武田薬品工業 の歴史

更新:

沿革

1781〜2026年 1781年に初代武田長兵衛氏が大坂道修町で始めた和漢薬の仲買が起源。1954年に大衆薬アリナミンを発売し、2019年にはシャイアーを約6兆8000億円で買収して世界の上位10社へ入った。国内最大の製薬会社で、2026年3月期の売上収益4兆5057億円のうち米国が48%を占める。

沿革

1781年に初代武田長兵衛氏が大坂道修町で始めた和漢薬の仲買が起源。

1954年に大衆薬アリナミンを発売し、2019年にはシャイアーを約6兆8000億円で買収して世界の上位10社へ入った。国内最大の製薬会社で、2026年3月期の売上収益4兆5057億円のうち米国が48%を占める。

1781年〜創業期道修町の薬種商から武田長兵衛商店の自社製造へ

  1. 薬種商を創業
  2. 洋薬の輸入買付を開始
  3. 医薬品の製造に参入
  4. 五代武田長兵衛氏が家業を継承
  5. 武田研究部を設置
  6. 武田製薬所を新設
  7. 武田製薬を設立
  8. 大五製薬を設立
  9. 武田化学薬品を設立
  10. 武田製薬と合併し武田長兵衛商店を設立
武田薬品工業売上高

1926年〜成長期ビタミンB1の合成と武田薬品工業への改称

  1. 海外出張所の開設を開始
  2. ビタミンB1の合成に成功
  3. 武田薬品工業に商号変更
  4. 小西薬品・ラヂウム製薬を吸収合併
  5. 光工場を新設
  6. 東京・大阪の各証券取引所に上場
  7. 総合ビタミン剤「パンビタン」を発売
武田薬品工業売上高

1954年〜安定成長期「アリナミン」の発売とキノホルム製剤によるスモン訴訟

  1. 大衆薬「アリナミン」を発売
  2. キノホルム製剤の販売を開始
  3. 事業部制を導入
  4. 台湾武田Ltd.を設立
  5. 年間売上高が1200億円に到達
  6. 行政の指示によりキノホルム製剤が販売中止
  7. スモン訴訟填補引当金の計上を開始
  8. 医薬品の販売を開始
武田薬品工業売上高1984年3月期5,309億円

1985年〜安定成長期TAP設立による米国進出とアクトスの発売

  1. 前立腺がん治療薬「リュープロン」を発売
  2. アボット・ラボラトリーズとの合弁でTAPファーマシューティカルズを設立
  3. 消化性潰瘍薬ランソプラゾールを発売
  4. タケダ・アメリカを設立
  5. 武田國男氏が社長に就任
  6. 経営幹部に成果重視の人事評価・報酬制度を導入
  7. 中期経営計画「95/00」を開始
  8. 医療用医薬品以外の5事業にカンパニー制を導入
  9. 武田ファーマシューティカルズ・アメリカを設立
  10. 修正中期経営計画で4つの数値目標を設定
  11. 糖尿病治療薬「アクトス」を発売
  12. ROE12%を達成
  13. 長谷川閑史氏が社長に就任
  14. 日本エンバイロケミカルズの株式を大阪ガスケミカルに譲渡
武田薬品工業売上高2007年3月期13,051億円

2008年〜安定成長期長谷川閑史社長のミレニアム・ナイコメッド買収

  1. TAPファーマシューティカルズを完全子会社化
  2. 公開買付けによりミレニアム・ファーマシューティカルズInc.を子会社化
  3. 湘南研究所を開設
  4. ナイコメッドを子会社化
  5. 有利子負債が5428億円に増加
  6. クリストフ・ウェバー氏が社長に就任
武田薬品工業売上高2014年3月期16,919億円

2015年〜転換期クリストフ・ウェバーCEOのシャイアー買収と大衆薬事業の売却

  1. クリストフ・ウェバー氏がCEOに就任
  2. 日本の長期収載品事業を会社分割により分離
  3. 公開買付けによりアリアド・ファーマシューティカルズを子会社化
  4. 和光純薬工業の株式を富士フイルムに譲渡
  5. 湘南ヘルスイノベーションパークを開設
  6. 武田グローバル本社を開設
  7. ニューヨーク証券取引所に米国預託証券を上場
  8. シャイアーを子会社化
  9. 有利子負債が5兆7510億円に増加
  10. 連結売上収益が3兆2912億円に増加
  11. 大衆薬事業の売却を決定
  12. 年間1400億円をかけた構造改革を発表
  13. 武田テバファーマの株式をTevaに譲渡
  14. 純損失1524億円を計上
  15. AMITIZA反トラスト訴訟で不利な陪審評決
  16. ジュリー・キム氏がCEOに就任
武田薬品工業売上高2026年3月期45,057億円

系譜

前身は1781年に大坂で創業した薬種商。1925年に武田製薬と合併して武田長兵衛商店を設立し、1943年に武田薬品工業へ商号を変更した。2008年にミレニアム、2019年にシャイアーを子会社化。クロスボーダーM&Aで、事業ポートフォリオを海外中心へ転換した。

系譜

前身は1781年に大坂で創業した薬種商。

1925年に武田製薬と合併して武田長兵衛商店を設立し、1943年に武田薬品工業へ商号を変更した。2008年にミレニアム、2019年にシャイアーを子会社化。クロスボーダーM&Aで、事業ポートフォリオを海外中心へ転換した。

