転用してセラミックICパッケージの製造を開始した。ただし1997年、最大顧客のインテルがパッケージ素材を樹脂へ切り替え、約50%あったシェアの発注は半減し、2009年3月期には最終赤字に転じた。規格品の消耗部品で得た利益を非自動車の焼成技術へ振り向けたことが、内燃機関の外に事業を持つ現在の構成を作った。
現況 現在の利益は、内燃機関に取り付く2つの部品がほぼ全てを生んでいる。2026年3月
現在の利益は、内燃機関に取り付く2つの部品がほぼ全てを生んでいる。2026年3月期の売上高7,312億円のうち自動車関連が5,875億円でセグメント利益1,353億円、これに対しコンポーネント・ソリューションは売上1,299億円で46億円の損失である。自動車関連の中身は点火プラグと酸素センサなどの排気系部品で、電動化が進むほど装着先そのものが減る。地域別では日本1,599億円に対し米国1,723億円・ドイツ1,340億円と、海外が8割弱を占める。2023年4月に英文商号をNiterraへ改め、2025年6月には東芝マテリアルを完全子会社化した。点火プラグで得た利益を材料と半導体向けへ移し替えたことが、内燃機関の縮小と会社の縮小を切り離す条件になっている。
競合 競争の焦点は新車装着ではなく、買い替えが続く補修用の需要にある。点火プラグの国内
競争の焦点は新車装着ではなく、買い替えが続く補修用の需要にある。点火プラグの国内競合は日本電装(現デンソー)と日立で、1966年には国内生産量の70%を占めて差を広げた。完成車メーカーの系列に属さないため新車装着では価格の主導権を持てない一方、補修用は買い手が分散して価格決定力が残り、ここが利益率を支えてきた。海外では独ボッシュや米チャンピオンと同じ規格品で競う。半導体パッケージでは事情が異なり、1997年にインテルが樹脂へ切り替えたことで約50%あったシェアを失った。買い替えの続く部品では価格を自ら決められ、世代交代のある部品では顧客の設計変更ひとつで採用が消える。この違いが、点火プラグを残しながらパッケージ事業を縮ませた。
長期業績の推移 1949〜2026年
日本特殊陶業:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

第1章 1936年〜 日本碍子からの分離独立と戦後復興への苦闘

筆者考察y.sugiura, author

日本特殊陶業の最初の20年は、需要の出どころが三度入れ替わった期間だった。日本碍子の一部門として始まった点火栓は、独立した翌年の日華事変で軍用自動車の部品となり、太平洋戦争では航空機の消耗品になった。軍部は月産40万個、50万個を求めたが、創業時の生産能力は月産2万5,000個である。良品主義を掲げた技術者の江副孫右衛門が、この陣容では呑めないと軍の監督官へ告げたのは、会社の設計上の限界をそのまま言ったにすぎない。だが戦時に正直は通らず、江副は社長の座を降りた。1944年に資本金が親会社の日本碍子を追い越したとき、日本特殊陶業は森村系でただ一社、本業のまま繁忙を極めていた。そしてその本業は、翌年に消えた。

戦後に残ったのは、点火プラグしか作れない体と、資本金の63%にあたる戦時補償の損失だった。1946年の再開時、国内のプラグメーカーは8社あり、復興計画案に照らせば明らかに作り手が多すぎた。それでも月産能力20万個という規模は次位の倍近くあり、朝鮮向け60万個の大口注文を引き受けられたのはこの規模があったからである。1949年のドッジ不況では従業員の43%を手放し、翌年の朝鮮動乱では半年で売上高が1.6倍になった。同じ会社が1年のうちに人を切り、史上最高の40%配当を出している。この上下の落差に耐えられたのは、プラグ一品へ資源を集めていたためで、縮むときも伸びるときも動きが速かった。

資本金の推移 1936年10月〜1951年12月(万円)

100 36年10月 200 38年11月 400 42年3月 800 44年9月 2,500 48年5月 5,000 51年12月
  • 出所は産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(1966年)と日本特殊陶業株式会社五十年史(1987年)。

1936年〜日本碍子から派生した創業と戦時下の増産要求

日本特殊陶業は、森村系の企業から枝分かれして生まれた会社である。元会社は米国向けの洋食器を国産した日本陶器で、そこから碍子部門と衛生陶器部門が分かれ、日本碍子と東洋陶器が設立された。点火栓の研究は1921年に日本碍子で着手され、1930年には「NG点火栓」のブランドで発売にこぎ着ける。当時の生産は月産1,000個程度だった。1934年に日本フォードの新車用として採用された際、購買主任からNGはノーグッドに通じるので改称してはどうかと示唆され、ブランドを「NGK」へ改めた世界へ広がる商標は、この呼び替えから始まっている。

  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [1]当社は旧森村系の会社で日本陶器が元会社。そのうち碍子部門、衛生陶器部門を分離して日本碍子、東洋陶器(現東陶機器)が設立された。昭和5年(1930年)に「NG点火栓」のブランドで発売、当時は月産1,000個程度。昭和9年(1934年)に日本フォードで新車用に採用された際、「NG」がノーグッドの意味にとられやすいという意見があって「NGK」に改めた
    • [3]当社は旧森村系の会社で日本陶器が元会社。そのうち碍子部門、衛生陶器部門を分離して日本碍子、東洋陶器(現東陶機器)が設立された。昭和5年(1930年)に「NG点火栓」のブランドで発売、当時は月産1,000個程度。昭和9年(1934年)に日本フォードで新車用に採用された際、「NG」がノーグッドの意味にとられやすいという意見があって「NGK」に改めた
    • [4]当社は旧森村系の会社で日本陶器が元会社。そのうち碍子部門、衛生陶器部門を分離して日本碍子、東洋陶器(現東陶機器)が設立された。昭和5年(1930年)に「NG点火栓」のブランドで発売、当時は月産1,000個程度。昭和9年(1934年)に日本フォードで新車用に採用された際、「NG」がノーグッドの意味にとられやすいという意見があって「NGK」に改めた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]大正10年(1921年)に姉妹会社の日本碍子でスパークプラグの研究に着手(設立に先立つ前史)
  • 産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(ダイヤモンド社、1966年)
    • [5]日本フォード社の購買主任から「NG点火プラグはNo Goodに通ずるから、改称してはどうか」と示唆された。これが昭和9年のこと

1936年10月、日本碍子から点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を継承し、資本金100万円で日本特殊陶業株式会社が設立された。創業地は愛知県名古屋市で、初代社長には江副孫右衛門が就任している。同年には自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変で軍用自動車関係の需要が急増した。1943年6月には濾過器・耐酸モルタルの製造部門を日本碍子へ返還して点火プラグに集中し、戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産する体制となる。1943年10月には工場が陸海軍航空本部の管理工場となり、翌1944年4月には軍需会社の指定を受けた。1945年3月時点の従業員数は2,887名に達していた

  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [6]1936年10月 日本特殊陶業株式会社を設立(有報【沿革】の記載は「日本碍子株式会社からスパークプラグ部門を分離し資本金100万円を以って設立」で、継承部門を三部門とする記述は【沿革】には無い)
    • [8]母体は日本碍子(現・日本ガイシ)。沿革は『日本碍子株式会社からスパークプラグ部門を分離し設立』と記載=直接の母体は日本碍子(日本陶器/ノリタケはさらに祖会社)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [7]設立時の資本金は100万円。日本碍子から点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を継承して設立
    • [12]1943年6月 濾過器・耐酸モルタルの製造部門を日本碍子へ返還し、点火プラグの製造に集中(明治百年は「昭和一八年六月…日本碍子に返還、点火プラグの製造に全力を傾注」と記載)
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【企業の概況】
    • [9]創業地は愛知県名古屋市(本店所在地は名古屋市東区)
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [10]初代社長は江副孫右衛門(昭和11年10月26日の設立時に就任)。昭和19年4月に軍需会社に指定され森村勇が第2代社長となる(五十年史巻末年表の当社事項欄)
    • [15]初代社長は江副孫右衛門(昭和11年10月26日の設立時に就任)。昭和19年4月に軍需会社に指定され森村勇が第2代社長となる(五十年史巻末年表の当社事項欄)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [11]設立と同年に自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変勃発で軍用自動車関係の需要が急増。戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産した
    • [13]設立と同年に自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変勃発で軍用自動車関係の需要が急増。戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産した
  • 産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(ダイヤモンド社、1966年)
    • [14]昭和18年10月に同社工場は陸海軍航空本部の管理工場となり、昭和19年4月には軍需会社に指定された
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革・主要指標)
    • [16]1945年3月時点の従業員数 2,887名

戦時下の増産要求は、品質をめぐる経営の考え方と正面からぶつかった。太平洋戦争が航空機の消耗戦の様相を帯びると、軍部は航空機用プラグを作る日本特殊陶業へ月産40万個、50万個という増産命令を下した。創業時の生産能力は月産2万5,000個であり、当時の設備と陣容から見て応じられる数量ではない。3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒と徴用で他業種から移ってきた未経験者で、技術者出身で良品主義を掲げる江副孫右衛門社長は、この陣容では命令を呑めないと軍の監督官へ告げた。これが軍部を刺激し、1944年、江副は社長を退任し、森村勇が第2代社長となった。資本金は1938年11月に200万円、1942年3月に400万円、1944年9月に800万円と積み増され、親会社の日本碍子を追い越した

