大阪道修町二丁目で薬種仲間ができたのは1722年である。同じ年に徳川吉宗は、各地でとれる和薬を江戸・大阪・京都・堺などの問屋組合に通し、組合が検査したうえで売り買いさせる仕組みを設けた。問屋はこれで特権をもつ立場を得た。初代武田長兵衛氏が仲間株を取得して自分の店を開いたのは、その60年後の1781年6月だった。店は道修町堺筋に置き、屋号を"近江屋長兵衛"とした。商いの中身は和漢薬で、文化年間には道修町の中橋筋角屋敷を買って店を移した。この屋敷が後に本社の所在地となり、明治を迎えるまで代々の当主は先代からの家業を受け継いで和漢薬を売り続けた。
享保7年に公許された薬種中買仲間の株は124株で、長崎で落札された輸入薬種を大阪で入札して買い入れるのは、この株を持つ者に限られた。ただし株数は保たれても現業者は減り、宝暦末には100人前後となり、明和5年4月には33人、安永2年7月には46人がまとめて休業した。明和5年に仲間が設けたのが、買出代物内渡銀という制度である。各自の出した銀を合わせて20貫目とし、問屋仲間の三社講組合に1年の期限で預けておき、代銀を払えない中買が出れば問屋がそこから差し引く仕組みだった。前提には切月と呼ぶ節季払いの取引があり、長崎商人への支払いは宝暦2年9月の定めで正月切・6月切・10月切の3節季とされていた。仲間内の資金繰りを滑らかにすると同時に、中買が問屋から信用を得やすくすることが制度の目的だった。
明治に入って若くして家業を承継した四代長兵衛氏は、節約に努めて取扱薬品を吟味し、品質の優れた洋薬の輸入を図った。1871年5月には洋薬の輸入買付を開始し、和漢薬の仲買に輸入商としての機能を重ねた。1894年には初めて店内に外国部を設け、ヨードカリ・ブロムカリ・重曹・苛性ソーダなどの輸入にあたっている。ただし輸入薬品は価格が高く、贋造薬も横行したため、四代長兵衛氏は自家製造を計画した。1895年、大阪府下中津の内林製薬所を専属工場として医薬品の製造と研究に着手する。もっとも当時はなお微々たる家内工業の域にとどまった。武田姓を名乗るようになったのも四代目のときである。
1904年に五代長兵衛氏が家業を承継すると、製造と販売の双方へ一段と力を入れた。1909年には従来輸入以外になかった次硝酸蒼塩などの蒼塩製剤の製造に成功し、あわせて約20種の局方医薬品の製造を開始した。1908年には武田薬品試験部と研究部を設け、これが後の研究所の母体となった。五代長兵衛氏が掲げたのは、製薬事業の拡充、生産研究、独創新薬の開発、そして全国各地の問屋と結ぶ販売網の確立という四つの構想である。地方特約店に呼びかけた"サギウロコ会"を組織して流通を集約し、1915年から1918年にかけては現在の大阪工場となる大規模工場を建設した。
明治末期の国内生産は薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼといった程度で、大戦前の日本に本格的な製薬事業はまず育っていなかった。盛んだったのはむしろ、古くからの伝統を受け継いで輸入商に転じた薬種問屋の商売のほうである。欧州で1914年に大戦が始まって輸入薬品の流れが断たれると、薬品市場は大混乱となり、洋薬の輸入を柱にしてきた武田は事業の拠り所を失った。武田はまず内林工場の強化に取りかかり、同年8月、市外中津町に武田薬品試験所を開設した。1914年8月には武田研究部も発足している。試験所で研究を指導したのは、五代長兵衛氏の実弟である武田二郎氏だった。
研究部が置かれた1914年11月、政府は化学工業調査会を設け、翌1915年6月に染料医薬品製造奨励法を公布した。輸入品に依存してきた各社が自力の研究へ向かう機運のなかで、武田二郎氏が主宰した研究部の方針は、製造研究を主体とし、研究の完成をそのまま企業化へ結びつけることだった。最初に取り上げたブロムワレリル尿素の製造法は工業化に成功し、カルモチンの名で発売された。以後もエチル炭酸キニーネはオイヒニン、パラアミノ安息香酸エチルはノボロホルムとして市場へ出た。研究部は高等小学校を出た少年8名を研究生として置き、夜は道修薬学校へ通わせ、のちに薬剤師の免許を受けた者も多かった。武田二郎氏は敗戦後のマルク安を利用してドイツの図書雑誌を買い集め、研究部図書室の基礎をつくった。
