売上
ロート製薬:売上高
■単体 | ■連結 (単位:億円)
2,386億円
売上高:2023/3
利益
ロート製薬:売上高_当期純利益率
○単体 | ○連結 (単位:%)
11%
利益率:2023/3
免責事項
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1899
2月

信天堂山田安民薬房を創業。胃腸薬「胃活」を発売

明治23年に胃腸薬「胃活」の製造販売を開始すると共に、信天堂山田安民薬房を創業した。以後、現在に至るまでロート製薬は山田家による同族会社として経営されている。戦前は国内に加えて、上海などの中国大陸にも工場を建設するなど、手広く商売を手掛けた。

1909

点眼薬「ロート目薬」を発売

当時、日本眼科学会で主導的な存在であった井上博士が目薬を開発し、ロート製薬が商品化した。ロートの名称は、当時、世界的な眼科医として知られていたドイツ人の「ロート・ムンド博士」に由来する

1949
9月

ロート製薬株式会社を設立

設立

個人事業から株式会社に組織変更

1899年の「信天堂山田安民薬房」の創業以来、山田家の個人事業として運営してきたが、終戦後の1949年に株式会社に組織変更を実施。資本金1000万円の「ロート製薬株式会社」を設立した。

創業家の山田輝郎氏が社長に就任し、山田家による経営体制は持続した。

調達

増資により資金調達(割当先は山田家と推定)

山田家による株式保有

1950年代を通じてロート製薬は増資による資金調達を実施し、1961年に大阪証券取引所第2部に株式を上場した。

これらの増資の引き受け元は非開示だが、上場時点で山田家が株式を保有していることから、山田家が増資に応じたものと推察される。実態としては、山田輝郎氏(ロート製薬・社長)が五人の子息(長男〜五男)に対して株式を割り当てたものと推察される。にこのため、増資による山田家における希薄化は最小限に抑えられた。

1961年の株式上場後も大株主は山田家によって保有される形態を選択しており、1970年3月の時点で上位6名の株主はいずれも「山田家」であった。この資本政策が山田家による同族経営の資本的な根拠となった。

ロート製薬の大株主:1970年3月時点
株主名称 続柄 保有比率
山田安邦 輝郎氏の長男 19.01%
山田安信 輝郎氏の次男 6.89%
山田安定 輝郎氏の三男(学者) 6.57%
山田安正 輝郎氏の四男(学者) 6.25%
山田安広 輝郎氏の五男 5.91%
山田輝郎 - 5.70%
三菱銀行 - 3.76%
住友銀行 - 2.51%
大和銀行 - 2.51%
三和銀行 - 2.19%
出所:日本企業要覧1970年版 | 1970
1954

胃腸薬「シロン」を発売

開発

胃腸薬「シロン」を発売

「胃活」から「シロン」へ

ロート製薬にける胃腸薬は「胃活」が主力製品であったが、すでに発売から年数が経過しており、加えて日本人の食の洋風化の進行によって、胃薬に対するニーズも変化しつつあった。

そこで、1954年にロート製薬は約1年間の開発期間を経て、胃腸薬の新製品「シロン」を発売した。食べ過ぎなどによる消化不良に焦点をあてて、制酸剤に「重炭酸ナトリウム」を採用し、広い症状に対応できる総合胃腸薬と位置付けた。

シロンは1950年代のロート製薬の主力商品に育ち、1962年には後継の新製品「パンシロン」を発売するなど、業容拡大の鍵を握るブランドとなった。

証言
山田輝郎氏(ロート製薬社長)

私のところは、昔から大衆向きに育ってきた会社です。家庭薬に興味が薄い新薬メーカーのやらないこの薬に、徹底的に取り組む気でした

1962/2 実業の世界
投資

少品種に絞ることで投資効率を最大化

少品種への集中投資

ロート製薬では、新製品を相次いで発売するのではなく、一つの製品について集中投資を行う方針を立てた。この理由は、生産面について単一品種の製造によって生産効率を高めること(原価低減)や、広告面でも1つのブランドにおける宣伝費を高めることで、認知度を広げることを目論んだ。

これらの方針は、当時の大衆薬業界では新製品を相次いで発売するのが一般的であったのに対して、異色の選択でもあった。

広告宣伝への積極投資

ロート製薬では、販売促進(広告宣伝など)に集中投資することによって商品の普及に努めた。1960年以前のコスト構造は不明だが、1960年7月時点において売上高28億円に対して広告宣伝費7.6億円(広告宣伝費率27%)を投資していた。

また、販管費のうち「歩戻り(代理店への奨励金)」と「景品費」について、1960年7月時点で合計3.3億円を計上しており、販売促進の関連費用は広告宣伝費を合わせると約11億円に達した。(※歩戻りは代理店への奨励金の支払いを意味しており、小売店におけるロート製品の価格下落(値崩れ)を避ける狙いがあった)

