1929年9月
鈴木忍氏が訪問販売業を個人創業

鈴木忍氏が静岡県で化粧品の訪問販売業(のちのポーラ化粧品本舗)を創業した。当時、化粧品は店舗販売が主流であったが、ポーラでは訪問販売をチャネルとしていち早く採用した。この理由について、創業者が「自分で作ったものは自分で売る。そうすればいかに苦労して作った商品であるかを顧客に理解してもらえる」(1976/8/2日経ビジネス)と考えたからであったという。

証言
鈴木常司(ポーラ化粧品本舗・2代目社長)

我々の商売は2つの微妙なるものを相手にしなければならないんです。一つは女性の肌、もう一つは女心です。これはどういうことかと申し上げますと、同じ化粧品でも体質によって肌に馴染む、馴染まないということがあり得る。ですから化粧品販売で望ましいのは売り手がコンサルティング機能を持って、お客さま一人一人の特質に合わせて商品が提供できることなんです。訪販ならこれが可能になる。

1979-11-15日経ビジネス
1940年12月
株式会社ポーラ化粧品本舗を設立

化粧品の訪問販売の業容を拡大を受けて、ポーラ化粧品本舗として株式会社化。ポーラという名称の由来は謎とされており、現在に至るまでポーラの創業家を含めて誰も知らない。ブランド名の由来が不詳という珍しい状態に

1946年7月
製造と販売部門を分離。ポーラ商事株式会社を設立

製造は旧ポーラ化粧品本舗(ポーラ化成)が担当し、販売はポーラ商事が担当。いずれも創業者の鈴木忍氏が支配株主と推察され、法人ではなく鈴木忍氏という個人が、ポーラのグループ企業を形成。(この決定がポーラの資本政策を複雑怪奇にし、2000年代の遺産相続問題の布石になったと推察される)

1954年10月
静岡工場を新設
1954年
鈴木忍氏が逝去。鈴木常司氏が社長就任

創業者の鈴木忍氏が急逝。創業者の長男である鈴木常司(当時25歳)がポーラの2代目社長に就任。1996年まで約42年にわたって社長を歴任した。就任直後は工場における労働組合の対処に苦慮

証言
鈴木常司(ポーラ化粧品本舗・2代目社長)

最初は大変でした。小さな会社だったので、資金繰りに困って、地元の信用金庫に行って、50万円、100万円と借りて歩いたんですよ。それに労働組合との間も大変でした。労働争議があって、工場の中に缶詰になるし、自宅の真w理に組合の人たちがきて労働歌を歌っていて、自宅にいられないようにするんですね。それで旅館を転々と泊まり歩いていました。落ち着いてきたのは、昭和32年か昭和33年頃(注:1957年〜1958年)からですね。それ以来順調になってきました。

1960年
ポーラレディが2870名を突破
1961年12月
横浜工場を新設(横浜市戸塚区)
1963年
鈴木常司氏が競合のエイボンの工場を視察

外資系の化粧品メーカーで日本で訪問販売を行うエイボンに対して、ポーラ化粧品本舗の鈴木常司氏が工場を視察。エイボンはポーラを中小企業と判断し、この時点で競合とは認識していなかった。

証言
鈴木常司(ポーラ化粧品本舗・当時社長)

15〜16年前でしたか、私がエイボンに行ったときに工場を見せてもらった経緯がありましてね。当時は向こうからすれば、東洋のちっぽけな国の化粧品会社のおやじが来ても大したことないと思ったんでしょうな(笑い)。「同業なのによく見せてくれますね」と言ったら「うちの売り上げに関係ない」と言われましたよ

1979-11-15日経ビジネス
1964年6月
横浜研究所を新設
1970年12月
売上高600億円を突破。ポーラレディ5万人体制

この頃にはポーラレディが注目を集める存在に。ただし、販売員には過酷なノルマが課されており、1日に30〜40件を飛び込み営業することも珍しくなかったという。結果として、好成績を残せるポーラレディーが離職せずに残るという組織であった。

証言
熊谷富美子氏(ポーラ化粧品本舗・当時社員)

常に数字を追っていました。そりゃ、毎月の目標はつらいとは思いましたが、それを追うということはつらい中にも楽しみがあります。追われる気持ちでは、その楽しみはないでしょうね。例えば、その月の目標が20万円だとするでしょう。それを少しずつでも攻略していこうという気持ちと、最初から20万円に押し潰されてしまう気持ちとではずいぶん違うと思いますね。だから私なんか、お風呂屋さんに行って、下足の番号も20番を選んで入れたものです。

決算
ポーラオルビスHDの業績
1970年12月期(ポーラ化粧品本舗)
推定売上高
600
億円
1973年12月
ポーラレディ7万人体制
1973年4月
待遇改善を求めてポーラ化粧品争議が発生

