【筆者所感】 日用品と化学品は需要の細かな変化が日々の販売数量に直接表れる業種で、原料技術と流通網と販売データの三つを社内で一体的に握れた企業が長期で勝ち残ってきた。長瀬富郎は1887年に東京日本橋で石鹸と輸入文具の小売から事業を始め、需要を仕入れと販売で見極めてから1890年に花王石鹸の自社製造へ進み、流通から製造へ事業領域を広げた。戦時期に蓄えた高級アルコールと油脂化学の技術は、戦後の合成洗剤への転換で原料側の足場となり、1957年の和歌山工場での専用ライン投資で量産体制が整った。流通から製造、石鹸から洗剤へという二度の転換が、産業の前提が変わる前に設備の側で先回りした例である。
1964年には全国27万件の小売店との再販契約を起点に問屋を介さない販社網を築き、日次で集まる販売データが新製品開発と価格管理を支える仕組みへと発展した。1985年に参入したフロッピーディスク事業は売上800億円規模に達したが1998年に撤退し、後藤社長は役員降格と賞与カットで損失処理に区切りをつけた。1999年導入のEVA経営は高収益体質を支えた一方、2010年代後半には長期投資の評価に合わない場面が増え、2023年からは中期経営計画K27のもとでROIC経営と事業ポートフォリオの選別が進んでいる。指標そのものを取り換えに行く判断は、設備や流通を組み替えてきた歴史の延長にある。
歴史概略
1887年〜1957年流通から製造へ、石鹸から洗剤への二度の転換
小売から製造へ転じた創業者の判断
1887年6月、長瀬富郎は東京日本橋馬喰町に長瀬富郎商店を開いた。岐阜県中津川の酒造家の出身で、創業時の事業は石鹸と輸入文具を扱う日用雑貨の小売だった。製造ではなく流通の側から市場に入った点に特徴があり、仕入れと販売のやりとりを通じて需要構造と品質評価を把握する道を選んだ。当時の国内石鹸市場では舶来品の高級品と粗製の国産品が二極化し、価格と品質のあいだに広い空白が残っていた。小売で得た手応えを足場に1890年には桐箱入りの「花王石鹸」を自社で製造し、その空白の領域に商品を置いて流通事業者から製造業者へと転じた。需要を先に読んでから製造に踏み込むという順序は、その後の設備投資や事業転換の場面でも繰り返し現れる花王の行動様式となった。
1922年には東京吾嬬町に量産工場を新設し、水運と鉄道の双方に対応する立地で物流効率を一体に設計した。1925年には花王石鹸株式会社を設立して個人商店から法人経営へ移り、株式会社化を機に資金調達と人材採用の幅を広げた。1940年には日本有機を設立して原材料段階の化学領域にまで事業を広げ、油脂と界面活性剤の製造を社内で完結させる体制を組んだ。戦時下の軍需対応のなかで蓄積された高級アルコールと油脂化学の技術は、後の合成洗剤開発で原料側の直接の足場となった。石鹸の一品種の製造会社から、化学技術と量産設備と流通網を併せ持つ消費財メーカーへ体制を整えたのがこの期間で、戦後の事業拡大と多角化の素地もここで同時にそろった。原料・量産・流通の三層を社内に抱える構えは、競合他社との差として以後の半世紀にわたって機能した。
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和歌山工場専用ラインが固めた洗剤メーカーへの転換
1951年に粉末型合成洗剤「ワンダフル」を発売し、洗剤分野への参入を果たした。電気洗濯機の普及という需要構造の変化に対し、日本有機で長く蓄積してきた界面活性剤の技術をそのまま転用した判断だった。家庭の洗濯が手洗いから機械化へ移れば、固形石鹸では泡立ちと溶解の点で対応しきれず、粉末洗剤への置き換えは時間の問題と読んだ。1957年には和歌山工場の敷地内に合成洗剤専用の工場を新設し、約7.5億円を投じて量産体制を築いた。既存の石鹸ではなく新領域の洗剤へ資源を振り向ける選択で、製品開発・原料技術・量産設備の三つが同時にそろったため、洗剤事業は試作段階から主力事業へ短い期間のうちに育ち、製品構成の中心を洗剤が占めた。原料を内製しているために価格を相手の動きに合わせて柔軟に動かせる強みも、この時期に表に出てきた。
石鹸設備との混在生産をやめて専用ラインを導入した投資判断は、事業転換を設備の面で不可逆に固定する選択だった。専用ライン化に踏み切れば石鹸時代の製造ノウハウは数年のうちに古びていくが、洗剤に資源を集めなければ量産規模で他社に追い抜かれるという見立てがあった。競合他社がなお石鹸設備を中心に据えるなかで、合成洗剤に特化した設備投資を先行させたため、コスト構造と量産能力の両面で先行優位を確保した。量産と品質のどちらでも先んじる構えにより、石鹸メーカーから洗剤メーカーへの転換が製品と設備の両面で固まった。市場の主役が石鹸から洗剤へ移り変わる前に設備を組み替え終えた点が、以後の主力事業の土台と業界内の競争順位の輪郭を定めた。1960年代に洗剤需要が一段と伸びるとき、この設備が量産能力の上限を引き上げる役を果たした。
