鈴木忍氏が静岡県で化粧品の訪問販売業(のちのポーラ化粧品本舗)を創業した。当時、化粧品は店舗販売が主流であったが、ポーラでは訪問販売をチャネルとしていち早く採用した。この理由について、創業者が「自分で作ったものは自分で売る。そうすればいかに苦労して作った商品であるかを顧客に理解してもらえる」(1976/8/2日経ビジネス)と考えたからであったという。
我々の商売は2つの微妙なるものを相手にしなければならないんです。一つは女性の肌、もう一つは女心です。これはどういうことかと申し上げますと、同じ化粧品でも体質によって肌に馴染む、馴染まないということがあり得る。ですから化粧品販売で望ましいのは売り手がコンサルティング機能を持って、お客さま一人一人の特質に合わせて商品が提供できることなんです。訪販ならこれが可能になる。
化粧品の訪問販売の業容を拡大を受けて、ポーラ化粧品本舗として株式会社化。ポーラという名称の由来は謎とされており、現在に至るまでポーラの創業家を含めて誰も知らない。ブランド名の由来が不詳という珍しい状態に
製造は旧ポーラ化粧品本舗(ポーラ化成)が担当し、販売はポーラ商事が担当。いずれも創業者の鈴木忍氏が支配株主と推察され、法人ではなく鈴木忍氏という個人が、ポーラのグループ企業を形成。(この決定がポーラの資本政策を複雑怪奇にし、2000年代の遺産相続問題の布石になったと推察される)
創業者の鈴木忍氏が急逝。創業者の長男である鈴木常司(当時25歳)がポーラの2代目社長に就任。1996年まで約42年にわたって社長を歴任した。就任直後は工場における労働組合の対処に苦慮
最初は大変でした。小さな会社だったので、資金繰りに困って、地元の信用金庫に行って、50万円、100万円と借りて歩いたんですよ。それに労働組合との間も大変でした。労働争議があって、工場の中に缶詰になるし、自宅の真w理に組合の人たちがきて労働歌を歌っていて、自宅にいられないようにするんですね。それで旅館を転々と泊まり歩いていました。落ち着いてきたのは、昭和32年か昭和33年頃(注:1957年〜1958年)からですね。それ以来順調になってきました。
外資系の化粧品メーカーで日本で訪問販売を行うエイボンに対して、ポーラ化粧品本舗の鈴木常司氏が工場を視察。エイボンはポーラを中小企業と判断し、この時点で競合とは認識していなかった。
15〜16年前でしたか、私がエイボンに行ったときに工場を見せてもらった経緯がありましてね。当時は向こうからすれば、東洋のちっぽけな国の化粧品会社のおやじが来ても大したことないと思ったんでしょうな(笑い)。「同業なのによく見せてくれますね」と言ったら「うちの売り上げに関係ない」と言われましたよ
この頃にはポーラレディが注目を集める存在に。ただし、販売員には過酷なノルマが課されており、1日に30〜40件を飛び込み営業することも珍しくなかったという。結果として、好成績を残せるポーラレディーが離職せずに残るという組織であった。
常に数字を追っていました。そりゃ、毎月の目標はつらいとは思いましたが、それを追うということはつらい中にも楽しみがあります。追われる気持ちでは、その楽しみはないでしょうね。例えば、その月の目標が20万円だとするでしょう。それを少しずつでも攻略していこうという気持ちと、最初から20万円に押し潰されてしまう気持ちとではずいぶん違うと思いますね。だから私なんか、お風呂屋さんに行って、下足の番号も20番を選んで入れたものです。
ポーラレディーの雇用契約は、ポーラ化粧品本舗ではなく、各地でポーラ販売を行う個人商店と取り交わされた。このため、低賃金労働を強要する個人店も出現し、末端のポーラレディーが待遇改善を求めて、雇用体系の整理を要求。1971年には雇用契約の改善を求めて「ポーラ化粧品争議」も発生した。
本当に頭が痛いのは、彼女たちの定着性ですね。ざっくばらんに申し上げて、今でも年間の移動は万単位です。数万人が入ってきて、数万人がやめていくということですね。やめるだけならいいのですが、優秀な人たちは多くの顧客を抱えていますからね。それを持ったまま仮に他者に引き抜かれるということになりますと、打撃は大きいわけです。2〜3年前までは、その引き抜きが本当に激しかったんですよ
FY1975売上高1346億円(セールスマン販売額・ポーラレディー約13万人)、支店営業所:国内6000箇所。化粧品業界では、売上高の面で3位を確保(1位資生堂・2位カネボウ・3位ポーラ化粧品本舗)
