1931
3月

ブリッヂストンタイヤ株式会社を設立

ゴム靴の次に自動車用タイヤに着眼

1931年に石橋正二郎氏が自動車向けタイヤを生産するために、福岡県久留米市において「ブリッヂストンタイヤ株式会社」を設立した。

石橋正二郎氏は、1918年に設立された「日本足袋株式会社(のちのアサヒシューズ・1998年倒産)」の設立者であり、出身地の福岡県久留米に大工場を設置して事業を展開していた。地下足袋は「ゴム糊でゴム底」を接着する独占的な特許を取得して業用を拡大し、続いて1923年にはゴム靴にも参入。この結果、日本足袋株式会社は「当時最先端だったゴム技術の靴への応用」によって、大正時代から戦前にかけて売上を拡大した。

だが、石橋正二郎氏は靴関連の成長が飽和することを予見し、ゴム技術を活用した新規事業の展開を決定。そこで、自動車用タイヤの国産化に着眼した。

戦前の国内タイヤ市場は補修用が中心であり、ダンロップ社による国内生産(現・住友ダンロップ)または米国からの輸入タイヤに頼る状況であった。これに対して、石橋正二郎氏は、国産化によるコスト削減が可能と判断し、1929年に自動車用タイヤへの参入を決断した。

ブリヂストンを設立・将来の海外展開を考慮

自動車用タイヤの試作が完成した翌年、1931年に石橋正二郎氏を中心とした石橋家が出資することで「ブリッヂストンタイヤ株式会社」を設立した。創業地はアサヒ地下足袋の拠点と同じ福岡県久留米市内とした。

当時としては珍しいカタカナの社名を採用した理由は、将来的に自動車用タイヤを海外に輸出することを考慮し、品質が悪いイメージを連想させる日本名ではなく、イメージが良い英語名を採用する意図があった。なお、Stone Bridge(石橋)では語呂が悪いため、「ブリッヂストーン(ブリヂストン)」を商号とした。

石橋家によるブリヂストンの同族経営

自動車用タイヤの量産には巨額投資が必要であり、日本国内では数社が倒産の憂き目にあっていた。そこで、リスク分散のために、自動車用タイヤ事業は別会社で運営する資本政策をとったと推定される。この資本政策により、1961年に上場を果たすまで、ブリヂストンは石橋家が保有する同族企業として経営された。

なお、非上場のオーナー企業として経営されたことで、石橋家は自動車用タイヤ事業における株主利益を独占して蓄財に成功。政財界への進出(鳩山家に対する支援)、美術館の運営(ブリヂストン美術館)など、事業以外の文化活動に注力できる財を手に入れた。このため、創業時の資本政策における意思決定が、ブリヂストンの文化・財団による活動に影響を与えている。

1906年
3月
「志まや」の経営を石橋兄弟が父から継承
1918年
6月
20銭均一アサヒ足袋を発売
1918年
6月
日本足袋株式会社(日本ゴム)を設立
1922年
アサヒ地下足袋を開発(ゴム糊方式)
1923年
ゴム靴の生産開始
1930年
自動車用タイヤの試作
1931年
3月
ブリッヂストンタイヤ株式会社を設立
石橋家の株式保有 100 %
証言
石橋正二郎(ブリヂストン・創業者)

昭和4年にね、私はもうゴム靴とか地下足袋とかは、大体目鼻がついたから、これからやるものは自動車タイヤがいいんじゃないかと。自動車はまだ日本に4、5万台しかなかった時代ですけれども、将来はアメリカのように自動車が増えるだろうから、一つ自動車タイヤを作ろうということです。無論、その頃は神戸のダンロップ会社がタイヤを作っておりましたのと、それとアメリカから輸入しておりましたから、タイヤの値段が非常に高かったんですね。それでそれを国産化すれば半値イカでできるからと思って、作るように決心しましてね。

ところが日本でも私より先にそれを思い立った人は何人もあります。けど、みな失敗しちゃってね。二、三そのために倒産するような人がありましたものだから、周囲が停めましてね。それは手をつけるものじゃないということで、非常に技術が難しいから、やらないがいいということで反対でしたけれども、私は九州大学の応用科学の君島博士に会って、こういうことをやるが、どうかねと言って相談しました。君島さんがいうには、それは、あんたが百万か二百万か捨て金を使うというつもりなら、成功するしないは別として、やる価値はある。やるなら自分が協力しようということでね。まあ私の賛成者は君島さんくらいでしたが、それで君島さんとは今日まで付き合っております。

