創業地神奈川県足柄上郡
創業年1934
上場年1949
創業者※大日本セルロイド
現代表後藤禎一
従業員数72,593

1934年9月、米コダック・独アグファに依存する輸入構造が国防上の課題とされた時代に、写真フィルムの国産化を掲げて大日本セルロイドから富士写真フイルムが分離設立された。資本金の40%におよぶ助成金で乳剤と精密塗布の習得に踏み込んだ。1936年量産失敗で累積36万円の赤字を出したが、1938年小田原工場で生産を再構築し、戦後は4大特約店体制で全国網を整えた。

1962年に米ゼロックス合弁で富士ゼロックスを設立し複写機事業へ参入、1977年ISO400のフジカラF-II 400を36枚撮り950円でコダックの1,200円水準に対峙させた。1981年FCRで医療画像へ進み、1985年に写真フィルム国内シェア70%超に到達した。だが1997年以降のデジタルカメラ普及で利益源が消失する局面に直面し、2001年富士ゼロックス連結化、2006年持株会社化、2008年富山化学買収、2011年Merck CDMO取得と転換を連鎖させた。

2018年の米ゼロックス買収破談を受け、2019年に富士ゼロックスを完全子会社化。同年バイオジェン・デンマーク製造子会社を約8.9億ドルで取得し培養能力を約15万リットルへ広げ、日立画像診断機器事業を約1,790億円で買収し医薬・CDMO・医療機器の三分野が揃った。半導体向けEM事業とバイオCDMOを次の主力に据え、複数領域を束ねた技術企業の姿を固められるか――写真フィルム時代の利益体質を、医薬・CDMO・医療機器・EMの積み上げで再現できるかにかかる。

富士フイルム:売上高の内訳と営業利益率(PL 分解 × 営業利益率)
売上高(億円)営業利益(億円)販管費(億円)売上原価(億円)営業利益率(%)
歴代社長
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古森重隆
代表取締役社長
歴代社長
FY99
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FY24
古森重隆
代表取締役社長
中嶋成博代表取締役社長助野健児代表取締役社長後藤禎一代表取締役社長後藤禎一代表取締役社長・CEO
富士フイルム:投資CF(M&A・設備投資ほか/事業施策と紐付き)
投資CF(億円)
日立の画像診断事業を買収2019
米SonoSiteを買収2012
富山化学を買収2008
富士フイルム九州株式会社を設立2005

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歴史概略

1934年〜1999写真フィルムの国産化からカラー市場制覇とデジタル化の到来

累積36万円の赤字が残した創業期の誓い

1934年9月、富士写真フイルム株式会社は大日本セルロイドから分離独立する形で設立された。写真フィルムの国産化を掲げた船出である。当時の日本は写真フィルムを米コダックや独アグファなど欧米メーカーからの輸入に依存しており、国防・経済の両面からフィルムの国産化は課題だった。1938年時点で映画用フィルムの輸入額は年1500万円規模に達し、読売新聞はこの年中に輸入を停止する方針を報じた(読売新聞 1938/7/24)。もっとも銀塩写真フィルムの製造には繊細な乳剤設計と精密な塗布技術が求められ、新興企業が短期間で習得できる分野ではなかった。

創業直後の1936年には量産に失敗し、累積36万円の赤字を出した。事業の継続そのものが危ぶまれる状況である。のちに社長となる小林節太郎は「資本金の40%におよぶ巨額の助成金交付を得てフィルム国産に踏み切った。外国品を駆逐するのが使命と思い、経営してきたが、累積36万円の赤字を出し、会社は憂慮すべき状態になった。やめたいものは遠慮せずに去ってほしい」(私の履歴書 1977)と社内への訴えを回想している。1938年に小田原工場を新設して生産体制を再構築し、品質を安定させた。戦後1946年にはフジカラーサービスを設立し、4大特約店体制によって東西日本をカバーする販売・現像網を敷いた。写真乳剤の化学的制御と精密製造の品質管理という二つの企業文化は、半導体用フォトレジスト、液晶用光学フィルム、バイオ医薬品製造にも通じる技術資産となる。

