1925年創業。解毒剤「グロンサン」で成長し、EPO製造販売権の取得でバイオ医薬に本格参入。ロシュとの戦略提携で研究開発力を強化し、国産初の抗体医薬「アクテムラ」を生み出した日本を代表するバイオ製薬企業。
1925
決断
中外新薬商会を創業
「ザルブロ一点張り」という資本制約下の集中戦略
1951
決断
解毒剤「グロンサン」の発売
特許と製造技術で築いた「グロンサン依存」の構造
1956
東京証券取引所に株式上場
1956東京証券取引所に株式上場
1960
総合研究所を新設
1960総合研究所を新設
1966
無配転落・早期退職者を募集
1966無配転落・早期退職者を募集
1971
臨床検査薬に参入
1971臨床検査薬に参入
1984
米Genetics Instituteに資本参加・EPOの製造販売権を取得
1984米Genetics Instituteに資本参加・EPOの製造販売権を取得
1987
EPOを巡り競合の米アムジェン社から提訴・特許係争へ
1987EPOを巡り競合の米アムジェン社から提訴・特許係争へ
1987
富士御殿場研究所を新設
1987富士御殿場研究所を新設
1989
米ジェンブローブ社を買収(DNA診断薬)
1989米ジェンブローブ社を買収(DNA診断薬)
1990
宇都宮工場を新設
1990宇都宮工場を新設
1991
決断
バイオ製剤「ノイトロジン」を発売
十数年の研究継続がもたらしたバイオ創薬基盤
1992
永山治氏が代表取締役社長に就任
1992永山治氏が代表取締役社長に就任
1995
米国に現地法人を新設(バイオ)
1995米国に現地法人を新設(バイオ)
2001
筑波研究所を新設
2001筑波研究所を新設
2002
決断
ロシュと戦略提携を締結
「過半出資の受け入れ」という創薬集中への代償設計
ロシュの保有比率
50.1
%
2003
高田研究所・松永工場を閉鎖
2003高田研究所・松永工場を閉鎖
2004
一般用医薬品事業をライオンに譲渡
2004一般用医薬品事業をライオンに譲渡
2005
筑波研究所を閉鎖
2005筑波研究所を閉鎖
2005
国産初の抗体医薬品「アクテムラ」を発売
2005国産初の抗体医薬品「アクテムラ」を発売
2006
医薬品製造事業を子会社に移管
2006医薬品製造事業を子会社に移管
2015
海外子会社を再編
2015海外子会社を再編
2015
抗体医薬品・血友病A治療薬「ヘムライブラ」を発売(エミシズマブ)
2015抗体医薬品・血友病A治療薬「ヘムライブラ」を発売(エミシズマブ)
2023
中外ライフサイエンスパーク横浜を稼働
2023中外ライフサイエンスパーク横浜を稼働
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売上中外製薬:売上高
単体 | 連結(単位:億円)
n/a億円
売上収益:2024/12
利益中外製薬:売上高_当期純利益率
単体 | 連結(単位:%)
%
利益率:2024/12
業績を見る
区分売上高利益利益率
1950/12単体 売上高 / 当期純利益---
1951/12単体 売上高 / 当期純利益---
1952/12単体 売上高 / 当期純利益---
1953/12単体 売上高 / 当期純利益---
1954/12単体 売上高 / 当期純利益---
1955/12単体 売上高 / 当期純利益---
1956/12単体 売上高 / 当期純利益---
1957/12単体 売上高 / 当期純利益---
1958/12単体 売上高 / 当期純利益---
1959/12単体 売上高 / 当期純利益---
1960/12単体 売上高 / 当期純利益---
1961/12単体 売上高 / 当期純利益---
1962/12単体 売上高 / 当期純利益---
1963/12単体 売上高 / 当期純利益---
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1965/12単体 売上高 / 当期純利益---
1966/12単体 売上高 / 当期純利益---
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1968/12単体 売上高 / 当期純利益---
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1970/12単体 売上高 / 当期純利益---
