直近の経営方針: 2026年12月期 2030年12月期
資生堂グループ 2030中期経営戦略

計画策定の背景

資生堂は戦後、再販価格維持制度と全国的な販路網に支えられた国内化粧品市場において、多ブランド展開と研究開発投資を通じて成長してきた。価格と流通が制度的に安定していた環境下では、製品ライン拡張と広告投資が競争力の源泉となり、ブランド数の多さそのものが強みとして機能していた。しかし1990年代以降、規制緩和と流通主導権の変化、グローバル競争の激化により、この前提条件は大きく崩れ、ブランドの収益力や資本効率にばらつきが生じる構造が顕在化していった。

2000年代以降、同社はメガブランド戦略や事業売却、選択と集中を段階的に進めてきたが、海外事業の拡大と買収を通じて事業構造は一層複雑化した。特に2010年代後半には、米州事業の収益性低下や構造改革費用の増加が利益を圧迫し、資本コストを安定的に上回るリターンを確保できない局面が続いた。こうした反省を踏まえ、資生堂は前中期経営戦略で進めた構造改革を土台として、ブランド価値と資本効率の両立を明確に打ち出す必要性を認識し、2030年を見据えた新たな中期経営戦略を策定した。

経営の基本方針

2030中期経営戦略では、ブランド価値の最大化を成長の起点と位置づけ、スキンケアやサンケアを中心とする注力カテゴリーに経営資源を集中する方針を明確にした。技術・研究開発をブランドの中核に据え、グローバルでの展開国拡大や新カテゴリー創出を通じて、質の高い成長を実現することを目標としている。同時に、ブランドポートフォリオの再編を進め、非中核ブランドの縮小・撤退を通じて事業のシンプル化を図る。

加えて、本戦略ではROICを中核指標とする財務規律を強化し、投下資本の回転率と利益率の双方を改善する経営へと転換することを打ち出している。成長投資についてはリターンを重視した選別投資を徹底し、キャッシュ創出力の向上を通じて成長投資と株主還元を両立させる。2030中期経営戦略は、売上規模の拡大を目的とする計画ではなく、ブランドと資本効率の両立によって持続的に企業価値を高める経営体制への転換を志向した指針である。

洞察
なぜ資生堂は、社長を外部登用したのか

戦後の資生堂は、チェーンストア網と再販価格維持制度に支えられた国内化粧品市場の中で成長してきた。価格と流通が制度的に安定していたため、経営上の主要な判断は、製品ラインの拡張や販促施策の調整といった範囲に収まり、価格競争や流通再編を想定した意思決定は必要とされなかった。この環境の下で、内部人材は制度の内側で事業を運営する能力を高めていった。

その結果、経営陣の多くは、再販価格維持が機能する市場構造の中でキャリアを積み、価格下落や流通の主導権が小売側へ移る状況を実務として経験する機会を持たなかった。値引きへの対応、価格帯の再設計、販売チャネルの切り替えといった判断は、制度が機能している間は不要であり、組織としても検討や訓練が行われてこなかった。重要なのは既存のチェーン店(個人零細店)との関係性の維持であり、この流通秩序を壊す施策も打ち出すこともできなかった。内部登用による人材循環は、価格が維持される条件下では合理的に機能していた。

しかし1990年代以降、再販価格維持が形骸化し、ドラッグストアの台頭によって価格競争と流通主導の市場環境が現実のものとなると、従来の判断枠組みは急速に通用しなくなった。内部人材は、制度に守られた事業構造を前提に意思決定を積み重ねてきたため、競争条件が変化した後に即応できる選択肢を持ち合わせていなかった。課題は戦術の修正ではなく、事業の捉え方そのものを更新する段階に移っていた。

こうした状況の中で、資生堂が経営陣の外部登用に踏み切ったのは、内部登用によって形成されてきた判断基準そのものに限界が生じていたためである。2014年に社長に就任した魚谷雅彦氏は、日本コカ・コーラでの経営経験を持ち、価格競争とブランド投資が常態化した市場環境で事業を率いてきた人物だった。外部登用は、制度に支えられた経営から脱し、競争条件が変化した市場で事業を再定義するための選択だった。

2024-09-26 | by @yusugiura, Software Engineer
洞察
なぜ資生堂は、低価格帯の競争に敗れたのか

資生堂は戦前に化粧品事業へ参入し、1923年の関東大震災を契機として、都市部を中心にチェーンストア網を整備した。個人経営の小規模商店を系列化し、取扱商品、価格、陳列を統一することで、メーカー主導の販売体制を確立した。この仕組みにより、資生堂は全国規模で同一ブランドを展開し、流通を通じて市場を面的に押さえることが可能となった。

