1922年に大塚武三郎が徳島県鳴門において「炭酸マグネシウム」を生産するために、大塚製薬工業部を個人創業した。原材料は塩田残渣(にがり)であり、塩田における資源の有効活用を意図した。
ただし、同時期に他の企業も「にがり原料の炭酸マグネシウム」の生産に乗り出したため、大塚製薬は数あるうちの1つの事業であった。このため、事業における特色は特に存在しない。
また、戦前を通じて、創業者の大塚武三郎氏が経営に従事し、堅実な事業運営を行うために銀行からの積極的な借入れは実施しなかった。このため、戦前の大塚製薬は個人事業の形態であり、従業員10名〜20名の中小企業であった。
1947年に大塚正士氏が事業継承をし、その前後から積極的な事業展開を開始。終戦直後に「炭酸マグネシウム」の原料となる重曹を買い占め、敗戦によるインフレによって巨額利益を確保した。そこで、転売利益を注ぎ込み、新規事業として医薬品事業に参入。点滴注射の製造を開始した。
徳島県鳴門は戦災を逃れたことから注文が殺到し、点滴注射の販売は好調に推移した。しかし、1949年ごろから国内の経済復旧が徐々に本格化し、大手企業が点滴注射に参入。大塚製薬は、劣勢に追い込まれ、倒産の危機に直面した。
大塚製薬を倒産危機から救ったのが、朝鮮特需と、第一物産(現三井物産)からの「減菌蒸留水」の受注であった。朝鮮特需によって点滴注射の需要が増加し、1951年に大塚製薬は黒字経営に復帰した。
悪銭身につかずと言いますか、私はその儲けをブドウ糖やリンゲル液の注射薬の製造に放り込んで、身につけたんです。薬局に割当制にして代金先払いでも、どんどん売れました。1946年に生産を始めてから3年間は、完全な独創態勢でしたけど、大手が復興して参入してくるし、現金取引が手形に変わる、挙げ句の果てはドッジラインでしょう。札幌から福岡まで全国5か所に出張所を作り、従業員も350人くらいに増えていたのに、月商1800万円くらいに落ち込んで、経費が売り上げの35%にも達してましたから、毎月250万円も赤字が出る始末でした。もう、血の小便は出るし、死んでやろうかとも思いました。
点滴注射だけでは事業が不安定と判断し、大衆向け医薬品の参入を決定。取引先の第一物産(現三井物産)からへオロナイト・ケミカル社の紹介を受け、同社が開発した「殺菌装束剤」の販売を開始。1953年に「オロナイン軟膏」として発売するとともに、新聞広告を中心とした大規模な販促投資を実施した。これらの投資は「点滴注射」の利益を充当したものと推定される。
たまたまそこへオロナイト・ケミカル社の開発した殺菌消毒剤を物産から紹介してもらって、1953年に軟膏として売り出したんです。めくら蛇におじずでして、九州地区だけで1ヶ月で300万円、6ヶ月間2000万円を投じて新聞雑誌広告を打ちました。当時としては思い切った金額でしたが、うまくいかなくても、自分が参議院選挙に出て落選したと思えばいいと言い聞かせたんです。幸い結果は大成功でした。宣伝には色々知恵を絞りまして、親父に全国2万件の薬局に直筆の手紙を出してもらったり、(略)ラジオ番組のスポンサーにも、無理をしてなりました。