1781年 1918年 1925年 1943年1944年 2008年 2011年 2017年2019年 2026年 薬種商 1781年創業 武田製薬 1918年設立 武田長兵衛商店 1925年合併して設立 武田薬品工業 1943年商号変更 小西薬品 1944年吸収合併 ラヂウム製薬 1944年吸収合併 ミレニアム 2008年TOBで子会社化 TAP 2008年完全子会社化 ナイコメッド 2011年子会社化 シャイアー 2019年子会社化 アリアド 2017年TOBで子会社化
長期業績の推移 1949〜2026年

業績

武田薬品工業:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
1970年3月期〜2026年3月期

第1章 1781年〜 道修町の薬種商から武田長兵衛商店の自社製造へ

1781年〜株仲間が支えた信用と、洋薬へ事業を拡大した四代長兵衛

大阪道修町二丁目で薬種仲間ができたのは1722年である。同じ年に徳川吉宗は、各地でとれる和薬を江戸・大阪・京都・堺などの問屋組合に通し、組合が検査したうえで売り買いさせる仕組みを設けた。問屋はこれで特権をもつ立場を得た。初代武田長兵衛氏が仲間株を取得して自分の店を開いたのは、その60年後の1781年6月だった。店は道修町堺筋に置き、屋号を"近江屋長兵衛"とした。商いの中身は和漢薬で、文化年間には道修町の中橋筋角屋敷を買って店を移した。この屋敷が後に本社の所在地となり、明治を迎えるまで代々の当主は先代からの家業を受け継いで和漢薬を売り続けた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [1]1722年 道修町二丁目に薬種仲間が形成
    • [4]初代武田長兵衛氏 仲間株を譲り受けて独立営業
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
    • [2]1722年 徳川吉宗が和薬の売買を問屋組合の検査下に置く
    • [3]問屋の特権的地位の公認
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1781年6月 創業、薬種商を開業
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [6]屋号 近江屋長兵衛/道修町堺筋で和漢薬を扱う
    • [7]文化年間 中橋筋角屋敷へ移転(現本社所在地)
    • [8]創業から明治まで和漢薬の販売に従事

享保7年に公許された薬種中買仲間の株は124株で、長崎で落札された輸入薬種を大阪で入札して買い入れるのは、この株を持つ者に限られた。ただし株数は保たれても現業者は減り、宝暦末には100人前後となり、明和5年4月には33人、安永2年7月には46人がまとめて休業した。明和5年に仲間が設けたのが、買出代物内渡銀という制度である。各自の出した銀を合わせて20貫目とし、問屋仲間の三社講組合に1年の期限で預けておき、代銀を払えない中買が出れば問屋がそこから差し引く仕組みだった。前提には切月と呼ぶ節季払いの取引があり、長崎商人への支払いは宝暦2年9月の定めで正月切・6月切・10月切の3節季とされていた。仲間内の資金繰りを滑らかにすると同時に、中買が問屋から信用を得やすくすることが制度の目的だった。

  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「家業の新しい展開」
    • [9]享保7年(1722年) 薬種中買仲間株124株が公許
    • [11]寛延3年に120人、宝暦末には現業者が100人前後へ減少
    • [12]明和5年4月に33人、安永2年7月に46人の休業
    • [13]明和5年 買出代物内渡銀の制度/銀20貫目を1年期限で問屋仲間の三社講組合へ預託
    • [15]制度の狙いは仲間の金融の円滑化と、問屋に対する中買の信用の向上
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「取引と帳簿」
    • [10]長崎で落札された輸入薬種は大阪で中買仲間が入札して買い入れた
    • [14]宝暦2年9月 長崎商人への決済を正月切・6月切・10月切の3節季と定める

明治に入って若くして家業を承継した四代長兵衛氏は、節約に努めて取扱薬品を吟味し、品質の優れた洋薬の輸入を図った。1871年5月には洋薬の輸入買付を開始し、和漢薬の仲買に輸入商としての機能を重ねた。1894年には初めて店内に外国部を設け、ヨードカリ・ブロムカリ・重曹・苛性ソーダなどの輸入にあたっている。ただし輸入薬品は価格が高く、贋造薬も横行したため、四代長兵衛氏は自家製造を計画した。1895年、大阪府下中津の内林製薬所を専属工場として医薬品の製造と研究に着手する。もっとも当時はなお微々たる家内工業の域にとどまった。武田姓を名乗るようになったのも四代目のときである。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [16]四代長兵衛氏 若くして家業を継ぎ節約に努める
    • [18]1894年 店内に外国部を設置
    • [19]外国部の取扱品 ヨードカリ・ブロムカリ・重曹・苛性ソーダ
    • [21]1895年 大阪府下中津の内林製薬所を専属工場化
    • [22]当時はなお家内工業の域
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1871年5月 洋薬の輸入買付を開始
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [20]輸入薬品の高価格と贋造薬の横行が自家製造の動機
    • [23]武田姓を名乗ったのは四代目から
参考文献[1]-[23]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [1]1722年 道修町二丁目に薬種仲間が形成
    • [4]初代武田長兵衛氏 仲間株を譲り受けて独立営業
    • [20]輸入薬品の高価格と贋造薬の横行が自家製造の動機
    • [23]武田姓を名乗ったのは四代目から
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
    • [2]1722年 徳川吉宗が和薬の売買を問屋組合の検査下に置く
    • [3]問屋の特権的地位の公認
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1781年6月 創業、薬種商を開業
    • [17]1871年5月 洋薬の輸入買付を開始
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [6]屋号 近江屋長兵衛/道修町堺筋で和漢薬を扱う
    • [7]文化年間 中橋筋角屋敷へ移転(現本社所在地)
    • [8]創業から明治まで和漢薬の販売に従事
    • [16]四代長兵衛氏 若くして家業を継ぎ節約に努める
    • [18]1894年 店内に外国部を設置
    • [19]外国部の取扱品 ヨードカリ・ブロムカリ・重曹・苛性ソーダ
    • [21]1895年 大阪府下中津の内林製薬所を専属工場化
    • [22]当時はなお家内工業の域
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「家業の新しい展開」
    • [9]享保7年(1722年) 薬種中買仲間株124株が公許
    • [11]寛延3年に120人、宝暦末には現業者が100人前後へ減少
    • [12]明和5年4月に33人、安永2年7月に46人の休業
    • [13]明和5年 買出代物内渡銀の制度/銀20貫目を1年期限で問屋仲間の三社講組合へ預託
    • [15]制度の狙いは仲間の金融の円滑化と、問屋に対する中買の信用の向上
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「取引と帳簿」
    • [10]長崎で落札された輸入薬種は大阪で中買仲間が入札して買い入れた
    • [14]宝暦2年9月 長崎商人への決済を正月切・6月切・10月切の3節季と定める

