| 期 | 区分 | 売上高 | 利益※ | 利益率 |
|---|---|---|---|---|
| 1950/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1951/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1952/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1953/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1954/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1955/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1956/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1957/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1958/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1959/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1960/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1961/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1962/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1963/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1964/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1965/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1966/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1967/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1968/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1969/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1970/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1971/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1972/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1973/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1974/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1975/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1976/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 608億円 | 8億円 | 1.3% |
| 1977/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 661億円 | 8億円 | 1.3% |
| 1978/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 663億円 | 6億円 | 0.9% |
| 1979/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 713億円 | 8億円 | 1.2% |
| 1980/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 906億円 | 9億円 | 1.0% |
| 1981/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,041億円 | 12億円 | 1.1% |
| 1982/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,091億円 | 14億円 | 1.2% |
| 1983/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,095億円 | 16億円 | 1.4% |
| 1984/4 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,121億円 | 18億円 | 1.6% |
| 1985/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1986/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1987/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1988/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1989/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1990/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1991/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1992/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1993/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1994/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1995/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1996/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | - | - | - |
| 1997/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,170億円 | - | - |
| 1998/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 2,150億円 | - | - |
| 1999/3 | 単体 売上高 / 当期純利益 | 1,978億円 | -28億円 | -1.5% |
| 2000/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,981億円 | 35億円 | 1.8% |
| 2001/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,996億円 | 56億円 | 2.8% |
| 2002/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,924億円 | 8億円 | 0.4% |
| 2003/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,978億円 | 52億円 | 2.6% |
| 2004/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 1,986億円 | 68億円 | 3.4% |
| 2005/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,028億円 | 71億円 | 3.5% |
| 2006/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,079億円 | 65億円 | 3.1% |
| 2007/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,258億円 | 74億円 | 3.3% |
| 2008/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,592億円 | 67億円 | 2.5% |
| 2009/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,396億円 | 18億円 | 0.7% |
| 2010/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,165億円 | 87億円 | 4.0% |
| 2011/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,273億円 | 143億円 | 6.2% |
| 2012/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,222億円 | 123億円 | 5.5% |
| 2013/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,333億円 | 200億円 | 8.5% |
| 2014/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,650億円 | 321億円 | 12.1% |
| 2015/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 2,605億円 | 1,814億円 | 69.6% |
