花王 の歴史

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創業 1887年
創業者 長瀬富郎
創業地 東京都中央区日本橋
創業 1887年6月、24歳の長瀬富郎氏が東京日本橋区馬喰町に洋小間物商の長瀬商店を創
1887年6月、24歳の長瀬富郎氏が東京日本橋区馬喰町に洋小間物商の長瀬商店を創業した。岐阜県中津川の酒造家の出身で、洋紙と輸入石鹸を扱う小売から商いを始めている。当時の国内市場は舶来の高級品と粗製の国産品に二分され、価格と品質のあいだに空白が残っていた。1890年10月、桐箱入りの国産高級石鹸"花王石鹸"を自社で製造した。一個一二銭は国産石鹸の3倍から4倍にあたる値づけで、発売と同時に大阪へ代理店を置き、最初から全国を商圏に据えた。1911年に長瀬富郎氏が病没したのち合資会社へ改組し、1925年5月に花王石鹸株式会社長瀬商会を設立している。
決断 川上の原料と川下の店頭を先に押さえ、そのあいだで製品を入れ替えてきた。1935年
川上の原料と川下の店頭を先に押さえ、そのあいだで製品を入れ替えてきた。1935年に製造部門を大日本油脂として分離し、1940年に原料側の日本有機を設立したうえで、1954年までの合併で三社を一つの法人へ戻した。この一貫生産を背に1951年に合成洗剤ワンダフルを発売し、1964年には問屋を外して全国約27万件の小売と再販契約を締結した。1978年3月期からは3年で1200億円の設備投資に踏み切り、ヤシ油の精製から製品までの経路を固めて、生理用品ロリエ、化粧品ソフィーナ、紙おむつメリーズを送り出した。反対に両端を持てない事業は残さず、1998年に800億円まで育てた情報事業から全面撤退した
現況 株式と知的財産権あわせて約4,291億円を投じて取得した化粧品は、20年たっても
株式と知的財産権あわせて約4,291億円を投じて取得した化粧品は、20年たっても本業の利益率に達しない。2025年12月期の連結売上高は1兆6,886億円、営業利益は1,641億円だった。ハイジーンリビングケアが売上5,493億円・利益813億円で利益率14.8%、ヘルスビューティケアが4,329億円・391億円で9.0%、ケミカルが4,515億円・302億円で6.7%と並ぶなか、化粧品事業は2,616億円に対し104億円の4.0%にとどまる。1999年に日本の事業会社として初めてEVAを経営指標に採り入れ、2024年にはROICへ替えて2027年に11%以上を掲げたが、2024年からはオアシス・マネジメントの株主提案を受けている。国内が売上の56%を占め、残る44%の7,436億円はアジア・米州・欧州が生んでいる。
競合 競争の焦点は店頭ではなく、店頭までの経路にあった。1964年に問屋を外して全国約
競争の焦点は店頭ではなく、店頭までの経路にあった。1964年に問屋を外して全国約27万件の小売と再販契約を締結した直後の1971年、洗剤シェアの首位をライオン油脂へ明け渡している。それでも経路の組み替えを止めず、1972年から1973年に首位を取り戻した。洗剤シェアは1973年3月期の40.1%から1975年3月期に37.4%へ下がり、1978年3月期には42.4%へ戻る。同じ期間にP&Gが1.9%から11.6%へ伸びても首位を保てたのは、花王製品だけを扱う販社が値崩れを防いだからである。一方、化粧品では1923年に販売会社とチェインストア制を敷いた資生堂やカネボウが握る対面販売網に入れず、2006年にカネボウ化粧品ごと買収して国内2位へ上がった
長期業績の推移 1949〜2025年
花王:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1996年3月期2025年12月期

第1章 1887年〜 日本橋の小売商から国産化粧石鹸の製造元へ

筆者考察y.sugiura, author

石鹸を作る技術が国内に育っていない時代に、作る側から市場へ入るのは難しい。長瀬富郎氏が選んだのは仕入れの側だった。舶来の化粧石鹸を扱う小売として、どの品がいくらで売れるかを先に確かめ、そのうえで1890年に自社製品を出す。値は一個一二銭で、国産の並品が三、四銭の市場に外国品と同じ値札を自分で付けたことになる。当時の石鹸は原価四、五銭の中身に包紙と箱の意匠で値が付く商品であり、買い手が払っていたのは外装への対価だった。桐箱と定価は、その慣行を裏返して中身の保証に使う道具だった。

値づけを守る仕事が、そのまま製造業への道になった。商標条例の統制力が弱く模造が横行する市場では、名前のある石鹸を名前のまま売り続けること自体が難しい。長瀬商店は1902年の蒸気鹼化から1924年の搾油・硬化まで、品質を左右する工程を一つずつ内へ取り込んだ。天日乾燥と直火の平釜に委ねていた均一性を、設備の側へ移す作業である。1911年の初代の死と合資会社への改組、1922年の量産工場、1925年の株式会社化は、その投資を個人の裁量から会社の決定へ移すための手続きだった。

1887年〜仕入れの側から国産化粧石鹸の値づけを決めた創業

1887年6月、24歳の長瀬富郎氏が東京日本橋区馬喰町に洋小間物商の長瀬商店を開業した。岐阜県中津川の酒造家の出身で、開業の資金を用意できる立場にあった。当時の日本では石鹸の製造技術がまだ幼く品質も悪く、良質の化粧石鹸はすべて外国品に依存していた。舶来の高級品と国内の中小業者がつくる粗製品に市場は二分され、価格と品質のあいだに広い空白が残っていた長瀬富郎氏は洋紙と輸入石鹸を扱う小売のなかで、その空白を仕入れと販売の両側から掴んだ。製造ではなく流通の側から市場に入り、需要と品質評価を先に確かめてから製造へ進む順序をとった。