戦後、この販売網は化粧品の供給網であると同時に、地域雇用を維持する装置として位置づけられた。個人経営の零細商店を保護する目的の下で再販価格維持制度が容認され、それを支える政治的な制度が長期にわたり維持された。値引きは制度上抑えられ、販売店は一定の利益を確保でき、メーカー側も価格下落を気にせず販売数量を積み上げることができた。資生堂はこの環境の下で事業規模を拡大し、国内トップの化粧品メーカーへと成長した。

しかし1990年代に入ると、独占禁止法の観点から再販価格維持が問題視され、ドラッグストアの台頭によって価格統制は実質的に崩れた。店頭では値引きが常態化し、商品は価格と回転率で選別されるようになった。高価格帯では海外ブランドがブランド訴求と商品差別化で支持を広げ、低価格帯ではプチプラ化粧品がドラッグストアを中心に急速に浸透した。一方、資生堂は従来の価格帯と販売モデルを大きく変えないまま競争に直面し、明確に勝てる価格帯や販売チャネルを定めきれなかった。

結果として、価格競争が始まった段階で、資生堂は市場内での立ち位置を失った。値引きへの即応、価格帯の再設計、販売チャネルの切り替えといった判断は、制度に守られてきた期間に十分に積み重ねられていなかった。戦後の成長を支えた販売網と制度は、競争条件が変わった後も事業構造の中心に残り、変化への対応を遅らせた。価格競争の開始は、資生堂にとって突然の外部要因ではなく、長年の事業構造が通用しなくなった瞬間だった。

2024-09-26 | by @yusugiura, Software Engineer
売上
資生堂:売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
9,730億円
売上高:2024/12
利益
資生堂:売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結 (単位:%)
2.2%
利益率:2024/12
免責事項
当サイト(名称:The社史)において、品質を向上させるために、Google LLCが提供するサービス「Google Analytics」を介してGoogle LLCに対して閲覧者が保持する情報(IPアドレス・閲覧URL・閲覧遷移元URL・閲覧日時・デバイス情報)を送信しています。また、当サイトは、開発者が公開情報を取り纏めて掲載したもので、個人的な見解を述べたものであり、正確性、完全性および適時性を保証しません。また当サイトの情報によって閲覧者に生じたいかなる損害も、本サイトの開発者は一切の責任を負いません。
1872
9月

資生堂薬局を東京銀座で創業

背景:銀座の発展と民間調剤の拡大

明治初期の東京では、政府主導の都市改造と人口流入が進み、銀座は新たな商業集積地として再編されていた。煉瓦街の整備により、西洋由来の商品やサービスが集まり、生活様式の変化が表出した。医療分野でも西洋医学が導入され、従来の漢方中心の診療とは異なる調剤需要が生じていた。

当時の医薬品流通では、医師の処方と販売が分離されておらず、品質や価格は提供者ごとに異なっていた。都市部では人口増加に伴い、即時性と信頼性を備えた調剤拠点が求められていたが、民間による専門的な調剤は限られていた。薬剤師資格を持つ個人が独立して調剤を行う余地が、この段階で拡大していた。

決断:銀座での民間調剤薬局創業

1872年9月、福原有信(薬剤師、薬剤師免許第1号取得者)は、東京銀座に資生堂薬局を開業した。官営ではなく民間として調剤を行い、医師の処方に基づく薬剤提供を主業とした点に特徴があった。銀座への出店は、人口集中と商業動線の双方を取り込む判断であった。

創業当初の事業は調剤に限定されていたが、福原は薬品の製造と販売へ関与を広げた。1888年には石鹸の製造・販売を開始し、調剤収入に依存しない売上の獲得を進めた。これにより、事業領域は調剤というサービス提供から、製品を供給するメーカーへと広がった。

概要
祖業は銀座での調剤薬局

資生堂薬局は、都市化が進む銀座で民間調剤として創業した。調剤を主業としながら、石鹸製造へ進んだことで、収益源は処方依存から自社製品へ移った。結果として、事業はサービス提供に限定されず、メーカー機能を持つ形へ展開した。