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1958年〜1998年27万店契約と1200億円投資、そしてFD撤退の代償
シェアを3年失ってでも問屋を外した販社改革
1964年に全国の約27万件の小売店と再販契約を結び、問屋依存から販社体制への転換に着手した。副社長の丸田芳郎が主導し、一次問屋との取引を止めて販社を起点とする流通経路を自社側から組み上げた。問屋を介する従来の流通では、店頭価格と在庫の動きが社内に届くまでに時間がかかり、需要の変化に手当てが追いつかない弱みがあった。東京では「販社粉砕協議会」が結成され、問屋筋からの強い反発を受けて1969年から3年間は洗剤シェアで首位を失った。短期のシェア低下を受け入れてでも、小売までの経路を自らの手で握る選択を優先した時期で、既存の取引慣行との摩擦を代償としたうえでの十年単位の賭けだった。設備や原料で他社に先んじて投資する手筋が、流通の領域でも同じかたちで繰り返された。
1973年のオイルショックの後にその効果が表れた。原料価格が急に動くなか、問屋を介さない販社を通じた売価の統制が不況下でも利益率を保つ仕掛けとして働き、1970年代の半ばには洗剤市場でシェア首位を奪還した。販社から日次で集まる販売データはマーケティングの判断材料として機能し、製品開発や広告投資の社内検討に直結する情報源となった。何が売れているかをいち早く把握できる仕組みを社内に抱えたことで、新製品の投入時期や販促の重点を需要の動きに合わせて調整できた。後年に花王の強みとされるデータ分析力の起点は、この流通改革にある。摩擦を引き受けた十年越しの賭けが、シェア首位の回復と利益率の維持という形で回収された。
- 日経ビジネス 1979/8/13
- 日経ビジネス 1999/6/14
- 有価証券報告書
1200億円を技術へ振り向けた丸田社長と垂直統合の完成
1978年には丸田社長が3年間で1200億円から1300億円に及ぶ設備投資計画を決めた。流通整備の次は技術であるという投資順序の設計で、販社で需要を握ったうえで、その需要に応える製造能力と原料調達の足場を3年で固める狙いがあった。鹿島工場の新設やヤシ油原料の調達拠点の設立など、原料から製品までの垂直統合を川上から川下にかけて一体に強化した。1986年にはトータルコストリダクション活動を始め、全社でコスト構造の見直しに取り組み、原料・製造・物流のそれぞれで原価の積み上がり方を細かく洗い直した。販社改革で築いた情報基盤を、今度は製造と調達の側から補強する流れがこの時期の投資判断を貫き、流通・技術・コストの三層で同時に手当てを進めた時期となった。
垂直統合の完成は、新製品の量産立ち上げ速度と原料調達の安定の両面で他社との差を生んだ。日次の販売データから読み取った需要をすぐに生産計画へ反映させる仕組みが、流通と製造の連結のなかで働き、店頭の動きと工場の稼働を短い周期で結びつけた。トータルコストリダクション活動は単独のコスト削減運動ではなく、販社改革と設備投資の積み重ねの上に乗る三層目の取り組みで、原価と価格の両端を社内で握る経営体制が完成した。研究開発から量産、販売、価格の決定までを一つの流れに収める設計は、後年の高収益体質を支える土台となった。1980年代後半には洗剤シェア首位を保ったまま、化粧品や紙おむつへの本格的な展開に資本を回せる体力が整った。
- 日経ビジネス 1979/8/13
- 日経ビジネス 1999/6/14
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800億円規模に育てたFD事業を退いた撤退判断
1985年にはフロッピーディスク事業に参入し、界面活性技術の異業種への応用として事業を伸ばした。基板上に磁性体を均一に塗布する工程は、洗剤や化粧品の製造で蓄えた界面の制御技術と相性が良く、本業との技術的な連続性を理由に投資が積み増された。売上高は最盛期に800億円規模に達したが、記録媒体市場の構造変化を受けて単価が落ち続け、1998年に全面撤退した。当時の後藤社長は経営責任の所在を社内に示したうえで、役員の降格と賞与のカットを断行した。成長事業に見えていた時点での巨額投資と、競争構造が変わった時点での退出判断のどちらもが素早く、撤退の経験は埋没費用に拘泥しない経営規律として組織のなかに残った。技術の連続性が事業の連続性を保証しない、という教訓もこの撤退から得られた。
