日本ペイントの最初の80年は、買い手を一つしか持たない会社が、買い手を選べる会社へ変わるまでの時間だった。茂木重次郎が1881年に興した光明社は海軍塗工長の出資で始まり、販路も海軍にほぼ限られていた。塗料を大量に使う産業が軍のほかに育っていなかったからで、国産化という志と軍需という単一の需要は、創業の時点で分かちがたく結ばれている。日露戦争に合わせた増資も、満州と台湾へ会社を建てた1930年代の外地進出も、軍の版図が広がるのに沿って事業の版図が広がった動きだった。そして1945年、軍が消えると在外資産も一切が消えた。
原料の自給が畳まれていく過程は、この会社が何に縛られていたかを逆から示している。欧州大戦で輸入が途絶えた1915年、日本ペイント製造は福島県野沢町と埼玉県大宮町で亜鉛の精錬を始めた。買えないものは自分で作るほかなかったからである。それから40年余りを経て専門メーカーから高品質の顔料を自由に買えるようになると、1959年までに亜鉛華の炉はすべて閉じられた。自給は強さの証ではなく、調達の不確かな時代に払っていた代金だった。買えるものを買い、その資本を合成樹脂塗料と新しい工場へ回せるようになったとき、軍需に縛られていた会社はようやく民需の産業として立ち直った。
茂木重次郎は、開成学校で化学を学び、ドイツ人化学者ワグネルから塗料製造の技術を習得した技術者である。実兄の春太とともに明治の初年から顔料とペイントの製造を研究し、春太が研究の途上で没した後も一人で続けた。1879年に亜鉛華の国産化に成功し、これを顔料に使う塗料の研究を経て、1881年10月、同志とともに共同組合"光明社"を東京芝三田四国町に興して顔料と堅練ペイントの製造を始めた。出資したのは海軍塗工長の中川氏と協力者の菊地氏で、わが国塗料工業の草分けとなったが、創業時の販路は海軍にほぼ集中した。塗料を大量に使う産業が軍のほかにまだ育っておらず、国産化の志は最初から一つの買い手に縛られていた。
光明社は1895年に光明合資会社へ改組して資本金を6万円とし、翌1896年には10万円へ増やしたうえで品川に新工場を設けて移った。この品川工場が東京工場の前身である。1898年には株主150名を集めて資本金40万円の株式会社に改め、商号を日本ペイント製造とした。1904年に日露戦争が始まると軍需用塗料の需要が急増し、東京の設備だけでは応じきれなくなったため、資本金を50万円へ増額して大阪府西成郡鷺洲町浦江に大阪分工場を起こし、翌1905年8月に完成させた。需要はその後も急速に伸びて供給が追いつかず、1906年にはさらに資本金を150万円へ積み増している。
1914年に欧州大戦が起こると海外製品の輸入が途絶え、日本ペイント製造の塗料は国内はもとより海外市場へも出るようになった。輸入の止まった原料をどう確保するかが次の問題になり、1915年には工場を広げると同時に、福島県野沢町と埼玉県大宮町で亜鉛の精錬を始めて原料の自給に踏み込んだ。顔料から塗料まで自社で作る体制は、輸入が断たれた条件のもとでは供給の確実さを買う投資だった。1917年11月には株式会社改組20周年の祝典を東京・大阪の両工場で挙げ、5年以上勤めた社員には年功に応じて功労株を分け、約700名の職工にも祝金を出している。
1917年以来の拡張策が負担となって資金面で行き詰まり、日本ペイント製造は破産の寸前に追い込まれたが、引き金は1920年、大戦好況の反動で在庫が積み上がり、創業以来初の赤字決算を出したことだった。主要な役員は責任を取って退き、大阪支店長だった小畑源之助が後を任された。小畑は同年6月の専務取締役就任にあたって、各地の分工場をすべて閉鎖し塗装請負の塗工部を廃止して事業は東京と大阪の塗料工場のみで行うこと、経営の中心を大阪に移すこと、事業の整理と人員の淘汰を重役会に諮らず専務の権限で進めることを条件とした。職員は同年4月末の126名から10月末には71名に減り、俸給の月額も9,340円から5,462円に下がった。
小畑源之助の再建は1年余りで難局を越え、業界の注目を集めた。1926年には大阪支店に最新式のペイント工場を建て、翌1927年11月には商号を日本ペイントへ改め、1931年11月には本社そのものを大阪へ移している。国内では建築向けの需要が伸びて海軍以外の用途が広がり、会社は外地へも出た。1933年2月に奉天で資本金100万円の日満塗料を興し、これはのちに資本金400万円の満州日本ペイントとなる。1940年8月には資本金20万円の台湾日本ペイントを設立して台北に工場を置き、1942年6月には賓江省に日満林産化学を、天津には北支日本ペイントを設けた。政府の委託でマニラのエリザルデペイント工場の経営にも当たっており、販路は日本の勢力圏とともに広がった。