これらの販売促進・広告宣伝費の合計額は、売上高に対して1/3以上を占めており、マーケティングにおける積極投資がロート製薬の特色となった。

ロート製薬:広告宣伝費
年度 売上高 広告宣伝費 営業利益 売上高_広告宣伝費率
FY1960 28.0億円 7.6億円 5.5億円 27.1%
FY1961 32.2億円 9.2億円 6.6億円 28.5%
FY1962 36.0億円 10.5億円 7.8億円 29.1%
証言
山田輝郎氏(ロート製薬社長)

まず、商品の種類が少ないから、こういう合理化もできます。この少品種の超量産でコストも安い。安いために普及率も高い。

私は薬はよくきいて、安ければ良いという主義です。例えば医薬メーカーでは糖衣錠とか、カプセルなどで体裁を作るけれども、うちのシロンは包に入った粉末です。こういう点、今の世代にマッチしないかというと決してそうではありません。1日に三百何十万包という量が飲まれている薬は他にはないはずです。これは積んでみると富士山の二倍半という高さです。

ですから私は大衆薬、家庭薬というものの使命は、こうした安くて効くという要求に応えることが第一だと思っています。

1962/2 実業の世界
結果

シロンが全社業績を牽引。ロングセラーへ

シロンが主力製品に成長

ロート製薬は大衆向け胃薬「シロン」によって業容を拡大。1962年7月期にはロート製薬の全社売上高の約74%を占める大型商品に育った。

1963年までに国内市場において「胃薬といえばロート製薬」という認知が形成された。当時のメディアは「『ロート』といえば、すぐに『シロン』が頭に浮かび、「目薬」が、ぴーんと浮かんでくる」(1963/1週刊日本経済)と描写している。

「シロン」と「Vロート」の2種で業績安定化

胃薬における「シロン」に加えて、眼薬でも売上高を拡大。1964年には「Vロート」を発売したことで、こちらの市場シェアを確保するに至った。この結果、ロート製薬は「シロン」「Vロート」の2つのブランドを抱える高収益企業へと変貌した。

当時のメディアは「当社の製品は全てがドル箱商品」「ぜい肉を思い切りよく捨て去ったところに他社にない独創的な経営方針の成功があった」(1965/8実業の世界)と評価した。

証言
業界雑誌『週刊日本経済』

「ロート」といえば、すぐに「シロン」が頭に浮かび、「目薬」が、ぴーんと浮かんでくる。業界の激しい競争の中で、シロン、目薬ともにそれぞれ市場占有率40%と業界のトップ街道を走り続けている実力は、確かに見上げたものである。製品がもともと一般大衆に直接、結びついたものではあるとはいえ、よくもまあ、これだけ一般大衆に食い込んだものと、いまさらのように驚き入る。

1959
大阪市生野区に本社工場を新設
1961
大阪証券取引所第2部に上場
1964
東京証券取引所・大阪証券取引所の第1部に指定
1975

日本ジョセフィンなど3社を買収。化粧品に本格進出

日本ジョセフィン、関西有機化学。モナ化粧品の3社を買収。3社の合計で化粧品の年間売上高は32億円

1975
8月

軟膏メンソレータムの商標使用権を取得

背景

近江兄弟社の倒産。メンソレータムのライセンス問題

近江兄弟社の倒産(メンソレータムの国内製造販売)

軟膏のロングセラー「メンソレータム」の製造および販売してきた近江兄弟社(滋賀県近江八幡市本社・従業員数270名)は、1974年に会社更生法の適用を申請して倒産した。負債総額は37億円であった。

近江兄弟社は米国のメンソレータム社から軟膏「メンソレータム」の国内における製造販売権を得て、戦前に同製品をロングセラーに育ててきたが、戦後は競争環境が激化したことに対応できなかった。特に、大塚製薬が製造販売する「オロナイン軟膏(1953年発売)」との競争により、業績悪化に拍車がかかり倒産に至った。他には、売上に対して過大な従業員数や、不動産投資の失敗も影響した。

その後、水面下では、大塚製薬グループの大鵬薬品が、近江兄弟社の買収によってメンソレータムブランドを取得するように動いていたが、近江兄弟社が抱える従業員260名と負債20億円により交渉が難航していた。このため、メンソレータム社は、近江兄弟社を見捨てる形で、ブランド使用権を剥奪し、日本ではロートに独占権を付与した。

近江兄弟社「メンターム」による再生計画

近江兄弟社はメンソレータム社からの信頼を喪失したことで、長年使用してきた「メンソレータム」のブランドをを失うことになった。近江兄弟社は会社更生法の適用申請により倒産したが、会社再建のために主力製品が必要な状況にあった。

そこで、倒産後の近江兄弟社はメンソレータムの生産を停止した上で、軟膏を「メンターム」のブランドで発売することを決定した。

メンタームという名称は、過去に近江兄弟社が類似品に対する裁判を通じて「一般名詞である」という判決を受けていたため、使用できる目処が立っていた。

このため、1975年以降は近江兄弟社の「メンータム」と、米メンソレータム社(国内供与先はロート製薬)の「メンソレータム」の2つのブランドが、日本国内で混在するに至った。

