直近の経営方針: 2021年3月期 2031年3月期
富士フイルムグループ VISION2030

計画策定の背景

富士フイルムは写真フィルム事業を祖業として成長してきたが、1990年代後半からデジタル化の進展によりフィルム需要が急速に縮小し、2000年3月期には減収決算に直面した。この局面で同社は、写真フィルムに固執するのではなく、富士ゼロックスの連結化による時間確保、液晶ディスプレイ向け部材への集中投資、医療・医薬分野への参入などを通じて、投下資本の向きを段階的に組み替えてきた。結果として、同社は将来を正確に予測した企業ではなく、需要減少が顕在化した時点で資本配分を修正し続けた企業として事業転換を進めてきた。

一方で、FPD部材事業の成熟やドキュメント事業の収益性低下など、既存事業の成長余地には限界も見え始めていた。2010年代後半には、バイオ医薬品CDMOへの大型投資や医療機器事業の買収を進め、ヘルスケアを新たな中核事業として位置づけたが、事業ポートフォリオ全体としては依然として多様であった。こうした状況を踏まえ、富士フイルムは2030年を見据え、成長分野を明確化しつつ、投下資本の回収と再投資の規律を強めるためにVISION2030を策定した。

経営の基本方針

VISION2030では、ヘルスケア、エレクトロニクス、ビジネスイノベーション、イメージングの各領域において、事業ごとの役割を明確化し、成長投資と構造改革を並行して進める方針を掲げている。特にヘルスケア分野では、医療機器、医薬品、バイオCDMOを一体で展開し、診断から製造までをカバーする事業基盤の構築を通じて、長期的な成長ドライバーとして位置づけている。

同時に、成熟事業については規模拡大を前提とせず、ROICを基準とした資本配分を徹底することで、収益性とキャッシュフロー創出力を重視した運営へ転換する。全社としては、投下資本効率を意識した事業運営を通じて、成長分野への再投資と株主還元を両立させ、持続的に企業価値を高める経営を志向する。VISION2030は、多角化そのものを目的とするのではなく、ROICを軸に事業ポートフォリオを磨き続けるための長期指針として位置づけられている。

Author’s Questions

  1. なぜ、写真フィルム事業の構造的縮小を早期に不可逆な前提として受け入れられたのか

    富士フイルムは1990年代後半からデジタル化の進展によって写真フィルム市場が不可逆的に縮小することを認識し、既存事業の延命や市場回復を前提とせず、構造転換を前提とした経営判断を進めてきた。同様の環境変化に直面していた企業が多く存在した中で、なぜ同社は技術優位や一時的な収益回復への期待ではなく、事業の前提条件そのものを切り替える判断に至ったのか

  2. ゼロックス事業は、富士フイルムにとってどのような存在だったのか

    富士フイルムにとって、富士ゼロックス(現・FUJIFILM Business Innovation)は長年にわたり安定したキャッシュ創出力を持つ事業であり、写真フィルム事業の縮小局面においても全社の財務を下支えする役割を果たしてきた。一方で、この事業は経営資源の配分や意思決定の重心を既存事業側に引き寄せる作用も持っていたと考えられる。ゼロックス事業は、同社にとって変革を可能にする「支え」であったのか、それとも判断の速度や方向性に影響を与える「制約」でもあったのか

  3. 写真フィルムから転換した結果として、逆に多角化の程度が高まりすぎてはいないか

    VISION2030ではヘルスケア、エレクトロニクス、ビジネスイノベーション、イメージングといった複数事業のポートフォリオが明示されているが、各事業間の技術的・事業的な関連性は必ずしも高いとは言い切れない。高収益事業によって多角化を支える構造は、安定性を高める一方で、資本配分や経営管理の複雑化を招く可能性も内包している。現在のポートフォリオは、事業の集合体としてではなく、経営効率や資本効率の観点からも一体として機能する設計になっているのか

洞察
なぜ、富士フイルムは写真フィルムから転換できたのか

富士フイルムにおいて、祖業である写真フィルムからの事業転換は、しばしば先見的な経営判断の成功例として語られるが、これは後付けの解釈である。しかし、個々の意思決定を時系列で確認すると、必ずしも将来変化を先取りした転換であったとは整理しにくい。1997年時点でも、デジタルカメラは画質や運用面で制約が大きく、当時のM社長は写真フィルムがデジタルに対して優位であるという認識を公言していた。実際には、写真フィルム需要の減速は想定より早く進み、2000年3月期には減収決算に至った。ただし、当時のデジタルの技術水準を踏まえれば、1997年時点の判断を直ちに非合理と断定することはできない。

転換を可能にした要因は、将来予測の精度ではなく、減収に至った時点で資本配分をスピーディーに修正した経営転換にあった。特に、2001年の富士ゼロックス連結子会社化は、事業統合による競争優位の獲得というより、売上構成を組み替えることで時間を確保する対応だった。複写機事業の売上を連結に取り込むことで、写真フィルム需要減少による売上成長の鈍化を相殺し、急激な事業撤退を回避した。この猶予期間の中で、同社は写真フィルムと技術的連続性を持つ分野へ投下資本を移していく。液晶ディスプレイ向け部材への集中投資、さらに医薬品分野へのM&Aはいずれも、既存技術の用途再編を通じた事業ポートフォリオの再設計だった。