1971/12単体 売上高 / 当期純利益---
1972/12単体 売上高 / 当期純利益---
1973/12単体 売上高 / 当期純利益---
1974/12単体 売上高 / 当期純利益---
1975/12単体 売上高 / 当期純利益---
1976/12単体 売上高 / 当期純利益---
1977/12単体 売上高 / 当期純利益---
1978/12単体 売上高 / 当期純利益---
1979/12単体 売上高 / 当期純利益---
1980/12単体 売上高 / 当期純利益---
1981/12単体 売上高 / 当期純利益---
1982/12単体 売上高 / 当期純利益---
1983/12単体 売上高 / 当期純利益---
1984/12単体 売上高 / 当期純利益---
1985/12単体 売上高 / 当期純利益---
1986/12単体 売上高 / 当期純利益---
1987/12単体 売上高 / 当期純利益---
1988/12単体 売上高 / 当期純利益---
1989/12単体 売上高 / 当期純利益---
1990/12単体 売上高 / 当期純利益---
1991/12単体 売上高 / 当期純利益---
1992/12連結 売上高 / 当期純利益1,515億円48億円3.1%
1992/12連結 売上高 / 当期純利益1,594億円69億円4.3%
1993/3連結 売上高 / 当期純利益1,713億円82億円4.7%
1994/3連結 売上高 / 当期純利益385億円26億円6.7%
1995/3連結 売上高 / 当期純利益1,815億円98億円5.3%
1996/3連結 売上高 / 当期純利益1,856億円115億円6.1%
1997/3連結 売上高 / 当期純利益1,857億円97億円5.2%
1998/3連結 売上高 / 当期純利益1,895億円80億円4.2%
1999/3連結 売上高 / 当期純利益1,955億円87億円4.4%
2000/3連結 売上高 / 当期純利益2,030億円155億円7.6%
2001/3連結 売上高 / 当期純利益2,030億円155億円7.6%
2002/3連結 売上高 / 当期純利益2,117億円145億円6.8%
2003/3連結 売上高 / 当期純利益2,373億円-201億円-8.5%
2003/12連結 売上高 / 当期純利益2,327億円284億円12.2%
2004/12連結 売上高 / 当期純利益2,946億円341億円11.5%
2005/12連結 売上高 / 当期純利益3,271億円536億円16.3%
2006/12連結 売上高 / 当期純利益3,261億円384億円11.7%
2007/12連結 売上高 / 当期純利益1,448億円400億円27.6%
2008/12連結 売上高 / 当期純利益3,269億円392億円11.9%
2009/12連結 売上高 / 当期純利益4,289億円566億円13.1%
2010/12連結 売上高 / 当期純利益3,795億円414億円10.9%
2011/12連結 売上高 / 当期純利益3,735億円352億円9.4%
2012/12連結 売上収益 / 当期利益3,865億円468億円12.1%
2013/12連結 売上収益 / 当期利益4,236億円518億円12.2%
2014/12連結 売上収益 / 当期利益4,611億円520億円11.2%
2015/12連結 売上収益 / 当期利益4,988億円623億円12.4%
2016/12連結 売上収益 / 当期利益1,917億円543億円28.3%
2017/12連結 売上収益 / 当期利益5,341億円735億円13.7%
2018/12連結 売上収益 / 当期利益5,797億円930億円16.0%
2019/12連結 売上収益 / 当期利益6,861億円1,575億円22.9%
2020/12連結 売上収益 / 当期利益7,869億円2,147億円27.2%
2021/12連結 売上収益 / 当期利益9,997億円3,029億円30.2%
2022/12連結 売上収益 / 当期利益12,597億円3,744億円29.7%
2023/12連結 売上収益 / 当期利益11,136億円3,254億円29.2%
2024/12連結 売上収益 / 当期利益---
経営方針:2021年2030年
新成長戦略 TOP I 2030