証言
岩原氏(近江兄弟社・企業再生時に社長就任)

「黙っていても、メンソレが売れ、そこにあぐらをかき、経営努力を怠ったことが大きな要因だ」

1987/12/7 日経ビジネス
契約

ロート製薬が「メンソレータム」の商標使用権を取得

軟膏に新規参入

1975年8月にロート製薬は「軟膏」への新規参入を決定し、米国メンソレータム社から「メンソレータム」の国内商標使用権を取得した。この商標はかつては近江兄弟社が使用していたが同社の倒産を受けて、1975年以降はロート製薬が使用する形となった。

商標利用にあたって、ロート製薬はメンソレータム社と10カ年の独占契約を締結。ロイヤリティーとして売上高の7.5%の契約で決着した。従来のメンソレータムと近江兄弟社では「ロイヤリティ5%+広告費15%」の合計20%が実質負担であり、ロート製薬とメンソレータムの契約条件は相対的に良いものであった。

売上目標は年間10億円に設定。

ロート製薬としては、「胃腸薬」「目薬」に次ぐ新規事業として「メンソレータム」の販売を本格化する方針を打ち出した。

ロート製薬・近江兄弟社・大塚製薬の競合

ただし、近江兄弟社は会社更生計画を打ち出して独自の軟膏を「メンターム」として販売することを決定。同社の再建を任された岩原社長がロート製薬に対して抗議したこともあった。

この結果、国内の軟膏市場では、大塚製薬の「オロナイン軟膏」に加えて、ロート製薬の「メンソレータム」と、近江兄弟社の「メンターム」が競合する形となった。

証言
財界

メンソレータム軟膏、ホワイト、ラブ、シェービングクリームの4品目の製造販売と、くちびるの荒止め、リップスティックの輸入販売権。期間は10年だ。

そしてロイヤリティーは近江が実質的に米国メ社に払っていた5%よりやや高い7.5%前後となったが、広告などは一切ロート側に任せられた。逆に言えば近江が売上の20%を持っていかれていた費用が、中間を省いたため、ロートは半分以下で済み、米メ社もやや収入がアップしたのだ。

「本社工場に自動化機械を入れれば、近江(注:倒産時の従業員数約260名)さんが売っていた分は30人の人手でやってみせます」とロート製薬の山田副社長(注:山田安邦氏)は強気。そして「米国メ社の事前OKを取れば、色や感じの違うメンソレータムだって発売できます。」とハイド社長の意を呈してか、早くもオロナインを向こうに回した感じの発言も続々と飛び出した。

ロートでは数年のうちに目薬、胃腸薬に次ぐ3本柱に育てる構えだが、もし、近江再建に乗り出していたら、負債20億円と従業員が全員付いて回っていただけに、結局、安い買い物をしたわけだ。

1975/6 財界23(10)
結果

メンソレータムで売上拡大へ

胃薬・目薬に次ぐ「第三の事業」として定着

全社売上ベースでは、ロート製薬は「胃腸薬」と「目薬」の2つの領域に加えて「メンソレータム」が定着する形となった。

ロート製薬が有価証券報告書で開示する販売実績によれば、「外皮用薬」と「医薬部外品(1984年度から区分新設))」がそれぞれメンソレータムブランドを展開する区分であり、1984年度には売上高40億円がメンソレーラム由来と推定される。1984年度の伸びは、医薬部外品の区分が新設されて「その他」から独立したことによる。

近江兄弟社との競争が激化

ロート製薬がメンソレータムの売上高を拡大する一方で、1980年代を通じて近江兄弟社による攻勢が強まった。近江兄弟社は会社再生のために全員営業の方針を掲げ、「メンターム」の販売攻勢を本格化。同社は売上高10億円〜20億円を確保し、1982年に負債を完済した。

この結果、軟膏の領域ではロート製薬と近江兄弟社は、国内シェアを奪い合う形になったと推定され、ロート製薬の独壇場であったとは考えにくい。

証言
日経ビジネス(近江兄弟社とロート製薬の競争について)

(注:近江兄弟社は)いかに「メンターム」を売るのか。ここで考えついたのが、従業員全員で小売店を回ることである。(略)

直接訪問することによって小売店の心証を良くすれば、多少、メンソレ(注:ロート製薬のメンソレータム)に食い込めるかもしれない、と考えた苦肉の策だったのだ。「ロートさんに対する競争心があってこそ、それが可能になった」と岩原社長は言う。もちろん、この競争に負ければ職を失うわけだから必死だった。(略)

こうした作戦が功奏し、今では「ロート製薬のメンソレータムの3分の1程度の売り上げまで追いつけた」と言う。さらに、倒産後、新製品として出したリップスティック型に関しては「五分五分に張り合っている」ほどだ。もっとも、売れるのは感動的な理由ばかりではない。メンソレに比べ、小売店のマージンを2割ほど高くしてあると言う現実的な要因もあるのだ。