ポーラレディーの雇用契約は、ポーラ化粧品本舗ではなく、各地でポーラ販売を行う個人商店と取り交わされた。このため、低賃金労働を強要する個人店も出現し、末端のポーラレディーが待遇改善を求めて、雇用体系の整理を要求。1971年には雇用契約の改善を求めて「ポーラ化粧品争議」も発生した。

証言
鈴木常司(ポーラ化粧品本舗・当時社長)

本当に頭が痛いのは、彼女たちの定着性ですね。ざっくばらんに申し上げて、今でも年間の移動は万単位です。数万人が入ってきて、数万人がやめていくということですね。やめるだけならいいのですが、優秀な人たちは多くの顧客を抱えていますからね。それを持ったまま仮に他者に引き抜かれるということになりますと、打撃は大きいわけです。2〜3年前までは、その引き抜きが本当に激しかったんですよ

1979-11-15日経ビジネス
決算
ポーラオルビスHDの業績
1973年12月期(ポーラ化粧品本舗)
推定売上高
880
億円
1975年12月
売上高1346億円を達成。ポーラレディ13万人体制へ

FY1975売上高1346億円(セールスマン販売額・ポーラレディー約13万人)、支店営業所:国内6000箇所。化粧品業界では、売上高の面で3位を確保(1位資生堂・2位カネボウ・3位ポーラ化粧品本舗)

証言
日経ビジネス(描写)

同社の訪問販売を担うのが、通称ポーラレディーと呼ばれるセールスマン。6月末現在で約13万人。彼女たちの平均像は--。家庭の主婦で平均年齢35歳。子供2人、下の子が小学校高学年で手がかからなくなっている。向上心旺盛で活発な性格。朝9時から9時半、営業所にて朝礼、連絡事項を受ける。1日4〜5時間、担当地域を訪問販売。夕方4時、営業所に帰り1日の報告、1人当たり売上は千差万別だが、月平均で10万円。ポーラレディーの足だけが同社のたよりである。

決算
ポーラオルビスHDの業績
1975年12月期(ポーラ化粧品本舗)
推定売上高
1346
億円
1975年
販売体制を個人商店から組織化

営業組織を「ポーラレディーの個人商店からポーラ化粧品の販社」へと徐々に転換。国内6000箇所の個人営業所について、有力6社をポーラ化粧品の販社とし、ポーラが2/3を出資して経営支配。販売を本社直轄とし、近代的な営業組織を整備した

証言
鈴木常司(ポーラ化粧品本舗・当時社長)

ここ数年ポーラには、いろいろな難しい問題が襲い、その前途に影を落としている。つまり、組織の肥大化と流通コストの上昇など、いろんな点で現行制度の矛盾が目立ち、外部から激しく揺さぶられようとしている。(略)さらに実り少ない末端責任者をはじめ、組織内の公平さや経済性を欠く面が出始めている。これらの問題は、どれ一つをとってみてもポーラの根幹を揺るがすものである。

決算
ポーラオルビスHDの業績
1975年12月期(ポーラ化粧品本舗)
推定売上高
1346
億円
1976年12月
袋井工場を新設。150億円を投資

基礎化粧品の製造拠点。静岡県袋井市に新設

1981年
テイショクの株式を取得。食品事業に参入
1983年
女性の社会進出が向い風に。訪問販売に限界が露呈

1970年代までのポーラ化粧品は、昼間の時間帯に自宅にいる専業主婦をターゲットに業容を拡大した。ところが、1980年代から女性の社会進出が活発化すると、訪問販売における顧客接点が減少。ポーラ化粧品本舗は「女性の社会進出による訪問販売の市場停滞」という問題に直面した。

決算
ポーラオルビスHDの業績
1983年12月期(ポーラ化粧品本舗)
推定売上高
2000
億円
1984年4月
株式会社科薬抗生物質研究所に資本参加。医薬品に参入
1984年4月
オルビス株式会社を設立。化粧品通販に本格参入
1985年4月
実験店舗を開設。訪問販売から転換
1985年12月
売上高1700億円(前年比15%減収)
1996年
鈴木常司氏が会長就任。経営の一線から退く
1996年
工場を中心に正社員250名をリストラ

創業家の鈴木郷史氏がリストラを率先

2000年11月
鈴木郷史氏が社長就任

創業家の鈴木常司氏(当時70歳)が逝去。常司氏は同年にマンション火災によって重症となり、その後、容態を崩して亡くなった。後任には鈴木郷史氏(当時46歳)が社長就任

決算
ポーラオルビスHDの業績
2001年12月期(連結)
売上高
1971
億円
2002年3月
100%子会社ポーラフーズを売却

食品事業をアサヒフーズに売却

2002年3月
50%子会社ヤマカツを破産申請

宝飾品販売から撤退

2003年1月
鈴木郷史氏の解任動議を通知

創業者の鈴木常司氏の妻であるA氏が、相続したポーラのグループ会社の株式28.82%をもとに、親戚にあたる鈴木郷史氏に対して社長の解任動議を提出。理由は「現社長は相続権がない」「株式売却や相続税の支払いに会社の資金を使うなど会社を私物化している」(2003/1/27日経ビジネス)ことであった。解任は成立しなかったものの、一族内の不和が生じる発端となった。

