売上
富士フイルム:売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
25,257億円
売上高:2022/3
利益
富士フイルム:売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結 (単位:%)
8.3%
利益率:2022/3
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1934
9月

富士写真フイルム株式会社を設立

写真フィルムの国産化

大日本セルロイドから分離設立

フィルム量産工場を新設

証言
春木栄(取締役社長)

今から20数年前まではフィルムはほとんど海外からの輸入品でありまして、莫大な外貨が使われていたわけであります。これでは、日本の経済政策の上からいって甚だ不都合なことでありまして、これが国産化を図るために富士フィルムは生まれたわけであります。皆様のご支援の賜で、当初相当の困難をなめましたが、順調に発展致し、品質価格とも幸にご好評を得まして、現在東洋一の写真材料メーカーとなることができました。

1934年
1月
富士写真フイルムを会社設立
1934年
2月
足柄工場を新設(神奈川県)
1936年
1月
量産に苦戦して経営不振へ
1938年
2月
小田原工場を新設(神奈川県)
1946
4月

フジカラーサービスを設立

販売網に投資。4大特約店体制へ

1946年
4月
天然色写真株式会社を設立
1965年
4月
フジカラー販売株式会社を設立
1962
ゼロックス社と富士ゼロックスを合弁設立
1963
カラーフイルム「N64」を発売
1965
12月

北米に現地法人を設立

欧米を中心に海外展開を本格化。カラー写真フィルムを輸出へ

1965年
12月
ニューヨーク州に現地法人を設立
1966年
6月
ドイツに現地法人を設立
1972年
8月
オランダに現地法人を設立
1976
9月

フジカラーF-II 400を発表

ISO感度400のカラーネガフィルムを世界で初めて開発。コダック打倒の切り札に

証言
上田博造(取締役)

ボクは開発チームの責任者でしたけど、実際の仕事は若い人がしてくれたんです。ただ、仕事をしやすいように(開発の方向を)間違えないようにしていただけですよ

1980/12/15 日経ビジネス
1971年
1月
カラーフィルムの輸入自由化
1974年
11月
フジカラーF-IIを開発(ISO100)
1976年
9月
フジカラーF-II400をドイツ見本市に出店
1976年
10月
フジカラーF-II400を日本国内で発売
1976年
12月
フジカラーF-II400の輸出を開始
1977年
10月
過去最高益を達成
1981
4月

X線画像診断システムFCRを発表

デジタル画像によるX線診断システムを開発。医療向けに参入しつつデジタル画像の技術を蓄積へ

1975年
8月
CTに関する研究開発を開始
1981年
4月
X線画像診断システムFCRを発表
1982年
10月
子会社の商号を富士メディカルシステムに変更
1983年
7月
FCRの国内販売を開始。鹿児島大学医学附属病院に納入
1985
業績好調。写真フィルムの国内シェア70%
1997
11月

宗雪社長が「従来型の写真の未来には、何も悲観するものはありません」と発言

経営陣はデジタル技術を過小評価。社長はフィルムの将来性を自信満々に語るが、この姿勢が富士フィルムの経営が迷走する要因に

証言
宗雪雅幸氏(富士写真フイルム・社長)

デジタルカメラの普及などで、写真市場がひっくり返るかのような議論が出ていますが、なぜそういう話になるのか全くわかりませんね。(略)

確かに、従来のフィルムで撮っていた画像をデジタルカメラで撮る需要は広がってきました。コピー感覚でちょこちょこっと記録を撮ったり、画像情報をファイルで保存したり、伝送するには便利ですから。それが写真市場にどう影響するかといえば、新しい領域を切り開くものだと思います。

プリントに残す場合、デジタルは従来の写真には到底叶わないでしょう。写真の価値は機能とコストで決まります。例えばレンズ付きカメラの「写ルンです」なら、世界中どこでも1000円前後の値段で買える。それをパチパチッと撮って、写真店にポイと出したら、勝手に現像してくれるわけでしょう。デジタルカメラがいかに簡単と言っても、こうは行きません。

画質の面で、従来の写真の奥深さはデジタルがかなうものではありません。デジタル技術が進んだとしても、その時には、従来の写真は感度が良くなったり、粒子が細かくなったりで、さらに先へ行っているはずです。(略)

従来型の写真の未来には、何も悲観するものはありません。

1997/11/17 日経ビジネス
2000
3月

減収決算。写真市場が変調へ

1997年から2000年にかけて、デジタルカメラの画像数が増加。一眼レフでもデジタルカメラの需要が徐々に増大し始め、富士フイルム経営陣の目論見は外れた。この結果、2000年3月期に富士写真フイルムは減収決算となった。また、同年に宗幸社長が退任し、古森氏が新社長に就任して経営陣は世代交代。社員1万名におよぶ大規模なリストラを敢行した。

2000年
3月
写真フィルムの不振により減収決算
2000年
6月
古森重隆氏が社長就任
2006年
3月
約5000名の人員削減(構造改革)
2010年
3月
最終赤字に転落
2011年
3月
約5000名の人員削減(構造改革)
2001
3月

富士ゼロックスを連結子会社化

背景

フィルムの需要減少による売上低迷

2000年前後に急速にデジタルカメラが普及し、写真フィルムの需要が減少することが予想された。

投資

富士ゼロックスの株式25%を追加取得

2001年に富士フイルムは関係会社の富士ゼロックスの株式の追加取得を決定。1962年の合弁会社の設立以来50%の株式を保有していたが、パートナーである米ゼロックス社から25%の株式を追加取得し、富士ゼロックスへの出資比率を50%から75%(+25%)へと比重を高めた。