1987/12/7 日経ビジネス
1983

胃腸薬で国内シェア首位陥落

背景

OTC胃腸薬をめぐる競争激化

胃腸薬のニーズの変化

ロート製薬がパンシロンでシェアを確保した1960年代から1970年代は「総合胃腸薬」のニーズを捉えており、食生活から来る胃の痛みの改善を主眼としていた。ところが、1970年代を通じて日本人の生活習慣が変化し、ストレスによる「胃痛」など、特定の症状に対して胃腸薬の訴求が有効な時代になった。

大正製薬「大正漢方胃腸薬」のシェア拡大

1978年に大正製薬は「大正漢方胃腸薬」を発売。宣伝広告では「食欲不振・胃のもたれ・胸焼け・胃の痛み」に効果があることを訴求した。この結果、1983年に国内の胃腸薬でシェア1位(それまで首位だったロート「パンシロン」は2位に陥落)を確保した。

興和「キャベジン」のシェア拡大

1990年に興和は「キャベジン2」を発売し、食後ではなく食前に服用することを訴求し、若者向けのマーケティングを展開した。この結果、1990年にキャベジン2は胃腸薬で1位を確保。それまで首位だった大正漢方胃腸薬は2位にシェアを落とす形となった。

ロート製薬「パンシロン」の首位陥落

長らく胃腸薬でシェア1位だったパンシロンは、大正漢方胃腸薬とキャベジンの台頭によってシェアを喪失した。

証言
日経ビジネス「癒えるか低迷パンシロン」

パンシロンの敗因はすべての症状に効くという総合胃腸薬にしがみつき過ぎたこと。ターゲットを絞った競合薬にシェアをどんどん食われた。かつての胃腸薬の主流は胃の痛み、食べ過ぎ・飲み過ぎ、胃酸過多などあらゆる症状に効能があるという「総合薬」だった。その代表がパンシロンだった。

しかし、時代の変化とともに現代人のライフスタイルも変わり、精神的ストレスからくる胃痛などが多くなってきた。そうしたニーズをくみ取って登場したのが、1978年発売の大正漢方胃腸薬だった。発売6年目の1983年にはパンシロンに代わってトップに立った。

1992/1/13 日経ビジネス:癒えるか低迷パンシロン
販売

新製品投入で販売現場が混乱。シェア1位→3位に転落

1980年代を通じて、にロート製薬は「パンシロン」ブランドの新製品を相次いで投入することで、競合の胃腸薬に対抗することを試みた。同時に、積極的な宣伝広告を実施した。

しかし、競合品に対抗するために「パンシロン漢方胃腸薬」「新パンシロン」「パンシロン新胃腸薬」と言った具合に、同一ブランドにおける品種が増加したため、問屋・小売店・消費者の混乱を招く形となってしまった。この結果、顧客からは「同じものをいくつ出すんだ」と指摘される状況であったという。

また、価格政策の面でも課題が残った。ロート製薬は「パンシロン漢方胃腸薬」を競合品よりも安く値付けしたため、問屋としても利幅を確保しにくい商品となり、結果として取り扱いを渋る取引先が多くなった。

この結果、ロート製薬は新製品の発売にもかかわらず、胃腸薬においてシェアを奪還できなかった。1983年にロート製薬の首位が陥落すると、1992年までにシェアを3位まで下げた。消化器官領域における売上高も低迷から脱却できず、厳しい状況が続いた。


参考文献:日経ビジネス(1992/1/13)

1988
7月

米国のメンソレータム社を買収

買収

米メンソレータム社を買収

後継難によりロートが買収へ

1988年7月にロート製薬は米メンソレータム社の株式100%を取得して買収した。メンソレータム社の年間売上高は連結で約5000万ドルであり、米国・英国など世界8カ国に拠点を持つグローバル企業であった。

メンソレータム社は事業承継に課題を抱えており、株式を保有するハイド家は会社の売却を決定。ハイド家はロート製薬に対して会社売却を相談したことで、買収の話が進んだ。

98億円による買収リスク

問題は買収金額の大きさによる財務リスクであった。ロート製薬によるメンソレータム社の買収金額は98億円(7850万ドル)であり、ロート製薬の年間純利益(12億円)に対して約8年分に相当した。このため、ロートの社内では反対論も噴出したが、当時の山田安邦氏はメンソレータム社の買収を決断した。

なお、メンソレータム買収によって、ロート製薬は連結決算にて「営業権(無形固定資産)」を計上。1989年3月時点で90億円の営業権を資産を計上しており、メンソレータム社買収による実質的な「のれん」となった。償却は少なくとも2005年までの18年余りにわたって実施された。

