日本特殊陶業の最初の20年は、需要の出どころが三度入れ替わった期間だった。日本碍子の一部門として始まった点火栓は、独立した翌年の日華事変で軍用自動車の部品となり、太平洋戦争では航空機の消耗品になった。軍部は月産40万個、50万個を求めたが、創業時の生産能力は月産2万5,000個である。良品主義を掲げた技術者の江副孫右衛門が、この陣容では呑めないと軍の監督官へ告げたのは、会社の設計上の限界をそのまま言ったにすぎない。だが戦時に正直は通らず、江副は社長の座を降りた。1944年に資本金が親会社の日本碍子を追い越したとき、日本特殊陶業は森村系でただ一社、本業のまま繁忙を極めていた。そしてその本業は、翌年に消えた。
戦後に残ったのは、点火プラグしか作れない体と、資本金の63%にあたる戦時補償の損失だった。1946年の再開時、国内のプラグメーカーは8社あり、復興計画案に照らせば明らかに作り手が多すぎた。それでも月産能力20万個という規模は次位の倍近くあり、朝鮮向け60万個の大口注文を引き受けられたのはこの規模があったからである。1949年のドッジ不況では従業員の43%を手放し、翌年の朝鮮動乱では半年で売上高が1.6倍になった。同じ会社が1年のうちに人を切り、史上最高の40%配当を出している。この上下の落差に耐えられたのは、プラグ一品へ資源を集めていたためで、縮むときも伸びるときも動きが速かった。
日本特殊陶業は、森村系の企業から枝分かれして生まれた会社である。元会社は米国向けの洋食器を国産した日本陶器で、そこから碍子部門と衛生陶器部門が分かれ、日本碍子と東洋陶器が設立された。点火栓の研究は1921年に日本碍子で着手され、1930年には「NG点火栓」のブランドで発売にこぎ着ける。当時の生産は月産1,000個程度だった。1934年に日本フォードの新車用として採用された際、購買主任からNGはノーグッドに通じるので改称してはどうかと示唆され、ブランドを「NGK」へ改めた。世界へ広がる商標は、この呼び替えから始まっている。
1936年10月、日本碍子から点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を継承し、資本金100万円で日本特殊陶業株式会社が設立された。創業地は愛知県名古屋市で、初代社長には江副孫右衛門が就任している。同年には自動車製造事業法が制定され、翌年の日華事変で軍用自動車関係の需要が急増した。1943年6月には濾過器・耐酸モルタルの製造部門を日本碍子へ返還して点火プラグに集中し、戦時中はほとんど航空機用スパークプラグを生産する体制となる。1943年10月には工場が陸海軍航空本部の管理工場となり、翌1944年4月には軍需会社の指定を受けた。1945年3月時点の従業員数は2,887名に達していた。
戦時下の増産要求は、品質をめぐる経営の考え方と正面からぶつかった。太平洋戦争が航空機の消耗戦の様相を帯びると、軍部は航空機用プラグを作る日本特殊陶業へ月産40万個、50万個という増産命令を下した。創業時の生産能力は月産2万5,000個であり、当時の設備と陣容から見て応じられる数量ではない。3,000人近い従業員の大部分は学徒動員の生徒と徴用で他業種から移ってきた未経験者で、技術者出身で良品主義を掲げる江副孫右衛門社長は、この陣容では命令を呑めないと軍の監督官へ告げた。これが軍部を刺激し、1944年、江副は社長を退任し、森村勇が第2代社長となった。資本金は1938年11月に200万円、1942年3月に400万円、1944年9月に800万円と積み増され、親会社の日本碍子を追い越した。
終戦で軍需は消え、1945年11月に2,000名を解雇して事業規模を縮小した。軍需会社の指定は、ここで足かせに変わる。航空機用の点火栓は製造を許されず、機械を動かす資金を銀行から借りることもできない。再開には進駐軍から民需転換の許可を得るほかなかったが、名古屋の支部へ願書を出しても10日20日と待たされて許可が下りなかった。思案の末、水野智彦専務が京都の司令部へ直接出向いて許可証を持ち帰り、月産5万個の許可を得て農舶用の点火栓の生産にこぎ着ける。自動車工業そのものが、1945年9月に月間1,500台のトラック、1947年6月に年間300台の乗用車の生産を認められるにすぎない状態だった。
