明治20年(1887年)に長瀬富郎氏が「長瀬富郎商店」を東京日本橋の馬喰町にて創業したことが、花王の創業である。祖業は日用雑貨を扱う小売店であり「石けん・輸入文具」を主に販売していた。当時の石鹸は西洋からの輸入品であり、創業時の花王はメーカーではなく流通業であった。
長瀬富郎氏の実家は、岐阜県中津川で酒蔵を営んでおり、開業資金に恵まれていたと推察される。
電気洗濯機の普及に合わせて合成洗剤「花王ワンダフル」の量産投資。設備面で競合の石鹸メーカーを圧倒
1960年代を通じて、花王は2つの脅威に直面した。
1つ目は資本自由化による欧米企業の日本進出であり、P&Gの日本進出が日用品業界に大きな影響を与えると予想されたことであった。すでに1960年代前半に西ドイツではP&Gが進出したことで現地の日用品メーカーが廃業に追い込まれるなど、資本力を生かした外資の進出が業界構造を変化させていた。
そして、1964年にP&Gの幹部が来日し、1972年にサンホームと合弁で日本法人「P&Gサンホーム」を設立した。1971年度のP&Gの全社売上高は1.1兆円(利益864億円)に対して、花王は売上高630億円(利益16億円)に過ぎなかった。このため、資本力に乏しい花王は、P&Gの日本進出によって業績不振に陥る可能性も考えられた。
2つ目はスーパーマーケットの台頭による価格交渉力の低下であった。当時は日本各地にスーパーが勃興しつつあり、ダイエーなどの巨大小売業が誕生しつつあった。小売業は大量仕入れによる値下げを要求することから、日用品メーカーの価格決定権が流通側に握られる可能性があった。
このため、花王は「問屋依存から販社整備」によって、これら2つの問題を解決することを志向した。
世界最大の洗剤メーカー、P&G社が日本上陸作戦の第1歩を踏み出した。自動車、家電などと違って、商品単位の価格は低いが、日常品であるだけに国内メーカーに与える影響は予想以上のもののようだ。弱肉強食の理論を物量作戦で貫くと言われているP&Gが、残された最後の有望市場、日本でどのような作戦を展開するのか、またそれを迎え撃つ国内企業の準備はどこまで整えられているのだろうか。
花王の副社長であった丸田芳郎氏は、P&G及び流通業の脅威に対して、販社整備で対応。1964年に小売店(全国27万件)に対して再販契約を締結するとともに、各地の問屋を「花王の販売会社」として集約。販社から二次問屋もしくは小売店に至る流通を整備した。なお、問屋はスーパーの台頭によって経営を悲観した企業を結集させる形をとった。
この動きは既存の問屋に対する宣戦布告を意味し、花王製品以外も取り扱いたい問屋は「競合のライオン」を優遇するなど、花王から離反する問屋も相次いだ。それでも花王は販社整備を優先し、一次問屋との取引を停止した。
問(注:記者) すると各地の問屋と花王が共同出資で全国に販社を設立していったわけですか。
答(注:丸田社長) いや、花王はほとんど出していません。問屋がそれまでのワーキングキャピタルを持ち寄っています。しかし、最初は問屋も十分にこちらの考えがわかっていなかったので大変でした。寄こした人材もよくなかった。どうせ成績はあがらないんだから早く解散させ、元の会社に早く帰ろうなんてヤツが経営に当たったりして...(笑い)
問屋の花王離反によって、1970年前後に洗剤の国内シェアでライオンがトップを確保。花王の首位が陥落するなど、販社整備における代償を払う形となった。
一時はシェアが2位に落ちちゃいましてね。昭和44、45年(注:1969年、1970年)、それに私が社長に就任した46年の3年間は、トップの座を譲ったわけです。各地の卸問屋から総スカンくいました。ある程度は覚悟していましたが、それでもやり抜いたのは、問屋が乱立してお互いにけんかばかりしていては、当時ぼっ興していたスーパーに問屋がたたかれ、ダメになってしまうという危機感があったからです。つまり、せめて花王を扱う問屋は仲良くやろうということです。
1973年のオイルショックを経て、洗剤のシェアで花王はライオンを凌駕して首位を奪還。オイルショックの不況により、小売業が乱売に走ったため日用品メーカーは価格下落に悩まされたが、花王は販社を通じて販売価格を維持したことが功を奏した。
結果として、売価を確保したことで花王が優勢となり、ライオンは売上面で花王を凌駕することは叶わなくなった。ライオンは経営再建のために兄弟会社の合併(ライオン油脂とライオン歯磨)を決めるなど、日用品業界の趨勢が変化した。
