石鹸を作る技術が国内に育っていない時代に、作る側から市場へ入るのは難しい。長瀬富郎氏が選んだのは仕入れの側だった。舶来の化粧石鹸を扱う小売として、どの品がいくらで売れるかを先に確かめ、そのうえで1890年に自社製品を出す。値は一個一二銭で、国産の並品が三、四銭の市場に外国品と同じ値札を自分で付けたことになる。当時の石鹸は原価四、五銭の中身に包紙と箱の意匠で値が付く商品であり、買い手が払っていたのは外装への対価だった。桐箱と定価は、その慣行を裏返して中身の保証に使う道具だった。
値づけを守る仕事が、そのまま製造業への道になった。商標条例の統制力が弱く模造が横行する市場では、名前のある石鹸を名前のまま売り続けること自体が難しい。長瀬商店は1902年の蒸気鹼化から1924年の搾油・硬化まで、品質を左右する工程を一つずつ内へ取り込んだ。天日乾燥と直火の平釜に委ねていた均一性を、設備で担保する作業である。1911年の初代の死と合資会社への改組、1922年の量産工場、1925年の株式会社化は、その投資を個人の裁量から会社の決定へ移すための手続きだった。
当時の日本では石鹸製造の技術が未熟で、品質も劣り、上質の化粧石鹸は残らず輸入品に依存していた。市場は舶来の高級品と国内中小業者の粗製品とに分かれ、価格と品質の間には大きな空白が残っていた。1887年6月、長瀬富郎氏が24歳で東京日本橋区馬喰町に洋小間物商の長瀬商店を創業した。同氏は岐阜県中津川の酒造家の出で、開業資金を用意できる立場にあった。洋紙と輸入石鹸を扱う小売の中で、同氏はこの空白を仕入れと販売の両面から捉えた。製造ではなく流通の側から市場に入り、需要と品質評価を先に確かめてから製造へ進む順序をとった。
1890年10月、長瀬富郎氏は桐箱入りの国産高級石鹸"花王石鹸"を自社で製造して発売した。商標は外国の鉛筆に付けられた月星の意匠から着想し、月を美と清浄の象徴に重ねている。価格は一個一二銭で、当時の一般的な国産石鹸が三、四銭だったのに対し外国品なみの値づけだった。発売と同時に大阪へ代理店を置いて関西市場を開拓し、新聞広告も用いて最初から全国を商圏に据えた。東京の製造業者が東日本を、大阪の製造業者が西日本をそれぞれ市場としていた時代にあって、この販売方法は例をみないものだった。需要を先に読んでから製造へ参入する順序で、無名の小売商が石鹸の製造元へ変わった。
一二銭という値が通ったのは、当時の石鹸市場が原価と店頭価格の隔たりで動いていたからである。1898年の記録では、国内の石鹸需要は製造家の原価で約100万円、東京の製造工場は大小60から70とされた。どれほど上等な品でも原価は4、5銭に過ぎず、それが7、8銭から1円以上で売れるのは石鹸そのものの値ではなく、包紙や箱の意匠によるものだと指摘されている『花客は、即ち其の花に價を擲つものなり』。買い手が払っていたのは中身ではなく外装への対価だった。長瀬商店の桐箱と定価は、この構造を逆から使ったものだった。外装で高く見せるのではなく、外国品に並ぶ中身を外装と値段で証明し、名前のある石鹸として無銘の粗製品から切り離した。
名前のある石鹸を売る商いは、その名前を守る仕組みを業界に要求した。1884年に商標条例が公布され1888年に改正されていたものの、その統制力は弱く、明治30年代の初めには意匠や打型の模造、他家の職工の引き抜きが相次いだ。東京石鹸製造同業組合は1899年、浅草東洋館で製品展覧会を開催して組合員の製品とレッテルを出品させ、その総数は2,600余点に及んだ。18名の審査員が出品を甲乙丙の3等に区別し、類似のない甲種は専有、3名以上の類似品がある乙種は共有として3年間組合事務所が保護した。法が追いつかない領域を、同業者どうしの登録と査定が補っていた。
銘柄を守るもう一方の道が、製造工程を自分の手に置くことだった。長瀬商店は1902年に蒸気鹼化方式を採り入れ、1911年には石鹸の廃液からグリセリンを回収する工程を加えた。1897年以前の国内で大釜を持つ工場は横浜と神戸の2か所だけで、他は直径四尺二寸以下の平釜を直火で焚いており、乾燥は天日に依存し、雨が降れば作業が止まった。蒸気による鹼化は、この天候と職人の勘に委ねられた工程を設備に置き換える転換だった。品質の均一が値段の正当性を支える商いでは、工程の内製は原価の問題であると同時に、銘柄を保つ条件でもあった。
1911年10月7日、長瀬商店は合資会社へ組織を変更した。出資は合計25万円で、代表社員の長瀬富郎氏が9万円の無限責任社員となり、残りを親族が引き受けた。縁故以外からただ一人社員に列したのは村田亀太郎氏で、創業当時の功労に対して1万円を贈与したうえでの参加だった。改組の直後に初代富郎氏は病が重篤となり、同月10日に次弟の祐三郎氏が代表社員に加えられ、26日に逝去した。法定相続人の富雄氏は11月7日に長瀬富郎を襲名して父の出資9万円を譲り受け、合資会社長瀬商会は祐三郎氏の統率のもとで動き出した。創業者の個人商店は、創業から24年で相続と組織の問題に直面していた。