F-II 400が突きつけた「コダック撃退」の現実

1962年に米ゼロックスとの合弁で富士ゼロックスを設立して複写機事業に参入し、1965年にはカラーフィルム「N100」を発売した。ただしカメラは国産品が普及しても、急拡大するカラーフィルム需要では国産品と海外品の品質格差が残った(読売新聞 1961/10/13)。1968年12月には通産省がカラーフィルムの輸入自由化方針を固めた。通産省がカラーフィルムを将来の戦略産業(電子製品など)の自由化を先送りする交渉材料として扱う姿勢だったと、読売新聞は報じている(読売新聞 1968/12/04)。翌1969年にはコダックの値下げ観測に国内メーカーが身構え、「コダックが本気で日本市場を攻撃してくれば、コカコーラやネスカフェのようにひとたまりもない」(読売新聞 1969/10/14)と業界関係者のコメントが紙面に現れた。

この圧力に対して富士写真フイルムは技術で応じた。1977年2月、ISO400の超高感度カラーフィルム「フジカラF-II 400」の36枚撮りを標準小売価格950円で発売する。海外製の1200円水準に対し価格競争力も持たせた。開発にあたって常務会は「満場一致で、この新製品を総力を結集して開発しよう」「予算は使いたいだけ使ってもいいし、人間も集められる範囲でどんどん投入していい」(プレジデント 1977/12)という異例の承認を出した。1981年にはX線画像診断システムFCRを発表し、医療向けデジタル画像技術の蓄積に着手した。1985年には写真フィルムの国内シェア70%超に到達した。富士写が70%強で首位、小西六写真工業が20%弱、コダックは10%強で3位という勢力図である(日経ビジネス 1985/11/25)。

超高収益事業を足元から侵食したデジタル化の波

1976年のF-II 400以降、富士フイルムはカラーフィルム市場で優位を保ち、単体で毎期1000億円以上の経常利益を出す超高収益企業となった。海外展開も本格化し、1965年のフジカラー販売株式会社設立に続いて北米市場での現地法人展開をした。だが1997年11月、日経ビジネスはこの超高収益モデルが転換点に立ったと指摘した。デジタルカメラの普及と、利益源泉である国内フィルム・印画紙市場の縮小が同時進行しているという診断である(日経ビジネス 1997/11/17)。2000年3月期は減収決算となり、写真市場の変調が連結決算の数字にも現れた。フィルム事業の高収益が長く続いたぶん、収益構造の転換は経営判断として先送りされがちだった。

1997年から2000年にかけてデジタルカメラの需要が伸び、写真フィルムの出荷量は減少に転じる。フィルム事業で蓄積した化学合成・精密製造・品質管理の技術は、後年の事業転換で決定的な資産となる。ただし当時は、写真フィルム市場の構造的縮小に対する組織的な手当てはまだ本格化していなかった。2004年11月、デジタル時代にキヤノンと富士写の関係が逆転し、銀塩フィルムの没落にもかかわらず好決算を続ける富士写の内側に危機が潜んでいる、と週刊東洋経済が報じた。生産・流通を通じた寡占体制と、シナジーで利益を吸い上げてきたビジネスモデルが特約店制度とともに終わろうとしている、という読みである(週刊東洋経済 2004/11/13)。

2000年〜2012古森体制によるデジタル化対応と持株会社体制への事業構造転換

「第二の創業」が動かした富士ゼロックス連結化と医薬参入

2001年3月、富士フイルムは富士ゼロックスを連結子会社化し、それまで持分法の範囲にあったドキュメント事業を連結の経営基盤に取り込んだ。2005年に富士フイルム九州株式会社を設立して高機能材料の生産拠点を整備し、2006年10月には持株会社体制へ移行して富士フイルムホールディングスへ商号変更した。写真フィルム事業の縮小が深刻化するなか、事業ポートフォリオの再設計が経営の最優先課題となり、古森重隆社長のもとで事業構造の転換が連続的に打ち出される。古森は後年のインタビューで「『第二の創業』として事業構造を変革する」(東洋経済オンライン 2013/10/25)と述べ、危機を改革の機会として扱う経営方針を自ら整理した。