結果

海外展開に課題。スキンケア商品の充実へ

欧米での展開で苦戦

メンソレータム社の買収により、ロート製薬は世界各国で販売拠点を確保。米国とイギリスにおいては製造拠点も確保した。

ところが、海外展開には課題が多く山積した。米国および欧州においては、メンソレータムの市場が低迷しており、買収以後は業績の低迷が続いた。メンソレータムは歴史の長いブランドであるが故に、1990年代には「お年寄りが使う塗り薬」というイメージが定着していたという。

売上規模は100億円に満たない状況が続き、収益性もよくないため、事業経営として課題が多い状況にある。

中国・東南アジアにおける展開

ロート製薬は「メンソレータム」のブランドを中国・東南アジアなどで展開することに注力し、1991年に中国に「メンソレータム社・中国」を設立した。以後、中国や東南アジアでのメンソレータム製品の販売に注力しており、これらの東南アジア市場向けが海外の売上成長に貢献した。

よって、米国発祥のブランドを買収したものの、欧米で展開(積極投資)するのではなく、その価値を東南アジアに展開する形で、買収成果を得る形となっている。

証言
山田邦雄(ロート製薬・創業家)

軟膏薬メーカーの米メンソレータムを買収しました。88年のことです。先方の経営者から会社を売りたいという話があったからです。

当時のロート製薬は知名度はあったけれど、こぢんまりとした会社でした。社員は500人程度。工場や物流、開発部門を除くと、大阪市生野区の本社で働く社員は100人ほどでした。

そんな企業が突然、海外の企業を経営することになり、社内カルチャーショックが起きた。メンソレータムは世界各国で販売していたが、経営内容が思っていたほどよくなく、これは大変やということで、父も突然、英語の勉強を始めたりしましたね。また、メンソレータムのスキンケア商品のラインアップを増やす過程で、いろいろな経歴、経験を持った人を採用し、それで社内が再び活性化したんです。

2016/8 日経トップリーダー
結果

営業権評価損32億円を計上。最終赤字に転落

営業権の評価損を計上

2003年3月期にロート製薬は最終赤字13億円に転落した。主な要因は特別損失として「営業権評価損32億円」を計上したことであった。ロート製薬は営業権の内訳について開示していないが、メンソレータム社の買収によって生じた無形固定資産と推定される。

ロート製薬が営業権の損失計上に踏み切った理由は、主に米国・欧州におけるメンソレータム社の業績不振にあった。欧米においては利益率が低く、北米では2000年3月期に営業赤字7億円および2003年3月期に同4億円を計上していた。したがって、回収可能性がないと判断し、評価損の計上に踏み切ったと思われる。

1991

メンソレータム社・中国を合弁設立

方針

中国に合弁会社を設立。メンソレータムの販売

1991年にロート製薬は「メンソレータム社・中国」を合弁設立(現在は100%出資)し、中国におけるメンソレータムブランドによるスキンケア剤の製造販売に参入した。

当時、中国は「製造拠点」として注目を集めていたが、ロート製薬が中国を「消費市場」とみなして、メンソレータム製品のバンバイを開始。1996年からはロートブランドの点眼薬(大衆向け)を販売した。

中国市場の展開において大きな転機となったのが、1996年のアトランタ・オリンピックであった。ロート製薬は中国の飛び込みチームの公式スポンサーとなり、同チームが金メダル6個を獲得。この結果、メンソレータムの中国国内におけるブランド認知が向上し、高価格帯のスキンケア剤として売り上げを拡大する契機となった。

以後、ロート製薬は中国国内で「テレビ・新聞・雑誌」による広告宣伝により、ブランド認知の向上に投資した。

証言
ロート製薬株主通信

1996年のアトランタオリンピックでは、中国飛び込みチームの公式スポンサーになり、そのチームが金メダル6個を獲得したことにより、当社の製品イメージも大きくアップし、売上が大きく伸長しました。現在、当社製品は中国国内ブランドに比べると高額なこともあり、良質で信頼性が高いというイメージを築いています。(略)

日本で販売されている商品の約10倍の価格でありながら「メンソレータム薬用リップクリーム」は市場で90%(2007年ユーロモニター調査)と高いシェアを獲得しています。

結果

メンソレータムが中国でトップブランドに成長

ロート製薬は2010年度に「メンソレータム社・中国」の業績を10%ルールーにより開示し、売上高が124億円(ロート製薬の地域セグメント・中国の売上高は119億円)であることを発表した。2015年度までは中国現地法人で増収を達成し、ロート製薬のグローバル展開において、国内に次ぐ売上高を確保するに至った。

また、中国では10%以上の売上高経常利益率を確保した。これは、ロート製薬の「メンソレータム」が中国国内においてブランド認知を確保し、2008年時点で高価格帯(日本での販売価格の10倍)での売価を維持できたためであった。中国の主要百貨店には「メンソレータム」の販売コーナーな設けられるなど、高級品の位置づけとなった。