  • 花王 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1887年6月 長瀬富郎氏が東京日本橋馬喰町で長瀬商店を開業
    • [5]創業時の取扱いは洋小間物・洋紙・輸入石鹸
  • 花王 社史
    • [2]長瀬富郎氏は美濃国中津川の酒造家の出身
    • [4]創業当時の国内石鹸市場は舶来の高級品と国内中小業者の粗製品に二極化し価格と品質に空白
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [3]良質の化粧石鹸は外国品に頼る段階で長瀬富郎氏はこれを残念に思い製造へ踏み込んだ

1890年10月、長瀬富郎氏は桐箱入りの国産高級石鹸"花王石鹸"を自社で製造して発売した。商標は外国の鉛筆に付けられた月星の意匠から着想し、月を美と清浄の象徴に重ねている。価格は一個一二銭で、当時の一般的な国産石鹸が三、四銭だったのに対し外国品なみの値づけだった。発売と同時に大阪へ代理店を置いて関西市場を開拓し、新聞広告も用いて最初から全国を商圏に据えた。東京の製造業者が東日本を、大阪の製造業者が西日本をそれぞれ市場としていた時代にあって、この販売方法は例をみないものだった。需要を先に読んでから製造へ参入する順序で、無名の小売商が石鹸の製造元へ変わった

  • 花王 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1890年10月 桐箱入りの国産高級石鹸「花王石鹸」を発売
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [7]花王石鹸の商標は外国の鉛筆の月星の意匠から着想し月を美と清浄の象徴とした
    • [8]花王石鹸は一個一二銭 当時の一般国産石鹸は三、四銭
    • [9]発売と同時に大阪に代理店を置き新聞広告を用いて最初から全国を商圏に据えた
    • [10]東京のメーカーは東日本 大阪のメーカーは西日本を市場としていた時代の販売政策
  • 花王 社史
    • [11]流通業者から製造業者へ事業を広げた

一二銭という値が通ったのは、当時の石鹸市場が原価と店頭価格の隔たりで動いていたからである。1898年の記録では、国内の石鹸需要は製造家の原価で約100万円、東京の製造工場は大小60から70とされた。どれほど上等な品でも原価は4、5銭に過ぎず、それが7、8銭から1円以上で売れるのは石鹸そのものの値ではなく、包紙や箱の意匠によるものだと指摘されている『花客は、即ち其の花に價を擲つものなり』。買い手が払っていたのは中身ではなく外装への対価だった。長瀬商店の桐箱と定価は、この構造を逆から使ったものだった。外装で高く見せるのではなく、外国品に並ぶ中身を外装と値段で証明し、名前のある石鹸として無銘の粗製品から切り離した。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [12]1898年の石鹸需要額は製造家原価で約100万円 東京の製造工場は大小60〜70
    • [13]上等な石鹸でも原価は4、5銭で7、8銭から1円以上の価格は包紙・箱の意匠による
参考文献[1]-[13]
  • 花王 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1887年6月 長瀬富郎氏が東京日本橋馬喰町で長瀬商店を開業
    • [5]創業時の取扱いは洋小間物・洋紙・輸入石鹸
    • [6]1890年10月 桐箱入りの国産高級石鹸「花王石鹸」を発売
  • 花王 社史
    • [2]長瀬富郎氏は美濃国中津川の酒造家の出身
    • [4]創業当時の国内石鹸市場は舶来の高級品と国内中小業者の粗製品に二極化し価格と品質に空白
    • [11]流通業者から製造業者へ事業を広げた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [3]良質の化粧石鹸は外国品に頼る段階で長瀬富郎氏はこれを残念に思い製造へ踏み込んだ
    • [7]花王石鹸の商標は外国の鉛筆の月星の意匠から着想し月を美と清浄の象徴とした
    • [8]花王石鹸は一個一二銭 当時の一般国産石鹸は三、四銭
    • [9]発売と同時に大阪に代理店を置き新聞広告を用いて最初から全国を商圏に据えた
    • [10]東京のメーカーは東日本 大阪のメーカーは西日本を市場としていた時代の販売政策
  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [12]1898年の石鹸需要額は製造家原価で約100万円 東京の製造工場は大小60〜70
    • [13]上等な石鹸でも原価は4、5銭で7、8銭から1円以上の価格は包紙・箱の意匠による

1899年〜粗製濫造と模造のなかで銘柄を守った明治後期

名前のある石鹸を売る商いは、その名前を守る仕組みを業界に要求した。1884年に商標条例が公布され1888年に改正されていたものの、その統制力は弱く、明治30年代の初めには意匠や打型の模造、他家の職工の引き抜きが相次いだ。東京石鹸製造同業組合は1899年、浅草東洋館で製品展覧会を開催して組合員の製品とレッテルを出品させ、その総数は2,600余点に及んだ。18名の審査員が出品を甲乙丙の3等に区別し、類似のない甲種は専有、3名以上の類似品がある乙種は共有として3年間組合事務所が保護した。法が追いつかない領域を、同業者どうしの登録と査定が肩代わりしていた。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [14]商標条例は1884年公布・1888年改正だが統制力は微弱で明治30年代初頭に意匠・打型の模造や職工引き抜きが多発
    • [15]1899年 東京石鹸製造同業組合が浅草東洋館で製品展覧会を開催し出品総数2,600余点
    • [16]18名の審査員が出品を甲乙丙に区別し甲種は専有 乙種は共有として3年間組合事務所が保護