1897年
オイデルミンを発売・化粧品事業に参入
1915年
商標「花椿」を制定
1897
1月

化粧品に新規参入

背景:衛生意識上昇と化粧品需要の顕在化

明治後期の東京では、都市化と生活様式の変化により、衛生や身だしなみへの関心が広がっていた。西洋医学の普及に加え、日用品においても清潔を重視する考え方が浸透し、薬品と生活用品の境界は次第に曖昧になっていた。銀座では薬局や舶来品店が集積し、新しい商品が試される環境が整っていた。

当時の薬局は、調剤を主業としながらも、医薬品以外の商品を扱う余地を持っていた。とくに、皮膚や口腔の清潔に関わる商品は、医療知識と親和性が高く、薬局が販売拠点となりやすかった。一方で、国内における化粧品は輸入品が多く、価格や供給は外部環境に左右されやすい状況にあった。

決断:医薬知識を起点とした化粧品発売

1897年1月、福原有信(薬剤師、資生堂創業者)は、化粧品「オイデルミン」を発売した。薬局が自ら企画し製品を供給する形を採り、調剤に依存しない売上の獲得を図った点に特徴があった。銀座の店舗は、新製品を直接顧客に届ける場として機能した。

オイデルミンは、衛生と美容の双方を意識した商品として展開された。医薬品で培った成分管理や品質管理の知見が製品企画に反映され、輸入品に依存しない供給が可能となった。これにより、資生堂の事業は調剤と日用品販売に加え、化粧品を自社で企画・供給する領域へ踏み出した。

概要
調剤薬局から化粧品メーカーに転換

オイデルミンの発売により、資生堂は調剤中心の事業から一歩進み、自社企画による化粧品供給を開始した。医薬知識を活用した商品設計は、輸入品に依存しない販売を可能にし、事業ポートフォリオに化粧品が加わった。

1915

商標「花椿」を考案

背景:化粧品のコモディティー化

明治後期から大正期にかけて、資生堂は化粧品を中心に取扱品目を増やしていた。売薬、化粧品、衛生用品が同一店舗で並ぶ中、商品点数の増加に伴い、個々の製品や事業主体を識別する仕組みが必要となっていた。とくに銀座という往来の多い商業地では、視覚的に即時認識される要素が重要になっていた。

当時の日本では、商標制度は整備途上にあり、企業名と商品名、意匠の使い分けは統一されていなかった。舶来品や模倣品も多く、品質や出所を視覚的に示す手段が求められていた。化粧品は継続使用を前提とする商品であり、信頼の蓄積には一貫した表示が必要であった。

決断:ブランドとしての商標導入

1915年、資生堂は商標「花椿」を考案し、看板や包装、業務用印刷物に用いた。文字情報に依存せず、図形によって事業主体を示す構成を採った点に特徴があった。花椿は、日本的意匠を基調としつつ、簡潔な形状で反復使用が可能な設計であった。

この商標の導入により、個別商品を超えて企業全体を示す視覚的統一が生まれた。商品名や用途が異なっても、花椿の表示によって同一の供給主体であることが即時に伝達された。結果として、資生堂は製品単位の販売から、企業名を基軸とした継続的な認知の形成へ踏み出した。

概要
資生堂ブランドの統一

花椿の導入は、製品ごとに分散していた表示を企業単位で束ねた。図形商標を用いることで、商品点数が増えても供給主体を一目で示すことが可能となり、資生堂は継続的なブランド認知の基盤を得た。当時としては画期的であり、化粧品メーカーとして第一想起を獲得する布石となった。

1923
12月

チェインストアを導入

背景:化粧品乱売と震災後流通混乱

大正期の化粧品市場では、小売段階での乱売が常態化していた。メーカーが設定する価格は末端まで浸透せず、価格差が発生し、利益率は小売ごとに乖離していた。結果として、販売量は確保されても、収益は安定せず、販売現場では資金繰りに影響が及んでいた。とくに化粧品は回転率に依存する商材であり、価格下落は投下資本の回収期間を延ばす要因となっていた。

加えて、1923年9月の関東大震災は、零細な化粧品小売店に直接的な打撃を与えた。店舗の物理的損壊、在庫喪失、顧客減少が同時に発生し、震災以前から続いていた価格競争は、さらに加速した。結果として、メーカーから見た販売網は分断され、販売量の見通しが立ちにくい状況に置かれていた。