メンソレータム社・中国の業績
年度 売上高 経常利益 純資産 総資産
FY2011 124億円 14億円 76億円 155億円
FY2012 148億円 17億円 103億円 208億円
FY2013 210億円 28億円 122億円 252億円
FY2014 254億円 32億円 165億円 320億円
FY2015 329億円 31億円 159億円 331億円
証言
吉野俊昭氏(ロート製薬・当時社長)

現在のように国内市場が厳しい状況下で当社が成長していくためには、グローバル展開が欠かせません。(略)その中でも注力すべきなのはアジア、特に中国市場への急拡大です。当社は中国がまだ世界の工場として成長していた頃から、消費市場としての中国に着目し、リップクリームや目薬などで市場開拓を行ってまいりました。おかげさまで、目薬やリップクリームなどのメンソレータムブランドのスキンケア製品は、現地のトップブランドとなり、収益性も日本を上回るほどの子会社に成長しています。

1996
ロート・インドネシアを設立
1997
ロート・メンソレータム・インドネシアを設立
1998
3月

オーチャードパーク市に工場を新設

メンソレータム社の本社及び工場として活用

1998
ロートUSAを設立
1999
山田安邦氏が会長、山田邦雄氏が社長に就任
2001

スキンケアに本格投資

背景

ドラッグストア販路の台頭

不遇だったロート製薬の化粧品事業

1970年代にロート製薬は企業買収を通じて化粧品事業に参入していた。ところが2001年までは化粧品事業が主力事業になることはなかった。この理由は、当時の化粧品は「通信販売」もしくは「制度品(販売店)」であったため、販路が限られていたことで先発メーカーの牙城を崩すことが難しいためであった。

化粧品業界の販路変化

化粧品業界における最大の変化は、1990年代以降のドラッグストアの台頭にある。

規制緩和によってドラッグストアの大型店舗化が進行し、品揃えを充実させる観点から「医薬品」に限らず、「日用品・化粧品・加工食品」を取り揃えるようになった。そして、ドラッグストア店舗では、コストパフォーマンスに優れた化粧品・スキンケアに対するニーズが増加。特に若い女性にとって、ドラッグストアが化粧品の購入店舗となった。

したがって、流通形態の変化によって、化粧品業界における参入障壁が低下し、ロート製薬のような後発メーカーは「若い女性」のニーズを捉えることで、ドラッグストアという新しい販路を確保できるチャンスが生まれた。

方針

化粧品・スキンケアへの本格投資

オバジの発売と量産体制の確立

2001年からロート製薬は化粧品(スキンケア)への本格投資を開始した。2001年にスキンケア「オバジC」を発売。2003年には上野テクノセンターに「第二工場棟」を新設してスキンケア剤の量産を開始した。

肌ラボの発売とヒット

2004年にはスキンケア「肌ラボ」を発売。肌ラボは初年度に15億円の売上を計上し、2010年度には年間売上100億円を突破。ロート製薬のスキンケア事業を支える基幹ブランドに育った。

肌ラボが急成長を遂げた理由は、2003年当時、ドラッグストアにおけるスキンケア剤において「1000〜2000円」という価格帯のブランドが不足していたこと最大の要因であった。この事実にロート製薬の商品企画担当であった村本由理氏(中途入社1年目の社員)が着眼して「中価格帯プロジェクト」を発足。スーパーヒアルロン酸を活用する方針が決まり、約半年の開発期間を経て「肌ラボ」の発売に至った。

なお、肌ラボの着想及び開発は、ロート製薬が公開する「なぜロートは「たった半年」でスキンケアのトップブランドを開発できたのか」に詳しい。

証言
山田邦雄(ロート製薬・当時会長)

普通だと「それは無理なんじゃない」と言われるようなことでも、成功できないわけでもないだろうという「何くそ精神」でトライしてきた。従来製薬会社がやって成功したことのなかった、化粧品への参入もそう。海外への挑戦も、規模が10倍以上違う欧米企業を相手に、身の丈を越えてやっている面もある。普通に考えたら勝てるわけがないが、現実はそうでもない。かじりついてやっていたら、何となく結果がついてきた。

2016/10/29週刊東洋経済
結果

スキンケアが主力事業に成長

売上と利益で全社貢献

2000年代を通じてロート製薬は「スキンケア」の売上高を拡大し、全社売上高の50%超を確保するに至った。2000年度時点におけるスキンケアの売上の内訳は「メンソレータム関連(外皮用薬・医薬部外品)」が中心であったと思われるが、2000年代を通じて化粧品・スキンケアのブランド「オバジ」および「肌ラボ」が売上成長に貢献したと推察される。

利益面でもスキンケアは目薬に次ぐ収益を確保し、不振に陥っていた内服薬(胃腸薬など)をカバーした。このため、スキンケア事業が、ロート製薬の全社業績を左右する製品となった。

証言
吉野俊昭氏(ロート製薬・当時社長)

当社の成長の原動力となっておりますのが、「肌研(ハダラボ)」「オバジ」などのビューティー関連品で、当期売上高213億円と連結売り上げの約2割を占める成長の牽引役となっています。化粧品市場は、消費者の価格と費用対効果を重視した購買行動の変化により大きく変化しております。

