歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1944年、真空管・ブラウン管用ガラスを内製するため、日本電気(NEC)が子会社として設立した。戦後の財閥解体でNECから分離され、1949年12月の独立時の従業員は90名にすぎない。大手電機の一部門だった経緯とは裏腹に、実態は中小の特殊ガラスメーカーであった。建築・自動車・瓶ガラスの大市場には大手が居並び、残されたのは技術難度の高いニッチだけ。1951年に蛍光灯用管ガラスの自動管引、1962年に魔法瓶ガラスの機械化量産へ進み、大手の来ない隙間市場を量産技術で押さえた。
決断事業の方向を決めたのは、1964年の滋賀県高月へのCRT専用工場の集中立地である。旭硝子の独占下で参入許可が6年下りず、需要拡大で「第二社」枠が開いた直後、資本金3億円・売上38億円の会社が約20億円を投じた。蛍光灯時代に培った隙間を機械化で押さえる稼ぎ方を、テレビ用ガラスへ持ち込んだ判断である。これにより東芝・松下・ソニーら電機大手の二社購買に食い込み、1991年に国内シェア57%で首位へ立つ。少数の大口顧客へ大量に供給する事業構造が、ここで固まった。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1949年の独立後に特殊ガラスの隙間市場を選んだのか
- A 1949年の独立後、日本電気硝子が建築・自動車・瓶ガラスの大市場ではなく、競合の少ない特殊ガラスの隙間市場を選んだのは、もとが大手電機NECの一部門でありながら、独立時の従業員90名という中小の規模で外販を前提とする経営に転じたためである。大手が居並ぶ大市場では戦えず、技術難度が高く参入者の少ない領域に活路を求めた。1951年に管ガラスの自動管引で蛍光灯用ガラスを量産化し、1962年には手吹きが主流だった魔法瓶用ガラスを機械化量産へ進めた。大手の来ない隙間を機械化量産で押さえる稼ぎ方が、ここで型として固まった。
- Q なぜ1964年に滋賀高月へCRT専用工場を集中立地したのか
- A 1964年に資本金3億円・売上高約38億円の会社が約20億円を投じて滋賀県高月へCRT専用工場を集中立地したのは、旭硝子が米コーニング技術でCRTガラスを独占するなか、テレビ需要の急拡大で電機大手が供給先を二社に分ける「二社購買」の第二社枠が開いたためである。蛍光灯時代に培った、隙間を機械化量産で押さえる稼ぎ方をテレビ用ガラスへ持ち込んだ判断であった。この集中立地で東芝・松下・ソニーら大手の二社購買に食い込み、1991年に国内シェア57%で首位へ立つ。少数の大口顧客へ大量供給する事業構造が、ここで固まった。
- Q なぜ2023年以降のEGP2028で拡大期の資産整理を先行させたのか
- A 2023年からの中期経営計画「EGP2028」で、日本電気硝子が事業で稼ぐ前に拡大期の資産整理を先行させたのは、主力の液晶基板ガラスが韓国・台湾・中国勢の内製化と後発参入で価格下落し、2008年3月期に3,683億円あった売上が2015年3月期に1,926億円へ半減するなど、ディスプレイ依存の事業構造が利益を維持できなくなったためである。藤沢事業場跡地などの売却で固定資産売却収入490億円を回収し、採算が悪化した韓国の液晶成形拠点を清算した。過去の拡大が残した負担を落とし、半導体関連へ資源を回す整理を先行させた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1944年〜1986年 管ガラスからCRTへ至るニッチ特殊ガラスメーカーの社運を賭けた選択
従業員わずか九十名で再出発したNECからの独立会社
日本電気硝子の源流は、一九四四年に日本電気(NEC)が真空管・ブラウン管用ガラスの内製化を目的に設立した子会社である[1]。戦後の財閥解体で住友系のNECから分離され、一九四九年十二月に独立会社として再出発したとき[2]には、従業員はわずか九十名しかいなかった[3]。大手電機メーカーの一部門から独立した経緯でありながら、独立系の特殊ガラスメーカーとしての実態はまさしく中小企業にすぎない小さな規模であった。戦後の混乱のなかで、他のガラスメーカーがなかなか手を出さない技術的に難易度の高い特殊ガラス領域に活路を見出していくほかないという、厳しい事業環境からの出発であった状況のなかで独立を果たした。