  • 産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(ダイヤモンド社、1966年)
    • [17]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
    • [18]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
    • [19]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
    • [20]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
    • [21]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
    • [23]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [22]昭和19年4月に軍需会社に指定され森村勇が第2代社長となる(五十年史巻末年表の当社事項欄)
参考文献[1]-[23]
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [1]当社は旧森村系の会社で日本陶器が元会社。そのうち碍子部門、衛生陶器部門を分離して日本碍子、東洋陶器(現東陶機器)が設立された。昭和5年(1930年)に「NG点火栓」のブランドで発売、当時は月産1,000個程度。昭和9年(1934年)に日本フォードで新車用に採用された際、「NG」がノーグッドの意味にとられやすいという意見があって「NGK」に改めた
    • [3]当社は旧森村系の会社で日本陶器が元会社。そのうち碍子部門、衛生陶器部門を分離して日本碍子、東洋陶器(現東陶機器)が設立された。昭和5年(1930年)に「NG点火栓」のブランドで発売、当時は月産1,000個程度。昭和9年(1934年)に日本フォードで新車用に採用された際、「NG」がノーグッドの意味にとられやすいという意見があって「NGK」に改めた
    • [4]当社は旧森村系の会社で日本陶器が元会社。そのうち碍子部門、衛生陶器部門を分離して日本碍子、東洋陶器(現東陶機器)が設立された。昭和5年(1930年)に「NG点火栓」のブランドで発売、当時は月産1,000個程度。昭和9年(1934年)に日本フォードで新車用に採用された際、「NG」がノーグッドの意味にとられやすいという意見があって「NGK」に改めた
    • [11]設立と同年に自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変勃発で軍用自動車関係の需要が急増。戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産した
    • [13]設立と同年に自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変勃発で軍用自動車関係の需要が急増。戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]大正10年(1921年)に姉妹会社の日本碍子でスパークプラグの研究に着手(設立に先立つ前史)
    • [7]設立時の資本金は100万円。日本碍子から点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を継承して設立
    • [12]1943年6月 濾過器・耐酸モルタルの製造部門を日本碍子へ返還し、点火プラグの製造に集中(明治百年は「昭和一八年六月…日本碍子に返還、点火プラグの製造に全力を傾注」と記載)
  • 産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(ダイヤモンド社、1966年)
    • [5]日本フォード社の購買主任から「NG点火プラグはNo Goodに通ずるから、改称してはどうか」と示唆された。これが昭和9年のこと
    • [14]昭和18年10月に同社工場は陸海軍航空本部の管理工場となり、昭和19年4月には軍需会社に指定された
    • [17]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
    • [18]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
    • [19]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
    • [20]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
    • [21]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
    • [23]太平洋戦争が航空機消耗戦の形となり、軍部から月産40万個、50万個という増産命令が下った(創業時の能力は月産2万5,000個)。当時3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒や徴用による他業種からの未経験者だった。良品主義を掲げる技術家の江副孫右衛門社長は「この陣容では軍部の増産命令は呑めない」と軍の監督官に告げ、軍部から戦力増強への協力に欠けていると非難された。昭和19年5月に江副が退き森村勇が2代社長となった。資本金は昭和13年11月に200万円、17年3月に400万円、19年9月に800万円へ増資し、昭和19年には親会社の日本碍子(550万円)を抜いた
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [6]1936年10月 日本特殊陶業株式会社を設立(有報【沿革】の記載は「日本碍子株式会社からスパークプラグ部門を分離し資本金100万円を以って設立」で、継承部門を三部門とする記述は【沿革】には無い)
    • [8]母体は日本碍子(現・日本ガイシ)。沿革は『日本碍子株式会社からスパークプラグ部門を分離し設立』と記載=直接の母体は日本碍子(日本陶器/ノリタケはさらに祖会社)
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【企業の概況】
    • [9]創業地は愛知県名古屋市(本店所在地は名古屋市東区)
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [10]初代社長は江副孫右衛門(昭和11年10月26日の設立時に就任)。昭和19年4月に軍需会社に指定され森村勇が第2代社長となる(五十年史巻末年表の当社事項欄)
    • [15]初代社長は江副孫右衛門(昭和11年10月26日の設立時に就任)。昭和19年4月に軍需会社に指定され森村勇が第2代社長となる(五十年史巻末年表の当社事項欄)
    • [22]昭和19年4月に軍需会社に指定され森村勇が第2代社長となる(五十年史巻末年表の当社事項欄)
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革・主要指標)
    • [16]1945年3月時点の従業員数 2,887名

1945年〜廃墟からの再出発と乱立するプラグメーカー

終戦で軍需は消え、1945年11月に2,000名を解雇して事業規模を縮小した。軍需会社の指定は、ここで足かせに変わる。航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かす資金を銀行から借りることもできない。再開には進駐軍から民需転換の許可を得るほかなかったが、名古屋の支部へ願書を出しても10日20日と待たされて許可が下りなかった。思案の末、水野智彦専務が京都の司令部へ直接出向いて許可証を持ち帰り、月産5万個の許可を得て農舶用の点火栓の生産にこぎ着ける。自動車工業そのものが、1945年9月に月間1,500台のトラック、1947年6月に年間300台の乗用車の生産を認められるにすぎない状態だった

  • 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革)
    • [24]終戦に伴い1945年11月に2,000名を解雇
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [25]航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かすことも銀行から資金を借りることもできない状況で、進駐軍司令部へ民需転換の許可を受ける必要が生じた。名古屋支部を通して願書を出しても10日20日待っても許可が来ず、水野智彦専務を京都の司令部へ派遣して許可証を得、農舶用の点火栓の生産を開始した
    • [26]航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かすことも銀行から資金を借りることもできない状況で、進駐軍司令部へ民需転換の許可を受ける必要が生じた。名古屋支部を通して願書を出しても10日20日待っても許可が来ず、水野智彦専務を京都の司令部へ派遣して許可証を得、農舶用の点火栓の生産を開始した
    • [27]航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かすことも銀行から資金を借りることもできない状況で、進駐軍司令部へ民需転換の許可を受ける必要が生じた。名古屋支部を通して願書を出しても10日20日待っても許可が来ず、水野智彦専務を京都の司令部へ派遣して許可証を得、農舶用の点火栓の生産を開始した
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [28]終戦後はGHQの生産再開許可を得るのに手を焼き、水野智彦専務(のち第7代社長)の尽力で月産5万個の許可を得て農船用プラグから再出発した(第8代社長・小川修次の座談会証言)
    • [29]当時のわが国自動車工業は、昭和20年9月に月間1,500台に限りトラックが、22年6月には年間300台に限り乗用車の生産がGHQによって認められるという状況であった

再開した市場は、需要に対して作り手が多すぎた。1946年の工場再開時の国内プラグメーカーは8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案に照らせば明らかに供給過剰であり、さらに新規メーカーが続出して競争は激しかった。そのなかで日本特殊陶業は資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名と規模で抜けており、次位の日立製作所多賀工場が月産11万個、愛知化学工業が10万個だった。1947年春には見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、それまで月平均14〜15万個だった販売が同年9月には一挙に40万個へ跳ね上がる。同年10月には物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [30]工場再開時(昭和21年)の国内プラグメーカーは日本特殊陶業(資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名)、日立製作所多賀(月産11万個)、愛知化学工業(10万個)、大平興業(3万個)、国華電機(0.5万個)、大器興業(11万個)、日本特機(11万個)、森田内燃機(1万個)の8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案によれば明らかに供給過剰。ほかに鈴木電機、中外商事、藤田プラグ、三菱電機、近畿スパークプラグ、由良興電、椿本興業など新規メーカーが続出し競争が激しかった。22年春に見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、月平均14〜15万個の販売が同年9月には一挙に40万個へ急増、同年10月の物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された
    • [31]工場再開時(昭和21年)の国内プラグメーカーは日本特殊陶業(資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名)、日立製作所多賀(月産11万個)、愛知化学工業(10万個)、大平興業(3万個)、国華電機(0.5万個)、大器興業(11万個)、日本特機(11万個)、森田内燃機(1万個)の8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案によれば明らかに供給過剰。ほかに鈴木電機、中外商事、藤田プラグ、三菱電機、近畿スパークプラグ、由良興電、椿本興業など新規メーカーが続出し競争が激しかった。22年春に見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、月平均14〜15万個の販売が同年9月には一挙に40万個へ急増、同年10月の物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された
    • [32]工場再開時(昭和21年)の国内プラグメーカーは日本特殊陶業(資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名)、日立製作所多賀(月産11万個)、愛知化学工業(10万個)、大平興業(3万個)、国華電機(0.5万個)、大器興業(11万個)、日本特機(11万個)、森田内燃機(1万個)の8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案によれば明らかに供給過剰。ほかに鈴木電機、中外商事、藤田プラグ、三菱電機、近畿スパークプラグ、由良興電、椿本興業など新規メーカーが続出し競争が激しかった。22年春に見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、月平均14〜15万個の販売が同年9月には一挙に40万個へ急増、同年10月の物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された
    • [34]工場再開時(昭和21年)の国内プラグメーカーは日本特殊陶業(資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名)、日立製作所多賀(月産11万個)、愛知化学工業(10万個)、大平興業(3万個)、国華電機(0.5万個)、大器興業(11万個)、日本特機(11万個)、森田内燃機(1万個)の8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案によれば明らかに供給過剰。ほかに鈴木電機、中外商事、藤田プラグ、三菱電機、近畿スパークプラグ、由良興電、椿本興業など新規メーカーが続出し競争が激しかった。22年春に見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、月平均14〜15万個の販売が同年9月には一挙に40万個へ急増、同年10月の物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [33]昭和22年(1947年)は月産20万ケ足らずの生産だったが朝鮮向特需60万ケの大口注文を受け、スパーク・プラグの生産販売は14〜5万ケ程度から9月には一躍40万ケという異常な程の好況にめぐまれた

需要が戻っても、財務の傷は別に塞ぐ必要があった。1946年10月公布の戦時補償特別措置法により、政府が軍需会社へ公約した損失補償は実質的に帳消しとなる。日本特殊陶業が被った損失は500万円以上、当時の資本金800万円の63%にあたる額で、特別経理会社の指定を受けて新旧勘定の分離と経理の再建整備を迫られた。1948年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額して2,500万円とする増資を行う。1949年5月には株式を公開し、東京・名古屋両証券取引所の第1部へ新規上場した。1950年8月と1951年4月の二度、資産再評価法に基づいて固定資産を再評価し、減価償却を適正化している