再開した市場は、需要に対して作り手が多すぎた。1946年の工場再開時の国内プラグメーカーは8社で、経済安定本部の自動車関係復興計画案に照らせば明らかに供給過剰であり、さらに新規メーカーが続出して競争は激しかった。そのなかで日本特殊陶業は資本金800万円・月産能力20万個・従業員862名と規模で抜けており、次位の日立製作所多賀工場が月産11万個、愛知化学工業が10万個だった。1947年春には見返り物資として朝鮮向けプラグ60万個の大口受注があり、それまで月平均14〜15万個だった販売が同年9月には一挙に40万個へ跳ね上がる。同年10月には物価庁告示でプラグの統制価格も撤廃された。
需要が戻っても、財務の傷は別に塞ぐ必要があった。1946年10月公布の戦時補償特別措置法により、政府が軍需会社へ公約した損失補償は実質的に帳消しとなる。日本特殊陶業が被った損失は500万円以上、当時の資本金800万円の63%にあたる額で、特別経理会社の指定を受けて新旧勘定の分離と経理の再建整備を迫られた。1948年2月に企業再建整備法による認可を得て新旧勘定を併合し、同年5月に資本金を1,700万円増額して2,500万円とする増資を行う。1949年5月には株式を公開し、東京・名古屋両証券取引所の第1部へ新規上場した。1950年8月と1951年4月の二度、資産再評価法に基づいて固定資産を再評価し、減価償却を適正化している。
1949年4月のドッジ・ラインによる安定強化予算の決定で株式市場は崩落し、1948年初めに500円を超えていた同社株は17円まで下がって、日本特殊陶業はつぶれるのではないかと言われた。プラグの在庫は3.5か月分の販売数にあたる70万個を超え、同年7月、全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募集して「創業以来初めて迎えた難局」を切り抜けている。退職金すら払えず銀行に融資を断られる有様だった。森村勇社長は、今はぬるま湯につかっている時だから飛び出しては風邪を引くと繰り返し、耐えることを説いた。同年11月には労働組合から生活防衛のための赤字補給金160万円の支給を申し入れられ、逼迫した資金のなかから12月に120万円、翌年4月に残る40万円を払っている。
翌1950年に始まった朝鮮動乱は自動車産業を活況に導いた。受注急増によって売上高はわずか半年で1.6倍に増え、操業以来初めて1億円の大台を突破し、1年後には2.6倍の2億円に達する。1951年3月には配当を年8%から一挙に20%へ引き上げ、同年9月には創立15周年の記念増配分20%を加えた40%という同社史上最高の配当で株主に応えた。同年12月には資本金を5,000万円へ倍額増資し、生産力の拡充と近代化のための設備投資に充てている。労働集約的な生産方式だったため受注増はそのまま人員増につながり、従業員は1950年3月末の422人から1954年3月末には809人へ増えた。
エンジンの高性能化は、プラグの絶縁体に一段と厳しい使用条件を課した。焼物の素地はコージライト系からムライト系、さらにアルミナ系へと改良され、1951年5月には機械的強度と耐急熱性能を高めたP-5素地へ、1955年8月には高アルミナ質のP-6素地へ全面的に切り替えられた。成形方法も1954年5月に、従来の押出し・切断・赤外線乾燥方式から、噴霧乾燥した微粉末を油圧成形するラバープレス方式へ改められている。当時すでにチャンピオンとACはアルミナ磁器を採用しており、素地の転換は世界の先行メーカーに追いつくために避けて通れない作業だった。大規模生産に対応してコールドフォーマーが導入され、金具の増産と原価低減に寄与した。
点火プラグは、規格が国際的に共通している製品である。トヨタや日産の車に付いた製品はGMやフィアットの車にもそのまま合い、国内で通用すれば世界でも通用する。1960年8月に輸出課を置いた日本特殊陶業が、輸出比率を1961年の6%台から5年で18.4%へ引き上げられたのは、この性質があったからだった。ただし規格の共通性は、売れる約束ではない。1959年に進出したブラジルではチャンピオンがプラグの代名詞で、同社とボッシュが市場を占め、日本特殊陶業に得意先は一社もなかった。小林朗以下14名が現地のフォードやGMへ50回、60回と足を運び、5年かけて全メーカーの採用へ届かせている。共通規格は入場券であって、扉は人が叩いて開けた。