1904年〜五代長兵衛が据えた製造と研究

1904年に五代長兵衛氏が家業を承継すると、製造と販売の双方へ一段と力を入れた。1909年には従来輸入以外になかった次硝酸蒼塩などの蒼塩製剤の製造に成功し、あわせて約20種の局方医薬品の製造を開始した。1908年には武田薬品試験部と研究部を設け、これが後の研究所の母体となった。五代長兵衛氏が掲げたのは、製薬事業の拡充、生産研究、独創新薬の開発、そして全国各地の問屋と結ぶ販売網の確立という四つの構想である。地方特約店に呼びかけた"サギウロコ会"を組織して流通を集約し、1915年から1918年にかけては現在の大阪工場となる大規模工場を建設した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [24]1904年 五代長兵衛氏が家業を継ぐ
    • [25]1909年 次硝酸蒼塩ほか蒼塩製剤の製造に成功
    • [26]約20種の局方医薬品の製造を開始
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [27]1908年 武田薬品試験部・研究部を設置(研究所の母体)
    • [28]五代長兵衛氏の四つの構想
    • [29]地方特約店による「サギウロコ会」の組織
    • [30]1915〜1918年 大規模工場を建設(現大阪工場)

明治末期の国内生産は薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼといった程度で、大戦前の日本に本格的な製薬事業はまず育っていなかった。盛んだったのはむしろ、古くからの伝統を受け継いで輸入商に転じた薬種問屋の商売のほうである。欧州で1914年に大戦が始まって輸入薬品の流れが断たれると、薬品市場は大混乱となり、洋薬の輸入を柱にしてきた武田は事業の拠り所を失った。武田はまず内林工場の強化に取りかかり、同年8月、市外中津町に武田薬品試験所を開設した。1914年8月には武田研究部も発足している。試験所で研究を指導したのは、五代長兵衛氏の実弟である武田二郎氏だった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
    • [31]明治末期の国内生産品 薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ
    • [32]明治期に本格的な製薬事業はほとんど起こらず
    • [33]輸入商へ発展した薬種問屋の商業活動が盛ん
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [34]1914年 欧州大戦で輸入薬品の供給が杜絶、薬品市場が混乱
    • [35]内林工場の補強
    • [36]1914年8月 市外中津町に武田薬品試験所を設置
    • [38]武田二郎氏(五代長兵衛氏の実弟)が研究を指導
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1914年8月 武田研究部を設置

研究部が置かれた1914年11月、政府は化学工業調査会を設け、翌1915年6月に染料医薬品製造奨励法を公布した。輸入品に依存してきた各社が自力の研究へ向かう機運のなかで、武田二郎氏が主宰した研究部の方針は、製造研究を主体とし、研究の完成をそのまま企業化へ結びつけることだった。最初に取り上げたブロムワレリル尿素の製造法は工業化に成功し、カルモチンの名で発売された。以後もエチル炭酸キニーネはオイヒニン、パラアミノ安息香酸エチルはノボロホルムとして市場へ出た。研究部は高等小学校を出た少年8名を研究生として置き、夜は道修薬学校へ通わせ、のちに薬剤師の免許を受けた者も多かった。武田二郎氏は敗戦後のマルク安を利用してドイツの図書雑誌を買い集め、研究部図書室の基礎をつくった。