銘柄を守るもう一方の道が、製造工程を自分の手に置くことだった。長瀬商店は1902年に蒸気鹼化方式を採り入れ、1911年には石鹸の廃液からグリセリンを回収する工程を加えた。1897年以前の国内で大釜を持つ工場は横浜と神戸の2か所だけで、他は直径四尺二寸以下の平釜を直火で焚いており、乾燥は天日に依存し、雨が降れば作業が止まった蒸気による鹼化は、この天候と職人の勘に委ねられた工程を設備の側へ移す転換だった。品質の均一が値段の正当性を支える商いでは、工程の内製は原価の問題であると同時に、銘柄を保つ条件でもあった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [17]明治35年 蒸気鹼化方式の採用
    • [18]明治44年 石鹸廃液からのグリセリン回収
  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [19]明治30年以前に大釜を持つ工場は横浜と神戸の2か所のみで他は直径4尺2寸以下の平釜を直火で使用し乾燥は天日

1911年10月7日、長瀬商店は合資会社へ組織を変更した。出資は合計25万円で、代表社員の長瀬富郎氏が9万円の無限責任社員となり、残りを親族が引き受けた。縁故以外からただ一人社員に列したのは村田亀太郎氏で、創業当時の功労に対して1万円を贈与したうえでの参加だった。改組の直後に初代富郎氏は病が重篤となり、同月10日に次弟の祐三郎氏が代表社員に加えられ、26日に逝去した。法定相続人の富雄氏は11月7日に長瀬富郎を襲名して父の出資9万円を譲り受け、合資会社長瀬商会は祐三郎氏の統率のもとで動き出した。創業者の個人商店は、創業から24年で相続と組織の問題に直面していた。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [20]1911年10月7日 長瀬商店は合資会社へ組織変更
    • [21]合資会社の出資総額は25万円 代表社員の長瀬富郎氏は9万円の無限責任社員
    • [22]縁故外の社員は村田亀太郎氏一人で創業当時の功労に対し1万円を贈与して社員に列した
    • [23]1911年10月10日 長瀬祐三郎氏が代表社員に就任し同月26日に初代富郎氏が逝去
    • [24]1911年11月7日 長瀬富雄氏が長瀬富郎を襲名し亡父の出資額9万円を譲り受けた
参考文献[14]-[24]
  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [14]商標条例は1884年公布・1888年改正だが統制力は微弱で明治30年代初頭に意匠・打型の模造や職工引き抜きが多発
    • [15]1899年 東京石鹸製造同業組合が浅草東洋館で製品展覧会を開催し出品総数2,600余点
    • [16]18名の審査員が出品を甲乙丙に区別し甲種は専有 乙種は共有として3年間組合事務所が保護
    • [19]明治30年以前に大釜を持つ工場は横浜と神戸の2か所のみで他は直径4尺2寸以下の平釜を直火で使用し乾燥は天日
    • [20]1911年10月7日 長瀬商店は合資会社へ組織変更
    • [21]合資会社の出資総額は25万円 代表社員の長瀬富郎氏は9万円の無限責任社員
    • [22]縁故外の社員は村田亀太郎氏一人で創業当時の功労に対し1万円を贈与して社員に列した
    • [23]1911年10月10日 長瀬祐三郎氏が代表社員に就任し同月26日に初代富郎氏が逝去
    • [24]1911年11月7日 長瀬富雄氏が長瀬富郎を襲名し亡父の出資額9万円を譲り受けた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [17]明治35年 蒸気鹼化方式の採用
    • [18]明治44年 石鹸廃液からのグリセリン回収

1913年〜石鹸へ絞り、量産設備と法人格をそろえた大正期

1913年、長瀬商会は営業方針を大きく転換した。石鹸以外の化粧品類の生産を注文生産だけに限り、石鹸類だけを市場生産で製出する体制へ改めた。方向自体は明治末年から採られていたが、この年に明確な方針として据えられている洋小間物商として始まった以上、品目を広く持つことは仕入れの延長として自然だったが、市場へ向けて見込みで作る商品を石鹸に一本化すれば、設備投資と在庫の判断もそこへ集約できた。同じ年の12月には、鉄道や旅館で用いられる特許容器を添えた水石鹸を発売し、家庭以外の需要にも品目を伸ばした。大阪の代理店だった大崎組もこの年に合資会社へ改組しており、売る側も法人の形を取り始めていた。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [25]1913年 長瀬商会は石鹸以外の化粧品類の生産を注文生産のみに限定し石鹸類だけを市場生産とした
    • [26]化粧品を注文生産に限る方向は明治末年以来採られ1913年に明確に方向づけられた
    • [27]1913年12月 鉄道・旅館で用いられる特許容器とともに水石鹸を発売
    • [28]1913年 長瀬商会の大阪代理店 大崎組が合資会社へ改組

1914年の欧州大戦は、原料の6割から7割を輸入に依存する長瀬商会を直撃した。輸入の杜絶で原料相場は高騰し品は払底したが、開戦の時点で三、四か月分の使用額は手当てが済んでいた。工場支配人の長瀬常一氏が原料手当てにあたり、営業部は業界で最初に手形制度を採用して仕入れを繋いだ。それでも価格の高騰は吸収しきれず、花王石鹸の建値は一ダース85銭から同年8月下旬に90銭、9月初旬に95銭へ引き上げられ、1916年2月にはさらに7銭を足して1円2銭となった。定価で売る商品を持つ会社にとって、原料相場は値づけの信用を直接揺らす制約だった。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [29]長瀬商会の原料の6〜7分は輸入品で欧州大戦による輸入杜絶で相場高騰と品不足に直面
    • [30]代表社員 長瀬祐三郎氏は1914年8月11日付書翰で3〜4か月分の原料は手当て済みと報じた
    • [31]工場支配人 長瀬常一氏が原料手当てにあたり営業部は業界最初の手形制度を採用
    • [32]花王石鹸の建値は一ダース85銭から1914年8月に90銭 9月に95銭 1916年2月に1円2銭へ