1913年、長瀬商会は営業方針を大きく転換した。石鹸以外の化粧品類の生産を注文生産だけに限り、石鹸類だけを市場生産で製出する体制へ改めた。方向自体は明治末年から採られていたが、この年に明確な方針として据えられている。洋小間物商として始まった以上、品目を広く持つことは仕入れの延長として自然だったが、市場へ向けて見込みで作る商品を石鹸に一本化すれば、設備投資と在庫の判断もそこへ集約できた。同じ年の12月には、鉄道や旅館で用いられる特許容器を添えた水石鹸を発売し、家庭以外の需要にも品目を伸ばした。大阪の代理店だった大崎組もこの年に合資会社へ改組しており、売る側も法人の形を取り始めていた。
1914年の欧州大戦は、原料の6割から7割を輸入に依存する長瀬商会を直撃した。輸入の杜絶で原料相場は高騰し品は払底したが、開戦の時点で三、四か月分の使用額は手当てが済んでいた。工場支配人の長瀬常一氏が原料手当てにあたり、営業部は業界で最初に手形制度を採用して仕入れを繋いだ。それでも価格の高騰は吸収しきれず、花王石鹸の建値は一ダース85銭から同年8月下旬に90銭、9月初旬に95銭へ引き上げられ、1916年2月にはさらに7銭を足して1円2銭となった。定価で売る商品を持つ会社にとって、原料相場は値づけの信用を直接揺らす制約だった。
大戦後の長瀬商会は、設備と原料の両方を自前で抱える方向へ進んだ。1920年には自動型打のベルトシステムを導入して量産の速度を上げ、1922年11月には隅田川沿いの吾嬬町に石鹸の量産専用工場を新設して、のちの東京工場とした。1924年には搾油と硬化の設備を備えて原料の自給に手をつけている。そして1925年5月、花王石鹸株式会社長瀬商会を設立し、個人商店から株式会社の組織へ移った。設立時の重役陣は代表取締役に長瀬祐三郎氏、専務取締役に長瀬常一氏、常務取締役に秋元直氏が就任し、二代富郎氏は取締役として並んだ。創業から38年を経て、原料工程と量産工場と法人格がそろい、以後の設備投資を会社として決められる立場に立った。
1931年の新装花王石鹸は、品質を純粋度九九・4%へ上げ、目方を増やし、そのうえで値段を下げた。三つを同時に出せた石鹸業者は当時ほかにない。理由は販売ではなく工場にあった。七日から10日かかっていた冷却が二時間に、20日かかっていた乾燥が一昼夜になっている。二代長瀬富郎氏が欧米視察から戻って最初に置いたのが広告部と調査部、次に置いたのが販売方法研究委員会だったことを思えば、この値下げは売り方の工夫ではなく、工程で短縮した時間の配分だったと考えるのが近い。
原料の調達でも同じ選択が繰り返された。硬化油を握る業者が石鹸の死命を制する構造ができると、長瀬商会は自給へ回り、1932年には全国石鹸製造業聯合会の会長職を降りて中小の単業者と立場を分ける。1935年の大日本油脂、1936年の高圧化学工業と特許洗剤、1940年の日本有機は、いずれも石鹸の外側にある化学へ足場を移すための会社だった。戦後に三つの法人が一社へ統合され、1963年3月期に売上高211億円へ達したとき、主力は創業以来の化粧石鹸ではなく合成洗剤に替わっていた。
1927年12月、二代長瀬富郎氏が花王石鹸株式会社長瀬商会の社長に就任した。同年に従弟の長瀬六郎氏を伴って南洋とオーストラリアを視察した直後の就任で、当時23歳だった。就任の辞は事の始めに大切なことを二つ挙げ、第一に目的の確立を、第二に方針の決定を置いた『失敗がないならば、成功もない、失敗は成功の母である』。翌1928年6月には工場技師の川上八十太氏を伴って欧米視察に出て、1929年2月に帰朝した。帰国後は新職制を定め、同年11月に広告部と企画部を、1930年5月に調査部を新設した。石鹸の作り手ではなく、市場を調べて売り方を決める部門が会社の中に置かれた。
1930年、長瀬商会は販売方法研究委員会を設け、六月に革新販売方針を決定した。同年8月には花王石鹸革新計画を社内に発表し、翌1931年3月1日、新装花王石鹸を発売した。新装花王石鹸は伝統の枠練製法を維持したまま品質を純粋度九九・4%へ引き上げ、一個あたり二匁を増量し、そのうえで正価を一個一〇銭へ引き下げたものだった。当時の業界では大胆な革新で、1890年の発売時に一二銭を付けた商品が、40年を経て増量と値下げを同時に実現している。形状も包装も香りも近代化された一方で、石棣流の字体と花王のマークは元のまま残された。値段は変えても、買い手が銘柄を見分ける印は変えなかった。
増量と値下げを同時に成り立たせたのは、吾嬬町工場の工程改造だった。1930年には新装花王石鹸の発売を見据えて冷圧装置とトンネル乾燥機を、翌1931年には自動型打機と大圧出機に加えて自動包装機を据えた。クーリング・プレスの採用で従来七日から10日を要した作業が二時間で済むようになり、トンネル式乾燥装置は約20日かかっていた乾燥を一昼夜へ縮めた。コンベアによる連続作業で作業能率も上がった。この設備をもって石鹸工業の近代化は完成し、欧米先進諸国と比肩する水準に達した。値下げは販売政策の決断である前に、工程の時間を短縮した結果として生まれた数字だった。