歴史的背景

中外製薬は1925年の創業以来、注射薬や大衆薬を中心に事業を拡大してきたが、個別製品のヒットに依存する事業構造は収益の変動が大きく、長期的な競争優位を築きにくかった。1960年代には主力製品の販売不振により業績が悪化し、1966年には無配転落と早期退職者募集に踏み切るなど、事業基盤の脆弱さが顕在化した。これを契機に、同社は短期的な販売拡大よりも研究開発力の蓄積を軸とする経営へ転換し、1970年代後半からバイオ医薬品分野への継続投資を開始した。1980年代以降、海外技術との提携や研究拠点整備を進め、長期的な創薬基盤の構築を優先する姿勢を明確にしていった。

2002年には、スイスの大手製薬企業であると戦略的アライアンスを締結し、創薬と初期開発を中外製薬、グローバル販売をロシュが担う役割分担を確立した。これにより研究開発リスクと販売投資を分離し、創薬機能に経営資源を集中する事業モデルが形成された。2010年代には抗体医薬を中心とした製品群が収益の中核となった一方、薬価抑制の強化や新規モダリティの台頭により創薬環境の不確実性は高まった。こうした構造変化を踏まえ、固定期間の数値目標による管理ではなく、長期視点で到達像を定めるビジョン先行型の経営計画へ移行する位置づけとなった。

目指す姿と経営の目的

2030年に向けた経営の中心は、創薬研究と初期開発への資源集中である。自社が強みを持つ抗体技術や創薬プラットフォームに投資を継続し、研究人材や開発基盤を優先的に拡充することで、継続的に新薬候補を創出する体制を整備する。一方で、販売や後期開発については提携先のネットワークを活用し、自社で全工程を抱え込まない分業体制を維持する。事業領域は研究開発力との整合性を基準に選択し、周辺領域への拡張は抑制する方針をとる。

キャッシュアロケーションは研究開発投資を最優先とし、創薬基盤の強化に継続的に再投資する。短期的な利益目標よりも長期的な研究成果の積み上げを重視し、数値目標による固定的な統制は行わない。進捗管理は中期マイルストンと単年度計画で行い、外部環境や開発状況に応じて配分を見直す運用とする。財務成果はこれらの投資活動の結果として位置づけ、創薬力の持続的強化を経営の主軸とする。

Author's Questions

  • なぜ中外製薬は、数値目標を掲げる中期経営計画ではなくビジョン先行型へ移行したのか

    創薬は研究開始から上市までに長期間を要し、成功確率も限定的である中で、固定期間の数値目標が研究開発投資や資源配分の柔軟性を制約していなかったか。1960年代の事業不振や2002年のロシュとの役割分担の確立を含む歴史的経緯を踏まえ、どのような構造認識が計画手法の転換につながったのか。

  • ロシュとの戦略的アライアンスは、今後も維持可能なのか

    2002年の提携以降、中外製薬は創薬と初期開発、ロシュはグローバル販売という役割分担を前提に事業モデルを構築してきたが、創薬技術やモダリティの変化、グローバル製薬企業を取り巻く競争環境の変化によって、この分業関係の前提条件は変わりつつあるのではないか。加えて、ロシュが筆頭株主である一方で中外製薬は上場企業として少数株主を抱えており、資本構成やガバナンスの観点からも、この関係性には固有の緊張関係が内在していると考えられる。両社の資本関係、意思決定構造、研究開発上の相互依存の度合いを踏まえたとき、どのような条件が満たされる限りにおいて、この戦略的アライアンスは維持され得るのか。

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1925
3月

中外新薬商会を創業

「ザルブロ一点張り」という資本制約下の集中戦略

中外製薬の創業は、関東大震災後の医薬品需要に着目した上野十蔵の参入判断に端を発する。輸入代理で市場知識と取引先の信用を積み上げた後に注射薬の自社製造へ転換し、単一製品に経営資源を集約する運営を戦前期を通じて維持した。多角化を選ばず販売数量に基づく設備拡張を繰り返した背景には、研究開発力の制約と資本の限界があり、この制約下での逐次的判断が戦後の製品展開の前提条件を形成した。

背景関東大震災後の東京における医薬品事業への参入判断

1923年の関東大震災は、東京の都市機能と産業活動を広範に破壊した。貿易会社に勤務していた上野十蔵は、焼失した市街地と医薬品供給の途絶を目の当たりにし、復興局面で需要が継続する医薬分野に着目した。震災後の東京では医療機関の再建と衛生環境の改善が急務であり、医薬品への需要は一時的なものではなく構造的に持続すると見込まれた。

1925年3月、上野は個人事業として中外新薬商会を創業し、ドイツの製薬企業ゲーへ社の医薬品輸入代理を開始した。輸入販売は自社に製造設備を持つ必要がなく、投下資本を抑えながら市場参入が可能であった。上野は販売活動を通じて医療現場の需要構造を把握し、取引先との信用関係を積み上げていった。