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [35]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
    • [36]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
    • [38]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
    • [39]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
    • [41]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [37]戦時補償打ち切りによる損失は500万円以上にのぼり、当時の資本金800万円の63%にあたる額だった
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [40]1949年5月 東京・名古屋証券取引所に株式上場
参考文献[24]-[41]
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革)
    • [24]終戦に伴い1945年11月に2,000名を解雇
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [25]航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かすことも銀行から資金を借りることもできない状況で、進駐軍司令部へ民需転換の許可を受ける必要が生じた。名古屋支部を通して願書を出しても10日20日待っても許可が来ず、水野智彦専務を京都の司令部へ派遣して許可証を得、農舶用の点火栓の生産を開始した
    • [26]航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かすことも銀行から資金を借りることもできない状況で、進駐軍司令部へ民需転換の許可を受ける必要が生じた。名古屋支部を通して願書を出しても10日20日待っても許可が来ず、水野智彦専務を京都の司令部へ派遣して許可証を得、農舶用の点火栓の生産を開始した
    • [27]航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かすことも銀行から資金を借りることもできない状況で、進駐軍司令部へ民需転換の許可を受ける必要が生じた。名古屋支部を通して願書を出しても10日20日待っても許可が来ず、水野智彦専務を京都の司令部へ派遣して許可証を得、農舶用の点火栓の生産を開始した
    • [33]昭和22年(1947年)は月産20万ケ足らずの生産だったが朝鮮向特需60万ケの大口注文を受け、スパーク・プラグの生産販売は14〜5万ケ程度から9月には一躍40万ケという異常な程の好況にめぐまれた
    • [37]戦時補償打ち切りによる損失は500万円以上にのぼり、当時の資本金800万円の63%にあたる額だった
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [28]終戦後はGHQの生産再開許可を得るのに手を焼き、水野智彦専務(のち第7代社長)の尽力で月産5万個の許可を得て農船用プラグから再出発した(第8代社長・小川修次の座談会証言)
    • [29]当時のわが国自動車工業は、昭和20年9月に月間1,500台に限りトラックが、22年6月には年間300台に限り乗用車の生産がGHQによって認められるという状況であった
    • [30]工場再開時(昭和21年)の国内プラグメーカーは日本特殊陶業(資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名)、日立製作所多賀(月産11万個)、愛知化学工業(10万個)、大平興業(3万個)、国華電機(0.5万個)、大器興業(11万個)、日本特機(11万個)、森田内燃機(1万個)の8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案によれば明らかに供給過剰。ほかに鈴木電機、中外商事、藤田プラグ、三菱電機、近畿スパークプラグ、由良興電、椿本興業など新規メーカーが続出し競争が激しかった。22年春に見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、月平均14〜15万個の販売が同年9月には一挙に40万個へ急増、同年10月の物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された
    • [31]工場再開時(昭和21年)の国内プラグメーカーは日本特殊陶業(資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名)、日立製作所多賀(月産11万個)、愛知化学工業(10万個)、大平興業(3万個)、国華電機(0.5万個)、大器興業(11万個)、日本特機(11万個)、森田内燃機(1万個)の8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案によれば明らかに供給過剰。ほかに鈴木電機、中外商事、藤田プラグ、三菱電機、近畿スパークプラグ、由良興電、椿本興業など新規メーカーが続出し競争が激しかった。22年春に見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、月平均14〜15万個の販売が同年9月には一挙に40万個へ急増、同年10月の物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された
    • [32]工場再開時(昭和21年)の国内プラグメーカーは日本特殊陶業(資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名)、日立製作所多賀(月産11万個)、愛知化学工業(10万個)、大平興業(3万個)、国華電機(0.5万個)、大器興業(11万個)、日本特機(11万個)、森田内燃機(1万個)の8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案によれば明らかに供給過剰。ほかに鈴木電機、中外商事、藤田プラグ、三菱電機、近畿スパークプラグ、由良興電、椿本興業など新規メーカーが続出し競争が激しかった。22年春に見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、月平均14〜15万個の販売が同年9月には一挙に40万個へ急増、同年10月の物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された
    • [34]工場再開時(昭和21年)の国内プラグメーカーは日本特殊陶業(資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名)、日立製作所多賀(月産11万個)、愛知化学工業(10万個)、大平興業(3万個)、国華電機(0.5万個)、大器興業(11万個)、日本特機(11万個)、森田内燃機(1万個)の8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案によれば明らかに供給過剰。ほかに鈴木電機、中外商事、藤田プラグ、三菱電機、近畿スパークプラグ、由良興電、椿本興業など新規メーカーが続出し競争が激しかった。22年春に見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、月平均14〜15万個の販売が同年9月には一挙に40万個へ急増、同年10月の物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された
    • [35]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
    • [36]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
    • [38]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
    • [39]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
    • [41]昭和21年10月公布の戦時補償特別措置法により政府は戦時補償請求権に100%課税し実質的に帳消しとした。当社も特別経理会社に指定され、事業活動に必要な資産のみを新勘定に移し他を旧勘定として分離、企業経理の再建整備を図ることになった。23年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額し2,500万円とする増資を実施。24年5月に株式を公開し東京・名古屋両証券取引所第1部に新規上場。25年制定の資産再評価法に基づき同年8月および翌26年4月の2回にわたり固定資産の再評価を実施して適正な減価償却を行った
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [40]1949年5月 東京・名古屋証券取引所に株式上場

1949年〜ドッジ不況の希望退職と朝鮮動乱による再建

1949年4月のドッジ・ラインによる安定強化予算の決定で株式市場は崩落し、1948年初めに500円を超えていた同社株は17円まで下がって、日本特殊陶業はつぶれるのではないかと言われた。プラグの在庫は3.5か月分の販売数にあたる70万個を超え、同年7月、全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募集して「創業以来初めて迎えた難局」を切り抜けている。退職金すら払えず銀行に融資を断られる有様だった森村勇社長は、今はぬるま湯につかっている時だから飛び出しては風邪を引くと繰り返し、耐えることを説いた。同年11月には労働組合から生活防衛のための赤字補給金160万円の支給を申し入れられ、逼迫した資金のなかから12月に120万円、翌年4月に残る40万円を払っている

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [42]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
    • [44]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
    • [46]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [43]ドッジ不況でプラグ在庫が3.5か月分の販売数に相当する70万個を超え、昭和24年(1949年)7月に全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募り「創業以来初めて迎えた難局」を切り抜けた。同年11月には労働組合から生活防衛のための赤字補給金160万円支給の申し入れがあり、逼迫した資金事情の中から同年12月に120万円、翌年4月に残りの40万円を支給した
    • [45]人員整理の退職金も払えず、三菱銀行名古屋支店長から融資を断られた(第8代社長・小川修次の座談会証言)
    • [47]ドッジ不況でプラグ在庫が3.5か月分の販売数に相当する70万個を超え、昭和24年(1949年)7月に全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募り「創業以来初めて迎えた難局」を切り抜けた。同年11月には労働組合から生活防衛のための赤字補給金160万円支給の申し入れがあり、逼迫した資金事情の中から同年12月に120万円、翌年4月に残りの40万円を支給した

翌1950年に始まった朝鮮動乱は自動車産業を活況に導いた。受注急増によって売上高はわずか半年で1.6倍に増え、操業以来初めて1億円の大台を突破し、1年後には2.6倍の2億円に達する。1951年3月には配当を年8%から一挙に20%へ引き上げ、同年9月には創立15周年の記念増配分20%を加えた40%という同社史上最高の配当で株主に応えた。同年12月には資本金を5,000万円へ倍額増資し、生産力の拡充と近代化のための設備投資に充てている。労働集約的な生産方式だったため受注増はそのまま人員増につながり、従業員は1950年3月末の422人から1954年3月末には809人へ増えた

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [48]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
    • [49]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
    • [50]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
    • [51]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
    • [52]当時のプラグの生産方式はかなり労働集約的であったため受注増は人員増につながり、従業員数は25年3月末の422人から26年3月末には509人、29年3月末には809人へと大幅に増加した

エンジンの高性能化は、プラグの絶縁体に一段と厳しい使用条件を課した。焼物の素地はコージライト系からムライト系、さらにアルミナ系へと改良され、1951年5月には機械的強度と耐急熱性能を高めたP-5素地へ、1955年8月には高アルミナ質のP-6素地へ全面的に切り替えられた。成形方法も1954年5月に、従来の押出し・切断・赤外線乾燥方式から、噴霧乾燥した微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改められている当時すでにチャンピオンとACはアルミナ磁器を採用しており、素地の転換は世界の先行メーカーに追いつくために避けて通れない作業だった。大規模生産に対応してコールドフォーマーが導入され、金具の増産と原価低減に寄与した

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [53]相次ぐエンジンの高性能化はプラグにより厳しい使用条件を要求した。プラグ絶縁体素地は昭和26年5月にP-4から機械的強度と耐急熱性能を向上させたP-5へ改良、高アルミナ質のP-6素地を開発して昭和30年8月から全面的に切り替えた。成形方法も昭和29年5月に、従来の押出し・切断・赤外線乾燥方式から噴霧乾燥による微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改善
    • [54]朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、素地はコージライト系からムライト系、アルミナ系へと改良された。当時チャンピオン、ACは既にアルミナ磁器になっていた。大規模生産に対応するためコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに大きく貢献した(初代労組委員長・小林朗の座談会証言)
    • [55]相次ぐエンジンの高性能化はプラグにより厳しい使用条件を要求した。プラグ絶縁体素地は昭和26年5月にP-4から機械的強度と耐急熱性能を向上させたP-5へ改良、高アルミナ質のP-6素地を開発して昭和30年8月から全面的に切り替えた。成形方法も昭和29年5月に、従来の押出し・切断・赤外線乾燥方式から噴霧乾燥による微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改善
    • [56]相次ぐエンジンの高性能化はプラグにより厳しい使用条件を要求した。プラグ絶縁体素地は昭和26年5月にP-4から機械的強度と耐急熱性能を向上させたP-5へ改良、高アルミナ質のP-6素地を開発して昭和30年8月から全面的に切り替えた。成形方法も昭和29年5月に、従来の押出し・切断・赤外線乾燥方式から噴霧乾燥による微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改善
    • [57]朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、素地はコージライト系からムライト系、アルミナ系へと改良された。当時チャンピオン、ACは既にアルミナ磁器になっていた。大規模生産に対応するためコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに大きく貢献した(初代労組委員長・小林朗の座談会証言)
    • [58]朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、素地はコージライト系からムライト系、アルミナ系へと改良された。当時チャンピオン、ACは既にアルミナ磁器になっていた。大規模生産に対応するためコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに大きく貢献した(初代労組委員長・小林朗の座談会証言)
参考文献[42]-[58]
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
    • [42]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
    • [44]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
    • [46]ドッジ氏の安定強化予算等の決定(昭和24年4月15日)で株式界は崩落し、株価は昭和23年初め頃の500円以上から17円まで下落、「日本特殊陶業はつぶれるのではないか」と言われた。プラグ在庫は70万ケを突破し、昭和24年7月に従業員782名中336名の希望退職を出すに至った。森村勇社長は「今はぬるま湯につかつている時だ。飛び出しては風邪を引く、じつと我慢していなければならない」と繰り返した
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [43]ドッジ不況でプラグ在庫が3.5か月分の販売数に相当する70万個を超え、昭和24年(1949年)7月に全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募り「創業以来初めて迎えた難局」を切り抜けた。同年11月には労働組合から生活防衛のための赤字補給金160万円支給の申し入れがあり、逼迫した資金事情の中から同年12月に120万円、翌年4月に残りの40万円を支給した
    • [45]人員整理の退職金も払えず、三菱銀行名古屋支店長から融資を断られた(第8代社長・小川修次の座談会証言)
    • [47]ドッジ不況でプラグ在庫が3.5か月分の販売数に相当する70万個を超え、昭和24年(1949年)7月に全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募り「創業以来初めて迎えた難局」を切り抜けた。同年11月には労働組合から生活防衛のための赤字補給金160万円支給の申し入れがあり、逼迫した資金事情の中から同年12月に120万円、翌年4月に残りの40万円を支給した
    • [48]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
    • [49]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
    • [50]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
    • [51]朝鮮動乱の特需で売上高は半年間で1.6倍、操業以来初めて1億円を突破し1年後には2.6倍の2億円に到達。昭和26年3月に配当を年8%から20%へ、同年9月に創立15周年記念増配分20%を加えて史上最高の40%配当、同年12月に資本金を5,000万円へ倍額増資
    • [52]当時のプラグの生産方式はかなり労働集約的であったため受注増は人員増につながり、従業員数は25年3月末の422人から26年3月末には509人、29年3月末には809人へと大幅に増加した
    • [53]相次ぐエンジンの高性能化はプラグにより厳しい使用条件を要求した。プラグ絶縁体素地は昭和26年5月にP-4から機械的強度と耐急熱性能を向上させたP-5へ改良、高アルミナ質のP-6素地を開発して昭和30年8月から全面的に切り替えた。成形方法も昭和29年5月に、従来の押出し・切断・赤外線乾燥方式から噴霧乾燥による微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改善
    • [54]朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、素地はコージライト系からムライト系、アルミナ系へと改良された。当時チャンピオン、ACは既にアルミナ磁器になっていた。大規模生産に対応するためコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに大きく貢献した(初代労組委員長・小林朗の座談会証言)
    • [55]相次ぐエンジンの高性能化はプラグにより厳しい使用条件を要求した。プラグ絶縁体素地は昭和26年5月にP-4から機械的強度と耐急熱性能を向上させたP-5へ改良、高アルミナ質のP-6素地を開発して昭和30年8月から全面的に切り替えた。成形方法も昭和29年5月に、従来の押出し・切断・赤外線乾燥方式から噴霧乾燥による微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改善
    • [56]相次ぐエンジンの高性能化はプラグにより厳しい使用条件を要求した。プラグ絶縁体素地は昭和26年5月にP-4から機械的強度と耐急熱性能を向上させたP-5へ改良、高アルミナ質のP-6素地を開発して昭和30年8月から全面的に切り替えた。成形方法も昭和29年5月に、従来の押出し・切断・赤外線乾燥方式から噴霧乾燥による微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改善
    • [57]朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、素地はコージライト系からムライト系、アルミナ系へと改良された。当時チャンピオン、ACは既にアルミナ磁器になっていた。大規模生産に対応するためコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに大きく貢献した(初代労組委員長・小林朗の座談会証言)
    • [58]朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、素地はコージライト系からムライト系、アルミナ系へと改良された。当時チャンピオン、ACは既にアルミナ磁器になっていた。大規模生産に対応するためコールドフォーマーが導入され、金具の増産とコストダウンに大きく貢献した(初代労組委員長・小林朗の座談会証言)

