1925年3月
中外新薬商会を創業

上野十蔵氏による中外製薬の創業

中外製薬の創業の背景となったのが、1923年9月に発生した関東大震災であった。貿易会社に勤務していた上野十蔵氏は、焼け野原となった東京を見て、医薬事業の企業を決意。1925年に中外新薬商会を個人創業した。

1925年の創業時点ではドイツの製薬会社「ゲーへ社」の製薬剤の輸入代理店を経営していたが、翌年の1926年5月に池袋工場(東京)を新設。医療用注射薬「ザルソブロカノン」の製造を開始して、医薬品メーカーに転身した。戦前を通じて製薬事業を強化し、1938年には高田工場を新設するなど、生産拠点を拡充。1943年には株式会社に組織変更した。

1925年
3月
中外新薬商会を創業
1926年
池袋に工場を新設
1927年
医薬品の製造開始
1936年
高田工場を新設(東京)
1943年
3月
中外製薬株式会社に組織変更
証言
上野十蔵(中外製薬・創業者)

戦前はですが、ザルブロ一点張りできました。まあ、当社の旗印のようなもので、もちろん今でも重宝がられてよく売れております。けれどもですね。やはり書くことのできない薬は、心臓と肝臓の治療薬です。

1951年9月
解毒剤「グロンサン」の発売

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1927年
石館教授(東京大)がグルクロン酸に着眼
1950年
9月
中外製薬が肝機能増強剤の特許権を取得
1951年
注射液として発売
1954年
澱粉と希硝酸による合成に成功。一般向けに販売
証言
上野十蔵(中外製薬・創業者)

人間が生命を保ってゆくためには、心臓と肝臓が極めて大切な器官で、昔から「肝心かなめ」と言われているぐらいです。したがって、このための薬が昔から色々と研究され、発表され、新薬が生まれるかと思うと、また次のものが代わって出るという有様でした。先年、東大の薬学科の石館教授が肝臓の中の成分であるグロクロン酸という物質を薬品化し、これを「中外」で工業化することに成功したわけです。長年にわたって医薬学会で研究に研究されてきました結果、このグルクロン酸製剤であるグロンサンが体内になくてはならぬ最もいい薬ということになりました。

1956年3月
東京証券取引所に株式上場

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証言
上野十蔵(中外製薬・創業者)

今回、株式公開という段取りとなりましたが、今後ともさらに意義ある事業として大いに伸ばしていきたい。そして、微力ながら国家のため、いくらかでも貢献したいと考えております。単に、もうけるための製薬事業なら、自分達関係者だけでやっていけば良いわけですが、我々の尊い身体を大切にし、お互いが働く。この国民保険の見地から、少しでもいい薬を安価に作らなければならなんと思っておる次第です。

そこで当社が今後そうした方向に発展していくためには、現在の資本金では足りません。

1960年9月
総合研究所を新設
1966年3月
無配転落・早期退職者を募集

中外製薬の売上成長を牽引してきた大衆向け医薬品「グロンサン」の販売不振により業績が悪化。1966年3月期に中外製薬は経営再建のために早期退職者420名の募集を実施。

1971年2月
臨床検査薬に参入
1984年7月
米Genetics Instituteに資本参加・EPOの製造販売権を取得
1987年6月
富士御殿場研究所を新設
1987年6月
EPOを巡り競合の米アムジェン社から提訴・特許係争へ
1989年12月
米ジェンブローブ社を買収(DNA診断薬)
1990年10月
宇都宮工場を新設
1991年
バイオ製剤「ノイトロジン」を発売

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証言
永山治(中外製薬・当時社長)

振り返ってみると、1980年代初めに当時の社長だった上野公夫と研究開発担当の役員だった佐野肇(のち社長)の2人が、バイオの研究に投資を続ける決断をしてくれたことが大きかったと思います。

中外製薬は1970年代半ばから、白血球を増やす遺伝子組換えバイオ製剤「ノイトロジン」の研究を始めていました。分子量500以下の低分子薬に対して、分子量は2万くらい。開発も製造も低分子薬とはまったく方法が違いますから大変な苦労をしましたが、1980年代には薬になりそうな段階に来ていました。その開発を続ける決断を当時の経営者がしていなかったら、いまの中外はないと思います。

ノイトロジンの臨床試験が始まったのは1987年、上市したのは1991年ですから、研究開始からずいぶん時間がかかりましたが、バイオ医薬品の開発について多くの知見と技術を蓄積することができました。

1992年
永山治氏が代表取締役社長に就任
1978年
永山治氏:中外製薬入社(創業家の娘婿)
1983年
永山治氏:国際事業部長
1985年
永山治氏:取締役事業企画部長
1992年
永山治氏:代表取締役社長に就任
2012年
永山治氏:代表取締役会長兼CEO
2020年
永山治氏:名誉会長(代表権なし)
1995年7月
米国に現地法人を新設(バイオ)
2001年4月
筑波研究所を新設
2002
10月