決断:価格統制を軸にした連鎖型販売

こうした状況に対し、資生堂は販売経路の再整理を選択した。主導したのは松本昇(資生堂・営業支配人)であり、米国留学を通じて得たチェーン型販売の知見を応用した。1923年12月、資生堂は「チェイン・ストア」方式を開始し、小売店を協力店として組織化した。震災後の経営難も重なり、短期間で約3,000店が参加した。

資生堂は国内販売量を協力店向けに集中させ、価格を統一した条件での販売を要請した。メーカー側は販売量の集約を通じて流通を管理し、小売側は価格下落リスクを回避する形となった。一方で、全国の協力店に直接納入する負担を避けるため、主要問屋と取次店契約を結び、価格順守を要請する間接流通を併用した。

結果:流通管理と情報共有の拡張

チェインストア化により、資生堂は価格のばらつきを抑え、販売量の把握を可能にした。これは、メーカー側にとって売上成長の予測精度を高める効果を持った。一方、小売側は価格競争から距離を取り、一定の利益率を確保しやすくなった。流通における参入障壁は、価格順守と契約条件によって形成された。

さらに資生堂は、協力店との接点を拡張した。1927年には「資生堂月報」を発刊し、商品知識や販売情報を共有した。1935年には「チェインストアスクール」を開設し、販売技術や美容知識を教育した。1937年には購入者向けに「花椿会」を組織し、協力店経由で会員化を進めた。これらの施策は、流通統制と需要側への接続を同時に進める取り組みとして位置づけられる。

概要
チェーン化による価格維持

資生堂のチェインストア導入は、乱売と震災という外部要因に対応する形で進められた。価格統一を通じて流通を管理し、販売量の予測精度を高める一方、教育や会員施策によって需要側との接点も拡張した。メーカー主導で販売網を再編することで、小売店の収益の安定化を図り、共存共栄を図った事例と整理できる。

1923年
チェインストア制度を開始
加盟数(1923/12) 3000
1927年
資生堂月報を発刊開始
1935年
チェイン・ストア・スクールを開始
1937年
花椿会を開始(購入者向け)
1927
株式会社資生堂に商号変更
1949
東京証券取引所に株式上場
1952

躍進5ヵ年計画を策定

背景:戦後復興期に化粧品市場が拡大

1950年代初頭、日本経済は戦後復興段階にあり、都市部を中心に消費活動が徐々に回復していた。化粧品は生活必需品ではなく、可処分所得の増減に左右されやすい分野であったため、需要は不安定であり、販売数量の見通しを立てにくい状況が続いていた。統制解除後の市場には中小メーカーが多数参入し、価格や品質にばらつきが生じていた。

また、講和を控えた政策環境の変化により、将来的な貿易自由化は避けられない状況にあった。海外製品が流入すれば、国内メーカーは品質や価格だけでなく、供給量、販売網、広告展開を含めた競争に直面することになる。短期的な売上回復策では対応が難しく、中長期の事業設計が求められていた。

決断:躍進五ヵ年計画で全社投資

1952年、資生堂は全社方針として「資生堂躍進五ヵ年計画」を策定した。この計画は、単年度の業績回復ではなく、五年間で販売・広告・製造の各領域に計画的に投資を行い、事業基盤を引き上げることを目的としていた。計画期間を明確に区切り、段階的に規模を拡大する設計が採用された。

具体的には、全国規模での販売網整備を進め、チェーンストア制度を軸に流通の統一を図った。同時に広告投資を拡大し、商品単位ではなく企業名の認知を高めた。製造面では量産体制への投資を進め、需要増加に対応できる供給能力と原価管理の両立を目指した。

結果:国内市場で首位を確立

五ヵ年計画に基づく施策は、1950年代後半にかけて継続的に実行された。販売網の拡張によって全国での安定供給が可能となり、広告展開を通じて資生堂の企業名が広く認識されるようになった。量産体制の整備は、需要変動への対応力を高め、価格と品質の安定を支えた。

その結果、資生堂は特定商品の一時的成功に依存せず、複数製品を通じて市場をカバーする体制を構築した。1960年代前半には流通・供給・認知の各面で優位性が積み重なり、1964年には国内化粧品市場においてシェア首位に到達した。

概要
国内シェアトップの起点

1952年に策定された躍進五ヵ年計画は、販売・広告・製造を同時に拡張する設計であった点に特徴がある。短期的な売上回復ではなく、全国供給と認知形成を前提とした体制づくりを進めたことで、需要拡大期に対応可能な基盤が整った。1964年の国内シェア首位は、計画段階で設定された構造的な投資方針の延長線上にあった。