昭和に入ると、石鹸業界の主導権は原料を供給する業者へ移っていた。欧州大戦以降に発達した硬化油工業の製品が石鹸原料として重用され、硬化油の製造業者が石鹸工業の死命を制する地位を得た。彼らが自製の硬化油で石鹸そのものを作り始めると、洗濯石鹸の市場は昭和初年に混乱した。長瀬商会など大手は1931年から1932年にかけて原料硬化油の自給を企画し、1934年11月に吾嬬町で硬化油工場の操業を開始した。翌1935年には研究部長の川上八十太氏が全合成硬化油による花王石鹸の製出に成功し、牛脂に代わる原料で主力商品を作れることを示した。原料を他社に左右される立場から、自ら掌握する立場へ転じる作業だった。
硬化油の自給は、長瀬商会を業界のどちら側に置くかという問題でもあった。1932年に同社が硬化油自給の企画へ着手したとき、取締役の長瀬常一氏は全国石鹸製造業聯合会の会長職を辞している。原料を自給する大手と、それを買わねばならない中小の石鹸単業者とでは、もはや利害が同じではなかった。実際、中小業者は硬化油の入手難から硬化油業者や大石鹸業者への従属へ追い込まれ、下請工場や留型工場として命脈を保つ状態に置かれた。1935年には製造部門が長瀬商会の分身として独立し、資本金600万円の大日本油脂株式会社となった。原料と製造を別会社に立て、商標と販売を長瀬商会に残す体制がここで整った。
同じ時期、長瀬商会は石鹸とは別の洗浄剤にも手を伸ばした。吾嬬町の新工場は合成新洗剤の研究に早くから着手し、1935年には半工業的装置を完成していたが、製出にあたってドイツのベーメ会社の特許権に抵触する懸念があった。そこで1936年、合同油脂・大阪酸水素・第一工業を誘ってこの特許権を買収し、資本金75万円の高圧化学工業株式会社を設立、さらに資生堂とミヨシ石鹸も加えて資本金50万円の特許洗剤株式会社を設立した。製品は高級アルコール硫酸化物で、長瀬商会はこれにエキセリンの商品名を付けて売り出した。木綿からステープル・ファイバーへ繊維業界が変わるなかで、エキセリンは繊維助剤として多量の需要を見つけた。
1937年7月の日支事変以降、石鹸は特需と大陸市場で需要が激増した一方、生産設備の拡張は阻止され、原料需給は窮屈になり、燃料と電力は制限され、製品価格は物価統制で一定の水準に釘付けにされた。従来の全国石鹸製造業聯合会では統制の役に立たず、1939年5月の東京石鹸工業組合を皮切りに各地で工業組合が設立され、1940年1月には全国石鹸工業組合聯合会が結成された。その主要事業は原材料の配給だった。同じ1940年5月、長瀬商会は有機合成事業法に準拠し、鉄興社との共同出資で資本金250万円の日本有機株式会社を設立した。石鹸から有機合成化学全般へ広げる方針が、統制経済の枠組みのなかで具体化した。
1942年、国は動植物油脂から航空潤滑油をつくる技術を事業化するよう求め、それに応えて和歌山工場が建った。工場の持ち主は日本有機で、担ったのは石鹸ではなかった。三つの法人の整理に手がついたのは戦後である。先に動いたのは長瀬商会で、1946年5月に株式会社花王へ名を改めた。日本有機は1949年5月に商号を花王石鹸株式会社とした。同じ月の16日には東京証券取引所に株式を上場している。同年12月には大日本油脂と株式会社花王が合併して花王油脂となり、1954年7月、花王石鹸が花王油脂を合併して資本金1億9,400万円の一社に戻った。原料・製造・販売を分けて持っていた戦前の体制は、上場会社を器として一本に統合された。
合併と同じ1954年、二代目長瀬富郎氏に代わって経団連出身の福島正雄氏が社長に就任した。同じころ会社は戦後いち早く合成洗剤ワンダフルを発売しており、1954年下期には花王石鹸の生産実績一五五八屯に対しワンダフルが一〇六三屯と、主力の座を争う規模まで来ていた。売上高は1954年3月期の二二・5億円から1960年3月期に119億円、1963年3月期には211億円へ伸びた。1964年の時点で家庭用洗剤は国内生産の50%を占めて生産規模は業界第一位となり、製品は1,360店の代理店を通じて20万軒の小売店に配られていた。創業以来の化粧石鹸は、合成洗剤という別の化学製品に主役を譲っていた。
1964年の花王石鹸は、家庭用洗剤を代理店1,360店から小売店20万軒へ流していた。代理店経由の経路では、問屋どうしが値引きと割戻しで売り先を奪い合った。福島正雄社長は1966年、値引割戻による販売促進は双方の倒産まで止まらないと論じ、流通機構の整備を説いた。スーパーは洗剤を客寄せの安売り品に使い、問屋のマージンはほぼ消えていた。洗剤の需要が年率5割で伸びても、問屋の収益と資本の蓄積は伸びなかった。複雑な流通経路が、スーパーの安売りの材料になっていたためだった。花王石鹸は石鹸と洗剤を再販売価格維持の指定品目に入れさせ、1965年から値引きした小売店への出荷を止められる立場を得た。