  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田研究部の発足」
    • [39]1914年11月 政府が化学工業調査会を設置/1915年6月 染料医薬品製造奨励法を公布
    • [40]輸入依存の諸企業で企業内研究の機運が高まる
    • [41]研究部の方針は製造研究を主体とし「研究の完成即企業化」
    • [42]ブロムワレリル尿素製造法の工業化に成功、カルモチンとして発売
    • [45]高等小学校卒の少年8名を研究生とし夜は道修薬学校へ通わせた
    • [46]武田二郎氏がマルク安を利用して図書雑誌を購入し研究部図書室の基礎をつくる
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田製薬株式会社の創立」
    • [43]エチル炭酸キニーネの工業化に成功、オイヒニンとして発売
    • [44]パラアミノ安息香酸エチルの工業化に成功、ノボロホルムとして発売
参考文献[24]-[46]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [24]1904年 五代長兵衛氏が家業を継ぐ
    • [25]1909年 次硝酸蒼塩ほか蒼塩製剤の製造に成功
    • [26]約20種の局方医薬品の製造を開始
    • [34]1914年 欧州大戦で輸入薬品の供給が杜絶、薬品市場が混乱
    • [35]内林工場の補強
    • [36]1914年8月 市外中津町に武田薬品試験所を設置
    • [38]武田二郎氏(五代長兵衛氏の実弟)が研究を指導
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [27]1908年 武田薬品試験部・研究部を設置(研究所の母体)
    • [28]五代長兵衛氏の四つの構想
    • [29]地方特約店による「サギウロコ会」の組織
    • [30]1915〜1918年 大規模工場を建設(現大阪工場)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
    • [31]明治末期の国内生産品 薄荷脳・ヨードカリ・ガレヌス製剤・ヂアスターゼ
    • [32]明治期に本格的な製薬事業はほとんど起こらず
    • [33]輸入商へ発展した薬種問屋の商業活動が盛ん
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1914年8月 武田研究部を設置
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田研究部の発足」
    • [39]1914年11月 政府が化学工業調査会を設置/1915年6月 染料医薬品製造奨励法を公布
    • [40]輸入依存の諸企業で企業内研究の機運が高まる
    • [41]研究部の方針は製造研究を主体とし「研究の完成即企業化」
    • [42]ブロムワレリル尿素製造法の工業化に成功、カルモチンとして発売
    • [45]高等小学校卒の少年8名を研究生とし夜は道修薬学校へ通わせた
    • [46]武田二郎氏がマルク安を利用して図書雑誌を購入し研究部図書室の基礎をつくる
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田製薬株式会社の創立」
    • [43]エチル炭酸キニーネの工業化に成功、オイヒニンとして発売
    • [44]パラアミノ安息香酸エチルの工業化に成功、ノボロホルムとして発売

1915年〜自社製造への転換と株式会社への移行

1915年10月、武田は市外神津村に武田製薬所を創設した。現在の大阪工場が建つ場所で、ここで医薬品の研究・製造・試験にあたった。1918年にはこれら製造部門と研究部門を分離独立させ、資本金100万円の武田製薬株式会社を設立している。当時製造に成功した薬品は約30種に及び、業界で払底していた医薬品の補充にあてられた。1921年8月には大五製薬合資会社を、1922年6月には武田化学薬品株式会社を設立した。前者は1946年6月に日本製薬株式会社へ、後者は1947年10月に和光純薬工業株式会社へ社名を変更した。

  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1915年10月 武田製薬所を開設(現大阪工場)
    • [51]1921年8月 大五製薬合資会社を設立
    • [52]1922年6月 武田化学薬品株式会社を設立
    • [53]1946年6月 日本製薬へ社名変更/1947年10月 和光純薬工業へ社名変更
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [48]神津村=現在の大阪工場所在地
    • [49]1918年 製造・研究部門を分離独立、資本金100万円の武田製薬を設立
    • [50]製造に成功した薬品 約30種

神津村の武田製薬所は1915年12月に従業員50名で製造を始めたが、1918年5月には332名まで増え、敷地は2倍強、電動機は2台から14台になった。武田製薬株式会社は、独立機関だった武田研究部と合資会社武田薬品試験所を吸収し、器具備品一式を買収して、生産・研究・試験の3部門を一つの会社へ統合した。社長には武田二郎氏が就任した。1923年9月の関東大震災では関東代理店の小西新兵衛商店が建物35棟を全焼したが、大阪の本店は在庫からアンチピリンやサリチル酸ソーダ、次硝酸蒼鉛を送り、9月7日から30日までの出荷は合計14万5,000個に達した。東京の同業組合が大阪市場からの共同購入を求めたとき、売り渡しを裁断したのは大阪薬種卸仲買商組合の組合長だった武田長兵衛氏である。

  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田製薬株式会社の創立」
    • [54]1915年12月の製造開始時は従業員50名、1918年5月に332名/電動機2台が14台へ
    • [55]武田研究部と合資会社武田薬品試験所を吸収し生産・研究・試験の3部門を統合
    • [56]武田製薬株式会社の社長に武田二郎氏が就任
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田研究部の発足」
    • [57]1923年9月 関東大震災で小西新兵衛商店が建物35棟を全焼
    • [58]1923年9月7日から30日までの震災向け出荷は合計14万5,000個
    • [59]東京薬種貿易商同業組合の共同購入要請に対し大阪の組合長武田長兵衛氏が売渡しを裁断