FD事業の撤退は、その後の事業見直しの場面で繰り返し参照される前例となった。撤退時に役員人事と報酬で責任の所在を明示した手順は、撤退判断の遅れがちな日本的経営のなかで例外的な速度で実行された。撤退に伴う減損や人員の再配置を一回の決算で済ませる手順は、その後の不採算事業の整理でも反復された。短期の成長で目を曇らせない判断と、退路を断つ人事処理の組み合わせが、後年の不採算事業の整理でも基本動作として踏襲された。事業転換を設備で不可逆に固める1957年の和歌山工場投資と、撤退を人事で不可逆に固める1998年の処理は、判断を後戻り不能にする手順という点で同じ系譜にあり、進む方向と退く方向のどちらでも片道切符の手筋を社内に組み込んだ点に共通の発想が表れている。
- 日経ビジネス 1979/8/13
- 日経ビジネス 1999/6/14
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1999年〜2026年EVAからROICへ、指標を取り換える経営課題
カネボウ買収と「ESGは投資」と語る指標観の更新
1999年にはEVA経営を導入し、資本コストを差し引いた指標で経営判断を統一した。事業ごとに資本効率を見える化することで、伝統的な売上規模の発想から離れて投資配分を組み直す土台を社内に置いた。2006年にはカネボウ化粧品を買収し、化粧品事業を広げた。日用品で築いた販売基盤と化学品で築いた技術基盤を、化粧品という高付加価値の領域に接続する構成が、この時期の成長戦略の中心に置かれた。紙おむつ「メリーズ」の中国展開も進め、国内中心の事業構成からグローバル展開へ舵を切った。EVAの浸透は高収益体質の維持に寄与し、三事業の相互補完が経営の設計思想として前面に出た時期となり、日用品・化学品・化粧品のそれぞれが資本コストを賄うかたちで内部の規律が保たれた。
2010年代後半には、EVAが短期成果へ収斂しやすいという性質から、海外展開や研究開発など長期投資の評価に合わない場面が増えた。澤田道隆社長はESGの位置づけを問い直し、「ESGはコストではなく投資。事業領域を広げる基盤だ」(出所 日経ESG 2019)と語り、外部環境への対応を本業の延長として組み立て直す方針を示した。2030年に向けては「ESG視点で『よきモノづくり』を追求する。2030年に売上高2.5兆円、営業利益率17%、ROE20%を目指す」(出所 日経ESG 2020)と数値目標を掲げ、指標体系の再設計に着手した。優れた指標ほど組織に根づき、その合理性がかえって問い直しを遅らせる構造を、当事者の側から自ら解体しに行く姿勢を示した時期となった。
- 日経ESG
- 日経メディアマーケティング 2018/7
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直近の動向と展望
「現状不満足の人材」を求める長谷部社長の組織改編
2021年に就任した長谷部佳宏社長は組織運営の見直しに踏み込み、「マトリックス型組織からスクラム型組織へ。ルールと方法を変えればスピードとスケールが変わる」(出所 ダイヤモンドHBR)と組織の組み替えを進めた。人材像については「『現状不満足』の人材が力を発揮できる組織を目指す。心の新陳代謝を促す機会を設ける」(出所 ダイヤモンドHBR)と述べ、既存の業務の延長線にない発想を引き出す環境づくりを掲げた。事業面では「商品を売った後のクローズドなサイクルが回るモデルへの移行が必要。顧客の『失敗体験のないジャーニー』を実現する」(出所 日経ビジネス 2022/10)と顧客接点の再設計を進める方針を示し、販売単発から継続的な関係づくりへの軸足の移動を語っている。
- 日経ビジネス 2022/10/14
- 日本経済新聞 2024/3
- ダイヤモンドHBR
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K27と事業ポートフォリオの選別
2023年からは中期経営計画K27のもとでROIC経営への転換を進めている。長谷部社長は「社会の切実な需要を中核事業に据える」(出所 日本経済新聞 2024/3)と方針を語り、化粧品事業ではカネボウブランドの再構築、化学品事業では高機能材料の拡充に取り組んでいる。資本効率の指標を入れ替えることで、長期投資と短期収益のあいだの優先順位を組み直し、不採算事業からの退出を後押しする役を担わせている。2024年12月期の売上高は1兆6284億円、営業利益は1466億円だった。創業から130年余にわたり、流通から製造へ、石鹸から合成洗剤へ、販社改革からEVA経営へ、そしてEVAからROICへと、各時代の節目で先回りの投資と指標の組み替えを続けてきた点に、花王の長期にわたる競争力の輪郭が表れている。次の10年で問われるのは、資本効率と社会課題の両方を取り込んだ事業ポートフォリオの形である。
- 日経ビジネス 2022/10/14
- 日本経済新聞 2024/3
- ダイヤモンドHBR
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