大戦後の長瀬商会は、設備と原料の両方を自前で抱える方向へ進んだ。1920年には自動型打のベルトシステムを導入して量産の速度を上げ、1922年11月には隅田川沿いの吾嬬町に石鹸の量産専用工場を新設して、のちの東京工場とした。1924年には搾油と硬化の設備を備えて原料の自給に手をつけている。そして1925年5月、花王石鹸株式会社長瀬商会を設立し、個人商店から株式会社の組織へ移った。設立時の重役陣は代表取締役に長瀬祐三郎氏、専務取締役に長瀬常一氏、常務取締役に秋元直氏が就任し、二代富郎氏は取締役として並んだ。創業から38年を経て、原料工程と量産工場と法人格がそろい、以後の設備投資を会社として決められる立場に立った。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [33]大正9年 自動型打ベルトシステムの採用
    • [35]大正13年 搾油・硬化など原料自給体制の整備
  • 花王 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1922年11月 吾嬬町工場(現東京工場)完成
    • [36]1925年5月 花王石鹸株式会社長瀬商会設立
    • [38]1922年の量産工場と1925年の法人化で原料・量産・法人格がそろった
  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [37]花王石鹸株式会社長瀬商会の創立時の重役は代表取締役 長瀬祐三郎 専務取締役 長瀬常一 常務取締役 秋元直 取締役 長瀬富郎・長瀬篤郎
参考文献[25]-[38]
  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [25]1913年 長瀬商会は石鹸以外の化粧品類の生産を注文生産のみに限定し石鹸類だけを市場生産とした
    • [26]化粧品を注文生産に限る方向は明治末年以来採られ1913年に明確に方向づけられた
    • [27]1913年12月 鉄道・旅館で用いられる特許容器とともに水石鹸を発売
    • [28]1913年 長瀬商会の大阪代理店 大崎組が合資会社へ改組
    • [29]長瀬商会の原料の6〜7分は輸入品で欧州大戦による輸入杜絶で相場高騰と品不足に直面
    • [30]代表社員 長瀬祐三郎氏は1914年8月11日付書翰で3〜4か月分の原料は手当て済みと報じた
    • [31]工場支配人 長瀬常一氏が原料手当てにあたり営業部は業界最初の手形制度を採用
    • [32]花王石鹸の建値は一ダース85銭から1914年8月に90銭 9月に95銭 1916年2月に1円2銭へ
    • [37]花王石鹸株式会社長瀬商会の創立時の重役は代表取締役 長瀬祐三郎 専務取締役 長瀬常一 常務取締役 秋元直 取締役 長瀬富郎・長瀬篤郎
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [33]大正9年 自動型打ベルトシステムの採用
    • [35]大正13年 搾油・硬化など原料自給体制の整備
  • 花王 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1922年11月 吾嬬町工場(現東京工場)完成
    • [36]1925年5月 花王石鹸株式会社長瀬商会設立
    • [38]1922年の量産工場と1925年の法人化で原料・量産・法人格がそろった

第2章 1926年〜 長瀬富郎二代目の合理化と戦時統制、合成洗剤の発売と東証上場

筆者考察y.sugiura, author

1931年の新装花王石鹸は、品質を純粋度九九・4%へ上げ、目方を増やし、そのうえで値段を下げた。三つを同時に出せた石鹸業者は当時ほかにない。理由は販売ではなく工場にあった。七日から10日かかっていた冷却が二時間に、20日かかっていた乾燥が一昼夜になっている。二代長瀬富郎氏が欧米視察から戻って最初に置いたのが広告部と調査部、次に置いたのが販売方法研究委員会だったことを思えば、この値下げは売り方の工夫ではなく、工程で短縮した時間の配分だったと考えるのが近い。

原料の側でも同じ選択が繰り返された。硬化油を握る業者が石鹸の死命を制する構造ができると、長瀬商会は自給へ回り、1932年には全国石鹸製造業聯合会の会長職を降りて中小の単業者と立場を分ける。1935年の大日本油脂、1936年の高圧化学工業と特許洗剤、1940年の日本有機は、いずれも石鹸の外側にある化学へ足場を移すための会社だった。戦後に三つの法人が一社へ統合され、1963年3月期に売上高211億円へ達したとき、主力は創業以来の化粧石鹸ではなく合成洗剤に替わっていた。

売上高の推移 1954年3月期〜1963年3月期(億円)

22.5 1954 28.6 1955 39.2 1956 53.8 1957 64.2 1958 86.4 1959 119 1960 148 1961 192 1962 211 1963
  • 各年3月期の単体売上高。1954年7月の花王油脂合併をはさむ。
  • 出所は会社年鑑。