ただし、輸入依存には為替変動と通商環境の変化というリスクが内在していた。1930年代に入ると国際情勢の不安定化が進み、海外からの安定調達に対する不確実性が高まった。上野は、輸入で得た取引基盤と製品知識を足がかりに、国内での自社製造へ事業を拡張する構想を描いた。医療現場で恒常的に需要がある注射薬を製造対象に選び、供給側の参入余地がある分野から着手する判断であった。

決断輸入代理を足がかりに注射薬の自社製造に踏み切る

1926年5月、上野は池袋に工場を新設し、医療用注射薬「ザルソブロカノン」の製造を開始した。輸入代理から製造業への転換は固定資産投資を伴うリスクテイクであり、短期の投資回収は不透明であった。それでも上野は、単一製品に経営資源を集中させる選択を行った。戦前の医薬品市場では製品ごとの需要規模が限定的であったため、多品目展開よりも単一製品の製造・品質管理・販売を一体で運営する方が合理的と判断された。

上野は後年、ザルソブロカノンを「当社の旗印」と位置づけ、売上の中核として語っている。一方で「書くことのできない薬は、心臓と肝臓の治療薬です」と述懐しており、研究開発力と人材の制約が製品範囲を限定していた。この制約のもとで、上野は既存製品の市場浸透と供給量の拡大に注力し、少数製品に依存する事業構造を意図的に維持した。

その後、需要の増加に対応して設備投資を段階的に進めた。1936年には高田工場を新設して生産規模を拡大し、1943年には株式会社へ組織変更を行い資本調達の基盤を整えた。これらの判断は、販売数量の見通しに基づく供給能力の積み上げであり、多角化や研究開発投資ではなく、既存製品の製造と流通に資源を配分する方針が一貫して取られた。

結果ザルソブロカノン一点集中がもたらした事業基盤と制約

戦前の中外製薬は、ザルソブロカノンという単一製品への集中によって製造と販売の経験を蓄積した。少数製品に資源を集約したことで品質管理と原価管理の精度を高めることが可能となり、限られた資本のもとで一定の供給体制を確立した。一方で、特定製品への依存度が高い事業構造は、需要変動に対する脆弱さを内包していた。

戦前期の同社は、製品の多角化や新規領域への参入といった選択を取ることなく、単一製品のシェア拡大と供給能力の増強を繰り返す事業運営を行った。研究開発投資は限定的にとどまり、上野自身が認識していた心臓薬・肝臓薬といった隣接領域への進出は実現しなかった。この時期に定着した「少数製品の製造と販売を一体で効率化する」という判断の型は、戦後の事業展開にも影響を与えた。

創業期に確立された事業展開の順序は、輸入代理による市場参入、製造業への転換、単一製品への集中投資、設備拡張による供給能力の段階的な積み上げであった。これらは体系的に計画されたものではなく、資本制約と市場機会に応じた逐次的な判断の積み重ねであった。この創業期の経験は、戦後のグロンサン開発において研究成果を工業化するという展開の前提条件を形成した。

「ザルブロ一点張り」という資本制約下の集中戦略

中外製薬の創業は、関東大震災後の医薬品需要に着目した上野十蔵の参入判断に端を発する。輸入代理で市場知識と取引先の信用を積み上げた後に注射薬の自社製造へ転換し、単一製品に経営資源を集約する運営を戦前期を通じて維持した。多角化を選ばず販売数量に基づく設備拡張を繰り返した背景には、研究開発力の制約と資本の限界があり、この制約下での逐次的判断が戦後の製品展開の前提条件を形成した。

証言上野十蔵(中外製薬・創業者)

戦前はですが、ザルブロ一点張りできました。まあ、当社の旗印のようなもので、もちろん今でも重宝がられてよく売れております。けれどもですね。やはり書くことのできない薬は、心臓と肝臓の治療薬です。

年表中外新薬商会を創業に関する出来事
19253月中外新薬商会を創業
1926池袋に工場を新設
1927医薬品の製造開始
1936高田工場を新設(東京)
19433月中外製薬株式会社に組織変更
1951
9月