戦時の統制は塗料にも及んだ。1942年1月に東京で塗料商業報国会が結成され、商工省から塗料配給統制協議会の委員が発表されて配給の優先順位が決まり、民需の統制機関として設けられた塗料統制協議会は同年10月に油脂統制会の一部門へ吸収された。軍の指導では軍用ラッカー工業会と海軍塗料協力会が発足し、生産も配給も割当てのもとに置かれている。日本ペイントは1944年に軍需会社の指定を受け、1945年には東京と大阪に焼夷弾が落ち始め、大阪工場は二度の空襲で全焼した。敗戦によって満州・台湾・天津・マニラに築いた在外資産は一切を失い、残ったのは内地の施設だけだった。創業から64年かけて広げた版図は、軍需とともに膨らみ、軍とともに消えた。
戦後の再建は内地に残った設備から始まった。1946年8月に大阪工場へ樹脂工場と水性塗料工場を建て、1949年9月には同工場の特殊ペイント油仕上工場を、1951年11月には東京樹脂工場を新設している。1949年5月には東京証券取引所へ株式を上場した。転機は1950年6月の朝鮮戦争で、日本駐屯の米軍が兵舎用の波形鉄板や兵器類の補修を大量に、しかも緊急を要するものとして発注した。この特需には「NIPPON PAINT」「HAMMER BRAND or Equal」と銘柄を指定した発注もあり、東京工場は再び多忙を極めている。会社は主要な塗装業者と協議したうえで進駐軍と直接交渉し、塗装工事の発注情報を先に掴んで見込み生産を有利に運ぶと同時に、業者のグループ化を助成した。
1952年6月、日本ペイントは米国のアメリカン・ケミカル・ペイント社と金属表面処理剤に関する技術提携を結び、国内および台湾における独占的な製造販売権を得た。同社は1912年に世界で初めて全鋼板製の自動車車体を試作した創業者が、塗膜のさびを止める鋼板用洗浄剤を開発して1914年に興した会社で、契約時には世界約60カ国107社と技術提携していた。日本塗料工業会が1952年に「合成樹脂塗料5カ年計画」を掲げると業界の商品構成は大きく変わり、日本ペイントもハイソリッド・ラッカー「パイラック」やメラミン焼付け塗料「オルガ100」を相次いで出して、創業以来の主力だった油性塗料に対し合成樹脂塗料の販売数量を全体の半分以上へ押し上げた。1953年には自己資金政策を捨てて長期借入金を導入し、自己資本の枠を超えた設備の増設に踏み切っている。
原料の自給は、この転換のなかで畳まれた。戦後は専門メーカーから高品質の顔料を自由に入手できるようになったため、1954年12月に東京工場の鉛丹生産部門を閉じ、1957年5月には同工場の亜鉛華の火を止め、1959年3月には大阪工場の亜鉛華炉も閉鎖して、創業者が亜鉛華の製造に成功して以来80年続いた顔料の自社生産を終えた。会社は代わりに生産と研究へ資本を向ける。1959年度を第1年度とする長期5カ年計画を決め、研究開発・生産設備投資、資金、人員の三つを骨子に据え、1961年からは千葉県東金市に約10万平方メートルの用地を取得して次の生産拠点の建設に着手した。売上高は1953年4月期の19億9,100万円から1961年4月期には70億5,500万円へ伸びている。輸入途絶に備えて始めた垂直統合は、原料が買える時代には抱える理由を失っていた。
輸出が関税で止まったとき、日本ペイントは商品を送る先を変えるのではなく、工場ごと相手国へ移した。1962年のシンガポールで選んだのは出資30%という薄い持ち分で、経営の主導権は現地のチャロンポカパン・グループに渡っている。技術と生産管理だけを握り、販売と経営を相手に委ねるこの形は、後発として欧米勢に先んじるために払った代償だった。ところが、その薄い持ち分こそが他国で同じ型を繰り返すときの身軽さになる。8年で合弁7社。資本を薄く広く置いたからこそ、関税が上がった国から順に工場を建てることができた。
