1919年〜 碍子専業から多角化宣言まで
- 1919年 日本碍子を設立
- 1922年 化学工業用機器類の製造販売開始
- 1936年 点火プラグ部門を分離、日本特殊陶業を設立
- 1942年 知多工場を新設
- 1949年 東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式上場
- 1958年 金属製品(ベリリウム銅)の製造販売開始
- 1964年 第1次長期経営計画での「碍子6・非碍子4」構想の策定と周辺分野への多角化 碍子で世界一になった会社が、なぜ売上の4割を碍子以外に置くと定めたか
森村組から分離した特別高圧碍子工場
日本の電気事業は1886年に東京電灯が営業を始めたのを皮切りに各地で興り、電力を長距離送電する送電線が年々増えた。送電線の伸びに比例して碍子の需要も急増したが、当時はアメリカ・イギリスなど先進国からその全量を輸入していた。1905年春、芝浦製作所の岸敬二郎は、アメリカのトーマス社から持ち帰った碍子の一片を日本陶器社長の大倉和親に示し、国産化を勧めた。これがわが国における特別高圧碍子製造の発端である。大倉社長は「営利ではなく、国家への奉仕としてやるのだ」との決意で技術陣の研究を始めさせた。輸入に頼っていた送電用碍子を国産で置き換えるというこの動機が、後に碍子部門を日本陶器から独立させる選択へつながった。 [1][2][3][4]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]1886年(明治19年)東京電灯が営業を始め、以後各地で電気事業が興り送電線が増加
- [2]当時のガイシはアメリカ・イギリスなど先進国から全量を輸入していた
- [3]1905年春、芝浦製作所の岸敬二郎が米トーマス社から持ち帰った碍子の一片を日本陶器社長の大倉和親に示し国産化を勧めた(特別高圧碍子製造の発端)
- [4]大倉和親社長が「営利ではなく、国家への奉仕としてやるのだ」との決意で技術研究を始めさせた
1904年、森村組は対米輸出用の陶磁器生産のため愛知県鷹羽村に日本陶器合名会社(現ノリタケ)を設立した。翌1905年、アメリカ視察から戻った芝浦製作所(現東芝)電気部主任の岸敬二郎が、特別高圧碍子の製造研究を勧めた。日本陶器はこの助言に従って研究に着手し、1907年には芝浦製作所に15kV用碍子を初納入する。以後、日本の電気事業の興隆とともに碍子需要が急増し、1919年5月、大倉和親・森村開作ら8名が発起人となって碍子部門を独立させる形で、資本金200万円の日本碍子株式会社が名古屋に設立された。 [5][6][7][8][9]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [5]1904年 森村組が愛知県鷹羽村に日本陶器合名会社(現ノリタケ)を設立
- [6]1905年 芝浦製作所(現東芝)電気部主任の岸敬二郎が特別高圧碍子の製造研究を勧めた
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [7]1907年 芝浦製作所に15kV用碍子を初納入
- [8]1919年5月 日本陶器の碍子部門を独立させ資本金200万円の日本碍子株式会社を名古屋に設立
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [9]1919年5月の設立は大倉和親・森村開作ら8名(大倉和親・森村開作他六名)が発起人
創業時の主力商品は特別高圧碍子と碍管類で、顧客は電力会社だった。1920年代にはアメリカ製のハロップ式トンネル窯と1000kV級高圧試験装置を導入、東京・大阪・福岡・仙台・札幌に出張所を開設し、アメリカ・カナダ・インドへも社員を派遣して販路を開拓した。1922年には磁器製耐酸機器の製造も開始し、化学工業の勃興に合わせて事業を広げた。同じ森村組系の日本陶器が食器、日本ガイシが産業セラミックスという役割分担が、固まった。 [10][11][12]
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [10]創業時の主力商品は特別高圧碍子と碍管類で顧客は電力会社
- [12]1922年 磁器製耐酸機器(化学工業用機器類)の製造を開始
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [11]1920年代にアメリカ製ハロップ式トンネル窯と1000kV級高圧試験装置を導入、東京・大阪・福岡・仙台・札幌に出張所を開設し米加印へ社員派遣
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]1886年(明治19年)東京電灯が営業を始め、以後各地で電気事業が興り送電線が増加
- [2]当時のガイシはアメリカ・イギリスなど先進国から全量を輸入していた
- [3]1905年春、芝浦製作所の岸敬二郎が米トーマス社から持ち帰った碍子の一片を日本陶器社長の大倉和親に示し国産化を勧めた(特別高圧碍子製造の発端)
- [4]大倉和親社長が「営利ではなく、国家への奉仕としてやるのだ」との決意で技術研究を始めさせた
- [9]1919年5月の設立は大倉和親・森村開作ら8名(大倉和親・森村開作他六名)が発起人
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [5]1904年 森村組が愛知県鷹羽村に日本陶器合名会社(現ノリタケ)を設立
- [6]1905年 芝浦製作所(現東芝)電気部主任の岸敬二郎が特別高圧碍子の製造研究を勧めた
- [11]1920年代にアメリカ製ハロップ式トンネル窯と1000kV級高圧試験装置を導入、東京・大阪・福岡・仙台・札幌に出張所を開設し米加印へ社員派遣
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [7]1907年 芝浦製作所に15kV用碍子を初納入