当社の「肌研」などはこの変化に上手くマッチし、機能性とコストパフォーマンスの高さsが支持され、国内売上高100億円を達成し、セルフ化粧品市場で最も売れている化粧水ブランドとなりました。

2003
9月

森下仁丹と戦略的業務提携を締結

提携

森下仁丹と業務提携を締結

ロート製薬が森下仁丹の株式を取得(救済)

2003年にロート製薬は森下仁丹(東証2部上場企業)と「業務提携」の締結を決定した。森下仁丹が第三者割当増資を実施し、ロート製薬から約18億円の資金調達を行うものであった。この結果、ロート製薬は森下仁丹の株式19.4%を保有し、同社の筆頭株主となった。

提携には森下仁丹の財務状況が悪化したことがトリガーになっており、実質的にロート製薬による森下仁丹の救済にあたる。

1960年代までの森下仁丹は、口中清涼剤「仁丹」で国内市場を席巻しており、OTCにおける主要企業であった。ところが、仁丹に次ぐブランドの育成にことごとく失敗し、1970年代以降は長期的な経営の低迷が続いた。特に、1980年代の冷凍食品事業(フライドポテトなど)での失敗を機に、多角化事業から全面撤退したことが大きな挫折となった。その後、口中清涼剤の「仁丹」で持ち直しを図るも、すでにブランドが古くなっており(愛好者が年配に偏る)売上拡大に苦戦した。

そして、2003年3月期に森下仁丹は最終赤字30億円を計上し、自己資本比率7.7%に低迷。実質的な経営危機に陥ったため、企業存続のためにロート製薬による出資を受けることを決めた。

森下仁丹は森下家(兵庫県神戸市在住)による同族経営の企業であり、ロート製薬の山田家(兵庫県芦屋市在住)との間で、提携の話が進んだものと推定される。

ロート製薬は内服薬(胃腸薬)の改革を急ぐ

ロート製薬としては、森下仁丹と提携することで、事業不振に陥っていたロート製薬の内服薬(胃腸薬)をテコ入れする狙いがあった。

ロート製薬の内服薬は、1980年代以降の競争激化によりシェアを喪失し、2001年にはセグメント赤字であることを公表した。このため、胃腸薬はロートの祖業であり、一時期は高収益を叩き出した製品であったが、2000年には収益を生まない問題製品になっており、テコ入れが必要な状況であった。

森下仁丹と共同販社を設立

2005年7月にロート製薬は、森下仁丹と共同販社「メディケアシステムズ」を設立した。ロート製薬の内服薬(胃腸薬など)と、森下仁丹の製品を取り扱う販社として位置付けることで、販売面における改革を狙う目論見があった。

ロート製薬・内服薬のセグメント業績
FY 売上高 営業利益 資産 従業員数
2001/3 92億円 ▲2.6億円 83億円 213名
出所:有価証券報告書
結果

経営効率(対資産・対従業員比)が悪化

森下仁丹との共同販社による社員増

2005年7月に森下仁丹と共同販社「メディケアシステムズ」(従業員数約60名)を設立したことにより、内服薬セグメントにおける従業員数が増加した。ところが、売上の増収効果は限定的であり、一人当たり売上高はFY2005における約5200万円から、FY2006には同約3200万円へと低下した。

さらに、共同販社の設立によって、セグメント資産が53億円増加した。結果として、共同販社設立により経営効率を悪化させる形となった。

内服薬の赤字を解消できず

ロート製薬は、FY2004からFY2006までの3期連続で内服薬における営業赤字に転落した。結果として、森下仁丹との業務資本提携および共同販社の設立は、ロート製薬の経営効率を悪化させる施策となった。

ロート製薬・内服薬のセグメント業績
FY 売上高 営業利益 資産 従業員数
2005/3 86億円 ▲2.6億円 71億円 -
2006/3 92億円 ▲3.2億円 89億円 176名
2007/3 99億円 ▲0.7億円 142億円 294名
出所:有価証券報告書
結果

ロートが株式の一部を売却(評価損あり)

2011年9月にロート製薬は、保有する森下仁丹の株式10.84%を、森下仁丹の創業家の資産管理会社「株式会社森下泰山」に売却した。この売却により、ロート製薬による森下仁丹の株式保有比率は、19.40%から8.55%(▲10.8%)に減少する形となった。

なお、ロート製薬は株式10.8%(225万株)を単価315円で売却しており、売却額は推定7.0億円であった。したがって、業務提携時の単価502円から下落しており、投資面では損失を被る形となった。

