1881年〜 光明社の創業から海軍依存と小畑家経営による国内事業基盤の確立
- 1881年協同組合「光明社」を創業
- 1898年日本ペイント製造株式会社を設立
- 1917年経営危機により体制刷新・小畑源三郎氏が専務就任
- 1922年建築向け塗料で特約店を形成
- 1927年商号を「日本ペイント」に改称
- 1931年本社を大阪に移転
- 1960年自動車向け塗料への進出
日本ペイントの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
海軍一社受注という出発点の脆弱性
開成学校で化学を学んだ茂木重次郎は、ドイツ人化学者ワグネルから塗料製造技術を習得し、まず1879年に亜鉛華の国産化に成功した。この亜鉛華を顔料に使った塗料の研究を経て、1881年10月に東京三田で共同組合「光明社」を創業し、顔料と堅練ペイントの製造を始めた。出資したのは海軍塗工長の中川氏と協力者の菊地氏で、わが国塗料工業の草分けとなったが、創業時の販路は海軍向けにほぼ集中した。明治政府が殖産興業政策で官営工場を民間へ払い下げた時代に、外国依存からの脱却をめざした国産化事業として始まったものの、塗料という工業製品の市場は狭く、民需へ裾野が広がるには明治の産業化を待たねばならなかった。 [1][2][3][4][5]
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]開成学校で化学を学んだ茂木重次郎が塗料製造技術を習得して光明社を創業した
- [2]茂木重次郎が1879年に亜鉛華の国産化に成功した
- [4]光明社の創業時の出資者は海軍塗工長の中川氏と協力者の菊地氏だった
- [5]光明社は顔料と堅練ペイントの製造を始めたわが国塗料工業の草分けだった
- 日本ペイント有価証券報告書【沿革】
- [3]1881年10月に「光明社」を東京三田で創業した
1885年には有力な出資社員として田坂初太郎を迎えて「光明合資会社」と改め、工場を芝三田から東京品川へ移した。これが品川の東京工場の前身である。1897年には株式会社設立の目論見を立て、株主150名を集めて1898年3月に日本ペイント製造株式会社を設立し、資本金40万円で発足した。1904年に日露戦争が起きると軍需用塗料の需要が急増し、東京の設備だけでは応じきれず、資本金を50万円へ増やして1905年に大阪浦江へ大阪分工場を新設した。海軍拠点の配置に合わせて選んだこれらの立地は、最大の顧客だった海軍が戦後に消えても事業拠点であり続け、品川工場は2024年時点でも東京事業所として120年以上稼働している。 [6][7][8][9][10]
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [6]1885年に田坂初太郎を出資社員に迎えて光明合資会社と改め工場を芝三田から東京品川へ移した
- [8]日本ペイント製造は株主150名を集めて資本金40万円で発足した
- [9]1904年の日露戦争で軍需用塗料の需要が急増し資本金を50万円へ増資して1905年に大阪浦江へ大阪分工場を新設した
- 日本ペイント有価証券報告書【沿革】
- [7]1898年3月に資本金40万円で日本ペイント製造株式会社を設立した
- [10]品川工場(東京工場)は2024年時点でも東京事業所として稼働を続けている
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]開成学校で化学を学んだ茂木重次郎が塗料製造技術を習得して光明社を創業した
- [2]茂木重次郎が1879年に亜鉛華の国産化に成功した
- [4]光明社の創業時の出資者は海軍塗工長の中川氏と協力者の菊地氏だった
- [5]光明社は顔料と堅練ペイントの製造を始めたわが国塗料工業の草分けだった
- [6]1885年に田坂初太郎を出資社員に迎えて光明合資会社と改め工場を芝三田から東京品川へ移した
- [8]日本ペイント製造は株主150名を集めて資本金40万円で発足した
- [9]1904年の日露戦争で軍需用塗料の需要が急増し資本金を50万円へ増資して1905年に大阪浦江へ大阪分工場を新設した