| 2016/3 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 5,357億円 | 300億円 | 5.6% |
| 2016/12 | 連結 売上高 / 当期純利益 | 4,701億円 | 347億円 | 7.3% |
| 2017/12 | 連結IFRS 売上収益 / 当期利益 | 6,101億円 | 493億円 | 8.0% |
| 2018/12 | 連結IFRS 売上収益 / 当期利益 | 6,276億円 | 453億円 | 7.2% |
| 2019/12 | 連結IFRS 売上収益 / 当期利益 | 6,920億円 | 367億円 | 5.3% |
| 2020/12 | 連結IFRS 売上収益 / 当期利益 | 7,725億円 | 439億円 | 5.6% |
| 2021/12 | 連結IFRS 売上収益 / 当期利益 | 9,982億円 | 675億円 | 6.7% |
| 2022/12 | 連結IFRS 売上収益 / 当期利益 | 13,090億円 | 794億円 | 6.0% |
| 2023/12 | 連結IFRS 売上収益 / 当期利益 | 14,425億円 | 1,184億円 | 8.2% |
日本ペイントは国内初の洋式塗料メーカーとして技術的先発優位を確立したが、明治期の塗料需要が海軍の艦船向けに限定されていたため、民需市場の本格的な拡大は大正期まで約40年を要した。先発者であるがゆえに市場の未成熟という制約を引き受けざるを得ない構造は、技術革新が市場創造に直結しない場合の先発優位の限界を示す。競合の参入が5年遅れた事実もまた、市場の小ささ自体が参入障壁として機能していたことを裏付ける。
明治時代初頭に開成学校(現・東京大学)で化学を学んでいた茂木重次郎氏は、欧米で広く普及していた塗料の製造技術に着目した。ドイツ人化学者ワグネル氏から塗料製造の技術を学び、亜鉛華塗料の開発を経て日本初の洋式ペイントの実用化に成功した。1881年10月に東京芝区三田四国町にて共同組合「光明社」(現・日本ペイント)を創業し、国産塗料の製造と販売を開始した。
光明社の創業時における唯一の顧客は海軍であり、生産された製品の全量を納入する体制であった。海軍は艦船向け塗料の国産化を求めており、光明社が国内で初めて洋式塗料の実用化に至ったことから、国産製品育成の観点で発注に至った。工場を東京に設置した理由は、明治初期における海軍の拠点が横須賀のみであったことによる。
日本ペイントは塗料の国産化における先発企業であり、業界のパイオニアとして認知された。競合企業が現れたのは光明社の創業から5年後の1886年で、大阪で創業した大阪阿部ペイント製造所(現・大日本塗料)であった。明治期を通じて塗料の需要が海軍の船舶向けにほぼ限定されていたことが、競合参入の遅れと市場規模の制約の双方を生んだ。
日本ペイントは国産塗料の先駆者としての地位を確立したが、海軍以外の顧客基盤の開拓には長期にわたり苦戦した。塗料の民需市場が本格的に拡大するのは大正期以降の建築需要の増加を待つ必要があり、創業から約40年間は海軍への依存度が高い事業構造が続いた。市場そのものが未成熟な段階で創業した先発者が市場の成長を待ち続ける構図は、技術的な先発優位と商業的制約の併存を示すものであった。
日本ペイントは国内初の洋式塗料メーカーとして技術的先発優位を確立したが、明治期の塗料需要が海軍の艦船向けに限定されていたため、民需市場の本格的な拡大は大正期まで約40年を要した。先発者であるがゆえに市場の未成熟という制約を引き受けざるを得ない構造は、技術革新が市場創造に直結しない場合の先発優位の限界を示す。競合の参入が5年遅れた事実もまた、市場の小ささ自体が参入障壁として機能していたことを裏付ける。
日本ペイントが明治期に海軍拠点の地理的配置に合わせて選定した品川と大淀の工場は、海軍という顧客が消滅した戦後を経てもなお120年以上にわたり中核拠点として機能し続けている。創業期における不動産取得の判断が、その後の事業環境の変化にかかわらず企業の空間構造を固定化する力学がある。経営と所有の分離という株式会社化の副次的効果が、後の小畑家やウットラムといった外部者の経営参画を可能にした構造的素地ともなった。
明治時代を通じて海軍は艦艇根拠地を拡大し、従来の横須賀に加えて佐世保・呉など西日本地区を中心に拠点を新設した。海軍向け塗料の販売先が西日本に及ぶようになり、東京拠点のみでは事業展開に制約が生じた。生産・販売の地理的拡張が不可避となったことで、資金調達力の強化が経営課題として浮上した。
そこで1898年3月に日本ペイント製造株式会社を設立し、株式を通じて広く出資者を募ることで東京・大阪にそれぞれ大規模工場を新設する計画を立案した。設立時には150名が株主として出資し、経営と所有が分離する会社形態に移行した。社長には田坂初太郎氏が就任したが、安定的な経営体制の確立には数度の交代を経る必要があった。
株式会社設立と同時に東京における新工場の建設地を南品川に決定し、品川硝子製造所の跡地を取得して東京工場を新設した。この東京工場は2024年時点においても日本ペイントの東京事業所として稼働しており、126年にわたり活用されている。西日本地区においては1905年に大阪工場を新設し、水運の利便性に優れた新淀川沿いの大淀を立地に選定した。
