今から20数年前まではフィルムはほとんど海外からの輸入品でありまして、莫大な外貨が使われていたわけであります。これでは、日本の経済政策の上からいって甚だ不都合なことでありまして、これが国産化を図るために富士フィルムは生まれたわけであります。皆様のご支援の賜で、当初相当の困難をなめましたが、順調に発展致し、品質価格とも幸にご好評を得まして、現在東洋一の写真材料メーカーとなることができました。
販売網に投資。4大特約店体制へ
欧米を中心に海外展開を本格化。カラー写真フィルムを輸出へ
ISO感度400のカラーネガフィルムを世界で初めて開発。コダック打倒の切り札に
ボクは開発チームの責任者でしたけど、実際の仕事は若い人がしてくれたんです。ただ、仕事をしやすいように(開発の方向を)間違えないようにしていただけですよ
デジタル画像によるX線診断システムを開発。医療向けに参入しつつデジタル画像の技術を蓄積へ
経営陣はデジタル技術を過小評価。社長はフィルムの将来性を自信満々に語るが、この姿勢が富士フィルムの経営が迷走する要因に
デジタルカメラの普及などで、写真市場がひっくり返るかのような議論が出ていますが、なぜそういう話になるのか全くわかりませんね。(略)
確かに、従来のフィルムで撮っていた画像をデジタルカメラで撮る需要は広がってきました。コピー感覚でちょこちょこっと記録を撮ったり、画像情報をファイルで保存したり、伝送するには便利ですから。それが写真市場にどう影響するかといえば、新しい領域を切り開くものだと思います。
プリントに残す場合、デジタルは従来の写真には到底叶わないでしょう。写真の価値は機能とコストで決まります。例えばレンズ付きカメラの「写ルンです」なら、世界中どこでも1000円前後の値段で買える。それをパチパチッと撮って、写真店にポイと出したら、勝手に現像してくれるわけでしょう。デジタルカメラがいかに簡単と言っても、こうは行きません。
画質の面で、従来の写真の奥深さはデジタルがかなうものではありません。デジタル技術が進んだとしても、その時には、従来の写真は感度が良くなったり、粒子が細かくなったりで、さらに先へ行っているはずです。(略)
従来型の写真の未来には、何も悲観するものはありません。
1997年から2000年にかけて、デジタルカメラの画像数が増加。一眼レフでもデジタルカメラの需要が徐々に増大し始め、富士フイルム経営陣の目論見は外れた。この結果、2000年3月期に富士写真フイルムは減収決算となった。また、同年に宗幸社長が退任し、古森氏が新社長に就任して経営陣は世代交代。社員1万名におよぶ大規模なリストラを敢行した。
2000年前後に急速にデジタルカメラが普及し、写真フィルムの需要が減少することが予想された。
2001年に富士フイルムは関係会社の富士ゼロックスの株式の追加取得を決定。1962年の合弁会社の設立以来50%の株式を保有していたが、パートナーである米ゼロックス社から25%の株式を追加取得し、富士ゼロックスへの出資比率を50%から75%(+25%)へと比重を高めた。
富士フイルムの狙いは、富士ゼロックスの完全子会社による売上高の計上である。富士ゼロックスは売上高1兆円前後の大企業であり、連結化によって富士フイルムへの売上高に計上することが可能になった。この会計処理によって、富士フイルムは「写真フイルムの需要減による売上低迷」に対して「富士ゼロックスの売上計上」をすることで、連結比において、フイルムの売上減少の影響を見かけの上で小さくすることができた。
FY2001より富士フイルムは売上高に富士ゼロックス(約1兆円)が加算される形となった。買収時点でゼロックスの収益性も高く、富士フイルムHDの全社業績に貢献した。
この結果、買収を契機として、富士写真フイルムは「写真フイルム」に加えて、富士ゼロックスの「複写機」を傘下にもつコングロマリットへと変化した。
2006年10月には持株会社制となり、富士フイルムHDの傘下に事業会社として富士フイルムおよび富士ゼロックスを保有するホールディングスに移行。2007年には傘下2社の本社を東京ミッドタウンに移転し、人事労務を共通化するなど、両社の本格的な統合作業が始まった。
本業であった写真フィルムの業績低迷を受けて、富士ゼロックスの連結化によって売上高は確保したものの、オーガニックな売上成長という観点では課題が残った。そこで、古森社長は富士フイルムの大型事業として、液晶パネル部材である「偏光板保護フィルム(TACフィルム)」に巨額投資を行うことを決めた。
偏光板保護フィルムの量産には、アセテート系を取り扱う塗布技術が必要であり、富士フイルムが「写真フィルム」の技術開発を通じて培っていた技術力が必要であった。このため、偏光板保護フィルムでは富士フィルムが世界シェア80%を確保しており、すでに盤石な製品に育っていた。このため、量産するかどうかが、大きな焦点となった。
2004年当時、世界的にブラウン管テレビの需要が低迷する一方で、シャープを中心とする「液晶ディスプレイ」と、パナソニックを中心とする「プラズマディスプレイ」の2陣営が次期テレビの本命と謳われていた。富士フイルムとしては、液晶ディスプレイが主流になる方向にベットすることを意味した。
2005年に富士フイルムは「富士フイルム九州」を完全子会社として設立し、偏光板保護フィルムの量産拠点として活用する方針を打ち出し、熊本県菊陽町に工場を新設した。
1期工事だけで400億円を投資する計画で、2012年の第7ラインの稼働に至るまでに推定累計3000億円(2012/11/25プレジデント)を投資した。単純計算で、1ラインあたり400億円前後の巨額投資が必要なビジネスであった。
巨額投資が必要になった理由は、顧客である液晶ディスプレイメーカーの要請による。液晶ディスプレイメーカーは、大量生産によるコストダウンを目論んでいたため一定量の納入が必須であった。このため、顧客の要請に引っ張られる形で、富士フイルムも偏光板の量産投資を強いられたと推察される。
2006年10月の第1ラインの稼働を契機に、富士フイルムはFDP部材の売上高を拡大。液晶需要の拡大に合わせて第7ラインまで増強することで事業の売上高を拡大し、リーマンショック時に低迷したものの、FY2010には過去最高の2185億円を達成した。
なお、FY2010にピークを迎えた理由は、エコポイントなどの政策によって、液晶テレビに対する需要が増加したためである。
FY2011以降の変更版の需要は、液晶ディスプレイの需要低迷とともに減少に転じた。ブラウン管テレビから液晶テレビへの移行が進んだことや、ブラウン管に比べて液晶テレビの故障が少ないこともあり、買い替え需要が低迷した。
また、代替品としてTACを使用しないポリエステル系の偏光板フィルムが台頭するなど、TACフィルムの1強体制が崩れたことも、売上減少をもたらした。
この結果、富士フイルムのFPDの売上高は低迷し、1000億円前後で推移して現在に至る。ライン増設も2012年を最後に停止しており、工場の稼働率が低下している可能性が高い。
FPD事業の利益額は非開示であるため、偏光板保護フィルムの量産投資に対するROIの正確な把握は難しい。ただし、富士フイルムは偏光板保護フィルムの設備に対して減損損失を計上していないことからも、投資額を順当に回収したものと推察される。