1934年〜 写真フィルム国産化の使命と、専業メーカーとしての確立
富士フイルムの業績推移:単体
- 1934年 富士フイルム創業——大日本セルロイドが分社した写真フィルム専業会社と国策助成金 米コダック・独アグファ依存からの脱却を国策に、大日本セルロイドが写真フィルム部門を分社した富士写真フイルムは、量産失敗による累積赤字をどう立て直して写真専業メーカーへ育ったか
- 1934年 足柄工場を建設
- 1936年 量産化に失敗し累積36万円の赤字を計上
- 1936年 医療用X線フィルムを国産化
- 1938年 小田原工場を建設
- 1939年 写真感光材料製造事業法により国家管理品目に指定
- 1951年 国産初の長編劇映画用カラーフイルムを完成
資本金の40%の助成金と、累積36万円の赤字が残した誓い
1934年1月、大日本セルロイドが写真フィルム部の事業一切を分離継承させ[1]、資本金300万円・従業員340名[2]で富士写真フイルムを創業した。大正13年に旭写真工業の国産フイルムが、昭和4年に六桜社のフイルムが発売されていたが、いずれもフィルムベースは輸入品に頼っていた[3]。その国産化に乗り出した大日本セルロイドは約15年の準備期間を経て昭和8年から神奈川県足柄上郡足柄町に写真フィルム製造工場の建設を進め、昭和9年1月に完成[4]させている。新会社はこの足柄工場を丸ごと引き継ぎ、フィルムベースから製品までの一貫生産体制がわが国で初めて実現[5]した。用地には富士山と丹沢を水源とする酒匂川の軟水と、低湿度の気候を備えた足柄上郡[6]が選ばれた。
- 富士フイルムホールディングス 有価証券報告書 第125期(2021年3月期)【沿革】
- [1]1934年1月 大日本セルロイドの写真フィルム部の事業一切を分離継承して富士写真フイルムを設立
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [2]資本金300万円・従業員340名で発足
- [3]大正13年 旭写真工業の国産フイルム、昭和4年 六桜社のフイルム。いずれもフィルムベースは輸入依存
- [4]約15年の準備期間を経て昭和8年から足柄町に写真フィルム製造工場を建設し昭和9年1月に完成
- [5]フィルムベースから製品までの一貫生産体制がわが国で初めて実現
- 富士写真フイルム50年のあゆみ(1984)
- [6]酒匂川の軟水と低湿度の気候を備えた足柄上郡を用地に選定
創業直後の1936年に量産化でつまずき、累積36万円の赤字を計上して事業の継続が危ぶまれた[7]。乳剤の性能が外国品に追いつかず、現像所の評価で国産は絶望視される水準[8]にあった。のちに4代目社長となる小林節太郎氏は社内に去就を問い、「資本金の40%におよぶ巨額の助成金交付を得てフィルム国産に踏み切った。外国品を駆逐するのが使命と思い、経営してきたが、累積36万円の赤字を出し、会社は憂慮すべき状態になった。やめたいものは遠慮せずに去ってほしい」(私の履歴書 1977)と述べて、再建に協力する者と運命を共にする方針を示した。1938年6月には小田原工場を建設し[10]、硝酸銀・色素などの高度化成品部門と、光学硝子・写真機などの精密光学機器部門を拡充して量産専用のラインを分離した。 [9]
- 私の履歴書 小林節太郎(日本経済新聞社, 1977)
- [7]1936年 量産化に失敗し累積36万円の赤字を計上、事業継続が危ぶまれた
- [9]小林節太郎氏が社内に去就を問い、再建に協力する者と運命を共にする方針を提示
- 読売新聞(1938年7月24日)
- [8]乳剤の性能が外国品に追いつかず現像所の評価で国産は絶望視される水準
- 富士フイルムホールディングス 有価証券報告書 第125期(2021年3月期)【沿革】
- [10]1938年6月 小田原工場建設(高度化成品部門・精密光学機器部門の拡充)
1939年の写真感光材料製造事業法の施行により、写真フィルムは陸海軍向けの国家管理品目[11]となった。1944年3月には榎本光学精機製作所を買収[12]し、終戦時には従業員約8000名の規模[13]へ達している。戦後は1946年4月に天然色写真を設立[14]し、4大特約店による販売網と現像網を東西日本に敷いた。1949年5月には東京・大阪の証券取引所へ上場[15]し、写真専業の公開メーカーとして再出発した。
- 富士写真フイルム50年のあゆみ(1984)
- [11]1939年 写真感光材料製造事業法の施行で写真フィルムが陸海軍向けの国家管理品目に
- [13]終戦時の従業員 約8000名
- [15]1949年5月 東京・大阪証券取引所へ上場
- 富士フイルムホールディングス 有価証券報告書 第125期(2021年3月期)【沿革】
- [12]1944年3月 榎本光学精機製作所を買収
- [14]1946年4月 天然色写真を設立
- 富士フイルムホールディングス 有価証券報告書 第125期(2021年3月期)【沿革】
