| 就任年 | 社長氏名 | 役職名 |
|---|---|---|
| 小江紘司 |
前身は1908年創業の川村インキ製造所。
1962年にJRCを吸収合併し、大日本インキ化学工業へ商号を変更した。
1987年にReichhold Chemicalsを買収し、2008年にDICへ商号変更。
印刷インキから樹脂・顔料へ多角化し、クロスボーダーM&Aを重ねた。
川村喜十郎氏は1908年2月15日、東京・本所北二葉町で川村インキ製造所を創業した。設備は8×12インチの3本ロール3台と8馬力のガスエンジン1台で、技術担当の田村清八氏ほか従業員3人の町工場である。川村喜十郎氏は前年10月に一家で栃木県佐野在から上京したものの、勤め先や事業の当てを持たず、印刷インキの製造にも経験がなかった。事業の選択を決めたのは、松村インキ工場に勤める同郷の友人、田村清八氏の勧めだった。田村清八氏は、顔料とワニスを練り合わせる製造は小資本でも始められ、ラベルや包装、新聞、雑誌と需要の範囲が広いと説いた。資本を持つ素人と技術を持つ無資本の職人の組み合わせが、創業の出発点だったとみられる。
創業から2年ほどで、川村インキ製造所の経営は行き詰まった。売上は立っても代金の回収が遅れ、原料代と給料の支払いに手元資金が追いつかなかった。川村喜十郎氏は廃業を考えたものの、最大の得意先だった木版印刷所・太平舎の主人が別の得意先を紹介し、事業の継続を促した。1910年8月の隅田川の大洪水で下町の印刷所がなかば休業すると、川村喜十郎氏の売り込み先は地方の印刷業者へ向かった。東北への出張で想定を超える注文を得て、1911年にかけて信越・北陸にも店員を派遣。出荷量の増加を受けて原料を外国商館から直接仕入れる取引に切り替え、1912年には屋号を川村喜十郎商店に改めた。
1914年8月に欧州大戦が始まると、ドイツと米国からの輸入に依存していた印刷インキの原料は途絶の懸念が強まった。在日商社の手持ち原料は奪い合いとなり、価格は上昇を続けた。川村喜十郎氏は横浜のドイツ商社レーミッシュの依頼に応じ、輸送途中の金赤顔料80樽を開戦前の1樽100円で引き受けた。届いた60樽の相場は1樽2,000円に上がり、8,000円の支払いは12万円相当の在庫に変わった。一方で良質な原料の不足は製品の質を下げ、川村喜十郎氏は顔料を自社で生産するほかないと判断した。1915年に研究室を設けて黄鉛などの無機顔料とオフセットインキの製造を始め、金赤顔料の自製を実現したのは1919年である。
1923年9月1日の関東大震災で、川村喜十郎商店は本所の工場・事務所・住宅・倉庫をすべて焼失した。従業員とその家族を合わせた犠牲者は26名に達し、技術の責任者だった工場主任も失った。川村喜十郎氏は10月1日から滝野川の谷口インキ工場を設備ごと借り、記憶をもとに配合を再現して製造を再開した。東京の同業者がほぼ全滅した一方、印刷の注文は地方へ流れ、東北・信越・北陸の得意先からインキの注文が相次いだ。川村喜十郎氏は日本興業銀行から預金部の復興資金15万円を借り入れ、本所の自社工場の再建に充当した。1924年6月に操業を再開した新工場は、ロール15台と新聞輪転インキ製造機3台を備え、震災前の設備を上回った。
新工場の量産に見合う販路として、川村喜十郎氏は国内に加えて中国大陸の市場を選んだ。円の為替相場は1923年秋から下落し、輸入原料に依存するインキ業者は原料高と製品安に苦しんだ。1924年には中国・満洲向け取引の拠点だった大阪の南区塩町通りに大阪出張所を開設し、貿易商社の支配人だった今村均氏を所長に迎えた。川村喜十郎氏は同じ年に大連と天津を自ら訪れ、天津の成記紙行からは1925年にインキの仕入れ全量の切り替えを得た。1925年には大連に資本金10万円の販売会社、合資会社福盛号を設立した。大陸での販売網が、国内の原料高を吸収する量の出口として機能したのだろう。
1925年、川村喜十郎商店は不溶性アゾ系の有機顔料の自給に成功した。鮮やかな色調のインキには有機顔料が欠かせず、国の助成は繊維用染料に偏っていたため、求める品質の国産品は入手できなかった。川村喜十郎氏は、他社と同じく輸入顔料に依存すれば加工業にとどまり、品質で他社を上回れないと判断した。川村喜十郎商店はベタナフトールなどタール系の中間物を外部から買い入れ、顔料の合成からインキの練肉までを自社の工場で一貫して行う体制に移った。1928年に鉄筋コンクリートの研究室を新設し、1930年には中間物のC酸やトビアス酸の製造にも成功した。原料を内製する範囲を広げるほど、品質と原価を同時に管理できる構造に近づいたと推察される。
1932年5月、川村喜十郎商店は上海出張所を開設し、前年から上海の大同洋紙店に駐在していた渡辺道三郎氏を所長に任命した。日本の印刷インキ輸出の90%を占めた対中国向けは、銀相場の暴落と日本業者の安売りで1930年に2割、1932年に5割の減少。そうした中でも竜印インキの中国での販売は拡大を続け、1928年には大同洋紙店との特約で揚子江筋の拠点を確保した。上海出張所の開設で、中国人のインキ商を通じて長江一帯に流していた竜印・双獅子牌のインキは直接販売に切り替わった。川村喜十郎氏は1928年から外国語学校出の社員を採用し、大連・天津・上海などへ派遣した。市場全体が縮小する中で、仲介を外して販売と技術指導を直接担うことが販売量を保つ手段になったと考えられる。
1937年2月、川村喜十郎氏は個人商店の川村喜十郎商店を、資本金100万円の会社2社に改組した。化成品部門を分離した日本染料薬品製造と、本所・深川の印刷インキ部門を受け持つ大日本インキ製造の2社である。前段には1936年のフタロシアニン系青色顔料の国産化があり、川村喜十郎氏は中間物・染料・顔料の生産を拡張する方針を固めた。用水の得やすい板橋区志村に約7,300坪の用地を確保し、化成品の専門工場を建設。分離した事業の責任者には三井物産に勤めていた長男の川村勝巳氏を充て、川村勝巳氏は1937年に退社して常務取締役に就任した。印刷インキと化成品を別会社に分けたことで、原料部門を独立した事業として育てる体制が整ったと思われる。
1938年の国家総動員法の一部施行後、印刷機械の製造禁止や新聞用紙の供給制限が続き、印刷インキの需要は減少した。1944年には統制会と企業整備委員会の決議で日本染料薬品製造の軍需部門が分離され、呉羽紡績との合同で発足したのが呉羽化学工業である。残った顔料と中間物の部門は1944年9月に大日本インキ製造が吸収合併し、資本金は310万円となった。1945年3月10日の東京大空襲で、本所の本社事務所と工場は練肉機34台とともに焼失した。川村喜十郎氏は無傷で残った志村工場に印刷インキ部門を集結し、本社も37年間の拠点だった本所から志村へ移転させた。川村勝巳氏は呉羽化学工業を辞して復帰し、宮城県涌谷に疎開させていた大型ロール4台などを志村工場へ運び込んだ。
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事実根拠:出所(DIC)