再販の値を店頭で守らせる担い手として、花王石鹸は1966年から花王製品だけを扱う販売会社(販社)を地区ごとに設けた。販社は従来の取扱問屋が地区別に運転資金を持ち寄って設立し、花王石鹸はほとんど出資しなかった。販社に参加しない問屋は花王製品を扱えなくなり、東京都内では200の問屋が販社粉砕協議会を結成した。切り替えで出荷が滞り、洗剤シェアは1969年から1971年まで首位をライオン油脂に譲った。1971年度の決算では、経常利益でもライオン油脂に上回られた。発足当初の販社には販売の基礎を知らない人材も多く、花王石鹸が営業を一から教えた。それでも販社は1974年に全国99社となり、洗剤シェアは1972年から1973年に首位へ回復した。
1971年10月、伊藤英三社長の病死を受けて丸田芳郎副社長が社長に就任した。丸田芳郎氏は桐生高等工業学校で応用化学を修め、航空潤滑油の合成で京都大学から工学博士号を得た技術者だった。販社づくりを陣頭で指揮したのも丸田芳郎氏で、狙いは流通経路の確保と値崩れの防止にあった。丸田芳郎氏は導入の動機を、流通を近代化しなければP&Gをはじめとする巨大外資に対抗できないためと説明した。丸田芳郎氏によれば、花王石鹸は1968年ごろに年15〜20%の成長を前提とする考えを改め、省力化と公害防止・安全に取り組んだ。販社による価格の安定と工程の省力化を、次の投資の元手に充てる考えだったと思われる。
1973年10月末に大阪・千里で始まった洗剤の買いだめ騒ぎは全国に広がり、メーカーの売り惜しみが原因と批判された。花王石鹸は7,000世帯の購買調査で買い急ぎが主因と示し、結果を各政党と国会議員に配った。1974年3月、丸田芳郎社長は国会の物価審議に参考人として出席し、メーカーを悪役とする追及に反論した。同年5月16日には、生産制限が原因とした東京都の調査を不服とし、美濃部亮吉都知事を東京地裁に訴えた。花王石鹸は1973年末から再販指定を自ら返上し、1974年9月1日に洗剤と石鹸は指定品目から外れた。原料の石油製品が値上がりし、1974年3月期の売上高利益率は従来の2.6〜2.7%から1.6%へ低下した。1975年3月期は買い急ぎの反動で減益となった。
再販の拘束が外れた後、花王石鹸は販社と工場の間の在庫と配送を詰めて価格を保った。1974年5〜6月に川崎・和歌山両工場の自動倉庫が完成し、東京・大阪地区で本社・工場・販社のオンライン化の試験を始めた。1977年度からの本格稼働で、花王と販社の合計在庫は1.4カ月分から0.9カ月分に減った。各販社は40日前に製品ごとの販売予測を送り、花王石鹸はそれを基に生産計画と翌朝の配送を組んだ。1979年度の物流コストは推定で売上高の8.2%と、ライオンの12%を下回った。物流に投じた200億円は、1980年までに回収を終えていた。販社の社員は小売店を週1回か10日に1回訪ね、安売りする店には価格の維持を頼んだ。
価格維持で利益が安定した花王石鹸は、1977年に設備投資を減価償却の範囲に抑える方針を改めた。1960年代まで借入金を持たずに収益の範囲で投資してきたが、研究開発の強化に要る投資は外部資金でも賄う方針に転じた。4年間で600億円を投じる計画を掲げ、1976年には丸田芳郎社長を本部長とする研究開発本部を発足させた。1978年から1980年の3年間に1,200億円を投じ、鹿島工場の新設と和歌山工場の増強で中間原料の能力を高めた。脂肪酸の年産能力は5万トンから12万トンに増えた。1979年8月、丸田芳郎社長は九州工場を翌年中にほぼ無人化し、24時間365日の自動運転に移すと明らかにした。償却を終えた後に欧米市場へ進む順序も示した。合理化で余る500〜600人は研究所へ配置換えする方針だった。
1982年、花王石鹸は高級化粧品ソフィーナを全国で発売し、1本2,000〜3,000円の価格帯に参入した。合弁のニベア花王でスキンクリームは扱っていたが、高価格の化粧品に参入するのは初めてだった。ソフィーナは1980年10月から静岡県でテスト販売し、界面活性剤による乳化の技術から派生させた製品だった。多角化を急いだ背景には、主力の石鹸・洗剤の需要が数量で伸び悩んでいたことがあった。皮膚の天然保湿成分に近い物質を合成し、ソフィーナの特長の一つとした。丸田芳郎社長は気分ではなく皮膚医学上の効用を訴求する方針をとり、発売当初は派手な宣伝を控えた。1984年時点で化粧品部門は年20〜30億円の赤字とされ、丸田芳郎社長は採算を確保するまで5〜6年を見込んだ。
化粧品に続き、花王石鹸は生理用品で得た吸水の技術を紙おむつに持ち込み、メリーズを発売した。起点は和歌山の研究所が開発した高分子吸収体で、1980年5月に生理用品ロリエとして全国発売した。ロリエは2年間で24〜25%のシェアを得て、ユニ・チャームに次ぐ業界2位となった。高分子吸収体は1gで400gの水を吸い、メリーズは3回分の尿を吸収する設計とした。丸田芳郎社長は1980年ごろ紙おむつを3年後に製品化すると明言し、経理・資材・設備の部門が開発を後押しした。1984年の日本の紙おむつ普及率は10%と米国の80%を下回り、国内市場は350億円程度だった。花王石鹸は普及が進めば2,000億円の市場になると見込んだ。