1959
11月

大船工場を新設

背景:大量生産体制への移行と製造拠点需要

戦後の高度経済成長期に入り、国内では生活水準の向上とともに化粧品需要が急速に拡大していた。スキンケア製品は日常的に使用される消費財となり、安定供給と品質の均一化が経営上の重要課題となっていた。従来の都市部工場では、生産能力や拡張余地に限界が生じていた。

同時期、製造業では工程の自動化と大量生産を前提とした郊外立地が進んでいた。物流網の整備により、都市中心部から離れた場所でも全国供給が可能となり、工場は広い敷地と将来の増設余地を重視して再配置されつつあった。化粧品メーカーにおいても、研究・製造を一体で運用できる拠点が求められていた。

決断:大船工場の新設と主力拠点化

1959年、資生堂は神奈川県鎌倉市岩瀬に大船工場を新設した。スキンケア製品を中心とする主力生産拠点として位置づけ、化粧水、乳液、美容液、口紅などを集中的に製造する体制を構築した。新工場は大量生産と品質管理を前提に設計され、安定供給を可能にした。

大船工場は操業開始後、半世紀以上にわたり国内向け製品の中核拠点として稼働した。一方で、周辺の宅地化進行により物流や設備更新の制約が増大し、老朽化対応や耐震強化に大規模投資を要する状況となった。2015年、資生堂は生産拠点集約の一環として同工場を閉鎖し、製造体制を再編した。

1964
国内シェア1位
1975
掛川工場を新設
1983
久喜工場を新設(トイレタリー)
1986
仏カリタ社を買収
1987
11月

販社改革・在庫回収

背景:高度成長期型流通構造の限界顕在化

高度成長期に構築された資生堂の販売網は、販社・チェーンストアを軸にした数量拡大型の流通構造であった。販社は販売計画に基づき商品を受け取り、在庫を積み上げながら市場に供給する仕組みであり、成長期には機能していた。一方で、需要変動への感応度は低く、売れ残りは販社在庫として蓄積されやすい構造を内包していた。

1980年代後半に入り、市場は成熟局面へ移行した。商品回転は鈍化し、販社在庫は増加傾向を示したが、表面的な売上成長の下で問題は先送りされていた。結果として、販社段階に過剰在庫が滞留し、実需と出荷の乖離が拡大した。販売実態が見えにくい構造が、経営判断の精度を低下させていた。

決断:販社在庫の一括回収と責任所在明確化

1987年、資生堂は販社に滞留する在庫を本社主導で回収する決断を下した。販社在庫を事実上本社在庫として引き取り、流通段階で曖昧になっていた在庫責任を明確化する措置であった。この判断は、短期的には売上・利益の下押し要因となることが不可避であり、業績悪化を自ら表面化させる選択でもあった。

しかし、在庫問題を先送りせず、実態を可視化することを優先した点に意思があった。販社の出荷実績ではなく、最終消費に基づく管理へ移行するため、流通慣行そのものに踏み込んだ対応である。数量拡大を前提とした旧来モデルを断ち切り、販売・生産計画を再設計するための前提条件を整えた。

結果:需給整合型運営への転換と収益回復

在庫回収により、販社段階の滞留は解消され、実需と出荷の乖離が是正された。短期的には業績の調整を伴ったが、在庫水準が正常化したことで、販売計画・生産計画の精度は向上した。売上の質が改善され、数量ではなく回転と収益性を重視する運営へと軸足が移った。

この対応を起点として、資生堂は需給連動型の経営管理へ移行した。販社依存の出荷主導モデルから、消費動向を基点とする運営への転換が進み、以降の収益回復につながった。1987年の在庫回収は、成長モデルの修正ではなく、流通と経営管理の前提を組み替えた転換点となった。

概要
競争激化による在庫過多

1987年の販社在庫回収は、単なる在庫整理ではなく、販売数量を前提とした成長モデルの限界を認識した上での転換であった。短期業績よりも長期的な需給の最適化を優先し、販売・生産・在庫を消費実態に連動させる判断が、その後の収益回復と経営管理高度化の基礎となった。この決断は創業家の福原義春のトップダウンによって遂行された。

