1872年(明治5年)に、薬剤師免許(第1号)を取得した福原有信氏が、東京銀座において日本初の民間調剤「資生堂薬局」を創業した。祖業は調剤薬局であったが、明治21年から「石鹸」の製造・販売を開始してメーカーを志向。明治30年から「化粧品」の製造販売を開始し、事業展開を拡大した。
大正時代を通じて化粧品の販売価格は安定せず、乱売が横行。化粧品を販売する末端の小売店は経営に窮していた。そこへ、1923年9月の関東大震災によって、多くの零細な販売店が行き詰まるようになっていた。
小売店の苦境を受けて、資生堂の松本昇氏(営業支配人)が米国留学を通じて知見を得た「チェーン店」の制度を導入することを決定。1923年12月に資生堂は「チェイン・ストア」の制度を発足し、1923年内に国内3000店舗の小売店を「協力店」として組織した。関東大震災による経営難から、短期間に多くの小売店が加盟した。
資生堂の狙いは、チェーン店を通じて正規品を販売し、製品価格を安定させることであった。そこで、資生堂は国内における販売量の全量を「チェイン・ストア」に加盟して協力店向けに販売し、統一的な価格で販売数量に要請した。一方で、資生堂製品の納入時に、販促用ポスターなどを配布することで、販売促進に協力した。
ただし、国内3000店の協力店に直接商品を納入することは現実的ではないことから、資生堂は全国の主要な問屋に対して「取次店契約制度」を締結。資生堂としては問屋に対して小売店への販売価格を守ることを要請し、製品価格の維持を目論んだ。
資生堂は「チェイン・ストア制度」について、価格を安定させるだけでなく、資生堂製品の啓蒙のためにも活用した。1927年から「資生堂月報」を発刊して最新の商品知識を共有する媒体等して活用した。
また、1935年には「チェインストアスクール」を開設。10日にわたる研修により、資生堂の経営方針や、販売に関する技術、美容や製品に関する知識の共有を行い、協力店における販売技術の向上に協力した。
1937年1月には「花椿会」をスタートさせ、協力店が、資生堂製品の購入者に加入促すことで会員基盤を拡大した。会員は資生堂から「贈り物」を受けることができるため、実質的には、資生堂による小売店への販促協力の側面があった。
2005年に前田新造氏が資生堂の社長に就任して「メガブランド戦略」の方針を策定した。
これは、従来の資生堂において多ブランド(約100ブランドを展開)によって、1ブランドあたりの広告宣伝費が薄まっていたことを問題視し、4つのブランドに絞って広告宣伝・販売促進を集中投下することを目的とした。具体的な注力領域として、トイレタリーと化粧品事業の「融合」を掲げ、洗浄3分野「スキンケア・ボディー・ヘア」で積極的な販促投資を行うことを決定した。
資生堂では販売面における組織改革を実施。SBUを単位としてブランドマネージャーを配置することで、ブランドにおける「開発・宣伝・広報」に責任を持つ体制とした。
これらの体制は、ヘアケアで競合する外資企業(P&Gやユニリーバ)を特に意識した施策だったと推定される。
2005年8月21日に「MAQUILLAGE」「UNO」のブランド展開を開始。2006年2月には「AQUA LABEL」、同年3月には「TSUBAKI」の製品展開を開始した。これら4つのブランドに対して「有名女優・俳優を起用したテレビCM」を打ち出すことで、積極的な広告宣伝を実施した。
特に、ヘアケア領域の「TSUBAKI」においては、発売当初から「有名女優12名」および「CMソングにSMAP」を起用したテレビCMを放映。推定50億円の広告宣伝費を投下するなど、発売当初から積極的なプロモーションによって認知度を確保した。広告デザインには外部業者(大貫デザイン・大貫卓也氏)を起用した。
この結果、2008年においてヘアケアにおいて資生堂の「TSUBAKI」がブランドシェア国内1位を確保するに至った。
メガブランドの開発は、また、社内における新しい仕事の進め方の試金石でもありました。事業部の壁を取り払い、全社を挙げてカテゴリーを攻略する新しい体制を取る。一人のブランドマネジャーが、商品企画から、研究所との調整、プロモーション、営業の第一線への情報提供までを串刺しにしてマネジメントします。このことは、社員の行動変容を促しました。
この体制の下、七つのブランドを足しても長年トップ3にすら入れなかった、ヘアケアのカテゴリーにおいてTSUBAKIただ一つで、現在トップシェアを頂くに至りました。TSUBAKIに限らず、各カテゴリーのメガブランドが目標通りに圧倒的な知名度を得て、資生堂を代表するブランドとしてお客様の認知を得るところまで育っています。さらに現在では、東南アジア各国にも販路を拡大しつつあります。この3年間に注力した27ブランドは、大きく成長を遂げ、国内化粧品売上の8割強を占めるまでとなりました。もちろんマーケティング効率は格段に向上し、まさに好循環を生んでいます。
生産効率が悪い国内工場の閉鎖を実施。対象は京都府舞鶴工場(従業員数72名)、東京都板橋工場(従業員数158名)、資生堂ビューティーテック(大阪府東成区・従業員数134名)、原町製紙所(静岡県沼津市・従業員数36名)であった。
資生堂ビューティーテックは「スポンジ・ヘアブラシ」、原町製紙所では「化粧用ティッシュペーパー」の生産に従事したが、競争力に乏しいことから生産停止を決定した。
2019年に資生堂は国内に「那須工場」を新設し、36年ぶりに国内工場を新設した。資生堂としては高級化粧品の品質を担保する上で、国内生産が有効と判断。以後、2020年に大阪茨木、2022年に福岡久留米の各工場を新設し、国内工場の新設により推定累計1200億円の投資を実施した。
bareMineralsおよびBUXOM(2010年買収)、Laura Mercier(2016年買収)について売却を決定。当該3事業は売上高523億円。・営業損失73億円(FY2021)の赤字体質であり、譲渡を通じて不採算事業を整理した。