明治時代初頭に開成学校(現・東京大学)で化学を学んでいた茂木重次郎氏は、欧米で普及していた「塗料」に着目。塗料の製造技術をドイツのワグネル氏から学び、亜鉛華塗料の開発に着手していた。
そして、茂木氏は日本初の洋式ペイントの実用化に成功。明治14年(1881年)10月に東京芝区三田四国町(港区芝3-2-1)にて共同組合「光明社」(現・日本ペイント)を創業した。
光明社の創業時点における顧客は海軍であり、生産された製品の全量を納入していた。これは、海軍が艦船向け塗料を求めており、国内で初めて光明社が実用化に成功したことを受けて、国産製品の育成の観点から発注するに至った。東京に工場を設置した理由は、明治初期における海軍の拠点は横須賀のみであったためである。
日本ペイントは塗料の国産化に先発しており、業界のパイオニアとして認知された。競合企業の出現は、光明社の創業から5年が経過した明治21年に大阪で創業された「大阪阿部ペイント製造所(現・大日本塗料)」であった。
競合がなかなか出現しなかった理由は、明治初期における塗料のニーズが、海軍の船舶向けに限られていたことが理由であった。このため、日本ペイント(光明社)は国産化の先駆者である一方で、創業期は海軍以外の顧客開拓には苦戦した。
明治時代を通じて海軍は艦艇根拠地を拡大。従来は横須賀のみであったが、佐世保、呉など、天然の良港が存在する西日本地区を中心に拠点を新設した。これを受けて海軍向けの塗料の販売先は西日本に及ぶようになり、日本ペイントの東京拠点のみでは事業展開に制約が生じるようになった。
そこで、1898年(明治31年)3月14日に日本ペイント製造を株式会社として設立した。株式を通じて広く出資者を集めることにより、東京・大阪にそれぞれ大規模工場を新設する計画を立案した。
会社設立に際しては、150名が株主として出資し、日本ペイントは経営と所有が分離する会社形態となった。社長には田坂初太郎氏が就任したが、小畑氏が就任するまでの間は、何度かの交代を経ている。
日本ペイントは、会社設立と同時に、東京における新工場の建設地を南品川地区に決定。品川硝子製造所の工場跡地を取得し、同地に東京工場を新設した。2024時点においても、日本ペイントの東京事業所として活用されている。
また、西日本地区においては、1905年(明治38年)に日本ペイントは大阪工場を新設し、西日本地区における生産拠点として稼働。工場立地は水運の利便性が良い新淀川沿いの大淀を選定した。2024年時点において、日本ペイントの大阪本社として活用されている。
第一次世界大戦(〜1919年)における好景気を受けて、日本ペイントは国内各地に分工場を新設するなど、設備投資を積極化したが、1919年の戦争終結により需要が減少。設備投資が重荷となり、日本ペイントは経営危機に陥った。
経営再建のため、日本ペイントで大阪支店長を歴任した小畑源三郎氏が専務(経営トップ)に就任し、経営体制を発足。再建の骨子は、事業拠点の中心を東京から大阪に移転することや、不採算事業の整理(亜鉛精錬・顔料など)、全校区各地に点在する分工場の閉鎖であった。
小畑源三郎氏は日本ペイントの再建と同時に、自身でも日本ペイントの株式を取得。1926年4月末時点で、小畑源之助氏は日本ペイントの筆頭株主(保有比率4%)となった。小畑源之助氏は、戦後の1958年まで日本ペイントの経営に関与した。
また、1965年には長男である小畑千秋氏が日本ペイントの社長に就任し、1980年に会長を退任するまでトップを歴任した。このため、1917年から1980年にかけて、日本ペイントの経営体制は小畑家が担当する形となった。ただし、一貫して小畑家の株式保有比率は限定的であり、所有に裏付けられた経営体制ではなかった。
大正時代を通じて建築向け塗料の需要が増大し、海軍以外の塗料用途が出現した。ただし、海軍向けが大口顧客なのに対して、建築向けは顧客が分散するため、販売網の形成が焦点となった。
そこで、日本ペイントは、建築向けの汎用塗料の販売強化のため、全国で特約店組織「大黒会・恵比寿会」を通じた販路を形成した。販売店が日本ペイントの株式を少数保有することにより、製造・販売の利害一致を図った。
1950年代から1960年代にかけて、国内における自動車生産台数が急増し、自動車向け塗料の市場が急成長した。
これを受けて、日本国内では日本ペイントと関西ペイントの2社が、大手塗料メーカーとして自動車向けの納入を本格化。それまで業界3強を形成していた大日本塗料は自動車向けに出遅れたこともあり、結果として自動車向け塗料では「関西・日本」の2社による寡占が形成された。
