日油 の歴史

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創業 1937年
母体 日産化学工業+鈴木商店油脂部
創業地 東京都渋谷区
創業 1937年、日産財閥のもとで日本食糧工業・国産工業不二塗料製造所・ベルベット石鹸
1937年、日産財閥のもとで日本食糧工業・国産工業不二塗料製造所・ベルベット石鹸・合同油脂の4社が合併し、(旧)日本油脂が発足した。母体は国内の硬化油工業を興した1921年設立のスタンダード油脂である。1943年までに帝国火薬工業などを吸収し、1945年に日本鉱業から化学部門を譲り受けて日産化学工業へ改めた。戦後は集中排除法と企業再建整備法の適用を受け、1949年7月に油脂・塗料・火薬・溶接棒を継ぐ第二会社として分離独立した。肥料は存続会社に残り、技術も顧客も互いに遠い4事業を1社へ集約したまま、市場経済のもとで発足した。
決断 油脂の化学でつくれるものを、対価の高い用途へ載せ替えてきた。1943年までに吸収
油脂の化学でつくれるものを、対価の高い用途へ載せ替えてきた。1943年までに吸収した火薬の技術は、1954年にロケット用推進薬へ向かった。石鹸向け原料に依存する油脂の採算が崩れ、三期続けて赤字を計上すると、1961年に川崎へ千鳥工場を建設して石油化学へ進んだ。1973年には米ダイヤモンド・シャムロックと提携して防錆コーティングへ入り、1992年に反射防止フィルムの研究を始めた。2000年に塗料と溶接を売却し、翌2001年に薬物送達システム(DDS)素材へ参入する。界面と重合という同じ技術の売り先を、石鹸から自動車の防錆処理剤と製薬会社のPEG修飾剤へ替えてきた。
現況 規模・利益率・伸びのそれぞれで首位となる事業が別々にある3事業構造である。202
規模・利益率・伸びのそれぞれで首位となる事業が別々にある3事業構造である。2026年3月期の連結売上高2,580億円は機能化学品が6割弱を占め、セグメント利益268億円で最大の稼ぎ手だが、化粧品ODMの伸びで2025年3月期は良品計画1社が売上の13.5%に達した。売上2割弱の医薬・医療・健康は利益158億円と利益率が最も高く、2001年参入のDDS素材が効く。一方、防衛費を5年で43兆円へ増やす政策転換を受けた化薬は、早期装備化の初度費の計上も重なり、売上を1年で388億円から617億円へ伸ばした。1937年に抱えた火薬が、現在最も速く伸びている。
競合 同じ総合化学から出発した各社と、何を捨てるかの速さで競ってきた。1949年に肥料
同じ総合化学から出発した各社と、何を捨てるかの速さで競ってきた。1949年に肥料を残して分かれた日産化学は、1988年に主力の石油化学から全面撤退して農薬・機能性材料へ移り、日油も2000年に塗料と溶接を売って機能化学品へ寄せた。汎用品の規模で戦う道を降りた点は共通で、レゾナックのように電子材料へ経営資源を集中した例もある。日油が分かれるのは、そこで火薬を捨てなかったことである。H3ロケットとイプシロンSの固体推進薬、高性能含水爆薬と無線電子雷管、防衛省の計画に沿う発射薬 ── 有報が唯一「受注生産」と記す事業を、機能化学品の隣に残している。
長期業績の推移 1949〜2026年
日油:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

第1章 1937年〜 4社合併から戦後分離独立、油脂主力期の構造危機

筆者考察y.sugiura, author

日本油脂の弱さは、作るものを間違えたことではなく、売る相手を選べなかったことにある。1908年に鈴木商店が魚油を集め始めたときから、この会社の事業はいつも原料の側にあった。硬化油も脂肪酸もグリセリンも、買い手の工場へ入って初めて製品になる中間材で、最終の棚に自社の名は出ない。1949年に第二会社として再出発したときの生産金額は油脂が51.5%を占めたが、その油脂が支えていたのは他社の石鹸だった。1956年11月期から三期続いた損失は、需要が消えたから出たのではない。値段を決める場に立てない会社が、原料油の高騰をそのまま引き受けた結果である。

そこから抜ける道として選ばれたのは、原料そのものを替えることだった。1961年に川崎へ千鳥工場を建てて石油化学に入り、天然グリセリンを合成グリセリンへ置き換える設計を採る。同じ年に火薬の技術を金属板の爆発成型へ転用し、1964年には米ルーブリゾールと組んで潤滑油添加剤に進んだ。1965年9月に敷いた六つの事業部の独立採算は、こうして散らばった市場を別々に追うための器だった。1969年11月期の売上高は177億円まで伸びたが、どの事業部も全体の4分の1に届かない。主力を失うことと、主力から自由になることは、この会社では同じ出来事だった。

