1881年、茂木重次郎が日本初の塗料メーカーとして光明社を創業し、海軍向け塗料の製造販売で事業基盤を築いた。1917年の経営危機を経て小畑家が約60年にわたり経営を担い、自動車向け塗料で関西ペイントとの二社寡占を形成した。1962年にシンガポールで合弁事業NIPSEAを開始し、ウットラム家との協業で東南アジア・中国市場を開拓。2014年にウットラムの第三者割当増資を受け入れてアジア合弁事業の連結化を進め、2021年の増資で同社の出資比率は過半に達した。豪Dulux社やCromology HDの大型買収を経て、国内塗料メーカーからグローバル塗料企業への構造転換が進行している。
歴史概略
1881年〜1961年国産塗料の先駆者
光明社の創業と海軍依存の事業構造
開成学校で化学を学んだ茂木重次郎は、ドイツ人化学者ワグネルから塗料製造技術を習得し、1881年10月に東京芝区三田四国町で共同組合「光明社」を創業した。日本初の洋式ペイントの国産化であったが、創業時の唯一の顧客は海軍であり、塗料需要が船舶向けにほぼ限定されていたことが市場規模の制約を生んだ。競合が現れたのは創業から5年後の1886年で、大阪で創業した大阪阿部ペイント製造所(現・大日本塗料)であった。
1898年3月に日本ペイント製造株式会社を設立し、品川に東京工場、1905年に大淀に大阪工場を新設して二大拠点体制を確立した。品川工場は2024年時点でも東京事業所として稼働しており、126年にわたり活用されている。海軍拠点の地理的配置に対応するために選定された立地が、海軍という顧客が消滅した戦後も含めて事業拠点であり続けた。
経営危機と小畑家の経営体制
第一次世界大戦の好況期に設備投資を積極化したが、1919年の大戦終結で軍需を含む塗料需要が急減し、拡張した生産設備が過剰となって創業以来最大の経営危機に陥った。再建のため大阪支店長を歴任した小畑源三郎が専務に就任し、分工場の閉鎖と人員整理による事業縮小を断行した。小畑は1926年時点で筆頭株主となり、1958年まで経営に関与。1965年には長男の小畑千秋が社長に就任して1980年の会長退任まで経営トップを歴任し、小畑家が約60年にわたり日本ペイントの経営を担った。
大正時代を通じて建築向け塗料の需要が増大し、海軍以外の用途が出現した。1949年に東京証券取引所に上場し、1960年代に入ると自動車生産台数の急増に伴い自動車向け塗料市場が拡大した。日本ペイントは広島工場と愛知工場を新設してマツダ・トヨタ向けの供給体制を整備し、関西ペイントとの二社寡占を形成した。しかし自動車メーカーが二社購買を維持する限り価格交渉力には限界があり、寡占的構造でありながら売り手側の収益性は制約された。
1962年〜2013年NIPSEA事業とアジアの成長
東南アジア合弁事業の開始とウットラム家との協業
1962年、小畑千秋がシンガポールに出張し、東南アジアにおける販売再強化を計画した。しかし欧米系塗料メーカーが既にシェアを確保しており、後発参入の余地は限られていた。チャロン・ポカパン社と合弁会社を設立し、出資比率は日本ペイント30%・現地企業60%・日系貿易会社10%とした。のちに呉清亮がチャロン・ポカパン社から独立してウットラム社を創業し、合弁相手はウットラム社に継承された。
日本ペイントが技術と生産を指導し、現地企業が販売を担う分業体制のもと、NIPSEAグループは「競合のいない市場」を選んで先行参入する戦略を60年にわたり継続した。マイノリティ出資の構造は2014年の連結化まで半世紀以上維持され、NIPSEA事業がアジアで急成長しても利益の大部分は日本ペイントの連結決算に反映されなかった。技術供与の対価としてロイヤルティ収入は得られたが、成長の果実を十分に取り込めない構造が固定化された。
中国市場への注力と国内事業の停滞
1982年、ウットラムの創業者ゴー・チェンリャンは東南アジア市場の成熟化を予見し、塗料事業における新たな成長市場として中国を指向した。1990年代前半からNIPSEAグループは中国進出を本格化し、都市化の進展による建築用塗料の需要爆発を捉えて急成長を遂げた。中国事業はNIPSEAの売上・利益の最大の柱に育ち、グローバル展開の中核に位置づけられるようになった。
一方、日本ペイント本体は1991年に半導体・液晶材料の開発に着手したが事業化は頓挫し、1999年には最終赤字28億円に転落してグループ人員の10%削減を実施した。2004年に販売会社5社を合併して日本ペイント販売を設立するなど国内事業の合理化を進めたが、成長の原動力はアジアにありながら出資比率の制約で連結に取り込めないという構造的な矛盾が続いた。2007年にはゴー・チェンリャンの息子ゴー・ハップジンが経営するFIRST INDUSTRIES CORPが筆頭株主となった。
資本の逆転とグローバル塗料企業への転換(2014〜現在)
ウットラムの第三者割当増資とアジア事業の連結化
2014年6月、日本ペイントはウットラムHDに対する第三者割当増資を決定した。この判断を実質的に主導したのは酒井健二会長であり、将来的なウットラムによる経営関与を見据えた設計であったとされる。同年12月にはアジア合弁事業8社の連結化を実施し、取得原価2965億円のうち1488億円を段階取得に係る差益として特別利益に計上した。半世紀にわたるマイノリティ出資期間中に蓄積された含み益が、一時に利益として顕在化した。
2014年10月に日本ペイントホールディングスに商号変更し、2016年3月期からアジア事業の売上計上を開始した。中国を中心とするアジア事業がグループの成長エンジンとして機能する構図が鮮明となった。出資比率30%の合弁パートナーが60年後に親会社となるという資本の逆転構造が、2018年の独立社外取締役5名体制、2020年の指名委員会等設置会社への移行を経て段階的に進行した。
欧米買収と完全子会社化への道
2017年に米Dunn-Edwards社を約687億円で買収して米国市場への足がかりを確保したが、同年に試みた米Axalta Coating Systemsの1兆円規模の買収は取締役会で否決された。否決の背景には、大規模買収に伴う有利子負債の増加がウットラムによる完全買収の条件を悪化させることへの懸念があったとされる。2019年には豪Dulux社を約3000億円で買収してオセアニア事業を強化した。
2021年1月、ウットラム社に対する第三者割当増資で1.3兆円を調達し、アジア合弁事業の完全子会社化を実現した。ウットラムの出資比率は過半に達し、日本ペイントは実質的にウットラムグループの中核事業会社としての位置づけを明確にした。2022年には欧州建築用塗料シェア4位のCromology HDを1506億円で買収し、アジア・オセアニア・欧州にまたがるグローバル塗料企業への転換が進行している。
日本ペイントは国内初の洋式塗料メーカーとして技術的先発優位を確立したが、明治期の塗料需要が海軍の艦船向けに限定されていたため、民需市場の本格的な拡大は大正期まで約40年を要した。先発者であるがゆえに市場の未成熟という制約を引き受けざるを得ない構造は、技術革新が市場創造に直結しない場合の先発優位の限界を示す。競合の参入が5年遅れた事実もまた、市場の小ささ自体が参入障壁として機能していたことを裏付ける。