日本ペイントでは自動車メーカーの主力工場に近い地域に、自動車塗料の専門工場の新設を決定。1967年には、自動車向け塗料の専門工場として広島工場を新設し、マツダ(宇品工場)向けに納入に対応。1970年には同じく愛知工場(愛知県高浜市)を新設し、トヨタ自動車向けの納入に対応した。
一方で、関西ペイントも自動車向け塗料の工場新設で対応。日本ペイントが「マツダ」「トヨタ」などの、西日本・名古屋地域で生産体制を拡充したのに対し、関西ペイントは名古屋・関東で生産体制を拡充することで「トヨタ」「日産」「ホンダ」との取引を拡大した。このため、自動車向け塗料では業界2強体制となったが、実質的には2社購買されるため、収益の確保には苦戦したと推定される。
1962年に日本ペイントの小畑千秋氏(当時専務・のちの社長)は、シンガポールに出張し、東南アジアにおける現地販売の強化を計画した。日本ペイントとしては、戦前に東南アジアにおける生産・販売網を構築したものの、1945年の敗戦により資産を喪失しており、改めて東南アジアに進出を図るという意図があった。
ところが、東南アジアは歴史的に欧米の植民地という背景により、欧米系企業が塗料メーカーとしてシェアを確保しており、日本ペイントが後発で参入する余地が小さいという課題に直面した。
そこで、現地における強力な販路を持つ、タイの大手財閥「チャロン・ポカパン社(通称CP社・当時は呉清亮氏が勤務)」と合弁会社「パン・マーレシア・ペイント」を1962年〜1963年ごろに設立し、東南アジアへの進出を果たした。なお、呉清亮氏がチャロン・ポカパン社から独立したことを受けて、日本ペイントの合弁相手は呉氏が創業したウットラム社に継承された。このため、ウットラム社との協業開始は1962年とされる。
合弁会社の出資比率は日本ペイント30%・現地企業60%・日系貿易会社10%(のちに日本ペイントが株式取得)とし、日本ペイントが技術や生産に関する指導を行う代わりに、現地企業が販売を担当する体制を取る方針が決まった。日本ペイントによるマイノリティー出資は、2014年にNIPSEA事業の連結化まで続いた。
なお、進出の後押しになったのが、シンガポールにおける政府事情であった。輸入塗料に20%の税金をかけることや、塗料の合弁会社を1社だけ認める方針を表明し、日本ペイントとしては合弁会社設立の意思決定を素早く行う必要性に迫られていた。
1962年以降、東南アジアにおける塗料事業は、日本ペイントにおいて「NIPSEA事業(Nippon Paint South East Asia)」として推進されたが、経営は呉清亮(ゴーチェンリャン)が担った。ゴー氏は1960年代から1970年代にかけて、東南アジア各国に進出して販路を形成した。これにより、日本ペイントのNIPSEA事業は急成長を遂げた。
一番最初に感謝したいことは、(略)チャロン・ポカパンと日本ペイントが手を握れたということが、今日の東南アジアのグループの発展の大きな原動力といいますか、それに間違いないと思いますし、もっと深くと言いますか、率直に言えばチャロン・ポカパンにおられた呉清亮さんが日本ペイントのグループの仕事に熱意を示してくださったということ。これが今日のグループの発展の大きな原因だろうと私は思います。(略)
一番言いたいことは、チャロン・ポカパンと日本ペイントとの気持ちの上のつながりということが、今日の大きな発展のもとだと思います。これからもいつまでも手を繋いでやっていかなきゃなりませんが、チャロン・ポカパンとはこれまた離れたわけですね。今度はいよいよ呉さんとの、呉ファミリーと手を繋いでの仕事になっていく。
海外進出を意図して、アメリカに現地法人を設立した。だが、東南アジア事業とは違い、すでに競合メーカーが現地に存在したアメリカへの進出の成果は芳しくなかった。
このため、日本ペイントによる単独のグローバル化路線は行き詰まった。
1982年の時点でウットラム社の創業者であり、NIPSEAの経営者であるゴー・チェンリャン(呉清亮)氏は、それまで展開してきた東南アジアにおける塗料事業の成熟化を予見した。
ゴー氏が経営する企業グループ全体としては塗料以外の多角化(病院・百貨店など)を図る一方、NIPSEAを通じた塗料事業においては、中国市場の発展を予見した。1982年当時の中国は市場経済が導入されていなかったが、ゴー・チェンリャン氏はこの時点で市場家を予見していたことを意味する。