1976年の生産は月産1,200万個で、チャンピオンの約4,000万個、ACの約3,000万個に次ぐ世界第3位、国内では1965年の400万個のうち300万個を占めた。この位置を得た会社が次に問われたのは、プラグに依存し続けるかどうかである。1967年10月に製品化したセラミックICパッケージは、プラグと同じ焼物の技術を自動車以外の産業へ持ち込む試みで、1970年代初めにはセラミック部門が売上構成の35%前後を占めた。プラグは消耗品で代替品がなく、新車用と補修用が1対3という構造が需要の減少を和らげる。安定した本業を抱えたまま、価格競争の激しい電子部品へ資源を割いたところに、この25年の性格がある。
輸出そのものは1949年上半期に始まっていたが、専門の組織が置かれたのは1956年4月、営業部のなかに営業課を設けたときだった。基盤が脆弱だったため、1961年頃までプラグの輸出比率は総売上高の5%前後にとどまっている。1960年8月に輸出の拡大を重点戦略の一つへ掲げて輸出課を設置すると、輸出額は年平均22%の伸びで増え、1961年に6%台だった輸出比率は5年後の1966年に18.4%へ上がった。点火プラグは規格が国際的に共通で、トヨタや日産の車に付いた製品をGMやフィアットの車に付けてもそのまま合う。国内で通用すれば世界でも通用するという製品の性質が、国内市場の外へ出る余地を作っていた。
初の海外生産拠点は、得意先の一社もない市場に置かれた。工業立国を掲げるブラジル政府から駐伯日本大使を通じて工場誘致の話が入り、1959年2月に進出が決まる。同年8月、モザイクタイルを生産していたモジ製陶と折半出資でブラジル特殊陶業を設立した。当時の同国ではチャンピオンがプラグの代名詞で、同社とボッシュの二社が市場を占めていた。インフレ率が180%に達するなかで進出を決めたのは森村勇社長の判断である。工場建設に渡った小林朗工業部次長以下14名は、取引を得るため現地のフォードやGMへ50回、60回と足を運び、1960年7月のGMへのOEM納入を皮切りに組付け採用を広げ、進出5年後の1964年には同国の全自動車・二輪車メーカーへ採用された。
国内の供給力は新規立地で作った。本社工場は拡幅の余地が限界に達し、名古屋市の土地区画整理事業による道路拡張で敷地の一部が収用されることも重なって、新工場の建設は急を要していた。1960年10月に小牧市岩崎へ約94,000平方メートルの用地を取得し、1961年12月にセラミック工場、1964年2月にプラグ工場を完成させ、塑性加工用コールドフォーマーをはじめ最新鋭機を入れてラインを自動化した。1966年下期のプラグの生産・販売は月間400万個、うち輸出が100万個に達している。同年6月には初の海外販売会社として、資本金5万ドルの米国NGKスパークプラグをロサンゼルスに設立した。この時点で製品は80カ国以上へ渡り、生産量は世界で4〜5位を占めていた。
1966年から1970年にかけて、日本経済は実質成長率が年10%を超えるいざなぎ景気に入り、自動車の生産台数は1967年に300万台、1970年に500万台と大台を更新した。1955年から1965年の10年で自動車の生産台数は約10倍、保有台数は6倍になっており、プラグの需要はこの裾野に乗っていた。日本特殊陶業の業績も1970年度までの5年間、平均して年28%近い伸びを続ける。伸びを作ったのは主にプラグの輸出とセラミック製品で、1970年代初めの製品別売上構成に占めるセラミック部門の比重はおおむね35%前後、輸出の比重も20%前後を占めるに至った。
増産の受け皿は小牧に集中して建てられた。1967年3月にメタライズセラミック製品の需要増へ応える電子部品工場、同年10月に切削工具工場、1968年1月にプラグ絶縁体工場、1969年3月にセラミック工場と、毎年のように工場が加わる。1969年7月には、ICパッケージの集約工場として二つ目の電子部品工場が建った。ICパッケージの製品化は1967年10月、LSI用は1971年10月である。セラミックと金属を密封する磁器のメタライズ法は、主にモリブデンの金属膜を焼き付けて金属を鑞付けする方法で、高い真空度に対しても気密を保つ。この部門は1976年時点で月商2億円から2億5,000万円に達し、米国のRCAほか数社と取引していた。