2008年2月に富山化学を買収して医薬品事業に本格参入した。写真フィルムメーカーによる製薬企業の買収という前例の少ない異業種参入であり、当時の産業界から注目を集めた異例の業態転換だった。富山化学が保有していた抗ウイルス薬T-705は2014年に条件付き承認を得て、商品名アビガンとして新型インフルエンザ対策の備蓄薬に政府採用された。診断中心だった医療事業を治療領域へ広げる方針は、この富山化学買収で社内外に示された。銀塩フィルム会社という自己定義はヘルスケア関連企業へとシフトし、古森体制のもとで企業のアイデンティティが書き換わる転換点となる。

SonoSite買収とCDMO獲得で描かれた医療戦線

2011年、富士フイルムはMerck社からバイオ医薬品の製造受託事業体を約400億円で取得し、バイオCDMO事業に参入した。自社で製造設備を一から立ち上げるのではなく、GMP認証と商業生産の実績を持つ既存事業体をまるごと取得することで、事業立ち上げ期間とオペレーションリスクを抑える判断である。同時に製薬企業との競争関係を避け、受託という立場に徹することで顧客との利害対立を構造的に排除する設計も、ここから意識された。写真フィルムで培った化学合成・精密製造の技術をバイオ医薬品の培養・精製工程へ応用する発想が、後年の事業拡張の土台となる。

2012年には米国の超音波診断装置メーカーSonoSiteを買収して医療機器事業を拡充し、内視鏡・診断画像・超音波の各事業を医療系子会社へ集約した。2016年には東芝メディカルの買収に失敗し、医療機器分野での事業拡大は当初の計画通りには進まなかった。2016年12月時点で富士フイルムホールディングスの連結売上高は2兆4916億円。このうち47%を占めるドキュメント事業はオフィスの印刷需要低迷で伸び悩み、デジカメやミニラボも同様だったと日経新聞は伝えた(日経新聞 2016/12/16)。写真フィルムで培った化学合成・精密製造の技術をバイオ医薬品の培養・精製工程に転用する戦略は、CDMO事業の設備拡張として順次実行され、商業生産案件対応能力の基盤となる。異業種参入に見えた医療戦線は、銀塩写真で培った技術資産が最も自然に延長される領域だった。

2013年〜2024富士ゼロックス完全子会社化とヘルスケア投資加速による複合型企業への進化

米ゼロックス買収頓挫から富士ゼロックス完全子会社化へ

2018年3月、富士フイルムHDは米ゼロックスの買収を公表した。約6700億円で株式の50.1%を取得し、日米の複合機事業を統合する構想である。だが米ゼロックスの大株主カール・アイカーンらが取引条件に強く反発し、2018年5月にはゼロックス側が買収合意の解消を一方的に発表する。株主との対立と取引条件の再交渉という選択肢は残ったものの、最終的に買収は完遂されなかった。富士フイルムは米ゼロックスを通じたグローバル複写機事業の再編という選択肢を失い、経営陣は方針の再設計を迫られた。買収公表からわずか2カ月での破談は、国際M&Aの難しさと、大株主の意向次第で条件が覆る構造リスクを印象づけた出来事となった。

この破談を受けて富士フイルムHDは方針を転換し、2019年3月に米ゼロックスとの合弁契約を解消する形で富士ゼロックスの完全子会社化に踏み切った。米ゼロックス買収という攻めの選択肢が閉ざされた結果、既存の合弁関係を清算する判断を下した。ドキュメント事業は富士フイルムの完全な管理下に置かれ、グループ内での経営資源の再配分が自由に動かせる体制に入った。古森は2021年のインタビューで「主力市場が消えたら」(日本経済新聞 2021/5/17)と題して危機を機会に変える経営論を語り、写真フィルムからヘルスケアへ、さらにドキュメント完全統合へと続く判断の筋道を自ら総括した。

ドキュメントソリューション
  • ドキュメント事業の売上はFY2015の11741億円からFY2019の9583億円へ縮み、人員数も45183名から39656名へ約1割減った。営業利益はFY2017に140億円まで落ち込んだのち、FY2019には1050億円まで回復した。
  • 米ゼロックス破談と完全子会社化を挟んだ事業再編で、紙需要の構造縮小を受け入れつつ人員と利益体質の立て直しを進めた過程を示す。
unit人員数売上高営業利益
45,18311,741949
47,16410,808827
44,42410,478140
39,32310,056964
39,6569,5831,050
出所:有価証券報告書 (FY2015)

