1936年11月
合資会社桜ヶ丘研究所を設立(ビタミン剤研究)

東京田辺製薬(現・田辺三菱)の役員であった内藤豊次氏(新薬部長)は、欧米視察を通じて、先進国に対抗するために国産新薬の重要性を認識。東京田辺製薬で実現を試みたが上層部が反対したため、1936年に私的な研究開発機関として「合資会社桜ヶ丘研究所」を東京都荒川区三河島(3-2934)にて設立した。医薬品の研究開発と製造に従事し、東京田辺製薬が販売する体制で事業を開始した。

創薬研究のターゲットは「ビタミン剤」と「婦人衛生薬」とし、のちに「ユベラ」「サンプーン」として販売されるに至った。

その後、1943年に内藤豊次氏が55歳で東京田辺製薬の定年になったことから同社を退職し、桜ヶ丘研究所の経営に注力するようになった。

証言
内藤豊次(エーザイ創業者)

初めて外遊したのは昭和の初めである。(略)この旅で受けた一番大きい印象は、なんといっても製薬業の「核」になるものは研究室でなくてはならないということであった。スイスのチバやロッシュを初め、ドイツのメルクでもバイエルでも、アメリカのバークデビスやアボットでも、なぜあんなに立派な研究室や研究人が必要なのかと、疑われるばかりに大きいビルと大勢の人間を抱え、たくさんの動物と、訳のわからぬような測定機械を備え付けている(略)

国に帰ってからこのことを報告し、我々(注:東京田辺)も1問屋として他人の作ったものを単に取次販売するだけでは面白くないから、是非われわれもまず研究室を建て、学者を入れて人材を養成し、製薬業として本格的に出発してはどうかと進言したが、当時は一人としてこの説に賛成してくれるものはなかった。(略)これは独り田辺だけではなく、当時の御三家であった武田や塩野でも同じであったと思う。元来、問屋業というものは自分でモノを作るのではなく、他人の作ったものを取り次いで口銭を稼ぐのを業とするもので、設備に大金を要し、危険が伴い、その上でそろばんが立ちにくい製造をやるよりは、出来上がったものを右から左へ回して口銭がもらえる問屋業の方が、どれだけ良い商売であるか、何人でもすぐうなづけるところである。(略)

せっかくの名案は隠して一蹴された。しかし、私としては悔しくてならず、田辺でやらないのなら、自力でもやってみようと決心した。

1941年12月
(旧)日本衛材株式会社を設立

東京三河島の桜ヶ丘研究所が手狭になったことを受けて、埼玉県本庄に工場を新設することを決定。1941年に桜ヶ丘研究所の姉妹会社として「日本衛材株式会社」を設立し、鶴巻製系の工場跡地を取得して「本庄工場」を新設した。

本庄工場の稼働を受けて、三河島の拠点からまずは生産設備を移設するとともに、研究設備も続いて移転。三河島の拠点については、田辺製薬の研究機関として譲渡することが決定し、エーザイは「東京三河島」から「埼玉県本庄」に拠点を移転する形となった。

1944年12月
旧日本衛材と桜ヶ丘研究所を合併・日本衛材株式会社を設立
1951年
ビタミン剤「チョコラA」を発売
1955年5月
商号をエーザイ株式会社に変更
1956年
長期経営計画「三六計画」を公表
1961年9月
東京証券取引所第1部に株式上場
1966年
内藤祐次氏が代表取締役社長に就任
1966年3月
川島工場を新設(岐阜県)
1974年4月
代謝性強心剤「ノイキノン」を発売(循環器領域の創薬参入)
1977年
ビタミンE「ユベラックス」を発売
1981年11月
美里工場を新設(埼玉県)
1987年
筑波研究所において抗がん剤の研究開始
1987年11月
米国に現地法人を新設
1988年
内藤晴夫氏が代表取締役社長に就任
1990年10月
三光純薬株式会社と提携(診断薬事業)
1997年
アルツハイマー型認知症治療剤「アリセプト」を米国発売
1997年9月
プロトンポンプ阻害剤「パリエット」を発売
2008年1月
米MGIを買収
2014年3月
美里工場を売却
2015年12月
消化器疾患事業をEAファーマ株式会社へ分割
2019年7月
米国に探索研究所G202を設立
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