また、キャッシュフローを潤沢に生み出す富士ゼロックスの連結化も、この転換を下支えした。長年にわたる合弁関係は、写真フィルム事業への依存を緩和する収益装置として機能していた。一方で、複写機市場が成熟すると、この関係性は意思決定や事業再編の速度を制約する要因へと転じた。最終的に完全子会社化へ至った過程は、成長投資というより、事業ポートフォリオを整理し、キャッシュフローが安定していた富士ゼロックスを収益の支えとして位置付けることで、フィルム縮小と新領域への投資を両立させた。

結果として富士フイルムは、「正しく予測した企業」ではなく、「誤算を修正し続けた企業」と位置付けられる。写真フィルムへの過信は存在したが、それを長期に固定化せず、富士ゼロックスの連結化とM&Aを通じて投下資本の向きを段階的に変えていった点が帰結を分けた。市場の未来予測ではなく、写真フィルムの退潮が決定的となった時点で、資本配分をスピーディーに是正したことが、フィルムからの業態転換を成し遂げた決定要因であった。

2026-01-19 | by @yusugiura, Software Engineer
洞察
なぜ富士ゼロックスは、富士フイルムの恩恵であり制約になったのか

富士フイルムにとって富士ゼロックスは、成長事業というより、長期にわたり事業ポートフォリオを下支えするキャッシュフロー源として機能してきた。1962年、富士フイルムは多角化の一環として米ゼロックスと合弁で富士ゼロックスを設立したが、これは電子写真という非連続技術を外部から取り込むための選択であり、結果として1970年代以降の複写機市場の拡大とともに、富士ゼロックスは高成長・高収益事業へと変貌した。1990年代までは、写真フィルム事業とは異なる収益軸を持つこと自体が、富士フイルムにとって重要なリスク分散となっていた。

2000年代初頭、写真フィルム需要の減速が現実化すると、富士フイルムは富士ゼロックスを連結子会社化し、複写機事業の売上と利益を連結に取り込んだ。この判断は、事業統合による競争力強化というより、写真フィルム依存を緩和し、事業転換に必要な時間を確保するための対応だった。富士ゼロックスの安定したキャッシュフローは、液晶部材や医薬品といった新領域への投資原資として活用され、結果として急激な事業縮小を回避する緩衝材として機能した。

一方で、この合弁構造は、富士ゼロックス自身の成長投資を制約する側面も内包していた。日米で市場が分断された体制の下では、研究開発や事業再編の意思決定が複雑化し、複写機市場の成熟が進む中でも抜本的な構造転換は後手に回った。ペーパーレス化の進展により複写機需要が低迷すると、富士ゼロックスは成長投資よりも収益性回復を優先せざるを得なくなり、最終的に国内外で1万人規模の人員削減を含む構造改革へと至った。

すなわち、富士フイルムの歴史において、富士ゼロックスは光と影を伴った。それは「キャッシュフローを生み出した事業(2000年代まで)」と「全社の収益性を押し下げる課題事業(2010年以降)」という2面性に由来する。現在の富士ゼロックスの系譜にあたるビジネスイノベーション事業は、現在の富士フイルムホールディングスにおいて低収益事業であり、事業ポートフォリオの観点からは問題視され得る事業となっている。

つまり、富士ゼロックスは、写真フィルムからの転換を支えた役割は果たしたものの、ポートフォリオ転換が進んだ結果、かつての「守りの資産」は、かえって資本効率の悪化要因へと転じた。

2026-01-19 | by @yusugiura, Software Engineer
売上
富士フイルム:売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
31,958億円
売上高:2025/3
利益
富士フイルム:売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結 (単位:%)
8.1%
利益率:2025/3
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1934
9月

富士写真フイルム株式会社を設立

背景:大日本セルロイドによるフィルム事業化の模索

1930年代初頭、大日本セルロイド(現ダイセル)は、セルロイド製品を中核とする化学メーカーとして一定の事業規模を確立していた。一方で、文具・日用品向けセルロイドは価格競争が進み、事業の伸びは用途拡張に左右される局面に入っていた。そうした中で、同社はセルロイドの延長線上に位置づけられる写真・映画用フィルムに注目し、素材技術を活かした高付加価値分野への展開を検討し始めていた。

写真フィルムは当時、欧米企業への輸入依存度が高く、国内では量産技術も品質管理も確立していなかった。ただし、報道・教育・記録用途に加え、軍事分野での需要増加が見込まれ、政策当局も供給の国内化に関心を示していた。大日本セルロイドにとって、写真フィルムは短期的な利益率よりも、中長期での事業ポートフォリオ拡張と技術蓄積を目的とした分野であり、リスクテイクを伴う選択肢として検討されていた。

決断:富士写真フィルム株式会社の分社設立

1934年、大日本セルロイドは写真フィルム事業を社内事業として抱え込むのではなく、分社という形で切り出し、富士写真フィルム株式会社を設立した。足柄工場の建設と設備投資を前提に、研究開発と量産を独立して進める経営単位が選択された。写真フィルムは研究比率が高く、短期的なROIが見込みにくい事業であったため、親会社の収益構造から切り離す判断が取られていた。