同社の訪問販売を担うのが、通称ポーラレディーと呼ばれるセールスマン。6月末現在で約13万人。彼女たちの平均像は--。家庭の主婦で平均年齢35歳。子供2人、下の子が小学校高学年で手がかからなくなっている。向上心旺盛で活発な性格。朝9時から9時半、営業所にて朝礼、連絡事項を受ける。1日4〜5時間、担当地域を訪問販売。夕方4時、営業所に帰り1日の報告、1人当たり売上は千差万別だが、月平均で10万円。ポーラレディーの足だけが同社のたよりである。
営業組織を「ポーラレディーの個人商店からポーラ化粧品の販社」へと徐々に転換。国内6000箇所の個人営業所について、有力6社をポーラ化粧品の販社とし、ポーラが2/3を出資して経営支配。販売を本社直轄とし、近代的な営業組織を整備した
ここ数年ポーラには、いろいろな難しい問題が襲い、その前途に影を落としている。つまり、組織の肥大化と流通コストの上昇など、いろんな点で現行制度の矛盾が目立ち、外部から激しく揺さぶられようとしている。(略)さらに実り少ない末端責任者をはじめ、組織内の公平さや経済性を欠く面が出始めている。これらの問題は、どれ一つをとってみてもポーラの根幹を揺るがすものである。
1970年代までのポーラ化粧品は、昼間の時間帯に自宅にいる専業主婦をターゲットに業容を拡大した。ところが、1980年代から女性の社会進出が活発化すると、訪問販売における顧客接点が減少。ポーラ化粧品本舗は「女性の社会進出による訪問販売の市場停滞」という問題に直面した。
創業家の鈴木常司氏(当時70歳)が逝去。常司氏は同年にマンション火災によって重症となり、その後、容態を崩して亡くなった。後任には鈴木郷史氏(当時46歳)が社長就任
創業者の鈴木常司氏の妻であるA氏が、相続したポーラのグループ会社の株式28.82%をもとに、親戚にあたる鈴木郷史氏に対して社長の解任動議を提出。理由は「現社長は相続権がない」「株式売却や相続税の支払いに会社の資金を使うなど会社を私物化している」(2003/1/27日経ビジネス)ことであった。解任は成立しなかったものの、一族内の不和が生じる発端となった。
従来のポーラの店舗は小規模な事務所に併設されることが多く、個人商店の延長線上にあった。そこで、駅前の一等地に面積を確保した店舗「ポーラザビューティー」の展開を開始。エステも併設。訪問販売を嫌う若い顧客層を、来店によって取り込むことを狙った。
米イリノイ州のスキンケア企業を買収。会社設立は1989年。北米8カ所に直営店、海外22カ所に代理店を通じて展開。中国向けにブランド展開を想定
オーストラリアでナチュラルスキンケアのブランドを展開するJurlique社を買収
2013年に中期経営計画(2014-2016)を公表。ポーラおよびオルビスブランドでも中国展開を重視する方針を発表。高価格帯化粧品のブランドイメージ向上のために、ECではなく百貨店向けのマーケティングに投資
2010年代を通じてポーラブランドが主に国内・中国・香港・免税店で順調に成長。中国では百貨店販路の拡大が寄与。ポーラブランドは原価率が低く、利益率改善も達成。一方買収した主要ブランドによる中国展開は苦戦が続き、海外展開の明暗が分かれた
投資家の問:(注:ポーラブランドの)中国事業が過去と比較して好転した背景や、今後の重点戦略国に据える理由は。
経営陣の答:一時期のブランドに相応しくない販売方法を改め、ブランド価値を高めるために日本の百貨店と同様のマーケティングに注力した成果と考えている。B.A のブランドイメージ戦略に集中し、カウンセリング重視とリピート率改善にこだわった結果、インバウンド顧客の現地購入の後押しもあり軌道に乗ってきた。こういった背景もあり、中国を商機と捉えて店舗数拡大を目指すが、マクロ的には百貨店市場の拡大は期待できないと考えているため、百貨店だけでなく高級モール出店や、EC 加速を同時に進めたいと認識している。
展開先だった中国において、百貨店向け販売が伸び悩み。また代理店販路では貸倒れが発生。巨額減損を決定
トリコはサプリメント「FUJIMI」の販売(月額6400円〜)を展開する国内のベンチャー企業。2018年創業。2021年3月期に売上13億円見込み。創業者の花房香那氏が株式59%を保有。POLA ORBIS CAPITALを通じて10.56%の株式を保有したが、今回の買収で89.44%を追加取得