1931年に石橋正二郎氏が自動車向けタイヤを生産するために、福岡県久留米市において「ブリッヂストンタイヤ株式会社」を設立した。
石橋正二郎氏は、1918年に設立された「日本足袋株式会社(のちのアサヒシューズ・1998年倒産)」の設立者であり、出身地の福岡県久留米に大工場を設置して事業を展開していた。地下足袋は「ゴム糊でゴム底」を接着する独占的な特許を取得して業用を拡大し、続いて1923年にはゴム靴にも参入。この結果、日本足袋株式会社は「当時最先端だったゴム技術の靴への応用」によって、大正時代から戦前にかけて売上を拡大した。
だが、石橋正二郎氏は靴関連の成長が飽和することを予見し、ゴム技術を活用した新規事業の展開を決定。そこで、自動車用タイヤの国産化に着眼した。
戦前の国内タイヤ市場は補修用が中心であり、ダンロップ社による国内生産(現・住友ダンロップ)または米国からの輸入タイヤに頼る状況であった。これに対して、石橋正二郎氏は、国産化によるコスト削減が可能と判断し、1929年に自動車用タイヤへの参入を決断した。
自動車用タイヤの試作が完成した翌年、1931年に石橋正二郎氏を中心とした石橋家が出資することで「ブリッヂストンタイヤ株式会社」を設立した。創業地はアサヒ地下足袋の拠点と同じ福岡県久留米市内とした。
当時としては珍しいカタカナの社名を採用した理由は、将来的に自動車用タイヤを海外に輸出することを考慮し、品質が悪いイメージを連想させる日本名ではなく、イメージが良い英語名を採用する意図があった。なお、Stone Bridge(石橋)では語呂が悪いため、「ブリッヂストーン(ブリヂストン)」を商号とした。
自動車用タイヤの量産には巨額投資が必要であり、日本国内では数社が倒産の憂き目にあっていた。そこで、リスク分散のために、自動車用タイヤ事業は別会社で運営する資本政策をとったと推定される。この資本政策により、1961年に上場を果たすまで、ブリヂストンは石橋家が保有する同族企業として経営された。
なお、非上場のオーナー企業として経営されたことで、石橋家は自動車用タイヤ事業における株主利益を独占して蓄財に成功。政財界への進出(鳩山家に対する支援)、美術館の運営(ブリヂストン美術館)など、事業以外の文化活動に注力できる財を手に入れた。このため、創業時の資本政策における意思決定が、ブリヂストンの文化・財団による活動に影響を与えている。
昭和4年にね、私はもうゴム靴とか地下足袋とかは、大体目鼻がついたから、これからやるものは自動車タイヤがいいんじゃないかと。自動車はまだ日本に4、5万台しかなかった時代ですけれども、将来はアメリカのように自動車が増えるだろうから、一つ自動車タイヤを作ろうということです。無論、その頃は神戸のダンロップ会社がタイヤを作っておりましたのと、それとアメリカから輸入しておりましたから、タイヤの値段が非常に高かったんですね。それでそれを国産化すれば半値イカでできるからと思って、作るように決心しましてね。
ところが日本でも私より先にそれを思い立った人は何人もあります。けど、みな失敗しちゃってね。二、三そのために倒産するような人がありましたものだから、周囲が停めましてね。それは手をつけるものじゃないということで、非常に技術が難しいから、やらないがいいということで反対でしたけれども、私は九州大学の応用科学の君島博士に会って、こういうことをやるが、どうかねと言って相談しました。君島さんがいうには、それは、あんたが百万か二百万か捨て金を使うというつもりなら、成功するしないは別として、やる価値はある。やるなら自分が協力しようということでね。まあ私の賛成者は君島さんくらいでしたが、それで君島さんとは今日まで付き合っております。
1930年から自動車用タイヤの生産を開始。外国製のタイヤが一本100円台で販売されているのに対して、ブリヂストンは50円で販売。この結果、国内のタイヤでは熾烈な価格競争が勃発した。
しかし、創業期におけるブリヂストンのタイヤは品質が安定せず、ゴムが破れるなどの初期不良が続出。ブリヂストンでは品質保証のために、不良品の無償交換を謳ったことから、購入者が「わざとタイヤを破損させる」事態も頻出した。この結果、1930年のタイヤ生産開始から3年間の間で、約10万本のタイヤが不良品として返却された。