ゴー・チェンリャン氏が中国市場に着眼した理由は、すでに競合が存在する欧米市場を難しい市場と判断したことが背景にあった。このため、市場経済が導入途上にある中国に注力することにより、塗料事業のグローバル展開に注力する姿勢を打ち出した。
NPISEAグループとしては、1990年代前半から中国への進出を本格化。その後、NIPSEAの展開地域のうち、中国における売上・利益が急成長したことから、NIPSEAは中国市場の攻略がグローバル化に寄与する形となった。
NIPSEAグループの将来の発展につきましては、(略)塗料事業につきましては、一応私はある程度市場にもブランドその他浸透して、一応限界まで近づきつつあるんじゃないだろうかというふうに思っています。塗料部門の将来につきまして、東南アジア既存の市場では、ある程度限界まできた。また、そうかといって、ヨーロッパとかアメリカ、これは非常に難しい。そうしますと、やはり残されマーケットとしては中国市場。これは将来そういう資本主義的な考え方も入れて変わってくるであろうと思いますので、中国市場というのは一つの大きなマーケットだと思います。
塗料部門につきましては、今お話がありましたように、NPISEAグループのバックアップにつきましては、特に中国の市場というものをメインに考えておりますので、それにつきまして従来通りのご指導をいただきたい。同様に、技術的にもまた全般につきまして、従来と同様の御援助をNIPSEAグループについてお願いしたいと思います。
1980年代を通じて新規事業の立ち上げを行い、1991年ごろには半導体向けフォトレジスト・液晶向けカラーフィルター・ICパッケージ絶縁素材などの商用化を試みた。
しかし、これらの新事業は、日本ペイントの主軸にはならず、軒並み失敗に終わった。1999年には液晶カラーフィルターの事業売却を模索していた。
新規事業の不振と、既存事業における成長鈍化により、1999年3月期に最終赤字28億円(売上高1978億円)に転落した。
また、海外事業は軌道に乗らず、グローバル化の潮流にも乗り遅れる形となった。
このため、日本ペイントの人員に余剰が生じたため、日本ペイントはグループの人員を10%削減する方針を発表した。
バブル崩壊と国内の人口減少による新築物件数の減少により、汎用塗料の業績が低迷した。このため、販社の業績が悪化したため、2004年に日本ペイントの地域販社の再編を実施した。
ゴー・チェンリャンの息子であるゴー・ハップジン氏が経営するFIRST INDUSTRIES CORP(ゴー・チェンリャンが創業したWuthelamの子会社)が、日本ペイントの株式を取得して筆頭株主となった。
当時の日本ペイントは国内市場の停滞を受けて、株価と業績が低迷していた。
この株式取得が、ウットラムによる日本ペイント買収の布石となる。
2010年代を通じて塗料業界ではグローバルな再編が進行。リーマンショックにより自動車向け塗料の成長が鈍化し、塗料大手の各社が新興国向けの建築用塗料に注力するために買収を積極化した。これに対して、日本ペイントは海外企業の買収に出遅れており、グローバルな塗料市場におけるシェアは約4%と低迷した。
再編が進行する業界情勢において、2013年3月に日本ペイントは、アジア事業の合弁パートナーであり、日本ペイントの大株主であるウットラム社(2013年時点で14.5%を保有)から買収提案を受けたことを公表した。この決定を呑めば、日本ペイントはウットラムの関係会社になることを意味し、経営における独立性を失うことを意味した。
ウットラム社としてはグローバル展開のために、日本ペイントの株式45%(取得額720億円想定)を保有することを望んでおり、買収提案に至った。ただし、ウットラム社は、日本ペイントと50年以上にわたるアジア事業の合弁パートナーであり、友好的な買収を望んだ。
買収提案に対して、日本ペイントの経営陣は難色を表明。2013年の時点において、日本ペイントはウットラムの買収提案を退ける形をとった。
ウットラム社の買収提案から約1年が経過した時点で、日本ペイントはウットラムの株式取得を認めることを決定。ウットラムによる出資比率引上げ容認を決断したのは、日本ペイントの酒井健二氏(当時会長)であり、実質的に将来のウットラムによる日本ペイントの経営支配を見据えた分岐点となった。
2014年6月に日本ペイントは第三者割当増資を実施して1023億円の資本調達を実施し、ウットラム社が日本ペイントの株式を合計39%保有する筆頭株主となった。第三者割当増資によって、日本ペイントはウットラムの関係会社となった。増資後も日本ペイントは日本国内における株式上場は維持した。