1915年10月、武田は市外神津村に武田製薬所を創設した。現在の大阪工場が建つ場所で、ここで医薬品の研究・製造・試験にあたった。1918年にはこれら製造部門と研究部門を分離独立させ、資本金100万円の武田製薬株式会社を設立している。当時製造に成功した薬品は約30種に及び、業界で払底していた医薬品の補充にあてられた。1921年8月には大五製薬合資会社を、1922年6月には武田化学薬品株式会社を設立した。前者は1946年6月に日本製薬株式会社へ、後者は1947年10月に和光純薬工業株式会社へ社名を変更した。
神津村の武田製薬所は1915年12月に従業員50名で製造を始めたが、1918年5月には332名まで増え、敷地は2倍強、電動機は2台から14台になった。武田製薬株式会社は、独立機関だった武田研究部と合資会社武田薬品試験所を吸収し、器具備品一式を買収して、生産・研究・試験の3部門を一つの会社へ統合した。社長には武田二郎氏が就任した。1923年9月の関東大震災では関東代理店の小西新兵衛商店が建物35棟を全焼したが、大阪の本店は在庫からアンチピリンやサリチル酸ソーダ、次硝酸蒼鉛を送り、9月7日から30日までの出荷は合計14万5,000個に達した。東京の同業組合が大阪市場からの共同購入を求めたとき、売り渡しを裁断したのは大阪薬種卸仲買商組合の組合長だった武田長兵衛氏である。
大戦が終わって欧州からの輸入が再開すると、品質と採算の両面で輸入品に対抗できない薬品が現れ、一部は製造中止や規模の縮小を迫られた。1925年1月、武田長兵衛商店と、先に分離していた武田製薬とが合併し、資本金530万円で株式会社武田長兵衛商店が設立された。設立日は1月29日で、製造と販売の両部門を持つ法人組織となる。商標として1898年に登録されていたウロコの標章は、魚鱗をかたどり、樹木と同じく年輪を描いて年々大きく丈夫になるという縁起に由来する。この標章は1943年に社名を武田薬品工業へ改めた際、社章として定められた。
昭和初期の不況は薬業界にも及び、武田長兵衛商店は販売に注力しながら経費の節減につとめた。ただし新規事業は不況時に企画するのが適当だという考えに立ち、投資は前倒しされた。1928年6月に道修町2丁目へ鉄筋コンクリート3階建の新社屋を構え、1930年に製薬工場の増築へ着手し、1931年には研究費を増額して新薬創製の研究を続けた。1933年に工場の一部が稼働すると、国産薬品の品目も数量も増えたため、増設にとどめず全面的な増改築に入った。あわせて新研究所の設置が必要となり、1935年2月に起工して翌年4月に完成している。研究所の人材養成と設備の充実、付属図書館の整備も、十三の製薬工場の近代化と並んで進められた。
局所麻酔薬の塩酸コカインは、原料のコカ葉をすべて輸入に依存していた。会社は大正4年に製造方法を確立し、品質から選んだジャワ産のコカ葉を現地商社を通じて買い付けていた。ところが昭和に入ると政府はコカ葉の輸入を認めず、台湾産のコカ葉と台湾で製造された粗製コカインを使うよう強いた。1927年3月に開いた台湾の嘉義薬草園ではコカの栽培が育苗しか許されず、原料の自給は台湾では成り立たなくなった。そこで1929年、沖縄県国頭郡羽地村に薬草園を開設し、買増しを重ねて約45町歩とした。ただし現地調査は水利・日照・台風・潮風を軸に行われ、土質の検討が二の次になったため、強酸性のやせ地が7割を占める土地だった。
キナ樹の栽培も1933年以降に台湾で本格化し、竹山郡の規那園に続いて1935年に大武、1939年に関山の各規那園が開かれた。海外への出張所開設は1934年に始まり、1938年までに奉天・台北・大連・上海・京城・天津・広東・バンコック・ボンベイへ広がった。並行して研究部は化学研究部門に薬物学的研究部門を加え、大学の研究室の指導を受けて共同研究も行った。そこからホルモン・ビタミン製剤・駆虫剤・抗マラリア剤・利胆剤の分野が開かれ、1937年にビタミンC、1938年にビタミンB1の合成に成功し、1942年にはビタミンKが続いた。スルファミン剤など化学療法剤の製造にも着手している。外地の農園に求めた原料は戦後に失われ、残ったのは合成の技術のほうだった。
日中戦争の開始を受けて、医薬行政は1938年1月に内務省から新設の厚生省へ移った。同年9月に日本医薬品輸入統制会、1939年3月に全国医薬品原料配給統制会が設けられ、輸入と原料配給の双方が統制下に入る。1940年3月には医薬品の公定価格が定められ、割当制度と切符制度が敷かれた。1941年5月の厚生省令「医薬品及衛生材料生産配給統制規則」により両統制会は合併して同年7月に日本医薬品生産統制株式会社となり、配給を担う日本医薬品配給統制株式会社も同月設立された。1944年1月には8団体が合併し、売薬を除く全医薬品の生産と配給を統べる医薬品統制株式会社が立った。原材料と労働力の不足に悩みながら生産を続ける以外に道はなかった。