なお、返品されたタイヤは廃棄するのではなく、品質が重視されない荷馬車用として補修して販売するか、再生ゴムの原料として活用した。これにより、不良品による全損は回避したが、タイヤ製造開始から3年間で100万円以上の損失を出したという。
たった3年間の間に返品された不良タイヤが10万本もたまりましたですよ。千坪ばかりの不良品の置き場をつくったんですが、それがいっぱいになるほどの返品を受けましてね。(笑い)
そういう状態だから世間では、石橋は地下足袋やゴム靴では成功したけれどもタイヤでは失敗だ、もう直ぐ破産するだろう、などと言いますし、親しい人からは、石橋を逆にしてブリヂストンなどという名前にしたのがよくない。縁起が悪いから名前を改めた方が良い、と忠告されたりもしました(笑い)
国内における自動車メーカーの相次ぐ創業および増産(トヨタ・日産など)に対応するため、ブリヂストンは久留米市内においてタイヤ量産工場の新設を決定。1934年3月に久留米第1工場を竣工した。
なお、当初は自動車用タイヤを中心に製造していたが、1939年に軍の要請を受けて飛行機用タイヤの生産を開始。戦時中には、陸軍・海軍向けのトラック用タイヤに加えて、軍用航空機向けタイヤ生産に従事。戦時中の最盛期には、5000名の工員(学徒動員を含む)が軍用タイヤの生産に従事した。
石橋正二郎氏は、ブリヂストンのタイヤ生産について、米国メーカーと比較して生産性が1/5程度であると判断。また、タイヤ原料についても、従来の「綿コード(天然繊維)」から「レーヨンコード(化学繊維)」への転換が急務と判断した。
そこで、海外からの生産技術の導入を決定。1951年に米グッドイヤー社と提携し、当時最先端であったレーヨンによるタイヤ製造の設備導入を図った。なお、この時にグッドイヤー社はブリヂストンの株式25%を取得することを要求したが、石橋正二郎氏はこの申し出を断っている。
東京(京橋)において本社ビル「ブリヂストンビル」を竣工した。この土地は、戦前の1938年に石橋氏が購入した土地(関東大震災よって空き地となっていた)であり、戦時中は木造2階建ての事務所として活用していたが、戦後に大規模なビルを新設するに至った。
同時に、石橋氏の趣味である絵画について、自身のコレクションを広く展示するために、本社ビル2階に「ブリヂストン美術館」を開館した。
なお、美術館の運営については、1956年に「石橋財団」を設立することで会社運営から分離。財団は石橋正二郎氏による寄付により設立し、年間2億円の予算を設定。うち、5000万円が美術館運営の経費、美術品コレクションの購入に5000万円、学術・文化・教育への支援で1億円をあてる運営を行なった。
ブリヂストン美術館をつくるについては、昭和25年にアメリカを旅行して各地の美術館を見たことが大きなきっかけとなっております。この時は社用でアメリカへ行ったんですが、各地の有名な美術館を見て、美術品というものが文化向上のために非常に重要だということを感じました。それにコレクションを自分一人だけで愛蔵するよりも、多くの人に見せた方がいいということは、かねてから考えておりましたので、美術館を作ることにしたわけです。
ブリヂストンは乗用車の普及を見据えて、タイヤの大規模な増産を図るために首都圏においてタイヤ工場(東京工場)の新設を決定。1957年に東京近郊である小平町において、町長の熱心な誘致もあり、5.7万平方メートルの土地(陸軍補給厰・跡地)を取得した。
1958年から東京工場の第1期工事を開始し、1960年1月に完成。東京工場(第1期)における生産を開始した。第1期の竣工によって、ブリヂストンにおけるタイヤ生産量は30%の増産となった。
また、タイヤの予想外の需要増加を受けて、計画を繰り上げる形で1961年初から第2期工事にも着手。1961年11月に東京工場・第2期工事を完了し、生産を開始した。
第1期および第2期における投資額は合計88億円であり、当時のブリヂストンの資本金25億円(1958年時点)を大幅に超過した。このため、東京工場の新設は、ブリヂストンにとって社運を賭けた設備投資となった。