解毒剤「グロンサン」の発売

特許と製造技術で築いた「グロンサン依存」の構造

グロンサンの製品化は、学術研究を特許取得と製造技術で囲い込み、独占的な市場を構築した事例である。医療用注射薬から大衆薬への展開により売上は拡大したが、その過程で同製品への依存度が高まり、1966年の販売不振で無配転落に至った。需要が安定する局面での効率性と、変化への耐性の欠如は、単一製品集中型の事業構造が持つ表裏の関係として現れた。

背景戦後の肝機能薬需要と東大グルクロン酸研究の工業化余地

戦後の日本では、栄養状態の悪化や感染症の蔓延により、肝機能に関する医療需要が拡大していた。肝臓は体内の解毒や代謝を担う臓器として医療現場で注目されていたが、有効な治療薬の安定供給は進んでおらず、輸入薬や代替療法に依存する状況が続いていた。学術界では、東京大学薬学科の石館守三教授がグルクロン酸に着眼した研究を進めており、肝臓内成分の解明とその薬品化の可能性が議論されていた。

中外製薬は戦前から注射薬の製造経験を持ち、単一製品に集中する生産運営を行ってきた。研究成果を製品化するには、原料の調達から製造工程の確立、品質管理までの一連の体制が必要となるが、同社は注射薬の生産技術と設備を既に保有していた。学術研究を工業的な製品へ転換する上での技術的な前提条件が、社内に整いつつあった。

決断グルクロン酸製剤の特許を取得し独占的な製品化に着手

1950年、中外製薬はグルクロン酸を主成分とする肝機能増強剤の特許権を取得した。学術成果を自社製品として独占的に展開するための法的基盤を先行して確保する判断であり、研究投資と製造投資の回収を可能にする条件整備でもあった。1951年9月には注射液として解毒剤「グロンサン」を発売し、医療機関向けの供給を開始した。

グロンサンは当初、注射薬として医療用に限定された流通であったが、需要の拡大を受けて製造方法の改良が進められた。1954年には澱粉と希硝酸を用いた合成法が確立され、原料調達と生産量の制約が緩和された。これにより一般消費者向けの販売が可能となり、グロンサンの市場は医療機関から大衆薬へと拡大した。特許による競合排除と製造技術の内製化が、参入障壁を形成した。

結果大衆薬への展開と単一製品依存がもたらした構造的脆弱性

グロンサンは肝機能薬という需要が明確な領域で販売数量を伸ばし、中外製薬の売上構成の中心を占める製品となった。注射薬から一般用医薬品への展開により、顧客層は医療機関から消費者へ広がり、売上規模は拡大した。学術研究の工業化から特許取得、製造、販売までを一貫して手がけた事例として、同社の事業運営の型を形成した。

一方で、グロンサンへの依存度の高さは、後年の経営リスクとして顕在化した。1966年にはグロンサンの販売不振により業績が悪化し、無配転落と早期退職者420名の募集に至った。単一製品への集中投資は、需要が安定している局面では効率的に機能したが、市場環境の変化に対する耐性を欠く構造でもあった。この経験は、研究開発の多様化と事業ポートフォリオの再考を促す契機となった。

特許と製造技術で築いた「グロンサン依存」の構造

グロンサンの製品化は、学術研究を特許取得と製造技術で囲い込み、独占的な市場を構築した事例である。医療用注射薬から大衆薬への展開により売上は拡大したが、その過程で同製品への依存度が高まり、1966年の販売不振で無配転落に至った。需要が安定する局面での効率性と、変化への耐性の欠如は、単一製品集中型の事業構造が持つ表裏の関係として現れた。

証言上野十蔵(中外製薬・創業者)

人間が生命を保ってゆくためには、心臓と肝臓が極めて大切な器官で、昔から「肝心かなめ」と言われているぐらいです。したがって、このための薬が昔から色々と研究され、発表され、新薬が生まれるかと思うと、また次のものが代わって出るという有様でした。先年、東大の薬学科の石館教授が肝臓の中の成分であるグロクロン酸という物質を薬品化し、これを「中外」で工業化することに成功したわけです。長年にわたって医薬学会で研究に研究されてきました結果、このグルクロン酸製剤であるグロンサンが体内になくてはならぬ最もいい薬ということになりました。