国内で同じ期間に起きたのは、逆に濃く重い投資である。広島と愛知に自動車塗料の専用工場を建て、電着塗料の技術を米国から買い、オイルショックの後には販売会社を八つ作って流通まで抱え込んだ。1980年度に売上高1,041億円へ届いたのは、この重さが効いた結果だった。だが重い設備は、市場が伸びを止めた途端に負担へ変わる。1990年代に連結売上高が2,278億円から2,000億円割れへ後退し、経常利益が115億円から28億円へ落ちたとき、会社に残っていた成長の源は、かつて30%しか持たなかったアジアの合弁のほうだった。
日本ペイントは1959年4月に輸出課を設け、沖縄や東南アジアから地中海、アフリカに至るまで輸出の実績を積んだ。調査を重ねた会社が最も大きな市場として期待を寄せたのはシンガポール・マラヤ地区だったが、この地区ではイギリスやオランダの製品が先に市場を取っており、先発商品群と輸出で競うには限界があった。そこへ1962年、塗料に20%の関税が新しく設けられる。輸出によって市場を広げる道は根本から見直さざるを得ず、会社は現地生産を業界の他社に先がけて断行した。1962年8月、シンガポールに設立したのがパン・マレーシア・ペイント・インダストリー株式会社で、第1次払込資本金は30万マレーシアドル、邦貨にして約3,600万円である。
出資比率はシンガポール側60%、日本側40%で、日本ペイントの持ち分は30%、残る10%を泰星交易が持った。日本側が製造技術とマネジメントを、現地パートナーのチャロンポカパン・グループが販売を受け持つ分業で事業を始めている。当初は摩擦があった。先方がオーナー経営であるのに日本側は役員会重視の連帯責任体制だったため、軌道に乗るまでに時間がかかったと、取締役海外事業部長の内田康夫はのちに語っている。本工場が完成したのは1965年4月で、敷地8,000平方メートル、月産200トンの能力を備えた。同年8月にシンガポールがマレーシアから分離独立したことを受け、1967年5月には社名を日本ペイント(シンガポール)株式会社へ改めた。
シンガポールでの合弁が成功したことで、合弁事業の経営そのものを東南アジア各国へ広げる目途が立った。1967年にタイとマレーシア、1969年にインドネシア、1970年に台湾と香港へ会社を置き、8年間で合弁7社と技術提携2社を数えるに至る。関税障壁によって輸出増が望めなくなった国から順に現地生産へ切り替える形で、同じ構図が繰り返された。1971年8月には合弁・技術提携各社への原材料供給を担う日本ペイント・インターナショナルを国内に設け、1972年12月には香港へ100%出資の海外投資会社を置いている。そして1974年1月15日、各社の経営方針と手法を統一する持株会社として、資本金1,378万香港ドルのニプシー・ホールディング・インターナショナルを香港に設立した。
1965年6月、社長の筑田勝二が会長へ移り、専務取締役の小畑千秋が社長に就いた。小畑千秋は1911年に前会長小畑源之助の次男として生まれ、1935年に神戸商業大学を出て1937年に入社し、総務畑を歩いて筑田社長の片腕を務めてきた人物である。就任にあたって掲げた経営方針は7項目で、信用倍増に続く二番目に「国際的企業への躍進」を置き、技術開発の強化と海外との技術交流、長期・短期計画の確立による経営を並べた。同時に副社長制を新設し、技術の最高首脳だった多田繁を副社長へ据えている。小畑らトップがたびたび現地を訪れて交流を重ねてから、シンガポールの事業は順調に回り始めた。
1967年5月に完成した広島工場は、東洋工業の宇品工場の隣に建ち、夜間は無人で動く分散方式、隅々まで整えたパイプライン、タンクでの貯蔵方式を採用し、自動車用塗料の研究開発に使うソルトスプレー室と実車塗装の設備も備えていた。この工場は、西日本の生産能力を増やすため日本ペイントが相次いで建てた自動車用塗料専用工場に含まれる。自動車が国内で塗料の最大の用途となるなか、生産台数は1951年の約4万台から1965年の188万台へ伸び、その増加が製造の自動化を促して、新設工場では静電塗装や電着塗装など近代的な塗装方式が採られ始めていた。1970年10月には愛知県高浜市に愛知工場の第1期が竣工し、自動車用の中塗り・上塗り塗料に加えて電着用塗料の生産を主要な課題に据えた。