同時期、商工省による写真・映画用フィルム製造奨励策が進み、設備投資や技術開発に対する支援が見込める環境が整っていた。富士写真フィルムは国策との整合性を確保しつつ、法人として独立させることで、資本投下、人材配置、研究方針について迅速な意思決定が可能となる体制を構築していた。

結果:国策依存を起点とした事業自立の端緒

設立当初の富士写真フィルムは、映画用・写真用フィルムの国産供給を担い、需要の多くを官需・準官需に依存していた。この段階での競争優位は、市場シェアや利益率ではなく、供給能力と政策的要請への対応力にあった。一方で、独立法人として研究と試作を重ねる中で、品質管理や量産工程の改善が進み、技術的な蓄積が進展していった。

結果として、1934年の分社化は短期的な収益最大化を目的とした判断ではなかったが、時間をかけて事業障壁を構築する起点となった。戦時体制という外部環境に依存しながらも、その枠内で設備・人材・技術を蓄積した点が、戦後に民需市場へ展開する際の選択肢を広げた。

証言
春木栄(取締役社長)

今から20数年前まではフィルムはほとんど海外からの輸入品でありまして、莫大な外貨が使われていたわけであります。これでは、日本の経済政策の上からいって甚だ不都合なことでありまして、これが国産化を図るために富士フィルムは生まれたわけであります。皆様のご支援の賜で、当初相当の困難をなめましたが、順調に発展致し、品質価格とも幸にご好評を得まして、現在東洋一の写真材料メーカーとなることができました。

概要
国策優遇を利用した分社化判断

富士写真フィルムの設立は、大日本セルロイドが事業拡張を図る中で選択した高リスク分野への分社投資であった。戦時化による優遇は投下資本の回収不確実性を緩和したが、同時に独立法人化によって意思決定の自由度を確保していた。この併存が、後年の事業自立に含意を持った。

1934年
富士写真フイルムを会社設立
1934年
足柄工場を新設(神奈川県)
1936
量産失敗で経営危機
1938
小田原工場を新設
1946
4月

フジカラーサービスを設立

販売網に投資。4大特約店体制へ

1962
10月

富士ゼロックスを合弁設立

背景:電子写真という非連続技術への着目

1950年代後半、写真材料で事業基盤を築いていた富士写真フィルムは、銀塩写真とは異なる技術潮流として電子写真に注目し始めていた。電子写真は、帯電・露光・現像を電気的に制御する方式であり、複写用途において高い処理速度と再現性を示していた。一方で、この分野は研究開発負担が大きく、既存の写真事業とは投下資本の性格が大きく異なっていた。

当時、米国ではランク・ゼロックスが複写機「ゼロックス」の商業化に成功し、事務機市場で急速にシェアを拡大していた。国内では事務作業の機械化需要が顕在化しつつあったが、電子写真技術を事業として内製化できる企業は存在しなかった。富士写真フィルムにとって電子写真は、銀塩写真の延長ではなく、事業ポートフォリオを非連続に拡張する選択肢として検討されていた。

決断:富士ゼロックス株式会社の合弁設立

1962年、富士写真フィルムは英ランク・ゼロックスと合弁で富士ゼロックス株式会社を設立した。製造は富士側、販売はゼロックス側という役割分担を前提とした体制は、技術獲得と市場展開を分離して進める設計だった。電子写真は開発難易度が高く、単独での事業化はリスクが大きかったため、技術導入と事業化を同時に進める合弁形式が選択された。

この判断の特徴は、単なるライセンス契約にとどまらず、製造技術を国内に取り込む点にあった。富士写真フィルムは、感光材料や精密加工で培った技術を活用し、複写機の国産化を進めた。一方で、販売と市場開拓はゼロックスのブランドとチャネルを活用することで、初期の市場浸透を加速させた。

結果:電子写真事業の内製化と事業領域の拡張

富士ゼロックスは設立後、複写機需要の拡大とともに急速に事業規模を拡大した。電子写真複写機は、事務作業の効率化ニーズに合致し、写真材料とは異なる市場で安定した売上成長を示した。1971年には製造部門が富士ゼロックスへ移管され、同社は製造・販売を一体で担う体制へと移行していった。

この過程で、富士写真フィルムは電子写真技術を基盤とした応用開発を進め、電子写真装置「EPM」や鋼板マーキング装置「TM」など、複写用途以外の分野にも展開した。1962年の合弁設立は、写真材料メーカーが事務機・産業機器分野へと事業領域を拡張する起点となった。

1965
フジカラー販売株式会社を設立
1965

カラーフイルム「N100」を発売

背景:アマチュア市場拡大と色再現要求の変化

1960年代に入ると、日本経済の高度成長を背景に、アマチュア写真需要が急速に拡大していた。白黒フィルム中心だった家庭写真は、旅行や行事の記録用途を軸にカラー化が進み、色再現性と扱いやすさの両立が市場の関心事となっていた。富士写真フィルムは、感度向上と色調安定を重ねた既存製品を展開していたが、海外製品との比較では現像の互換性や流通面での制約も残っていた。