1927年〜二代目富郎の革新計画と、値下げを支えた吾嬬町の工程

1927年12月、二代長瀬富郎氏が花王石鹸株式会社長瀬商会の社長に就任した。同年に従弟の長瀬六郎氏を伴って南洋とオーストラリアを視察した直後の就任で、当時23歳だった。就任の辞は事の始めに大切なことを二つ挙げ、第一に目的の確立を、第二に方針の決定を置いた『失敗がないならば、成功もない、失敗は成功の母である』。翌1928年6月には工場技師の川上八十太氏を伴って欧米視察に出て、1929年2月に帰朝した。帰国後は新職制を定め、同年11月に広告部と企画部を、1930年5月に調査部を新設した。石鹸の作り手ではなく、市場を調べて売り方を決める部門が会社の中に置かれた。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [39]1927年12月 二代長瀬富郎氏が花王石鹸株式会社長瀬商会社長に就任
    • [40]1927年 二代富郎氏は従弟の長瀬六郎氏を伴い南洋・オーストラリアを視察 就任時23歳
    • [41]就任の辞で二代富郎氏は目的の確立と方針の決定を第一・第二に挙げた
    • [42]1928年6月 二代富郎氏が工場技師 川上八十太氏を伴い欧米視察へ出発し1929年2月帰朝
    • [43]新職制の制定と1929年11月の広告部・企画部新設 1930年5月の調査部設置

1930年、長瀬商会は販売方法研究委員会を設け、六月に革新販売方針を決定した。同年8月には花王石鹸革新計画を社内に発表し、翌1931年3月1日、新装花王石鹸を発売した。新装花王石鹸は伝統の枠練製法を維持したまま品質を純粋度九九・4%へ引き上げ、一個あたり二匁を増量し、そのうえで正価を一個一〇銭へ引き下げたものだった。当時の業界では大胆な革新で、1890年の発売時に一二銭を付けた商品が、40年を経て増量と値下げを同時に実現している。形状も包装も香りも近代化された一方で、石棣流の字体と花王のマークは元のまま残された。値段は変えても、買い手が銘柄を見分ける印は変えなかった。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [44]1930年 販売方法研究委員会を設置し6月に革新販売方針を決定
    • [45]1930年8月 花王石鹸革新計画を社内発表 1931年3月1日 新装花王石鹸を発売
    • [46]新装花王石鹸は枠練製法を維持しつつ純粋度99.4%へ向上 一個当り二匁増量 正価を一個10銭へ低下
    • [47]新装花王石鹸の増量と値下げは当時の業界で大胆な革新とされた
    • [48]新装花王石鹸は形状・包装・香気を近代化しつつ石棣流字体と花王マークを維持

増量と値下げを同時に成り立たせたのは、吾嬬町工場の工程改造だった。1930年には新装花王石鹸の発売を見据えて冷圧装置とトンネル乾燥機を、翌1931年には自動型打機と大圧出機に加えて自動包装機を据えた。クーリング・プレスの採用で従来七日から10日を要した作業が二時間で済むようになり、トンネル式乾燥装置は約20日かかっていた乾燥を一昼夜へ縮めた。コンベアによる連続作業で作業能率も上がった。この設備をもって石鹸工業の近代化は完成し、欧米先進諸国と比肩する水準に達した値下げは販売政策の決断である前に、工程の時間を短縮した結果として生まれた数字だった。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [49]1930年に冷圧装置とトンネル乾燥機 1931年に自動型打機・大圧出機・自動包装機を吾嬬町新工場に設備
    • [50]クーリング・プレスの採用で従来7〜10日の作業が2時間に トンネル式乾燥装置で約20日の乾燥が一昼夜に短縮
    • [51]コンベア・システムによる流線連続作業で作業能率が向上
    • [52]吾嬬町新工場の設備により石鹸工業の近代化が完成し欧米先進諸国と比肩する水準に達した
参考文献[39]-[52]
  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [39]1927年12月 二代長瀬富郎氏が花王石鹸株式会社長瀬商会社長に就任
    • [40]1927年 二代富郎氏は従弟の長瀬六郎氏を伴い南洋・オーストラリアを視察 就任時23歳
    • [41]就任の辞で二代富郎氏は目的の確立と方針の決定を第一・第二に挙げた
    • [42]1928年6月 二代富郎氏が工場技師 川上八十太氏を伴い欧米視察へ出発し1929年2月帰朝
    • [43]新職制の制定と1929年11月の広告部・企画部新設 1930年5月の調査部設置
    • [44]1930年 販売方法研究委員会を設置し6月に革新販売方針を決定
    • [45]1930年8月 花王石鹸革新計画を社内発表 1931年3月1日 新装花王石鹸を発売
    • [46]新装花王石鹸は枠練製法を維持しつつ純粋度99.4%へ向上 一個当り二匁増量 正価を一個10銭へ低下
    • [47]新装花王石鹸の増量と値下げは当時の業界で大胆な革新とされた
    • [48]新装花王石鹸は形状・包装・香気を近代化しつつ石棣流字体と花王マークを維持
    • [49]1930年に冷圧装置とトンネル乾燥機 1931年に自動型打機・大圧出機・自動包装機を吾嬬町新工場に設備
    • [50]クーリング・プレスの採用で従来7〜10日の作業が2時間に トンネル式乾燥装置で約20日の乾燥が一昼夜に短縮
    • [51]コンベア・システムによる流線連続作業で作業能率が向上
    • [52]吾嬬町新工場の設備により石鹸工業の近代化が完成し欧米先進諸国と比肩する水準に達した