- [1]1934年1月 大日本セルロイドの写真フィルム部の事業一切を分離継承して富士写真フイルムを設立
- [10]1938年6月 小田原工場建設(高度化成品部門・精密光学機器部門の拡充)
- [12]1944年3月 榎本光学精機製作所を買収
- [14]1946年4月 天然色写真を設立
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [2]資本金300万円・従業員340名で発足
- [3]大正13年 旭写真工業の国産フイルム、昭和4年 六桜社のフイルム。いずれもフィルムベースは輸入依存
- [4]約15年の準備期間を経て昭和8年から足柄町に写真フィルム製造工場を建設し昭和9年1月に完成
- [5]フィルムベースから製品までの一貫生産体制がわが国で初めて実現
- 富士写真フイルム50年のあゆみ(1984)
- [6]酒匂川の軟水と低湿度の気候を備えた足柄上郡を用地に選定
- [11]1939年 写真感光材料製造事業法の施行で写真フィルムが陸海軍向けの国家管理品目に
- [13]終戦時の従業員 約8000名
- [15]1949年5月 東京・大阪証券取引所へ上場
- 私の履歴書 小林節太郎(日本経済新聞社, 1977)
- [7]1936年 量産化に失敗し累積36万円の赤字を計上、事業継続が危ぶまれた
- [9]小林節太郎氏が社内に去就を問い、再建に協力する者と運命を共にする方針を提示
- 読売新聞(1938年7月24日)
- [8]乳剤の性能が外国品に追いつかず現像所の評価で国産は絶望視される水準
舶来品に見劣りした国産フィルムと、迫る輸入自由化
1951年に国産初の長編劇映画用カラーフイルムを完成させ、翌1952年にはロールフイルム「ネオパンSS」[16]を売り出した。1954年にはオートメーション方式による新フイルム工場を完成させ、1953年から進めてきたフィルムベースの不燃化を同年末に終えている[17]。1956年には品質管理の優秀性を評価されてデミング賞を受けた[18]。国産化の使命を掲げて出発した専業メーカーは、この20年で製品系列と品質管理の体系を自前で組み上げた[19]。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [16]1951年 国産初の長編劇映画用カラーフイルムを完成、1952年 ロールフイルム「ネオパンSS」を販売
- [17]1954年 オートメーションシステムによる新フイルム工場を完成、1953年から進めたフィルムベースの不燃化を1954年末に完了
- [18]1956年 品質管理の優秀性を認められデミング賞を受賞
- [19]製品系列と品質管理の体系を自前で構築(1951年カラー映画用フイルム〜1956年デミング賞)
1961年10月の時点で、カメラは国産品が普及した一方、需要が急にふえたカラーフィルムでは国産品と舶来品の品質格差が残った[20]。安い国産フィルムは色で見劣りし、高い舶来品には値打ちがあるという評価が定着しており、富士写真フイルムと小西六写真工業は翌年に迫った輸入自由化に戦々恐々としていた[21]。自由化されればアグファもコダックもともに値を下げ、国内に現像設備を広げて大攻勢に転じる[22]と見られていた。国産フィルムが実力を試されるのは[23]、その自由化のときからだった。
- 読売新聞(1961年10月13日)
- [20]1961年10月 カメラは国産品が普及、需要が増えたカラーフィルムで国産品と舶来品の品質格差が残存
- [21]安い国産フィルムは色で見劣りし高い舶来品に値打ちがあるとの評価。富士写真・小西六は翌秋の自由化を前に戦々恐々
- [22]自由化後にアグファ・コダックが値下げし国内に現像設備を広げて大攻勢へ転じるとの見通し
- [23]国産フィルムの真価が問われるのは自由化のとき
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [16]1951年 国産初の長編劇映画用カラーフイルムを完成、1952年 ロールフイルム「ネオパンSS」を販売
- [17]1954年 オートメーションシステムによる新フイルム工場を完成、1953年から進めたフィルムベースの不燃化を1954年末に完了
- [18]1956年 品質管理の優秀性を認められデミング賞を受賞
- [19]製品系列と品質管理の体系を自前で構築(1951年カラー映画用フイルム〜1956年デミング賞)
- 読売新聞(1961年10月13日)
- [20]1961年10月 カメラは国産品が普及、需要が増えたカラーフィルムで国産品と舶来品の品質格差が残存
- [21]安い国産フィルムは色で見劣りし高い舶来品に値打ちがあるとの評価。富士写真・小西六は翌秋の自由化を前に戦々恐々
- [22]自由化後にアグファ・コダックが値下げし国内に現像設備を広げて大攻勢へ転じるとの見通し
- [23]国産フィルムの真価が問われるのは自由化のとき