CDMO拡張と日立画像診断取得が仕上げた複合型企業の姿

2019年にバイオジェンのデンマーク製造子会社を約8億9000万ドルで買収し、バイオCDMO事業の培養能力を約15万リットルへ拡大した。商業生産案件への対応力を得て、臨床段階中心の小規模受託から本格的な商業生産受託企業へと方針を変えた。同年12月には日立製作所の画像診断機器事業を約1790億円で買収し、MRI・CT・超音波診断装置の製品ラインアップを獲得する取引を完結させた。医薬・CDMO・医療機器という三分野がここで初めて揃い、ヘルスケア事業は富山化学買収の時代とは桁違いの規模へ拡大した。グループの自己認識は総合ヘルスケア企業へと書き換わり、対外的な企業像もこれを境に変わる。

富山化学買収による医薬参入、CDMO事業の構築、SonoSite買収、日立画像診断事業の取得という一連の投資によって、富士フイルムは予防・診断・治療という医療の各領域にまたがるヘルスケア事業基盤を整えた。後藤禎一社長は就任後のインタビューで「今後の柱はヘルスケア、売上高1兆円も射程圏内」(東洋経済オンライン 2022/3/16)と表明し、ヘルスケア事業をグループの成長の軸に据える方針を示した。写真フィルム市場の消失という危機を起点に、化学と精密製造の技術資産をヘルスケアと高機能材料へ転用し、富士ゼロックス統合を経てドキュメント事業まで取り込んだ複合型テクノロジー企業としての姿が、古森前社長から後藤現社長へ引き継がれる過程で形を整えた。

重要な意思決定

1934年9月

富士写真フイルム株式会社を設立

富士写真フイルムの設立は、大日本セルロイドがセルロイド市場の成熟に直面するなかで選択した高リスク分野への分社投資であった。写真フィルムは研究開発比率が高く投資回収に長期を要する事業であったが、分社化によって親会社の損益構造から切り離し、独立した意思決定と資本投下を可能にした。商工省の国産化奨励策が投資リスクを一定程度緩和する環境のなかで、法人の独立性と政策支援の併存が事業化の枠組みを成立させた構造に特徴がある。

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1962年10月

富士ゼロックスを合弁設立

富士ゼロックスの設立は、銀塩写真とは異なる電子写真技術の事業化を合弁形式によってリスク分散しながら推進した判断であった。製造と販売の役割分担が初期投資の軽減と市場浸透の加速をもたらした一方で、日米で市場を分断する合弁構造は後年の事業再編における意思決定の制約要因となった。非連続技術への参入手法として合弁は機能したが、その枠組みが長期的には統治上の課題を内包した構造には示唆がある。

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1965

カラーフイルム「N100」を発売

カラーフィルム「N100」の投入は、画質向上だけでなく現像処理の互換性という流通条件を製品設計に組み込んだ点に特徴があった。オイルプロテクト型カラーの採用により海外ラボでの処理が可能となり、カラーフィルム事業は国内需要依存型から輸出主導型へ転換する起点を得た。競争軸を性能単体から市場適応力へと拡張した判断であり、翌年以降の海外現地法人設立と国際展開を支える技術的前提となった。

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1976年9月

フジカラーF-II 400を発表

フジカラーF-II 400は、感度向上と画質のトレードオフという銀塩写真の技術的制約に対し、感光粒子構造そのものを再設計するCLG技術によって応答した製品であった。ドイツ見本市での発表から国内販売、輸出開始まで段階的に展開し、翌年には過去最高益を達成した。コダックが支配する国際市場において技術的差別化を軸に存在感を示した点に、富士写真フイルムのブランド構築戦略の転換点としての意味がある。

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2001年3月

富士ゼロックスを連結子会社化

富士ゼロックスの連結子会社化は、写真フィルム需要の構造的減少に対し、即時の事業転換ではなく連結範囲の変更によって対応した判断であった。売上高約1兆円の複写機事業を連結に取り込むことで全社売上の急激な目減りを回避し、事業構造の転換に要する時間を確保した。直接的な成長投資ではなかったが、液晶部材やヘルスケアといった次の成長領域への投資余地を生み出す緩衝材として機能した点に構造的な意味がある。