拡張の途中で、為替と経営陣の両方が揺れた。1971年8月のニクソン声明に続くスミソニアン合意で円は対ドル16.88%の切り上げとなり、1971年度のセラミックの売上高は前年度の49億円から42億円へ14%近く減り、1972年度はプラグの輸出が前年度比6%の微増にとどまった。経営陣の交代も相次いだ。1966年10月に松尾義人社長が急逝し、1971年6月には後を継いだ星野茂雄社長も心臓マヒで他界する。資本自由化が「第2の黒船」と受け取られた時期でもあったが、日本特殊陶業は外資との提携を選ばず、逆に米国へ自ら進出して外国の動向をいち早く掴んだ。
1973年10月の第一次石油危機は、需要の減少となって遅れて効いた。1973年度は売上高200億円、税引利益18億4,400万円と前進したが、1974年度はセラミック部門が前年度比12.3%減となり、税引利益は5億4,600万円減少する。1975年度はプラグの輸出が0.5%減、セラミック部門も7.5%減で、総売上高はわずか4%の微増にとどまった。危機のさなかの1973年11月に第8代社長へ就任した小川修次は、輸出の増進、国際的な生産・販売体制の確立、新商品開発への積極的な取り組み、全員参加によるコスト低減の四つを重点施策に掲げた。石油ショック以降は米国から安い製品が入り、電子部品が大きな打撃を受けていた。
四つの施策のうち最も速く実を結んだのは、国際的な生産・販売体制だった。1973年3月にマレーシアNGKスパークプラグ、1974年4月にサイアムNGKスパークプラグを現地資本との合弁で設立し、1975年5月に英国NGKスパークプラグ、1976年5月には米国NGKスパークプラグ製造をカリフォルニア州バンナイス市へ置いて翌1977年7月から製造に入る。韓国とパキスタンへは、プラグの生命である絶縁体を国内で作って輸出し、相手国のブランドで生産させるプラント輸出の形を採った。小川修次は現地生産の条件として、現地政府の安定度、国民の勤勉さ、パートナーの人柄の三つを挙げている。日本からの輸出だけでは米国のビッグスリーに対抗できないという判断があった。
1976年時点のプラグの生産は月産1,200万個、海外分を加えて1,600万個で、チャンピオンの約4,000万個、ACの約3,000万個に次ぐ世界第3位だった。国内では1955年の月産70万個のうち50万個、1965年の400万個のうち300万個を占め、競合は日本電装と日立の二社にとどまる。輸出は売上高の4割、そのうち半分が米国向けである。プラグは消耗品で代替品がなく、新車用と補修用の比率が1対3という構造が需要の振れを和らげた。1978年度は円高でプラグの内外需が低下して利益が2.5%減り、第二次石油危機の1980年度も内需の4%減を輸出の29.2%増で補いながら利益は再び前年を割ったが、1981年度は全社の合理化で利益が7%台まで戻っている。
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|---|---|---|---|---|
| 1936〜1955年日本碍子からの分離独立と戦後復興への苦闘 | 江副孫右衛門 | 点火プラグ・濾過器・耐酸モルタル三部門を引き継いだ独立会社の発足 1936年10月、日本碍子(現・日本ガイシ)が点火プラグ・濾過器・耐酸モルタルの三製造部門を分離し、資本金100万円で日本特殊陶業を名古屋に設立した。母体が1921年から重ねた点火プラグの研究を受け継ぎ、輸入に頼っていた自動車・航空機用点火プラグの国産化を事業目的に掲げた分離独立であった。 詳細を読む | ★★★ | |
| 江副孫右衛門 | NGKスパークプラグの製造を開始 | ★★ | ||
| 森村勇 | 終戦により2000名を解雇 | ★★ | ||
