1917年5月15日に東洋陶器株式会社(現TOTO)を資本金100万円で設立。日本陶器における衛生陶器(水洗式トイレ・洗面器など)の新事業を展開するために、姉妹会社として発足した。
創業にあたっては、日本陶器(現・ノリタケカンパニーリミテド)の創業家である大倉孫兵衛・大倉和親の両氏が深く関係している。大倉氏らは、日本における洋風建築の普及を予見し、同時に洋式トイレの需要拡大を予見して衛生陶器の製造を決断したことが創業の発端であった。
なお、TOTO設立前の段階で、日本陶器の社内で「製陶研究所」を発足して衛生陶器の研究をしており、1914年に国産初となる衛生陶器の販売を開始。これにより事業化の目処が立ったことで、本格展開のため、大倉氏など6名が出資者となり、TOTOの会社設立に至った。
なお、TOTOの設立に際しては、日本陶器の子会社という形式ではなく、大倉家の家業として経営。このため、日本陶器とTOTOは、出自の観点では共通項を持つが、資本面においては分離され、
東洋陶器の会社設立にあたって、日本陶器の本社がある名古屋ではなく、九州・小倉を選定。小倉で衛生陶器の工場を新設した。創業の地として、北九州を選定した理由は、筑豊炭田で産出する石炭の活用が容易であり、陶器製造における燃料である石炭の確保がしやすいことや、朝鮮からカオリンの原料仕入れが行いやすい点が理由であった。TOTOが現在に至るまで九州地区において工場を複数稼働している理由は、創業期の立地選定が影響している。
TOTOでは衛生陶器の生産にあたって、合理化による量産を志向。1920年1月には国内初となる「ドレスラー式トンネル窯」による生産設備(焼成工程)を導入し、陶器の量産体制を確立。投資額は30万円(当時の資本金は100万円)に及び、会社の財務を圧迫することが予想されたことから、創業者である大倉氏が個人で30万円を捻出した。衛生陶器において、東洋陶器がトップメーカーに躍り出る1つの要因となった。
1910年代まで、日本国内では放流式下水道設備の整備が不十分だったこともあり、水洗が必要な衛生陶器の普及は限定的であった。このため、TOTOは会社設立から7年間にわたり経営に苦戦。1921年には食器の生産を開始するなど、衛生陶器だけでは事業が成り立たない状況であった。
この結果、会社設立から7年間にわたって赤字を計上。1923年4月には欠損整理のために減資を実施した。
転機となったのが、1923年の関東大震災による復興であった。被災地を中心に洋風建築が新築でされ、同時に都心部において下水道が整備されたことで衛生陶器の需要が拡大。この結果、TOTOでは、戦前を通じて「東京・大阪」などの都心部を中心に、衛生陶器の販売が好調に推移した。
創業初期7カ年の惨憺たる苦難時代は、翁にとって最も苦慮を重ね、資本的にも大きな犠牲を払った時期であった。(略)トンネル窯を我が国で初めて採用したのも当時であって、翁は、陶磁器焼成上、将来必ずトンネル窯が必要であることを洞察され、巨額の資材を持って米国ドレスラー式トンネル窯の日本国内特許実施権を獲得し、大正9年1月、わが国陶業界に先駆けて東洋陶器工場内にその建設を遂げられたことは、前に記したとおりである。(略)
また、当時トンネル窯築造にあたり、経営難の会社に巨額の負担をかけるのに忍びないとして、築窯費も社長個人の立替を持って支弁されたのである。(略)
2月に企業再建の発足をした大正12年の9月1日、たまたま関東大震災が勃発した。東京、横浜等の大都市の目覚ましい復興によって、衛生陶器の需要が逐日増加し、創業以来の赤字を克服し、折柄、築造中であったドレスラー式トンネル窯第2号の増設が、奇しくも9月1日に完工してこれを即応し、経営状態も次第に好転して、東洋陶器今日発展の基礎がようやく築かれるようになった。
1948年に杉原周一氏(元三菱重工出身の技術者)が、三菱重工時代の上司の紹介によりTOTOへ入社。終戦により三菱重工は財閥解体となったため、杉原氏は退職して暇を持て余していたこともあり、TOTOの入社を決めた。
ところが、TOTOでは労働争議が勃発しており、労働組合の圧迫的な態度に憤慨。杉原氏は、入社後7ヶ月にわたって月給を受け取りながら、家で何もせずに過ごしていた。それでも、当時の江副社長は杉原氏の「技術力」を高く評価しており、クビにせず復帰を待った。このため、杉原氏はTOTOの職場に復帰することを決意した。
1949年1月より杉原氏は、小倉工場における水洗金具における生産改善に着手した。TOTOは陶器焼成(陶磁器)に関するノウハウを創業時から蓄積していたが、水栓(金属)に関する知見はなく、外部から技術者を招き入れる道を選択した。
杉原氏は戦時中に三菱重工で軍用機向けの「ガソリン噴射発動機」の開発および量産に従事しており、金属機械に関する知見を持ち合わせていた。そこで、これらの航空機製造のノウハウを、TOTOの水栓金具の製造に応用。杉原氏は新しい水栓金具の開発にも従事して「自在水栓および蛇口間の回転接続」「水栓頭部ナットパッキング」などを考案した。
この結果、高度経済成長基を通じてTOTOは「衛生陶器」に次ぐ新事業として「水栓金具」における売上高を拡大。杉原周一氏は、新事業を軌道に乗せた功績により、1953年に取締役(入社5年目)、1957年にTOTO常務、1967年にはTOTO社長に就任した。
東陶機器は争議の最中だった。労働組合の力が強く、周一の面接には組合の委員長が立ち会った。これがまた周一の頭にカチンときた。1日だけ勤めただけで、すぐ、大分の田舎へ帰ってしまった。
東陶機器5代目の社長江副孫右衛門は、杉原周一の持っている技術・経営力・真面目さ・潔癖さを高く買っていたので、彼が大分の田舎へ引き上げてからも、月給を送り続けた。7ヶ月が経った。
周一は江副の情にほだされ、再び北九州へ出た。長い間、もめ続けた争議はピリオドを打っていた。昭和24年1月のことである。周一は陶器生産工程の機械化に乗り出した。同年秋には、製造部次長になり、鋳工課長を兼ねた。水栓金具の研究に乗り出し、設計・生産を始めた。他人のやらないことをやってみたいという周一にとっては、申し分のない職場である。
水栓金具をつくる技術とガソリン噴射発動機のそれとは、考え方が同じようなものであったため、周一には幸いした。1953年1月、杉原周一は取締役に選任されるとともに金具工場に就任した。
1953年の時点でTOTOは衛生陶器の生産量において国内トップシェアとなる「75%」(1954/7大阪経済評論)を確保。日本一の衛生陶器メーカーとして認知され、売上高に対する税引後利益率は10%超の高収益を確保した。
長期目標として、2001年において連結売上高1兆円の目標を設定(結果は未達へ)。海外を含めた展開を重視し、1989年には米国に現地法人(販売子会社)を新設