1988年
国内販社72社から15社に集約
1995年
国内販社15社を統合
1988
米ゾートス社を買収
1997

再販価格維持を撤廃

背景:定価拘束と利益率依存の販売

チェインストア展開以降、資生堂は小売価格を固定し、値引きを行わない販売を続けてきた。メーカーが価格を決める方式は、販売価格のばらつきを抑え、利益率を高く保つ手段として機能していた。全国で同一価格を維持することで、流通段階での価格競争は生じにくく、広告と販売促進は価格以外の要素に集中していた。

1990年代に入ると、流通の多様化と消費者の購買行動の変化が進んだ。価格が動かない販売は、消費者から見て割高に映りやすく、購入頻度や数量に影響を与え始めていた。高い利益率が続く一方で、価格を起点とした競争経験が乏しくなり、販売や供給の見直しは遅れがちになっていた。

決断:再販撤廃と法規制への対応

1993年、公正取引委員会は再販価格維持を巡り、独占禁止法との関係について指摘を強めた。再販を続けること自体が、行政対応の対象となる状況が明確になり、企業側の判断余地は狭まっていった。資生堂にとって再販維持は、経営判断というより、法規制との調整問題へ変わりつつあった。

1997年、資生堂は再販価格維持を撤廃した。これは価格決定を自社で抱え続ける選択をやめ、小売側に委ねる判断だった。値引きを認めない販売を終えることで、利益率の低下は避けられないと見込まれていたが、法的リスクを解消し、市場競争に直接向き合うことが優先された。

結果:価格競争と新興低価格帯の拡大

再販撤廃後、資生堂は価格競争の影響を受けることになった。値引き販売が広がり、従来水準の利益率は維持できなくなった。販売数量や在庫回転が数値として表れ、価格と販売結果の関係が可視化される環境へ移った。一方で、価格で選ばれる市場への対応は十分とは言えなかった。

その過程で、低価格帯の商品群が市場で存在感を高めた。価格訴求を軸とする新興ブランドが台頭し、購入頻度の高い層を取り込んでいった。再販撤廃は競争参加を可能にした一方で、価格帯の空白を露呈させる結果にもつながり、資生堂は後に低価格領域への対応を迫られることになった。

概要
プライシング自由化の現実

再販価格維持の撤廃は、資生堂にとって法規制への対応と競争市場に晒される経験となった。この結果、価格を固定しないことで販売結果が直接表れる一方、低価格帯への備え不足も明らかとなった。特に新しい流通経路であるドラッグストアへの販路を重点的に攻めたプチプラ各社の台頭に対処できず、2000年代以降の国内の化粧品市場は群雄割拠の時代を迎えた。

1993年
独禁法違反の疑い
2003
上海に現地法人持株会社を新設
2005

メガブランドに集中投資

背景:多ブランド分散が招いた投下資本効率の低下

2000年代初頭の資生堂は、約100に及ぶブランドを保有していた。GMS、コンビニ、ドラッグストアといった新興チャネルの拡大に対し、従来のチェインストア中心の販売網は対応が遅れた。結果として、各ブランドへの広告宣伝費は分散し、1ブランド当たりの投下資本は限定的となった。マーケティング部門は短期的な需要対応を優先し、新ブランド投入を繰り返したが、売上成長は鈍化し、ROIは低下した。

売上目標未達が常態化する中で、事業ポートフォリオは複雑化した。売れ行き不振を補うための新商品投入が、さらに開発費・販促費を押し上げる循環が生じた。こうした状況下で、2005年に前田新造(資生堂 社長)が社長に就任し、経営企画責任者として関与していた3カ年計画の実行を主導する立場となった。

決断:選択と集中によるメガブランド戦略採用

前田は、成長と利益率の同時回復には、ブランドへの集中投資が必要と判断した。そこで掲げられたのが「メガブランド戦略」である。多数のブランドを整理し、限られた基軸ブランドに広告宣伝と販売促進を集中投下する方針が示された。対象領域は、スキンケア・ボディ・ヘアの洗浄3分野であり、トイレタリーと化粧品の融合が意図された。

同時に、SBU単位でブランドマネージャーを配置し、商品企画から宣伝、営業連携までを一元管理する体制が導入された。これは、ヘアケア分野で競合するP&Gやユニリーバを意識した運営手法だったと推定される。2005年以降、事業撤退と統合を進め、ブランド数は段階的に圧縮された。

結果:広告集中投資がシェア構造を変化

2005年8月に「MAQUILLAGE」「UNO」、2006年に「AQUA LABEL」「TSUBAKI」が順次展開された。これらブランドには、有名俳優・女優を起用したテレビCMが集中的に投入された。特にヘアケアの「TSUBAKI」では、女優12名とSMAPを起用し、推定50億円規模の広告宣伝費が投下された。クリエイティブは大貫卓也率いる外部業者が担った。