独立後に選んだ事業領域は、建築・自動車・瓶ガラスといった既存の大市場ではなく、競合の少ないニッチ分野であった。一九五一年には管ガラスの自動管引に成功して蛍光灯用ガラスを量産化することに成功し[4]、一九六〇年には米オーエンズ・イリノイから管ガラス技術を導入して技術基盤を強化した[5]。手吹きが主流だった魔法瓶用ガラスも一九六二年には機械化量産を開始し[6]、一九八五年度には国内シェア百パーセントに到達するまでに至っている[7]。大手の参入しない隙間市場を機械化で押さえ込むという、後のCRT参入にも通じる事業選択の独特な型が、独立から十数年の一九五〇年代後半に形作られていった重要な局面である。一九六二年にはさらに超耐熱結晶化ガラス「ネオセラム」の生産にも乗り出していた[8]。
滋賀高月への二十億円の集中立地とCRT第二社としての参入
一九五八年頃、日本電気硝子はCRT(テレビ用ブラウン管ガラス)への参入を模索し始めたが、米オーエンズ・イリノイからの技術導入の許可を日本政府が六年もの間にわたって出さなかった。既に旭硝子が米コーニング技術で国内のCRTガラスを独占しており、新規参入は許されない情勢のなかにあったためである。転機となったのは一九六三年で、テレビ需要の急速な拡大を受けて「第二社」の参入許可がようやく下りた。翌一九六四年、資本金三億円・売上高約三十八億円の会社が、約二十億円を投じてCRT専用工場を滋賀県高月の湖北地区に新設するという、社運を賭けた集中立地を決断した[9]。一九五九年四月には藤沢工場を新設しており[10]、既に工場の拡張計画は動き出していた。
立地の決定を主導した長崎準一(後の三代社長)[11]はこう語っている。「昭和三十九年、いよいよCRTの生産を始めることになった。我々は将来この事業は必ず巨大なものになり得ると考えた。ところが世間はそのようには見ていなかった」「一貫して伸びる見込みがある事業は進出する時期に早晩を問うべきでない。やる以上はその性格にふさわしい規模でやる必要があると考え、CRTの専用工場を建設する計画を立てた」(染色研究一九八一年一月)。余裕ある敷地・豊富な工業用水・交通の便・良質の労働力といった条件を基準に湖北を選び、生産拡張のレイアウトまで事前に織り込んだ周到な立地決定であり、一九七二年十月には本社を東京都港区から滋賀県大津市に移転する[12]。
電機大手の二社購買とCRTが売上の五十四パーセントを占めた構造
一九六五年には白黒CRT用ガラスの量産を開始し[13]、続く一九六七年にはカラーCRTにも展開して事業の幅を広げていった[14]。旭硝子の独占体制だったこの市場で、同社は「二社購買」の第二社として東芝・松下電器・ソニー・NEC・三菱電機といった国内の主要な電機大手を顧客として次々に取り込み、一九九一年には国内シェア五十七パーセントで首位に立つまでに成長を遂げている[15]。一九七一年十二月には滋賀県能登川町に能登川工場を開設し[16]、生産能力をさらに積み上げていった。世界的にはCRT用ガラスの特許を米コーニングとオーエンズ・イリノイの二社が握っていて新規参入の余地が事実上存在しなかったことも、同社のポジションを結果的に保護する役割を果たした。
一九七三年には東京・大阪両証券取引所市場第二部に株式を上場し[17]、続く一九七六年にはガラスファイバ(強化プラスチック用)生産を開始[18]、そして一九八三年には市場第一部への指定替えを果たしている[19]。CRT事業の収益を足場として、資本市場での評価と事業多角化を同時に押し出していた時期である。一九八四年一月には米国シカゴに駐在員事務所を開設し[20]、海外展開の準備も整えた。FY1981の時点ではCRT用ガラスが売上の五十四パーセントを占めるCRT中心の部材メーカーであり[21]、テレビ需要と命運を共にする事業構造が一九八〇年代前半にはっきりと確立する格好となった。CRTへの集中投資は、後のFPD時代への転換を迫られたときに重い負担となっていく。
1987年〜2016年 TFT液晶基板への主力転換とディスプレイ市況下落による収益悪化の局面
CRT全盛期に打ったTFT基板ガラスへの先行投資
