1781年創業。薬種商から出発し、アリナミン・リュープリン・プログラフなど大型新薬を輩出。Shire買収で世界トップ10入りを果たし、希少疾患・血漿分画製剤を中核とするグローバル製薬企業へと変貌した。
1781
決断
薬種商を創業
道修町で信頼形成
1915
決断
武田製薬所を新設
製薬メーカーへの転換点
1943
武田薬品工業に商号変更
1943武田薬品工業に商号変更
1949
東京証券取引所に株式上場
1949東京証券取引所に株式上場
1954
決断
大衆薬アリナミンを発売
大衆薬参入で事業構造を転換
1960
事業部制を導入
1960事業部制を導入
1963
湘南工場を新設
1963湘南工場を新設
1973
大型新薬・リラシリンを開発
1973大型新薬・リラシリンを開発
1974
小西新兵衛氏が社長就任
1974小西新兵衛氏が社長就任
1977
決断
米アボット社と提携
グローバル化の第一歩
1977
決断
スモン訴訟対応
引当金累計
200
億円
1980
研究開発投資を強化。研究開発費年間200億円を計上
1980研究開発投資を強化。研究開発費年間200億円を計上
1988
筑波研究所を新設
1988筑波研究所を新設
1989
決断
リュープリンを発売
1製品でグローバル企業へ
1991
タケプロンを発売
1991タケプロンを発売
1992
研究所の組織改革を実施
1992研究所の組織改革を実施
1993
大型新薬・プログラフを発売
1993大型新薬・プログラフを発売
1996
決断
カンパニー制を導入
世界企業化を前提とした組織の再設計
1997
武田アメリカ研究開発センターを新設
1997武田アメリカ研究開発センターを新設
1997
プロプレスを発売
1997プロプレスを発売
1997
アクトスが米国で承認
1997アクトスが米国で承認
2005
決断
非注力事業の売却を開始
創薬への集中投資
2008
決断
米ミレニアム社を買収
巨額買収戦略の起点
取得原価
8866
百万ドル
2011
湘南研究所を新設
2011湘南研究所を新設
2011
決断
ナイコメッド社を買収
取得原価
1
兆円
2016
決断
CEOにウェバー氏が就任
外人のCEO登用
2016
長期収載品を売却
2016長期収載品を売却
2017
ARIADを買収
2017ARIADを買収
2017
和光純薬工業をで売却
2017和光純薬工業をで売却
2019
決断
Shireを買収
巨額買収で価値毀損
取得対価
6.2
兆円
2020
大衆薬事業を売却
2020大衆薬事業を売却
2026
ジュリー・キムがCEO就任予定
2026ジュリー・キムがCEO就任予定
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武田薬品工業:売上高売上
■単体 | ■連結(単位:億円
45,815億円
売上収益:2025/3
武田薬品工業:売上高_当期純利益率利益
○単体 | ○連結(単位:%)
2.3%
利益率:2025/3
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区分売上高利益※利益率
1957/3単体 売上高 / 当期純利益163億円--
1958/3単体 売上高 / 当期純利益204億円--
1959/3単体 売上高 / 当期純利益219億円--
1960/3単体 売上高 / 当期純利益249億円--
1961/3単体 売上高 / 当期純利益307億円--
1962/3単体 売上高 / 当期純利益431億円--
1963/3単体 売上高 / 当期純利益556億円--
1964/3単体 売上高 / 当期純利益735億円53億円7.3%
1965/3単体 売上高 / 当期純利益951億円63億円6.6%
1966/3単体 売上高 / 当期純利益927億円61億円6.6%
1967/3単体 売上高 / 当期純利益1,039億円62億円5.9%
1968/3単体 売上高 / 当期純利益1,169億円86億円7.3%
1969/3単体 売上高 / 当期純利益1,395億円120億円8.6%
1970/3単体 売上高 / 当期純利益1,599億円143億円8.9%
1971/3単体 売上高 / 当期純利益1,722億円132億円7.6%
1972/3単体 売上高 / 当期純利益1,712億円82億円4.8%
1973/3単体 売上高 / 当期純利益1,880億円72億円3.8%
1974/3単体 売上高 / 当期純利益---
1975/3単体 売上高 / 当期純利益---
1976/3単体 売上高 / 当期純利益2,739億円73億円2.6%
1977/3連結 売上高 / 当期純利益3,168億円103億円3.2%
1978/3連結 売上高 / 当期純利益3,479億円130億円3.7%
1979/3連結 売上高 / 当期純利益3,886億円199億円5.1%
1980/3連結 売上高 / 当期純利益4,383億円226億円5.1%
1981/3連結 売上高 / 当期純利益4,505億円224億円4.9%
1982/3連結 売上高 / 当期純利益4,836億円246億円5.0%
1983/3連結 売上高 / 当期純利益5,194億円262億円5.0%
1984/3連結 売上高 / 当期純利益5,309億円244億円4.5%
1985/3連結 売上高 / 当期純利益5,438億円222億円4.0%
1986/3連結 売上高 / 当期純利益5,518億円232億円4.2%
1987/3連結 売上高 / 当期純利益5,714億円284億円4.9%
1988/3連結 売上高 / 当期純利益6,329億円379億円5.9%
1989/3連結 売上高 / 当期純利益6,867億円388億円5.6%
1990/3連結 売上高 / 当期純利益6,943億円368億円5.3%
1991/3連結 売上高 / 当期純利益6,914億円444億円6.4%
1992/3連結 売上高 / 当期純利益7,096億円338億円4.7%
1993/3連結 売上高 / 当期純利益7,201億円480億円6.6%
1994/3連結 売上高 / 当期純利益7,278億円476億円6.5%
1995/3連結 売上高 / 当期純利益7,716億円514億円6.6%
1996/3連結 売上高 / 当期純利益8,013億円598億円7.4%
1997/3連結 売上高 / 当期純利益8,388億円713億円8.5%
1998/3連結 売上高 / 当期純利益8,418億円816億円9.6%
1999/3連結 売上高 / 当期純利益8,446億円917億円10.8%
2000/3連結 売上高 / 当期純利益9,231億円1,196億円12.9%
2001/3連結 売上高 / 当期純利益9,634億円1,468億円15.2%
2002/3連結 売上高 / 当期純利益10,050億円2,356億円23.4%
2003/3連結 売上高 / 当期純利益10,460億円2,717億円25.9%
2004/3連結 売上高 / 当期純利益10,864億円2,852億円26.2%
2005/3連結 売上高 / 当期純利益11,229億円2,774億円24.7%
2006/3連結 売上高 / 当期純利益12,122億円3,132億円25.8%
2007/3連結 売上高 / 当期純利益13,051億円3,358億円25.7%
2008/3連結 売上高 / 当期純利益13,748億円3,554億円25.8%
2009/3連結 売上高 / 当期純利益15,383億円2,343億円15.2%
2010/3連結 売上高 / 当期純利益14,659億円2,977億円20.3%
2011/3連結 売上高 / 当期純利益14,193億円2,478億円17.4%
2012/3連結 売上高 / 当期純利益15,089億円1,241億円8.2%
2013/3連結 売上収益 / (親)当期利益15,570億円1,485億円9.5%
2014/3連結 売上収益 / (親)当期利益16,916億円1,066億円6.3%
2015/3連結 売上収益 / (親)当期利益17,778億円-1,457億円-8.2%
2016/3連結 売上収益 / (親)当期利益18,073億円801億円4.4%
2017/3連結 売上収益 / (親)当期利益17,320億円1,155億円6.6%
2018/3連結 売上収益 / (親)当期利益17,705億円1,868億円10.5%
2019/3連結 売上収益 / (親)当期利益20,972億円1,351億円6.4%
2020/3連結 売上収益 / (親)当期利益32,911億円442億円1.3%
2021/3連結 売上収益 / (親)当期利益31,978億円3,760億円11.7%
2022/3連結 売上収益 / (親)当期利益35,690億円2,300億円6.4%
2023/3連結 売上収益 / (親)当期利益40,274億円3,170億円7.8%
2024/3連結 売上収益 / (親)当期利益42,637億円1,441億円3.3%
2025/3連結 売上収益 / (親)当期利益45,815億円1,081億円2.3%
経営方針:2025年2026年
※経営計画は未公表