花王石鹸は1964年のタイ進出を皮切りに、台湾・シンガポール・マレーシアで石鹸・洗剤・シャンプーの合弁生産を広げた。スペインとメキシコでは中間原料の脂肪族アミンを生産し、1982年時点でいずれも黒字だった。1977年1月に米コルゲート・パルモリーブと歯磨きの合弁を設け、1980年から同社の販路で米国の一部にヘアケア製品を試験販売した。一方、1984年3月期の売上高3,300億円のうち石鹸は120億円程度で、構成比は3〜4%にとどまった。渡邊正太郎専務は1984年6月、社名が事業の実態を表さなくなったとして社名変更の検討を明らかにした。同じ講演で、各家庭とオンラインで結ぶ双方向の通信販売に備える考えも示した。石鹸の会社でなくなった自覚が、1985年の社名変更と情報事業への参入の前提になったとみられる。
1985年10月、花王石鹸は商号を「花王株式会社」に改めた。改称前の1984年3月期、売上高3,300億円のうち石鹸は約120億円で、構成比は3〜4%にすぎなかった。同年6月の講演で渡邊正太郎専務は、社名が事業の実態を表さなくなったとして変更を検討中だと明かした。売上を押し上げたのは石鹸以外の新製品で、1983年10月に入浴剤、同11月に紙おむつ、1984年9月にボディシャンプーを投入した。売上増加分の7割以上を新製品が占め、その広告で1984年度の広告宣伝費は前年首位のトヨタ自動車を2億円上回った。石鹸の二字を外したのは、家庭品と化粧品を併せ持つ会社として名乗り直す判断だったとみられる。
1985年6月、花王はフロッピーディスク(FD)を発売し、日立マクセルや富士写真フイルムなど10数社が先行する市場へ最後発で参入した。起点は1980年に丸田芳郎社長が打ち出した基礎研究の拡大策で、新設の応用物理研究室が事業化のテーマにFDを選んだ。花王は界面活性技術で磁性粉の表面を処理し、製品劣化の原因だった分散剤を使わずに塗布する方法を考案した。原材料を内製できる化学メーカーであることも、後発でもコストで対抗できる根拠とされた。事業化を担った今村哲也氏は、自社技術の応用で先発に追随できると判断したと振り返った『この分野の技術ならば、後発でも他社に十分追随できると判断した』。1986年5月にはカナダのDidak Manufacturing Limitedを買収し、情報関連事業に本格参入した。
1980年代後半、花王は事務改善運動のTCR(トータル・クリエイティブ・レボリューション)を全社で進めた。経営陣が繰り返し旗を振り、部課長クラスに改善案を出させてすぐ実行に移させた。丸田芳郎社長は、売上高やシェアの目標は押し込み販売を招くとして、長期計画に数字を掲げなかった。研究部門には予算枠を設けず、試験装置の購入を研究員自身が決める権限を与えた。1973年に全国110の販売会社をオンラインで結んだ物流網により、物流費の対売上比は同業より1.5〜2%低かった。数字で縛らずに仕事の仕方を見直させる運営が、FDのような新規事業へ資源を割く余力を支えたと推察される。
1990年6月、副社長の常盤文克氏が社長に就任し、丸田芳郎氏は会長となった。常盤文克氏は1957年に入社し、家庭品研究所長などを経た研究畑の出身で、下馬評を覆す人事と受け止められた。就任時には丸田芳郎氏の経営哲学を引き継ぎ、そのうえで自身の色を徐々に出すと語った。1992年には、部門ごとのセクショナリズムを防ぐため、人事や経理から「部」の枠を外してグループと呼んだ。花王は品目数を大幅に減らし、物流も合理化して早めに費用を抑えた。同年下期には、組織と仕事の仕方を見直して固定費を前年同期比7〜8%減らす計画が報じられた。常盤文克社長は、環境に合わせて組織を変え続けることを経営の大原則に置いた『組織も企業も常に変わっていかねばならないというのが大原則だと思います。』。
1993年、花王は販社網だけで小売へ届ける方針を改め、卸売業者の育成に転じた。当時は家庭用品の約75%を販社ルートで流し、残る25%は「代行店」と呼ぶ卸が中小小売店へ配送していた。花王は2年前から代行店と共同で商品の絞り込みや倉庫の配置を研究し、手引きにまとめて支援に使うとした。代行店が衰えれば、花王が中小小売店まで直送網を広げる必要があり、効率の面で難しかった。それまで加わらなかった小売の共同配送センターも使い始めた。競合が共同配送で1日1回納品すれば、週2〜3回配送の自社網は追随を迫られ、コストが合わなくなるためだった。常盤文克社長は1994年、9工場を1つの工場とみなし、生産・物流・販売を統合する構想を3〜4年で仕上げるとした。
1991年、花王のFD売上高は全世界で約250億円に達し、国内最大手の日立マクセルの約350億円に迫った。伸ばしたのは海外へのOEM供給で、1988年7月に米国の中堅メーカーを買収し、1990年3月にはスペイン工場を稼働させた。ところが米国市場は1991年の約12億枚から1桁成長へ鈍り、日本では2DDの価格が5年で1枚300円から130円台へ下がった。佐々木住明副社長は第1段階が終わったとして、KAOブランドをスーパーやコンビニへ広げる方針を示した。1994年に常盤文克社長は、情報関連は技術の変化が速く、気を緩めればすぐ後れを取ると語った。媒体だけを手がける事業は、この時点で価格の競争に劣位に置かれ始めていたと思われる。
