日本電気(NEC)は、ブラウン管の製造のために「真空管ブラウン管用ガラス」について、子会社として日本電気硝子を設立した。終戦後の財閥解体を受けて日本電気(住友財閥系)から分離独立し、1949年に日本電気硝子株式会社として設立された。
1949年の日本電気硝子の設立時点において従業員数は90名であり、大企業から分離独立した企業ではあったが、実態としては中小企業であった。
そこで、生産量を少しでも拡大するため、工場の24時間稼働体制(休日なし)を採用するなど、企業存続のためにあらゆる手を尽くした。
硝子市場においては、建築・自動車・瓶といった領域には競合企業が存在していたため、日本電気硝子は競合が少ないニッチな市場として「管ガラス」に着眼した。主な用途は、蛍光灯であり、当時は手工業による中小企業が群雄割拠していた。そこで、日本電気硝子は米オーエンス社と技術提携を締結し、管ガラスの量産設備を導入。これによって、低価格な蛍光灯の量産体制を確立し、市場シェアを確保した。
手吹ガ中心だった魔法瓶向けのガラスについて、機械を導入して量産を開始。低コストにより中小企業を中心とした競合企業を一層し、1985年度の時点で国内シェア100%を確保
1958年に日本電気硝子はテレビの普及を受けて、ブラウン管ガラス(CRT)の製造を模索。米オーエンス社から技術導入を試みたが、多額の技術導入費用が必要であり、日本政府からの許可が6年間にわたって認可されない事態に直面した。
このため、ブラウン管製造の技術を自社で確立するために、建築用の「ガラス・ブロック」の製造を開始。いきなり技術的難易度が高いテレビではなく、建築材料としてブラウン管に近い製品を手掛けることで生産技術を高めた。
そして、1963年に日本政府は日本電気硝子に対してテレビ用のブラウン管の技術導入を許可した。国内では、旭硝子1社のみが独占していたが、テレビ需要の拡大に伴って生産拡大のために「日本電気硝子が参入することを許可する」という建前であった。
1965年からテレビ用ブラウン管ガラスの製造を開始。量産によるコストダウンを図るために、滋賀県高月に工場を新設して対応した。当時の日本電気硝子は非上場企業であり、1965年時点の資本金3億円に対して、約20億円の投資が必要であった。また、1965年3月期における業績は、売上高約38億円・利益0.4億円であり、約20億円をかけたブラウン管への参入は、社運をかけた意思決定であった。
すでに国内において旭硝子が米コーニングの特許によりブラウン管の製造に参入しており、日本電気硝子はイリノイの特許を通じて後発参入となった。ただし、国内では旭硝子の1社独占体制であったため、顧客である電機メーカーから「2社購買先」として、選ばれる余地が存在していた。
なお、テレビ向けブラウン管ガラスは、世界においてコーニングとイリノイの2社だけが特許を保持しており、他社が参入する余地は存在しなかった。このため、国内において、旭硝子と日本電気硝子の2社がシェアを掌握するに至った。
1991年頃の時点で、カラーテレビ用のCRTで日本電気硝子は国内シェア1位を確保。顧客は日立を除く、ブラウン管を製造するTVメーカー5社(東芝・松下電器・ソニー・NEC・三菱電機)であり、大手企業を顧客として確保した。
なお、1981年度の時点で、日本電気硝子における売上高のうち「テレビ向けCRT」が54%を占めており、CRTが中心の部材メーカであった。
昭和39年、いよいよCRTの生産を始めることになった。我々は、将来、この事業は必ず巨大なものになり得ると考えた。ところが、世間はそのようには見ていなかった。当時、テレビは非常に高価であったことから、大して普及しないであろうと考えられた。CRTについて、中古品の再生利用が主で、新品の需要は少ないであろうと思われていたのである。オーエンス・イリノイ社がニュージャージーにCRTの新工場の建設を完了し、火入れ直前になって撤収してしまったようなこともあった。
このような中で、我々は、テレビというものが遠からず、大きな市場を築くであろうということに疑いを持たなかった。一貫して伸びる見込みがある事業は進出する時期に早晩を問うべきでない。しかも、やる以上は、その性格にふさわしい規模でやる必要があると考え、CRTの専用工場を建設する計画を立てた。余裕ある敷地、豊富な工業用水、交通の便そして良質の労働力、これらの条件を一つ一つ吟味した結果、湖北地方を新工場建設の地と定めた。新工場の建設にあたっては、将来に備えて生産に何ら支障をきたすことなく設備の拡張ができるようなレイアウトにすることを基本構想とした。
CRTの生産を1工場に集中するといった我々の選択は正しかったと思っている。