歴史的背景

武田薬品工業は1990年代まで、医療用医薬品を中核としつつも、一般用医薬品や周辺事業を含む総合医薬品メーカーとして成長してきた。しかし医薬品開発の大型化と研究開発費の高騰が進む中で、事業の分散は競争力低下につながるとの認識が強まり、2000年代に入ると選択と集中を進め、創薬を軸とする医薬品専業企業への転換を明確にした。この戦略の下で、消化器・中枢神経系などにおける大型新薬が相次いで市場投入され、2000年代の業績を牽引する成長局面を形成した。

一方で、こうした大型新薬への依存は、特許切れに伴う将来の収益減少リスクを内包しており、内製創薬のみで安定的にパイプラインを維持することの難しさが顕在化した。これに対応するため、武田薬品はグローバル化とパイプライン拡充を目的とした企業買収を活用し、2011年のナイコメッド買収、2010年代後半のShire買収を通じて事業構造を転換した。これらの買収は成長領域の拡大に寄与する一方、企業規模の急拡大と財務負担の増大をもたらし、巨大企業として収益性と資本効率をいかに両立させるかという現在の経営課題を形成するに至っている。

経営指針

武田薬品工業は、2019年のシャイアーの買収を通じて事業領域と地理的展開を大きく拡張し、日本発祥の企業としては例外的な規模を持つグローバル製薬企業としての体裁を整えた。希少疾患領域を中心とした事業ポートフォリオの構築により、研究開発、販売、製造における国際的なプレゼンスは大きく向上し、単独で世界市場に向き合うための基盤を獲得した。一方で、約6兆円規模に及ぶ買収は、有利子負債の大幅な増加を招き、同社の財務構造に大きな変化をもたらした。

買収後の武田薬品は、財務基盤の回復を最優先課題と位置づけ、非中核事業の売却やキャッシュフローの創出を通じた負債圧縮に数年の時間を要してきた。この過程では、研究開発投資や新薬創出に向けた経営資源の配分が制約される局面も生じ、巨大企業としての規模と創薬力をいかに両立させるかが経営上の主要な論点となった。こうした経験を踏まえ、同社は成長投資と財務規律を同時に成立させる経営を指向し、収益性を基準とした事業運営を通じて、グローバル企業として持続的に価値を創出することを経営指針としている。

Author's Questions

  • なぜ武田は、6兆円規模のShire買収を「唯一の現実解」と判断したのか

    2010年代後半、武田薬品工業には内製創薬の強化、段階的な提携や小規模買収、地域特化型の成長など複数の選択肢が存在していたはずである。その中で、なぜ同社は財務リスクを大きく伴う6兆円規模の買収を選び、他の成長シナリオを事実上放棄する判断に至ったのか。競争環境、時間軸、パイプラインの質と量をどのように評価していたのか?

  • なぜ武田は、2000年代の大型新薬の成功体験を再現できなかったのか

    2000年代の武田薬品工業は、内製創薬による大型新薬の連続投入によって高収益体質を築いた。しかし、その後も同様のモデルを前提とした場合、なぜ同じ成果を再現することができなかったのか。研究開発環境や競争条件の変化に対し、当時の成功体験はどのように意思決定へ影響を与え、特に抗体医薬や希少疾患への注力という選択肢はなぜ採用されなかったのか?

  • なぜウェバーCEOは企業価値が低迷する中で解任されなかったのか

    シャイアー買収後、武田薬品の株価や資本効率は長期にわたり低迷したが、クリストフ・ウェバーCEOは在任を続けた。この事実は、業績評価の軸が株主リターンにどの程度置かれていたのか、また取締役会がCEOの経営判断をどのように検証していたのかについて、不明な点が多い。巨額買収という不可逆な意思決定の後、経営の継続性が優先された可能性もあるが、結果として取締役会が経営責任をどこまで問う構造であったのかは、外部からは必ずしも明確ではない。

Author's Insights

「流通→製造→大衆薬→創薬」240年かけて川上へ遡り続けた製薬企業
洞察

1781年、初代武田長兵衛が大阪・道修町で薬種商を創業した時点では、武田は薬を「作る」企業ではなく「流す」企業だった。和漢薬の仲買として、仕入れ先との信用関係と品質の見極めが競争力の源泉であり、製造機能は持たなかった。当主が「武田長兵衛」を代々襲名する慣行は、個人ではなく屋号と信用を軸に事業を存続させる仕組みであり、商人としての合理性があった。この構造は130年以上にわたって維持され、武田は道修町の有力薬種商として地歩を固めた。流通が事業の本質だった時代である。

最初の転換点は1914年の第一次世界大戦だった。ドイツからの医薬品輸入が途絶し、輸入依存の事業構造が根底から揺らいだ。武田は1915年に大阪に武田製薬所を新設し、自社製造に踏み出した。流通から製造への転換である。次の転換は1954年のアリナミン発売だった。戦後の栄養不足を背景に、ビタミンB₁誘導体を大衆薬として投入し、三船敏郎を起用した広告戦略と「タケダ会」による全国統一価格販売で国民的ブランドに育てた。ここで武田は「作る」だけでなく「売る」企業へと変わった。ただし、この段階ではまだ「創薬」企業ではない。

創薬への本格的な軸足移動は1980年代以降に加速する。1976年の物質特許制度の実施により、後発企業が製法を変えて模倣する抜け道が塞がれ、創薬に対する特許の実効性が高まった。武田はFY1979に研究開発費210億円を計上し、競合他社の倍の水準を投じて創薬重視の方向を鮮明にした。1989年にリュープリン、1991年にタケプロン、1997年にアクトスと大型新薬を相次いで市場投入。とりわけリュープリンは、米国現地法人の責任者だった武田國男が抗生物質の開発を中止し、がん治療薬に資源を集中させるという「撤退覚悟の集中」から生まれた製品だった。この成功体験が、後の武田國男社長時代の「選択と集中」路線――化学品・食品・農薬など多角化事業の売却と医薬品への経営資源集中――の原型となった。

武田薬品の240年は、流通→製造→大衆薬→医療用医薬品→グローバル創薬と、事業の重心を一貫して「より上流」へ移し続けてきた軌跡として読むことができる。変化の速度は決して速くない。薬種商として130年、製造業として40年、大衆薬メーカーとして30年を経て、ようやく創薬型国際企業としての姿が定まった。しかし方向は一貫している。各時代の転換は、外部環境の変化――輸入途絶、栄養需要、特許制度、グローバル化――に対応する形で起きたが、いずれも「より川上へ、より付加価値の高い領域へ」という選択だった。240年かけて流通から創薬へ。この移行の遅さと一貫性の両方が、武田薬品という企業の本質を映し出している。

2026-02-08 | by author
グローバル人材を育てなかった代償――
買収連鎖と外国人CEO招聘と解任の難しさ
洞察

2008年のミレニアム買収(約89億ドル)は、武田薬品にとって初めての本格的な巨額海外M&Aだった。がん領域の創薬基盤と米国拠点を一括取得する判断を下したのは長谷川閑史社長である。多角化事業の売却を完了し、医薬品への経営資源集中を進めた武田國男路線の延長線上で、次は「自社創薬だけでは時間がかかる」という認識から、外部の創薬基盤を買うフェーズに入った。ミレニアム単体で見れば合理的な判断だったが、この買収が以後15年にわたる巨額M&A連鎖の起点となった。2011年にナイコメッドを約1.1兆円、2017年にARIADを5831億円、そして2019年にShireを6.2兆円。各買収は個別の戦略的根拠を持つが、全体を通して見ると「前の買収で足りなかった部分を次の買収で補う」連鎖構造が浮かび上がる。創薬基盤が足りないからミレニアム、販売網が足りないからナイコメッド、パイプラインが足りないからARIAD、希少疾患の売上基盤が足りないからShire。買収が次の買収を呼ぶエスカレーション構造である。