東京・大阪の二大拠点体制の確立により、日本ペイントは海軍の全国拠点に対応する生産・供給体制を整備した。大阪工場は2024年時点で日本ペイントの大阪本社として機能しており、明治期の工場立地が現在の本社所在地を規定している。株式会社化による資金調達力の獲得が、東京・大阪の二拠点という日本ペイントの基本的な空間構造を形成した。
品川と大淀に設置された工場は、その後の事業拡大や組織変革を経てもなお日本ペイントの中核拠点として機能し続けた。明治期における海軍拠点の地理的配置に対応するために選定された工場立地が、海軍という顧客が消滅した戦後も含めて120年以上にわたり事業拠点であり続けている。創業期の不動産取得が企業の空間的構造を長期にわたり規定する力学を示している。
株式会社化に際して経営と所有を分離した構造は、後に小畑源三郎氏による経営参画を可能にする基盤ともなった。創業家ではない外部人材が株式取得を通じて経営に関与する道が開かれたことで、日本ペイントは創業者一族による支配から早期に離脱する体質を持つことになった。
日本ペイントが明治期に海軍拠点の地理的配置に合わせて選定した品川と大淀の工場は、海軍という顧客が消滅した戦後を経てもなお120年以上にわたり中核拠点として機能し続けている。創業期における不動産取得の判断が、その後の事業環境の変化にかかわらず企業の空間構造を固定化する力学がある。経営と所有の分離という株式会社化の副次的効果が、後の小畑家やウットラムといった外部者の経営参画を可能にした構造的素地ともなった。
小畑源三郎氏は経営危機の再建者として日本ペイントに参画し、株式取得により筆頭株主の地位を得たが保有比率は4%と極めて限定的であった。所有に基づかない経営支配が60年以上にわたり維持された背景には、他に有力な大株主が不在という株主構成の分散がある。この分散構造が、2000年代以降にウットラム社が株式取得を通じて経営支配を獲得する際の構造的な素地となり、日本ペイントのガバナンス変革の起点を準備した。
第一次世界大戦(〜1919年)における好景気を受けて、日本ペイントは国内各地に分工場を新設するなど設備投資を積極化した。しかし1919年の大戦終結により軍需を含む塗料需要が急減し、好況期に拡張した生産設備が過剰となった。設備投資の負担が収益を圧迫し、日本ペイントは創業以来最大の経営危機に陥った。
経営再建のため、大阪支店長を歴任した小畑源三郎氏が専務(経営トップ)に就任した。再建の骨子は、事業拠点の中心を東京から大阪に移転すること、不採算事業(亜鉛精錬・顔料など)の整理、全国各地に点在する分工場の閉鎖であった。小畑氏は拡張路線の後始末を担う再建者として経営の全権を掌握した。
小畑源三郎氏は経営再建と並行して日本ペイントの株式を自ら取得し、1926年4月末時点で筆頭株主(保有比率4%)となった。小畑氏は戦後の1958年まで日本ペイントの経営に関与し、1965年には長男の小畑千秋氏が社長に就任して1980年の会長退任まで経営トップを歴任した。結果として1917年から1980年にかけて小畑家が日本ペイントの経営を担う体制が約60年間にわたり継続した。
ただし小畑家の株式保有比率は一貫して限定的であり、所有に裏付けられた支配体制ではなかった。保有比率4%の筆頭株主という立場は、他に有力な大株主が不在という株主構成の分散を前提としていた。この資本的に脆弱な経営支配の構造こそが、2000年代以降にウットラム社が株式取得を通じて経営権を段階的に獲得する際の構造的な素地を形成した。
小畑源三郎氏は経営危機の再建者として日本ペイントに参画し、株式取得により筆頭株主の地位を得たが保有比率は4%と極めて限定的であった。所有に基づかない経営支配が60年以上にわたり維持された背景には、他に有力な大株主が不在という株主構成の分散がある。この分散構造が、2000年代以降にウットラム社が株式取得を通じて経営支配を獲得する際の構造的な素地となり、日本ペイントのガバナンス変革の起点を準備した。
自動車向け塗料は日本ペイントと関西ペイントの2社寡占が成立したが、自動車メーカーが意図的に2社購買体制を維持したことで、売り手側の価格交渉力は寡占の割に制約された。顧客工場に隣接して専門工場を新設する投資構造は取引関係を固定化する一方で、他顧客への転用が困難な資産特殊性を生んだ。国内自動車塗料の収益性の天井が、日本ペイントをアジア合弁事業という異なる成長経路に向かわせた構造的要因の一つである。
1950年代から1960年代にかけて国内の自動車生産台数が急増し、自動車向け塗料の市場が急成長した。日本ペイントと関西ペイントの2社が大手塗料メーカーとして自動車向けの納入を本格化させた一方、それまで業界3強を形成していた大日本塗料は自動車向けへの対応に出遅れた。結果として自動車向け塗料では「関西・日本」の2社による寡占が形成された。
自動車向け塗料の成長は、塗料業界の勢力図を書き換える転換点となった。海軍向けに始まり建築向けで拡大した塗料市場において、自動車向けは品質・供給体制の両面で新たな要求水準を突きつけた。自動車メーカーの厳格な品質管理に対応しうる技術力と、大量生産に対応する供給体制の双方を備えた企業だけが参入を果たし、業界の序列が再定義された。
日本ペイントは自動車メーカーの主力工場に近接する立地に自動車塗料の専門工場の新設を決定した。1967年に広島工場を新設してマツダ(宇品工場)向けの納入に対応し、同年に愛知工場(愛知県高浜市)を新設してトヨタ自動車向けの供給体制を整備した。顧客工場に隣接する立地を選定したのは、自動車向け塗料が品質管理と納入スピードの面で近接性を要求されるためであった。