1933

タイヤの初期不良が続出

1930年から自動車用タイヤの生産を開始。外国製のタイヤが一本100円台で販売されているのに対して、ブリヂストンは50円で販売。この結果、国内のタイヤでは熾烈な価格競争が勃発した。

しかし、創業期におけるブリヂストンのタイヤは品質が安定せず、ゴムが破れるなどの初期不良が続出。ブリヂストンでは品質保証のために、不良品の無償交換を謳ったことから、購入者が「わざとタイヤを破損させる」事態も頻出した。この結果、1930年のタイヤ生産開始から3年間の間で、約10万本のタイヤが不良品として返却された。

なお、返品されたタイヤは廃棄するのではなく、品質が重視されない荷馬車用として補修して販売するか、再生ゴムの原料として活用した。これにより、不良品による全損は回避したが、タイヤ製造開始から3年間で100万円以上の損失を出したという。

証言
石橋正二郎(ブリヂストン・創業者)

たった3年間の間に返品された不良タイヤが10万本もたまりましたですよ。千坪ばかりの不良品の置き場をつくったんですが、それがいっぱいになるほどの返品を受けましてね。(笑い)

そういう状態だから世間では、石橋は地下足袋やゴム靴では成功したけれどもタイヤでは失敗だ、もう直ぐ破産するだろう、などと言いますし、親しい人からは、石橋を逆にしてブリヂストンなどという名前にしたのがよくない。縁起が悪いから名前を改めた方が良い、と忠告されたりもしました(笑い)

1934年3月
久留米工場を新設

国内における自動車メーカーの相次ぐ創業および増産(トヨタ・日産など)に対応するため、ブリヂストンは久留米市内においてタイヤ量産工場の新設を決定。1934年3月に久留米第1工場を竣工した。

なお、当初は自動車用タイヤを中心に製造していたが、1939年に軍の要請を受けて飛行機用タイヤの生産を開始。戦時中には、陸軍・海軍向けのトラック用タイヤに加えて、軍用航空機向けタイヤ生産に従事。戦時中の最盛期には、5000名の工員(学徒動員を含む)が軍用タイヤの生産に従事した。

1935年10月
ゴルフボールの生産開始
1937年5月
本社を東京に移転
1949年10月
自転車事業を「ブリヂストン自転車(株)」に分離
1951年2月
ブリヂストンタイヤ株式会社に商号変更
1951年6月
米グッドイヤー社と提携

石橋正二郎氏は、ブリヂストンのタイヤ生産について、米国メーカーと比較して生産性が1/5程度であると判断。また、タイヤ原料についても、従来の「綿コード(天然繊維)」から「レーヨンコード(化学繊維)」への転換が急務と判断した。

そこで、海外からの生産技術の導入を決定。1951年に米グッドイヤー社と提携し、当時最先端であったレーヨンによるタイヤ製造の設備導入を図った。なお、この時にグッドイヤー社はブリヂストンの株式25%を取得することを要求したが、石橋正二郎氏はこの申し出を断っている。

1951年
6月
米グッドイヤー社と提携
1979年
米グッドイヤー社と提携解消
1952
1月

本社にブリヂストンビルを竣工・ブリヂストン美術館を併設

東京(京橋)において本社ビル「ブリヂストンビル」を竣工した。この土地は、戦前の1938年に石橋氏が購入した土地(関東大震災よって空き地となっていた)であり、戦時中は木造2階建ての事務所として活用していたが、戦後に大規模なビルを新設するに至った。

同時に、石橋氏の趣味である絵画について、自身のコレクションを広く展示するために、本社ビル2階に「ブリヂストン美術館」を開館した。

なお、美術館の運営については、1956年に「石橋財団」を設立することで会社運営から分離。財団は石橋正二郎氏による寄付により設立し、年間2億円の予算を設定。うち、5000万円が美術館運営の経費、美術品コレクションの購入に5000万円、学術・文化・教育への支援で1億円をあてる運営を行なった。

1952年
1月
本社にブリヂストンビルを竣工
1952年
1月
ブリヂストン美術館を新設
1956年
石橋財団を発足(美術館運営を移管)
証言
石橋正二郎(ブリヂストン・創業者)

ブリヂストン美術館をつくるについては、昭和25年にアメリカを旅行して各地の美術館を見たことが大きなきっかけとなっております。この時は社用でアメリカへ行ったんですが、各地の有名な美術館を見て、美術品というものが文化向上のために非常に重要だということを感じました。それにコレクションを自分一人だけで愛蔵するよりも、多くの人に見せた方がいいということは、かねてから考えておりましたので、美術館を作ることにしたわけです。