もう、ウチの目標は国体ではなく、オリンピックに勝つこと
販社整備とともに、花王はコンピュータの導入を決定。小売店からの販売情報を1日以内に販社を通じて本社に集約するシステムを構築し、製品開発に応用する仕組みを作り上げた。販社整備により、リアルタイムの購買情報を手に入れたことで、花王は新製品開発・生産量調整といった面でも優位に立つ。
本当の効果が出るのは、これからだと思います。ただ、今の段階でも、この体制が最も近代化したディストリビューションと情報のチャネルだと言えます。例えば、その日の販社の出荷状況、つまり売れ行きは夕方にわかりますから、夜の8時か9時には我々の方で、どのくらい商品を補充してやればいいかわかる。で、夜中にコンピュータを通じて自動倉庫からトラックに積み込み、販社に商品を届ける。道が空いてますから効率がいいし、帰りのトラックも委託を受けた何かを載せるなど無駄をなくしています。また販社からの入金は銀行のオンラインを使った振り込みですから、受取伝票も収入印紙もいりません。
情報についても、問屋を経由したものは1ヶ月遅れですが、我々のところにはその日のうちに入ります。ですから、どういうわけで売れるのか、あるいは売れないかの原因をつかむアクションが早くなります。結局、消費者に接近しいているということです。
販社により日用品の流通を掌握した花王に対して、1970年代を通じて日本市場に進出したP&Gは洗剤のシェア獲得で苦戦。1980年前後にP&Gは日本市場からの撤退を検討するなど、花王は市場防衛に成功する。
ただし、1980年代前半にP&Gは経営再建を実施し、「おむつ」「生理用品」など特定の分野でシェアを拡大。これらの分野で花王と競合するようになった。
品質向上と研究開発力の向上を目論み原料の垂直統合に巨額投資。P&Gと対抗するための設備を拡充
技術は一朝一夕にはなりませんからね。しかも、今後はいぜnより大きな成果が期待できます。今年度500億円の投資を決めたのも、他社のマネできない'シーズ'(種)が出始めているからです。特に今年度から3年間が大変な時期で、この間、1200億円から1300億円の投融資を計画しています。その償却は特別償却、有税償却含めて3年間で600億円に達します。しかし、その償却が済めば、キャッシュフローからいって、非常に強い体質ができる。そこで、いよいよ欧米市場での計画実行に乗り出す。順序としては、このように考えているわけです。
紙おむつに後発参入。P&Gおよびユニチャームとの熾烈な競争を展開
界面活性技術と応用してフロッピーディスク(FD)に参入。合理化で余剰になった社員の雇用維持の狙いもあり。一時は急成長するが、競争激化により巨額損失を出した末に撤退へ
確かに売上高で800億円にも達する事業をいきなりやめていいのかという見方はあるでしょう。10年近く全社をあげてと言っていいぐらい力を入れてきたわけですから。しかし現実の市場は非常に変化が早かった。花王の情報事業はフロッピーディスクなどのメディアだけで、ハードもソフトもおっていないわけです。とにかく変化に振り回されるだけで終わってしまった。(略)
これだけ大きな仕事をしたうえでの撤退は、見通しが甘かったトップ経営層の責任です。社員の中には情報事業にかけてきた人もいるわけです。あるいは、「花王は情報事業をやっているから」と入社してきた社員に対しても迷惑をかけました。幸いなことに赤字決算にはならなかったので、株主への配当と言った面での迷惑はかけていません。しかし、やはりけじめはつけるべきじゃないかということで、一部の役員を降格させ、賞与をカットしました。
花王石鹸から花王に変更。多角化路線を本格化
1990年代を通じてコンビニおよびドラッグストアが小売業のチャネルとして成長を遂げ、特にドラッグストアの台頭は日用品の小売業態を大きく変える出来事となった。大手ドラッグストアはチェーン展開による大量販売のために、日用品を大量に仕入れる小売業となったが、花王にとっては値下げ圧力にさらされることを意味した。
特に、1998年に大規模小売店舗立地法が制定されたことは、ドラッグストアの店舗の大型化が進行するきっかけとなり、花王にとっては小売業からの価格圧力が増加する契機になった。
1960年代以降、花王は地域毎に販社の設立を問屋に促すことで、販社による流通形態を整備してきたが、複数の販社が群雄割拠するという問題を抱えていた。そこで、1982年から1992年にかけて、全国8地域(北海道・東北・東京・中部・近畿・中国・四国・吸収)ごとに販社を設ける「広域販社」を整備してきた。