第2章 1956年〜 点火プラグの海外現地生産と国内シェア7割、セラミックICパッケージへの参入

筆者考察y.sugiura, author

点火プラグは、規格が国際的に共通している製品である。トヨタや日産の車に付いた製品はGMやフィアットの車にもそのまま合い、国内で通用すれば世界でも通用する。1960年8月に輸出課を置いた日本特殊陶業が、輸出比率を1961年の6%台から5年で18.4%へ引き上げられたのは、この性質があったからだった。ただし規格の共通性は、売れる約束ではない。1959年に進出したブラジルではチャンピオンがプラグの代名詞で、同社とボッシュが市場を占め、日本特殊陶業に得意先は一社もなかった。小林朗以下14名が現地のフォードやGMへ50回、60回と足を運び、5年かけて全メーカーの採用へ届かせている。共通規格は入場券であって、扉は人が叩いて開けた。

1976年の生産は月産1,200万個で、チャンピオンの約4,000万個、ACの約3,000万個に次ぐ世界第3位、国内では1965年の400万個のうち300万個を占めた。この位置を得た会社が次に問われたのは、プラグに依存し続けるかどうかである。1967年10月に製品化したセラミックICパッケージは、プラグと同じ焼物の技術を自動車以外の産業へ持ち込む試みで、1970年代初めにはセラミック部門が売上構成の35%前後を占めた。プラグは消耗品で代替品がなく、新車用と補修用が1対3という構造が需要の減少を和らげる。安定した本業を抱えたまま、価格競争の激しい電子部品へ資源を割いたところに、この25年の性格がある。

点火プラグの月産個数 1955年〜1976年(海外生産分を除く)(万個)

50 55年 300 65年 400 66年下期 1,200 76年
  • 出所は証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)と日本特殊陶業株式会社五十年史(1987年)。

1956年〜輸出課の設置とブラジルでの現地生産

輸出そのものは1949年上半期に始まっていたが、専門の組織が置かれたのは1956年4月、営業部のなかに営業課を設けたときだった。基盤が脆弱だったため、1961年頃までプラグの輸出比率は総売上高の5%前後にとどまっている。1960年8月に輸出の拡大を重点戦略の一つへ掲げて輸出課を設置すると、輸出額は年平均22%の伸びで増え、1961年に6%台だった輸出比率は5年後の1966年に18.4%へ上がった。点火プラグは規格が国際的に共通で、トヨタや日産の車に付いた製品をGMやフィアットの車に付けてもそのまま合う国内で通用すれば世界でも通用するという製品の性質が、国内市場の外へ出る余地を作っていた。

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [59]輸出の歴史は昭和24年上半期に遡る。組織上の輸出専門セクションは31年4月に営業部の中の営業課として発足したのが嚆矢だが、輸出基盤が脆弱で36年ごろまでプラグの輸出比率は総売上高の5%前後だった。35年8月に輸出の拡大を重点戦略の一つに掲げ輸出課を設置。売上高比率は36年の6%台が5年後の41年には18.4%と拡大し、年平均22%の伸び率で増加した
    • [60]輸出の歴史は昭和24年上半期に遡る。組織上の輸出専門セクションは31年4月に営業部の中の営業課として発足したのが嚆矢だが、輸出基盤が脆弱で36年ごろまでプラグの輸出比率は総売上高の5%前後だった。35年8月に輸出の拡大を重点戦略の一つに掲げ輸出課を設置。売上高比率は36年の6%台が5年後の41年には18.4%と拡大し、年平均22%の伸び率で増加した
    • [61]輸出の歴史は昭和24年上半期に遡る。組織上の輸出専門セクションは31年4月に営業部の中の営業課として発足したのが嚆矢だが、輸出基盤が脆弱で36年ごろまでプラグの輸出比率は総売上高の5%前後だった。35年8月に輸出の拡大を重点戦略の一つに掲げ輸出課を設置。売上高比率は36年の6%台が5年後の41年には18.4%と拡大し、年平均22%の伸び率で増加した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [62]スパークプラグの規格は国際的に共通しており、トヨタや日産の車についているNGKスパークプラグをGMやフィアットの車につけてもピタリと合う。日本で通用すれば世界でも通用する商品である

初の海外生産拠点は、得意先の一社もない市場に置かれた。工業立国を掲げるブラジル政府から駐伯日本大使を通じて工場誘致の話が入り、1959年2月に進出が決まる。同年8月、モザイクタイルを生産していたモジ製陶と折半出資でブラジル特殊陶業を設立した。当時の同国ではチャンピオンがプラグの代名詞で、同社とボッシュの二社が市場を占めていた。インフレ率が180%に達するなかで進出を決めたのは森村勇社長の判断である。工場建設に渡った小林朗工業部次長以下14名は、取引を得るため現地のフォードやGMへ50回、60回と足を運び、1960年7月のGMへのOEM納入を皮切りに組付け採用を広げ、進出5年後の1964年には同国の全自動車・二輪車メーカーへ採用された

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [63]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
    • [64]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
    • [65]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
    • [67]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
    • [68]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [66]南米市場の将来性に着目し16年前に進出したが、当時のブラジルはインフレ率が180%にも達し、そうした状況下での進出は並大抵のことではなかった。当時の森村社長(現取締役相談役)の英断により進出を決意した

国内の供給力は新規立地で作った。本社工場は拡幅の余地が限界に達し、名古屋市の土地区画整理事業による道路拡張で敷地の一部が収用されることも重なって、新工場の建設は急を要していた。1960年10月に小牧市岩崎へ約94,000平方メートルの用地を取得し、1961年12月にセラミック工場、1964年2月にプラグ工場を完成させ、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ最新鋭機を入れてラインを自動化した。1966年下期のプラグの生産・販売は月間400万個、うち輸出が100万個に達している。同年6月には初の海外販売会社として、資本金5万ドルの米国NGKスパークプラグをロサンゼルスに設立した。この時点で製品は80カ国以上へ渡り、生産量は世界で4〜5位を占めていた