1993年9月にダイエーがPB洗剤「ホワイト」を発売し、1994年4月にはイトーヨーカ堂も続いた。1.5kg入りで348円と、希望小売価格870円の「アタック」の半値以下だった。花王は1994年、アタックを1.5kgから1.6kgへ増量し、価格を据え置いて東北で試験販売した。アタックは年間出荷額900億円弱と年商の約14%を占め、店頭の平均売価は1995年2月に437円と1年で66円下がった。1995年1月には、1994年12月に登録された洗剤製法の特許を根拠に、小売業や製造業者20社弱へ侵害の恐れを問う質問状を送った。常盤文克社長は1994年、画一的な商品を量産して値を下げればよいわけではないとして、価格に見合った価値で競う考えを示した。
1964年に初の海外現地法人を置いたタイで、花王のシャンプーのシェアは1990年代に3%台まで下がっていた。花王は1990年暮れに研究所長を送り込み、冷水で洗うタイの生活に合わせた新「フェザー」を1993年秋に発売した。価格は10バーツに据え置いたまま、容量を50ccから100ccへ倍にした。月販は100万本から300万本へ増え、自社物流と18の営業所も整えて、トイレタリーのシェアは15%に上がった。それでも首位のユニリーバは30%のシェアを占めていた。1993年8月には上海花王を設立し、中国へ進出した。中国ではP&Gが1994年10月時点で約2億ドルの事業を持ち、忌部和也副社長はアジアへの資源投入を急ぐとした。
1997年6月、化学品事業本部長を務めた専務の後藤卓也氏が、副社長3人と筆頭専務を飛び越して社長に就任した。情報関連事業は1998年度にリストラを加速し、売上高は前期から277億円減って484億円となり、期末までに全事業を終えた。撤退の特別損失238億円を家庭用製品の増益で吸収し、1999年3月期の当期純利益は347億円と41.7%増えた。後藤卓也社長は後に、売上高800億円に達した事業でもメディアしか持たず、市場の変化に振り回されたと振り返った『花王の情報事業はフロッピーディスクなどのメディアだけで、ハードもソフトも持っていないわけです。』。代表取締役全員と情報事業担当の取締役は賞与を減らされ、一部は降格した。本業に資源を集めてP&Gとユニリーバの欧米2強に対抗する前提が、ここで整ったのだろう。
情報関連事業を終えた花王は、全国8社に分かれていた販売会社を1999年4月に合併し、1社にする方針を定めた。大手小売は全国チェーン化で情報収集力を強め、花王の企画・提案力は相対的に低下していた。セブン-イレブン・ジャパンなどには、販社の物流センターを通さず先方の拠点へ納める例も増えていた。統合で管理部門を集約し、生じた余剰人員は小売への提案を担う営業の前線に再配置する狙いだった。後藤卓也社長は、イトーヨーカ堂との共同配送など、物流の形を取引先ごとに使い分けるとした。統合後の花王販売は花王製品だけを小売に卸す会社となり、2000年度に花王の連結子会社に加わった。
1999年4月、花王は税引後営業利益から資本コストを差し引くEVAを、日本企業で初めて経営指標に採った。導入の前年に撤退を決めた情報関連事業は、売上高約800億円ながら累積の損失が500億円弱に達していた。決算上は黒字でも、EVAが負の状態が続く事業は撤退の対象になるという考え方だった。2002年時点でEVAは事業評価、設備投資やM&Aの審査、年度の業績管理に使われた。役員と社員の賞与の一部も、EVAの前年比改善目標の達成度に連動させた。後藤卓也社長は取締役にストックオプションを導入し、2001年6月で役員退職慰労金の積み立ても止めた。
2001年、後藤卓也社長は国内で大型投資に値する商品開発はほぼ出尽くしたとし、海外ではM&Aに軸足を置くとした。当時の花王は売上高の78%を日本に依存し、海外は売上高の22%に対し利益の12%にとどまった。2000年に売上高約80億円の制汗剤banを米チャッテムから取得し、北米での足場とした。後藤卓也社長は、花王の技術や商品開発を加えられる見通しのない買収はしないとした。2002年には北米のサロン向けヘアケアのKMSリサーチと、ヘアケアブランドのジョン・フリーダを買収した。2004年、欧米のプレミアムビューティケアは花王の成長ドライバーの一つに位置づけられた。
2004年4月、後藤卓也社長は在任7年での退任を表明し、8人を飛び越えて54歳の尾﨑元規取締役を後任に据えた。尾﨑元規氏は家庭用品の担当が長く、社内でマーケティングに通じた人物として知られた。同年2月には、カネボウとの化粧品事業の統合がカネボウの産業再生機構入りで破談となっていた。売上高の約75%を占める家庭用品市場は、先行きに大きな伸びを見込めなかった。尾﨑元規氏は化粧品事業本部長を2年務め、増益の更新より5年先の成長を重んじると語った。同年10月、尾﨑元規社長はヘルスケアと欧米・アジアの事業を成長ドライバーに掲げ、M&Aにも資金を充当する方針を示した。
