1919年5月に日本碍子株式会社を設立。日本陶器の新規事業であった「碍子部門(従業員数144名が転籍)」を分離し、同年11月に名古屋市南区熱田東町において本社工場を新設した。名古屋に本社工場を設置した理由は、日本陶器グループである森村組が市内に工場用地を保有していたためであった。
生産品目は、絶縁部品の「特別高圧碍子」であり、主に電機メーカー及び電力会社向けに販売を開始した。
日本碍子の創業は「日本陶器(現ノリタケ)における新事業」が発端であり、日本陶器の創業一族である「森村財閥」の1社として位置付けられている。
事業面における日本碍子の創業は、日本陶器において碍子の研究開発に着手した明治38年に相当する。偶然、芝浦電気製作所の技術主任(岸敬次郎氏)が米国製の碍子を調べたところ、日本陶器の陶磁器と成分が似ていることを発見。その技術者が「米国製碍子の破片」を持って日本陶器を訪問した。日本陶器の経営を担っていた大倉和親氏は、碍子の国産化に意義を感じ、電力向けの外資への新規参入を決定した。
当時、明治時代から大正時代にかけて日本国内でも電力が普及し、その歩調に合わせる形で絶縁性能を持つ陶磁(碍子)の需要が高まることが予想されていた。特に水力発電所に普及によって、長距離発送電が必要になると、合わせて高圧に耐える特別碍子の需要も増加した。
ただし、特別高圧碍子の製品には「確実に発送電を行うために絶縁する」という高い品質が要求されており、海外メーカーからの輸入に依存していた。そこで、日本陶器では食器製造で培った「焼成技術」を活用し、碍子の開発に着手した。絶縁部品の製造に関するノウハウはないことから、電気面の技術については芝浦電気の岸氏が指導した。
明治42年に日本陶器は「特別高圧碍子」の国産化に成功。国内の水力発電所(箱根水力電気)に対して「45KVピン碍子」の納入を果たした。これにより研究開発のフェーズを脱却し、事業の本格展開に備えて別会社として「日本碍子株式会社」を設立した。
創業時から発電所などを顧客にしており、街中における電柱向けの碍子には注力しなかった。高品質や高耐久が要求される「特別高圧碍子」に注力することで、電力会社や大手電機メーカーを顧客とした。
大正8年に日本陶器から独立したものですね。それまでは日本陶器の1部門として碍子を作っていましたが、なにせ本業が輸出用の陶器ですから、そっちが忙しくなれば、この部門が非常にわずかしか作れない。ところがその時分から日本の伝呂奥開発というものが、徐々ながら進んできて、輸出用の陶磁器を作っている会社に、こういうものをやらせていては発展しないというので、森村市左衛門さんであるとか、大倉和親さんであるとか、いずれも故人になられましたが、そういう人たちが出資してこの会社が出来上がったわけです。(略)
われわれのところの製品ですが、これは、あくまで電気を絶縁するというのが目的ですね。それだからデザインも用途的なデザインはしますが、(注:日本陶器における食器のように)人の眼を喜ばせるようなことは一向に考えないし、原料にしても土の面白さとか、そんなことは考えない。もっとも機械的で、コンプレッションにも、ペンディングにも強く、そしてユニフォーミティーが高くなければならない。そうして熱にも低音にも耐えなければいかん。なぜならば、電気は地球上、寒帯熱帯を問わず、どこでも使われているわけです。