1943年8月3日、株式会社武田長兵衛商店は武田薬品工業株式会社へ社名を改めた。事業内容が次第に多角化し、商店の名では事業全般を表すのに適さなくなったためである。同月10日には74歳の五代目武田長兵衛氏が隠居して和敬と改め相談役となり、39歳の長男鋭太郎氏が六代目長兵衛を襲名して取締役社長に就任した。9月1日には機構改革が行われ、総務部は人事部・総務部・経理部の3部に分かれ、新薬部は学術部となり、検査部と資材部が新設された。工場の呼び名も改まり、製造部本工場は大阪工場、神崎川分工場は神崎川工場、池田分工場は猪名川工場となった。商標は従来のウロコ印・サギ印・フネ印・藤娘印を引き続き用いた。
1944年3月の決戦非常措置要綱と企業整備令のもとで企業間の統合が進み、会社は同年7月21日に小西薬品株式会社とラヂウム製薬株式会社を合併した。東京支店と東京工場の基礎になったのは、合併で加わった小西新兵衛商店である。1908年6月に東京日本橋で開業した関東代理店で、小西薬品の前身にあたり、合併と同じ月に資本金は3,570万円へ増えた。1945年3月26日には、大手製薬会社と並んで軍需会社の指定を受けている。占領地が広がるにつれて現地の工場が次々と開かれ、支店・出張所を足場に医薬品の製造と流通、農事関連の仕事が行われていたが、戦争が終わるとそうした海外の事業所はひとつ残らず失われた。国内でも原料と石炭が足りずに生産の効率が落ち、売れ行きもひどく振るわなかった。
終戦時の会社は徴用工や学徒動員者、女子挺身隊を抱えたうえに、1946年へ入ると海外事業場からの引揚者と復員者が続々と帰還した。当時一般に行われていた人員整理の方法によらず、旧職に戻れる者は復職させ、戻れない者には適性をみて職場を与える方針が決められた。銀行融資で生産復興資金を充て、引揚者と復員者を大阪工場と神崎川工場へ集中して受け入れたが、資材難・動力難・資金難のため人員の急増には応じきれなかった。その抜本策が新工場と農場の開設で、1946年5月には旧海軍光工廠跡を取得して光工場を設けた。生産設備が戦災を免れたため、所持原料でビタミンB剤・C剤・ブドウ糖注射薬を作り、闇へ流さず正規の経路で供給したことが、世の信用を高めた。
新旧勘定を切り分ける第44期決算を会社が行ったのは8月10日である。悪性インフレを抑える手として、1946年8月15日には会社経理応急措置法ができ、企業の勘定は確かな資産・負債でつくる新勘定と、凍結される旧勘定に切り分けられた。同じ月、会社は特別経理会社の指定を受けたが、ほかに5,113社が同じ扱いとなった。決算では約3,000万円の利益金が出て、それを充てて2,672万円の在外資産総額をすべて償却した。新勘定の資産総額は1億5,093万4,426円14銭に落ち着いた。その後、同年10月19日に公布された企業再建整備法のもとで、ほかの4,694社と同様に整備計画をつくって認可を得、1948年8月31日の新旧勘定の併合を経て、10月25日に特別経理会社の指定が外れた。1948年2月には過度経済力集中排除法の指定企業者に指定されたが、間もなく制限から解かれた。
株式は1925年の法人化以来非公開だったが、戦後は公開する方針がとられた。1947年3月から4月にかけて従業員へ分譲し、野村・山一・六鹿その他の証券会社を通じて14万株を市場へ売り出した。1949年5月、会社は東京と大阪の証券取引所に上場した。それに先立つ1948年6月には大蔵大臣の許可を受けて増資し、3,500万円だった資本金を4倍の1億4,280万円にしている。上場後も同年12月に増資して資本金を3億円とした。株主総数は公開時点の1,000名余りから2年後には4,500名まで増え、かつて武田家の一族がほとんどを握っていた株は散らばって、資本金の1割を超えて持つ大株主はいなくなった。1952年12月には、自社のビタミンK製造法を米国のサイアナミッド社へ貸し出した。輸入薬の仲買として始まった会社が、技術を外に供与する側へ移ったのである。
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事実根拠:出所(武田薬品工業)