一九八七年十月、日本電気硝子はTFT液晶ディスプレイ用基板ガラスの生産を新たに開始した[22]。一九八二年十月時点では液晶テレビ市場はまだどこにも存在しておらず、ノートPCやワープロの小型モニタ向けの用途が中心である、ごく地味な需要しかない新領域にすぎなかった状況である。CRTがちょうど収益ピークに向かっていた最中に、あえて次世代のFPDへと先行投資するという判断は、表舞台で評価を得にくい目立たない布石であったけれども、その十年以上にわたる技術の蓄積が、のちに二〇〇〇年代の世界シェア獲得につながる決定的な伏線となる、決定的な戦略判断であった。一九八八年五月には米国に合弁会社を設立し海外生産体制の布石も打っていた[23]。
決定打となったのは、二〇〇〇年一月のオーバーフロー法による液晶基板ガラス生産の本格的な開始である[24]。米コーニングが先行していたオーバーフロー法を独自に実用化したことで、高品質のTFT基板ガラスを安定して供給できる体制を整えた格好となった。二〇〇二年には韓国に、二〇〇三年には台湾にと、ディスプレイ産業の集積地へ連続して現地法人を設立し[25]、サムスン・LGディスプレイ・AUOといった液晶パネル大手の集中購買に対応するための現地溶解・成形・後加工の一貫供給体制を整えた。CRTからFPDへの世代交代を、顧客・立地・工法の三つの面から先取りしていく動きとして特徴づけられる重要な展開であり、後の世界シェア獲得を決定づけた局面である。
FY07のピークと十四年後の半減
液晶テレビ市場の爆発的な拡大の波に乗り、FY07(二〇〇八年三月期)には連結売上高三千六百八十三億円・営業利益一千九億円(営業利益率二十七・四パーセント)という会社史上のピークに到達した。FY07時点の日本電気硝子は、米コーニングに次ぐ世界第二位の液晶基板ガラスメーカーとして、CRTからの脱却をほぼ完遂して新しい主力事業に据えた姿であった。リーマンショック後の需要調整を経た後でも、FY10には売上高三千九百二億円と再び過去最高に迫る好業績を示しており、ディスプレイ用ガラスを軸にした事業モデルが会社全体の成長の原動力となり、CRTで稼いだ利益をTFT基板への再投資に振り向ける循環が回っていた重要な局面である。二〇〇七年六月には井筒雄三が代表取締役社長に就任している[26]。
しかしFY11以降、液晶基板ガラスの価格下落と、韓国・台湾・中国勢による内製化と後発参入の動きの拡大によって、収益は急激に悪化していくこととなった。FY14(二〇一五年三月期)には売上高が一千九百二十六億円までピークの半分近くにまで落ち込み、営業利益率もわずか二・七パーセントまで低下している。CRTでの成功パターンだった先行投資と大口顧客の集中購買という事業構造が、ディスプレイの価格主導型の市場では利益の維持を保証しないことが明らかになった局面である。二〇一五年六月に就任した八代社長松本元春の下で[27]、二〇一六年二月に半導体用サポートガラス生産を開始するなど[28]、ディスプレイ依存からの脱却の模索が始まった局面となる。
決算期の変更とPPG買収による事業ポートフォリオの組み替え
FY17(二〇一七年十二月期)から決算期を三月末から十二月末へと変更し、グローバル連結管理の統一を図ることとなった[29]。同じ二〇一七年九月には、米PPG Industriesから欧州・米国のガラス繊維事業(英国・オランダ・米国の三拠点)を取得し、複合材事業を海外展開する動きに打って出た[30]。ディスプレイ事業への依存度を下げ、複合材と電子デバイスを新たな成長軸に据え直す事業ポートフォリオの組み替えが本格化した時期であり、同社の歴史のなかでも戦略転換の節目となる一連の動きとして整理できる局面となっていた。二〇〇五年一月の坡州電気硝子設立以来の韓国事業も、この時期には岐路に立たされていた[31]。
同時期の電子デバイス事業では、二〇一一年の化学強化ガラス「Dinorex」の生産開始、二〇一六年の半導体用サポートガラスの投入、そして二〇二〇年には世界最薄のフォルダブル用ガラスの開発[32]と、スマートフォン・半導体向けの新規製品を連続して投入した。液晶基板ガラスのコモディティ化が進んでいくなかで、より高付加価値な特殊ガラスへと事業の重心を移していく戦略である。ただしFY19前後の業績は、ディスプレイ事業の市況悪化を複合材・電子デバイスが補いきれず、FY19(二〇一九年十二月期)には特別損失三百九十九億円を計上して親会社株主に帰属する純損失三百三十七億円に転落し、PPG買収の後処理が現実化する局面ともなった。
2017年〜2024年 EGP2028による事業構造改革と半導体関連への転換
複合材買収の代償となったPPG事業の減損と後処理