なお、資金調達では借入をメインとし、1962年時点で日本長期信用銀行などから合計約90億円の長期借入を実施。自己資本比率の悪化を防ぐために、1961年に株式上場も併せて実施し、倍額増資などにより1962年8月時点で資本金80億円とした。
生産ラインの急速立ち上げのため、久留米工場の従業員800名が東京工場に配置換えとなり、大規模な人事異動を伴った。これは、対象者にとって、住み慣れた九州から、地縁のない東京への引越しを意味した。
東京工場の新設によって、ブリヂストンは国内の自動車メーカーに対するタイヤ供給量を増大。この結果、1960年台においてブリヂストンは国内タイヤ生産においてシェア約46%(1位・1962年時点)を確保し、横浜ゴム・住友ダンロップといった競合を抑えて、国内トップのタイヤメーカーとなった。
時あたかもわがこくは自動車大増産によるタイヤ需要激増の画期的チャンスに当たり、このように第1期、第2期計画の関西によって飛躍的増産をなし、トップメーカーとして市場占拠率46%を占めるに至ったことは、わが社の歴史に特筆すべきことである。
国内における自動車の普及によりタイヤの増産(東京工場の新設など)が必要になったため、資金調達のために株式上場を決定。1961年に東京証券取引所に株式を上場し、石橋家による非上場同族経営から決別した。
なお、株式上場直後の1961年12月時点において、石橋幹一郎氏が20.4%。石橋正二郎氏が11.8%、石橋財団が10.0%保有しており、石橋家による保有形態は継続した。
昭和31年頃から日本の経済がにわかに高度の成長をするようになって、自動車の需要も激増するようになりましたから、私のところで東京工場の新設を計画しましたが、そのほかの方面でも事業を拡張する上で資金の需要が大きくなりますし、それにまた世間を狭くしておくわけにもいかない。株式を公開すべきだということで、資本金25億円までは同族会社でやりましたけれども、公開することにしたわけです。
1980年代を通じてブリヂストンは自動車用タイヤのグローバル展開を志向し、1982年には米国に現地法人を設立。1983年に米大手タイヤメーカーであるファイアストンのナッシュビル工場(トラック用タイヤ工場)を買収して、現地生産を開始した。
ナッシュビル工場はファイアストンが閉鎖を検討していたが、ブリヂストンが活用を決定。生産改善などにより、3年で黒字化した。
しかし、北米を含めた海外展開で課題になったのが、タイヤ販売網の構築であった。利益率の高い補修用タイヤの販売には、現地の自動車部品メーカーやディーラーなどに採用される必要があり、現地メーカーと比較して後発であるブリヂストンが販路開拓を行うのは苦労が伴った。
完成車メーカー向けのタイヤについては、米国のビックスリー(GM、フォード、クライスラー)への納入は現地メーカーが担っており、ブリヂストンの参入余地はなかった。日本の乗用車メーカー(ホンダ、トヨタ、日産など)についても、米国での現地生産を開始するタイミングにあたり、工場の本格稼働までは、タイヤのまとまった販売は期待できない状況にあった。
したがって、ブリヂストンは北米展開において、企業買収を通じて大手タイヤメーカーを取り込むことを計画した。
単に生産ラインを作るというだけでは投資できませんよ。日本でタイヤのメーカーの名前をあげろというと99%までうちの名前を出してくれます。しかし、米国では全くそうはいきません。当面は、我々の狙いを補修用タイヤ市場に絞ります。新車用は、これは猛烈に値段を叩かれる。それに米国の自動車メーカーも2年に1度、入札してタイヤメーカーをドライに切り捨てるんですよ。これは収益的に安定しない。しんどいですよ。やはり、付加価値の高い最高級のマーケットを狙わないと・・・。
1988年3月18日にブリヂストン(家入昭・社長)は米国の大手タイヤメーカーのファイアストンに対して、TOBによる買収を提案。普通株式を1株80USドルで取得し、合計26億ドル(日本円で約3400億円)で買収することを決定した。