大戦が終わって欧州からの輸入が再開すると、品質と採算の両面で輸入品に対抗できない薬品が現れ、一部は製造中止や規模の縮小を迫られた。1925年1月、武田長兵衛商店と、先に分離していた武田製薬とが合併し、資本金530万円で株式会社武田長兵衛商店が設立された。設立日は1月29日で、製造と販売の両部門を持つ法人組織となる。商標として1898年に登録されていたウロコの標章は、魚鱗をかたどり、樹木と同じく年輪を描いて年々大きく丈夫になるという縁起に由来する。この標章は1943年に社名を武田薬品工業へ改めた際、社章として定められた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [60]大戦後の輸入再開で品質・採算に耐えぬ薬品が製造中止・規模縮小
    • [61]1925年1月 武田長兵衛商店と武田製薬が合併、資本金530万円
    • [64]製造と販売の両部門を持つ法人組織
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [62]1925年1月 株式会社武田長兵衛商店を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [63]設立日 1925年1月29日
    • [65]1898年 ウロコの標章を商標登録
    • [66]ウロコ=魚鱗、年輪を描いて大きくなる縁起に由来
    • [67]1943年 社名変更と同時に社章として制定
参考文献[47]-[67]
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [47]1915年10月 武田製薬所を開設(現大阪工場)
    • [51]1921年8月 大五製薬合資会社を設立
    • [52]1922年6月 武田化学薬品株式会社を設立
    • [53]1946年6月 日本製薬へ社名変更/1947年10月 和光純薬工業へ社名変更
    • [62]1925年1月 株式会社武田長兵衛商店を設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [48]神津村=現在の大阪工場所在地
    • [49]1918年 製造・研究部門を分離独立、資本金100万円の武田製薬を設立
    • [50]製造に成功した薬品 約30種
    • [60]大戦後の輸入再開で品質・採算に耐えぬ薬品が製造中止・規模縮小
    • [61]1925年1月 武田長兵衛商店と武田製薬が合併、資本金530万円
    • [64]製造と販売の両部門を持つ法人組織
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田製薬株式会社の創立」
    • [54]1915年12月の製造開始時は従業員50名、1918年5月に332名/電動機2台が14台へ
    • [55]武田研究部と合資会社武田薬品試験所を吸収し生産・研究・試験の3部門を統合
    • [56]武田製薬株式会社の社長に武田二郎氏が就任
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田研究部の発足」
    • [57]1923年9月 関東大震災で小西新兵衛商店が建物35棟を全焼
    • [58]1923年9月7日から30日までの震災向け出荷は合計14万5,000個
    • [59]東京薬種貿易商同業組合の共同購入要請に対し大阪の組合長武田長兵衛氏が売渡しを裁断
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [63]設立日 1925年1月29日
    • [65]1898年 ウロコの標章を商標登録
    • [66]ウロコ=魚鱗、年輪を描いて大きくなる縁起に由来
    • [67]1943年 社名変更と同時に社章として制定

第2章 1926年〜 ビタミンB1の合成と武田薬品工業への改称

1926年〜不況期に前倒しした設備と、統制が阻んだ原料の自給

昭和初期の不況は薬業界にも及び、武田長兵衛商店は販売に注力しながら経費の節減につとめた。ただし新規事業は不況時に企画するのが適当だという考えに立ち、投資は前倒しされた。1928年6月に道修町2丁目へ鉄筋コンクリート3階建の新社屋を構え、1930年に製薬工場の増築へ着手し、1931年には研究費を増額して新薬創製の研究を続けた。1933年に工場の一部が稼働すると、国産薬品の品目も数量も増えたため、増設にとどめず全面的な増改築に入った。あわせて新研究所の設置が必要となり、1935年2月に起工して翌年4月に完成している。研究所の人材養成と設備の充実、付属図書館の整備も、十三の製薬工場の近代化と並んで進められた。

  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「昭和初期の当社」
    • [68]昭和初期の不況下で販売に注力し経費を節減
    • [69]新規事業は不況時に企画するのが適当との考え
    • [70]1928年6月 道修町2丁目に鉄筋コンクリート3階建の新社屋が竣工
    • [71]1930年 製薬工場の増築に着手/1931年 研究費を増額
    • [72]1933年 工場の一部が稼働、国産薬品の品目・数量増で全面増改築へ
    • [73]1935年2月 新研究所を起工、1936年4月完成
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [74]研究所の人材養成・設備充実・付属図書館の整備と十三製薬工場の近代化

局所麻酔薬の塩酸コカインは、原料のコカ葉をすべて輸入に依存していた。会社は大正4年に製造方法を確立し、品質から選んだジャワ産のコカ葉を現地商社を通じて買い付けていた。ところが昭和に入ると政府はコカ葉の輸入を認めず、台湾産のコカ葉と台湾で製造された粗製コカインを使うよう強いた。1927年3月に開いた台湾の嘉義薬草園ではコカの栽培が育苗しか許されず、原料の自給は台湾では成り立たなくなった。そこで1929年、沖縄県国頭郡羽地村に薬草園を開設し、買増しを重ねて約45町歩とした。ただし現地調査は水利・日照・台風・潮風を軸に行われ、土質の検討が二の次になったため、強酸性のやせ地が7割を占める土地だった。

  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「薬草園の開設」
    • [75]塩酸コカインの原料コカ葉は大正初期まで全量を輸入に依存
    • [76]大正4年 コカインの製造方法を確立、ジャワ産コカ葉を現地商社経由で買付け
    • [77]昭和期にコカ葉の輸入が許されず、台湾産コカ葉と台湾製粗製コカインの使用を強制
    • [79]1929年 沖縄県国頭郡羽地村に薬草園を開設、買増しで約45町歩
    • [80]沖縄の用地は強酸性のやせ地が7割、残りは湿地帯
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [78]1927年3月 台湾嘉義薬草園を開設、コカ栽培は育苗のみ許可

キナ樹の栽培も1933年以降に台湾で本格化し、竹山郡の規那園に続いて1935年に大武、1939年に関山の各規那園が開かれた。海外への出張所開設は1934年に始まり、1938年までに奉天・台北・大連・上海・京城・天津・広東・バンコック・ボンベイへ広がった。並行して研究部は化学研究部門に薬物学的研究部門を加え、大学の研究室の指導を受けて共同研究も行った。そこからホルモン・ビタミン製剤・駆虫剤・抗マラリア剤・利胆剤の分野が開かれ、1937年にビタミンC、1938年にビタミンB1の合成に成功し、1942年にはビタミンKが続いた。スルファミン剤など化学療法剤の製造にも着手している。外地の農園に求めた原料は戦後に失われ、残ったのは合成の技術のほうだった。