一方で競合の関西ペイントも同様に名古屋・関東で工場を新設し、トヨタ・日産・ホンダとの取引を拡大した。日本ペイントが西日本・名古屋に軸足を置いたのに対し、関西ペイントは関東圏でも生産拠点を確保した。結果として自動車向け塗料は2社購買が常態化し、寡占的な市場構造でありながらも価格競争により収益の確保には制約が伴った。
自動車向け塗料における日本ペイントと関西ペイントの2社寡占は、業界内のポジションとしては安定的であった。しかし自動車メーカーが2社購買を意図的に維持する限り価格交渉力には限界があり、寡占的な市場構造であるにもかかわらず売り手側の収益性は制約された。買い手の交渉力が寡占の利益を相殺するという構造が、国内塗料市場における成長の天井を形成した。
この国内的な収益構造の制約が、後の日本ペイントにおけるNIPSEA事業への傾斜を促す一因となった。国内市場で競合と利益を分け合う構図から脱却するには市場そのものを拡張するか、競合が存在しない領域に進出するしかなく、アジア合弁事業という選択はこの制約への構造的な応答として位置づけられる。
自動車向け塗料は日本ペイントと関西ペイントの2社寡占が成立したが、自動車メーカーが意図的に2社購買体制を維持したことで、売り手側の価格交渉力は寡占の割に制約された。顧客工場に隣接して専門工場を新設する投資構造は取引関係を固定化する一方で、他顧客への転用が困難な資産特殊性を生んだ。国内自動車塗料の収益性の天井が、日本ペイントをアジア合弁事業という異なる成長経路に向かわせた構造的要因の一つである。
日本ペイントのアジア合弁事業は出資比率30%で開始され、半世紀以上にわたりマイノリティ出資の構造が維持された。NIPSEA事業がアジア各国で急成長しても利益の大部分は連結に反映されず、技術を提供しながら成長の果実を取り込めない制約が生じた。しかしこの制約と表裏一体であった呉清亮氏への裁量委譲こそが、欧米系が先行するアジア市場での急速な販路形成を可能にした要因であり、出資構造の制約が成長の条件でもあった。
日本ペイントは戦前に東南アジアにおける生産・販売網を構築していたが、1945年の敗戦により海外資産をすべて喪失した。1962年に日本ペイントの小畑千秋氏(当時専務)はシンガポールに出張し、東南アジアにおける現地販売の再強化を計画した。しかし東南アジアは歴史的に欧米の植民地であった背景から欧米系塗料メーカーがシェアを確保しており、日本ペイントが後発で参入する余地は限られていた。
さらにシンガポール政府が輸入塗料に20%の関税を課す方針と、塗料の合弁会社を1社だけ認める方針を表明したことが意思決定の時間的制約を生んだ。日本ペイントは欧米系企業に先んじて合弁パートナーを確保する必要に迫られ、タイの大手財閥チャロン・ポカパン社に勤務していた呉清亮(ゴー・チェンリャン)氏との接点を得た。
1962年から1963年にかけて日本ペイントはチャロン・ポカパン社と合弁会社を設立し、東南アジアへの再進出を果たした。出資比率は日本ペイント30%・現地企業60%・日系貿易会社10%とし、日本ペイントが技術・生産の指導を担い、現地企業が販売を担当する体制を構築した。のちに呉清亮氏がチャロン・ポカパン社から独立してウットラム社を創業したことで、合弁相手はウットラム社に継承された。
呉清亮氏の経営のもとでNIPSEA事業(Nippon Paint South East Asia)は急速に拡大し、1960年代から1970年代にかけてマレーシア・タイ・インドネシア・香港・フィリピンに相次いで進出した。日本ペイントのマイノリティ出資という構造は、現地経営を呉氏に委ねて技術供与を通じて関与するという役割分担を固定化した。
日本ペイントによるマイノリティ出資の構造は、2014年にNIPSEA事業の連結化が実現するまで半世紀以上にわたり維持された。出資比率が25〜50%にとどまったことで、NIPSEA事業がアジア各国で急成長してもなお利益の大部分は日本ペイントの連結決算には反映されなかった。技術供与の対価としてロイヤルティ収入は得られたが、成長の果実を十分に取り込めない構造が長期間にわたって固定化された。
一方で呉清亮氏およびウットラム社がNIPSEA事業の経営を主導したことこそが、アジア各国での市場開拓を可能にした要因でもあった。日本ペイントが経営権を握っていた場合に同等の成長を実現し得たかは不確実であり、マイノリティ出資という制約と引き換えに得た現地経営者の裁量が、NIPSEA事業の急成長を支えた側面がある。
日本ペイントのアジア合弁事業は出資比率30%で開始され、半世紀以上にわたりマイノリティ出資の構造が維持された。NIPSEA事業がアジア各国で急成長しても利益の大部分は連結に反映されず、技術を提供しながら成長の果実を取り込めない制約が生じた。しかしこの制約と表裏一体であった呉清亮氏への裁量委譲こそが、欧米系が先行するアジア市場での急速な販路形成を可能にした要因であり、出資構造の制約が成長の条件でもあった。