結果として、TSUBAKIは発売から短期間で認知を獲得し、2008年には国内ヘアケア市場でシェア首位に到達した。メガブランド群は国内化粧品売上の大半を占めるまでに拡大し、マーケティング投下資本の効率は改善した。ブランド集約と集中投資により、事業ポートフォリオの整理と売上成長の回復が同時に進行した。

証言
前田新造氏(資生堂・社長)

メガブランドの開発は、また、社内における新しい仕事の進め方の試金石でもありました。事業部の壁を取り払い、全社を挙げてカテゴリーを攻略する新しい体制を取る。一人のブランドマネジャーが、商品企画から、研究所との調整、プロモーション、営業の第一線への情報提供までを串刺しにしてマネジメントします。このことは、社員の行動変容を促しました。

この体制の下、七つのブランドを足しても長年トップ3にすら入れなかった、ヘアケアのカテゴリーにおいてTSUBAKIただ一つで、現在トップシェアを頂くに至りました。TSUBAKIに限らず、各カテゴリーのメガブランドが目標通りに圧倒的な知名度を得て、資生堂を代表するブランドとしてお客様の認知を得るところまで育っています。さらに現在では、東南アジア各国にも販路を拡大しつつあります。この3年間に注力した27ブランドは、大きく成長を遂げ、国内化粧品売上の8割強を占めるまでとなりました。もちろんマーケティング効率は格段に向上し、まさに好循環を生んでいます。

概要
TSUBAKIを筆頭にCM投下

2005年のメガブランド戦略は、多ブランド分散によるROI低下に対する対応だった。ブランド整理と集中投資により、広告効率とシェア獲得の関係が再設計された点が特徴である。短期的な売上補填としての新ブランド投入ではなく、事業ポートフォリオ全体を圧縮し、投下資本の向け先を限定したことが、結果として売上成長と利益率の改善を同時に導いた。

2005年
前田新造氏が代表取締役社長に就任
2005年
MAQUILLAGE・UNOのブランド展開を開始
2006年
AQUA LABELのブランド展開を開始
2006年
TSUBAKIのブランド展開を開始
2006
3月

国内4拠点の閉鎖

生産効率が悪い国内工場の閉鎖を実施。対象は京都府舞鶴工場(従業員数72名)、東京都板橋工場(従業員数158名)、資生堂ビューティーテック(大阪府東成区・従業員数134名)、原町製紙所(静岡県沼津市・従業員数36名)であった。

資生堂ビューティーテックは「スポンジ・ヘアブラシ」、原町製紙所では「化粧用ティッシュペーパー」の生産に従事したが、競争力に乏しいことから生産停止を決定した。

2010
米ベアエッセンシャルを買収
2013
海外買収を積極化
2014

海外買収を積極化

-

2016年
米ガーウィッチ社を買収(LAURA MERCIER)
取得原価 257 億円
2017年
Zotos Internationalを売却
事業譲渡益 359 億円
2019
米Drunk Elephant HDを買収
2019
12月

国内生産体制を増強

2019年に資生堂は国内に「那須工場」を新設し、36年ぶりに国内工場を新設した。資生堂としては高級化粧品の品質を担保する上で、国内生産が有効と判断。以後、2020年に大阪茨木、2022年に福岡久留米の各工場を新設し、国内工場の新設により推定累計1200億円の投資を実施した。

2015年
鎌倉工場を閉鎖
2019年
那須工場を新設
帳簿価額(2019/12) 349 億円
2020年
大阪茨木工場を新設
帳簿価額(2020/12) 453 億円
2022年
福岡久留米工場を新設
帳簿価額(2022/12) 439 億円
2021
7月

パーソナルケア事業を売却

背景:事業優先度低下と投下資本配分の歪み

2010年代後半、資生堂は中・高価格帯化粧品を軸とする事業ポートフォリオへの転換を進めていた。化粧品事業が売上の大半を占める中、低価格帯のパーソナルケア事業は、広告宣伝や商品改良に継続的な投下資本を要する一方、経営資源の配分順位を引き上げにくい領域となっていた。選択と集中を進める過程で、同事業は相対的に投資余力を失っていた。