富士フイルムの狙いは、富士ゼロックスの完全子会社による売上高の計上である。富士ゼロックスは売上高1兆円前後の大企業であり、連結化によって富士フイルムへの売上高に計上することが可能になった。この会計処理によって、富士フイルムは「写真フイルムの需要減による売上低迷」に対して「富士ゼロックスの売上計上」をすることで、連結比において、フイルムの売上減少の影響を見かけの上で小さくすることができた。

結果

富士フィルムの売上増大(連結化による)

FY2001より富士フイルムは売上高に富士ゼロックス(約1兆円)が加算される形となった。買収時点でゼロックスの収益性も高く、富士フイルムHDの全社業績に貢献した。

この結果、買収を契機として、富士写真フイルムは「写真フイルム」に加えて、富士ゼロックスの「複写機」を傘下にもつコングロマリットへと変化した。

2006年10月には持株会社制となり、富士フイルムHDの傘下に事業会社として富士フイルムおよび富士ゼロックスを保有するホールディングスに移行。2007年には傘下2社の本社を東京ミッドタウンに移転し、人事労務を共通化するなど、両社の本格的な統合作業が始まった。

2005
4月

富士フイルム九州株式会社を設立

背景

写真フィルムの需要低迷。液晶需要の増加

本業であった写真フィルムの業績低迷を受けて、富士ゼロックスの連結化によって売上高は確保したものの、オーガニックな売上成長という観点では課題が残った。そこで、古森社長は富士フイルムの大型事業として、液晶パネル部材である「偏光板保護フィルム(TACフィルム)」に巨額投資を行うことを決めた。

偏光板保護フィルムの量産には、アセテート系を取り扱う塗布技術が必要であり、富士フイルムが「写真フィルム」の技術開発を通じて培っていた技術力が必要であった。このため、偏光板保護フィルムでは富士フィルムが世界シェア80%を確保しており、すでに盤石な製品に育っていた。このため、量産するかどうかが、大きな焦点となった。

2004年当時、世界的にブラウン管テレビの需要が低迷する一方で、シャープを中心とする「液晶ディスプレイ」と、パナソニックを中心とする「プラズマディスプレイ」の2陣営が次期テレビの本命と謳われていた。富士フイルムとしては、液晶ディスプレイが主流になる方向にベットすることを意味した。

投資

液晶パネル向け偏光板保護フィルムの量産。累計3000億円を投資

2005年に富士フイルムは「富士フイルム九州」を完全子会社として設立し、偏光板保護フィルムの量産拠点として活用する方針を打ち出し、熊本県菊陽町に工場を新設した。

1期工事だけで400億円を投資する計画で、2012年の第7ラインの稼働に至るまでに推定累計3000億円(2012/11/25プレジデント)を投資した。単純計算で、1ラインあたり400億円前後の巨額投資が必要なビジネスであった。

巨額投資が必要になった理由は、顧客である液晶ディスプレイメーカーの要請による。液晶ディスプレイメーカーは、大量生産によるコストダウンを目論んでいたため一定量の納入が必須であった。このため、顧客の要請に引っ張られる形で、富士フイルムも偏光板の量産投資を強いられたと推察される。

結果

液晶需要の拡大で売上拡大

2006年10月の第1ラインの稼働を契機に、富士フイルムはFDP部材の売上高を拡大。液晶需要の拡大に合わせて第7ラインまで増強することで事業の売上高を拡大し、リーマンショック時に低迷したものの、FY2010には過去最高の2185億円を達成した。

なお、FY2010にピークを迎えた理由は、エコポイントなどの政策によって、液晶テレビに対する需要が増加したためである。

結果

液晶需要の一巡で売上低迷

FY2011以降の変更版の需要は、液晶ディスプレイの需要低迷とともに減少に転じた。ブラウン管テレビから液晶テレビへの移行が進んだことや、ブラウン管に比べて液晶テレビの故障が少ないこともあり、買い替え需要が低迷した。

また、代替品としてTACを使用しないポリエステル系の偏光板フィルムが台頭するなど、TACフィルムの1強体制が崩れたことも、売上減少をもたらした。

この結果、富士フイルムのFPDの売上高は低迷し、1000億円前後で推移して現在に至る。ライン増設も2012年を最後に停止しており、工場の稼働率が低下している可能性が高い。

考察

ROIはプラスと推定

FPD事業の利益額は非開示であるため、偏光板保護フィルムの量産投資に対するROIの正確な把握は難しい。ただし、富士フイルムは偏光板保護フィルムの設備に対して減損損失を計上していないことからも、投資額を順当に回収したものと推察される。

2017
3月

富士ゼロックスの構造改革を開始

複写機の収益性の悪化

10000名の削減を決定。720億円の構造改革費用

利益率をキープしつつ減収へ

2017年
3月
富士ゼロックスの構造改革を発表
2017年
6月
富士ゼロックスで不正会計が発覚
2018年
3月
ゼロックスの買収を公表
2019年
3月
ゼロックスの買収を白紙撤回
2019年
3月
富士ゼロックスの株式を完全取得(2500億円)
2021年
3月
ゼロックスとの事務機販売契約を終了
2021年
3月
富士ゼロックスの商号を富士ビジネスイノベーションに変更
2019
12月

医療分野を強化。日立の画像診断事業を買収

複写機の収益性の悪化

医療領域に注力。大型買収を画策

2008年
2月
富山化学を買収(300億円)
2012年
3月
米SonoSiteを買収(815億円)
2012年
3月
CellularDynamicsを買収(380億円)
2016年
7月
東芝メディカルの買収失敗
2019年
12月
日立製作所の画像診断部門の買収発表
2021年
3月
日立製作所の画像診断部門の買収完了
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