  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「薬草園の開設」
    • [81]1933年 台湾竹山郡の規那園、1935年 大武規那園、1939年 関山規那園を開設
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [82]1934年から1938年にかけて奉天・台北・大連・上海・京城・天津・広東・バンコック・ボンベイに出張所を開設
    • [85]1937年ビタミンC、1938年ビタミンB1、1942年ビタミンKの合成に成功
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「昭和初期の当社」
    • [83]化学研究部門に薬物学的研究部門を加え、大学研究室の指導と共同研究
    • [84]ホルモン・ビタミン製剤・駆虫剤・抗マラリア剤・利胆剤の新分野を開拓
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [86]強力メタボリン等ビタミン剤の合成に成功、スルファミン剤等化学療法剤の製造に着手
参考文献[68]-[86]
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「昭和初期の当社」
    • [68]昭和初期の不況下で販売に注力し経費を節減
    • [69]新規事業は不況時に企画するのが適当との考え
    • [70]1928年6月 道修町2丁目に鉄筋コンクリート3階建の新社屋が竣工
    • [71]1930年 製薬工場の増築に着手/1931年 研究費を増額
    • [72]1933年 工場の一部が稼働、国産薬品の品目・数量増で全面増改築へ
    • [73]1935年2月 新研究所を起工、1936年4月完成
    • [83]化学研究部門に薬物学的研究部門を加え、大学研究室の指導と共同研究
    • [84]ホルモン・ビタミン製剤・駆虫剤・抗マラリア剤・利胆剤の新分野を開拓
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [74]研究所の人材養成・設備充実・付属図書館の整備と十三製薬工場の近代化
    • [86]強力メタボリン等ビタミン剤の合成に成功、スルファミン剤等化学療法剤の製造に着手
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「薬草園の開設」
    • [75]塩酸コカインの原料コカ葉は大正初期まで全量を輸入に依存
    • [76]大正4年 コカインの製造方法を確立、ジャワ産コカ葉を現地商社経由で買付け
    • [77]昭和期にコカ葉の輸入が許されず、台湾産コカ葉と台湾製粗製コカインの使用を強制
    • [79]1929年 沖縄県国頭郡羽地村に薬草園を開設、買増しで約45町歩
    • [80]沖縄の用地は強酸性のやせ地が7割、残りは湿地帯
    • [81]1933年 台湾竹山郡の規那園、1935年 大武規那園、1939年 関山規那園を開設
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [78]1927年3月 台湾嘉義薬草園を開設、コカ栽培は育苗のみ許可
    • [82]1934年から1938年にかけて奉天・台北・大連・上海・京城・天津・広東・バンコック・ボンベイに出張所を開設
    • [85]1937年ビタミンC、1938年ビタミンB1、1942年ビタミンKの合成に成功

1938年〜統制下での改称と合併

日中戦争の開始を受けて、医薬行政は1938年1月に内務省から新設の厚生省へ移った。同年9月に日本医薬品輸入統制会、1939年3月に全国医薬品原料配給統制会が設けられ、輸入と原料配給の双方が統制下に入る。1940年3月には医薬品の公定価格が定められ、割当制度と切符制度が敷かれた。1941年5月の厚生省令「医薬品及衛生材料生産配給統制規則」により両統制会は合併して同年7月に日本医薬品生産統制株式会社となり、配給を担う日本医薬品配給統制株式会社も同月設立された。1944年1月には8団体が合併し、売薬を除く全医薬品の生産と配給を統べる医薬品統制株式会社が立った。原材料と労働力の不足に悩みながら生産を続ける以外に道はなかった。

  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「戦時の医薬品統制」
    • [87]1938年1月 医薬行政が内務省から新設の厚生省へ移管
    • [88]1938年9月 日本医薬品輸入統制会/1939年3月 全国医薬品原料配給統制会
    • [89]1940年3月 医薬品の公定価格を制定、割当制度・切符制度を導入
    • [90]1941年5月 厚生省令第15号/同年7月 日本医薬品生産統制株式会社・日本医薬品配給統制株式会社を設立
    • [91]1944年1月 8団体が合併し医薬品統制株式会社を創立
    • [92]戦時体制下で原材料と労働力の不足に悩みつつ生産活動を継続

1943年8月3日、株式会社武田長兵衛商店は武田薬品工業株式会社へ社名を改めた。事業内容が次第に多角化し、商店の名では事業全般を表すのに適さなくなったためである。同月10日には74歳の五代目武田長兵衛氏が隠居して和敬と改め相談役となり、39歳の長男鋭太郎氏が六代目長兵衛を襲名して取締役社長に就任した。9月1日には機構改革が行われ、総務部は人事部・総務部・経理部の3部に分かれ、新薬部は学術部となり、検査部と資材部が新設された。工場の呼び名も改まり、製造部本工場は大阪工場、神崎川分工場は神崎川工場、池田分工場は猪名川工場となった。商標は従来のウロコ印・サギ印・フネ印・藤娘印を引き続き用いた。

  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [93]1943年8月 武田薬品工業株式会社へ商号変更
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田薬品工業株式会社の誕生」
    • [94]社名変更の理由は事業の多角化で旧商号が事業全般を表さなくなったこと
    • [96]1943年9月1日 機構改革/総務部を3部へ分割、新薬部を学術部へ、検査部・資材部を新設
    • [97]本工場を大阪工場、神崎川分工場を神崎川工場、池田分工場を猪名川工場へ改称
    • [98]商標はウロコ印・サギ印・フネ印・藤娘印を継続
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [95]1943年8月10日 五代目武田長兵衛氏(74歳)が相談役、長男鋭太郎氏(39歳)が六代目を襲名し社長就任