1934年〜原料の硬化油を自給し、合成洗剤へ出た三年

昭和に入ると、石鹸業界の主導権は原料の側へ移っていた。欧州大戦以降に発達した硬化油工業の製品が石鹸原料として重用され、硬化油の製造業者が石鹸工業の死命を制する地位を得た。彼らが自製の硬化油で石鹸そのものを作り始めると、洗濯石鹸の市場は昭和初年に混乱した。長瀬商会など大手は1931年から1932年にかけて原料硬化油の自給を企画し、1934年11月に吾嬬町で硬化油工場の操業を開始した。翌1935年には研究部長の川上八十太氏が全合成硬化油による花王石鹸の製出に成功し、牛脂に代わる原料で主力商品を作れることを示した。原料を握られる側から、握る側へ回る作業だった。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [53]欧州大戦以降に硬化油工業が発達し硬化油製造業者が石鹸工業の死命を制する地位を得た
    • [54]硬化油製造業者が自製硬化油で石鹸製造を始め昭和初年に洗濯石鹸市場が混乱
    • [55]1931〜1932年以降 長瀬商会等の大企業者が原料硬化油の自給を企画し1934年11月に硬化油工場が操業
    • [56]1935年 研究部長 川上八十太氏が全合成硬化油による花王石鹸の製出に成功

硬化油の自給は、長瀬商会を業界のどちら側に置くかという問題でもあった。1932年に同社が硬化油自給の企画へ着手したとき、取締役の長瀬常一氏は全国石鹸製造業聯合会の会長職を辞している原料を自給する大手と、それを買わねばならない中小の石鹸単業者とでは、もはや利害が同じではなかった。実際、中小業者は硬化油の入手難から硬化油業者や大石鹸業者への従属へ追い込まれ、下請工場や留型工場として命脈を保つ状態に置かれた。1935年には製造部門が長瀬商会の分身として独立し、資本金600万円の大日本油脂株式会社となった。原料と製造を別会社に立て、商標と販売を長瀬商会に残す体制がここで整った。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [57]1932年 花王石鹸株式会社長瀬商会の硬化油自給企画着手とともに取締役 長瀬常一氏が全国石鹸製造業聯合会会長を辞任
    • [58]中小石鹸単業者は硬化油の入手難で硬化油業者・大石鹸業者への従属を強いられ下請工場・留型工場となった
    • [59]1935年 長瀬商会の分身として大日本油脂株式会社(資本金600万円)が独立

同じ時期、長瀬商会は石鹸とは別の洗浄剤にも手を伸ばした。吾嬬町の新工場は合成新洗剤の研究に早くから着手し、1935年には半工業的装置を完成していたが、製出にあたってドイツのベーメ会社の特許権に抵触する懸念があった。そこで1936年、合同油脂・大阪酸水素・第一工業を誘ってこの特許権を買収し、資本金75万円の高圧化学工業株式会社を設立、さらに資生堂とミヨシ石鹸も加えて資本金50万円の特許洗剤株式会社を設立した。製品は高級アルコール硫酸化物で、長瀬商会はこれにエキセリンの商品名を付けて売り出した。木綿からステープル・ファイバーへ繊維業界が変わるなかで、エキセリンは繊維助剤として多量の需要を見つけた

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [60]吾嬬町新工場は合成新洗剤の研究に着手し1935年に半工業的装置を完成 製出はドイツ・ベーメ会社の特許権に抵触する問題があった
    • [61]1936年 合同油脂・大阪酸水素・第一工業と特許権を買収し高圧化学工業(資本金75万円)を創立 資生堂・ミヨシ石鹸も参加し特許洗剤(資本金50万円)を創立
    • [62]長瀬商会は高級アルコール硫酸化物の合成新洗剤にエキセリンの商品名を付けて発売
    • [63]木綿からステープル・ファイバーへの繊維界の変革によりエキセリンは繊維助剤として多量の需要を得た
参考文献[53]-[63]
  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [53]欧州大戦以降に硬化油工業が発達し硬化油製造業者が石鹸工業の死命を制する地位を得た
    • [54]硬化油製造業者が自製硬化油で石鹸製造を始め昭和初年に洗濯石鹸市場が混乱
    • [55]1931〜1932年以降 長瀬商会等の大企業者が原料硬化油の自給を企画し1934年11月に硬化油工場が操業
    • [56]1935年 研究部長 川上八十太氏が全合成硬化油による花王石鹸の製出に成功
    • [57]1932年 花王石鹸株式会社長瀬商会の硬化油自給企画着手とともに取締役 長瀬常一氏が全国石鹸製造業聯合会会長を辞任
    • [58]中小石鹸単業者は硬化油の入手難で硬化油業者・大石鹸業者への従属を強いられ下請工場・留型工場となった
    • [59]1935年 長瀬商会の分身として大日本油脂株式会社(資本金600万円)が独立
    • [60]吾嬬町新工場は合成新洗剤の研究に着手し1935年に半工業的装置を完成 製出はドイツ・ベーメ会社の特許権に抵触する問題があった
    • [61]1936年 合同油脂・大阪酸水素・第一工業と特許権を買収し高圧化学工業(資本金75万円)を創立 資生堂・ミヨシ石鹸も参加し特許洗剤(資本金50万円)を創立
    • [62]長瀬商会は高級アルコール硫酸化物の合成新洗剤にエキセリンの商品名を付けて発売
    • [63]木綿からステープル・ファイバーへの繊維界の変革によりエキセリンは繊維助剤として多量の需要を得た

1940年〜統制下の分社から、戦後の合併・上場・合成洗剤へ

1937年7月の日支事変以降、石鹸は特需と大陸市場で需要が激増した一方、生産設備の拡張は阻止され、原料需給は窮屈になり、燃料と電力は制限され、製品価格は物価統制で一定の水準に釘付けにされた。従来の全国石鹸製造業聯合会では統制の役に立たず、1939年5月の東京石鹸工業組合を皮切りに各地で工業組合が設立され、1940年1月には全国石鹸工業組合聯合会が結成された。その主要事業は原材料の配給だった。同じ1940年5月、長瀬商会は有機合成事業法に準拠し、鉄興社との共同出資で資本金250万円の日本有機株式会社を設立した。石鹸から有機合成化学全般へ広げる方針が、統制経済の枠組みのなかで具体化した。