1952年3月
石橋家が富裕税納付申告で日本1位
1958年
久留米第2工場を新設

ナイロンコードによるタイヤ量産のため、久留米第2工場を新設。原料であるナイロンは、東レから購入

1960
1月

東京工場を新設(第1期・第2期)

東京工場の新設を決定

ブリヂストンは乗用車の普及を見据えて、タイヤの大規模な増産を図るために首都圏においてタイヤ工場(東京工場)の新設を決定。1957年に東京近郊である小平町において、町長の熱心な誘致もあり、5.7万平方メートルの土地(陸軍補給厰・跡地)を取得した。

1958年から東京工場の第1期工事を開始し、1960年1月に完成。東京工場(第1期)における生産を開始した。第1期の竣工によって、ブリヂストンにおけるタイヤ生産量は30%の増産となった。

また、タイヤの予想外の需要増加を受けて、計画を繰り上げる形で1961年初から第2期工事にも着手。1961年11月に東京工場・第2期工事を完了し、生産を開始した。

資本金を超過する設備投資を決断

第1期および第2期における投資額は合計88億円であり、当時のブリヂストンの資本金25億円(1958年時点)を大幅に超過した。このため、東京工場の新設は、ブリヂストンにとって社運を賭けた設備投資となった。

なお、資金調達では借入をメインとし、1962年時点で日本長期信用銀行などから合計約90億円の長期借入を実施。自己資本比率の悪化を防ぐために、1961年に株式上場も併せて実施し、倍額増資などにより1962年8月時点で資本金80億円とした。

約800名を久留米から東京に配置転換

生産ラインの急速立ち上げのため、久留米工場の従業員800名が東京工場に配置換えとなり、大規模な人事異動を伴った。これは、対象者にとって、住み慣れた九州から、地縁のない東京への引越しを意味した。

タイヤの国内シェア1位を確保

東京工場の新設によって、ブリヂストンは国内の自動車メーカーに対するタイヤ供給量を増大。この結果、1960年台においてブリヂストンは国内タイヤ生産においてシェア約46%(1位・1962年時点)を確保し、横浜ゴム・住友ダンロップといった競合を抑えて、国内トップのタイヤメーカーとなった。

1957年
11月
東京小平市内で工場用地を取得
敷地面積 5.7 万㎡
1958年
東京工場を着工(第1期)
1960年
1月
東京工場を竣工(第1期)
1961年
3月
東京工場を着工(第2期)
1961年
11月
東京工場を竣工(第2期)
累計投資額(1期+2期) 88 億円
1962年
タイヤ国内シェア1位
国内シェア 46 %
証言
石橋正二郎(ブリヂストン・創業者)

時あたかもわがこくは自動車大増産によるタイヤ需要激増の画期的チャンスに当たり、このように第1期、第2期計画の関西によって飛躍的増産をなし、トップメーカーとして市場占拠率46%を占めるに至ったことは、わが社の歴史に特筆すべきことである。

決算
ブリヂストンの業績
1960年12月期(単体)
売上高
369
億円
当期純利益
24
億円
1961年10月
東京証券取引所に株式上場

国内における自動車の普及によりタイヤの増産(東京工場の新設など)が必要になったため、資金調達のために株式上場を決定。1961年に東京証券取引所に株式を上場し、石橋家による非上場同族経営から決別した。

なお、株式上場直後の1961年12月時点において、石橋幹一郎氏が20.4%。石橋正二郎氏が11.8%、石橋財団が10.0%保有しており、石橋家による保有形態は継続した。

証言
石橋正二郎(ブリヂストン・創業者)

昭和31年頃から日本の経済がにわかに高度の成長をするようになって、自動車の需要も激増するようになりましたから、私のところで東京工場の新設を計画しましたが、そのほかの方面でも事業を拡張する上で資金の需要が大きくなりますし、それにまた世間を狭くしておくわけにもいかない。株式を公開すべきだということで、資本金25億円までは同族会社でやりましたけれども、公開することにしたわけです。

決算
ブリヂストンの業績
1961年12月期(単体)
売上高
487
億円
当期純利益
55
億円
1964年
乗用車向けラジアルタイヤを開発
1967年
ブリヂストンタイヤショップ制度を開始
1973年
柴本重理氏が社長就任
1976年
創業者・石橋正二郎氏が逝去
1980年12月
豪UNIROYAL社を買収
1983

