計画策定の背景
資生堂は戦後、再販価格維持制度と全国的な販路網に支えられた国内化粧品市場において、多ブランド展開と研究開発投資を通じて成長してきた。価格と流通が制度的に安定していた環境下では、製品ライン拡張と広告投資が競争力の源泉となり、ブランド数の多さそのものが強みとして機能していた。しかし1990年代以降、規制緩和と流通主導権の変化、グローバル競争の激化により、この前提条件は大きく崩れ、ブランドの収益力や資本効率にばらつきが生じる構造が顕在化していった。
2000年代以降、同社はメガブランド戦略や事業売却、選択と集中を段階的に進めてきたが、海外事業の拡大と買収を通じて事業構造は一層複雑化した。特に2010年代後半には、米州事業の収益性低下や構造改革費用の増加が利益を圧迫し、資本コストを安定的に上回るリターンを確保できない局面が続いた。こうした反省を踏まえ、資生堂は前中期経営戦略で進めた構造改革を土台として、ブランド価値と資本効率の両立を明確に打ち出す必要性を認識し、2030年を見据えた新たな中期経営戦略を策定した。
経営の基本方針
2030中期経営戦略では、ブランド価値の最大化を成長の起点と位置づけ、スキンケアやサンケアを中心とする注力カテゴリーに経営資源を集中する方針を明確にした。技術・研究開発をブランドの中核に据え、グローバルでの展開国拡大や新カテゴリー創出を通じて、質の高い成長を実現することを目標としている。同時に、ブランドポートフォリオの再編を進め、非中核ブランドの縮小・撤退を通じて事業のシンプル化を図る。
加えて、本戦略ではROICを中核指標とする財務規律を強化し、投下資本の回転率と利益率の双方を改善する経営へと転換することを打ち出している。成長投資についてはリターンを重視した選別投資を徹底し、キャッシュ創出力の向上を通じて成長投資と株主還元を両立させる。2030中期経営戦略は、売上規模の拡大を目的とする計画ではなく、ブランドと資本効率の両立によって持続的に企業価値を高める経営体制への転換を志向した指針である。
戦後の資生堂は、チェーンストア網と再販価格維持制度に支えられた国内化粧品市場の中で成長してきた。価格と流通が制度的に安定していたため、経営上の主要な判断は、製品ラインの拡張や販促施策の調整といった範囲に収まり、価格競争や流通再編を想定した意思決定は必要とされなかった。この環境の下で、内部人材は制度の内側で事業を運営する能力を高めていった。
その結果、経営陣の多くは、再販価格維持が機能する市場構造の中でキャリアを積み、価格下落や流通の主導権が小売側へ移る状況を実務として経験する機会を持たなかった。値引きへの対応、価格帯の再設計、販売チャネルの切り替えといった判断は、制度が機能している間は不要であり、組織としても検討や訓練が行われてこなかった。重要なのは既存のチェーン店(個人零細店)との関係性の維持であり、この流通秩序を壊す施策も打ち出すこともできなかった。内部登用による人材循環は、価格が維持される条件下では合理的に機能していた。
しかし1990年代以降、再販価格維持が形骸化し、ドラッグストアの台頭によって価格競争と流通主導の市場環境が現実のものとなると、従来の判断枠組みは急速に通用しなくなった。内部人材は、制度に守られた事業構造を前提に意思決定を積み重ねてきたため、競争条件が変化した後に即応できる選択肢を持ち合わせていなかった。課題は戦術の修正ではなく、事業の捉え方そのものを更新する段階に移っていた。
こうした状況の中で、資生堂が経営陣の外部登用に踏み切ったのは、内部登用によって形成されてきた判断基準そのものに限界が生じていたためである。2014年に社長に就任した魚谷雅彦氏は、日本コカ・コーラでの経営経験を持ち、価格競争とブランド投資が常態化した市場環境で事業を率いてきた人物だった。外部登用は、制度に支えられた経営から脱し、競争条件が変化した市場で事業を再定義するための選択だった。