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [69]本社工場の限られたスペースでの合理化・近代化では拡幅の余地が限界にきており、名古屋市都市計画事業復興土地区画整理事業による道路拡張のため本社工場敷地の一部が収用されることも重なって新工場の建設が焦眉の急となった。35年10月に小牧市岩崎に約94,000m2の用地を取得、36年12月にセラミック工場(第1工場)、39年2月にプラグ工場(第2工場)が完成し、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ数多くの最新鋭機が導入されラインも自動化された。41年下期にはプラグの生産・販売は月間400万個(うち輸出100万個)となった。41年6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため初の海外販売会社として資本金5万ドル(約1,800万円)の「NGK SPARK PLUGS(U.S.A.)INC.」をロサンゼルスに設立した
    • [70]本社工場の限られたスペースでの合理化・近代化では拡幅の余地が限界にきており、名古屋市都市計画事業復興土地区画整理事業による道路拡張のため本社工場敷地の一部が収用されることも重なって新工場の建設が焦眉の急となった。35年10月に小牧市岩崎に約94,000m2の用地を取得、36年12月にセラミック工場(第1工場)、39年2月にプラグ工場(第2工場)が完成し、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ数多くの最新鋭機が導入されラインも自動化された。41年下期にはプラグの生産・販売は月間400万個(うち輸出100万個)となった。41年6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため初の海外販売会社として資本金5万ドル(約1,800万円)の「NGK SPARK PLUGS(U.S.A.)INC.」をロサンゼルスに設立した
    • [71]本社工場の限られたスペースでの合理化・近代化では拡幅の余地が限界にきており、名古屋市都市計画事業復興土地区画整理事業による道路拡張のため本社工場敷地の一部が収用されることも重なって新工場の建設が焦眉の急となった。35年10月に小牧市岩崎に約94,000m2の用地を取得、36年12月にセラミック工場(第1工場)、39年2月にプラグ工場(第2工場)が完成し、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ数多くの最新鋭機が導入されラインも自動化された。41年下期にはプラグの生産・販売は月間400万個(うち輸出100万個)となった。41年6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため初の海外販売会社として資本金5万ドル(約1,800万円)の「NGK SPARK PLUGS(U.S.A.)INC.」をロサンゼルスに設立した
    • [72]本社工場の限られたスペースでの合理化・近代化では拡幅の余地が限界にきており、名古屋市都市計画事業復興土地区画整理事業による道路拡張のため本社工場敷地の一部が収用されることも重なって新工場の建設が焦眉の急となった。35年10月に小牧市岩崎に約94,000m2の用地を取得、36年12月にセラミック工場(第1工場)、39年2月にプラグ工場(第2工場)が完成し、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ数多くの最新鋭機が導入されラインも自動化された。41年下期にはプラグの生産・販売は月間400万個(うち輸出100万個)となった。41年6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため初の海外販売会社として資本金5万ドル(約1,800万円)の「NGK SPARK PLUGS(U.S.A.)INC.」をロサンゼルスに設立した
  • 産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(ダイヤモンド社、1966年)
    • [73]世界80カ国以上に輸出し、世界的にも4〜5位の生産量を誇るにいたっている(1966年時点)
参考文献[59]-[73]
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [59]輸出の歴史は昭和24年上半期に遡る。組織上の輸出専門セクションは31年4月に営業部の中の営業課として発足したのが嚆矢だが、輸出基盤が脆弱で36年ごろまでプラグの輸出比率は総売上高の5%前後だった。35年8月に輸出の拡大を重点戦略の一つに掲げ輸出課を設置。売上高比率は36年の6%台が5年後の41年には18.4%と拡大し、年平均22%の伸び率で増加した
    • [60]輸出の歴史は昭和24年上半期に遡る。組織上の輸出専門セクションは31年4月に営業部の中の営業課として発足したのが嚆矢だが、輸出基盤が脆弱で36年ごろまでプラグの輸出比率は総売上高の5%前後だった。35年8月に輸出の拡大を重点戦略の一つに掲げ輸出課を設置。売上高比率は36年の6%台が5年後の41年には18.4%と拡大し、年平均22%の伸び率で増加した
    • [61]輸出の歴史は昭和24年上半期に遡る。組織上の輸出専門セクションは31年4月に営業部の中の営業課として発足したのが嚆矢だが、輸出基盤が脆弱で36年ごろまでプラグの輸出比率は総売上高の5%前後だった。35年8月に輸出の拡大を重点戦略の一つに掲げ輸出課を設置。売上高比率は36年の6%台が5年後の41年には18.4%と拡大し、年平均22%の伸び率で増加した
    • [63]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
    • [64]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
    • [65]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
    • [67]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
    • [68]昭和31〜32年ごろ工業立国の意気に燃えるブラジル政府から駐伯日本大使を通じた工場誘致の話が動機となり、34年2月に正式に進出が決定。34年8月1日、モザイクタイルを生産していた三菱系東山企業グループ傘下のモジ製陶と提携し当社50%出資で「ブラジル特殊陶業」を設立した。当時同国ではプラグといえば「チャンピオン」が代名詞で、チャンピオン社(米)、ボッシュ(西独)の世界的二大メーカーが市場を独占し当社の入り込む余地はなかった。最初から国産化比率90%を目指した本格的なものだった。34年4月に小林朗団長(工業部次長)以下14名が渡伯し、「取引きしてもらうため、現地のフォード社、GM社などに50回、60回と足を運んだ」。35年7月のGM社へのOEMプラグ納入を皮切りにシムカ、インターナショナル、ウイルス、フォルクスワーゲンなどに次々と組付け採用され、進出から5年後の39年にはすべての自動車、二輪車メーカーの組付用プラグとして採用された。ブラジルの輸入規制政策によるチャンピオン社の撤退(44年)と相俟って同国内シェアは80%を超えた。37年4月には当社全額出資の子会社となった
    • [69]本社工場の限られたスペースでの合理化・近代化では拡幅の余地が限界にきており、名古屋市都市計画事業復興土地区画整理事業による道路拡張のため本社工場敷地の一部が収用されることも重なって新工場の建設が焦眉の急となった。35年10月に小牧市岩崎に約94,000m2の用地を取得、36年12月にセラミック工場(第1工場)、39年2月にプラグ工場(第2工場)が完成し、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ数多くの最新鋭機が導入されラインも自動化された。41年下期にはプラグの生産・販売は月間400万個(うち輸出100万個)となった。41年6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため初の海外販売会社として資本金5万ドル(約1,800万円)の「NGK SPARK PLUGS(U.S.A.)INC.」をロサンゼルスに設立した
    • [70]本社工場の限られたスペースでの合理化・近代化では拡幅の余地が限界にきており、名古屋市都市計画事業復興土地区画整理事業による道路拡張のため本社工場敷地の一部が収用されることも重なって新工場の建設が焦眉の急となった。35年10月に小牧市岩崎に約94,000m2の用地を取得、36年12月にセラミック工場(第1工場)、39年2月にプラグ工場(第2工場)が完成し、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ数多くの最新鋭機が導入されラインも自動化された。41年下期にはプラグの生産・販売は月間400万個(うち輸出100万個)となった。41年6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため初の海外販売会社として資本金5万ドル(約1,800万円)の「NGK SPARK PLUGS(U.S.A.)INC.」をロサンゼルスに設立した
    • [71]本社工場の限られたスペースでの合理化・近代化では拡幅の余地が限界にきており、名古屋市都市計画事業復興土地区画整理事業による道路拡張のため本社工場敷地の一部が収用されることも重なって新工場の建設が焦眉の急となった。35年10月に小牧市岩崎に約94,000m2の用地を取得、36年12月にセラミック工場(第1工場)、39年2月にプラグ工場(第2工場)が完成し、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ数多くの最新鋭機が導入されラインも自動化された。41年下期にはプラグの生産・販売は月間400万個(うち輸出100万個)となった。41年6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため初の海外販売会社として資本金5万ドル(約1,800万円)の「NGK SPARK PLUGS(U.S.A.)INC.」をロサンゼルスに設立した
    • [72]本社工場の限られたスペースでの合理化・近代化では拡幅の余地が限界にきており、名古屋市都市計画事業復興土地区画整理事業による道路拡張のため本社工場敷地の一部が収用されることも重なって新工場の建設が焦眉の急となった。35年10月に小牧市岩崎に約94,000m2の用地を取得、36年12月にセラミック工場(第1工場)、39年2月にプラグ工場(第2工場)が完成し、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ数多くの最新鋭機が導入されラインも自動化された。41年下期にはプラグの生産・販売は月間400万個(うち輸出100万個)となった。41年6月、最大のマーケットである米国プラグ市場を深耕するため初の海外販売会社として資本金5万ドル(約1,800万円)の「NGK SPARK PLUGS(U.S.A.)INC.」をロサンゼルスに設立した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [62]スパークプラグの規格は国際的に共通しており、トヨタや日産の車についているNGKスパークプラグをGMやフィアットの車につけてもピタリと合う。日本で通用すれば世界でも通用する商品である
    • [66]南米市場の将来性に着目し16年前に進出したが、当時のブラジルはインフレ率が180%にも達し、そうした状況下での進出は並大抵のことではなかった。当時の森村社長(現取締役相談役)の英断により進出を決意した
  • 産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(ダイヤモンド社、1966年)
    • [73]世界80カ国以上に輸出し、世界的にも4〜5位の生産量を誇るにいたっている(1966年時点)

1967年〜セラミック部門の拡張とICパッケージへの参入

1966年から1970年にかけて、日本経済は実質成長率が年10%を超えるいざなぎ景気に入り、自動車の生産台数は1967年に300万台、1970年に500万台と大台を更新した。1955年から1965年の10年で自動車の生産台数は約10倍、保有台数は6倍になっており、プラグの需要はこの裾野に乗っていた。日本特殊陶業の業績も1970年度までの5年間、平均して年28%近い伸びを続ける。伸びを作ったのは主にプラグの輸出とセラミック製品で、1970年代初めの製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後、輸出の比重も20%前後を占めるに至った

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [74]わが国経済は41年から45年にかけて実質成長率が年10%を超える"いざなぎ景気"を迎え、自動車生産台数は42年に300万台、43年に400万台、45年に500万台と大台を更新した。当社の業績は45年度までの5年間、平均して年28%近いハイペースの飛躍がつづき、これは主にプラグの輸出とセラミック製品の急伸に負うところが大きかった。40年代初期の製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後で推移し、輸出のウエイトも20%前後を占めていた
    • [76]わが国経済は41年から45年にかけて実質成長率が年10%を超える"いざなぎ景気"を迎え、自動車生産台数は42年に300万台、43年に400万台、45年に500万台と大台を更新した。当社の業績は45年度までの5年間、平均して年28%近いハイペースの飛躍がつづき、これは主にプラグの輸出とセラミック製品の急伸に負うところが大きかった。40年代初期の製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後で推移し、輸出のウエイトも20%前後を占めていた
    • [77]わが国経済は41年から45年にかけて実質成長率が年10%を超える"いざなぎ景気"を迎え、自動車生産台数は42年に300万台、43年に400万台、45年に500万台と大台を更新した。当社の業績は45年度までの5年間、平均して年28%近いハイペースの飛躍がつづき、これは主にプラグの輸出とセラミック製品の急伸に負うところが大きかった。40年代初期の製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後で推移し、輸出のウエイトも20%前後を占めていた
    • [78]わが国経済は41年から45年にかけて実質成長率が年10%を超える"いざなぎ景気"を迎え、自動車生産台数は42年に300万台、43年に400万台、45年に500万台と大台を更新した。当社の業績は45年度までの5年間、平均して年28%近いハイペースの飛躍がつづき、これは主にプラグの輸出とセラミック製品の急伸に負うところが大きかった。40年代初期の製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後で推移し、輸出のウエイトも20%前後を占めていた
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [75]昭和30〜40年の10年間で、自動車の生産台数は約10倍、保有台数は6倍と急速に上昇した

増産の受け皿は小牧に集中して建てられた。1967年3月にメタライズセラミック製品の需要増へ応える電子部品工場、同年10月に切削工具工場、1968年1月にプラグ絶縁体工場、1969年3月にセラミック工場と、毎年のように工場が加わる。1969年7月には、ICパッケージの集約工場として二つ目の電子部品工場が建った。ICパッケージの製品化は1967年10月、LSI用は1971年10月である。セラミックと金属を密封する磁器のメタライズ法は、主にモリブデンの金属膜を焼き付けて金属を鑞付けする方法で、高い真空度に対しても気密を保つ。この部門は1976年時点で月商2億円から2億5,000万円に達し、米国のRCAほか数社と取引していた

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [79]42年3月に電子部品工場(第3工場、メタライズセラミック製品の需要急増に対応)、42年10月に切削工具工場(第4工場)、43年1月にプラグ絶縁体工場(第5工場)、44年3月にセラミック工場(第6工場)、44年5月に整備修繕工場(第7工場)、44年7月にICパッケージの集約工場として電子部品工場(第8工場)が小牧工場に完成した。新製品の製品化は42年10月にICパッケージ、46年10月にLSI用ICパッケージ
    • [80]42年3月に電子部品工場(第3工場、メタライズセラミック製品の需要急増に対応)、42年10月に切削工具工場(第4工場)、43年1月にプラグ絶縁体工場(第5工場)、44年3月にセラミック工場(第6工場)、44年5月に整備修繕工場(第7工場)、44年7月にICパッケージの集約工場として電子部品工場(第8工場)が小牧工場に完成した。新製品の製品化は42年10月にICパッケージ、46年10月にLSI用ICパッケージ
    • [81]42年3月に電子部品工場(第3工場、メタライズセラミック製品の需要急増に対応)、42年10月に切削工具工場(第4工場)、43年1月にプラグ絶縁体工場(第5工場)、44年3月にセラミック工場(第6工場)、44年5月に整備修繕工場(第7工場)、44年7月にICパッケージの集約工場として電子部品工場(第8工場)が小牧工場に完成した。新製品の製品化は42年10月にICパッケージ、46年10月にLSI用ICパッケージ
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [82]電子部品部門ではセラミック材料と金属との密封に関する新しい方法として磁器のメタライズ法が開発された。セラミックに金属膜(主にモリブデン)を焼付けて金属を鑞付けする封着方法で、結合は極めて強固で、高度の真空に対しても気密を保持できる。同部門の売上げは月商2億〜2億5,000万円で、アメリカのRCAその他2〜3社と取引している
    • [83]電子部品部門ではセラミック材料と金属との密封に関する新しい方法として磁器のメタライズ法が開発された。セラミックに金属膜(主にモリブデン)を焼付けて金属を鑞付けする封着方法で、結合は極めて強固で、高度の真空に対しても気密を保持できる。同部門の売上げは月商2億〜2億5,000万円で、アメリカのRCAその他2〜3社と取引している