ロシュが中外製薬の株式50.1%を取得(戦略的アライアンスの締結)

ロシュによる中外製薬の取得

2001年12月10日に中外製薬(永山治・社長)は、スイスの大手製薬メーカーであるロシュ(F. Hoffmann-La Roche, Ltd.)と、アライアンスに係る基本合意を発表。半年以上の準備期間を経て、2002年9月にロシュによる中外製薬の株式取得(公開買い付け)および、中外製薬によるロシュへの第三者割当増資を実施。この結果、ロシュは中外製薬の株式50.13%を保有(2003年3月末時点)し、中外製薬はロシュの子会社となった。また、2002年10月に中外製薬はロシュの日本法人と合併し、ロシュの実質的な日本法人としての役割を加えた。

この結果、2003年3月末時点で中外製薬の株主のうち「73.34%」が外国法人となり、実質的な外資が保有する日本企業となった。日本の上場企業が、進んで外資企業の子会社になる事例は珍しく、経済界でも注目を集めた。

実質的にはロシュによる中外製薬の買収であるが、中外製薬としては「買収された」という表現は好まず、「戦略的アライアンスの締結」というニュアンスであることを主張した。増資に際して、10年間はロシュ社が中外製薬の株式を大幅に買い増せないことや、中外製薬における株式上場の維持および経営の独立性を約束したことで、ロシュ社が中外製薬の経営を支配する形は取らなかった。

すでに、1998年の時点において、中外製薬の永山治社長はロシュのCEO(フーマー氏)と食事を共にする仲であり、経営トップ間における信頼が確立されていたものと推定される。また、フーマー氏は「think globally, act locally」という思考を持っていたことから、ロシュによる中外製薬の株式取得に際して、経営の独立性認めた。

グローバルな創薬における事業効率化

中外製薬がロシュとの戦略的提携を決断した理由は、グローバルにおける創薬の競争激化と国内創薬メーカーにおける再編予想にあった。

中外製薬は市場が拡大しつつあった抗体医薬(バイオ領域)に注力する意向を示していたが、開発費が高騰しており、創薬に成功した場合もグローバルに販路を構築するコストが重くのしかかることが予想された。

そこで、中外製薬では自社で創薬した医薬品について、海外での販売はロシュの販路に乗せ、逆にロシュ製品の国内販売を中外製薬が引き受けることで、お互いの強みを補完する形をとった。

証言
永山治(中外製薬・当時社長)

確信があったわけではありません。1998年にロシュのCEOに就任したフランツ・フーマーさんとはそれ以前から知り合いで、CEO就任後は彼が日本に来るたびに食事をしたり、私が欧州に出張した際には彼を訪ねたりして、医薬品業界の現状や将来展望について意見を交わす間柄でした。21世紀は薬の開発がますます難しくなり、R&D費は巨額になる。製薬会社の成長を決めるのは新薬を生み出せるかどうかだが、新薬開発の成功率は下がるので、経営のリスクは大きくなる。それが、私たち2人の共通認識でした。

一方、中外製薬は早くからバイオ医薬品の開発に取り組み、関節リウマチなどの治療薬「アクテムラ」が臨床試験の段階に入るなど、バイオに強みがありました。ロシュも抗体の抗がん剤の「アバスチン」が臨床試験のフェーズ3まで進むなど、バイオ医薬品の研究で欧州をリードしていました。子会社のジェネンテックも米国でトップを競うバイオ医薬品メーカーでした。

バイオ医薬品の創製には、新たな創薬技術の獲得のみならず、生産段階でも細胞を培養・精製する技術と設備が新たに必要となるなど莫大な投資が必要でした。21世紀にかけてバイオテクノロジーが創薬の主流になっていくとフーマーさんと私は考えていたので、一緒にやれば大きな相乗効果を発揮できると見て、戦略的アライアンスを決断したわけです。

決算
中外製薬の業績
2003年3月期(連結)
売上高
2373
億円
当期純利益
-201
億円
従業員数
5743
営業CF
225
億円
投資CF
-160
億円
財務CF
65
億円
2003年12月
高田研究所・松永工場を閉鎖
2004年12月
一般用医薬品事業をライオンに譲渡
2005年3月
筑波研究所を閉鎖
2005年
国産初の抗体医薬品「アクテムラ」を発売
2006年5月
医薬品製造事業を子会社に移管
2015年7月
海外子会社を再編
2015年7月
抗体医薬品・血友病A治療薬「ヘムライブラ」を発売(エミシズマブ)
2023年4月
中外ライフサイエンスパーク横浜を稼働
2023年
3月
富士御殿場研究所・鎌倉研究所を閉鎖
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