この連鎖を加速させたのは、グローバル経営を担える人材の不足という構造的な問題だった。武田薬品は長く武田家と小西家の二つの創業家が経営を担ってきたが、2003年に非創業家の長谷川閑史が社長に就任し、創業家支配から脱却した。しかし、買収した海外企業をグリップできる経営人材は社内に十分育っていなかった。ミレニアム、ナイコメッドと買収を重ねるたびに、現地の経営陣と研究組織をマネジメントする能力が問われたが、日本本社から派遣できる人材には限りがあった。グローバル化を買収で進めれば進めるほど、買収先を統治する人材の不足が顕在化する。この構造的な矛盾が、2015年のクリストフ・ウェバーCEO就任へとつながった。

ウェバー氏は英グラクソ・スミスクライン出身で、欧州大手製薬での経営経験を持つ人物だった。長谷川会長がCOO就任時点から後継候補として見極め、約1年でCEO職を委ねた。日本の製薬最大手のトップに外国人が就く判断は、グローバル経営の必然であると同時に、社内で後継者を育てられなかったことの帰結でもあった。ウェバー体制下で6.2兆円のShire買収が実行されたが、買収プレミアムの回収は想定より時間を要し、株価は同業他社と比べて長期にわたり低迷した。有利子負債は急増し、財務立て直しのためにアリナミンを含む大衆薬事業を約2500億円で売却せざるを得なかった。しかし、結果が出なくとも外国人CEOを容易には交代させられない。なぜなら、代わりを務められる人材が社内にいないからである。ウェバー氏は2026年に退任予定だが、約10年にわたりトップの座にあった。

15年間の買収連鎖が突きつけるのは、「時間を買う」戦略の二重のジレンマである。ひとつは事業のジレンマだ。買収で得た事業にも特許切れが訪れ、再び「足りないもの」が生まれ、さらに大きな買収が必要になる。もうひとつは人材のジレンマである。グローバル化を買収で加速するほど、買収先を統治できる経営人材の不足が深刻化し、最終的には外部からCEOを招聘せざるを得なくなる。そして外部招聘のCEOが期待通りの結果を出せなくても、後任候補がいない以上、交代の選択肢は限られる。事業も人材も、「買う」ことで短期的には解決できるが、「育てる」ことを省略したツケは別の形で回ってくる。この構造を断ち切れるかどうかが、Shire以後の武田薬品に問われている。

2026-02-08 | by author
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1781
6

薬種商を創業

道修町で信頼形成

武田薬品の創業は、製品開発ではなく流通と信用を基盤とする商いから始まった。道修町という制度と慣行が蓄積された市場で、屋号と襲名による継続性を重視した点が、その後の信頼持続という点において、武田家の家業としての長期存続を可能にした。

背景:道修町に集積した和漢薬流通拠点

江戸時代後期の大阪・道修町は、全国から薬種商が集まり、和漢薬の集散地として確立していた。諸藩の御用商人や町人薬種商が集積し、情報と信用が取引を左右する商業空間が形成されていた。薬は生活必需品であり、医師や薬舗を通じて安定した需要が存在していたことから、薬種商は比較的継続性の高い商いとして位置づけられていた。

一方で、薬種商の営業には、仕入れ先との信用関係、品質の見極め、代金回収を含む商慣行への適応が不可欠であった。道修町は単なる市場ではなく、同業者間の規範や慣行が蓄積された場所であり、新規参入者にとっては学習と信頼構築の場でもあった。この環境が、薬種商としての継続的な事業運営を可能にする前提条件となっていた。

決断:初代武田長兵衛が薬種商を創業

1781年6月、初代・武田長兵衛は大阪・道修町において薬種商を創業し、和漢薬の販売を開始した。唐薬や国産薬を扱う薬種仲買として、医師や薬舗向けの商いに参入したことが、武田薬品工業の事業の起点である。特定の製品開発ではなく、流通と取引を基盤とする商いを選択した点に、この時代の合理性があった。

創業後、武田家では当主が「武田長兵衛」を襲名する慣行が定着し、家業としての継続性が重視された。経営の個人依存を避け、信用と屋号を軸に事業を存続させる仕組みが形成されたことで、商人としての判断や取引関係が世代を超えて引き継がれていった。この構造が、後の事業展開の基盤となった。

道修町で信頼形成

武田薬品の創業は、製品開発ではなく流通と信用を基盤とする商いから始まった。道修町という制度と慣行が蓄積された市場で、屋号と襲名による継続性を重視した点が、その後の信頼持続という点において、武田家の家業としての長期存続を可能にした。

薬種商を創業に関する出来事年表
17816月
薬種商を創業
18715月
西洋からの薬輸入を開始
1915
10

武田製薬所を新設

製薬メーカーへの転換点

1915年の武田製薬所新設は、第一次世界大戦による輸入途絶への対症対応ではなく、研究・流通中心の事業構造を製造まで内包する形へ転換する判断だった。研究部設置に続く製造機能の獲得により、武田は薬種商から医薬品メーカーへと進化する基盤を整えた。この段階で製造を選んだことが、後の研究開発型企業への連続性を生んだ。

背景:輸入途絶が突きつけた構造転換

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ドイツを中心とする欧州からの医薬品輸入は急速に滞った。当時の日本の医薬品市場は輸入依存度が高く、武田もまた薬種商・輸入商として、海外供給に強く依存する事業構造にあった。輸入停止は一時的な需給問題ではなく、事業の前提条件そのものを揺るがす事態だった。

同時期、国内では医薬品の安定供給と国産化が政策的課題として浮上していた。1914年には武田研究部を設置し、試験・分析機能を内製化していたが、研究成果を製品として供給する製造基盤は持っていなかった。研究と流通の間に製造という空白が存在していたことが、次の判断を迫る背景となった。

決断:大阪に武田製薬所を新設

1915年10月、武田は大阪に医薬品製造拠点として武田製薬所を新設した。輸入再開を待つのではなく、自社で医薬品を製造する体制を構築する選択であった。この決断により、武田は薬種商・輸入商という立場から、製造機能を持つ事業者へと踏み出すことになる。

製薬所の新設は、前年に設置された武田研究部との連動を前提としていた。研究で得た知見を自社工場で製品化する体制を整えることで、開発から製造までを社内で完結させる道筋を描いた。この時点での判断は、短期的な需給対応にとどまらず、事業構造そのものを転換する意味を持っていた。

製薬メーカーへの転換点

1915年の武田製薬所新設は、第一次世界大戦による輸入途絶への対症対応ではなく、研究・流通中心の事業構造を製造まで内包する形へ転換する判断だった。研究部設置に続く製造機能の獲得により、武田は薬種商から医薬品メーカーへと進化する基盤を整えた。この段階で製造を選んだことが、後の研究開発型企業への連続性を生んだ。

1943
8

武田薬品工業に商号変更

旧来の個人経営から株式会社に組織変更。1944年には武田薬品工業と小西薬品が合併。以後、武田薬品の経営トップは武田家が歴任したが、小西家も役員に就任して武田薬品の経営に携わった。このため、武田薬品の創業家には「武田家」と「小西家」という2つの系統が存在する。

武田薬品工業に商号変更に関する出来事年表
19438月
武田薬品工業株式会社に商号変更
1944
小西薬品を合併
19465月
山口県に光工場を新設
1949
東京証券取引所に株式上場
1954
3

大衆薬アリナミンを発売

大衆薬参入で事業構造を転換

アリナミンの発売は、武田薬品が研究成果を医療用に限定せず、大衆市場へ展開した転換点であった。販売組織の統制や再販指定による価格管理を組み合わせることで、競争が激しいビタミン剤市場においても安定した収益基盤を構築し、その後の事業ポートフォリオ形成に影響を与えた。