| 森村勇 | 東京・名古屋両証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 森村勇 | NTKニューセラミックの製造を開始 | ★ | ||
| 森村勇 | 全従業員782名の43%にあたる336名の希望退職を募集 | ★★ | ||
| 1956〜1981年点火プラグの海外現地生産と国内シェア7割、セラミックICパッケージへの参入 | 森村勇 | 松尾義人常務が生産性本部「自動車部品チーム」団員として渡米 | ★ | |
| 森村勇 | 銅軸入りワイドレンジプラグを発売 | ★ | ||
| 森村勇 | 点火プラグの海外現地生産へ踏み出す第一歩 1959年8月、日本特殊陶業はブラジルに100%出資の製造販売会社ブラジル特殊陶業を設立し、点火プラグの現地生産を開始した。輸出を中心に海外へ広げてきた同社が、自ら工場を構えて海外で生産する体制へ乗り出した最初の事例で、当時の森村勇社長のもとで進められた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 松尾義人 | 小牧工場が操業開始(本社工場よりニューセラミック部門を移転) | ★ | ||
| 松尾義人 | 小牧工場にプラグ工場(第2工場)が完成 | ★ | ||
| 松尾義人 | 点火プラグで国内シェア70%を確保・補修用で高収益 | ★ | ||
| 松尾義人 | 子会社を設立 | ★ | ||
| 星野茂雄 | 自社技術を電子部品へ広げる非自動車領域への多角化 日本特殊陶業は1967年10月、ICチップを封止するセラミックICパッケージの製造販売を開始した。点火プラグの絶縁体アルミナ磁器で培った焼成技術を半導体向けへ転用し、点火プラグに次ぐ非自動車の中核事業を築く多角化であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 星野茂雄 | スーパープラグの値上げ実施 | ★ | ||
| 星野茂雄 | 現地生産を本格化 | ★ | ||
| 星野茂雄 | 自動車用温度センサの製造を開始 | ★ | ||
| 小川修次 | 製造販売会社を設立 | ★ | ||
| 小川修次 | 欧・米・豪で販売拠点を拡充 | ★ | ||
| 1982〜2008年酸素センサとイリジウムプラグ、インテル向け樹脂パッケージと医療用酸素濃縮装置 | 小川修次 | 自動車用酸素センサの製造を開始(ジルコニア型・チタニア型) | ★★ | |
| 小川修次 | 韓国・友進工業に資本参加 | ★ | ||
| 小川修次 | 先進国での現地生産を本格化 | ★ | ||
| 小川修次 | 製造販売会社を設立 | ★ | ||
| 小川修次 | 伊勢工場を操業開始 | ★ | ||
| 金川重信 | NGKイリジウムプラグを発売 | ★★ | ||
| 金川重信 | インテル向けの樹脂PKGの量産を本格化 | ★★ | ||
| 金川重信 | 医療用酸素濃縮装置の量産を開始 | ★ | ||
| 羽賀征治 | アジアでの生産増強 | ★ | ||
| 加藤倫朗 | 半導体向けパッケージの増産・小牧工場で増産計画 | ★ | ||
| 2009〜2026年最終赤字とパッケージ再編からCAIRE買収、Niterraへの改称と過去最高益 | 加藤倫朗 | 最終赤字に転落・セラミックICパッケージの再編 | ★★ | |
| 尾堂真一 | スパークプラグ10億本生産計画を公表 | ★ | ||
| 尾堂真一 | 日本セラテックを完全子会社化 | ★ | ||
| 尾堂真一 | Wells Vehicle Electronics関連を買収 | ★ | ||
| 尾堂真一 | CAIRE Inc.を買収 | ★★ | ||
| 川合尊 | 監査等委員会設置会社へ移行 | ★ | ||
| 川合尊 | 英文商号をNGK SPARK PLUG CO., LTD.からNiterra Co., Ltd.に変更 | ★★ | ||
| 川合尊 | 過去最高益を達成 | ★ | ||
| 川合尊 | 東芝マテリアルを完全子会社化 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日本特殊陶業)