二〇一七年のPPG買収は、ガラス繊維事業の世界二強への飛躍を狙った踏み込んだ動きであったが、中国メーカーとの価格競争と欧州市場の需要の低迷によって、収益は想定を下回る厳しい展開となっていった。FY19の減損損失の計上は、複合材事業の構造的な赤字体質を対外的にも明らかにすることとなり、以後の経営は拡大したポートフォリオをどう絞り込むかという、重い問いに直面した。二〇一七年に買収したオランダ子会社は二〇二三年九月には破産手続きの開始とともに連結から除外されることとなり[33]、PPG買収案件の後処理が続いていく局面となった。二〇〇六年八月設立の中国合弁会社は二〇一五年六月に完全子会社化されていた[34]。
二〇二二年六月には八代の松本元春から九代岸本暁への社長交代が行われ[35]、翌二〇二三年五月にはディスプレイ事業の韓国拠点二社の清算が正式に公表された[36]。液晶基板ガラス市場の構造的な縮小に対応するための、生産能力整理の一環としての動きである。FY23(二〇二三年十二月期)は売上高二千七百九十九億円・営業損失百四億円・純損失二百六十二億円という赤字を計上する厳しい結果である。韓国拠点の清算に伴う減損損失百二十六億円、複合材事業(主にマレーシア)の減損損失百十一億円などを含め、過去の拡大局面で積み上げてきた資産を圧縮していく局面が訪れた。二〇二三年八月三十一日付で韓国子会社の解散・清算手続きに入っている[37]。
EGP2028で半導体関連と超薄板ガラスを次の柱に据える方針
二〇二三年からの中期経営計画「EGP2028」(Strong Growth)は、既存事業の収益基盤の強化と成長分野(半導体関連)へのリソース拡充を主要な柱に据え、二〇二八年十二月期には売上高四千億円・営業利益五百億円・営業利益率十二・五パーセント・ROE八パーセントという達成目標を掲げる内容である[38]。財務戦略の面では政策保有株式の縮減(連結純資産比十・三パーセントから六・八パーセントへ)[39]、ノンコア資産の圧縮(藤沢事業場跡地の売却などによって固定資産売却収入四百九十億円[40])、自己株式取得二百億円枠と一千万株消却による株主還元[41]など、同時並行的な施策を打ち出して会社の姿を組み替えていく中期計画の輪郭を対外的に示した節目である。
成長分野の柱は二つに分かれている。一本目はディスプレイ事業で培ってきたオーバーフロー技術を応用した超薄板ガラス「Dinorex UTG」で、二〇二四年のMotorola razr 50、二〇二五年のXiaomi MIX Flip 2と続くフォルダブルスマートフォンへの採用拡大、および人工衛星のソーラーパネル用カバーガラスの展開が進んでいるところである。二本目は半導体用サポートガラス(FOWLP・2.5D/3Dパッケージング向け)とプローブカード用基板で、半導体関連の売上高を二〇二八年に向けて引き上げる計画を立てている。ビアメカニクス社との共同開発による次世代半導体パッケージ向けガラスセラミックスコア基板「GCコア」も二〇二八年頃の事業化を目指している段階にある[42]重要な時期である。
全電気溶融炉への転換とカーボンニュートラルへの取り組み
EGP2028を支える重要な技術基盤として、ガラス溶融工程の全電気溶融炉への切り替えを進めているところである。ディスプレイ事業では二〇一八年時点ではほぼゼロであった全電気溶融比率が、二〇二四年までには過半を超え、二〇二五年上期までには大半の炉が全電気化へと切り替えられている状況にある。化石燃料の直接燃焼を廃することによってCO2排出を削減し、同時に炉内温度の安定化によって品質や生産性も改善するという効果が得られている。二〇二四年十月にはガラス製造のカーボンニュートラル技術を外部に提供するエンジニアリング事業も新たに開始し[43]、自社で蓄積したノウハウの外販化にも乗り出している段階である。
医薬用管ガラスでも全電気溶融技術の量産技術を確立し、マレーシア拠点での二〇二六年一Q稼働を予定している段階に入っている状況である。耐熱ガラス分野では調理器のトッププレート用「StellaShine」を黒板市場へ参入させ、建築分野では防火ガラス「ファイアライト」と放射線遮蔽用ガラス「LXプレミアム」の拡販を進めているところである。ディスプレイ主力時代には周辺事業の扱いだった医療・耐熱・建築の各分野は、ポートフォリオ再編のプロセスの過程で成長投資の対象へと引き上げられ、同社の事業の幅を取り戻す役割を担うセグメントとして、戦略的にも重視されるべき対象へと位置づけ直されていった、重要な局面となっていった。