日本油脂の弱さは、作るものを間違えたことではなく、売る相手を選べなかったことにある。1908年に鈴木商店が魚油を集め始めたときから、この会社の事業はいつも原料の側にあった。硬化油も脂肪酸もグリセリンも、買い手の工場へ入って初めて製品になる中間材で、最終の棚に自社の名は出ない。1949年に第二会社として再出発したときの生産金額は油脂が51.5%を占めたが、その油脂が支えていたのは他社の石鹸だった。1956年11月期から三期続いた損失は、需要が消えたから出たのではない。値段を決める場に立てない会社が、原料油の高騰をそのまま引き受けた結果である。
そこから抜ける道として選ばれたのは、原料そのものを替えることだった。1961年に川崎へ千鳥工場を建てて石油化学に入り、天然グリセリンを合成グリセリンへ置き換える設計を採る。同じ年に火薬の技術を金属板の爆発成型へ転用し、1964年には米ルーブリゾールと組んで潤滑油添加剤に進んだ。1965年9月に敷いた六つの事業部の独立採算は、こうして散らばった市場を別々に追うための器だった。1969年11月期の売上高は177億円まで伸びたが、どの事業部も全体の4分の1に届かない。主力を失うことと、主力から自由になることは、この会社では同じ出来事だった。
1908年、合名会社鈴木商店が業務の一部として魚油の集荷販売を始めた。輸入に依存していた牛脂や椰子油を国産魚油で置き換えるため、精製加工の研究を重ねた。工業化に成功すると、1916年に兵庫工場、翌1917年に王子製油所を建て、日本で最初の硬化油事業を興した。欧州大戦後の反動で鈴木商店の経営が揺らぐと油脂部門は切り離され、1921年4月、資本金150万円のスタンダード油脂株式会社として独立する。国内の硬化油工業の始祖とされたこの会社が、日本油脂の母体となった。1923年には魚油からグリセリンと脂肪酸を精製していた日本グリセリン工業を合併して合同油脂グリセリンと改め、1931年に合同油脂と改称した。
1937年6月、合同油脂は日本油脂を吸収合併し、社名のほうを相手から受け取って日本油脂株式会社と称した。吸収された日本油脂は、1910年に英国のリーバーブラザースが興した日本リーバーブラザースに源を発し、東洋一とされた石鹸工場を持っていた。1925年に神戸瓦斯へ売られて大日本石鹸、次いでベルベット石鹸と名を変え、1936年に日本産業の傘下へ入る。合併の直前には日産系の日本食料工業の水産部門と合体し、不二塗料の事業も取得して塗料部門を抱えていた。有価証券報告書はこの経緯を、日本食糧工業・国産工業不二塗料製造所・ベルベット石鹸・合同油脂の4社合併として記している。翌1938年8月には帝国火薬工業を合併して火薬へ、1943年には神明工場を新設して溶接棒へ広がった。
1945年、日本鉱業の化学部門に属する12工場を買収し、社名を日産化学工業株式会社と改めた。有機と無機にまたがる総合化学会社となった直後に終戦を迎え、財閥解体と企業再建整備法の処理が始まる。1949年7月1日、油脂・塗料・火薬・溶接棒の4部門をそのまま継承する第二会社が分離された。旧称を踏襲した日本油脂株式会社で、資本金は1億5,000万円である。同年9月1日、300万株を全株上場して東京証券取引所に加わった。分離直前の1か月平均の生産金額は油脂51.5%・火薬28.2%・塗料18.8%・溶接棒1.3%で、爆薬の生産能力は全国の30%を占めた。油脂を核に火薬と塗料を並べたこの構成は、戦時の合併がそのまま残ったものだった。
再設立の時点で、油脂事業は原料の手当てに縛られていた。硬化油・脂肪酸・グリセリン・石鹸へ向ける原料油の消費は、1939年度の26万トンが最高だった。1947年度は8,500トン、1948年度は1万9,000トンまで減少している。1949年度の計画4万9,000トンでも石鹸に回るのは4万トンで、国民一人あたり50グラムのもの年10個分の割当にしかならない。原料油の8割は輸入で、椰子油はフィリピンと香港を経由し、大豆は米国と中国から入り、その資金の大半をガリオア資金とエロア資金が賄っていた。石鹸の主原料は、魚油・鯨油から輸入牛脂へ切り替えた。尼崎工場には連続式の油脂分解・脂肪酸蒸溜・石鹸製造の装置を据え、王子工場には半連続脱脂装置とマーガリンボテーターを入れる。あわせて工場間の生産集中を進めた。