買収決定の2ヶ月前、1988年1月の段階でブリヂストンはファイアストンの株式75%を7.5億ドルで取得し、合弁による進出を公表していた。ところが、イタリアのタイヤメーカーのピレリ社が、ファイアストンに対して「1株58ドル」による買収計画を公表した。このため、ブリヂストンは合弁ではなく完全子会社化による買収に方針を変更し、ピレリ社に対する対抗的な値付けとして「1株80ドル」での株式取得を決定した。
すなわち、総額3400億円の買収額の根拠は、ブリヂストンが「財務上ピレリが入札できない取得額」を予想した金額であり、当初の合弁計画における7億ドルから26億ドルへと、買収価格が3倍に高騰する要因となった。
ブリヂストンによるFSの買収を受けて、1988年5月にGMは「1990年までに納入契約を打ち切る」方針を発表。ファイアストンは大口顧客を失い、買収直後から厳しい状況に陥った。
買収直後からファイアストンの業績状況は悪化。1990年12月期の業績は3.5億ドルの赤字を計上して「1日100万ドルの赤字」と形容されるなど、厳しい状況に陥った。
ファイアストンの買収により、ブリヂストンは米国で5工場、欧州で6工場を取得し、日本・米国・欧州の3拠点によるグローバルな生産体制を確立した。ところが、ファイアストンはタイヤのグローバル競争において劣勢であり、1970年代から設備更新が滞る状況に陥っていた。このため、グローバルに配置された工場は、いずれも老朽化が進行し、生産性が低い状態で放置されていた。
ブリヂストンはファイアストンの設備更新を行うために、1500億円の設備投資を決定。買収価格3400億円と合わせると、総額4900億円をファイアストンの買収および再建に資本投下した。工場の設備更新は、買収時点において織り込まれておらず、ブリヂストンにとって想定外の支出となった。
FS社が売却したテネシー工場を当社が1〜2年で再建し、レイオフされていたワーカーを次々と呼び戻し、3年目には新規採用も始めた。そうした経緯を再建当初は懐疑的に見ていたFS社の経営陣、労組、従業員たちが当社のやり方を次第に理解し、好意的になった。こうしたことが、友好的なTOBに発展する礎石になったと思う。(略)
(注:1株80USDでの取得について)とにかく、長期化したドロ試合は避けたかった。折からアメリカではインサイダー事件が発生し、問題が重大化していましたからね。それに現地の投資顧問会社のアドバイザーから面白い話を聞いていたんです。つまり、ササビーズの絵のオークションのような小刻みに値決めするやり方ではダメだ。やるなら一発で勝負しろ、とね。私もそれがいちばん良いと確信していた。
1989年にブリヂストンは米国事業の再編に着手。ブリヂストンの米国現地法人と、ファイアストンの組織を統合し、現地統括会社としてBFSを設立した。
懸案であった生産面については、日本国内から品質改善のための生産技術者を現地に派遣して生産性改善に注力。日本国内の工場とBFSの工場で「姉妹工場制度」を発足させ、ノウハウの移転を実施した。ただし、設備更新の対象が多く、改善には3〜4年を要したという。
そして、1992年にBFSは大規模なリストラ(2500名削減)を実施するとともに、工場閉鎖を辞さない態度で労働組合との規約(休日操業の開始など)を改定。この結果、固定費の削減に成功し、1993年3月期においてBFSは黒字化を達成した。
ファイアストン社買収について、高すぎるんじゃないかとか、買収資金をそのまま銀行に預けた方がましとか、色々な意見が外部、特にハーバードビジネススクールの方達にあったのは承知しています。しかし、ブリヂストンが当時、大胆な国際化戦略を打ち出さなければいけない時期でした。工場を作り従業員を集め、販売網を展開するといった作業を1から行えば、どれだけの資金と時間がかかったか想像できません。
また仮に、競合するフランスのミシュラン社や、イタリアのピレリ社に買収されていたら、ブリヂストンに2度と国際化のチャンスはなかった。ファイアストン社買収は、欧米の2大市場に拠点を築くまたとないチャンスだったのです。
米国BFSと同様に、ブリヂストンはファイアストンの欧州事業についても大規模なリストラを実施。ポーランドの工場閉鎖や、1500名の人員削減などを遂行した。