年表解毒剤「グロンサン」の発売に関する出来事
1927石館教授(東京大)がグルクロン酸に着眼
19509月中外製薬が肝機能増強剤の特許権を取得
1951注射液として発売
1954澱粉と希硝酸による合成に成功。一般向けに販売
1956
東京証券取引所に株式上場
1960
総合研究所を新設
1966
無配転落・早期退職者を募集
1971
臨床検査薬に参入
1984
米Genetics Instituteに資本参加・EPOの製造販売権を取得
1987
EPOを巡り競合の米アムジェン社から提訴・特許係争へ
1987
富士御殿場研究所を新設
1989
米ジェンブローブ社を買収(DNA診断薬)
1990
宇都宮工場を新設
1991

バイオ製剤「ノイトロジン」を発売

十数年の研究継続がもたらしたバイオ創薬基盤

ノイトロジンの開発は、収益化の時期が見通せない研究を十数年にわたって継続するという経営判断の産物であった。上野公夫と佐野肇による投資継続の決断は、短期的な財務指標では正当化しにくい選択であったが、バイオ医薬品の研究・製造に関する技術と人材を社内に蓄積する結果をもたらした。この蓄積がなければ、後年のアクテムラ開発やロシュとの提携における創薬集中の戦略は成立しなかった。

背景低分子薬が主流の時代に始まった遺伝子組換え製剤の研究

1970年代から1980年代にかけて、日本の製薬業界は低分子化合物を主軸とした創薬が主流であった。化合物ライブラリーを起点とする開発手法が一般的であり、分子量の大きいバイオ医薬品は開発期間と製造工程の両面で不確実性が高く、投資対象として選ばれにくい分野であった。遺伝子組換え技術による製剤開発は、製造設備や品質管理の体系が低分子薬とは根本的に異なり、事業化には長期にわたる技術蓄積が求められた。

中外製薬は1970年代半ばから、白血球を増やす遺伝子組換え製剤「ノイトロジン」の研究を進めていた。分子量は低分子薬の数十倍に及び、製造方法は未確立であった。1980年代初頭の段階では売上や利益への寄与は見込めず、研究の継続には経営判断が必要な状況にあった。短期的な収益に直結しない基礎研究への投資をどの時点まで続けるかという問いが、経営に突きつけられていた。

決断収益化時期の見えないバイオ研究への投資継続を経営が決断

1980年代初め、当時の社長であった上野公夫と研究開発担当役員の佐野肇は、ノイトロジンの研究を継続する決断を下した。投資回収の時期は見通せず、臨床試験と製造設備への追加投資が必要であったが、研究の中断は選択されなかった。のちに社長となる永山治は「その開発を続ける決断を当時の経営者がしていなかったら、いまの中外はないと思います」と振り返っている。

1987年に臨床試験が開始され、1991年にバイオ製剤として上市された。研究着手から上市まで十数年を要したが、その過程で中外製薬は遺伝子組換え製剤の開発と製造に関する知見を社内に蓄積した。低分子薬とは異なる品質管理体系や製造工程の設計経験が、組織内に定着していった。

結果ノイトロジン開発で蓄積されたバイオ創薬の技術と人材

ノイトロジンの上市は、単一製品の売上獲得にとどまらず、バイオ医薬品の研究・開発・製造に必要な技術と人材を社内に残す結果をもたらした。遺伝子組換え技術を用いた製剤の実用化を経験したことで、同社は後続のバイオ医薬品開発に着手する際の技術的前提を獲得した。1990年代後半に臨床段階に入った抗体医薬「アクテムラ」の開発は、ノイトロジンで蓄積された知見の延長線上にあった。

一方で、ノイトロジンの開発過程は、バイオ医薬品の事業化に必要な投資規模と時間軸の長さを明確にした。後期臨床試験から海外展開までを自社単独で担うには、中外製薬の資本規模では限界があった。この認識は、2002年のロシュとの戦略提携において、創薬と初期開発に自社資源を集中し後期開発と海外販売を外部に委ねるという役割分担の構想につながった。