火薬部門は終戦で軍用火薬の生産を止め、産業用ダイナマイトの製造へ移っていた。1950年の朝鮮動乱を契機に、特需の兵器用火薬が発注される。武豊工場へ無煙火薬・TNT・テトリールの設備を新増設し、兵器用火薬の製造を再開した。北海道のダイナマイト需要を賄うため、1954年4月には美唄工場を新設した。資本金は1952年1月に10億円へ達し、1952年5月期の売上高は54億7,690万円、当期純利益は2億205万円を計上している。1955年5月期の売上高は52億1,000万円であった。戦後に酒類の製造へ転換していた河内工場は、1951年6月、現物出資して細雪酒造として切り離した。原料油の割当に縛られた油脂に代わり、戦後の再出発を先に支えたのは火薬部門だった。
1956年11月期に1億6,500万円、1957年5月期に7,800万円、1957年11月期に6,500万円と、三期続けて当期損失が並んだ。売上高は1956年11月期の101億円から1958年11月期の107億円まで、ほとんど動かない。石鹸は最終製品の広告で需要が動く商品でありながら、日本油脂が抱えていたのは硬化油・グリセリン・脂肪酸という原料の側だった。合併で継いだ塗料・火薬・溶接棒はそれぞれ別の市場を相手にしており、油脂の不振を埋める規模を持たない。会長の苫米地義三と社長の大橋退治のもとで、再建が経営の課題となった。原料供給に徹した構造の弱さは、再設立から10年足らずで顕在化した。
1961年、日本油脂は石油化学への進出を決め、川崎市に千鳥工場を新設した。油脂を分解して得ていたグリセリンや脂肪酸の隣に、石油を原料とする製品系列を並べる方針だった。同じ1961年には金属板の爆発成型事業を企業化し、火薬の技術を冶金機械の分野へ持ち出した。業績は1958年5月期に黒字へ回復し、1961年11月期には売上高85億円・当期純利益3億5,100万円まで回復する。ただし利益はそこが頂点で、1965年11月期には3,100万円まで細った。売上高が1961年11月期の160億円から1965年11月期の215億円へ伸びた同じ期間に、利益だけが逆へ動いていた。
1964年、米国のザ・ルーブリゾール・コーポレイションと合弁会社「日本ルーブリゾール工業」を設立し、潤滑油添加剤の製造に進んだ。同年8月には横浜市へ戸塚工場を新設し、当時東洋一とされた設備で塗料の需要増に応えている。設備の近代化も並行して進み、1954年には北海道へ美唄工場を設けて品質改善と生産向上を図った。売上高は1965年11月期の215億円から1969年11月期の332億円へ伸びる。1967年11月期には売上高139億円強・税引純益2億円を計上し、年1割の配当を続けた。規模は着実に増えたが、利益の薄さは油脂を主力とする限り変わらなかった。
1965年9月、日本油脂は事業部制を実施した。油化・食用油脂・家庭品・塗料・化薬・溶接の六つが独立採算の単位となり、それぞれが生産から営業までを抱える。1969年11月期の売上構成を見ると、油化22.45%・塗料23.47%・食用油脂21.14%が上位に並ぶ。化薬16.61%・家庭品12.17%・溶接4.16%が続き、どの事業部も全体の4分の1に届かなかった。同期の売上高は177億2,192万円、当期純利益は3億1,303万円、在籍人員は3,975名である。1969年3月には大分県の鶴崎石油化学コンビナートへ進出し、子会社の日油化学を設立した。六つの市場を六つの組織で追う体制は意思決定を速くする代わりに、全社の計画を誰も持たない構図をつくった。