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2005年4月

富士フイルム九州株式会社を設立

富士フイルム九州の設立は、写真フィルム事業の構造的縮小に対し、精密塗布技術という既存の技術資産を液晶部材に転用する形で成長事業を構築した判断であった。世界シェア80%という独占的地位を背景に累計約3000億円の集中投資を実行し、FY2010には売上2185億円に達した。ただしFY2011以降は需要一巡と代替材料の台頭により成熟化し、技術的優位が永続しないことを示す結果ともなった。

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2019年3月

富士ゼロックスを完全子会社化

米ゼロックスの買収構想は、56年にわたる合弁構造の解消と日米複合機事業の一体経営を目指した富士フイルム史上最大級のM&Aであった。しかしアクティビスト株主の反発により破談となり、最終的には合弁契約の解消と富士ゼロックスの完全子会社化という別の形で合弁関係が清算された。グローバル統合は実現しなかったが、アジア太平洋地域の事業に対する完全な経営権を確保し、ゼロックスブランドからの離脱を経て自社ブランド展開に移行した。

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2008年2月

富山化学を買収

富山化学の買収は、画像診断に偏っていた富士フイルムの医療事業を治療分野へ拡張する起点となった。異業種メーカーによる製薬企業の買収という非連続な判断であったが、創薬パイプラインと研究開発体制を外部から取り込むことで、ヘルスケアを全社の成長軸に据える方向性が確定した。T-705の承認取得を経て医薬品事業の足場が構築され、その後のバイオCDMO参入や画像診断機器買収への連鎖を生み出した。

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2011年3月

バイオ医薬品製造受託に参入

バイオ医薬品CDMO事業への参入は、研究開発ではなく製造受託に特化した点に構造的な特徴がある。GMP対応設備と商業生産実績を持つ既存事業体の買収によって参入障壁を越え、立ち上がり期間を短縮した。この参入形態は設備投資と売上成長を直結させる構造をもたらし、その後のバイオジェン子会社買収を含む累計1兆円規模の投資判断へと連鎖した。製造能力の規模が競争優位の源泉となる事業特性が投資の連続性を規定している。

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2019年3月

Biogen Denmarkを買収

バイオジェン子会社の買収は、富士フイルムCDMO事業の生産規模制約を解消するための判断であった。大型培養設備、人員、供給契約を同時に取得し、臨床段階中心から大型商業生産対応への事業転換を実現した。設備新設ではなく稼働中の拠点を取得する手法は投下資本の回収を前倒しし、売上成長を量産案件と直結させる構造をもたらした。2011年の参入以降の設備投資の連鎖における中間点として位置づけられる。

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2019年12月

日立の画像診断事業を買収

日立画像診断事業の買収は、PACSや画像解析ソフトに強みを持ちながら大型装置のラインアップが不足していた富士フイルムの医療機器事業を補完する判断であった。装置とソフトウェアの統合によって欧米大手に対抗する事業基盤の構築が意図された。富山化学の買収、バイオCDMOの構築に続くヘルスケア戦略の第三の柱として、診断領域の事業基盤を装置レベルから確保した点に構造的な意味がある。

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参考文献・出所

有価証券報告書
富士フイルム七十年史
読売新聞 1938/7/24
読売新聞 1961/10/13
ダイヤモンド 1963/9/16
読売新聞 1968/12/04
読売新聞 1969/10/14
日経ビジネス 1973/4/2
日経産業新聞 1977/2/1
プレジデント 1977/12
私の履歴書 1977
日経ビジネス 1985/11/25
日経ビジネス 1997/11/17
週刊東洋経済 2004/11/13
富士フイルムHD IR資料
日経新聞朝刊
東洋経済オンライン 2013/10/25
日経新聞 2016/12/16
日本経済新聞 2021/5/17
東洋経済オンライン 2022/3/16
決算説明会 FY25-3Q
富士フイルムHDプレスリリース
中期経営計画資料
日本経済新聞 2025/2/11
読売新聞
ダイヤモンド
日経ビジネス
日経産業新聞
プレジデント
私の履歴書
週刊東洋経済
東洋経済オンライン
日経新聞
日本経済新聞