拡張の途中で、為替と経営陣の両方が揺れた。1971年8月のニクソン声明に続くスミソニアン合意で円は対ドル16.88%の切り上げとなり、1971年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近く減り、1972年度はプラグの輸出が前年度比6%の微増にとどまった。経営陣の交代も相次いだ。1966年10月に松尾義人社長が急逝し、1971年6月には後を継いだ星野茂雄社長も心臓マヒで他界する。資本自由化が「第2の黒船」と受け取られた時期でもあったが、日本特殊陶業は外資との提携を選ばず、逆に米国へ自ら進出して外国の動向をいち早く掴んだ

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [84]46年8月のニクソン声明による「ドル防衛緊急対策」(ドルショック)を受け、同年末の10カ国蔵相会議で米ドルは金に対して7.89%切り下げ、円は米ドルに対して16.88%切り上げとなり1ドル308円の「スミソニアンレート」がしかれた。46年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近い減収となり、47年度はプラグの輸出が前年度比わずか6%の微増にとどまった。41年10月に松尾義人社長が急逝し11月に星野茂雄が第6代社長に就任したが、46年6月に心臓マヒのため他界。資本自由化は産業界にとって「第2の黒船」として受けとられた
    • [85]46年8月のニクソン声明による「ドル防衛緊急対策」(ドルショック)を受け、同年末の10カ国蔵相会議で米ドルは金に対して7.89%切り下げ、円は米ドルに対して16.88%切り上げとなり1ドル308円の「スミソニアンレート」がしかれた。46年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近い減収となり、47年度はプラグの輸出が前年度比わずか6%の微増にとどまった。41年10月に松尾義人社長が急逝し11月に星野茂雄が第6代社長に就任したが、46年6月に心臓マヒのため他界。資本自由化は産業界にとって「第2の黒船」として受けとられた
    • [86]46年8月のニクソン声明による「ドル防衛緊急対策」(ドルショック)を受け、同年末の10カ国蔵相会議で米ドルは金に対して7.89%切り下げ、円は米ドルに対して16.88%切り上げとなり1ドル308円の「スミソニアンレート」がしかれた。46年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近い減収となり、47年度はプラグの輸出が前年度比わずか6%の微増にとどまった。41年10月に松尾義人社長が急逝し11月に星野茂雄が第6代社長に就任したが、46年6月に心臓マヒのため他界。資本自由化は産業界にとって「第2の黒船」として受けとられた
    • [87]46年8月のニクソン声明による「ドル防衛緊急対策」(ドルショック)を受け、同年末の10カ国蔵相会議で米ドルは金に対して7.89%切り下げ、円は米ドルに対して16.88%切り上げとなり1ドル308円の「スミソニアンレート」がしかれた。46年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近い減収となり、47年度はプラグの輸出が前年度比わずか6%の微増にとどまった。41年10月に松尾義人社長が急逝し11月に星野茂雄が第6代社長に就任したが、46年6月に心臓マヒのため他界。資本自由化は産業界にとって「第2の黒船」として受けとられた
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [88]優秀な欧米の機械設備、原料相場や景気の動向をいち早くキャッチしてそれに対処することの方が重要であり、当社に利益をもたらす。当社が外資と提携しないで米国に逆に進出したのは、外国の動向をいち早くキャッチすることを一つのねらいとしているからである
参考文献[74]-[88]
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [74]わが国経済は41年から45年にかけて実質成長率が年10%を超える"いざなぎ景気"を迎え、自動車生産台数は42年に300万台、43年に400万台、45年に500万台と大台を更新した。当社の業績は45年度までの5年間、平均して年28%近いハイペースの飛躍がつづき、これは主にプラグの輸出とセラミック製品の急伸に負うところが大きかった。40年代初期の製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後で推移し、輸出のウエイトも20%前後を占めていた
    • [76]わが国経済は41年から45年にかけて実質成長率が年10%を超える"いざなぎ景気"を迎え、自動車生産台数は42年に300万台、43年に400万台、45年に500万台と大台を更新した。当社の業績は45年度までの5年間、平均して年28%近いハイペースの飛躍がつづき、これは主にプラグの輸出とセラミック製品の急伸に負うところが大きかった。40年代初期の製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後で推移し、輸出のウエイトも20%前後を占めていた
    • [77]わが国経済は41年から45年にかけて実質成長率が年10%を超える"いざなぎ景気"を迎え、自動車生産台数は42年に300万台、43年に400万台、45年に500万台と大台を更新した。当社の業績は45年度までの5年間、平均して年28%近いハイペースの飛躍がつづき、これは主にプラグの輸出とセラミック製品の急伸に負うところが大きかった。40年代初期の製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後で推移し、輸出のウエイトも20%前後を占めていた
    • [78]わが国経済は41年から45年にかけて実質成長率が年10%を超える"いざなぎ景気"を迎え、自動車生産台数は42年に300万台、43年に400万台、45年に500万台と大台を更新した。当社の業績は45年度までの5年間、平均して年28%近いハイペースの飛躍がつづき、これは主にプラグの輸出とセラミック製品の急伸に負うところが大きかった。40年代初期の製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後で推移し、輸出のウエイトも20%前後を占めていた
    • [79]42年3月に電子部品工場(第3工場、メタライズセラミック製品の需要急増に対応)、42年10月に切削工具工場(第4工場)、43年1月にプラグ絶縁体工場(第5工場)、44年3月にセラミック工場(第6工場)、44年5月に整備修繕工場(第7工場)、44年7月にICパッケージの集約工場として電子部品工場(第8工場)が小牧工場に完成した。新製品の製品化は42年10月にICパッケージ、46年10月にLSI用ICパッケージ
    • [80]42年3月に電子部品工場(第3工場、メタライズセラミック製品の需要急増に対応)、42年10月に切削工具工場(第4工場)、43年1月にプラグ絶縁体工場(第5工場)、44年3月にセラミック工場(第6工場)、44年5月に整備修繕工場(第7工場)、44年7月にICパッケージの集約工場として電子部品工場(第8工場)が小牧工場に完成した。新製品の製品化は42年10月にICパッケージ、46年10月にLSI用ICパッケージ
    • [81]42年3月に電子部品工場(第3工場、メタライズセラミック製品の需要急増に対応)、42年10月に切削工具工場(第4工場)、43年1月にプラグ絶縁体工場(第5工場)、44年3月にセラミック工場(第6工場)、44年5月に整備修繕工場(第7工場)、44年7月にICパッケージの集約工場として電子部品工場(第8工場)が小牧工場に完成した。新製品の製品化は42年10月にICパッケージ、46年10月にLSI用ICパッケージ
    • [84]46年8月のニクソン声明による「ドル防衛緊急対策」(ドルショック)を受け、同年末の10カ国蔵相会議で米ドルは金に対して7.89%切り下げ、円は米ドルに対して16.88%切り上げとなり1ドル308円の「スミソニアンレート」がしかれた。46年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近い減収となり、47年度はプラグの輸出が前年度比わずか6%の微増にとどまった。41年10月に松尾義人社長が急逝し11月に星野茂雄が第6代社長に就任したが、46年6月に心臓マヒのため他界。資本自由化は産業界にとって「第2の黒船」として受けとられた
    • [85]46年8月のニクソン声明による「ドル防衛緊急対策」(ドルショック)を受け、同年末の10カ国蔵相会議で米ドルは金に対して7.89%切り下げ、円は米ドルに対して16.88%切り上げとなり1ドル308円の「スミソニアンレート」がしかれた。46年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近い減収となり、47年度はプラグの輸出が前年度比わずか6%の微増にとどまった。41年10月に松尾義人社長が急逝し11月に星野茂雄が第6代社長に就任したが、46年6月に心臓マヒのため他界。資本自由化は産業界にとって「第2の黒船」として受けとられた
    • [86]46年8月のニクソン声明による「ドル防衛緊急対策」(ドルショック)を受け、同年末の10カ国蔵相会議で米ドルは金に対して7.89%切り下げ、円は米ドルに対して16.88%切り上げとなり1ドル308円の「スミソニアンレート」がしかれた。46年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近い減収となり、47年度はプラグの輸出が前年度比わずか6%の微増にとどまった。41年10月に松尾義人社長が急逝し11月に星野茂雄が第6代社長に就任したが、46年6月に心臓マヒのため他界。資本自由化は産業界にとって「第2の黒船」として受けとられた
    • [87]46年8月のニクソン声明による「ドル防衛緊急対策」(ドルショック)を受け、同年末の10カ国蔵相会議で米ドルは金に対して7.89%切り下げ、円は米ドルに対して16.88%切り上げとなり1ドル308円の「スミソニアンレート」がしかれた。46年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近い減収となり、47年度はプラグの輸出が前年度比わずか6%の微増にとどまった。41年10月に松尾義人社長が急逝し11月に星野茂雄が第6代社長に就任したが、46年6月に心臓マヒのため他界。資本自由化は産業界にとって「第2の黒船」として受けとられた
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [75]昭和30〜40年の10年間で、自動車の生産台数は約10倍、保有台数は6倍と急速に上昇した
    • [82]電子部品部門ではセラミック材料と金属との密封に関する新しい方法として磁器のメタライズ法が開発された。セラミックに金属膜(主にモリブデン)を焼付けて金属を鑞付けする封着方法で、結合は極めて強固で、高度の真空に対しても気密を保持できる。同部門の売上げは月商2億〜2億5,000万円で、アメリカのRCAその他2〜3社と取引している
    • [83]電子部品部門ではセラミック材料と金属との密封に関する新しい方法として磁器のメタライズ法が開発された。セラミックに金属膜(主にモリブデン)を焼付けて金属を鑞付けする封着方法で、結合は極めて強固で、高度の真空に対しても気密を保持できる。同部門の売上げは月商2億〜2億5,000万円で、アメリカのRCAその他2〜3社と取引している
    • [88]優秀な欧米の機械設備、原料相場や景気の動向をいち早くキャッチしてそれに対処することの方が重要であり、当社に利益をもたらす。当社が外資と提携しないで米国に逆に進出したのは、外国の動向をいち早くキャッチすることを一つのねらいとしているからである

1974年〜石油危機下での海外現地生産の連鎖

1973年10月の第一次石油危機は、需要の減少となって遅れて効いた。1973年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と前進したが、1974年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり、税引利益は5億4,600万円減少する。1975年度はプラグの輸出が0.5%減、セラミック部門も7.5%減で、総売上高はわずか4%の微増にとどまった。危機のさなかの1973年11月に第8代社長へ就任した小川修次は、輸出の増進、国際的な生産・販売体制の確立、新商品開発への積極的な取り組み、全員参加によるコスト低減の四つを重点施策に掲げた。石油ショック以降は米国から安い製品が入り、電子部品が大きな打撃を受けていた