一方、パーソナルケア事業は2019年時点で売上高1000億円規模を持ち、ドラッグストアを中心とした流通で安定した販売を維持していた。これらの事業は低利益率とされていたものの、固定費負担が限定的で、キャッシュ創出力を担う側面もあった。中・高価格帯化粧品への集中投資を進める中で、事業ポートフォリオ内の役割と将来投資の整合性が課題として顕在化していた。

決断:合弁化を伴うパーソナルケア事業売却

2021年2月、資生堂は「TSUBAKI」「SENKA」「UNO」などを含むパーソナルケア事業を、投資ファンドのCVCキャピタル・パートナーズに1600億円で売却すると発表した。国内外の対象事業は新設会社へ承継され、同社株式はCVC系持株会社に譲渡された。同時に資生堂は持株会社株式の35%を取得し、事業を合弁化した。

この判断は短期的な業績悪化対応ではなく、長期的な投下資本効率の再配分を狙ったものと整理できる。魚谷雅彦(資生堂 社長兼CEO)は、パーソナルケア事業の成長余地を認めつつも、独立した経営体制の下でマーケティング投資を拡大する方が、ROI向上につながると説明した。製造は資生堂が担い、販売・マーケティングを新会社に委ねる分業が採用された。

結果:安定収益源喪失と固定費負担の顕在化

事業譲渡により、パーソナルケア事業は連結対象から外れ、資生堂の日本事業は中・高価格帯化粧品への依存を強めた。売却先であるファイントゥデイは、2022年度に売上高1000億円超、営業利益率10%超を確保しており、同事業が一定の利益率を有していたことが示された。

一方、資生堂の日本事業では、固定費比率の高い事業構成が残り、2022年度にコア営業利益が赤字へ転落した。限界利益の小さい高価格帯中心の構成では、人件費や拠点費用を吸収しきれない状況が表面化した。結果として、事業撤退による資本回収と引き換えに、収益の緩衝材となっていた事業を失い、その後の人員調整や構造改革へと因果が連鎖していった。

概要
投資ファンドに売却

2021年のパーソナルケア事業売却は、投下資本の再配分を狙った事業撤退だった。売却により資本回収は実現したが、固定費を吸収していた収益源も同時に失われた。結果として、日本事業の利益構造は中・高価格帯依存を強め、需要変動への耐性が低下した。事業ポートフォリオ再編が、後続の人員リストラの1つの要因となった。

2021
12月

米国3ブランドを売却

bareMineralsおよびBUXOM(2010年買収)、Laura Mercier(2016年買収)について売却を決定。当該3事業は売上高523億円。・営業損失73億円(FY2021)の赤字体質であり、譲渡を通じて不採算事業を整理した。

2024
2月

DDG Skincare HDを買収

スキンケア領域を強化するために、米国におけるスキンケアの販売に従事するDDGを買収

2024
9月

資生堂ジャパンで早期退職者を募集

背景:日本事業の収益低下と固定費負担の顕在化

2019年まで資生堂の日本事業は、インバウンド需要と高価格帯スキンケアの販売拡大により高い利益水準を維持していた。しかし新型感染症の拡大により訪日客需要は急減し、中国人観光客による購買も縮小した。回復局面に入った後も消費行動は変化し、1人当たり購入単価は低下した。中国市場では価格競争が進行し、高価格帯ブランドの収益性が圧迫された。

加えて、2021年にヘアケアの「TSUBAKI」やメンズ化粧品「uno」を含むパーソナルケア事業を売却したことで、日本事業は高回転・高キャッシュ創出の事業を失った。固定費が高い事業構成のまま、限界利益の小さい中・高価格帯化粧品への依存が高まり、2022年度にはコア営業利益が赤字に転落した。収益回復には固定費削減が不可避な状況となった。

決断:人財変革を軸とした大規模早期退職実施

2024年2月、藤原憲太郎(資生堂 社長COO)は、日本事業改革の一環として大規模な早期退職募集を発表した。対象は資生堂ジャパンの社員約1500人で、日本事業従業員の1割超に相当した。45歳以上かつ勤続20年以上を条件とし、特別加算金を上乗せする内容で、構造改革費用の大半を人件費削減に充てた。

同時に経営側は「人財変革」を掲げ、国内EC比率の引き上げや営業拠点の再編を進める方針を示した。2026年にも追加の希望退職を実施し、国内外で人員削減を継続した。人材の再定義と固定費圧縮を並行させることで、インバウンド特需頼みであった日本事業の収益改善を図る判断であった。

2025 (c) Yutaka Sugiura