硬化分解用原料油の消費実績 1939年度・1947年度・1948年度(万トン)

26 1939 0.85 1947 1.9 1948
  • 硬化油・脂肪酸・グリセリン・石鹸向けの硬化分解用原料油。1939年度は戦前の最高生産年度。
  • 出所は証券 1949年「新規上場会社紹介 日本油脂株式會社」。

1937年〜鈴木商店の魚油から日産コンツェルン下の4社合併へ

魚油の精製から硬化油の量産へ移る

1908年、合名会社鈴木商店が業務の一部として魚油の集荷販売を始めた。輸入に依存していた牛脂や椰子油を国産魚油で置き換えるため、精製加工の研究を重ねた。工業化に成功すると、1916年に兵庫工場、翌1917年に王子製油所を建て、日本で最初の硬化油事業を興した。欧州大戦後の反動で鈴木商店の経営が揺らぐと油脂部門は切り離され、1921年4月、資本金150万円のスタンダード油脂株式会社として独立する。国内の硬化油工業の始祖とされたこの会社が、日本油脂の母体となった。1923年には魚油からグリセリンと脂肪酸を精製していた日本グリセリン工業を合併して合同油脂グリセリンと改め、1931年に合同油脂と改称した

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
    • [1]1908年に合名会社鈴木商店が業務の一部として魚油の集荷販売を行った
    • [2]国産魚油で輸入油脂原料を代替する研究の末に工業化し、1916年に兵庫工場、1917年に王子製油所を建設してわが国最初の硬化油事業を開始した
    • [3]国産魚油で輸入油脂原料を代替する研究の末に工業化し、1916年に兵庫工場、1917年に王子製油所を建設してわが国最初の硬化油事業を開始した
    • [6]1923年に日本グリセリン工業を合併して合同油脂グリセリンへ改称し、1931年12月に合同油脂と改めた
  • 証券 1949年
    • [4]1921年4月に資本金150万円でスタンダード油脂株式会社を設立した(現在の王子工場)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]スタンダード油脂はわが国硬化油工業の始祖ともいうべき存在で、これを母体として日本油脂が発足した
石鹸と塗料と火薬を継ぎ足す

1937年6月、合同油脂は日本油脂を吸収合併し、社名のほうを相手から受け取って日本油脂株式会社と称した。吸収された日本油脂は、1910年に英国のリーバーブラザースが興した日本リーバーブラザースに源を発し、東洋一とされた石鹸工場を持っていた。1925年に神戸瓦斯へ売られて大日本石鹸、次いでベルベット石鹸と名を変え、1936年に日本産業の傘下へ入る。合併の直前には日産系の日本食料工業の水産部門と合体し、不二塗料の事業も取得して塗料部門を抱えていた。有価証券報告書はこの経緯を、日本食糧工業・国産工業不二塗料製造所・ベルベット石鹸・合同油脂の4社合併として記している。翌1938年8月には帝国火薬工業を合併して火薬へ、1943年には神明工場を新設して溶接棒へ広がった

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
    • [7]1937年6月に合同油脂が日本油脂を吸収する形で合体し、社名は日本油脂とした
    • [8]日本油脂は1910年創設の日本リーバーブラザースに源を発し東洋一の石鹸工場を持ち、1925年に神戸瓦斯へ買収されて大日本石鹸・ベルベット石鹸と改称、1936年に日本産業の傘下へ入った
    • [9]日本油脂は1910年創設の日本リーバーブラザースに源を発し東洋一の石鹸工場を持ち、1925年に神戸瓦斯へ買収されて大日本石鹸・ベルベット石鹸と改称、1936年に日本産業の傘下へ入った
    • [10]1937年4月に日産系の日本食料工業の水産部門と合体して日本油脂と改称し、同年5月に不二塗料の事業(当時は戸畑鋳物の塗料部門)を買収した
    • [12]1938年8月に帝国火薬工業(現武豊工場)を合併し、1939年3月に三国工場、1943年4月に神明工場を新設した
  • 日油 有価証券報告書 第102期(2025年3月期)【沿革】
    • [11]1937年に日本食糧工業・国産工業不二塗料製造所・ベルベット石鹸・合同油脂の4社合併で(旧)日本油脂株式会社が発足した
四つの部門だけを継いで上場する