事業部制は、主力を持てない会社が選んだ次善の策だった。油脂・塗料・化薬・食用油脂・溶接・家庭品はそれぞれ別の顧客と別の競合を持ち、一つの号令で動かせる相手ではない。1970年6月に帝国火工品製造を合併してロケット推進薬まで抱えると、間口はさらに広がった。事業部長へ決定権を渡した形は狙いどおりに働き、1982年度から9年続けて増収増益が並ぶ。1984年11月期の売上高1,179億円は、1970年11月期の392億円の3倍にあたる。分けて競わせる仕組みは、伸びている限り正しく見えた。
ところがこの3倍は、六つの計画の合計であって会社の計画ではなかった。1990年11月に始めた210人・延べ290時間の聞き取りが映したのは、情報を出し渋る事業部と、20年動かない人事と、同じ顧客を三つの営業が別々に訪ねる非効率である。1991年11月に常務会の直下へ経営企画室を置き、翌年4月に油化・石化と化薬の化成品を化学品事業部へ統合したのは、事業部へ渡した決定権を一段だけ戻す作業だった。同じ1992年3月期、経常利益は10年ぶりの大幅減益となる。伸びが止まって初めて、誰が全社の資源を配るのかという問いが残された。
1970年6月、日本油脂は関係会社の帝国火工品製造株式会社を吸収合併した。将来の化薬事業の発展と安定を図ることが狙いで、この合併によって宇宙開発と防衛関連の部門を抱える。合併に伴う3億3,800万円の増資で資本金は43億3,800万円となり、埼玉県の川越工場が加わった。六つの事業部が別々の市場を持つ構成に、ロケット推進薬という七つ目の市場が足された形である。1974年11月期には宇宙ロケットが売上の0.8%を占めるまでになった。1970年11月期の売上高は392億円で、1969年11月期の332億円から1年で18%増えている。油脂を母体とする会社が、火薬から宇宙へ届く間口を持つに至った。
第1次石油危機は、輸入原料と石油化学の双方に足場を置く事業を直撃した。1974年5月期に16億9,400万円あった経常利益は、同年11月期に4億7,162万円へ減少する。同期の売上高は342億9,424万円、当期純利益は5億662万円で、配当は年1割に据え置かれた。関連産業の需要減退と購入資材の値上がりに対し、全社で固定費と諸経費の低減に努めたと記録されている。年1回決算へ移った最初の期にあたる1975年11月期は、売上高595億5,800万円に対して経常損益が4億1,900万円の損失となった。原料油と石油原料をともに買う立場では、値上がりを製品価格へ移すまでに時間がかかった。
1974年11月、日本油脂は家庭品事業部を分離した。子会社のニッサン洗剤工業とともにシスター石鹸グループへ合併させ、ニッサン石鹸株式会社として発足させている。家庭品は1969年11月期に売上の12.17%を占めていたが、1974年11月期には7.3%まで下がっていた。最終製品として消費者へ直に届く唯一の事業を手放したことで、日本油脂は原料と中間材の供給者へ戻る。残る事業の構成は、1979年11月期で油化30%・塗料27%・化薬21%・食用油脂15%・石油化学品3%・宇宙ロケット他1%となった。広告費を投じて店頭の棚を奪い合う市場から、日本油脂はここで退出した。
1969年3月に子会社の日油化学を置いた大分県の鶴崎石油化学コンビナートへ、1977年6月、日本油脂は自社の大分工場を新設した。1961年の千鳥工場に続く二つ目の石油化学の拠点であり、原料の入口を一か所に頼らない構えとなった。同じ時期、全額出資の日油エンタープライズを通じた不動産・レジャー事業も収穫期に入っていた。売上高は1975年11月期の595億円から1979年11月期の846億4,248万円へ戻り、過去最高を更新する。税引利益は11億6,955万円を計上した。この時期の大株主には昭和電工と富士銀行が並び、日産系と芙蓉グループの双方に連なる資本構成をとっていた。石油危機で一度崩れた収益は、5年をかけて元の水準まで回復した。
