東京田辺製薬(現・田辺三菱)の役員であった内藤豊次氏(新薬部長)は、欧米視察を通じて、先進国に対抗するために国産新薬の重要性を認識。東京田辺製薬で実現を試みたが上層部が反対したため、1936年に私的な研究開発機関として「合資会社桜ヶ丘研究所」を東京都荒川区三河島(3-2934)にて設立した。医薬品の研究開発と製造に従事し、東京田辺製薬が販売する体制で事業を開始した。
創薬研究のターゲットは「ビタミン剤」と「婦人衛生薬」とし、のちに「ユベラ」「サンプーン」として販売されるに至った。
その後、1943年に内藤豊次氏が55歳で東京田辺製薬の定年になったことから同社を退職し、桜ヶ丘研究所の経営に注力するようになった。
初めて外遊したのは昭和の初めである。(略)この旅で受けた一番大きい印象は、なんといっても製薬業の「核」になるものは研究室でなくてはならないということであった。スイスのチバやロッシュを初め、ドイツのメルクでもバイエルでも、アメリカのバークデビスやアボットでも、なぜあんなに立派な研究室や研究人が必要なのかと、疑われるばかりに大きいビルと大勢の人間を抱え、たくさんの動物と、訳のわからぬような測定機械を備え付けている(略)
国に帰ってからこのことを報告し、我々(注:東京田辺)も1問屋として他人の作ったものを単に取次販売するだけでは面白くないから、是非われわれもまず研究室を建て、学者を入れて人材を養成し、製薬業として本格的に出発してはどうかと進言したが、当時は一人としてこの説に賛成してくれるものはなかった。(略)これは独り田辺だけではなく、当時の御三家であった武田や塩野でも同じであったと思う。元来、問屋業というものは自分でモノを作るのではなく、他人の作ったものを取り次いで口銭を稼ぐのを業とするもので、設備に大金を要し、危険が伴い、その上でそろばんが立ちにくい製造をやるよりは、出来上がったものを右から左へ回して口銭がもらえる問屋業の方が、どれだけ良い商売であるか、何人でもすぐうなづけるところである。(略)
せっかくの名案は隠して一蹴された。しかし、私としては悔しくてならず、田辺でやらないのなら、自力でもやってみようと決心した。