1945年、日本鉱業の化学部門に属する12工場を買収し、社名を日産化学工業株式会社と改めた。有機と無機にまたがる総合化学会社となった直後に終戦を迎え、財閥解体と企業再建整備法の処理が始まる。1949年7月1日、油脂・塗料・火薬・溶接棒の4部門をそのまま継承する第二会社が分離された。旧称を踏襲した日本油脂株式会社で、資本金は1億5,000万円である。同年9月1日、300万株を全株上場して東京証券取引所に加わった。分離直前の1か月平均の生産金額は油脂51.5%・火薬28.2%・塗料18.8%・溶接棒1.3%で、爆薬の生産能力は全国の30%を占めた油脂を核に火薬と塗料を並べたこの構成は、戦時の合併がそのまま残ったものだった。

  • 証券 1949年
    • [13]1945年に日本鉱業株式会社の化学部門に属する12工場を買収し、社名を日産化学工業株式会社へ改めた
    • [15]1949年7月1日に企業再建整備計画の認可に基づき、油脂・塗料・火薬・溶接棒の4部門を継承する第二会社として資本金1億5,000万円で設立された
    • [16]1949年7月1日に企業再建整備計画の認可に基づき、油脂・塗料・火薬・溶接棒の4部門を継承する第二会社として資本金1億5,000万円で設立された
    • [17]1949年9月1日に新規上場し、上場株式は300万株(全株上場)であった
    • [19]1948年12月から1949年5月の1か月平均生産金額の構成は油脂51.5%・火薬28.2%・塗料18.8%・溶接棒1.3%
    • [20]爆薬の生産能力は全国比30%、稼働率は63.8%であった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
    • [14]日本鉱業化学部門の買収により有機・無機にまたがる総合的化学工業会社を形成したが、まもなく終戦となった
  • 日油 有価証券報告書 第102期(2025年3月期)【沿革】
    • [18]1949年9月に東京証券取引所へ上場した
参考文献[1]-[20]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
    • [1]1908年に合名会社鈴木商店が業務の一部として魚油の集荷販売を行った
    • [2]国産魚油で輸入油脂原料を代替する研究の末に工業化し、1916年に兵庫工場、1917年に王子製油所を建設してわが国最初の硬化油事業を開始した
    • [3]国産魚油で輸入油脂原料を代替する研究の末に工業化し、1916年に兵庫工場、1917年に王子製油所を建設してわが国最初の硬化油事業を開始した
    • [6]1923年に日本グリセリン工業を合併して合同油脂グリセリンへ改称し、1931年12月に合同油脂と改めた
    • [7]1937年6月に合同油脂が日本油脂を吸収する形で合体し、社名は日本油脂とした
    • [8]日本油脂は1910年創設の日本リーバーブラザースに源を発し東洋一の石鹸工場を持ち、1925年に神戸瓦斯へ買収されて大日本石鹸・ベルベット石鹸と改称、1936年に日本産業の傘下へ入った
    • [9]日本油脂は1910年創設の日本リーバーブラザースに源を発し東洋一の石鹸工場を持ち、1925年に神戸瓦斯へ買収されて大日本石鹸・ベルベット石鹸と改称、1936年に日本産業の傘下へ入った
    • [10]1937年4月に日産系の日本食料工業の水産部門と合体して日本油脂と改称し、同年5月に不二塗料の事業(当時は戸畑鋳物の塗料部門)を買収した
    • [12]1938年8月に帝国火薬工業(現武豊工場)を合併し、1939年3月に三国工場、1943年4月に神明工場を新設した
    • [14]日本鉱業化学部門の買収により有機・無機にまたがる総合的化学工業会社を形成したが、まもなく終戦となった
  • 証券 1949年
    • [4]1921年4月に資本金150万円でスタンダード油脂株式会社を設立した(現在の王子工場)
    • [13]1945年に日本鉱業株式会社の化学部門に属する12工場を買収し、社名を日産化学工業株式会社へ改めた
    • [15]1949年7月1日に企業再建整備計画の認可に基づき、油脂・塗料・火薬・溶接棒の4部門を継承する第二会社として資本金1億5,000万円で設立された
    • [16]1949年7月1日に企業再建整備計画の認可に基づき、油脂・塗料・火薬・溶接棒の4部門を継承する第二会社として資本金1億5,000万円で設立された
    • [17]1949年9月1日に新規上場し、上場株式は300万株(全株上場)であった
    • [19]1948年12月から1949年5月の1か月平均生産金額の構成は油脂51.5%・火薬28.2%・塗料18.8%・溶接棒1.3%
    • [20]爆薬の生産能力は全国比30%、稼働率は63.8%であった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]スタンダード油脂はわが国硬化油工業の始祖ともいうべき存在で、これを母体として日本油脂が発足した
  • 日油 有価証券報告書 第102期(2025年3月期)【沿革】
    • [11]1937年に日本食糧工業・国産工業不二塗料製造所・ベルベット石鹸・合同油脂の4社合併で(旧)日本油脂株式会社が発足した
    • [18]1949年9月に東京証券取引所へ上場した

