花王の歴史
1887年〜日本橋の小売商から国産化粧石鹸の製造元へ
- 日本橋の洋小間物商で創業
- 花王石鹸を発売[3]
- 請地工場が完成[4]
- 吾嬬町工場を新設[3]
- 花王石鹸を設立[3]
筆者所見
花王石鹸の桐箱は贅沢の演出ではなく、外装に払われていた対価を中身の保証へ置き換える装置だった。当時の上等な石鹸は原価が4、5銭で、7、8銭から1円以上の値は包紙と箱の意匠で付いていた[1]。長瀬富郎氏は、国産の並品が三、四銭の市場へ、一個一二銭の花王石鹸を出した[2]。高い値札を名前で守り続けるには、模造の利かない品質を自社の工程で担保するほかない。小売商が製造元へ転じる筋道は、日本橋での創業の値づけに初めから織り込まれていた。
- [1]花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
- [2]企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
1926年〜二代目長瀬富郎氏の合理化と合成洗剤の発売
- 家事科学研究所を設立[4]
- 大日本油脂を分離独立[3]
- 日本有機を設立[3]
- 日本有機酒田工場が完成[3]
- 大日本油脂和歌山工場が完成[3]
- 花王石鹸長瀬商会が商号を花王に変更[3]
- 東京証券取引所に株式上場[3]
- 日本有機が商号を花王石鹸に変更[5]
- 合成洗剤を発売
- 花王石鹸が花王油脂を吸収合併[3]
- 合成洗剤工場に投資[3]
- 大阪証券取引所市場第一部に上場[3]
- 川崎工場を新設[3]
筆者所見
二代長瀬富郎氏の改革は、販売の刷新に見えて、工場で浮かせた時間を値下げに回す設計だった。冷圧装置とトンネル乾燥機により、7〜10日の作業が2時間に、約20日の乾燥が一昼夜に縮んだ[1]。1931年の新装花王石鹸は純粋度を99.4%へ上げ、一個を二匁増やし、正価を10銭に下げた[1]。品質・目方・値段を同時に動かせた石鹸業者は他になく、差の源泉は売り場ではなく製造原価にあった。工程を握る発想が、硬化油の自給と合成洗剤への転進を支える土台になった。
- [1]花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
1964年〜再販契約による販社網の構築とメリーズ・化粧品への参入
- 問屋を外す再販契約[6]
- 台湾花王を設立[4]
- タイにKao Industrial(Thailand)を設立[3]
- シンガポールにマレーシア花王を設立[4]
- 和歌山工場内に産業科学研究所が完成[3]
- 東京工場内に東京研究所が完成[3]
- スペインにシノル花王を設立[4]
- 花王(香港)を設立[3]
- バイヤスドルフとの合弁でニベア花王を設立[4]
- 花王クエーカーを設立[3]
- メキシコにQuimi-Kaoを設立[3]
- スペインのモーリンズ イ プーチョナウを買収[4]
- フィリピンにPilipinas Kaoを設立[3]
- 愛媛サニタリープロダクツを設立[3]
- 九州工場の無人化投資
- バイヤスドルフとの共同事業でグール コスメティックを設立[4]
- スペインにMolins-Kaoを設立[3]
- 鹿島工場が完成[3]
- 生理用品ロリエを全国発売[9]
- 化粧品事業に参入[10]
- 紙おむつ「メリーズ」を発売
- 豊橋工場が完成[3]
筆者所見
販社網の価値は、値崩れの防止以上に、物の流れを本社が一本で管理できる構造にあった。丸田芳郎社長は、流通を近代化して値崩れを防がなければP&Gなど巨大外資に対抗できないとして販社づくりを自ら指揮した[7]。1979年度の物流コストは売上比8.2%と推定され、ライオンの12%を下回った[8]。ライオンとの差は営業の巧拙ではなく、問屋を外した流通の設計から生じた。浮いた費用と在庫の圧縮が、工場の無人化投資の原資を生んだ。
- [7]日経ビジネス 1974年9月16日号「花王石鹸。「販社」確立して洗剤首位の座固める」
- [8]日経ビジネス 1980年6月30日号「“産業流通”革命 自社型物流システム確立を」
- フロッピー事業から撤退