背景:戦後栄養不足とビタミン需要の拡大

終戦後の日本では、食糧事情の悪化と栄養不足が社会問題となっていた。特に脚気をはじめとするビタミンB₁欠乏症は依然として広く認識されており、医療現場だけでなく一般家庭においても栄養補給への関心が高まっていた。こうした環境の下で、ビタミン剤は医療用から一般消費者向けへと需要の裾野を広げつつあった。

武田薬品は戦前からビタミン研究に取り組み、ビタミンB₁誘導体の製剤化技術を蓄積していた。一方で、戦後の事業構造は医療用医薬品に比重があり、一般消費者向けの大衆薬分野は本格的な展開途上にあった。市場環境の変化を受け、研究成果を大衆市場に転用する余地が生じていた。

決断:ビタミン剤を大衆薬として投入

1954年3月、武田薬品はビタミンB₁誘導体を有効成分とする大衆薬「アリナミン」を発売した。医療用医薬品として培った研究成果を一般消費者向け製品に転換し、全国規模での販売を前提とした商品設計が行われた。これにより、従来の医師・薬局中心の流通から、一般家庭を対象とした市場への本格参入を決断した。

同時に、販売面では大規模な広告宣伝を実施し、当時高い知名度を有していた映画俳優・三船敏郎を起用した。加えて、価格や取引条件の混乱を避けるため、販売組織「タケダ会」を通じた流通管理を進め、アリナミンを再販指定品目として登録することで、全国統一価格による販売体制を構築した。

結果:売上構成を左右する主力製品に成長

アリナミンは発売後、全国的な認知の拡大とともに販売数量を伸ばした。戦後の栄養需要を背景に、ビタミン剤市場全体が拡大する中で、同製品は武田薬品の大衆薬分野における中心的な存在となった。1955年度には、同社売上高の約37%をビタミン剤が占めるまでに至り、事業構成に大きな影響を与えた。

一方で、ビタミン剤分野には他の医薬品メーカーも相次いで参入し、競争環境は激化した。武田薬品は流通組織の統制と価格管理を継続することで、販売基盤の安定化を図った。アリナミンの成功により、同社は医療用医薬品に加えて大衆薬を収益の柱とする事業構造を確立することとなった。

大衆薬参入で事業構造を転換

アリナミンの発売は、武田薬品が研究成果を医療用に限定せず、大衆市場へ展開した転換点であった。販売組織の統制や再販指定による価格管理を組み合わせることで、競争が激しいビタミン剤市場においても安定した収益基盤を構築し、その後の事業ポートフォリオ形成に影響を与えた。

大衆薬アリナミンを発売に関する出来事年表
19543月
大衆薬アリナミンを発売
195712月
ビタミン剤で国内シェア46.7%を確保
19713月
ビタミン剤の値下げにより大幅減益
1960
6

事業部制を導入

1960/3期(単体)売上高 249億円

製薬・医薬販売・食品・化学品・外国の5部署からなる組織体制に変更。医薬以外の多角事業にも注力

1960/3期(単体)売上高 249億円
事業部制を導入に関する出来事年表
195711月
武田食品工業を設立
19606月
事業部制組織に移行
1963
1

湘南工場を新設

1963/3期(単体)売上高 556億円

関東地区における生産を強化するため、神奈川県藤沢市に湘南工場を新設。アリナミン錠剤の主力工場上として稼働。1965年からは医療用医薬品(注射薬など)の製造を開始

1963/3期(単体)売上高 556億円
1973
1

大型新薬・リラシリンを開発

1973/3期(単体)売上高 1,880億円当期純利益 72億円

ビタミン剤ブームの終焉を受けて、医療用医薬品の開発を強化して抗生物質を自社開発。1970年代の最盛期には年間10億円の売上を記録し、武田薬品工業の大型新薬となった。一方で、リラシリン以外の大型新薬の市場投入には苦戦し、海外からの導入品や、食品・化成品といった多角事業の収益が武田薬品工業を支えた。このため、1970年代を通じて武田薬品は「大型新薬がなかった」(1981/5投資月報)ことが利益率悪化の原因と言われ、経営に苦戦した。

1973/3期(単体)売上高 1,880億円当期純利益 72億円
大型新薬・リラシリンを開発に関する出来事年表
19711月
抗生物質等の医療用医薬の開発を強化
19812月
抗生物質・ハンスポリンを発売
1974
12

小西新兵衛氏が社長就任

5代目武田長兵衛氏(1943年社長就任)が70歳にて社長を退任。1944年に経営統合した小西薬品の創業家出身の小西新兵衛氏が社長就した。小西氏は社長就任時から海外展開を意識しており、当時の製薬メーカーでは珍しくグローバルな経営者であった

小西新兵衛(武田薬品工業・当時社長)証言

この世界は輸入2に対して輸出1にとなっている。さらに技術ライセンスも入れるとほとんど海外依存だ。これをなんとかしなければならない。


1977

米アボット社と提携

1977/3期(連結)売上高 3,168億円当期純利益 103億円
グローバル化の第一歩

1970年代の資本自由化は、日本の製薬企業に国内競争から国際競争への視点転換を迫った。アボット社との提携は、外資参入に対抗する防御策というより、国際的な製薬ビジネスの経験を取り込むための能動的な選択だったと位置づけられる。結果として武田薬品は、以降の海外展開や提携戦略を進めるための実務的な基盤をこの時期に形成した。

背景:資本自由化がもたらした競争環境の転換

1970年代半ば、日本の製薬業界は大きな制度転換に直面していた。1975年に政府が製薬分野における資本自由化を実施したことで、欧米の大手製薬企業が日本市場へ本格的に参入する道が開かれた。外資系企業は日本法人の設立や合弁事業を通じて事業基盤を拡大し、国内市場の競争条件は急速に変化していった。

この変化は、国内市場を主戦場としてきた武田薬品にとっても無視できないものだった。価格競争や製品構成だけでなく、研究開発力やグローバルでの製品展開力が問われる局面に入り、日本企業は国際競争を前提とした経営対応を迫られるようになっていた。

決断:海外企業との提携による競争力補強

こうした環境認識のもと、武田薬品は海外企業との提携を通じて競争力を高める選択を行った。その象徴が、1977年の米アボット社との提携である。提携を通じて、武田薬品は海外での販売ネットワークや開発知見にアクセスし、自社単独では補完しにくい領域を強化することを狙った。

この判断は、単なる製品導入にとどまらず、国際的な製薬ビジネスに参画するための足場を築く意図を含んでいた。資本自由化によって競争を避けられない以上、海外企業と協調しつつ経験を蓄積することが、中長期的な成長に資すると判断されたのである。

1977/3期(連結)売上高 3,168億円当期純利益 103億円
グローバル化の第一歩

1970年代の資本自由化は、日本の製薬企業に国内競争から国際競争への視点転換を迫った。アボット社との提携は、外資参入に対抗する防御策というより、国際的な製薬ビジネスの経験を取り込むための能動的な選択だったと位置づけられる。結果として武田薬品は、以降の海外展開や提携戦略を進めるための実務的な基盤をこの時期に形成した。

小西新兵衛(武田薬品工業・当時社長)証言

昭和50年に製薬業について海外からの投資が自由化されて以来、ほとんどの有力な欧米の製薬会社は日本に拠点を設け、また日本企業との合弁事業の持分の比率を増やし、着々と事業を拡大しています。日本の製薬会社は国内に座していても、国際競争の荒波に揉まれることになります。日本で創薬された新薬もボツボツとライセンスベースで欧米に導出されるようになりましたが、本格的な国際競争はこれからであります。


1977

スモン訴訟対応

1977/3期(連結)売上高 3,168億円当期純利益 103億円

背景:キノホルム販売開始と薬害顕在化の経緯

武田薬品がスモン訴訟の原因となったキノホルム製剤を販売開始したのは1959年である。当時、キノホルムは腸内殺菌薬として広く使用され、全国で処方・販売が拡大した。しかし1960年代に入ると、下痢治療後に視覚障害や歩行障害を伴う重篤な神経症状が各地で報告され、後にスモンと呼ばれる薬害が社会問題化していった。

