1971年8月に西川清氏がニシカワ商会(後のパーク24の母体となる会社)を東京都内で設立。工業用ファスナーメーカーに勤務していた営業マンであったが、会社の方針と反りが合わずに独立した。
独立直後は事業内容を決めていなかったが、偶然街中で目にした「駐車禁止」の張り紙に着眼。駐車禁止の看板にニーズがあると考え、製造販売をスタートした。このため、ニシカワ商会における祖業は看板の製造販売であったが、単価が安くコンクリートの土台を含む重量物で運送コストもかかり、事業を拡大する上では不十分であった。
看板事業をスタートした際に、偶然、代官山の料理屋にて無人駐車場機器「パークロック」を目にした。日本信号が開発した機器であり、西川清氏はニーズを確信してツテのない日本信号に通い詰めて販売権を獲得した。
当時、日本信号では別の商社に販売をませていたが、パークロックの販売は低迷。このため、西川清氏による営業攻勢が功を奏し、結果としてベンチャー企業であったニシカワ商会がパークロックの販売権を得る機会に恵まれた。
西川清氏は、パークロックについて、国内の大型病院に販売するためにアプローチを開始。当時の病院駐車場は無料であったものの不法駐車が多く、必要とする患者が利用できない課題に直面した。
そこで、西川清氏はパークロックの売り込みを開始し、最初に聖路加国際病院(東京・築地)への納入に成功した。これにより病院の不法駐車問題を解決し、さらに病院には駐車場収入を得る手段を提供。一石二鳥の施策であったため、評判が評判を呼び、ニシカワ商会は東京都内の主な大型病院(私立系・国立系の両方)について、パークロックの販売と無人駐車場の管理代行を請け負った。
この結果、ニシカワ商会は会社設立から3年目で年商1.3億円を確保。東京都心部(城南地区)の主な病院と取引をしたことで、十分かつ安定的な収益を確保した。
ところが、収入を得た創業者の西川清氏は「プライベートな遊び」を重視し、事業を伸ばすことをやめた。この結果、1990年にパーク24の展開を本格化するまでの約20年間(1970年代〜1980年代)は、東京都内の病院駐車場を運営するニシカワ商会を「中小企業」として事業を継続していた。
30歳そこそこで会社を作って、それが当たってしまった。なんだ世の中、金稼ぐのは簡単だ。そう慢心してしまったんです。それから約20年間は悪くなるとがむしゃらにやって、よくなると怠ける。そんな繰り返しでした。
西川清氏は50歳を迎えて、ニシカワ商会において事業インパクトを残せていないことを後悔した。1988年7月期のニシカワ商会は、東京都の西五反田に本社を構え、売上高15.8億円・利益0.3億円・従業員数36名の中小企業であった。
そこで、5年後の売上目標を150億円(当時の売上高の10倍以上)に設定し、同時に株式公開を目指すことを公表した。病院駐車場の運営では売上拡大が困難であったため、無人駐車場事業を「パーク24」として運営し、地主が保有する「街中の空き地」に小規模な無人駐車場を設置するビジネスに注力した。
タイムズの展開にあたっては、東京都内でスタートする前に、福岡県の自社ビル建設予定地でテストマーケティングを実施。当時主流だった「月極駐車場」の相場感と、タイムズが志向した新しい「無人時間貸し駐車場」の料金設定の目安を見出した。
そして、1991年12月に東京都内でタイムズの1号物件(上野)展開を開始。駐車台数は5〜6台が標準的であり、地主と駐車場を共同経営するという名目のもとで、駐車場の管理代行業を開始した。
バブル崩壊によって開発が中止された土地が多くなったことや、固定資産税の支払いに苦労する地主が増えた事により、次の建物新設までの臨時収入源として駐車場経営を選択する地主が増加した。
パーク24は、営業人員を拡大しつつ、これらの地主のニーズを捉えて成長。営業攻勢に加えて、無人時間貸し駐車場のオペレーションを洗練させることで、競合会社の台頭を防いだ。1995年7月にはタイムズのパーキング台数1万台を突破した。
「50歳の誕生日を迎えて、事業家としてやれるのは年齢からもこれが最後だと感じたんです。このままいけば自分は何もなし得なかったと自分の人生を後悔することになると」
「平成4年、今から7年前に平成9年の売上目標を150億円と設定しました。当時の売上はそのわずか5%程度だったのです。後の95%を残りの5年で達成すると宣言した。今思うと無謀だったかも。社員にも死に物狂いでやってほしいと言いました。」
創業家出身の西川光一氏が社長に就任。創業者の西川清氏は父親に相当するため同族経営を志向