当時のカラーフィルムは、現像処理の違いが市場拡大の障壁になりやすかった。国内外で異なる処理方式が併存する中、ユーザー側には現像環境への適合性が強く求められていた。とくに海外ラボでの処理可否は、輸出や訪日需要を見据える上で無視できない論点となっていた。こうした環境変化の中で、同社は製品性能だけでなく、処理方式を含めた市場適応を検討していた。

決断:オイルプロテクト型カラーの採用

1965年、富士写真フィルムはカラーフィルム「N100」を発売した。この製品の特徴は、オイルプロテクト型カラーを採用した点にあった。従来の国内向け仕様に比べ、色再現性と粒状性の調整に重点を置きつつ、海外の現像処理ラインでも対応可能な設計が意識されていた。製品設計は、感度向上だけでなく、現像互換性を含めた利用範囲の拡張を狙ったものだった。

価格設定やパッケージ構成も、アマチュア層を意識した内容とされ、35mm判を中心に展開された。製品投入は、単一の高性能化ではなく、使用環境全体を含めた市場対応を優先した判断だったといえる。結果として、「N100」は国内市場にとどまらず、輸出を前提とした商品として位置づけられ、同社のカラーフィルム戦略の転換点となった。

1965
12月

北米に現地法人を設立

欧米を中心に海外展開を本格化。カラー写真フィルムを輸出へ

1965年
ニューヨーク州に現地法人を設立
1966年
ドイツに現地法人を設立
1972年
オランダに現地法人を設立
1976
9月

フジカラーF-II 400を発表

背景:国際競争下での高感度化要求の顕在化

1970年代に入ると、カラー写真市場は成熟局面に入りつつも、用途面では新たな拡張余地が生まれていた。旅行、報道、家庭内記録といった分野では、従来の感度では対応しきれない低照度環境での撮影需要が増加していた。一方で、高感度化は粒状性の悪化や色再現の不安定化を招きやすく、技術的には銀塩写真の制約に直面していた。

海外メーカーは高感度化を進めていたが、画質とのトレードオフが明確であり、ユーザーは感度向上と引き換えに表現力を犠牲にする状況を受け入れていた。富士写真フィルムにとって、この領域は単なる性能追随ではなく、技術的な非連続点を越えることで国際市場における存在感を高める機会でもあった。高感度フィルムは、輸出拡大とブランド構築の双方に直結する製品カテゴリーとして位置づけられていた。

決断:CLG技術を用いた高感度フィルム投入

1976年9月、富士写真フィルムは高感度カラーネガフィルム「フジカラーF-II 400」を発表した。本製品は、CLG(Concentrated Latent-image Grain)技術とICL(Image Controlling Layer)技術を組み合わせることで、ASA400という高感度領域において粒状性と色再現の両立を図った点に特徴があった。これは、感度を段階的に引き上げる従来手法とは異なり、感光粒子構造そのものに踏み込む選択だった。

製品企画では、屋内外を問わず使用できる汎用性が重視された。ストロボを使わない室内撮影や、夕景・夜間撮影といった用途を明確に想定し、高感度を日常用途へ引き寄せる設計が採られた。発表の場として国際見本市を活用した点も、国内市場にとどまらず、輸出を前提とした製品であることを示していた。

証言
上田博造(取締役)

ボクは開発チームの責任者でしたけど、実際の仕事は若い人がしてくれたんです。ただ、仕事をしやすいように(開発の方向を)間違えないようにしていただけですよ

1980/12/15 日経ビジネス
1971年
カラーフィルムの輸入自由化
1974年
フジカラーF-IIを開発(ISO100)
1976年
フジカラーF-II400をドイツ見本市に出店
1976年
フジカラーF-II400を日本国内で発売
1976年
フジカラーF-II400の輸出を開始
1977年
過去最高益を達成
1981
4月

X線画像診断システムFCRを発表

デジタル画像によるX線診断システムを開発。医療向けに参入しつつデジタル画像の技術を蓄積へ

1975年
CTに関する研究開発を開始
1981年
X線画像診断システムFCRを発表
1982年
子会社の商号を富士メディカルシステムに変更
1983年
FCRの国内販売を開始。鹿児島大学医学附属病院に納入
1985
業績好調。写真フィルムの国内シェア70%
1997
11月

写真フィルムを継続

経営陣はデジタル技術を過小評価。社長はフィルムの将来性を自信満々に語るが、この姿勢が富士フィルムの経営が迷走する要因に

証言
宗雪雅幸氏(富士写真フイルム・社長)

デジタルカメラの普及などで、写真市場がひっくり返るかのような議論が出ていますが、なぜそういう話になるのか全くわかりませんね。(略)

確かに、従来のフィルムで撮っていた画像をデジタルカメラで撮る需要は広がってきました。コピー感覚でちょこちょこっと記録を撮ったり、画像情報をファイルで保存したり、伝送するには便利ですから。それが写真市場にどう影響するかといえば、新しい領域を切り開くものだと思います。