1971年2月、日本ペイントは米国ビー・ケミカル社と半分ずつ出資して日本ビー・ケミカルを設け、プラスチック用塗料と真空蒸着用塗料の製造販売に乗り出した。それ以前から技術は外に求めており、電着塗装も自社で育てたものではなく、1965年9月に米国のピッツバーグ・プレート・グラス社と水溶性工業用塗料・電着用塗料の技術で、1969年7月には米国シャーウィン・ウィリアムズ社とコイルコーティング用塗料の技術で、それぞれ提携して手に入れていた。日本ビー・ケミカル設立の翌月にあたる3月には関西ペイントとも一部の業務で手を組み、生産性の向上と合理化を目指した。売上高は1965年4月期の116億2,400万円から1972年4月期には298億8,600万円へ伸びた。自動車向け塗料で国内の需要を分け合う二社が、生産の面では手を組む形になっていた。
1973年10月、石油輸出国機構が石油公示価格の70%引き上げを通告し、アラブ石油輸出国機構が減産を決めた。公示価格はショック前の1バーレル3ドルから12ドルへ4倍近く上がる。塗料は顔料、溶剤、合成樹脂、植物油の四大原料を混ぜ合わせる業種で、原料の大部分を石油化学と輸入に依存していた。先物の入手を懸念した仮需要で価格が高騰し、政府による価格指導が強化され、ショックが沈静化すると需要は急速に低下して経営状態が悪化した。塗料の生産量は1973年度の145万トンから1974年度には108万トンへ25%減っている。日本ペイントの経常利益も1974年4月期の21億1,100万円から1976年4月期には10億9,000万円へ半減した。
打ち手は販売網の作り替えだった。日本ペイントは1973年12月、有力な特約店を主体に関東・近畿・中部・九州の4地区へニッペ販売会社を設立し、翌年に四国、1975年に中国と北海道、1977年に東北を加えて、販売会社は八社になった。塗料業界で初めての販売会社制度で、汎用塗料の販売体質の強化、物流機構の改善・合理化、生産の効率化、地区責任制の確立を狙っている。従来の日の丸店会はニッペ店会へ改組され、1977年には390店を超えた。1975年7月には小畑千秋が会長へ移り、営業畑を歩いてきた中島隆太郎が社長に就く。中島は就任の挨拶で『過去20年も続いた高度成長期に終わりを告げ、低成長期への曲がり角にある。当社もまた、このかつて経験したことのない困難な不況の渦中にあり、川幅の広い水量の豊かな大河が急に曲がって狭い水量の少ない川に入っている。好むと好まざるとにかかわらず、流れをかえなくてはならない』と述べた。1977年には機能別本部制を廃して事業部制へ移り、経費の管理にはゼロベース予算制度を採り入れた。
米国PPG社はカチオン型電着塗料の工業化に成功していた。その技術に自社の技術を重ね、自動車ボデーの下塗り向けに開発したのが「パワートップ」である。背景には1977年から進めた電着塗料のアニオン型からカチオン型への切り替えがあり、商品面での型の交代だった。自動車のボデーラインは錆に強い塗装を求めて短期間でカチオン型へ移り、そのシェアの大部分をパワトップが握った。同じ1977年の1月には、英国のインターナショナル・ペイント社と船舶用塗料で業務・技術提携を結んだ。そこから出したのが、自己研磨性コポリマーを使う省燃費型の船底塗料「ニッペSPC」である。東京工場は法規制と地震への備えから1979年7月に塗料をつくるのをやめ、東日本の汎用塗料の供給は1981年7月完成の栃木工場に移った。創業100周年にあたる1980年度、売上高は1,041億円に達し、利益は過去最高となった。
創業100周年の後も生産拠点は増え、1984年5月に岡山工場、1993年3月に福岡工場が加わった。海外では1989年12月にロンドンへNippon Paint(Europe)を、1992年12月には上海にNippon Paint(China)を設けている。だが国内市場は伸びを止めた。連結売上高は1992年3月期の2,278億円をひとつの山として1994年3月期2,065億円、1996年3月期2,046億円と後退し、経常利益は1992年3月期の115億円から1996年3月期には28億円へ落ちた。1991年に着手した半導体・液晶材料の開発も事業化には至らなかった。1999年3月期には連結売上高1,979億円、最終損益は28億円の赤字となる。海軍に縛られた創業期と同じように、会社はまた一つの市場の成熟に縛られていた。
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|---|---|---|---|---|
| 1881〜1961年光明社の創業から海軍依存と小畑家経営による国内事業基盤の確立 | 協同組合「光明社」を創業 | ★ | ||