一番最初に感謝したいことは、(略)チャロン・ポカパンと日本ペイントが手を握れたということが、今日の東南アジアのグループの発展の大きな原動力といいますか、それに間違いないと思いますし、もっと深くと言いますか、率直に言えばチャロン・ポカパンにおられた呉清亮さんが日本ペイントのグループの仕事に熱意を示してくださったということ。これが今日のグループの発展の大きな原因だろうと私は思います。(略)
一番言いたいことは、チャロン・ポカパンと日本ペイントとの気持ちの上のつながりということが、今日の大きな発展のもとだと思います。これからもいつまでも手を繋いでやっていかなきゃなりませんが、チャロン・ポカパンとはこれまた離れたわけですね。今度はいよいよ呉さんとの、呉ファミリーと手を繋いでの仕事になっていく。
ゴー・チェンリャン氏が1982年に中国を次の主力市場と位置づけた判断は、東南アジアの成熟と欧米の参入困難という二つの制約から消去法的に導かれた選択であった。競合が未確立の市場に先行参入する方針は、1962年のシンガポール進出時にシンガポール政府の関税政策を契機として欧米系に先んじた経緯と通底する。市場経済導入前に成長可能性を見極めた先見は、10年後のNIPSEA中国事業の急成長として結実した。
1982年の時点でウットラム社の創業者であり、NIPSEAの経営者であるゴー・チェンリャン氏は、1960年代から展開してきた東南アジアにおける塗料事業の成熟化を予見した。すでに東南アジア各国で高いシェアを確保していたNIPSEAにとって、既存市場での成長余地は限られつつあった。ゴー氏は企業グループ全体では病院・百貨店などへの多角化を進める一方、塗料事業においては新たな成長市場の開拓を模索していた。
ゴー氏が中国市場に着眼した理由は、欧米市場では既に競合が確立されており参入が困難と判断したことにあった。1982年時点の中国は市場経済が導入されていなかったが、ゴー氏は将来的な市場化を予見して中国を次の主力市場と位置づけた。市場経済の導入前という段階で中国の成長可能性を見極めた判断は、NIPSEAが1990年代前半から中国進出を本格化する布石となった。
ゴー氏の予見に基づき、NIPSEAグループは1990年代前半から中国への進出を本格化した。中国の経済成長と都市化の進展により建築用塗料の需要が爆発的に拡大し、NIPSEAの中国事業は急成長を遂げた。中国市場はNIPSEA事業における売上・利益の最大の柱に育ち、グローバル展開の中核に位置づけられるようになった。
ゴー氏の中国市場への着眼は、欧米市場と東南アジア市場の双方に制約を感じた経営者が消去法的に残された最大の未開拓市場を選択したという構造的な判断であった。競合が確立されていない市場を選んで先行参入するという方針は、1962年のシンガポール進出時から一貫しており、中国進出はその延長線上に位置づけられる。NIPSEAの成長は先見性によるものであると同時に、競合回避という一貫した市場選択の帰結でもあった。
ゴー・チェンリャン氏が1982年に中国を次の主力市場と位置づけた判断は、東南アジアの成熟と欧米の参入困難という二つの制約から消去法的に導かれた選択であった。競合が未確立の市場に先行参入する方針は、1962年のシンガポール進出時にシンガポール政府の関税政策を契機として欧米系に先んじた経緯と通底する。市場経済導入前に成長可能性を見極めた先見は、10年後のNIPSEA中国事業の急成長として結実した。
NIPSEAグループの将来の発展につきましては、(略)塗料事業につきましては、一応私はある程度市場にもブランドその他浸透して、一応限界まで近づきつつあるんじゃないだろうかというふうに思っています。塗料部門の将来につきまして、東南アジア既存の市場では、ある程度限界まできた。また、そうかといって、ヨーロッパとかアメリカ、これは非常に難しい。そうしますと、やはり残されマーケットとしては中国市場。これは将来そういう資本主義的な考え方も入れて変わってくるであろうと思いますので、中国市場というのは一つの大きなマーケットだと思います。
塗料部門につきましては、今お話がありましたように、NPISEAグループのバックアップにつきましては、特に中国の市場というものをメインに考えておりますので、それにつきまして従来通りのご指導をいただきたい。同様に、技術的にもまた全般につきまして、従来と同様の御援助をNIPSEAグループについてお願いしたいと思います。
ウットラム社による日本ペイントへの資本参入は、50年以上にわたる合弁パートナー関係を基盤としており、完全な外部者による買収とは性質を異にする。友好的な資本提携として始まった関与は、取締役派遣・ガバナンス改革・過半数取得へと段階的に経営支配の深度を増していった。当初の経営陣続投という配慮が、結果として段階的な支配権移行を可能にする時間的猶予として機能した因果構造がある。
2010年代を通じて塗料業界ではグローバルな再編が進行した。リーマンショックにより先進国における自動車向け塗料の成長が鈍化し、塗料大手各社は新興国向けの建築用塗料に注力するために買収を積極化させた。オランダのAkzo Nobel、米国のPPG IndustriesやSherwin-Williamsといったグローバル大手が相次いで大型買収を実施し、業界の寡占化が加速した。
日本ペイントはこのグローバル再編において海外企業の買収に出遅れており、世界の塗料市場におけるシェアは約4%にとどまった。NIPSEA事業を通じたアジア市場の基盤は有していたものの、合弁構造ゆえに利益の取り込みが制約されており、グローバルな規模拡大競争において劣位に立たされていた。