- [8]1919年5月 日本陶器の碍子部門を独立させ資本金200万円の日本碍子株式会社を名古屋に設立
- [10]創業時の主力商品は特別高圧碍子と碍管類で顧客は電力会社
- [12]1922年 磁器製耐酸機器(化学工業用機器類)の製造を開始
点火プラグの分離と戦時動員
1936年10月、同社は点火プラグ部門を資本金100万円の日本特殊陶業株式会社として分離独立させた。自動車・航空機用プラグの軍需増に応えるための切り出しで、森村グループの産業セラミックス系統がさらに分岐した形である。1942年には愛知県半田市に知多工場を建設、主に耐酸機器の研磨・組立工場とした。太平洋戦争下では資材不足で電力会社の送電線建設が停滞し、同社は軍需用通信碍子・耐酸機器メーカーとして1944年に軍需会社の指定を受けたが、生産継続には多大な困難を伴った。 [13][14][15]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [13]1936年10月 点火プラグ部門を資本金100万円の日本特殊陶業株式会社として分離独立
- [15]1944年 軍需会社の指定を受けた(軍需用通信碍子・耐酸機器メーカーとして)
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [14]1942年 愛知県半田市に知多工場を建設(耐酸機器の研磨・組立工場)
戦後、同社は1948年以降インド・アメリカ・オーストラリア・スウェーデンなどから碍子を受注して輸出を再開した。1949年5月には東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式を上場、戦後復興期の資金基盤を整えた。1950年の朝鮮戦争勃発以降、電源開発への大量の財政資金投入で国内外の碍子需要が急増し、1957年に熱田工場、1962年に小牧工場を新設して一連の増産・試験設備の拡充を図った。当期の成長原動力は、戦後日本の電力インフラ投資そのものだった。 [16][17][18]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [16]1948年以降 インド・アメリカ・オーストラリア・スウェーデンなどから碍子を受注し輸出を再開
- [18]1957年 熱田工場を新設、1962年 小牧工場を新設
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [17]1949年5月 東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式上場
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [13]1936年10月 点火プラグ部門を資本金100万円の日本特殊陶業株式会社として分離独立
- [15]1944年 軍需会社の指定を受けた(軍需用通信碍子・耐酸機器メーカーとして)
- [16]1948年以降 インド・アメリカ・オーストラリア・スウェーデンなどから碍子を受注し輸出を再開
- [18]1957年 熱田工場を新設、1962年 小牧工場を新設
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [14]1942年 愛知県半田市に知多工場を建設(耐酸機器の研磨・組立工場)
- [17]1949年5月 東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式上場
1964年の「6:4構想」
1964年から発足した第1次長期経営計画で、同社は売上構成を碍子6・非碍子製品4まで高めるという6:4構想を発表した。熱田・小牧両工場の完成で碍子生産は世界的規模の第一人者の基盤が確立できたとの認識に立ち、本業の碍子に依拠しつつ周辺分野の多角化に成長の方向を求める宣言だった。具体的な候補は、磁器製散気板から始まった上下水処理装置、耐酸機器から広がる化学工業機器、1958年に工業生産に成功していたベリリウム銅などの金属部門だった。 [19][20]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [19]1964年から発足の第1次長期経営計画で売上構成を碍子6・非碍子製品4とする6:4構想を発表
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [20]1958年 ベリリウム銅の工業生産に成功(金属製品の製造販売開始)
1962年には米レオポルド社から急速濾過用集水装置の技術導入を受け、上下水処理・汚泥処理装置のプラントメーカーへ参入した。1963年には環境装置類の販売を開始している。碍子という一製品で世界一になった会社が、次の成長源を複数の分野に分散させる戦略を明示した点で、この構想は以後60年間の事業展開の枠組みを決めた。セラミック技術を碍子に閉じ込めず、用途を広げて多角化していく思考様式が、このとき組織に埋め込まれた。 [21][22]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [21]1962年 米レオポルド社から急速濾過用集水装置の技術導入を受け上下水処理プラントメーカーへ参入
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [22]1963年 環境装置類の販売を開始
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [19]1964年から発足の第1次長期経営計画で売上構成を碍子6・非碍子製品4とする6:4構想を発表
- [21]1962年 米レオポルド社から急速濾過用集水装置の技術導入を受け上下水処理プラントメーカーへ参入
- 日本ガイシ 有価証券報告書 第159期(2024年3月期)【沿革】
- [20]1958年 ベリリウム銅の工業生産に成功(金属製品の製造販売開始)
- [22]1963年 環境装置類の販売を開始