十数年の研究継続がもたらしたバイオ創薬基盤

ノイトロジンの開発は、収益化の時期が見通せない研究を十数年にわたって継続するという経営判断の産物であった。上野公夫と佐野肇による投資継続の決断は、短期的な財務指標では正当化しにくい選択であったが、バイオ医薬品の研究・製造に関する技術と人材を社内に蓄積する結果をもたらした。この蓄積がなければ、後年のアクテムラ開発やロシュとの提携における創薬集中の戦略は成立しなかった。

証言永山治(中外製薬・当時社長)

振り返ってみると、1980年代初めに当時の社長だった上野公夫と研究開発担当の役員だった佐野肇(のち社長)の2人が、バイオの研究に投資を続ける決断をしてくれたことが大きかったと思います。

中外製薬は1970年代半ばから、白血球を増やす遺伝子組換えバイオ製剤「ノイトロジン」の研究を始めていました。分子量500以下の低分子薬に対して、分子量は2万くらい。開発も製造も低分子薬とはまったく方法が違いますから大変な苦労をしましたが、1980年代には薬になりそうな段階に来ていました。その開発を続ける決断を当時の経営者がしていなかったら、いまの中外はないと思います。

ノイトロジンの臨床試験が始まったのは1987年、上市したのは1991年ですから、研究開始からずいぶん時間がかかりましたが、バイオ医薬品の開発について多くの知見と技術を蓄積することができました。

1992
永山治氏が代表取締役社長に就任
1995
米国に現地法人を新設(バイオ)
2001
筑波研究所を新設
2002
10月

ロシュと戦略提携を締結

2002/3期(連結)売上高 2,117億円当期純利益 145億円
「過半出資の受け入れ」という創薬集中への代償設計

ロシュへの過半出資の受け入れは、自社の創薬力を世界市場に接続するために資本面の自主性を代償として差し出す選択であった。中外製薬は創薬と初期開発に特化し、後期開発と海外販売をロシュに委ねることで、限られた資本を研究に集中させる構造を構築した。永山治が「確信があったわけではない」と述べたように、この判断は確度の高い見通しではなく、バイオ医薬品時代の投資規模に対する構造認識から導かれたものであった。

背景バイオ医薬品時代における開発費高騰と海外販路の不足

1990年代後半、医薬品産業は低分子化合物中心の開発からバイオ医薬品へ移行する転換期にあった。抗体医薬をはじめとするバイオ製剤は、開発に多額の資金と長い時間を要する一方、上市後の売上規模は大きく、世界市場での展開が前提となりつつあった。欧米の大手製薬企業は規模を活かしてグローバル開発を進めていたが、日本の製薬企業の多くは開発費の負担と海外販売網の不足から、単独での世界展開に踏み切れずにいた。

中外製薬は1970年代からバイオ研究を継続し、ノイトロジンの開発で蓄積した技術を基盤に、1990年代後半には抗体医薬「アクテムラ」が臨床段階に入っていた。研究開発力においては国内有数の蓄積を持つ一方、後期臨床試験と海外市場での販売には自社の資本規模を超える投資が必要であった。創薬力を維持しながら世界市場に到達するための事業構造が模索されていた。

永山治社長とスイス・ロシュのフランツ・フーマーCEOは、それ以前から医薬品業界の将来について意見を交わす間柄にあった。両者の共通認識は「21世紀は新薬開発の難度が上がり、研究開発費は増大する一方、成功確率は下がる」というものであった。ロシュ側もバイオ医薬品の研究で欧州をリードしており、傘下のジェネンテックは米国のバイオ製薬大手であった。バイオ創薬に強みを持つ両社が資源を補完し合う構想が、提携交渉の出発点となった。

決断ロシュの過半出資を受け入れ創薬と販売の役割を分担する

2001年12月、中外製薬はロシュとのアライアンスに関する基本合意を発表した。2002年9月にはロシュが公開買付けと第三者割当増資を通じて中外製薬株式を取得し、2003年3月末時点で50.13%を保有した。形式上はロシュの子会社となったが、上場維持と経営の自主性を条件とし、10年間の追加買い増し制限条項も設けられた。

この提携の骨格は、研究開発と販売の役割分担であった。中外製薬は創薬と初期開発に経営資源を集中させ、後期臨床試験と海外販売はロシュのグローバルネットワークに委ねる。一方でロシュは、中外が創出する新薬候補を世界市場で展開し、日本市場では中外製薬の販売力を活用する。2002年10月にはロシュ日本法人と合併し、国内でのロシュ製品販売も中外製薬が担う体制となった。