再編が加速する業界環境のもと、2013年3月にアジア事業の合弁パートナーであり日本ペイントの大株主でもあるウットラム社(保有比率14.5%)から買収提案が寄せられた。ウットラム社は日本ペイントの株式45%の取得を望み、取得額は720億円規模と想定された。
買収提案を受け入れれば日本ペイントはウットラムの関係会社となり、経営における独立性を実質的に失うことを意味した。日本ペイントの経営陣は当初この提案に難色を示し、2013年時点では買収提案を退ける判断を下した。しかし提案から約1年後、日本ペイントはウットラムの出資比率引き上げを容認する決定に転じた。
この判断を実質的に主導したのは酒井健二氏(当時会長)であり、将来的なウットラムによる経営関与を見据えた分岐点となった。グローバル再編において単独での成長に限界があるとの認識が、独立性を譲歩する判断の背景にあったと推察される。
2014年6月に日本ペイントはウットラム社に対する第三者割当増資を実施して1023億円を調達し、ウットラム社の保有比率は39%に達した。日本ペイントは東京証券取引所への上場を維持したまま、ウットラムの関係会社となった。
ウットラムは日本ペイントに対する経営関与を強めるべく取締役2名の派遣を決定したが、既存の経営陣は続投する体制とした。即座に経営を掌握するのではなく取締役の派遣から着手するという段階的なアプローチは、50年以上にわたる合弁パートナーとしての関係を踏まえた配慮と推察される。
しかしこの穏当に見える関与は、2018年の独立社外取締役5名体制、2020年の指名委員会等設置会社への移行、2021年の第三者割当増資による保有比率58.7%への引き上げへと連なる経営支配の起点であった。
2014年の増資は、ウットラムが日本ペイントの経営権を段階的に獲得していく過程における最初の転換点として位置づけられる。50年の合弁関係を経て資本パートナーから経営支配者へと立場を変えたウットラムの参入は、日本ペイントの経営史における決定的な分岐を画した。
ウットラム社による日本ペイントへの資本参入は、50年以上にわたる合弁パートナー関係を基盤としており、完全な外部者による買収とは性質を異にする。友好的な資本提携として始まった関与は、取締役派遣・ガバナンス改革・過半数取得へと段階的に経営支配の深度を増していった。当初の経営陣続投という配慮が、結果として段階的な支配権移行を可能にする時間的猶予として機能した因果構造がある。
日本ペイントが合弁8社の連結化で計上した段階取得差益1488億円は、1962年のマイノリティ出資以来、半世紀にわたり連結決算に反映されてこなかった事業成長の含み益が一時に顕在化したものである。マイノリティ出資の期間が長期に及ぶほど含み益が蓄積され連結化時の差益が拡大する構造は、出資構造の変更が会計上の非連続的な利益をもたらす力学を示す。事業の実質的価値は以前から存在していたが、資本操作を契機に財務諸表に反映された。
2014年12月に日本ペイントはウットラム社と「戦略的提携」を締結し、1962年以来のアジア事業における合弁会社8社の連結化を決定した。合弁8社の展開地域は中国・マレーシア・シンガポールの3カ国であり、いずれも日本ペイントが25〜50%の株式を保有する非連結の関係会社であった。半世紀にわたるマイノリティ出資構造のもとでNIPSEA事業は急成長を遂げていたが、利益の大部分は日本ペイントの連結決算には反映されていなかった。
日本ペイントは合弁8社について保有比率を51%まで引き上げることで連結化を実現した。ウットラム社への第三者割当増資(2014年6月)からわずか半年後にアジア事業の連結化が決まったことは、増資によるウットラムとの関係深化とアジア事業の取り込みが一体の構想として設計されていたことを示唆する。
合弁8社の連結化にあたり日本ペイントは2965億円を取得原価として計上した。1960年代にマイノリティ出資で参画して以来、合弁会社の企業価値が大幅に増加していたことから、段階取得に係る差益として1488億円を特別利益に計上した。また取得に伴うのれんとして1904億円を計上した。
この会計処理は、半世紀にわたるマイノリティ出資期間中に蓄積された含み益が、連結化という資本操作を通じて一時に利益として顕在化する構造を示している。NIPSEA事業の長年の成長が日本ペイントの連結決算に反映されてこなかった分が、連結化を契機に差益として表面化した。
2016年3月期から日本ペイントはアジア事業における売上計上を開始した。地域別では中国における売上貢献が特に大きく、日本ペイントの連結売上高は連結化を境に大幅な増収を記録した。国内塗料市場の成熟が進むなかで、中国を中心とするアジア事業がグループの成長エンジンとして機能する構図が鮮明となった。
それまでロイヤルティ収入が中心であったアジア事業からの収益が連結売上・利益として直接計上されるようになったことで、日本ペイントは国内中心の塗料メーカーからアジア事業を収益の柱とする企業へと財務構造が転換した。
日本ペイントが合弁8社の連結化で計上した段階取得差益1488億円は、1962年のマイノリティ出資以来、半世紀にわたり連結決算に反映されてこなかった事業成長の含み益が一時に顕在化したものである。マイノリティ出資の期間が長期に及ぶほど含み益が蓄積され連結化時の差益が拡大する構造は、出資構造の変更が会計上の非連続的な利益をもたらす力学を示す。事業の実質的価値は以前から存在していたが、資本操作を契機に財務諸表に反映された。