1970年に国がキノホルム製剤の販売を中止した後も、被害者数の拡大と責任の所在を巡る議論は続いた。1970年代半ばには全国で集団訴訟が提起され、製薬企業に対して法的責任と社会的責任を同時に問う局面へと移行した。武田薬品にとってスモン問題は、過去の製品問題ではなく、経営の前提条件を揺るがす長期リスクとして認識されるようになっていた。

決断:将来補償を見据えた引当金の計上判断

1977年、武田薬品はスモン訴訟に関する将来の和解・補償を見据え、訴訟引当金の計上を決断した。引当金は単年度ではなく、FY1977からFY1980にかけて段階的に計上され、累計額は約200億円に達した。これは当時の収益規模から見ても無視できない水準であり、短期的には利益を大きく圧迫する判断であった。

この対応は、個別訴訟への都度対応ではなく、薬害問題を経営上の確定リスクとして処理する姿勢を示すものだった。将来の不確実性を先送りせず、財務上で明示的に整理することで、研究開発や事業運営を進めるための前提条件を整える狙いがあった。スモン問題を経営課題として明確に切り分ける判断であった。

結果:財務的損失と引き換えに整理された経営前提

引当金の計上により、武田薬品は1970年代後半から1980年代初頭にかけて大きな財務的負担を負うことになった。FY1977〜FY1980の累計で約200億円という金額は、当時の同社にとって明確な損失として認識され、短期的な収益性を大きく低下させた。一方で、将来の補償負担に関する不確実性は一定程度解消された。

この結果、スモン薬害は継続的に経営を拘束するリスクから、整理された過去問題として位置付け直された。1980年代以降に進められた研究開発投資や海外展開において、訴訟問題が直接の制約条件となる局面は減少した。

1977/3期(連結)売上高 3,168億円当期純利益 103億円
1980
3

研究開発投資を強化。研究開発費年間200億円を計上

1980/3期(連結)売上高 4,383億円当期純利益 226億円

日本では1976年に「物質特許制度」が実施され、後発企業が製法を変えるという抜け道が塞がれ、実質的に創薬に対する特許の有効範囲が広がった。これを受けて、1970年代後半から武田薬品は医療用医薬品への創薬投資を強化。国内の競合他社が年間100億円の研究開発費を計上する中で、FY1979に武田薬品は2倍となる210億円を研究開発費として捻出して200億円を突破。業界内でも特に創薬重視の方向を鮮明にした

1980/3期(連結)売上高 4,383億円当期純利益 226億円
小西新兵衛(武田薬品工業・当時社長)証言

最近の医薬品業界では、この業界に特有な、そして革新的な重大な出来事が連続して起きてまいりました。物質特許制度移行、GMP制度の実施、薬効再評価、銘柄別薬価制度、等がその主だったものです。いずれ1つを取っても重大な変革であり、ここにも複雑な内容があり、しかもこれらが相互に関連しあって、この産業のあり方に大きな影響を与えるという性格のものであります。

まず物質特許制度への移行でありますが、これは特に今後の医薬品業界に重大な体質変化を促すものと思います。この製法だけを異にする後追いの真似をする精度は、長い目で見ますと、研究開発の意欲と能力のある企業が本当の力を発揮するようになる、という大きな流れを方向づけています。


1988
筑波研究所を新設
1989

リュープリンを発売

1989/3期(連結)売上高 6,867億円当期純利益 388億円
1製品でグローバル企業へ

リュープリンは武田薬品にとって、グローバルな創薬メーカーとしての第一歩であった。国内217億円、米国638億円、欧州ほか153億円という売上構成によって、日本企業が自社創薬を自社販売網でグローバルに展開できることを実証した。数値で示された成功は、その後の武田薬品の海外投資判断の基準となった。

背景:米国市場進出を阻む構造的な制約と日本企業の壁面化

1980年代半ば、日本の製薬企業は研究力の向上にもかかわらず、欧米市場で自社販売網を構築する段階には至っていなかった。新薬はライセンス供与による技術輸出にとどまり、販売や承認プロセスは欧米企業に依存する構造が続いていた。各国で異なる薬事規制への対応も、日本企業にとって高い参入障壁となっていた。

こうした状況を打開するため、武田薬品は1985年に米アボット社との合弁で米国現地法人を設立した。しかし当初は有力な自社開発品を欠き、競争の激しい米国市場で業績は伸び悩んだ。研究力は蓄積されつつあったが、それを事業成果へ転換する道筋はまだ定まっていなかった。

決断:撤退覚悟で製品集中を選んだ現地経営の意思決定

現地法人の責任者であった武田國男氏は、限られた開発資源を分散させる限り、米国市場での生存は困難であると判断した。当時主流であった抗生物質分野は競争が激しく、日本企業が後発で勝ち切る余地は小さいと見極め、開発中止という痛みを伴う決断を下した。

その上で、がん治療薬として開発が進んでいた「リュープリン」に経営資源を集中させる方針を選択した。投与回数を抑えた改良型製剤として投入することで臨床現場での明確な価値を提示し、規制対応から販売までを自社で担う体制を整えた。これは事業として世界市場で勝負する意思表示でもあった。

結果:売上規模で示されたグローバル事業化の到達点

1989年に米国で発売されたリュープリンは、投与回数の少なさという差別化要素を背景に、米国市場を中心に急速に売上を拡大した。発売後数年で現地法人の収益構造を転換し、停滞していた米国事業の中核製品へと成長した。

FY1995時点では、国内217億円、米国638億円、欧州ほか153億円の売上高を計上し、グローバルで1000億円を超える大型医薬品に到達した。リュープリンは、日本発の創薬を自社販売網で世界市場に展開するモデルを初めて示した先駆的な事例となった。

1989/3期(連結)売上高 6,867億円当期純利益 388億円
1製品でグローバル企業へ

リュープリンは武田薬品にとって、グローバルな創薬メーカーとしての第一歩であった。国内217億円、米国638億円、欧州ほか153億円という売上構成によって、日本企業が自社創薬を自社販売網でグローバルに展開できることを実証した。数値で示された成功は、その後の武田薬品の海外投資判断の基準となった。

リュープリンを発売に関する出来事年表
19963月
リュープリンが年間売上1000億円を突破
1991

タケプロンを発売

1991/3期(連結)売上高 6,914億円当期純利益 444億円

プロトンポンプ阻害剤として開発し、欧州で販売開始。一般名は「ランソプラゾール」。米国ではリュープリン、欧州ではタケプロンが収益増大に寄与。武田薬品のグローバルの支えとなる基幹製品となった

大型新薬のタケプロンが米国を中心に売上を拡大。FY1995時点で国内95億円+米国1690億円+欧州ほか265億円の売上高を計上し、グローバルで1000億円を超える大型医薬品に育った

1991/3期(連結)売上高 6,914億円当期純利益 444億円
1992
研究所の組織改革を実施
1993
大型新薬・プログラフを発売
1996

カンパニー制を導入

1996/3期(連結)売上高 8,013億円当期純利益 598億円
世界企業化を前提とした組織の再設計

カンパニー制は、選択と集中を理念ではなく制度として定着させるための改革だった。収益責任を明確にし、人員・資源配分を可視化したことで、後年の事業売却やポートフォリオ再編を可能にする土台が築かれた。

背景:新薬開発費高騰と世界市場化が迫った経営選択

1990年代に入ると、新薬1品目あたりの研究開発費は200〜300億円規模へと膨張し、医薬品産業は明確に資本集約型産業へ移行していった。加えて、医薬品市場は各国ごとの市場ではなく、グローバルで一体化した競争環境へと変化し、日本市場だけで投資回収を行うことは現実的でなくなっていた。