プリントに残す場合、デジタルは従来の写真には到底叶わないでしょう。写真の価値は機能とコストで決まります。例えばレンズ付きカメラの「写ルンです」なら、世界中どこでも1000円前後の値段で買える。それをパチパチッと撮って、写真店にポイと出したら、勝手に現像してくれるわけでしょう。デジタルカメラがいかに簡単と言っても、こうは行きません。

画質の面で、従来の写真の奥深さはデジタルがかなうものではありません。デジタル技術が進んだとしても、その時には、従来の写真は感度が良くなったり、粒子が細かくなったりで、さらに先へ行っているはずです。(略)

従来型の写真の未来には、何も悲観するものはありません。

1997/11/17 日経ビジネス
2000
3月

減収決算。写真市場が変調へ

1997年から2000年にかけて、デジタルカメラの画像数が増加。一眼レフでもデジタルカメラの需要が徐々に増大し始め、富士フイルム経営陣の目論見は外れた。この結果、2000年3月期に富士写真フイルムは減収決算となった。また、同年に宗幸社長が退任し、古森氏が新社長に就任して経営陣は世代交代。社員1万名におよぶ大規模なリストラを敢行した。

2000年
写真フィルムの不振により減収決算
2000年
古森重隆氏が社長就任
2006年
約5000名の人員削減(構造改革)
2010年
最終赤字に転落
2011年
約5000名の人員削減(構造改革)
2001
3月

富士ゼロックスを連結子会社化

背景:フィルム需要減少と収益構造の歪み

1990年代後半から2000年前後にかけて、デジタルカメラの普及が急速に進み、写真フィルム市場は構造的な縮小局面に入ることが予想されていた。家庭用途を中心に撮影行動がデジタルへ移行し、フィルム消費量は中長期的に減少する見通しが現実味を帯びていた。富士フイルムにとって、写真フィルムは依然として売上構成比の高い事業であり、需要減少は連結業績全体に直接的な影響を及ぼす懸念材料となっていた。

一方で、1962年に合弁設立された富士ゼロックスは、複写機・プリンター事業を中核に、売上高1兆円前後の規模まで成長していた。事務機市場はIT化の進展とともに拡大を続け、収益性も比較的高水準にあったが、富士フイルムにとっては持分法適用会社であり、売上は連結に取り込まれていなかった。フィルム事業の減速が意識される中で、グループ全体の見え方をどう再設計するかが重要な論点となっていた。

決断:富士ゼロックス株式の追加取得

2001年3月、富士フイルムはパートナーである米ゼロックス社から富士ゼロックス株式の25%を追加取得することを決定した。これにより出資比率は50%から75%へ引き上げられ、富士ゼロックスは連結子会社となった。この判断は、技術統合や事業再編を直ちに進めるというより、連結ベースでの売上高と事業構成を組み替える狙いが強く表れていた。

富士ゼロックスは売上高約1兆円規模の企業であり、連結化によってその売上が富士フイルムの連結売上高に加算される。結果として、写真フィルム需要減少による売上低迷を、複写機事業の売上で補完する構図が成立した。既存の合弁関係を前提とした追加取得であったため、投下資本に対する事業リスクは相対的に抑えられており、会計上の連結範囲変更によって時間を確保する判断だったと整理できる。

結果:コングロマリット化と統合の起点

2001年度以降、富士フイルムの連結売上高には富士ゼロックスの売上が加算され、全社規模は大きく拡張した。富士ゼロックスは収益性の高い事業であり、富士フイルムの全社業績に安定的に寄与した。この結果、同社は「写真フィルム」を中心とする企業から、「写真フィルム」と「複写機」という異なる事業特性を併せ持つコングロマリットへと性格を変えていった。

2006年10月には持株会社制へ移行し、富士フイルムホールディングスの傘下に富士フイルムと富士ゼロックスを配置する体制が整えられた。2007年には両社の本社を東京ミッドタウンへ移転し、人事・労務の共通化を進めるなど、実務面での統合作業が本格化した。2001年の連結子会社化は、会計上の対応にとどまらず、後年の組織統合と経営一体化への起点として機能していた。

概要
連結化で時間を確保した判断

富士ゼロックスの連結子会社化は、フィルム需要減少という構造変化に対し、即時の事業転換ではなく連結範囲の変更によって対応した判断だった。売上構成を組み替えることで時間を確保し、写真フィルムの需要減少に対して、売上の目減りを抑制した。

1962年
富士ゼロックスを合弁設立
富士フィルムによる出資比率 50 %
2001年
富士ゼロックスの株式25%追加取得
富士フィルムによる出資比率 75 %
2019年
富士ゼロックスを完全子会社化
富士フィルムによる出資比率 100 %
2005
4月

富士フイルム九州株式会社を設立

背景:フィルム需要低迷と成長軸の再設定

2000年前後、デジタルカメラの普及により写真フィルムの需要低迷が現実のものとなり、富士フイルムは構造的な売上減少に直面していた。2001年の富士ゼロックス連結化によって売上高の下支えは実現したものの、オーガニックな成長という観点では課題が残っていた。写真フィルムに代わる大型事業をどこに設定するかが、経営上の重要論点となっていた。

