中外製薬の創業の背景となったのが、1923年9月に発生した関東大震災であった。貿易会社に勤務していた上野十蔵氏は、焼け野原となった東京を見て、医薬事業の企業を決意。1925年に中外新薬商会を個人創業した。
1925年の創業時点ではドイツの製薬会社「ゲーへ社」の製薬剤の輸入代理店を経営していたが、翌年の1926年5月に池袋工場(東京)を新設。医療用注射薬「ザルソブロカノン」の製造を開始して、医薬品メーカーに転身した。戦前を通じて製薬事業を強化し、1938年には高田工場を新設するなど、生産拠点を拡充。1943年には株式会社に組織変更した。
戦前はですが、ザルブロ一点張りできました。まあ、当社の旗印のようなもので、もちろん今でも重宝がられてよく売れております。けれどもですね。やはり書くことのできない薬は、心臓と肝臓の治療薬です。
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人間が生命を保ってゆくためには、心臓と肝臓が極めて大切な器官で、昔から「肝心かなめ」と言われているぐらいです。したがって、このための薬が昔から色々と研究され、発表され、新薬が生まれるかと思うと、また次のものが代わって出るという有様でした。先年、東大の薬学科の石館教授が肝臓の中の成分であるグロクロン酸という物質を薬品化し、これを「中外」で工業化することに成功したわけです。長年にわたって医薬学会で研究に研究されてきました結果、このグルクロン酸製剤であるグロンサンが体内になくてはならぬ最もいい薬ということになりました。
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今回、株式公開という段取りとなりましたが、今後ともさらに意義ある事業として大いに伸ばしていきたい。そして、微力ながら国家のため、いくらかでも貢献したいと考えております。単に、もうけるための製薬事業なら、自分達関係者だけでやっていけば良いわけですが、我々の尊い身体を大切にし、お互いが働く。この国民保険の見地から、少しでもいい薬を安価に作らなければならなんと思っておる次第です。
そこで当社が今後そうした方向に発展していくためには、現在の資本金では足りません。
中外製薬の売上成長を牽引してきた大衆向け医薬品「グロンサン」の販売不振により業績が悪化。1966年3月期に中外製薬は経営再建のために早期退職者420名の募集を実施。
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振り返ってみると、1980年代初めに当時の社長だった上野公夫と研究開発担当の役員だった佐野肇(のち社長)の2人が、バイオの研究に投資を続ける決断をしてくれたことが大きかったと思います。
中外製薬は1970年代半ばから、白血球を増やす遺伝子組換えバイオ製剤「ノイトロジン」の研究を始めていました。分子量500以下の低分子薬に対して、分子量は2万くらい。開発も製造も低分子薬とはまったく方法が違いますから大変な苦労をしましたが、1980年代には薬になりそうな段階に来ていました。その開発を続ける決断を当時の経営者がしていなかったら、いまの中外はないと思います。
ノイトロジンの臨床試験が始まったのは1987年、上市したのは1991年ですから、研究開始からずいぶん時間がかかりましたが、バイオ医薬品の開発について多くの知見と技術を蓄積することができました。
2001年12月10日に中外製薬(永山治・社長)は、スイスの大手製薬メーカーであるロシュ(F. Hoffmann-La Roche, Ltd.)と、アライアンスに係る基本合意を発表。半年以上の準備期間を経て、2002年9月にロシュによる中外製薬の株式取得(公開買い付け)および、中外製薬によるロシュへの第三者割当増資を実施。この結果、ロシュは中外製薬の株式50.13%を保有(2003年3月末時点)し、中外製薬はロシュの子会社となった。また、2002年10月に中外製薬はロシュの日本法人と合併し、ロシュの実質的な日本法人としての役割を加えた。
この結果、2003年3月末時点で中外製薬の株主のうち「73.34%」が外国法人となり、実質的な外資が保有する日本企業となった。日本の上場企業が、進んで外資企業の子会社になる事例は珍しく、経済界でも注目を集めた。
実質的にはロシュによる中外製薬の買収であるが、中外製薬としては「買収された」という表現は好まず、「戦略的アライアンスの締結」というニュアンスであることを主張した。増資に際して、10年間はロシュ社が中外製薬の株式を大幅に買い増せないことや、中外製薬における株式上場の維持および経営の独立性を約束したことで、ロシュ社が中外製薬の経営を支配する形は取らなかった。
すでに、1998年の時点において、中外製薬の永山治社長はロシュのCEO(フーマー氏)と食事を共にする仲であり、経営トップ間における信頼が確立されていたものと推定される。また、フーマー氏は「think globally, act locally」という思考を持っていたことから、ロシュによる中外製薬の株式取得に際して、経営の独立性認めた。
中外製薬がロシュとの戦略的提携を決断した理由は、グローバルにおける創薬の競争激化と国内創薬メーカーにおける再編予想にあった。
中外製薬は市場が拡大しつつあった抗体医薬(バイオ領域)に注力する意向を示していたが、開発費が高騰しており、創薬に成功した場合もグローバルに販路を構築するコストが重くのしかかることが予想された。
そこで、中外製薬では自社で創薬した医薬品について、海外での販売はロシュの販路に乗せ、逆にロシュ製品の国内販売を中外製薬が引き受けることで、お互いの強みを補完する形をとった。
確信があったわけではありません。1998年にロシュのCEOに就任したフランツ・フーマーさんとはそれ以前から知り合いで、CEO就任後は彼が日本に来るたびに食事をしたり、私が欧州に出張した際には彼を訪ねたりして、医薬品業界の現状や将来展望について意見を交わす間柄でした。21世紀は薬の開発がますます難しくなり、R&D費は巨額になる。製薬会社の成長を決めるのは新薬を生み出せるかどうかだが、新薬開発の成功率は下がるので、経営のリスクは大きくなる。それが、私たち2人の共通認識でした。
一方、中外製薬は早くからバイオ医薬品の開発に取り組み、関節リウマチなどの治療薬「アクテムラ」が臨床試験の段階に入るなど、バイオに強みがありました。ロシュも抗体の抗がん剤の「アバスチン」が臨床試験のフェーズ3まで進むなど、バイオ医薬品の研究で欧州をリードしていました。子会社のジェネンテックも米国でトップを競うバイオ医薬品メーカーでした。
バイオ医薬品の創製には、新たな創薬技術の獲得のみならず、生産段階でも細胞を培養・精製する技術と設備が新たに必要となるなど莫大な投資が必要でした。21世紀にかけてバイオテクノロジーが創薬の主流になっていくとフーマーさんと私は考えていたので、一緒にやれば大きな相乗効果を発揮できると見て、戦略的アライアンスを決断したわけです。