米ファイアストンのナッシュビル工場を取得

現地メーカーの工場取得

1980年代を通じてブリヂストンは自動車用タイヤのグローバル展開を志向し、1982年には米国に現地法人を設立。1983年に米大手タイヤメーカーであるファイアストンのナッシュビル工場(トラック用タイヤ工場)を買収して、現地生産を開始した。

ナッシュビル工場はファイアストンが閉鎖を検討していたが、ブリヂストンが活用を決定。生産改善などにより、3年で黒字化した。

販路確保に苦戦

しかし、北米を含めた海外展開で課題になったのが、タイヤ販売網の構築であった。利益率の高い補修用タイヤの販売には、現地の自動車部品メーカーやディーラーなどに採用される必要があり、現地メーカーと比較して後発であるブリヂストンが販路開拓を行うのは苦労が伴った。

完成車メーカー向けのタイヤについては、米国のビックスリー(GM、フォード、クライスラー)への納入は現地メーカーが担っており、ブリヂストンの参入余地はなかった。日本の乗用車メーカー(ホンダ、トヨタ、日産など)についても、米国での現地生産を開始するタイミングにあたり、工場の本格稼働までは、タイヤのまとまった販売は期待できない状況にあった。

したがって、ブリヂストンは北米展開において、企業買収を通じて大手タイヤメーカーを取り込むことを計画した。

1982年
11月
米国に現地生産子会社を設立
1983年
米ファイアストンのナッシュビル工場を取得
証言
家入昭(ブリヂストン・社長)

単に生産ラインを作るというだけでは投資できませんよ。日本でタイヤのメーカーの名前をあげろというと99%までうちの名前を出してくれます。しかし、米国では全くそうはいきません。当面は、我々の狙いを補修用タイヤ市場に絞ります。新車用は、これは猛烈に値段を叩かれる。それに米国の自動車メーカーも2年に1度、入札してタイヤメーカーをドライに切り捨てるんですよ。これは収益的に安定しない。しんどいですよ。やはり、付加価値の高い最高級のマーケットを狙わないと・・・。

1987/5/11 日経ビジネス
決算
ブリヂストンの業績
1984年4月期(単体)
売上高
5467
億円
当期純利益
176
億円
1984年4月
株式会社ブリヂストンに商号変更
1988
3月

米ファイアストンを買収(米国5工場・欧州6工場)

ファイアストンを3400億円で買収・ピレリと入札競争で3倍に高騰

1988年3月18日にブリヂストン(家入昭・社長)は米国の大手タイヤメーカーのファイアストンに対して、TOBによる買収を提案。普通株式を1株80USドルで取得し、合計26億ドル(日本円で約3400億円)で買収することを決定した。

買収決定の2ヶ月前、1988年1月の段階でブリヂストンはファイアストンの株式75%を7.5億ドルで取得し、合弁による進出を公表していた。ところが、イタリアのタイヤメーカーのピレリ社が、ファイアストンに対して「1株58ドル」による買収計画を公表した。このため、ブリヂストンは合弁ではなく完全子会社化による買収に方針を変更し、ピレリ社に対する対抗的な値付けとして「1株80ドル」での株式取得を決定した。

すなわち、総額3400億円の買収額の根拠は、ブリヂストンが「財務上ピレリが入札できない取得額」を予想した金額であり、当初の合弁計画における7億ドルから26億ドルへと、買収価格が3倍に高騰する要因となった。

GMが契約打ち切りを通告

ブリヂストンによるFSの買収を受けて、1988年5月にGMは「1990年までに納入契約を打ち切る」方針を発表。ファイアストンは大口顧客を失い、買収直後から厳しい状況に陥った。

1日100万ドルの赤字

買収直後からファイアストンの業績状況は悪化。1990年12月期の業績は3.5億ドルの赤字を計上して「1日100万ドルの赤字」と形容されるなど、厳しい状況に陥った。

工場設備の老朽化が判明・1500億円を追加投資

ファイアストンの買収により、ブリヂストンは米国で5工場、欧州で6工場を取得し、日本・米国・欧州の3拠点によるグローバルな生産体制を確立した。ところが、ファイアストンはタイヤのグローバル競争において劣勢であり、1970年代から設備更新が滞る状況に陥っていた。このため、グローバルに配置された工場は、いずれも老朽化が進行し、生産性が低い状態で放置されていた。

ブリヂストンはファイアストンの設備更新を行うために、1500億円の設備投資を決定。買収価格3400億円と合わせると、総額4900億円をファイアストンの買収および再建に資本投下した。工場の設備更新は、買収時点において織り込まれておらず、ブリヂストンにとって想定外の支出となった。

