1918年4月8日に寒川恒貞氏が中心となって、東海電極製造(現・東海カーボン)を設立。電炉向けの黒鉛電極の国産化を目的として、東京に本社、名古屋市内(御器所)に工場を設置して発足した。
会社設立時の資本金は50万円、株主数は153名であり、取締役社長に寒川恒貞氏が就任した。
東海カーボンの創業には、(1)名古屋電燈を経営していた福澤桃介氏、(2)名古屋電燈の顧問技術者であった寒川恒貞氏、合計2名が深く関係している。
大正時代までに福澤桃介氏は名古屋電燈(現・東邦)の株式を取得し、木曽川水系に水力発電所を相次いで新設することで、中京地区における有力な電力会社として発展させた。しかし、大正時代において日本国内の電力需要は限定的であり、余剰電力販売のために「電気工業」の展開を模索していた。
そこで、福澤桃介氏は、名古屋電燈の技術顧問であった寒川恒貞氏に対して余剰電気を活用した事業展開を提案。欧米視察から帰国した寒川氏は「(1)電気製鉄・(2)アルミ製造・(3)ソーダ製造」を検討して、電気製鉄の将来性を評価した。
寒川氏の提案を受けて、1913年に名古屋電燈は製鋼部を設置して、電気製鋼の事業を開始。1916年に同部門を電気製鋼所(現・大同特殊鋼)として分離した。
電気製鋼所において、製造のために消耗品「黒鉛電極」が必要であり、米アチソン社からの輸入品に頼っていたため、高コストの要因となっていた。
そこで、寒川恒貞氏は日本国内における電気製鋼の需要拡大を予想し、黒鉛電極の国産化を決定。外反も考慮し、1919年に電気製鋼所とは別会社として東海電極製造を設立するに至った。
東海カーボン(株)は大正7年4月8日、東海電極製造株式会社の名称で寒川恒貞を中心に創立された。(株)電気製鋼所の創設に参画し、常務取締役として同社の発展に積極的に寄与していた寒川が当社を創立したのは、電気製鋼所が必要とする電極材料の自給を考慮に入れた上、将来の電気製鋼事業の発展を予想して、これを独立の事業として取り上げて、発足したものである。(略)
品質の安定した電極を必要としていたのは電気製鋼所ばかりではなかった。電力を消費する各種の重化学工業を育成する(略)も、炭素工業は欠くことのできない産業であった。このような視点に立って、広く関連業界の要請に応じうる独立した炭素工業を育成すべきである、という寒川の卓見が当社を誕生させることになったのである。
寒川の主張は、当時電気製鋼所社長で、中京財界に重きをなしていた福澤桃介の賛同を得て実行に移された。当社の設立は、福沢の声望を背景としていたので、中京財界人の協力もあり、株式の募集もたちまち満額となった。
自動車向けタイヤ原料として「カーボンブラック」の需要が増大したことを受けて、愛知県に知多工場を新設。投資額は約10億円。この増産投資により、東海カーボンは「黒鉛電極」に次ぐ主力事業として「カーボンブラック」の事業展開を軌道に乗せた。