一方、武田薬品は長年の多角化経営により、医薬事業と比べて付加価値の低い事業も、製薬会社水準の人件費構造で抱え込む体制となっていた。この構造は、新薬開発への巨額投資を継続する上で、固定費負担という形で経営の制約となりつつあった。

決断:選択と集中のためにカンパニー制を導入

こうした環境認識の下、武田國男社長は、ローカル企業としての延命ではなく、世界市場で競争する研究開発型企業への転換を選択した。その中核施策として導入されたのが、1996年のカンパニー制である。各事業を独立採算単位とし、収益責任を明確化することで、資源配分の重点化を実行段階へ落とし込んだ。

同時に、新規採用の抑制によって10年間で約3500人の人員削減方針を打ち出し、固定費構造の見直しを進めた。カンパニー制は単なる管理制度ではなく、将来的な事業売却や再編を可能にする仕組みとして位置づけられていた。

1996/3期(連結)売上高 8,013億円当期純利益 598億円
世界企業化を前提とした組織の再設計

カンパニー制は、選択と集中を理念ではなく制度として定着させるための改革だった。収益責任を明確にし、人員・資源配分を可視化したことで、後年の事業売却やポートフォリオ再編を可能にする土台が築かれた。

武田國男(武田薬品工業・当時社長)証言

医薬品市場は世界単一の市場になってきました。三年前に社長になった時、武田薬品は東洋の一小島のローカルカンパニーとして生き残るか、世界の一企業として生き残るか、という選択があったわけです。日本では大手であっても、世界の中では中規模程度の企業にすぎません。世界企業として生き残れるかどうかをじっくり考えました。その結果「今から改革して体力のある会社を作れたら、行けるんではないか」と望みをもちまして、それで改革を始めたのです。

改革の基本方針は、高付加価値化と重点化。そして国際化の合わせて3つです。重点化とは高付加価値のところへヒト、モノ、カネを重点的に配分するという意味です。もう当たり前のことを当たり前にやっているだけなんですけどね。それをやらなくては、ローカルカンパニーとしてなんとか生き残るか、もしくは消滅するかです。(略)

武田は多角化をやってきたために、医薬事業に比べてれば低付加価値の事業を、製薬会社の人件費水準で背負わねばならなくなっていたのです。一方、1品目あたり200〜300億円かかる新薬の開発費は、どんどん増えていきます。多額な投資の回収は日本市場だけではもうできない。新薬を開発する研究開発型企業を目指すなら、自ずから国際的にならざるを得ない。こうした理由から、各部門へそれぞれこう付加価値商品へシフトする必要があったのです。それを各部門でやり遂げて欲しい。そのためにカンパニー制を導入しました。


1996/4/22 日経ビジネス「編集長インタビュー・武田國男」
カンパニー制を導入に関する出来事年表
19936月
武田國男氏が代表取締役社長に就任
1997
武田アメリカ研究開発センターを新設
1997

プロプレスを発売

1997/3期(連結)売上高 8,388億円当期純利益 713億円

高血圧治療薬として発売。一般名は「カンデサルタン・シレキセチル」

1997/3期(連結)売上高 8,388億円当期純利益 713億円
プロプレスを発売に関する出来事年表
1989
カンデサルタン(CV-11974)を発見
1991
TCV-116の国内臨床試験を開始
1996
日本で製造承認申請を実施
1998
米国で発売(アストラゼネカが販売)
1999
日本でプロプレスとして発売
1997

アクトスが米国で承認

1997/3期(連結)売上高 8,388億円当期純利益 713億円

糖尿病治療薬である「アクトス」が米国で承認され販売開始。1999年には日本でも承認された。化合物の選定が1986年(AD-4833)、臨床試験の開始が1989年であり、約10年の開発期間を経て市場に投入。2000年代を通じて武田薬品の収益に貢献した大型新薬となった

1997/3期(連結)売上高 8,388億円当期純利益 713億円
アクトスが米国で承認に関する出来事年表
1986
ピオグリタゾン(AD-4833)を臨床候補化合物に選定
1989
米国で臨床試験を開始(Upjohn社と共同実施)
1991
米国で臨床試験を中止し、日本で臨床試験を開始
1995
米国で開発を再開(武田アメリカ研究開発センター)
1996
日本で製造承認申請を実施
1999
米国でNDA申請を実施
1999
米国および日本で承認を獲得
2005
4

非注力事業の売却を開始

2005/3期(連結)売上高 11,229億円当期純利益 2,774億円
創薬への集中投資

2000年前後から進められた多角化事業の段階的な切り離しは、医療用医薬品、とりわけ創薬とグローバル展開に経営資源を集中させるための構造改革であった。動物薬、ビタミン、食品、化学品などを順次JV化・譲渡することで、低付加価値事業が研究開発型企業のコスト構造に与えていた歪みを解消し、新薬開発に必要な資金・人材・経営の意思決定を集中させる体制が整えられた。

背景:多角化が研究開発投資を圧迫した構造

1990年代後半、医薬品業界では新薬1品目あたり200〜300億円規模の研究開発費が常態化し、研究開発投資の巧拙が企業価値を大きく左右する局面に入っていた。こうした中、武田薬品工業は医療用医薬品に加え、化学品、食品、農薬、生活環境など多角化事業を広範に抱え、経営資源が分散した状態にあった。

特に問題となったのは、付加価値水準の異なる事業群を、製薬企業としての人件費水準と管理体制で一体運営していた点である。新薬開発費が増大する一方、日本市場のみでは投資回収が困難となり、研究開発型国際企業として生き残るには、事業ポートフォリオそのものを見直す必要性が高まっていた。

決断:2001年から医薬集中へ事業整理

この認識のもと、武田薬品工業は2001年から段階的に多角化事業の整理に着手した。ウレタン、ビタミン、動物用医薬品、農薬、食品、生活環境といった事業について、合弁化や株式譲渡を通じて切り離しを進め、2005年以降は売却を本格化させた。

この改革を主導したのが当時社長の武田國男である。同氏は、多角化から専門化への転換を明確に掲げ、医薬品事業に経営資源を集中させることで、研究開発型国際企業としての競争力を高める判断を下した。撤退は短期的収益ではなく、将来の研究開発投資余力を確保するための構造改革であった。

結果:研究開発型国際企業へ不可逆転換

2001年以降に進められた多角事業の整理により、武田薬品工業の資本配分は医薬品事業へと明確に収斂した。研究開発、グローバル展開、新薬パイプラインに経営資源を集中できる体制が整い、組織としての意思決定も単純化された。社員にとっても、会社の進む方向が医薬品に特化する形で明確となった。

一方で、事業売却は短期的な売上規模の縮小を伴い、研究開発成果が顕在化するまでの時間軸は長期化した。しかしこの一連の改革により、武田薬品は多角化企業としての性格を脱し、研究開発を軸とする国際医薬品企業へと不可逆的に転換した。この構造転換が、その後のグローバル戦略の布石となった。

2005/3期(連結)売上高 11,229億円当期純利益 2,774億円
創薬への集中投資

2000年前後から進められた多角化事業の段階的な切り離しは、医療用医薬品、とりわけ創薬とグローバル展開に経営資源を集中させるための構造改革であった。動物薬、ビタミン、食品、化学品などを順次JV化・譲渡することで、低付加価値事業が研究開発型企業のコスト構造に与えていた歪みを解消し、新薬開発に必要な資金・人材・経営の意思決定を集中させる体制が整えられた。

武田國男(武田薬品工業・当時社長)証言

私が社長に就任して以来、多角化から専門家へ改革してきました、医薬品以外の事業をほとんど嫁に出して改革が終わりかけた今からは、いかに専門化した会社をマネジメントしやすいシステムを作るかという段階です。社員も、会社がどこへ向かっているのかが分かったと思います。