この局面で注目されたのが、液晶ディスプレイ向け部材市場である。2004年前後、世界的にブラウン管テレビの需要が低迷する一方、液晶ディスプレイとプラズマディスプレイが次世代テレビの主導権を争っていた。富士フイルムは、液晶ディスプレイが主流になる方向に賭け、その中核部材である偏光板保護フィルムを次の成長事業として位置づけた。

決断:富士フイルム九州設立と巨額量産投資

2005年4月、富士フイルムは偏光板保護フィルムの量産拠点として富士フイルム九州株式会社を設立し、熊本県菊陽町に工場を新設した。TACフィルムは写真フィルムで培った塗布技術を直接活用できる製品であり、同社は当時世界シェア約80%を確保していた。

顧客である液晶ディスプレイメーカーからの大量供給要請を背景に、1ラインあたり約400億円規模の設備投資が前提となり、2006年の第1ライン稼働から2012年の第7ライン稼働まで、累計約3000億円が投下された。

結果:需要拡大とその後の反転

液晶需要の拡大によりFPD部材事業は売上を伸ばし、FY2010には2185億円と過去最高水準に達した。一方、FY2011以降は需要一巡と代替材料の台頭により売上は減少し、現在は1000億円前後で推移している。ライン増設は2012年を最後に停止しており、事業は成熟局面に移行した。

証言
古森(富士フイルムHD社長)

フラットパネルディスプレー事業は、こうした「新生・富士フイルム」を象徴する重点成長事業と位置付けています。これから富士フイルム九州は、このフラットパネルディスプレー事業の成長を支える中核拠点として、大変重要な役割を担っていくことになります。

ご存じの通り、液晶ディスプレーは日本をはじめ、米国や欧州でも急速に普及が進んでおります。例えば、2006年における液晶テレビの世界販売台数は、昨年の約2倍になると予測されています。しかし、それでもまだ、テレビ市場全体に占める液晶テレビの割合は6%程度に過ぎず、今後のさらなる普及が予測されている状況です。また、画面サイズの大型化も進んでおり、08年度の液晶ディスプレーの合計面積は、05年度に比べると約2・5倍に拡大するとされています。このような状況の中で、富士フイルム九州は第1工場の第1ラインの落成式を迎えました。さらに第2、第3工場の建設もすでに着工しており、最終的には6台のラインが稼働することになっています。

富士フイルム九州が「フジタック」を供給しなければ、液晶テレビの生産ができない状況です。そういう意味では、極めて重要な供給責任を担っていますし、フジタックを使用した液晶テレビを世界各国の皆さまにお使いいただくという意味でも極めて重要な使命を帯びた工場でもあります。

2004年
熊本県菊陽町にて土地取得
2005年
富士フイルム九州株式会社を設立(完全子会社)
2006年
中期経営計画Vision75策定
2006年
第1ラインの稼働
2007年
第2ラインの稼働
2007年
第3ラインの稼働
2008年
第4ラインの稼働
2008年
第5ラインの稼働
2009年
第6ラインの稼働
2013年
第8ラインの稼働
2013年
第7ラインの稼働
2006
富士フイルムHDに商号変更
2008
2月

富山化学を買収

背景:診断中心から治療領域への拡張圧力

2000年代後半、富士フイルムは写真フィルム事業の構造的縮小を受け、メディカル・ライフサイエンス事業を次の成長軸として位置づけていた。画像診断機器や診断用フィルム、関連システムでは一定の事業規模を確立していたが、医療領域全体で見れば診断に偏った事業構成であり、治療分野への展開は限定的だった。予防・診断・治療を一体で提供できる体制を構築することが、中長期の課題として意識されていた。

一方、富山化学は抗ウイルス薬や中枢神経系薬を中心に有力な創薬パイプラインを保有していたが、研究開発費の増大やグローバル展開への対応が重荷となっていた。2007年度には最終赤字を計上しており、中堅製薬企業として単独での事業継続には資本面・経営面の制約が強まっていた。異業種との提携によって研究開発投資を継続する選択肢が現実的な解となっていた。

決断:富山化学の買収による医薬品参入

2008年2月、富士フイルムホールディングスは富山化学を事実上買収すると発表した。富山化学が約300億円の第三者割当増資を実施し、富士フイルムが株式公開買い付けを行って子会社化する枠組みで、最終的に富士フイルムが66%、大正製薬が34%を保有する体制が示された。これにより、富山化学は上場廃止となる可能性が生じた。

富士フイルムはこの買収を通じて、診断中心だったメディカル・ライフサイエンス事業を治療領域へ拡張する方針を明確にした。富山化学が保有する抗インフルエンザ薬T-705などのパイプラインに対し、研究開発資金や生産、販売面での支援を行う構想だった。画像診断技術や乳化分散技術など、富士フイルムの既存技術を創薬に応用する点も狙いとして示されていた。

概要
異業種参入による医療事業転換

富山化学の買収は、富士フイルムが画像関連の診断(レントゲンフィルムなど)に偏った医療事業を治療分野へ広げる起点となった。創薬力を外部から取り込み、長期投資が前提となる医薬品事業に踏み出した点に特徴がある。ヘルスケアを次の柱に据える意思が明確になった。