ロート製薬:森下仁丹の株式評価額推移
FY 保有株数 貸借対照表計上額 1株あたり単価
2006/3 4,025,000株 17.30億円 429円/株
2007/3 4,025,000株 15.62億円 388円/株
2008/3 4,025,000株 11.43億円 283円/株
2009/3 4,025,000株 9.17億円 227円/株
2010/3 4,025,000株 10.82億円 268円/株
2011/3 4,025,000株 13.04億円 323円/株
2012/3 1,759,309株 6.63億円 376円/株
2013/3 1,759,309株 7.21億円 409円/株
出所:有価証券報告書
2010

東南アジアへの生産投資を積極化

投資

中国・ベトナム・インドネシアに投資

東南アジアに投資

2000年代以降、ロート製薬はメンソレータム社を通じて海外への投資を継続した。まずは、2005年には中国における生産拠点で人員数を拡大。メンソレータム社・中国では「1500〜1900名」の従業員が従事し、ロート製薬における中国展開を支える基盤となった。

2010年にはロート製薬は、アジア地域での増産に20億円を投資する計画を公表し、中国に次ぐ拠点として「ベトナム・インドネシア」への投資を決めた。

東南アジア展開ではベトナムとインドネシアでの生産増強に投資を実施した。2011年にはベトナムにおける現地法人(1997年設立)を通じて現地生産拠点の新ラインを稼働。2012年にはインドネシア法人(1996年設立)において第3工場を新設しており、東南アジア地域で生産体制を増強した。

結果

アジア地域で売上を拡大

2010年代を通じて、ロート製薬はアジア地域で売上を拡大した。2015年度までは主に中国における売上成長が牽引する形となった。

ただし、2015年度から2021年度にかけて、アジア地域の売上成長が低迷する時期を迎えた。この理由は主力である中国での売上拡大(約300億円で頭打ちへ)に苦戦したことや、ベトナムやインドネシアといった東南アジア地域の売上は実額ベースで依然として小さいことが要因であった。

その後、2023年3月期には「ベトナム、マレーシア、インドネシア」地域の売上増大が貢献。これらの経済成長途上にある地域が成長を牽引しており、中国からのシフトが進んでいる。

証言
山田邦雄(ロート製薬・当時会長兼CEO)

ただこの1〜2年、今後伸びるか、しぼむかの大きな分かれ道だという思いを持っている。これまでは、いろんな意味で追い風が吹いていた。中国もベトナムもどんどん発展してきて、競争相手も少ない中、大きく事業を伸ばせた。しかしここに来てアジアの成長が一段落し、今後はパイの奪い合いになる。国内はドラッグストアの出店ラッシュという時代の波に乗ってうまくやってきたが、ドラッグストアも飽和したといわれている。うちの成功を見て、他社も似た商品を出し、店頭に行くと見分けがつかないような競合商品が増えた。今までよかったところが、これから課題になってくる。うかうかしていられない。

2016/5/28週刊東洋経済
2014
3月

やえやまファームの株式を取得

ロート製薬が10%出資していた「やえやまファーム(農業生産法人・沖縄県)」が債務超過に陥ったことを受けて、ロートが救済的買収を決定。株式取得比率を10%から49.9%へ高める形で追加取得を実施。取得原価14億円。買収によってロートは「のれん16億円」計上するとともに、減損損失として計上した

2016

国内向け肌ラボの販売額が頭打ちへ

FY2004〜FY2011にかけて「肌ラボ」の販売額は順調に拡大したが、FY2012に販売額の伸びがストップ。以降、肌ラボの年間販売額は100〜120億円前後で推移するようになり、国内需要が一巡へ

2016
2月

社外チャレンジワーク制度を開始(社員の副業容認)

2016年当時、日本の上場企業で副業を容認する企業は稀有だったが、ロート製薬は社員からの発案をベースに副業の容認を決定。入社3年目以降の社員について、業務時間外の副業を容認する「社外チャレンジワーク制度」を導入。2016年3月時点の応募者は60名

2018

吉野俊昭氏が急逝

吉野社長が心筋梗塞により67歳で逝去。山田邦雄氏が会長兼社長に就任

2022
3月

販売促進費を抑制。3期連続で利益率を改善

方針

販売促進を抑制

2021年度からロート製薬は販管費(主に広告宣伝費・販売促進費)の抑制を決定。売上に対する「広告宣伝費・販売促進費」の比率を22%台から19%台へと、約3%抑える施策をとった。

販管費の抑制の一方で、ロート製薬は2022年度において売上高を拡大。主に東南アジア(ベトナム・インドネシアなど)の各地域における増収が寄与した。

この結果、ロート製薬は販管費を抑制しつつ増収増益を達成。利益率を大幅に改善するに至った。

ロート製薬:コスト構造
FY 売上高(a) 広告宣伝費・販売促進費(b) (b)/(a)
FY2017 1,717億円 448億円 26.0%
FY2018 1,835億円 474億円 25.8%
FY2019 1,883億円 478億円 25.3%
FY2020 1,812億円 404億円 22.2%
FY2021 1,996億円 380億円 19.0%
FY2022 2,386億円 464億円 19.4%
出所:有価証券報告書
2025 (c) Yutaka Sugiura