なお、ウットラムは日本ペイントに対する経営支配を強めるために、取締役2名の派遣を決定。ただし、株式取得後も日本ペイントの経営陣は続投する体制をとり、経営支配に関しては取締役の派遣にとどめた。これは、日本ペイントの経営陣に対する配慮と推定される。
2014年12月に日本ペイントは、1962年以来のアジア事業における合弁パートナーであるウットラム社(WUTHELAM HD)と「戦略的提携」の締結を実施。同時に日本ペイントHDは、ウットラム社のアジア合弁事業の買収(合弁8社の連結化)を決定した。
合弁8社の展開地域は、中国・マレーシア・シンガポールの3カ国であった。いずれも、日本ペイントHDが25%〜50%の株式を保有(非連結)していたが、2014年12月に合弁8社について、保有比率を51%まで引き上げることにより連結化。アジア事業の売上高を日本ペイントHDが計上することにより、連結効果による増収を確保した。
合弁8社の買収により、日本ペイントHDは2965億円を取得原価①として計上。このうち「取得するに至った取引ごとの取得原価」として1477億円②を計上し、①と②の差分を「段階取得に係る差益」として1488億円を特別利益として計上した。また、取得による「のれん」として1904億円を計上した。
合弁事業の取得によって利益計上した理由は、アジア合弁事業を1960年代にスタートしており、2014年度までに子会社に対して含み益をもつ状態であり、結果としてアジア合弁の買収における時価評価に際して、差益発生分を利益計上したと推定される。
アジア合弁事業の連結化により、2016年3月期から日本ペイントHDは、アジア事業における売上計上を開始した。地域別では中国における売上貢献が大きく、日本ペイントHDにおける海外事業の増収に寄与した。
2017年から塗料業界ではグローバルにおいて業界再編が本格化した。塗料そのものは差別化が難しいことから、業界再編によって競合を減らし、価格交渉力を強めることを意図したものであった。
2017年にオランダに本社を置く世界トップの塗料メーカーAkzo Nobel社が、米国のAxalta Coating Systems社に買収を提案し、再編の機運が高まった。
日本ペイントは、アジア事業に続いて、米国事業を強化するために、米国に本社を置くDunn-Edwards Corporation(DE社)に対して買収を提案した。
DE社は1925年に創業したアメリカにおける老舗の塗料メーカーであり、建築塗料に関して販路を持つことが強みであった。
最終的に、日本ペイントはDE社を約687億円で買収した。
ただし、買収後の日本ペイントの米州事業の売上高は伸び悩んでいる。
日本ペイントは、Akzo Nobel社に対抗して、グローバルで塗料事業を強化するために、米国の大手塗料メーカーAxalta Coating Systemsに買収を提案した。買収価格は1兆円規模と推定され、日本ペイントにとっては大型買収となることが予想された。
隠れた意図としては、大規模買収によって有利子負債を日本ペイントのBSに溜め込むことによって、ウットラムが日本ペイントの買収を諦めるように仕掛けた側面もあると思われる。
しかし、ウットラムのゴー氏などから構成された日本ペイントの取締役会は、経営陣による買収提案を拒否し、1兆円の買収提案は破談となった。
取締役会は、日本ペイントの経営陣が提案した買収について、1兆円の買収によって日本ペイントの財務体質が悪化することを理由に反対した。ただし、最大の理由はウットラムにとって、日本ペイントの買収条件が悪くなることを避けるためであったと推察される。
ウットラムと日本ペイントにおける親子上場など、企業経営上の複雑性を伴うことから、投資家(少数株主の保護)に向けたガバナンスを強化
日本ペイントは、アジア事業に続いて、オセアニア事業を強化するために、豪州に本社を置くDuluxGroupを約3000億円で買収した。
日本ペイントHDは筆頭株主であるウットラム社に対する第三者割当増資により、1.3兆円の資金調達を決定。これにより、ウットラム社は日本ペイントHDの株式を合計58.7%保有し、日本ペイントHDはウットラム社の子会社となった。
日本ペイントHDの狙いは、NIPSEA事業(ウットラム社)との合弁事業の取り込み(通称:アジア合弁事業100%化)にあり、NPISEA事業の各合弁会社に対する出資比率を従来の51%から100%に引き上げた。