2011
3月

バイオ医薬品製造受託に参入

背景:医薬産業の水平分業化と投資負担増大

医薬品産業では、2000年代後半から低分子中心の開発から、抗体医薬品などのバイオ医薬品へ重心が移行した。バイオ医薬品は細胞や微生物を用いるため、製造工程が複雑化し、大型培養設備や品質管理への投下資本が増加した。結果として、研究開発と製造を分離する水平分業が進み、製造受託(CDMO)への外注需要が拡大した。

一方、富士フイルムは写真フィルム需要の減少を受け、事業ポートフォリオの再設計を迫られていた。同社は化学合成、精密製造、品質管理の蓄積を持っていたが、医薬品分野では販売主体ではなく、製造工程に競争余地があると認識した。製薬企業側の投資負担増加と外注需要の増加は、同社にとって参入機会として作用した。

決断:CMO買収による受託製造への直接参入

2011年、富士フイルムはMerck & Co., Inc.(米国製薬会社)から、MSD Biologics(英国)およびDiosynth RTP(米国)の全株式を取得した。これにより、バイオ医薬品の開発・製造受託を担うCDMO事業に直接参入した。自社で新規設備を立ち上げるのではなく、既にGMP認証と商業生産実績を持つ事業体を取得することで、立ち上がり時間と技術移転リスクを抑制した。

この判断は、研究開発主導型ではなく、製造工程に集中投資する選択であった。製薬企業との競争を避け、受託という立場に徹することで、顧客基盤を分散させ、ROIを案件単位で管理できる形を選んだ点が特徴である。参入時点では後発であったが、投下資本の回収を製造能力と稼働率に結び付ける設計が取られた。

結果:設備拡張とグローバル展開への連鎖

買収後、富士フイルムは欧米拠点を軸にCDMO事業を拡張した。2010年代後半には、デンマークや米国ノースカロライナ州で大型培養タンクへの集中投資を進め、商業生産規模を拡大した。製造プロセス移転の短縮や多拠点同時立ち上げにより、顧客の開発スケジュールに対応する体制を整えた。

結果として、売上成長は設備投資と連動し、CDMO市場におけるシェア拡大が進んだ。2011年の参入は単年の多角化ではなく、長期の投下資本回収を前提とした事業構築であり、その後の1兆円規模の設備投資判断へと連続した。製造工程に集中した参入形態は、競争優位の源泉を製造能力と供給速度に限定する結果をもたらした。

概要
買収によるバイオ医薬の製造特化

富士フイルムのバイオ医薬品参入は、研究開発ではなく製造工程に集中した点に特徴があった。既存CMOの買収により、GMP対応設備と人材を同時に取得し、立ち上がり期間と投下資本リスクを抑制した。製薬企業の外注需要拡大と設備投資負担増加という環境変化を受け、受託製造に限定した参入形態を選択したことが、その後の、大手製薬メーカーからの受注に根差した大規模設備投資への布石となった。

2011年
米biologics/Diosynthの2社を買収
2014年
Kalon Biotherapeuticsを買収
2017年
和光純薬を買収
2018年
Irvicne Scientificを買収
2012
米SonoSiteを買収
2016
東芝メディカルの買収失敗
2018
3月

ゼロックスの買収を公表

複写機の収益性の悪化

10000名の削減を決定。720億円の構造改革費用

利益率をキープしつつ減収へ

2017年
富士ゼロックスの構造改革を発表
2017年
富士ゼロックスで不正会計が発覚
2018年
ゼロックスの買収を公表
2019年
ゼロックスの買収を白紙撤回
2019年
富士ゼロックスの株式を完全取得(2500億円)
2021年
ゼロックスとの事務機販売契約を終了
2021年
富士ゼロックスの商号を富士ビジネスイノベーションに変更
2019
3月

富士ゼロックスを完全子会社化

背景:合弁構造の限界と統治課題

1962年に設立された富士ゼロックスは、米ゼロックスとの折半出資による合弁会社として、アジア太平洋地域を中心に事業を展開してきた。一方、欧米市場は米ゼロックスが担うという地域分断型の構造が長年固定化されており、研究開発、調達、ブランド戦略の最適化には制約が存在していた。この合弁形態は、事業規模の拡大とともに、意思決定の遅延や統治の複雑化を内包する構造となっていた。

2010年代後半に入ると、富士ゼロックスでは不適切会計問題が顕在化し、ガバナンス強化と事業再建が喫緊の課題となった。加えて、欧米ではペーパーレス化が進展し、複合機市場は成熟局面に入っていた。富士フイルムにとって、ドキュメント事業は依然として売上・利益の大きな柱であったが、合弁構造のままでは事業の主導権を完全に握れない状態が続いていた。

決断:ゼロックス買収と一体経営構想

2018年3月、富士フイルムホールディングスは米ゼロックスの買収を公表した。取引は段階的な手法が採られ、まずゼロックスが富士ゼロックスを完全子会社化した上で第三者割当増資を実施し、その増資を富士フイルムが約6700億円で引き受けることで、ゼロックス株式の50.1%を取得する計画であった。これにより、富士フイルムは新生ゼロックスの親会社となる構想だった。