日本ペイントのアジア事業は競合が未確立な市場に先行参入するモデルで成長してきたが、米国は既にSherwin-WilliamsやPPGなど大手が確固たるシェアを持つ成熟市場であった。1975年の現地法人設立に続く2度目の米国進出でも業績は伸び悩み、NIPSEA事業の成長モデルには地理的・競争環境的な適用限界があることが示された。アジアでの成長を米国に移植できないという制約は、日本ペイントのグローバル戦略の構造的課題として残った。
2017年に塗料業界ではグローバルな再編が本格化した。塗料そのものは差別化が困難な製品であることから、業界再編によって競合を減らし価格交渉力を強化する戦略が各社に共通していた。オランダのAkzo Nobel社が米国のAxalta Coating Systems社に買収を提案するなど、欧米を舞台とした大型再編が相次いだ。
日本ペイントはアジア事業の連結化により成長基盤を整えたものの、米国市場では存在感が乏しかった。米国は世界最大の塗料市場であり、グローバル展開を志向する日本ペイントにとって米国における事業基盤の構築は避けて通れない課題であった。1975年に米国現地法人を設立したものの成果は芳しくなく、改めて買収による参入を模索した。
日本ペイントは米国に本社を置くDunn-Edwards Corporation(DE社)に買収を提案した。DE社は1925年創業の老舗塗料メーカーであり、米国における建築用塗料の販路を有することが強みであった。日本ペイントはDE社を約687億円で買収し、米国市場への足がかりを確保した。
しかし買収後の米州事業の売上高は伸び悩んだ。NIPSEA事業では競合が未確立な市場に先行参入することで高い成長を実現してきたが、米国は大手塗料メーカーが確固たるシェアを持つ成熟市場であった。1975年の現地法人設立に続く2度目の米国進出においても成長軌道に乗せることができず、競合が確立された市場における日本ペイントの参入障壁の高さが改めて浮き彫りとなった。
日本ペイントのアジア事業は競合が未確立な市場に先行参入するモデルで成長してきたが、米国は既にSherwin-WilliamsやPPGなど大手が確固たるシェアを持つ成熟市場であった。1975年の現地法人設立に続く2度目の米国進出でも業績は伸び悩み、NIPSEA事業の成長モデルには地理的・競争環境的な適用限界があることが示された。アジアでの成長を米国に移植できないという制約は、日本ペイントのグローバル戦略の構造的課題として残った。
日本ペイントの経営陣による1兆円規模のAxalta買収提案は、グローバル展開の加速と同時に、有利子負債の積み上げによるウットラムの完全買収の困難化という防衛的意図を含んでいたと推察される。ウットラム側取締役がこの提案を否決した事実は、2014年の取締役派遣以降、大型投資案件に対する実質的な拒否権がウットラムに帰属する構造が形成されていたことを示す。買収提案に潜む二重の意図が読み取られた経緯は、両者の利害対立が水面下で進行していたことを浮き彫りにする。
日本ペイントの経営陣はAkzo Nobel社に対抗してグローバルの塗料事業を強化するため、米国の大手塗料メーカーAxalta Coating Systemsに対して買収を提案した。買収価格は1兆円規模と推定され、日本ペイントにとって過去最大の買収案件となることが見込まれた。グローバル再編が加速するなかで規模の確保が競争上の生存条件となりつつあるとの認識が経営陣の背景にあった。
この買収提案には、大規模な有利子負債を日本ペイントのバランスシートに積み上げることで、ウットラムによる日本ペイントの完全買収を困難にするという防衛的な意図も含まれていたと推察される。グローバル展開の加速とウットラムに対する経営独立性の確保という二重の目的が、1兆円規模という買収提案の規模に反映されていた。
ウットラムのゴー氏などから構成された日本ペイントの取締役会は、経営陣による1兆円規模の買収提案を否決した。取締役会が挙げた反対理由は、大規模買収に伴う有利子負債の増加により日本ペイントの財務体質が悪化することであった。しかし実質的な反対理由は、負債の積み上げによってウットラムが日本ペイントを完全買収する際の条件が悪化することを回避するためであったと推察される。
Axalta買収の否決は、日本ペイントの経営意思決定がすでにウットラムの影響下に置かれていることを可視化した出来事であった。2014年の増資でウットラムが取締役を派遣して以降、大型投資案件においてウットラムの利害が優先される構造が形成されており、経営陣が独立した判断で大型買収を実行する自由度は事実上制約されていた。
日本ペイントの経営陣による1兆円規模のAxalta買収提案は、グローバル展開の加速と同時に、有利子負債の積み上げによるウットラムの完全買収の困難化という防衛的意図を含んでいたと推察される。ウットラム側取締役がこの提案を否決した事実は、2014年の取締役派遣以降、大型投資案件に対する実質的な拒否権がウットラムに帰属する構造が形成されていたことを示す。買収提案に潜む二重の意図が読み取られた経緯は、両者の利害対立が水面下で進行していたことを浮き彫りにする。