  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [64]日支事変下で石鹸は需要激増の一方 生産設備拡張の阻止・原料需給の窮屈化・燃料電力の制限・物価統制による価格釘付けに置かれた
    • [65]1939年5月 東京石鹸工業組合の設立を皮切りに1940年1月 全国石鹸工業組合聯合会が結成
    • [66]石鹸工業組合聯合会の主要事業は原材料の配給で生産検査・製品規格検査も実施
  • 株式会社年鑑 1950年版・1955年版・1960年版「花王石鹸」
    • [67]1940年5月21日 有機合成事業法に準拠し花王石鹸株式会社長瀬商会と鉄興社の共同出資で日本有機株式会社(資本金250万円)を設立

日本有機が引き受けたのは石鹸ではなかった。同社の和歌山工場は1942年、動植物油脂から航空潤滑油を合成する技術を工業化するため、国の要請によって建設されている。戦後になると三つの法人の整理が始まった。1946年5月に長瀬商会は株式会社花王と改称し、1949年5月に日本有機が花王石鹸株式会社へ商号を変更して同月16日に東京証券取引所へ上場した。同年12月には大日本油脂と株式会社花王が合併して花王油脂となり、1954年7月、花王石鹸が花王油脂を合併して資本金1億9,400万円の一社に戻った。原料・製造・販売を分けて持っていた戦前の体制は、上場会社を器として一本に統合された。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [68]和歌山工場は1942年 動植物油脂から航空潤滑油を合成する発明の工業化のため国の要請で建設
    • [69]昭和21年 長瀬商会は株式会社花王と改称
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「花王石鹸」
    • [70]昭和24年5月 日本有機が花王石鹸株式会社と改称 上場開始は24年5月16日 東京
    • [71]昭和24年12月 大日本油脂は長瀬商会と合併して花王油脂株式会社と改称
  • 株式会社年鑑 1950年版・1955年版・1960年版「花王石鹸」
    • [72]昭和29年7月 花王石鹸が花王油脂を合併し資本金1億9,400万円となった

合併と同じ1954年、二代目長瀬富郎氏に代わって経団連出身の福島正雄氏が社長に就任した。同じころ会社は戦後いち早く合成洗剤ワンダフルを発売しており、1954年下期には花王石鹸の生産実績一五五八屯に対しワンダフルが一〇六三屯と、主力の座を争う規模まで来ていた。売上高は1954年3月期の二二・5億円から1960年3月期に119億円、1963年3月期には211億円へ伸びた。1964年の時点で家庭用洗剤は国内生産の50%を占めて生産規模は業界第一位となり、製品は1,360店の代理店を通じて20万軒の小売店に配られていた。創業以来の化粧石鹸は、合成洗剤という別の化学製品に主役を譲っていた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [73]昭和29年 二代目長瀬富郎氏を経て経団連出身の福島正雄氏が社長に就任
    • [74]戦後いち早く合成洗剤ワンダフルを発売
  • 株式会社年鑑 1950年版・1955年版・1960年版「花王石鹸」
    • [75]1954年4月〜9月の生産実績は花王石鹸1,558屯 ワンダフル1,063屯
    • [76]売上高は1954年3月期22.5億円 1960年3月期119億円 1963年3月期211億円
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「花王石鹸」
    • [77]1964年時点で家庭用洗剤は国内生産の50%を占め生産規模は業界第1位 1,360店の代理店を通じ20万軒の小売店で販売
参考文献[64]-[77]
  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
    • [64]日支事変下で石鹸は需要激増の一方 生産設備拡張の阻止・原料需給の窮屈化・燃料電力の制限・物価統制による価格釘付けに置かれた
    • [65]1939年5月 東京石鹸工業組合の設立を皮切りに1940年1月 全国石鹸工業組合聯合会が結成
    • [66]石鹸工業組合聯合会の主要事業は原材料の配給で生産検査・製品規格検査も実施
  • 株式会社年鑑 1950年版・1955年版・1960年版「花王石鹸」
    • [67]1940年5月21日 有機合成事業法に準拠し花王石鹸株式会社長瀬商会と鉄興社の共同出資で日本有機株式会社(資本金250万円)を設立
    • [72]昭和29年7月 花王石鹸が花王油脂を合併し資本金1億9,400万円となった
    • [75]1954年4月〜9月の生産実績は花王石鹸1,558屯 ワンダフル1,063屯
    • [76]売上高は1954年3月期22.5億円 1960年3月期119億円 1963年3月期211億円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [68]和歌山工場は1942年 動植物油脂から航空潤滑油を合成する発明の工業化のため国の要請で建設
    • [69]昭和21年 長瀬商会は株式会社花王と改称
    • [73]昭和29年 二代目長瀬富郎氏を経て経団連出身の福島正雄氏が社長に就任
    • [74]戦後いち早く合成洗剤ワンダフルを発売
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「花王石鹸」
    • [70]昭和24年5月 日本有機が花王石鹸株式会社と改称 上場開始は24年5月16日 東京
    • [71]昭和24年12月 大日本油脂は長瀬商会と合併して花王油脂株式会社と改称
    • [77]1964年時点で家庭用洗剤は国内生産の50%を占め生産規模は業界第1位 1,360店の代理店を通じ20万軒の小売店で販売