1973年6月、米国のDIAMOND SHAMROCK社と合弁で日本ダクロシャムロックを設立し、金属の防錆処理へ進んだ。1984年9月には、同社の化学部門との合弁でMETAL COATINGS INTERNATIONAL INC.を米国に設けた。1988年12月にはNOF AMERICA CORPORATIONを置いている。1964年の日本ルーブリゾール工業に続く一連の日米合弁は、いずれも自社に無い技術を相手から受け、国内市場での製造販売を担う方式をとった。1970年代半ばには米国で丸紅と共同して塗料改質剤の生産を始め、マレーシアではパーム油加工の合弁会社を設立した。駐在員事務所も1974年末の2か所から、1979年末には3か所へ増えた。
1980年12月、川越工場を分離して日油技研工業株式会社を設立した。川越工場は帝国火工品製造から引き継いだ57万平方メートルの敷地を持ち、周辺の市街地化によって1975年の時点から移転が課題となっていた。1983年2月には筑波研究所を新設し、六つの事業部がそれぞれ抱えていた研究を社外の一拠点へ置く場を設けている。在籍人員は1969年11月期の3,975名から1979年11月期の3,283名へ減り、同じ期間に売上高は177億円から846億円へ伸びた。人を増やさずに規模を4.8倍にした裏側で、増えた仕事は子会社と合弁へ移されていた。
1982年度から9年間、日本油脂は連続して増収増益を記録した。1982年には事業部別業績連動賞与制度を導入した。各事業部が人件費や減価償却費に対して上げた利益を数値に換算し、全事業部の平均を上回った事業部の社員の賞与を上げる仕組みである。1991年下期の組合員平均賞与は約77万円で、事業部間の業績によって最大10万円の差がついた。導入時には労働組合が半日ストで反発している。1988年3月には決算期日を11月30日から3月31日へ変更した。1991年3月期の売上高は1,374億円に達した。内訳は油化32.0%・塗料27.3%・化薬24.7%・食品9.5%・石化4.0%・溶接2.5%である。事業部長に計画の決定権を与えた形は、競合と競う場面で機動力を生んだ。
1990年11月、日本油脂は神島郎副社長を委員長とする組織改革推進委員会を設けた。1年をかけ、社員のほか顧客や代理店まで合計210人、延べ290時間の聞き取り調査を行っている。浮かび上がったのは、1965年9月に敷いた独立採算の事業部制が育てた壁だった。自分の事業部が儲かればよいという考えから、情報や技術は他へ出し渋られた。事業部間の人事異動はほとんどなく、入社して20年間同じ事業部に在籍する社員もいた。単年度の収益目標にとらわれて中長期の投資に消極的となり、複数の事業部が同じ分野の研究を重ねていた。プラスチックの改質剤では三つの事業部の営業が同じ顧客を別々に訪ね、1回で済ませてほしいという不満が続出した。
1991年11月1日、製品別に分かれた六つの事業部を指揮する経営企画室を新設した。各事業部から部長・課長クラスの専任10人を集め、宇野泰常務が室長として率い、最高意思決定機関である常務会のすぐ下に置かれた。資本金営業利益率の指標を各事業部へ示し、上がってきた単年度と3年の計画を練り直す権限を持つ。1992年4月には油化事業部・石化事業部と化薬事業部化成品営業部を統合し、化学品事業部を作った。売上高の半分と従業員の3分の1を抱える単位である。売上高は1984年11月期の1,179億円から1992年3月期の1,375億円へ伸びた。しかし同期の経常利益は、前年比22%減の61億円へ低下する見通しとなる。10年ぶりの大幅減益が、事業部制の手直しと重なった。
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|---|---|---|---|---|