2004年の破談時点で、カネボウの化粧品事業を継ぐ新会社の株式は3年後に再生機構が売却する見通しだった。尾﨑元規氏はこの事業を、花王の開発力を高級化粧品に生かす選択肢の一つと位置づけていた。花王は2006年2月中旬までに、カネボウ化粧品の株式と同社の商標権などの知的財産権を取得した。取得資金をブリッジローンで調達したため、2005年6月の総会で承認した上限500億円の自己株式取得は見送った。2006年4月時点で、同年度のカネボウ化粧品の売上高は2,900億円、連結売上高の約25%と見込まれた。花王は研究開発や営業など9つのシナジー委員会分科会を設け、統合効果を探った。
カネボウ化粧品の2007年度の売上高は2,200億円強で、ロイヤリティ控除前の営業利益率は前年度の約11%から8%強に低下した。同年度のコストシナジーは、メディア購買や生産・調達を中心に10億円強だった。2009年1月、会社側は利益率の高いプレステージ化粧品の不振を営業利益予想の減額要因の一つに挙げた。2012年4月、花王は尾﨑元規社長が会長に就任し、澤田道隆取締役が社長に就任する人事を内定した。澤田道隆氏は研究開発部門副統括とヒューマンヘルスケア研究センター長を務めていた。研究出身の社長の起用には、商品開発から化粧品と日用品を立て直す意図があったとみられる。
2016年12月、澤田道隆社長は実質売上高の年平均5%成長と営業利益率15%を掲げる中期経営計画「K20」を発表した。澤田道隆社長は、化粧品と欧米・アジアの消費財事業の利益率を10%以上に引き上げ、2030年に全社で17%を目指すと説いた。澤田道隆社長は、安定した収益基盤を保ったまま従来の殻を破る必要があると述べた。2020年2月、会社側はM&Aを増収のためでなく、ESGの視点で医療や衛生へ事業領域を広げる手段とした。同年6月、澤田道隆社長はEVAだけで測れば10年先を見たESG投資はできないと株主に説明した『ESG はコストではなく投資。』。売上高1,000億円のブランドを、メリーズ、アタック、ビオレの3つで育てる目標も置いた。
2020年12月、翌月に社長に就任する長谷部佳宏専務は、中期経営計画「K25」を発表した。2025年に売上高1兆8,000億円と営業利益2,500億円を掲げ、約5,000億円の投資を計画した。会社側はK20の成長率と利益率の未達について、化粧品のデジタル化と海外強化の遅れを要因に挙げた。2019年に15%を超えたROICは、コロナ禍と原材料高を経て低下していた。2023年、花王は構造改革費用600億円を見込み、中国のベビー用紙おむつの現地生産終了など非効率事業の見直しに着手した。同年の中期経営計画「K27」はROICを全社に導入し、売上高1兆8,000億円を目標から外した『売上高を指標にすると規模を追うための活動になってしまうため、売上高1.8兆円は目標から除外した。』。
オアシス・マネジメントは2024年12月時点で花王株の5.23%を保有していた。2025年3月の定時総会に向け、オアシスは社外取締役5名の選任と役員報酬の改定を提案した。取締役会はK27でROICが2023年度の4.1%から2024年度に9.2%へ改善したことを挙げ、全議案に反対した。株主提案の4議案は賛成11.25〜29.19%で否決され、長谷部佳宏社長の選任は賛成89.70%で可決された。2026年4月の臨時総会でも、オアシスが求めた供給網の調査者の選任は賛成30.30%で否決された。同年5月、会社側は土地売却益を除いても通期営業利益1,820億円の達成を目指すとした『土地売却は、ロジスティクス最適化を通じた資本効率改善の一環であり、構造改革費用などの吸収を目的としたものではない。』。
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|---|---|---|---|---|
| 1887〜1925年日本橋の小売商から国産化粧石鹸の製造元へ | 舶来雑貨の店売りから桐箱入り「花王石鹸」を作る製造業への転身 1887年6月、岐阜県中津川の酒造家に生まれた24歳の長瀬富郎氏が、東京日本橋区馬喰町に洋小間物・洋紙・輸入石鹸を扱う長瀬商店を出店した。舶来の高級品と粗製の国産品に二極化した石鹸市場を仕入れと販売から見通し、1890年10月に桐箱入りの国産高級石鹸"花王石鹸"を自社で製造して発売、流通業者から製造業者へと事業を広げた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 花王石鹸を発売 | ★★ | |||
| 吾嬬町工場を新設 | ★ | |||
| 花王石鹸を設立 | ★ | |||
| 1926〜1963年長瀬富郎二代目の合理化と戦時統制、合成洗剤の発売と東証上場 | 日本有機を設立 | ★ | ||
| 伊藤英三 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 伊藤英三 | 合成洗剤を発売 | ★★ | ||
| 福島正雄 | 花王石鹸が花王油脂を吸収合併 | ★ | ||