1988年
5月
ファイアストンの株式75%の取得を公表
買収価格(予定) 7.5 億ドル
1988年
5月
ピレリがFSの買収価格を提示
買収価格(予定) 58 ドル/1株
1988年
3月
ブリヂストンがFSの買収価格を提示
買収価格(予定) 80 ドル/1株
1988年
5月
ファイアストンの買収実施
買収価格(決定) 26 億ドル
1988年
5月
GMが契約打ち切りを通告
1989年
設備改善に大型投資
投資額 1500 億円
証言
家入昭(ブリヂストン・社長)

FS社が売却したテネシー工場を当社が1〜2年で再建し、レイオフされていたワーカーを次々と呼び戻し、3年目には新規採用も始めた。そうした経緯を再建当初は懐疑的に見ていたFS社の経営陣、労組、従業員たちが当社のやり方を次第に理解し、好意的になった。こうしたことが、友好的なTOBに発展する礎石になったと思う。(略)

(注:1株80USDでの取得について)とにかく、長期化したドロ試合は避けたかった。折からアメリカではインサイダー事件が発生し、問題が重大化していましたからね。それに現地の投資顧問会社のアドバイザーから面白い話を聞いていたんです。つまり、ササビーズの絵のオークションのような小刻みに値決めするやり方ではダメだ。やるなら一発で勝負しろ、とね。私もそれがいちばん良いと確信していた。

1987/5/11 日経ビジネス
1992
12月

米国現地法人BFSで大規模リストラ

BFSの経営再建・大規模リストラの実施

1989年にブリヂストンは米国事業の再編に着手。ブリヂストンの米国現地法人と、ファイアストンの組織を統合し、現地統括会社としてBFSを設立した。

懸案であった生産面については、日本国内から品質改善のための生産技術者を現地に派遣して生産性改善に注力。日本国内の工場とBFSの工場で「姉妹工場制度」を発足させ、ノウハウの移転を実施した。ただし、設備更新の対象が多く、改善には3〜4年を要したという。

そして、1992年にBFSは大規模なリストラ(2500名削減)を実施するとともに、工場閉鎖を辞さない態度で労働組合との規約(休日操業の開始など)を改定。この結果、固定費の削減に成功し、1993年3月期においてBFSは黒字化を達成した。

証言
江口氏(ブリヂストン・会長)

ファイアストン社買収について、高すぎるんじゃないかとか、買収資金をそのまま銀行に預けた方がましとか、色々な意見が外部、特にハーバードビジネススクールの方達にあったのは承知しています。しかし、ブリヂストンが当時、大胆な国際化戦略を打ち出さなければいけない時期でした。工場を作り従業員を集め、販売網を展開するといった作業を1から行えば、どれだけの資金と時間がかかったか想像できません。

また仮に、競合するフランスのミシュラン社や、イタリアのピレリ社に買収されていたら、ブリヂストンに2度と国際化のチャンスはなかった。ファイアストン社買収は、欧米の2大市場に拠点を築くまたとないチャンスだったのです。

1990/6/11 日経ビジネス
決算
ブリヂストンの業績
1992年12月期(連結)
売上高
17451
億円
当期純利益
284
億円
1994年12月
欧州に統括会社を設立(組織再編)

米国BFSと同様に、ブリヂストンはファイアストンの欧州事業についても大規模なリストラを実施。ポーランドの工場閉鎖や、1500名の人員削減などを遂行した。

決算
ブリヂストンの業績
1994年12月期(連結)
売上高
15950
億円
当期純利益
318
億円
2000年8月
米でタイヤ自主回収(欠陥疑惑)

米国におけるタイヤの欠陥疑惑を受けて、650万本の自主回収を決定。2000年12月期に「製品自主回収関連損失」として814億円、翌年2001年12月期にも同803億円を計上し、合計1617億円を回収に係る損失として計上した。

決算
ブリヂストンの業績
2000年12月期(連結)
売上高
20069
億円
当期純利益
177
億円
2000年3月
タイに現地生産子会社を設立
2001年12月
米国に統括会社を設立(組織再編)
2004年10月
中国に統括会社を設立
2007年5月
BADAG社を買収(リトレッド)
2017年5月
仏ETS PAUL AYME社を買収(タイヤ販売)
2019年4月
蘭TOM TOM TELEMATICS社を買収(運行管理システム)
2020年12月
最終赤字に転落
2021年2月
中期事業計画を公表・生産拠点集約を開始
2021年9月
米AZUGA HDを買収
2021年12月
OTRACO社を買収
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