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [89]48年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と大きな前進をみたが、49年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり売上高の伸びは9.9%にとどまり税引利益は5億4,600万円の減少。50年度はプラグの輸出停滞(0.5%減)に加えてセラミック部門も引続き不振(7.5%減)のため総売上高はわずか4%の微増だった。48年11月に取締役副社長小川修次が第8代社長に就任し、1.輸出の増進に一段と力を入れる 2.国際的な生産、販売体制の確立を図る 3.新商品開発に積極的、勇敢にとり組む 4.諸事節約、全員参加によるコストの低減を図る の4点を重点施策に掲げた
    • [90]48年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と大きな前進をみたが、49年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり売上高の伸びは9.9%にとどまり税引利益は5億4,600万円の減少。50年度はプラグの輸出停滞(0.5%減)に加えてセラミック部門も引続き不振(7.5%減)のため総売上高はわずか4%の微増だった。48年11月に取締役副社長小川修次が第8代社長に就任し、1.輸出の増進に一段と力を入れる 2.国際的な生産、販売体制の確立を図る 3.新商品開発に積極的、勇敢にとり組む 4.諸事節約、全員参加によるコストの低減を図る の4点を重点施策に掲げた
    • [91]48年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と大きな前進をみたが、49年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり売上高の伸びは9.9%にとどまり税引利益は5億4,600万円の減少。50年度はプラグの輸出停滞(0.5%減)に加えてセラミック部門も引続き不振(7.5%減)のため総売上高はわずか4%の微増だった。48年11月に取締役副社長小川修次が第8代社長に就任し、1.輸出の増進に一段と力を入れる 2.国際的な生産、販売体制の確立を図る 3.新商品開発に積極的、勇敢にとり組む 4.諸事節約、全員参加によるコストの低減を図る の4点を重点施策に掲げた
    • [92]48年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と大きな前進をみたが、49年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり売上高の伸びは9.9%にとどまり税引利益は5億4,600万円の減少。50年度はプラグの輸出停滞(0.5%減)に加えてセラミック部門も引続き不振(7.5%減)のため総売上高はわずか4%の微増だった。48年11月に取締役副社長小川修次が第8代社長に就任し、1.輸出の増進に一段と力を入れる 2.国際的な生産、販売体制の確立を図る 3.新商品開発に積極的、勇敢にとり組む 4.諸事節約、全員参加によるコストの低減を図る の4点を重点施策に掲げた
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [93]先般の石油ショック以来アメリカから安い製品が輸入され、セラミック部門特に電子部門は大きな打撃を受けた

四つの施策のうち最も速く実を結んだのは、国際的な生産・販売体制だった。1973年3月にマレーシアNGKスパークプラグ、1974年4月にサイアムNGKスパークプラグを現地資本との合弁で設立し、1975年5月に英国NGKスパークプラグ、1976年5月には米国NGKスパークプラグ製造をカリフォルニア州バンナイス市へ置いて翌1977年7月から製造に入る。韓国とパキスタンへは、プラグの生命である絶縁体を国内で作って輸出し、相手国のブランドで生産させるプラント輸出の形を採った小川修次は現地生産の条件として、現地政府の安定度、国民の勤勉さ、パートナーの人柄の三つを挙げている。日本からの輸出だけでは米国のビッグスリーに対抗できないという判断があった

  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [94]48年3月にマレーシアNGKスパークプラグ(当社40%、文秀有限公司40%、トウンクナランダ20%)、49年4月にサイアムNGKスパークプラグ(当社30%)を現地資本との合弁で設立。50年5月に英国NGKスパークプラグ(当社90%、シムズ10%)をエセックス州に設立。51年5月には米国NGKスパークプラグの販売代理店アーニー・マッカフィー・エンジニアリング社との合弁による「米国NGKスパークプラグ製造株式会社」(当社70%)をカリフォルニア州バンナイス市に設立し、52年7月から製造を開始した
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [95]韓国では韓国プラグ工業を設立しプラントを輸出して「ゴールデン」ブランドで生産、パキスタンにもプラント輸出し「ヒーロー」ブランドで親しまれている。発展途上国ではプラグの生命である絶縁体を製造する技術に難点があるので、相手国のブランドを付けた絶縁体その他の部品を日本国内で生産し輸出する形をとっている。海外進出にあたって大切なのは現地政府の安定度、国民の勤勉さ、パートナーの人柄の3点。アメリカでの合弁会社をぜひ実現させたいのは、日本からの輸出にたよっていたのではアメリカのビッグ3に対抗できないからである
    • [96]韓国では韓国プラグ工業を設立しプラントを輸出して「ゴールデン」ブランドで生産、パキスタンにもプラント輸出し「ヒーロー」ブランドで親しまれている。発展途上国ではプラグの生命である絶縁体を製造する技術に難点があるので、相手国のブランドを付けた絶縁体その他の部品を日本国内で生産し輸出する形をとっている。海外進出にあたって大切なのは現地政府の安定度、国民の勤勉さ、パートナーの人柄の3点。アメリカでの合弁会社をぜひ実現させたいのは、日本からの輸出にたよっていたのではアメリカのビッグ3に対抗できないからである
    • [97]韓国では韓国プラグ工業を設立しプラントを輸出して「ゴールデン」ブランドで生産、パキスタンにもプラント輸出し「ヒーロー」ブランドで親しまれている。発展途上国ではプラグの生命である絶縁体を製造する技術に難点があるので、相手国のブランドを付けた絶縁体その他の部品を日本国内で生産し輸出する形をとっている。海外進出にあたって大切なのは現地政府の安定度、国民の勤勉さ、パートナーの人柄の3点。アメリカでの合弁会社をぜひ実現させたいのは、日本からの輸出にたよっていたのではアメリカのビッグ3に対抗できないからである

1976年時点のプラグの生産は月産1,200万個、海外分を加えて1,600万個で、チャンピオンの約4,000万個、ACの約3,000万個に次ぐ世界第3位だった。国内では1955年の月産70万個のうち50万個、1965年の400万個のうち300万個を占め、競合は日本電装と日立の二社にとどまる。輸出は売上高の4割、そのうち半分が米国向けである。プラグは消耗品で代替品がなく、新車用と補修用の比率が1対3という構造が需要の振れを和らげた。1978年度は円高でプラグの内外需が低下して利益が2.5%減り、第二次石油危機の1980年度も内需の4%減を輸出の29.2%増で補いながら利益は再び前年を割ったが、1981年度は全社の合理化で利益が7%台まで戻っている