1944年3月の決戦非常措置要綱と企業整備令のもとで企業間の統合が進み、会社は同年7月21日に小西薬品株式会社とラヂウム製薬株式会社を合併した。東京支店と東京工場の基礎になったのは、合併で加わった小西新兵衛商店である。1908年6月に東京日本橋で開業した関東代理店で、小西薬品の前身にあたり、合併と同じ月に資本金は3,570万円へ増えた。1945年3月26日には、大手製薬会社と並んで軍需会社の指定を受けている。占領地が広がるにつれて現地の工場が次々と開かれ、支店・出張所を足場に医薬品の製造と流通、農事関連の仕事が行われていたが、戦争が終わるとそうした海外の事業所はひとつ残らず失われた。国内でも原料と石炭が足りずに生産の効率が落ち、売れ行きもひどく振るわなかった。

  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田薬品工業株式会社の誕生」
    • [99]1944年3月 決戦非常措置要綱と企業整備令による企業整備統合の推進
    • [101]小西新兵衛商店は1908年6月に東京日本橋区本町で開業した関東代理店
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [100]1944年7月 小西薬品・ラヂウム製薬を吸収合併
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [102]合併で東京支店・東京工場の基礎、資本金は1944年7月に3,570万円
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「戦時の医薬品統制」
    • [103]1945年3月26日 大手製薬会社とともに軍需会社に指定
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「終戦までの当社」
    • [104]占領地に工場・支店・出張所を開設したが終戦で在外事業場はすべて失われた
    • [105]終戦後は原料・石炭の不足で生産能率が低下し販売も不振
参考文献[87]-[105]
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「戦時の医薬品統制」
    • [87]1938年1月 医薬行政が内務省から新設の厚生省へ移管
    • [88]1938年9月 日本医薬品輸入統制会/1939年3月 全国医薬品原料配給統制会
    • [89]1940年3月 医薬品の公定価格を制定、割当制度・切符制度を導入
    • [90]1941年5月 厚生省令第15号/同年7月 日本医薬品生産統制株式会社・日本医薬品配給統制株式会社を設立
    • [91]1944年1月 8団体が合併し医薬品統制株式会社を創立
    • [92]戦時体制下で原材料と労働力の不足に悩みつつ生産活動を継続
    • [103]1945年3月26日 大手製薬会社とともに軍需会社に指定
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [93]1943年8月 武田薬品工業株式会社へ商号変更
    • [100]1944年7月 小西薬品・ラヂウム製薬を吸収合併
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田薬品工業株式会社の誕生」
    • [94]社名変更の理由は事業の多角化で旧商号が事業全般を表さなくなったこと
    • [96]1943年9月1日 機構改革/総務部を3部へ分割、新薬部を学術部へ、検査部・資材部を新設
    • [97]本工場を大阪工場、神崎川分工場を神崎川工場、池田分工場を猪名川工場へ改称
    • [98]商標はウロコ印・サギ印・フネ印・藤娘印を継続
    • [99]1944年3月 決戦非常措置要綱と企業整備令による企業整備統合の推進
    • [101]小西新兵衛商店は1908年6月に東京日本橋区本町で開業した関東代理店
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [95]1943年8月10日 五代目武田長兵衛氏(74歳)が相談役、長男鋭太郎氏(39歳)が六代目を襲名し社長就任
    • [102]合併で東京支店・東京工場の基礎、資本金は1944年7月に3,570万円
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「終戦までの当社」
    • [104]占領地に工場・支店・出張所を開設したが終戦で在外事業場はすべて失われた
    • [105]終戦後は原料・石炭の不足で生産能率が低下し販売も不振

1946年〜特別経理会社の指定から株式の公開へ

終戦時の会社は徴用工や学徒動員者、女子挺身隊を抱えたうえに、1946年へ入ると海外事業場からの引揚者と復員者が続々と帰還した。当時一般に行われていた人員整理の方法によらず、旧職に戻れる者は復職させ、戻れない者には適性をみて職場を与える方針が決められた。銀行融資で生産復興資金を充て、引揚者と復員者を大阪工場と神崎川工場へ集中して受け入れたが、資材難・動力難・資金難のため人員の急増には応じきれなかった。その抜本策が新工場と農場の開設で、1946年5月には旧海軍光工廠跡を取得して光工場を設けた。生産設備が戦災を免れたため、所持原料でビタミンB剤・C剤・ブドウ糖注射薬を作り、闇へ流さず正規の経路で供給したことが、世の信用を高めた。

  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「終戦直後の当社の対応」
    • [106]終戦時の徴用工・学徒動員者・女子挺身隊と、1946年からの引揚者・復員者の帰還
    • [107]人員整理によらず帰還者を受け入れる方針(復職と適性配置)
    • [108]銀行融資で生産復興資金を充足し大阪工場・神崎川工場へ集中受入れ
    • [109]資材難・動力難・資金難で人員急増に対応できず
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [110]1946年5月 旧海軍光工廠跡を取得し光工場を新設
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [111]生産設備が無事だったため所持原料でビタミンB剤・C剤・ブドウ糖注射薬を生産し闇販売にまわさず正規ルートで供給

新旧勘定を切り分ける第44期決算を会社が行ったのは8月10日である。悪性インフレを抑える手として、1946年8月15日には会社経理応急措置法ができ、企業の勘定は確かな資産・負債でつくる新勘定と、凍結される旧勘定に切り分けられた。同じ月、会社は特別経理会社の指定を受けたが、ほかに5,113社が同じ扱いとなった。決算では約3,000万円の利益金が出て、それを充てて2,672万円の在外資産総額をすべて償却した。新勘定の資産総額は1億5,093万4,426円14銭に落ち着いた。その後、同年10月19日に公布された企業再建整備法のもとで、ほかの4,694社と同様に整備計画をつくって認可を得、1948年8月31日の新旧勘定の併合を経て、10月25日に特別経理会社の指定が外れた。1948年2月には過度経済力集中排除法の指定企業者に指定されたが、間もなく制限から解かれた。