- インドネシアのDino Indonesia Industrialに資本参加[3]
- 商号を花王に変更[14]
- トータルコストリダクションを推進[15]
- カナダのDidak Manufacturingを買収[3]
- シノル花王とモーリンズ花王が合併し花王コーポレーションに[4]
- 米国のHigh Point Chemicalを買収[3]
- 米国のアンドリュー ジャーゲンズを買収[4]
- シンガポールにKAO(Southeast Asia)を設立[3]
- ドイツのGoldwellを買収[3]
- 常盤文克氏が社長に就任[16]
- 花王オレオケミカル(マレーシア)を設立[4]
- 花王(オーストラリア)マーケティングを設立[4]
- ドイツのChem-Yを買収[3]
- 子会社を設立[3]
- 企業理念「花王の基本理念」を策定[4]
- 上海花王化学を設立[4]
- 花王ベトナムを設立[4]
- 後藤卓也氏が社長に就任[17]
- 情報事業(フロッピーディスク)から撤退[18]
筆者所見
花王の情報事業は本業からの逸脱ではなく、界面化学の技術がどこまで通用するかを試す場だった。界面活性技術で磁性粉を処理し分散剤なしで塗布する製法を差別化要因に、1985年に最後発で参入した[11][12]。内製の強みは原価の競争に効いても、規格と単価を決める側には届かない。メディアだけを持ちハードもソフトも持たない売上高800億円の事業は、変化に振り回された[13]。情報事業からの撤退は、技術の転用先に価格を決める立場の有無を問う基準を残した。
- [11]日経ビジネス 1992年5月18日号「花王 海外OEM戦略に転機 価格下げFD国内認知へ」
- [12]日経ビジネス 1988年2月15日号「異業種参入 あなたの会社の武器は何? 花王フロッピーディスク…」
- [13]日経ビジネス 1999年6月14日号 編集長インタビュー 後藤卓也「800億円の情報事業捨て本業回帰」
1999年〜EVA経営の導入とカネボウ化粧品の買収
- 花王販売を設立
- EVA・ROIC経営への転換[15]
- 取締役会の改革
- Goldwellを通じてKMSリサーチを買収[3]
- John Frieda社を買収
- 花王(上海)産品服務を設立[3]
- 株式交換により花王販売を完全子会社化[3]
- 英国のモルトン・ブラウンを買収[3]
- カネボウ化粧品の買収[23]
- 花王販売と花王化粧品販売が合併[3]
- ドイツのライカルトの工場を取得[3]
- オムツの生産開始
- 花王(上海)化工を設立[3]
- 花王コスメプロダクツ小田原を設立[3]
- 花王グループカスタマーマーケティングが営業開始[3]
- Oribe Hair Careを買収[3]
- Washing Systemsを買収
- 早期退職者への支払金増額
- ESG戦略「Kirei Lifestyle Plan」を発表[24]
- 東京証券取引所プライム市場に移行[3]
- Bondi Sands Australiaを買収[3]
- ペットケア事業を譲渡[25]
- 飲料事業を譲渡[25]
- 花王(合肥)を清算[3]
- オアシスの株主提案対応
筆者所見
資本コストの物差しを日本で最も早く持ち込んだ会社が、四半世紀後に同じ物差しで株主から測り返された。1999年4月に導入したEVA経営は、事業評価と投資判断に加え、役員・社員の賞与の一部にも連動した[19][20]。物差しを早く持つほど、届かない数字も外から見えやすくなる。2024年にはオアシスが5.23%を保有し、社外取締役5名の選任などを提案した[21][22]。ROICを全事業へ広げる構造改革と株主提案への対応は、経営が説明責任を引き受け直す作業になった。
- [19]日経ビジネス 2003年7月21日号「強さの研究 花王22期連続増益の舞台裏」
- [20]花王 決算短信 経営方針「主な経営指標として「EVA」を活用しています」(2002年)
- [21]花王 コーポレート・ガバナンス報告書(2025年3月)
- [22]花王 お知らせ「株主提案に対する当社取締役会意見に関するお知らせ」(2025年2月14日)