  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [98]現在(1976年時点)当社は月産1,200万個、これに海外の生産分を加えると月産1,600万個になる。世界のスパークプラグの生産順位は第1位がアメリカのチャンピオンで月産約4,000万個、第2位がGMのACスパークプラグで月産約3,000万個、第3位が当社。国内では当社以外に日本電装、日立が製造している。昭和30年における国内生産量は月産70万個、そのうち当社は50万個。10年後の昭和40年には全体で400万個、うち当社が300万個。当社製品の4割は輸出で、そのうちの50%がアメリカ向け。スパークプラグの強味はライフサイクルが長くこれに代わるべき製品がないこと、および消耗品であること。スパークプラグの新車用と補修用の比率は1対3
    • [99]現在(1976年時点)当社は月産1,200万個、これに海外の生産分を加えると月産1,600万個になる。世界のスパークプラグの生産順位は第1位がアメリカのチャンピオンで月産約4,000万個、第2位がGMのACスパークプラグで月産約3,000万個、第3位が当社。国内では当社以外に日本電装、日立が製造している。昭和30年における国内生産量は月産70万個、そのうち当社は50万個。10年後の昭和40年には全体で400万個、うち当社が300万個。当社製品の4割は輸出で、そのうちの50%がアメリカ向け。スパークプラグの強味はライフサイクルが長くこれに代わるべき製品がないこと、および消耗品であること。スパークプラグの新車用と補修用の比率は1対3
    • [100]現在(1976年時点)当社は月産1,200万個、これに海外の生産分を加えると月産1,600万個になる。世界のスパークプラグの生産順位は第1位がアメリカのチャンピオンで月産約4,000万個、第2位がGMのACスパークプラグで月産約3,000万個、第3位が当社。国内では当社以外に日本電装、日立が製造している。昭和30年における国内生産量は月産70万個、そのうち当社は50万個。10年後の昭和40年には全体で400万個、うち当社が300万個。当社製品の4割は輸出で、そのうちの50%がアメリカ向け。スパークプラグの強味はライフサイクルが長くこれに代わるべき製品がないこと、および消耗品であること。スパークプラグの新車用と補修用の比率は1対3
    • [101]現在(1976年時点)当社は月産1,200万個、これに海外の生産分を加えると月産1,600万個になる。世界のスパークプラグの生産順位は第1位がアメリカのチャンピオンで月産約4,000万個、第2位がGMのACスパークプラグで月産約3,000万個、第3位が当社。国内では当社以外に日本電装、日立が製造している。昭和30年における国内生産量は月産70万個、そのうち当社は50万個。10年後の昭和40年には全体で400万個、うち当社が300万個。当社製品の4割は輸出で、そのうちの50%がアメリカ向け。スパークプラグの強味はライフサイクルが長くこれに代わるべき製品がないこと、および消耗品であること。スパークプラグの新車用と補修用の比率は1対3
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [102]53年度は売上高に若干の鈍化傾向が見られ利益も2.5%のマイナスとなった。これはプラグの内・外需の低下と円高によるもの。第二次石油危機の影響を大きく受けた55年度は売上高こそ14%台を達成したが利益は2度目のマイナスとなった。主力製品であるプラグの販売が輸出努力によって29.2%増と上昇したにもかかわらず内需が4%減となったためである。56年度に入るとセラミック部門が内・外需共低水準で推移したが、利益は全社あげての合理化努力によって7%台まで上向いた
参考文献[89]-[102]
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
    • [89]48年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と大きな前進をみたが、49年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり売上高の伸びは9.9%にとどまり税引利益は5億4,600万円の減少。50年度はプラグの輸出停滞(0.5%減)に加えてセラミック部門も引続き不振(7.5%減)のため総売上高はわずか4%の微増だった。48年11月に取締役副社長小川修次が第8代社長に就任し、1.輸出の増進に一段と力を入れる 2.国際的な生産、販売体制の確立を図る 3.新商品開発に積極的、勇敢にとり組む 4.諸事節約、全員参加によるコストの低減を図る の4点を重点施策に掲げた
    • [90]48年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と大きな前進をみたが、49年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり売上高の伸びは9.9%にとどまり税引利益は5億4,600万円の減少。50年度はプラグの輸出停滞(0.5%減)に加えてセラミック部門も引続き不振(7.5%減)のため総売上高はわずか4%の微増だった。48年11月に取締役副社長小川修次が第8代社長に就任し、1.輸出の増進に一段と力を入れる 2.国際的な生産、販売体制の確立を図る 3.新商品開発に積極的、勇敢にとり組む 4.諸事節約、全員参加によるコストの低減を図る の4点を重点施策に掲げた
    • [91]48年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と大きな前進をみたが、49年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり売上高の伸びは9.9%にとどまり税引利益は5億4,600万円の減少。50年度はプラグの輸出停滞(0.5%減)に加えてセラミック部門も引続き不振(7.5%減)のため総売上高はわずか4%の微増だった。48年11月に取締役副社長小川修次が第8代社長に就任し、1.輸出の増進に一段と力を入れる 2.国際的な生産、販売体制の確立を図る 3.新商品開発に積極的、勇敢にとり組む 4.諸事節約、全員参加によるコストの低減を図る の4点を重点施策に掲げた
    • [92]48年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と大きな前進をみたが、49年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり売上高の伸びは9.9%にとどまり税引利益は5億4,600万円の減少。50年度はプラグの輸出停滞(0.5%減)に加えてセラミック部門も引続き不振(7.5%減)のため総売上高はわずか4%の微増だった。48年11月に取締役副社長小川修次が第8代社長に就任し、1.輸出の増進に一段と力を入れる 2.国際的な生産、販売体制の確立を図る 3.新商品開発に積極的、勇敢にとり組む 4.諸事節約、全員参加によるコストの低減を図る の4点を重点施策に掲げた
    • [94]48年3月にマレーシアNGKスパークプラグ(当社40%、文秀有限公司40%、トウンクナランダ20%)、49年4月にサイアムNGKスパークプラグ(当社30%)を現地資本との合弁で設立。50年5月に英国NGKスパークプラグ(当社90%、シムズ10%)をエセックス州に設立。51年5月には米国NGKスパークプラグの販売代理店アーニー・マッカフィー・エンジニアリング社との合弁による「米国NGKスパークプラグ製造株式会社」(当社70%)をカリフォルニア州バンナイス市に設立し、52年7月から製造を開始した
    • [102]53年度は売上高に若干の鈍化傾向が見られ利益も2.5%のマイナスとなった。これはプラグの内・外需の低下と円高によるもの。第二次石油危機の影響を大きく受けた55年度は売上高こそ14%台を達成したが利益は2度目のマイナスとなった。主力製品であるプラグの販売が輸出努力によって29.2%増と上昇したにもかかわらず内需が4%減となったためである。56年度に入るとセラミック部門が内・外需共低水準で推移したが、利益は全社あげての合理化努力によって7%台まで上向いた
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)
    • [93]先般の石油ショック以来アメリカから安い製品が輸入され、セラミック部門特に電子部門は大きな打撃を受けた
    • [95]韓国では韓国プラグ工業を設立しプラントを輸出して「ゴールデン」ブランドで生産、パキスタンにもプラント輸出し「ヒーロー」ブランドで親しまれている。発展途上国ではプラグの生命である絶縁体を製造する技術に難点があるので、相手国のブランドを付けた絶縁体その他の部品を日本国内で生産し輸出する形をとっている。海外進出にあたって大切なのは現地政府の安定度、国民の勤勉さ、パートナーの人柄の3点。アメリカでの合弁会社をぜひ実現させたいのは、日本からの輸出にたよっていたのではアメリカのビッグ3に対抗できないからである
    • [96]韓国では韓国プラグ工業を設立しプラントを輸出して「ゴールデン」ブランドで生産、パキスタンにもプラント輸出し「ヒーロー」ブランドで親しまれている。発展途上国ではプラグの生命である絶縁体を製造する技術に難点があるので、相手国のブランドを付けた絶縁体その他の部品を日本国内で生産し輸出する形をとっている。海外進出にあたって大切なのは現地政府の安定度、国民の勤勉さ、パートナーの人柄の3点。アメリカでの合弁会社をぜひ実現させたいのは、日本からの輸出にたよっていたのではアメリカのビッグ3に対抗できないからである
    • [97]韓国では韓国プラグ工業を設立しプラントを輸出して「ゴールデン」ブランドで生産、パキスタンにもプラント輸出し「ヒーロー」ブランドで親しまれている。発展途上国ではプラグの生命である絶縁体を製造する技術に難点があるので、相手国のブランドを付けた絶縁体その他の部品を日本国内で生産し輸出する形をとっている。海外進出にあたって大切なのは現地政府の安定度、国民の勤勉さ、パートナーの人柄の3点。アメリカでの合弁会社をぜひ実現させたいのは、日本からの輸出にたよっていたのではアメリカのビッグ3に対抗できないからである
    • [98]現在(1976年時点)当社は月産1,200万個、これに海外の生産分を加えると月産1,600万個になる。世界のスパークプラグの生産順位は第1位がアメリカのチャンピオンで月産約4,000万個、第2位がGMのACスパークプラグで月産約3,000万個、第3位が当社。国内では当社以外に日本電装、日立が製造している。昭和30年における国内生産量は月産70万個、そのうち当社は50万個。10年後の昭和40年には全体で400万個、うち当社が300万個。当社製品の4割は輸出で、そのうちの50%がアメリカ向け。スパークプラグの強味はライフサイクルが長くこれに代わるべき製品がないこと、および消耗品であること。スパークプラグの新車用と補修用の比率は1対3
    • [99]現在(1976年時点)当社は月産1,200万個、これに海外の生産分を加えると月産1,600万個になる。世界のスパークプラグの生産順位は第1位がアメリカのチャンピオンで月産約4,000万個、第2位がGMのACスパークプラグで月産約3,000万個、第3位が当社。国内では当社以外に日本電装、日立が製造している。昭和30年における国内生産量は月産70万個、そのうち当社は50万個。10年後の昭和40年には全体で400万個、うち当社が300万個。当社製品の4割は輸出で、そのうちの50%がアメリカ向け。スパークプラグの強味はライフサイクルが長くこれに代わるべき製品がないこと、および消耗品であること。スパークプラグの新車用と補修用の比率は1対3
    • [100]現在(1976年時点)当社は月産1,200万個、これに海外の生産分を加えると月産1,600万個になる。世界のスパークプラグの生産順位は第1位がアメリカのチャンピオンで月産約4,000万個、第2位がGMのACスパークプラグで月産約3,000万個、第3位が当社。国内では当社以外に日本電装、日立が製造している。昭和30年における国内生産量は月産70万個、そのうち当社は50万個。10年後の昭和40年には全体で400万個、うち当社が300万個。当社製品の4割は輸出で、そのうちの50%がアメリカ向け。スパークプラグの強味はライフサイクルが長くこれに代わるべき製品がないこと、および消耗品であること。スパークプラグの新車用と補修用の比率は1対3
    • [101]現在(1976年時点)当社は月産1,200万個、これに海外の生産分を加えると月産1,600万個になる。世界のスパークプラグの生産順位は第1位がアメリカのチャンピオンで月産約4,000万個、第2位がGMのACスパークプラグで月産約3,000万個、第3位が当社。国内では当社以外に日本電装、日立が製造している。昭和30年における国内生産量は月産70万個、そのうち当社は50万個。10年後の昭和40年には全体で400万個、うち当社が300万個。当社製品の4割は輸出で、そのうちの50%がアメリカ向け。スパークプラグの強味はライフサイクルが長くこれに代わるべき製品がないこと、および消耗品であること。スパークプラグの新車用と補修用の比率は1対3

第3章 1982-2008 (気が向いたら執筆します!) 酸素センサとイリジウムプラグ、インテル向け樹脂パッケージと医療用酸素濃縮装置

第4章 2009-2026 (気が向いたら執筆します!) 最終赤字とパッケージ再編からCAIRE買収、Niterraへの改称と過去最高益

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歴史年表 1936〜2025年

日本特殊陶業の沿革1936〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1936〜1955年日本碍子からの分離独立と戦後復興への苦闘江副孫右衛門点火プラグ・濾過器・耐酸モルタル三部門を引き継いだ独立会社の発足

1936年10月、日本碍子(現・日本ガイシ)が点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を分離し、資本金100万円で日本特殊陶業を名古屋に設立した。母体が1921年から重ねた点火プラグの研究を受け継ぎ、輸入に頼っていた自動車・航空機用点火プラグの国産化を事業目的に掲げた分離独立であった。

詳細を読む
★★★
江副孫右衛門NGKスパークプラグの製造を開始★★
森村勇終戦により2000名を解雇★★
森村勇東京・名古屋両証券取引所に株式上場
森村勇NTKニューセラミックの製造を開始
森村勇全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募集★★
1956〜1981年点火プラグの海外現地生産と国内シェア7割、セラミックICパッケージへの参入森村勇松尾義人常務が生産性本部「自動車部品チーム」団員として渡米
森村勇銅軸入りワイドレンジプラグを発売
森村勇点火プラグの海外現地生産へ踏み出す第一歩

1959年8月、日本特殊陶業はブラジルに100%出資の製造販売会社ブラジル特殊陶業を設立し、点火プラグの現地生産を開始した。輸出を中心に海外へ広げてきた同社が、自ら工場を構えて海外で生産する体制へ乗り出した最初の事例で、当時の森村勇社長のもとで進められた。

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★★★
松尾義人小牧工場が操業開始(本社工場よりニューセラミック部門を移転)
松尾義人小牧工場にプラグ工場(第2工場)が完成
松尾義人点火プラグで国内シェア70%を確保・補修用で高収益
松尾義人子会社を設立
星野茂雄自社技術を電子部品へ広げる非自動車領域への多角化

日本特殊陶業は1967年10月、ICチップを封止するセラミックICパッケージの製造販売を開始した。点火プラグの絶縁体アルミナ磁器で培った焼成技術を半導体向けへ転用し、点火プラグに次ぐ非自動車の中核事業を築く多角化であった。

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★★★
星野茂雄スーパープラグの値上げ実施
星野茂雄現地生産を本格化
星野茂雄自動車用温度センサの製造を開始
小川修次製造販売会社を設立
小川修次欧・米・豪で販売拠点を拡充
1982〜2008年酸素センサとイリジウムプラグ、インテル向け樹脂パッケージと医療用酸素濃縮装置小川修次自動車用酸素センサの製造を開始(ジルコニア型・チタニア型)★★
小川修次韓国・友進工業に資本参加
小川修次先進国での現地生産を本格化
小川修次製造販売会社を設立
小川修次伊勢工場を操業開始
金川重信NGKイリジウムプラグを発売★★
金川重信インテル向けの樹脂PKGの量産を本格化★★
金川重信医療用酸素濃縮装置の量産を開始
羽賀征治アジアでの生産増強
加藤倫朗半導体向けパッケージの増産・小牧工場で増産計画
2009〜2026年最終赤字とパッケージ再編からCAIRE買収、Niterraへの改称と過去最高益加藤倫朗最終赤字に転落・セラミックICパッケージの再編★★
尾堂真一スパークプラグ10億本生産計画を公表
尾堂真一日本セラテックを完全子会社化
尾堂真一Wells Vehicle Electronics関連を買収
尾堂真一CAIRE Inc.を買収★★
川合尊監査等委員会設置会社へ移行
川合尊英文商号をNGK SPARK PLUG CO., LTD.からNiterra Co., Ltd.に変更★★
川合尊過去最高益を達成
川合尊東芝マテリアルを完全子会社化★★
出典・参考 9件
出典・参考
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【企業の概況】
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革・主要指標)
  • 日本特殊陶業 有価証券報告書(社内沿革)
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社三十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1967年)
  • 日本特殊陶業株式会社『日本特殊陶業株式会社五十年史』(日本特殊陶業株式会社, 1987年)
  • 産業フロンティア物語 点火プラグ〈日本特殊陶業〉(ダイヤモンド社、1966年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 証券アナリストジャーナル 1976年4月号(小川修次・日本特殊陶業社長)

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