医薬品メーカーの未来は結局、新薬にかかっているんですよ。(新薬を送り出す)パイプラインがいかに充実しているかで、その会社の未来がわかるんですよ。新薬はパイプラインにいる期間が長いですから、我々はいかに新製品を作って、スピーディーに患者に届けるか。「世界の武田」をどうマネジメントしていくかを今、一生懸命練っている最中です。


2002/10/21 日経ビジネス「編集長インタビュー・武田國男」
非注力事業の売却を開始に関する出来事年表
20003月
動物用医薬品事業をシェリング・プラウとJV化(武田40%)
20011月
ビタミンバルク事業をBASFとJV化(武田34%)
20024月
食品事業をキリンビールとJV化(武田キリン食品、武田49%)
200210月
ラテックス事業を日本エイアンドエルへ営業譲渡
200211月
農薬事業を住友化学とJV化(住化武田農薬、武田40%)
20034月
生活環境事業を分社化(日本エンバイロケミカルズ)
20053月
生活環境事業子会社5社を大阪ガスケミカルへ譲渡合意
20056月
動物用医薬品JVをシェリング・プラウへ完全譲渡
20061月
BASF武田ビタミンをBASFへ完全譲渡
20064月
飲料・食品事業をハウス食品とJV化
200710月
飲料・食品JVをハウス食品へ譲渡予定
200711月
農薬を住友化学へ譲渡予定
2008
5

米ミレニアム社を買収

2008/3期(連結)売上高 13,748億円当期純利益 3,554億円
巨額買収戦略の起点

ミレニアム買収は、武田薬品にとって初めて経営の軸を左右する規模で行われた海外買収であり、以後の成長戦略の前提を形作った。創薬力を時間で買うという発想は、この時点で組織に定着し、後年のさらなる大型M&A判断へと連続していくことになる。

背景:創薬型国際企業へ踏み出す局面

2000年代半ば、武田薬品工業は多角化事業の整理を進め、医療用医薬品に経営資源を集中させる体制を整えつつあった。一方で、日本市場は薬価改定と人口動態の影響により成長余地が限られ、自社創薬のみでグローバル市場における存在感を高めるには時間を要する状況にあった。

こうした中、創薬力の強化と海外展開を同時に進める手段として、海外企業の買収が現実的な選択肢として浮上した。研究開発基盤を外部から獲得することで、将来のパイプラインを早期に補強し、研究開発型国際企業としての位置付けを明確にする必要があった。

決断:長谷川社長による初の巨額買収

この局面で判断を下したのが、当時社長であった長谷川閑史である。2008年、武田薬品は米国のバイオ医薬品企業ミレニアム・ファーマシューティカルズを約89億ドルで買収すると発表した。これは武田にとって初めての本格的な巨額海外買収であった。

ミレニアムはがん領域を中心とする創薬基盤を有しており、買収によって武田は研究開発力と米国での事業基盤を一括して取得することを狙った。段階的な提携やライセンスではなく、経営権を取得する買収を選んだ点に、長谷川社長の強い意思が表れていた。

結果:巨額買収時代の出発点となる

ミレニアム買収により、武田薬品はがん領域における創薬基盤と米国拠点を獲得し、研究開発型国際企業への転換を具体的に進める足場を得た。一方で、巨額の買収資金を投下する経営判断は、財務負担と統合リスクを同時に抱え込む結果ともなった。

この買収は短期的に企業価値を押し上げるものではなかったが、以後の経営において「買収によって時間を買う」という発想を定着させた点で重要である。ミレニアム買収は、後年の大型M&Aへと連なる武田の巨額買収戦略の出発点となった。

2008/3期(連結)売上高 13,748億円当期純利益 3,554億円
巨額買収戦略の起点

ミレニアム買収は、武田薬品にとって初めて経営の軸を左右する規模で行われた海外買収であり、以後の成長戦略の前提を形作った。創薬力を時間で買うという発想は、この時点で組織に定着し、後年のさらなる大型M&A判断へと連続していくことになる。

長谷川(武田薬品・社長)証言

既存技術で作られた大型医薬品の特許の有効期間が切れる状況に多くの製薬企業が直面しており、俗に医薬品産業の「2010年問題」とも呼ばれています。武田も今年、大型製品の特許を失効します。日本は特許が切れても売り上げがさほど落ちないという特殊な国ですが、米国などではジェネリックメーカーが手ぐすねを引いて待ちかまえており、特許失効の3〜4カ月後には、元の製品を開発した企業の売り上げが1割程度にまで落ち込んでしまう、或いは完全になくなってしまうという、激しい入れ替わりが起こります。先にも申し上げたとおり、製薬企業にとっての最大の市場は米国ですから、そうした現実を踏まえ、なお勝ち残ることがグローバル企業の条件の一つとなります。それには、魅力的な新薬を出し続けるしかないと考えています。


2011
湘南研究所を新設
2011
9

ナイコメッド社を買収

2011/3期(連結)売上高 14,193億円当期純利益 2,478億円

背景:特許切れと新興国遅れへの対応を迫られた局面

2000年代後半から2010年前後にかけて、武田薬品は主力製品の特許切れが相次ぎ、既存製品による売上成長の持続性に課題を抱えていた。とりわけ糖尿病治療薬アクトスは収益への貢献度が高く、後発品参入による減収は中期的な業績下押し要因として意識されていた。一方で国内市場は成長余地が限られ、欧米先進国でも価格圧力が強まる中、従来の延長線上では売上基盤の維持が難しくなるとの認識が広がっていた。

当時の武田薬品にとって弱点と整理されていたのが、新興国市場での販売基盤の薄さである。2010年時点の新興国売上は限定的で、世界の医薬品市場成長の大半を占める地域に十分入り込めていなかった。自社で販売網を一から構築する選択肢もあったが、時間と投資負担が大きいと見込まれていた。こうした環境下で、既に欧州および新興国に強固な販売網を持つ企業を取得することが、成長の時間軸を前倒しする手段として検討された。

決断:2011年にナイコメッドを約1.1兆円で買収

2011年5月、武田薬品はスイスの製薬企業ナイコメッドを96億ユーロ、円換算で約1兆1,000億円で買収することで合意した。意思決定を主導したのは長谷川閑史社長で、対価は全額現金とし、新株発行は行わなかった。調達資金の一部は借入によって賄われ、希薄化を避けることが重視された。この買収により、武田薬品は欧州およびロシア、アジア、中南米といった新興国に広がる販売網と、COPD治療薬などの製品群を一括で取得した。

この判断は、研究開発による将来成長に加え、短中期で売上を補完する事業基盤を確保する点に狙いがあった。ナイコメッドの年間売上は約3,000億円規模とされ、特許切れによる減収を補う効果が見込まれていた。また、買収後3年程度でのコストシナジー創出も想定されていた。一方で、無借金経営からの転換となる点や、海外事業比率の急拡大に伴う経営管理の複雑化は、あらかじめ織り込むべきリスクと認識されていた。

結果:事業基盤は拡張したが評価は限定的

ナイコメッド買収により、武田薬品の新興国売上は大幅に拡大し、地域ポートフォリオは大きく変化した。欧州での販売規模も拡張され、地理的分散という観点では事業基盤の補強が進んだ。特許切れ局面においても、連結売上の急激な落ち込みを回避する効果は一定程度あったと整理された。

一方で、市場からの評価は必ずしも一方向ではなかった。買収金額が1兆円を超える規模であったことから、投下資本に見合う成長が実現するかどうかについては慎重な見方が残った。買収後の業績寄与は安定的であったものの、企業価値を大きく押し上げるまでには至らず、株価面での反応は限定的にとどまった。結果として、ナイコメッド買収は事業の弱点補強には寄与したが、資本市場における評価改善には直結しない形となった。

2011/3期(連結)売上高 14,193億円当期純利益 2,478億円
2016
4

CEOにウェバー氏が就任

2016/3期(連結)売上収益 18,073億円(親)当期利益 801億円
外人のCEO登用

ウェバー氏の登用は、武田薬品がグローバル化の方向に経営資源を投下しつつも、自社内に十分なグローバル経営に対応できる人材を抱えていなかった現実を示した。外部CEOの下で大型買収を継続した結果、事業基盤は拡大したが、財務悪化と統合負担が顕在化し、創業家(武田家)との関係性も課題を残す形となった。経営の国際化と統治の難易度が同時に高まった点が、この体制転換の核心である。