永山は後年、この決断について「確信があったわけではありません」と述べている。バイオ医薬品の製造には細胞培養・精製技術と専用設備への莫大な投資が必要であり、自社単独ではその負担を継続しきれないという構造認識が判断の根底にあった。過半出資という資本構成は日本企業としては異例であったが、創薬機能を国内に残しつつ世界市場と接続する方法として選択された。

結果資本の自主性と引き換えに構築された創薬集中の事業モデル

提携後、中外製薬は研究開発への資源配分を強化し、複数の抗体医薬を同時に開発する体制を整えた。後期臨床試験と海外販売のコストをロシュが負担する構造により、中外製薬は創薬と初期開発に投下資本を集約できるようになった。2005年には国産初の抗体医薬品「アクテムラ」を発売し、この提携の枠組みのもとで世界市場への展開が進められた。

外資比率は2003年3月末時点で73.34%に達し、日本の上場製薬企業としては例外的な資本構成となった。しかし、創薬と初期開発の意思決定は引き続き中外製薬が主導し、研究拠点と研究人材は国内に維持された。この分業体制は、開発リスクと販売投資の分担によって研究継続性を担保するものであり、資本構成と機能配置を分離して設計された提携構造であった。

この戦略提携は、規模で劣る製薬企業が世界市場に参加するための一つの解を提示した。自社が優位性を持つ機能に特化し、それ以外を外部に委ねるという選択は、全工程を自社で完結させるフルインテグレーション型とは異なる事業モデルであった。資本面での自主性を一部手放す代わりに創薬集中の体制を構築するという判断が、その後の中外製薬の事業方向を規定した。

2002/3期(連結)売上高 2,117億円当期純利益 145億円
「過半出資の受け入れ」という創薬集中への代償設計

ロシュへの過半出資の受け入れは、自社の創薬力を世界市場に接続するために資本面の自主性を代償として差し出す選択であった。中外製薬は創薬と初期開発に特化し、後期開発と海外販売をロシュに委ねることで、限られた資本を研究に集中させる構造を構築した。永山治が「確信があったわけではない」と述べたように、この判断は確度の高い見通しではなく、バイオ医薬品時代の投資規模に対する構造認識から導かれたものであった。

証言永山治(中外製薬・当時社長)

確信があったわけではありません。1998年にロシュのCEOに就任したフランツ・フーマーさんとはそれ以前から知り合いで、CEO就任後は彼が日本に来るたびに食事をしたり、私が欧州に出張した際には彼を訪ねたりして、医薬品業界の現状や将来展望について意見を交わす間柄でした。21世紀は薬の開発がますます難しくなり、R&D費は巨額になる。製薬会社の成長を決めるのは新薬を生み出せるかどうかだが、新薬開発の成功率は下がるので、経営のリスクは大きくなる。それが、私たち2人の共通認識でした。

一方、中外製薬は早くからバイオ医薬品の開発に取り組み、関節リウマチなどの治療薬「アクテムラ」が臨床試験の段階に入るなど、バイオに強みがありました。ロシュも抗体の抗がん剤の「アバスチン」が臨床試験のフェーズ3まで進むなど、バイオ医薬品の研究で欧州をリードしていました。子会社のジェネンテックも米国でトップを競うバイオ医薬品メーカーでした。

バイオ医薬品の創製には、新たな創薬技術の獲得のみならず、生産段階でも細胞を培養・精製する技術と設備が新たに必要となるなど莫大な投資が必要でした。21世紀にかけてバイオテクノロジーが創薬の主流になっていくとフーマーさんと私は考えていたので、一緒にやれば大きな相乗効果を発揮できると見て、戦略的アライアンスを決断したわけです。

2003
高田研究所・松永工場を閉鎖
2004
一般用医薬品事業をライオンに譲渡
2005
筑波研究所を閉鎖
2005
国産初の抗体医薬品「アクテムラ」を発売
2006
医薬品製造事業を子会社に移管
2015
海外子会社を再編
2015
抗体医薬品・血友病A治療薬「ヘムライブラ」を発売(エミシズマブ)
2023
中外ライフサイエンスパーク横浜を稼働