| 日本ペイント製造を設立 | ★ | |||
| 経営危機により体制刷新・小畑源三郎氏が専務就任 | ★★ | |||
| 建築向け塗料で特約店を形成 | ★ | |||
| 商号を「日本ペイント」に商号変更 | ★ | |||
| 本社を移転 | ★ | |||
| 筑田勝二 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 筑田勝二 | 自動車向け塗料事業に参入 | ★★ | ||
| 1962〜1998年ウットラムとのアジア合弁NIPSEAの開始と国内工場網の整備 | 筑田勝二 | 出資を30%にとどめた少数持分方式によるアジア市場への再進出 1962年、小畑千秋社長がシンガポールへ渡り、タイの華僑資本チャロンポカパン・グループと合弁を組んで東南アジア市場に再進出した経営判断。出資比率は日本ペイント30%にとどめ、技術は本社が供与し販売は現地に委ねる分業を採った。翌1963年、現地法人"日本ペイント・シンガポール"が設立された。 詳細を読む | ★★★ | |
| 小畑千秋 | 中央研究所を新設 | ★ | ||
| 小畑千秋 | ビー・ケミカル社と合弁 | ★ | ||
| 中島隆太郎 | 子会社を設立 | ★ | ||
| 鈴木政夫 | 栃木工場を新設 | ★ | ||
| 鈴木政夫 | NIPSEAグループで中国市場に注力を表明 | ★★ | ||
| 鈴木政夫 | 岡山工場を新設 | ★ | ||
| 佐々木一雄 | ロンドンにNippon Paint (Europe) Ltd.を設立 | ★ | ||
| 藤井浩 | 半導体・液晶材料の開発(事業化は頓挫) | ★ | ||
| 藤井浩 | Nippon Paint (China)を設立 | ★ | ||
| 藤井浩 | 福岡工場を新設 | ★ | ||
| 1999〜2013年赤字転落と人員削減、販売会社の統合とウットラムの筆頭株主化 | 藤井浩 | 赤字転落・グループ人員を10%削減 | ★★ | |
| 藤嶋輝義 | 販売会社5社を合併・日本ペイント販売を設立 | ★ | ||
| 松浦誠 | FIRST INDUSTRIES CORPが筆頭株主に | ★★ | ||
| 松浦誠 | Nippon Paint (Thailand)を子会社化 | ★ | ||
| 2014〜2026年日本ペイントHDへの移行とアジア合弁の連結化、Dulux買収とウットラム主導の経営 | 酒井健二 | 日本ペイントHDに商号変更 | ★ | |
| 酒井健二 | WUTHELAM HDとのアジア合弁事業8社を連結化 | ★★ | ||
| 田堂哲志 | DE社を約687億円で買収 | ★ | ||
| 田堂哲志 | 取締役会の過半数を明け渡す形での経営主導権の移転 2018年3月28日、日本ペイントホールディングスの定時株主総会で、筆頭株主でシンガポールの塗料大手ウットラム・グループが提出した株主提案の取締役6人が全員選任され、取締役10人のうち過半数をウットラム側が占める体制が成立した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 田堂哲志 | Dulux社を約3000億円で買収 | ★★ | ||
| 田中正明 | 1.3兆円の第三者割当増資と引き換えに進めたアジア合弁の完全子会社化 2020年8月21日、日本ペイントホールディングスは、シンガポールの塗料大手ウットラムグループに対する第三者割当増資で約1.3兆円を調達し、その対価としてウットラムが保有するアジア合弁事業の持ち分を取得して完全子会社化すると発表した。増資は2021年1月に実行され、ウットラムの出資比率は39.6%から58.7%へ上昇し、日本ペイントHDはウットラムの子会社となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| ウィー・シューキム | Cromology HDを1506億円で買収 | ★ | ||
| ウィー・シューキム | 東京証券取引所プライム市場へ移行 | ★ | ||
| ウィー・シューキム | AOC LLC等を子会社化 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日本ペイント)