1915年
西村新八郎商店を創業

石鹸・化粧品問屋に勤務していた西村新八郎が独立を決めて、大正時代の1915年に「西村新八郎商店」を開業した。

当初は問屋であったが製造分野にも進出するなど、第一次世界大戦による好況の恩恵を受けて成長を遂げた。

なおマンダムでは創業を1927年としているが、これはマンダムの実質創業者である西村新八郎が、経営危機に陥った「金鶴香水株式会社」の経営に参画した年である。

このため、マンダムの創業者が問屋を立ち上げた1915年が、西村家の歴史におけるマンダムの創業年と言える。

1927年
金鶴香水株式会社に経営参画

香水の国産化に成功して「金鶴香水」を販売していた大崎組(大阪に拠点)が昭和恐慌によって経営危機に陥った。このため、大阪の化粧品業界の関係者は、名門問屋の没落を憂いて「金鶴香水」の再生を試みて「金鶴香水株式会社」を設立した。しかし、岡山の実業家であった林原氏が経営トップに就任したが、当初は経営再建に苦戦した。

そこで、林原氏と旧知であり、化粧品メーカーを経営していた西村新八郎が「金鶴香水株式会社(現マンダム)」の経営再建を担うことになった。

再建にあたっては、西村新八郎が経営していた「巴化粧品製造所」に事務所を併設し、製造面および販売面でも巴化粧品製造所が全面的に協力した。

1933年
丹頂チックを発売

金鶴香水株式会社の再建に大きく寄与したのが、1933年に発売した男性用整髪料「丹頂チック」の発売であった。

戦時体制による「国産化」が重宝されるという時代の流れに加えて、従来は使用されていなかった植物性油脂を使用して、使い勝手の良い製品となった。当時流行していたリーゼントに欠かせない商品として国内に広がり、金鶴香水株式会社の経営再建の決定打となった。

丹頂チックのヒットによって、金鶴香水株式会社(現マンダム)は「香水」から「男性用整髪料」への業態転換に成功した。

1946年
金鶴香水株式会社を吸収合併

終戦後、西村新八郎は自らが創業した「巴化粧品製造所」を「金鶴香水株式会社」に吸収合併することを決め、資本関係を整理した。これによって、金鶴香水株式会社が現在に至るマンダムの系譜となった。

1951年
広告宣伝に三船敏郎を起用

金鶴香水株式会社は、終戦直後に、化粧品などの娯楽品の需要増加を見越して、丹頂チックの大規模な販促活動を実施した。

当時、映画俳優として人気を集めていた国民的スター「三船敏郎」を広告宣伝に起用。これによって、男性の支持を受けて、男性用整髪料「丹頂チック」で業容を拡大した。

1959年
丹頂株式会社に商号変更

広告宣伝の成功により「男性用整髪料」が事業の主力となった一方、社名は「金鶴香水株式会社」であり、事業内容と社名が一致しなくなっていた。

そこで、1959年に社名を「丹頂株式会社」に変更し、ブランドと社名の一致を図った。

1968年
丹頂チックの安売り問題

1960年代を通じて流通業界では「スーパー」などの安売り業態が台頭し、「丹頂チック」などの整髪料が安売りされるという問題が発生した。

加えて、丹頂チックが発売から30年経過したために、当時若者だった男性が年齢を重ねた結果、1960年代当時の若者の支持を集められなくなっていた。

この状況において、競合の化粧品メーカー「資生堂」が、男性用整髪料「MG-5」を発売し、市場を席巻したため、価格競争が一層激化した。この結果、丹頂株式会社(現マンダム)の存在意義が揺らぎつつあった。

そこで、西村彦次(当時社長)は、丹頂に代わる新しいブランドの開発を決定した。

1969

インドネシアに合弁会社設立

1969年にインドネシアの華僑と共同で合弁会社を設立し、インドネシアにおける「男性用整髪料」の製造・販売を開始した。

当時のインドネシアは発展途上国であり、全土が島々で形成されていたために、男性用整髪料の流通網の整備が事業展開の要になっていた。この問題を、合弁パートナーである華僑の会社が販売網を整備することによって解決し、インドネシアにおいてマンダムが躍進するきっかけとなった。

優れた現地パートナーと合弁会社を設立できた大きな理由は、1960年代後半という時点で、日本企業や欧米企業が東南アジアを「製造拠点」としては活用していたものの、「市場」として捉えておらず、結果として販売パートナーとの信頼関係を独占的に構築しやすかったという事情があった。