| 福島正雄 | 合成洗剤工場に投資 | ★ | ||
| 福島正雄 | 川崎工場を新設 | ★ | ||
| 1964〜1984年小売店との再販契約による販社網の構築とメリーズ・化粧品への参入 | 福島正雄 | 販社制度の構築——問屋を外し、全国約27万件の小売と直接結ぶ流通改革 1964年、花王石鹸は全国約27万件の小売店と再販契約を締結し、問屋を介した流通から、花王製品を専売する販売会社"花王販社"を軸とする自前の流通経路へ切り替える改革に着手した。副社長の丸田芳郎氏が陣頭指揮し、問屋の反発で一時は洗剤シェア首位を失う代償を払いながら、店頭までの経路を自社の側から握る体制を構築した経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | |
| 丸田芳郎 | 設備投資と工場自動化の積極化——欧米市場をにらんだ攻めの投資 1979年、花王石鹸の丸田芳郎社長は、今年度に500億円、今後3年間で1200億〜1300億円という投融資を明言し、設備投資と工場自動化を積極化する方針を打ち出した。九州工場をほぼ無人化して24時間・365日の自動運転にするなど、国内で稼いだ余力を生産合理化と研究開発、そして欧米市場への進出の布石に振り向けた経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 丸田芳郎 | 化粧品事業に参入 | ★★ | ||
| 丸田芳郎 | 紙おむつ「メリーズ」を発売 | ★★ | ||
| 1985〜1998年花王への改称とフロッピーディスク事業の参入から撤退まで | 丸田芳郎 | 多角化路線に区切りをつけ、主力事業へ絞り込む事業構成の見直し 1998年、花王の後藤卓也社長は、売上高で約800億円に達したフロッピーディスク事業からの全面撤退を決めた。得意とするパーソナルケアとハウスホールドの家庭用品をコア事業と定めて集中する一方、撤退の経営責任として一部の役員を降格させ賞与をカットし、退く判断を人事の面でも固定した経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | |
| 丸田芳郎 | 商号を花王に変更 | ★ | ||
| 丸田芳郎 | トータルコストリダクションを推進 | ★ | ||
| 常盤文克 | 子会社を設立 | ★ | ||
| 後藤卓也 | 情報事業(フロッピーディスク)から撤退 | ★★★ | ||
| 1999〜2026年花王販売の設立とEVA経営、カネボウ化粧品の買収からオアシスとの対峙まで | 後藤卓也 | 花王販売を設立 | ★★★ | |
| 後藤卓也 | 20年かけて取り換えた事業評価の物差しと資本効率の重視 1999年4月、後藤卓也社長のもとで花王は日本の事業会社として初めてEVA(経済付加価値)を経営指標に導入し、資本コストを差し引いた利益で事業を測る物差しへ判断基準を統一した。それから20年余りを経て、当事者の花王自身がEVAをROICへ組み替えた。売上規模ではなく資本効率で事業を選ぶ経営への転換を、指標の設計という面から進めた判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 後藤卓也 | 取締役会の改革 | ★ | ||
| 後藤卓也 | John Frieda社を買収 | ★★ | ||
| 尾﨑元規 | 約4,291億円を投じての、後発から国内2位への一気の浮上 2006年1月、花王が化粧品大手のカネボウ化粧品の株式86%を産業再生機構から取得し、翌2月に100%として完全子会社化した経営判断。尾﨑元規社長のもとで、産業再生機構下で再建中だったカネボウの化粧品事業をまるごと取得し、国内化粧品で4位から2位へ、シェア約12%へと順位を上げ、日用品・化学品・化粧品の三事業構成を組んだ。花王が評価した企業価値は約4100億円で、花王最大のM&Aである。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 尾﨑元規 | オムツの生産開始 | ★ | ||
| 澤田道隆 | Oribe Hair Careを買収 | ★ | ||
| 澤田道隆 | Washing Systemsを買収 | ★ | ||
| 澤田道隆 | 早期退職者への支払金増額 | ★ | ||
| 長谷部佳宏 | Bondi Sands Australiaを買収 | ★ | ||
| 長谷部佳宏 | 物言う株主の要求を退け、中期経営計画K27を堅持する選択 2024年、香港の物言う株主オアシス・マネジメントが花王株を取得し、不振ブランドの整理・資本効率の改善・社外取締役の選任を求めた。花王取締役会は2025年の株主提案すべてに反対し、3月21日の定時株主総会で否決した。ただしオアシスは持株を積み増し、2026年には供給網をめぐる独立調査を求めて臨時株主総会を要求するなど、圧力は続く。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(花王)