背景:創業家経営から脱却後に露呈したグローバル経営層の薄さ

武田薬品は長く創業家である「武田家または小西家」が経営を担ってきたが、2003年に非創業家出身の長谷川閑史氏が社長に就任し、経営体制は大きく転換した。長谷川体制の下で同社は国際化と大型買収を軸に成長戦略を進め、2008年のミレニアム買収以降、グローバルM&Aを経営の中核手段として位置づけていった。

一方で、買収と統合を継続的に遂行するための経営人材、とりわけ欧米製薬企業での経営経験を持つトップ層は社内に十分に蓄積されていなかった。創業家支配から脱却した後の武田薬品は、戦略遂行力は高めたものの、グローバル経営を担う次世代トップの選択肢が限られる構造的課題を抱えることになった。

決断:長谷川会長主導によるウェバー氏の社長兼CEO就任

2015年、武田薬品はクリストフ・ウェバー氏を社長兼最高経営責任者(CEO)に任命する決断を下した。ウェバー氏は英グラクソ・スミスクライン出身で、欧州大手製薬企業における経営経験を有しており、2014年に武田薬品のCOOとして入社していた。

長谷川閑史会長は、COO就任時点からウェバー氏を将来のCEO候補と位置づけ、約1年間にわたり経営能力と成果を見極めた上でCEO職を委ねた。COO職を廃止し、権限を集中させた点からも、グローバル経営を前提とした明確なトップ交代の意思が読み取れる判断であった。

結果:大型買収継続と財務悪化がもたらした緊張関係の顕在化

ウェバー体制下の武田薬品は、長谷川時代から続く大型買収路線をさらに加速させ、2019年には約6兆円規模のシャイアー買収を実行した。この買収により、同社は消化器・希少疾患領域での事業基盤を拡大した一方、有利子負債が急増し、財務体質は大きく悪化した。

巨額買収の継続は、短期的な成長期待と引き換えに、財務規律と経営リスクを高める結果となった。また、買収後の統合負担や業績変動を巡り、創業家を含む旧来のステークホルダーとの関係性にも緊張が生じ、経営の安定性に影を落とす局面が顕在化することとなった。なお、ウェーバーCEOは2026年6月の株主総会をもって代表を退任する意向を示し、約10年にわたる経営トップの座から退いた。

2016/3期(連結)売上収益 18,073億円(親)当期利益 801億円
外人のCEO登用

ウェバー氏の登用は、武田薬品がグローバル化の方向に経営資源を投下しつつも、自社内に十分なグローバル経営に対応できる人材を抱えていなかった現実を示した。外部CEOの下で大型買収を継続した結果、事業基盤は拡大したが、財務悪化と統合負担が顕在化し、創業家(武田家)との関係性も課題を残す形となった。経営の国際化と統治の難易度が同時に高まった点が、この体制転換の核心である。

CEOにウェバー氏が就任に関する出来事年表
1993
武田國男 社長就任(創業家)
2003
長谷川閑史 社長就任(非創業家)
20154月
クリストフ・ウェバー 社長兼CEO就任
20266月
ジュリー・キムがCEO就任予定
2016
長期収載品を売却
2017
2

ARIADを買収

2017/3期(連結)売上収益 17,320億円(親)当期利益 1,155億円

米国の製薬メーカーARIAD社を5831億円で買収。希少疾患(白血病・肺がん・希少がん)向けの医療用医薬品の拡充を目論んだ。

2017/3期(連結)売上収益 17,320億円(親)当期利益 1,155億円
2017
2

和光純薬工業をで売却

2017/3期(連結)売上収益 17,320億円(親)当期利益 1,155億円

富士フイルムHDに売却

2017/3期(連結)売上収益 17,320億円(親)当期利益 1,155億円
2019
1

Shireを買収

2019/3期(連結)売上収益 20,972億円(親)当期利益 1,351億円
巨額買収で価値毀損

本件は、2018年に6兆円という巨額の投下資本を伴う買収によって事業構成を一気に転換した一方、取得価格が高すぎたがゆえに企業価値を毀損した事例である。統合後は事業売却と負債返済により財務の立て直しが進んだが、長らく買収時に支払ったプレミアムは十分に回収されず、武田薬品の株式市場からの評価は長期にわたり低迷した。

背景:グローバルでの創薬に注力

2010年代半ば以降、日本の医薬品市場は人口減少と薬価改定の影響を受け、数量増による売上拡大が見込みにくい状況が続いていた。武田薬品は消化器、オンコロジー、ニューロサイエンスを重点領域として研究開発投資を継続していたが、国内売上の比率が高いままでは、追加的な投資が売上成長と利益率の改善に結びつく度合いは限定的と受け止められていた。

一方、米国市場は価格水準が高く、希少疾患領域では競合が限られるため、売上と利益を同時に拡大しやすい市場として認識されていた。当時の経営判断では、自社研究開発による拡大は売上貢献までの期間が長期化する可能性があり、成長の時間軸が不確実と整理されていた。そこで2018年時点の武田薬品は、グローバルでの創薬に軸足を移す手段として、事業をまとめて取得する買収を検討対象とした。

決断:シャイアーを6.2兆円で買収

2018年5月、武田薬品は欧州の製薬企業シャイアーを約620億ドル、円換算で約6.2兆円で買収する方針を公表した。主導したのはクリストフ・ウェバー(当時社長)で、対価は現金と自社株を組み合わせる構成とされた。この判断により、希少疾患および血漿分画製剤の事業を一括で取得し、米国売上比率を大きく引き上げる狙いが示された。

この買収は、研究開発を段階的に積み上げる方法ではなく、既に売上を持つ事業を取得することで、2019年以降の売上基盤を早期に確保する点に特徴があった。一方で買収金額が極めて大きく、有利子負債の増加は避けられないと見込まれていたため、投下資本の回収は統合後のキャッシュフローに委ねられる構造となった。

結果:財務体質の悪化で企業価値が低迷

2019年1月8日、武田薬品はシャイアーの買収を完了し、統合を開始した。統合後は2019年から2023年にかけて、消費者ヘルスケア事業や欧州市販薬事業の売却を進め、借入金の返済を行った。コスト削減と拠点統合も実行され、営業キャッシュフローは改善し、負債残高は段階的に圧縮された。

しかし、買収時に支払ったプレミアムの回収は当初想定より時間を要した。売上成長率は買収前と比べて大きく加速せず、株価は同業他社や株価指数と比べて伸び悩んだ。事業構成の組み替えと財務の立て直しは進んだが、市場から見た企業価値は長期にわたり低迷する結果となった。

2019/3期(連結)売上収益 20,972億円(親)当期利益 1,351億円
巨額買収で価値毀損

本件は、2018年に6兆円という巨額の投下資本を伴う買収によって事業構成を一気に転換した一方、取得価格が高すぎたがゆえに企業価値を毀損した事例である。統合後は事業売却と負債返済により財務の立て直しが進んだが、長らく買収時に支払ったプレミアムは十分に回収されず、武田薬品の株式市場からの評価は長期にわたり低迷した。

Shireを買収に関する出来事年表
20185月
Shireの買収手続きを開始
20191月
Shire plcを買収
2020
8

大衆薬事業を売却

2020/3期(連結)売上収益 32,911億円(親)当期利益 442億円

Shire買収によって悪化した財務体質を改善するために、非注力事業の大衆薬事業(アリナミンなど)を投資ファンドに売却。売却額は約2500億円

2020/3期(連結)売上収益 32,911億円(親)当期利益 442億円
2026
ジュリー・キムがCEO就任予定
2026 (c) Yutaka Sugiura
Software Engineering & Large-scale Data Analytics
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