狙いは、日米で分断されていた複合機・プリンター事業を統合し、研究開発、生産、部品調達、販売を一体化する点にあった。経営陣は2020年度までに年間約12億ドル規模のシナジー効果を見込んでおり、人員削減や工場集約を含む構造改革も同時に進める計画だった。成熟事業である複合機を、統合によって再設計するという判断が示されていた。

結果:買収破談と統治リスクの顕在化

しかし、買収公表後、米ゼロックスの大株主であるカール・アイカーン氏ら物言う株主が強く反発した。ゼロックス取締役会は経営陣の退任や方針転換を繰り返し、経営の混乱が表面化した。最終的に2018年5月、ゼロックス側は買収合意の解消を一方的に発表し、統合構想は事実上頓挫した。

富士フイルムは契約解消に抗議し、法的措置も辞さない姿勢を示したが、国際M&Aにおける株主構成とガバナンスの難しさが明確になった。この結果、日米ゼロックスの一体経営は実現せず、ドキュメント事業の再編は別の形で進められることになる。長年の合弁関係を一気に解消する試みは、統治改革の難易度を浮き彫りにした。

2019
3月

Biogen Denmarkを買収

背景:バイオCDMOにおける生産規模制約

2010年代後半、医薬品産業ではバイオ医薬品の比重が高まり、開発と製造を分離する動きが定着していた。製薬企業は研究開発に経営資源を集中させ、製造工程はCDMOに外部委託する傾向を強めていた。一方で、商業生産段階に入ったバイオ医薬品では、大容量培養タンクを備えた生産能力が取引条件となり、参入障壁が上昇していた。

富士フイルムのCDMO事業は、小中規模タンクを中心とした設備構成で、臨床段階や生産量が限定された案件が主であった。そのため、大型薬への対応力が制約となり、受注可能な案件規模と売上成長に上限が生じていた。事業ポートフォリオ上、設備規模の拡張が次の成長条件として浮上していた。

決断:大型生産設備と契約の一括取得

2019年、富士フイルムは米バイオジェン(米国バイオ医薬品企業)の製造子会社であるバイオジェン・デンマーク・マニュファクチャリングを約8億9千万ドルで買収した。これにより、1万5千リットル級の大型培養タンク6基を含む生産設備、約800人の人員、複数の製薬企業との供給契約を同時に取得した。

この買収は、設備新設ではなく既存の商業生産拠点を取得することで、投下資本の回収開始を前倒しする判断であった。培養能力は合計約15万リットルへ拡張され、従来対応できなかった大型案件への参入が可能となった。結果として、CDMO売上は2018年度の約400億円から約700億円規模へ拡大し、量産対応を前提とした事業展開へ移行した。

概要
大型設備取得による量産対応への転換

2019年のバイオジェン子会社買収は、富士フイルムCDMO事業の生産規模制約を解消するための判断であった。大型培養設備、人員、供給契約を同時に取得し、商業生産案件への対応力を拡張した点に特徴がある。設備新設ではなく既存拠点を取得する手法は、投下資本の回収時期を早め、売上成長を量産案件と直結させる構造をもたらした。

2019
12月

日立の画像診断事業を買収

背景:フィルム後の成長軸としての医療機器

2010年代後半、富士フイルムは写真フィルムからの事業転換を進め、医療・ヘルスケアを中核成長分野として位置づけていた。診断画像を管理するPACSや画像解析ソフトでは強みを持っていたが、MRIやCTといった大型の画像診断機器は自社で十分なラインアップを持っていなかった。一方、医療機器市場では装置とソフトを一体で提供する能力が競争力に直結し、単体機器では差別化が難しくなっていた。

こうした中、日立製作所は事業の選択と集中を加速させ、画像診断機器事業の売却を検討していた。日立はMRIやCTなどの装置技術を持つものの、地域ごとの営業・保守体制が必要なため、規模がなければ収益を確保しにくい事業となっていた。富士フイルムにとっては、過去に医療機器事業の大型買収で競り負けた経緯もあり、装置事業を一気に補完できる機会として映っていた。

決断:日立画像診断事業の買収

2019年12月、富士フイルムホールディングスは日立製作所の画像診断機器事業を約1790億円で買収すると発表した。対象はMRI、CT、超音波診断装置などを中心とする事業で、売上高は約1430億円規模であった。富士フイルムはこの買収によって、装置とソフトを一体で開発・提供できる体制を構築する狙いを示した。

富士フイルムはAIによる画像解析や診断支援、画像管理システムで世界的な実績を持っており、日立の装置技術と組み合わせることで、診断精度の向上や作業負荷の軽減を図る構想だった。CT画像をAIで解析して病変の見落としを防ぐ、撮影時の条件設定を自動化するといった活用が想定されていた。ハードとソフトを統合することで、欧米の大手医療機器メーカーに対抗する足場を築く判断だった。

2019年
日立製作所の画像診断部門の買収発表
2021年
日立製作所の画像診断部門の買収完了
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