1982年に北海道花王販売株式会社の設立を手始めに集約を進め、1992年に東京花王販売株式会社を設立して、販社を8社まで集約した。だが、依然として販社が地域ごとに分割されている構造は変わらず、販売面のボトルネックになっていた。
1999年4月に花王は、広域販社8社を合併して「花王販売株式会社」を設立した。この施策によって地域別の販売体制だけではなく、有力な小売チャネル別のマーケティングの体制を整え、ドラッグストアなどの台頭に対処できる組織体制を構築した。
2004年には花王が花王販売の合併を決定して、問屋資本によって作られた販社を花王が取り込むことになった。ここにおいて、花王は半世紀近く進めてきた販社統合を完了し、製販一体の体制を作り上げた。
1982年に花王は基礎化粧品「ソフィーナ」を発売して化粧品事業に参入したが、化粧品業界では「資生堂」「カネボウ」「コーセー」といった先発企業がシェアを確保しており、後発の花王は苦戦を強いられた。1980年代には自然化粧品のファンケルや、通信販売に特化したオルビスといった新興企業が化粧品業界で成長したが、販路面の戦略に乏しい花王の化粧品事業はこの潮流に乗れなかった。結果として、2000年代まで花王の化粧品事業は苦戦を強いられる状況にあった。
カネボウは繊維事業の経営不振と粉飾決算により2003年9月に債務超過に陥った。産業再生機構は、カネボウにおけるキャッシュを捻出するために、利益の柱であった化粧品事業(カネボウ化粧品)を売却する方針を決定した。
そこで、花王(後藤卓也・当時社長)は、自社の化粧品事業を強化するために、カネボウの化粧品事業の買収を4100億円で決定した。化粧品事業の買収交渉は2003年内の決定を目指したが、カネボウを取り巻く利害関係の調整により2006年1月にずれ込んだ。
買収直前の化粧品業界における国内シェアは、花王4位(売上高758億円)に対してカネボウ2位(売上高2112億円)であり、買収によって花王は資生堂に次ぐ国内2位の化粧品メーカー(シェア12%)となった。
これまでも、国内でいい相手がいれば当然考えます、と言ってきた。我々が今までやってきたこととシナジー(相乗)効果が発揮でき、お互いにいいことがあるという前提なら、国内でも構わなかった。交渉相手や結果は秘密だが、いくつか仕掛けてきたし、向こうから寄ってきたケースもある。(カネボウの化粧品事業の)強みや弱みについては、これから打ち合わせをする中で深く理解できると思うが、エモーショナルな(感情に訴える)ところは我々より優れているし、専門店網も構築している。我々はGMS(総合スーパー)に強みがある。生き方が違っているから相乗効果が見込める。
カネボウ化粧品買収後、花王の化粧品事業の売上高は低迷が続いた。2013年の品質問題(カネボウ化粧品による白斑問題)により、FY2013〜FY2015の3ヵ年の累積営業赤字は476億円を計上しており、収益確保には程遠い状態であった。
また、インバウンドによる特需により2010年代後半は利益率を改善するものの、売上は思うように伸びなかった。この時期のインバウンド特需は、同業の化粧品メーカーも同様であり、企業努力よりも、環境要因によるものであった。
売上が低迷したことについて、花王はカネボウ化粧品のPMIに失敗したことが挙げられる。花王はカネボウ化粧品の買収後も数年間は、「花王の化粧品事業」と「旧カネボウの化粧品事業」を分離して管理しており、物流・生産・開発・ブランド(マーケティング)の面で分断されていた。特に、ブランドの統合に至っては、買収から15年の歳月を要しており、PMIに失敗したことが窺える。
PMIに失敗した理由は、マーケティングにおけるカネボウと花王の差や、労働組合の強いカネボウ化粧品と言った様々な要因が考えられるが、根本的にはPMIを強力に推進しなかった花王の姿勢が問題だったと思われる。
化粧品業界が活況の中、残念ながらわれわれは波に乗れていない
国内および中国における生産体制の縮小を受けて、花王は人財構造改革を公表。早期退職者に対する支払金の増額を決定。2023年12月期に250億円の構造改革費用を計上した。
中国のおむつ生産工場(合肥工場・2012年稼働)の閉鎖を決定。現地の競合メーカーの品質改善により、販売が低迷したことが要因。