- 日本ペイント有価証券報告書【沿革】
- [3]1881年10月に「光明社」を東京三田で創業した
- [7]1898年3月に資本金40万円で日本ペイント製造株式会社を設立した
- [10]品川工場(東京工場)は2024年時点でも東京事業所として稼働を続けている
小畑家60年の経営が築いた自動車塗料の二社寡占
第一次世界大戦の好況期に積み増した設備は、1919年の大戦終結で軍需を含む塗料需要が急落すると過剰設備に転じ、戦後の大恐慌が創業以来最大の経営危機を招いた。再建の責任者として小畑源三郎が専務に就任し、不採算の分工場閉鎖と人員整理を断行する一方、経営の中心を東京から大阪へ移し、全国に特約店組織を築いて販売の基盤を固めた。この立て直しで同社は1年余りで難局を越え、業界の注目を集めた。小畑源三郎は1926年に筆頭株主の地位を得て1958年まで経営に関与し、1965年には長男の小畑千秋が社長に就き1980年の会長退任まで経営トップを務めた。小畑家は約60年にわたり日本ペイントの経営を担い、戦前の危機対応から戦後の自動車塗料事業への展開まで、オーナー経営の長期的な視点を事業構造に組み込んだ。 [11][12][13]
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [11]第一次世界大戦後の大恐慌で塗料需要が急落し創業以来最大の経営危機を招いた
- [13]危機対応として経営の中心を東京から大阪へ移し全国に特約店組織を築いて1年余りで難局を越えた
- 日本ペイント有価証券報告書
- [12]小畑源三郎が再建責任者として専務に就任した
大正期には建築向け塗料の需要が増えて海軍以外の用途が広がり、1927年に商号を日本ペイントへ改めた。第二次世界大戦の敗戦では満州や台湾に築いた海外会社・工場を失い、東洋一とされた大阪工場も二度の空襲で焼失したが、戦災を免れた東京工場の稼働と合わせて大阪工場も約4年で復旧した。1949年に東京証券取引所へ上場して資本調達の幅を広げ、1960年代に入ると自動車生産台数の急増で自動車向け塗料市場が拡大した。広島工場と愛知工場を新設してマツダとトヨタへの安定供給体制を整え、関西ペイントとともに国内自動車向け塗料の二社寡占を形づくる。しかし自動車メーカーが二社購買の原則を保つ限り塗料側の価格交渉力には限界があり、寡占でありながら売り手の収益性は高まらない矛盾が後年まで経営課題として残った。 [14][15][16][17][18]
- 日本ペイント有価証券報告書
- [14]1927年に商号を日本ペイントへ改めた
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [15]第二次世界大戦の敗戦で満州や台湾に築いた海外会社・工場を失い東洋一とされた大阪工場も二度の空襲で焼失したが約4年で復旧した
- 日本ペイント有価証券報告書【沿革】
- [16]1949年に東京証券取引所に上場した
- [17]広島工場と愛知工場を新設してマツダとトヨタへの自動車塗料の安定供給体制を整えた
- [18]関西ペイントとともに国内自動車向け塗料の二社寡占を形成した
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- [11]第一次世界大戦後の大恐慌で塗料需要が急落し創業以来最大の経営危機を招いた
- [13]危機対応として経営の中心を東京から大阪へ移し全国に特約店組織を築いて1年余りで難局を越えた
- [15]第二次世界大戦の敗戦で満州や台湾に築いた海外会社・工場を失い東洋一とされた大阪工場も二度の空襲で焼失したが約4年で復旧した
- 日本ペイント有価証券報告書
- [12]小畑源三郎が再建責任者として専務に就任した
- [14]1927年に商号を日本ペイントへ改めた
- 日本ペイント有価証券報告書【沿革】
- [16]1949年に東京証券取引所に上場した
- [17]広島工場と愛知工場を新設してマツダとトヨタへの自動車塗料の安定供給体制を整えた
- [18]関西ペイントとともに国内自動車向け塗料の二社寡占を形成した