第3章 1964-1984 (気が向いたら執筆します!) 小売店との再販契約による販社網の構築とメリーズ・化粧品への参入

第4章 1985-1998 (気が向いたら執筆します!) 花王への改称とフロッピーディスク事業の参入から撤退まで

第5章 1999-2026 (気が向いたら執筆します!) 花王販売の設立とEVA経営、カネボウ化粧品の買収からオアシスとの対峙まで

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歴史年表 1887〜2025年

花王の沿革1887〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1887〜1925年日本橋の小売商から国産化粧石鹸の製造元へ舶来雑貨の店売りから桐箱入り「花王石鹸」を作る製造業への転身

1887年6月、岐阜県中津川の酒造家に生まれた24歳の長瀬富郎氏が、東京日本橋区馬喰町に洋小間物・洋紙・輸入石鹸を扱う長瀬商店を出店した。舶来の高級品と粗製の国産品に二極化した石鹸市場を仕入れと販売から見通し、1890年10月に桐箱入りの国産高級石鹸"花王石鹸"を自社で製造して発売、流通業者から製造業者へと事業を広げた。

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★★★
花王石鹸を発売★★
吾嬬町工場を新設
花王石鹸を設立
1926〜1963年長瀬富郎二代目の合理化と戦時統制、合成洗剤の発売と東証上場日本有機を設立
伊藤英三東京証券取引所に株式上場
伊藤英三合成洗剤を発売★★
福島正雄花王石鹸が花王油脂を吸収合併
福島正雄合成洗剤工場に投資
福島正雄川崎工場を新設
1964〜1984年小売店との再販契約による販社網の構築とメリーズ・化粧品への参入福島正雄販社制度の構築——問屋を外し、全国約27万件の小売と直接結ぶ流通改革

1964年、花王石鹸は全国約27万件の小売店と再販契約を締結し、問屋を介した流通から、花王製品を専売する販売会社"花王販社"を軸とする自前の流通経路へ切り替える改革に着手した。副社長の丸田芳郎氏が陣頭指揮し、問屋の反発で一時は洗剤シェア首位を失う代償を払いながら、店頭までの経路を自社の側から握る体制を構築した経営判断である。

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★★★
丸田芳郎設備投資と工場自動化の積極化——欧米市場をにらんだ攻めの投資

1979年、花王石鹸の丸田芳郎社長は、今年度に500億円、今後3年間で1200億〜1300億円という投融資を明言し、設備投資と工場自動化を積極化する方針を打ち出した。九州工場をほぼ無人化して24時間・365日の自動運転にするなど、国内で稼いだ余力を生産合理化と研究開発、そして欧米市場への進出の布石に振り向けた経営判断である。

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★★★
丸田芳郎化粧品事業に参入★★
丸田芳郎紙おむつ「メリーズ」を発売★★
1985〜1998年花王への改称とフロッピーディスク事業の参入から撤退まで丸田芳郎多角化路線に区切りをつけ、主力事業へ絞り込む事業構成の見直し

1998年、花王の後藤卓也社長は、売上高で約800億円に達したフロッピーディスク事業からの全面撤退を決めた。得意とするパーソナルケアとハウスホールドの家庭用品をコア事業と定めて集中する一方、撤退の経営責任として一部の役員を降格させ賞与をカットし、退く判断を人事の面でも固定した経営判断である。

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★★★
丸田芳郎商号を花王に変更
丸田芳郎トータルコストリダクションを推進
常盤文克子会社を設立
1999〜2026年花王販売の設立とEVA経営、カネボウ化粧品の買収からオアシスとの対峙まで後藤卓也花王販売を設立★★★
後藤卓也20年かけて取り換えた事業評価の物差しと資本効率の重視

1999年4月、後藤卓也社長のもとで花王は日本の事業会社として初めてEVA(経済付加価値)を経営指標に導入し、資本コストを差し引いた利益で事業を測る物差しへ判断基準を統一した。それから20年余りを経て、当事者の花王自身がEVAをROICへ組み替えた。売上規模ではなく資本効率で事業を選ぶ経営への転換を、指標の設計という面から進めた判断である。

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★★★
後藤卓也取締役会の改革
後藤卓也John Frieda社を買収★★
尾﨑元規約4,291億円を投じての、後発から国内2位への一気の浮上

2006年1月、花王が化粧品大手のカネボウ化粧品の株式86%を産業再生機構から取得し、翌2月に100%として完全子会社化した経営判断。尾﨑元規社長のもとで、産業再生機構下で再建中だったカネボウの化粧品事業をまるごと取得し、国内化粧品で4位から2位へ、シェア約12%へと順位を上げ、日用品・化学品・化粧品の三事業構成を組んだ。花王が評価した企業価値は約4100億円で、花王最大のM&Aである。

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★★★
尾﨑元規オムツの生産開始
澤田道隆Oribe Hair Careを買収
澤田道隆Washing Systemsを買収
澤田道隆早期退職者への支払金増額
長谷部佳宏Bondi Sands Australiaを買収
長谷部佳宏物言う株主の要求を退け、中期経営計画K27を堅持する選択

2024年、香港の物言う株主オアシス・マネジメントが花王株を取得し、不振ブランドの整理・資本効率の改善・社外取締役の選任を求めた。花王取締役会は2025年の株主提案すべてに反対し、3月21日の定時株主総会で否決した。ただしオアシスは持株を積み増し、2026年には供給網をめぐる独立調査を求めて臨時株主総会を要求するなど、圧力は続く。

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★★★
出典・参考 6件
出典・参考
  • 花王 有価証券報告書【沿革】
  • 花王石鹸五十年史(花王石鹸五十年史編纂委員会, 1940)
  • 花王 社史
  • 株式会社年鑑 1950年版・1955年版・1960年版「花王石鹸」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「花王石鹸」

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