その意味で、マンダムは、いち早くインドネシアでの合弁会社の設立を選択した点が、同国でシェアを確保する大きな要因となった。

1970年
マンダムシリーズを発表

古いブランドというイメージが定着しつつあった「丹頂チック」と決別し、新たに若者向けの男性用整髪料に参入するために「マンダムシリーズ」を開発した。

そして、広告モデルにはハリウッドスターであったチャールズ・ブロンソンを起用する決断を下した。当時、ハリウッドスターを起用した広告宣伝は日本国内に例がなかったが、当時の西村彦次社長は、あえて前例のないチャレンジをこした。

そして、ハリウッドスターを活用した大規模な広告宣伝を国内で展開することによって、若者の男性からの支持を取り付けることに成功した。若者が「マンダム」を指名買いするようになり、新しい若者向けの男性用整髪料としての地位を確立した。

1971年
株式会社マンダムに商号変更

マンダムシリーズの発売に合わせて、社内の組織風土を刷新するために、称号の変更を決定した。1971年に社名を「丹頂株式会社」から「株式会社マンダム」に変更し、新しいブランドに賭ける方針を明確にした。

1978年
直販体制に移行

1970年代当時、化粧品業界では値下げ競争が問題視され、小売店に対する価格決定権を握れないマンダムにとって大きな経営課題であった。

そこで、西村育雄(マンダム・当時社長)は従来の卸業者を介する代理店経由の販売方法を廃止し、直販によって小売店に商品を売り込む流通改革を実施した。

このため、全国各地に営業拠点を新設するとともに、営業人員を大量に採用した。

1980

経営危機により経営陣を刷新

マンダムは直販体制への移行を図ったものの、当時の売上高は約60億円であり、卸業者への価格交渉力がなく、加えて取引業社が猛反発した。加えて、マンダム自身が、小売業のと開拓や流通を負担したため、直販への移行によって相当のコストが発生した。

この結果、直販体制への移行によるコスト増加によって、1980年度にマンダムは経常赤字に転落した。

そこで、マンダムは1980年に大規模な経営改革に着手した。

まずは、大規模な人員整理を決定し、西村彦次社長が退任し、弟の西村育雄が社長に就任した。また役員11名中の7名が退任し、役員の平均年齢が17歳若返った。また、販売会社の人員を450名から200名削減し、断腸の思いで固定費の削減を決定している。

バランスシートにおいては有利子負債の負担が重くなっていた(資本金の20倍)ため、本社近くの土地を売却することによって資金を捻出して財務的な問題を解決した。

次に、マンダムでは直販への移行を撤回し、従来は敵に回した問屋に頭を下げて取引の再開を懇願した。また、新しい販路としてコンビニを重視した。

最後に、販売面では「市場調査」を重視する方針を打ち出し、全社員が「情報カード」を活用して、商品における疑問点を企画会議に立案できる仕組みを作り上げた。

1988

増収増益を達成。株式を店頭公開

1980年代を通じてマンダムは増収増益を達成。1982年度の売上高63億円から、1988年度には同183億円へと大幅増収となった。1988年には株式を店頭公開するなど、経営再建に成功した。

増収増益の大きな要因は、コンビニへの販路拡大と、それに合わせた商品企画の充実、および1985年のテレビCMに松田優作を起用したことによる宣伝効果であった。

コンビニでは「同一メーカーで棚を確保する」ことが難しく、人気商品を並べることしかできなかった。そこで、マンダムは商品企画を充実させることによって、新商品のヒット率を向上させ、コンビニの棚を掌握することに成功した。

競合の資生堂は、従来の化粧品店において「棚を存分に確保して種類展開する」方式であったが、この方式はコンビニでの棚の確保にそぐわなかったため、結果としてコンビニ市場ではマンダムが優勢になった。

2002年
東証第2部に株式上場
2003年
東証第1部に株式上場
2018年
インバウンドにより増収増益

2010年代を通じて、アジア圏からの旅行者が日本で「化粧品」を大量購入することが常態化し、マンダムもインバウンドの恩恵を受けて増収増益を達成した。

2018年度におけるマンダムの国内事業は、売上高813億円に対して営業利益55.2億円であり、高収益事業に育った。

2021年
インバウンド消滅で減収減益

コロナウイルスの蔓延によって、インバウンド需要が消滅し、2021年度決算でマンダムは減収減益を計上した。

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