2005年
ポーラザビューティーの展開

従来のポーラの店舗は小規模な事務所に併設されることが多く、個人商店の延長線上にあった。そこで、駅前の一等地に面積を確保した店舗「ポーラザビューティー」の展開を開始。エステも併設。訪問販売を嫌う若い顧客層を、来店によって取り込むことを狙った。

2010年7月
POLA KOREA, Inc.を清算
2010年12月
ポーラザビューティーの店舗数500を突破
2010年12月
東京証券取引所第1部に株式上場
2011年5月
H2O PLUS HOLDINGS, LLCを買収

米イリノイ州のスキンケア企業を買収。会社設立は1989年。北米8カ所に直営店、海外22カ所に代理店を通じて展開。中国向けにブランド展開を想定

決算
ポーラオルビスHDの業績
2011年12月期(連結)
売上高
1666
億円
当期純利益
80
億円
2012年12月
Jurlique International Pty. Ltdを買収

オーストラリアでナチュラルスキンケアのブランドを展開するJurlique社を買収

決算
ポーラオルビスHDの業績
2012年12月期(連結)
売上高
1808
億円
当期純利益
67
億円
2013年
ポーラブランドの展開で中国を重点国に位置づけ

2013年に中期経営計画(2014-2016)を公表。ポーラおよびオルビスブランドでも中国展開を重視する方針を発表。高価格帯化粧品のブランドイメージ向上のために、ECではなく百貨店向けのマーケティングに投資

決算
ポーラオルビスHDの業績
2013年12月期(連結)
売上高
1913
億円
当期純利益
73
億円
2018年12月
ポーラブランドが好調。全社業績は9期連続で増収増益

2010年代を通じてポーラブランドが主に国内・中国・香港・免税店で順調に成長。中国では百貨店販路の拡大が寄与。ポーラブランドは原価率が低く、利益率改善も達成。一方買収した主要ブランドによる中国展開は苦戦が続き、海外展開の明暗が分かれた

証言
ポーラオルビスHD経営陣(質疑応答)

投資家の問:(注:ポーラブランドの)中国事業が過去と比較して好転した背景や、今後の重点戦略国に据える理由は。

経営陣の答:一時期のブランドに相応しくない販売方法を改め、ブランド価値を高めるために日本の百貨店と同様のマーケティングに注力した成果と考えている。B.A のブランドイメージ戦略に集中し、カウンセリング重視とリピート率改善にこだわった結果、インバウンド顧客の現地購入の後押しもあり軌道に乗ってきた。こういった背景もあり、中国を商機と捉えて店舗数拡大を目指すが、マクロ的には百貨店市場の拡大は期待できないと考えているため、百貨店だけでなく高級モール出店や、EC 加速を同時に進めたいと認識している。

決算
ポーラオルビスHDの業績
2018年12月期(連結)
売上高
2485
億円
当期純利益
84
億円
2019年1月
株式会社ポーラファルマを売却。医薬品から撤退
2019年2月
JURLIQUEで減損損失113億円を計上。業績下方修正を決定

展開先だった中国において、百貨店向け販売が伸び悩み。また代理店販路では貸倒れが発生。巨額減損を決定

決算
ポーラオルビスHDの業績
2019年12月期(連結)
売上高
2199
億円
当期純利益
196
億円
2021年2月
トリコ(FUJIMI)を38億円で買収

トリコはサプリメント「FUJIMI」の販売(月額6400円〜)を展開する国内のベンチャー企業。2018年創業。2021年3月期に売上13億円見込み。創業者の花房香那氏が株式59%を保有。POLA ORBIS CAPITALを通じて10.56%の株式を保有したが、今回の買収で89.44%を追加取得

決算
ポーラオルビスHDの業績
2021年12月期(連結)
売上高
1768
億円
当期純利益
117
億円
2022年4月
H2O PLUSブランドから撤退。累積100億円の営業赤字

買収後から11年連続の営業赤字が続いていたH2Oブランドから撤退。特別損失2億円を計上と少ないが、買収後のFY2011-FY2021における累積営業赤字は約100億円

2022年4月
公式オンラインショップでクレカ情報10万件が漏洩

「THREEおよびAmplitude公式オンラインショップ」でセキュリティーコードを含むクレカ情報が流出。クレカ情報はDBで非保持。(以下推察。外部のフォームツールを利用したと思われるが、当該ツールのクライアントの内部のJavaScriptにクレカ情報を第三者にPOST/GETするコードが仕込まれたと推察)

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