  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「特別経理会社の指定」
    • [112]1946年8月15日 会社経理応急措置法の制定と新旧勘定の分離
    • [113]1946年8月 他の5,113社とともに特別経理会社に指定、8月10日に第44期決算
    • [114]第44期決算の利益金約3,000万円で在外資産総額2,672万円を全額償却
    • [115]新勘定資産総額1億5,093万4,426円14銭、旧勘定資産総額1億8,699万2,468円
    • [116]1946年10月19日 企業再建整備法の公布、他の4,694社とともに整備計画を作成・認可
    • [117]1948年8月31日 新旧勘定を併合、10月25日 特別経理会社の指定を解除
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「経営再建への道」
    • [118]1948年2月 過度経済力集中排除法の指定企業者に指定、間もなく制限から解除

株式は1925年の法人化以来非公開だったが、戦後は公開する方針がとられた。1947年3月から4月にかけて従業員へ分譲し、野村・山一・六鹿その他の証券会社を通じて14万株を市場へ売り出した。1949年5月、会社は東京と大阪の証券取引所に上場した。それに先立つ1948年6月には大蔵大臣の許可を受けて増資し、3,500万円だった資本金を4倍の1億4,280万円にしている。上場後も同年12月に増資して資本金を3億円とした。株主総数は公開時点の1,000名余りから2年後には4,500名まで増え、かつて武田家の一族がほとんどを握っていた株は散らばって、資本金の1割を超えて持つ大株主はいなくなった。1952年12月には、自社のビタミンK製造法を米国のサイアナミッド社へ貸し出した。輸入薬の仲買として始まった会社が、技術を外に供与する側へ移ったのである。

  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「株式の公開と増資」
    • [119]1925年の株式会社化以来非公開だった株式を戦後に公開する方針へ
    • [120]1947年3〜4月 従業員へ分譲、野村・山一・六鹿等を通じ14万株を売出し
    • [122]1948年6月 大蔵大臣の許可を得て増資、資本金3,500万円から1億4,280万円へ
    • [123]1949年12月 1億5,720万円の増資で資本金3億円
    • [124]株主総数は公開当時1,000名余、2年で4,500名
    • [125]資本金の1割以上を持つ大株主が消え、100〜500株所有の株主が約70%
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [121]1949年5月 東京・大阪の各証券取引所に上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [126]1952年12月 ビタミンK製造法を米国サイアナミッド社へ技術貸与
参考文献[106]-[126]
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「終戦直後の当社の対応」
    • [106]終戦時の徴用工・学徒動員者・女子挺身隊と、1946年からの引揚者・復員者の帰還
    • [107]人員整理によらず帰還者を受け入れる方針(復職と適性配置)
    • [108]銀行融資で生産復興資金を充足し大阪工場・神崎川工場へ集中受入れ
    • [109]資材難・動力難・資金難で人員急増に対応できず
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
    • [110]1946年5月 旧海軍光工廠跡を取得し光工場を新設
    • [121]1949年5月 東京・大阪の各証券取引所に上場
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
    • [111]生産設備が無事だったため所持原料でビタミンB剤・C剤・ブドウ糖注射薬を生産し闇販売にまわさず正規ルートで供給
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「特別経理会社の指定」
    • [112]1946年8月15日 会社経理応急措置法の制定と新旧勘定の分離
    • [113]1946年8月 他の5,113社とともに特別経理会社に指定、8月10日に第44期決算
    • [114]第44期決算の利益金約3,000万円で在外資産総額2,672万円を全額償却
    • [115]新勘定資産総額1億5,093万4,426円14銭、旧勘定資産総額1億8,699万2,468円
    • [116]1946年10月19日 企業再建整備法の公布、他の4,694社とともに整備計画を作成・認可
    • [117]1948年8月31日 新旧勘定を併合、10月25日 特別経理会社の指定を解除
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「経営再建への道」
    • [118]1948年2月 過度経済力集中排除法の指定企業者に指定、間もなく制限から解除
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「株式の公開と増資」
    • [119]1925年の株式会社化以来非公開だった株式を戦後に公開する方針へ
    • [120]1947年3〜4月 従業員へ分譲、野村・山一・六鹿等を通じ14万株を売出し
    • [122]1948年6月 大蔵大臣の許可を得て増資、資本金3,500万円から1億4,280万円へ
    • [123]1949年12月 1億5,720万円の増資で資本金3億円
    • [124]株主総数は公開当時1,000名余、2年で4,500名
    • [125]資本金の1割以上を持つ大株主が消え、100〜500株所有の株主が約70%
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
    • [126]1952年12月 ビタミンK製造法を米国サイアナミッド社へ技術貸与

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

出典・参考 17件
出典・参考
  • 武田薬品工業 有価証券報告書【沿革】
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「家業の新しい展開」
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「取引と帳簿」
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田研究部の発足」
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田製薬株式会社の創立」
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「昭和初期の当社」
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「薬草園の開設」
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「戦時の医薬品統制」
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「武田薬品工業株式会社の誕生」
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「終戦までの当社」
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「終戦直後の当社の対応」
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「特別経理会社の指定」
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「経営再建への道」
  • 武田二百年史本編(武田薬品工業株式会社、1983年)「株式の公開と増資」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「医薬品」の項
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「武田薬品工業」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)

免責事項およびポリシー