| 1937〜1969年4社合併から戦後分離独立、油脂主力期の構造危機 | 日本油脂の発足(合同油脂・ベルベット石鹸・国産工業不二塗料製造所等の合併) | ★★ | ||
| 企業再建整備法に基づく第二会社としての分離独立と、日本油脂の再設立 1949年7月、日産化学工業は集中排除法と企業再建整備法の適用を受け、油脂・塗料・火薬・溶接棒に関する事業を継承する第二会社を分離独立させた。社名は1937年から1945年まで使っていた日本油脂を踏襲し、本社は日本橋の白木屋に置かれた。存続会社には肥料を中心とする化学部門が残り、現在の日油はこの第二会社を法人上の設立としている。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 連続赤字下で踏み切った新工場の建設と主力事業の入れ替え 1956年11月期から三期続けて当期損失を計上した日本油脂は、赤字を抜けたのち、1961年に川崎市へ千鳥工場を新設して石油化学の分野へ進出した。油脂を出発点とする化学から石油系原料を扱う設備へ手を伸ばし、あわせて冶金機械・潤滑油添加剤・塗料にも投資を並べた再建であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 石油化学事業に参入 | ★★ | |||
| 1970〜1993年事業部制で広げた間口と化学品事業部への統合 | 帝国火工品製造を吸収合併 | ★★ | ||
| DIAMOND SHAMROCK社と合弁で日本ダクロシャムロックを設立 | ★ | |||
| 大分工場を新設 | ★ | |||
| 川越工場を分離し日油技研工業を設立 | ★ | |||
| 筑波研究所を新設 | ★ | |||
| DIAMOND SHAMROCK CHEMICALSと合弁METAL COATINGS INTERNATIONAL INC.を設立 | ★ | |||
| 決算期日を11月30日から3月31日に変更 | ★ | |||
| NOF AMERICA CORPORATIONを設立 | ★ | |||
| 1994〜2006年溶接・塗料事業の撤退とライフサイエンス・DDS事業の立ち上げ | 美唄工場を閉鎖し子会社へ業務移管 | ★ | ||
| ベルギーにNOF EUROPE N.V.を設立 | ★ | |||
| ジャペックスを合弁設立 | ★ | |||
| 日本工機の発行済株式95%を取得 | ★★ | |||
| 新規事業開発部を「ライフサイエンス事業部」へ名称変更 | ★ | |||
| タセトへ溶接事業を譲渡し溶接事業部廃止・神明工場閉鎖 | ★★ | |||
| 塗料事業をBASF系合弁へ営業譲渡 | ★★ | |||
| 「DDS事業開発部」を新設 | ★★ | |||
| 2007〜2026年日本油脂から日油への改称とDDS・機能材料への集中 | 大池弘一 | 社名を「日本油脂」から「日油」に変更 | ★ | |
| 大池弘一 | 「機能フィルム事業部」を新設、「DDS事業部」へ名称変更 | ★ | ||
| 大池弘一 | 日油技研工業を株式交換により完全子会社化 | ★ | ||
| 大池弘一 | 日油(上海)商貿有限公司を設立 | ★ | ||
| 小林明治 | 「機能フィルム事業部」と「電材事業開発部」を統合 | ★ | ||
| 小林明治 | 「ディスプレイ材料事業部」を新設 | ★ | ||
| 小林明治 | NOF EUROPE GmbHを設立 | ★ | ||
| 宮道建臣 | 「ディスプレイ材料事業部」を「化成事業部」に統合 | ★ | ||
| 宮道建臣 | 「機能材料事業部」を新設 | ★ | ||
| 宮道建臣 | 「ライフサイエンス事業部」と「DDS事業部」を統合 | ★ | ||
| 沢村孝司 | 北海道日油を日本工機に吸収合併 | ★ |
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事実根拠:出所(日油)