1950年〜輸入牛脂への原料転換と朝鮮特需が支えた復興

原料を魚油から輸入牛脂へ切り替える

再設立の時点で、油脂事業は原料の手当てに縛られていた。硬化油・脂肪酸・グリセリン・石鹸へ向ける原料油の消費は、1939年度の26万トンが最高だった。1947年度は8,500トン、1948年度は1万9,000トンまで減少している。1949年度の計画4万9,000トンでも石鹸に回るのは4万トンで、国民一人あたり50グラムのもの年10個分の割当にしかならない。原料油の8割は輸入で、椰子油はフィリピンと香港を経由し、大豆は米国と中国から入り、その資金の大半をガリオア資金とエロア資金が賄っていた。石鹸の主原料は、魚油・鯨油から輸入牛脂へ切り替えた。尼崎工場には連続式の油脂分解・脂肪酸蒸溜・石鹸製造の装置を据え、王子工場には半連続脱脂装置とマーガリンボテーターを入れる。あわせて工場間の生産集中を進めた

  • 証券 1949年
    • [21]硬化分解用原料油の消費実績は1939年度が26万トンで最高、1947年度8,500トン、1948年度1万9,000トン
    • [22]硬化分解用原料油の消費実績は1939年度が26万トンで最高、1947年度8,500トン、1948年度1万9,000トン
    • [23]1949年度の計画4万9,000トンのうち石鹸へ回るのは4万トンで、一人50グラムのもの年10個の割当にとどまる
    • [24]原料油は輸入8割・国産2割で、椰子油は約20%がフィリピンおよび香港経由、大豆は約20%が米国・中国から入り、資金は従来大部分がガリオア・エロアに依存していた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
    • [25]石鹸主原料を魚油・鯨油から輸入牛脂へ転換し、尼崎工場に連続式油脂分解装置・連続式脂肪酸蒸溜装置・連続式石鹸製造装置を、王子工場に半連続脱脂装置・マーガリンボテーター・連続式石鹸製造装置を設置して、工場間の生産集中化を断行した
    • [26]石鹸主原料を魚油・鯨油から輸入牛脂へ転換し、尼崎工場に連続式油脂分解装置・連続式脂肪酸蒸溜装置・連続式石鹸製造装置を、王子工場に半連続脱脂装置・マーガリンボテーター・連続式石鹸製造装置を設置して、工場間の生産集中化を断行した
    • [27]石鹸主原料を魚油・鯨油から輸入牛脂へ転換し、尼崎工場に連続式油脂分解装置・連続式脂肪酸蒸溜装置・連続式石鹸製造装置を、王子工場に半連続脱脂装置・マーガリンボテーター・連続式石鹸製造装置を設置して、工場間の生産集中化を断行した
朝鮮動乱で軍用火薬の生産を戻す

火薬部門は終戦で軍用火薬の生産を止め、産業用ダイナマイトの製造へ移っていた。1950年の朝鮮動乱を契機に、特需の兵器用火薬が発注される。武豊工場へ無煙火薬・TNT・テトリールの設備を新増設し、兵器用火薬の製造を再開した。北海道のダイナマイト需要を賄うため、1954年4月には美唄工場を新設した。資本金は1952年1月に10億円へ達し、1952年5月期の売上高は54億7,690万円、当期純利益は2億205万円を計上している。1955年5月期の売上高は52億1,000万円であった。戦後に酒類の製造へ転換していた河内工場は、1951年6月、現物出資して細雪酒造として切り離した。原料油の割当に縛られた油脂に代わり、戦後の再出発を先に支えたのは火薬部門だった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
    • [28]戦後は軍用火薬の生産を中止し、産業用ダイナマイト等の製造を行っていた
    • [29]朝鮮動乱勃発を契機とする特需兵器用火薬の発注に伴い、武豊工場へ無煙火薬・TNT・テトリール等の設備を新増設し兵器用火薬の製造を再開した
    • [30]朝鮮動乱勃発を契機とする特需兵器用火薬の発注に伴い、武豊工場へ無煙火薬・TNT・テトリール等の設備を新増設し兵器用火薬の製造を再開した
    • [31]北海道におけるダイナマイト需要を賄うため1954年4月に美唄工場を新設した
    • [34]1955年5月期の売上高は52億1,000万円
    • [35]1951年6月に戦後酒類の製造へ転換した河内工場を現物出資して細雪酒造を設立した
  • 株式会社年鑑 1953年版「日本油脂」
    • [32]資本金は1952年1月に10億円となった
    • [33]1952年5月期の売上高は54億7,690万円、当期純利益は2億205万円
石鹸原料の供給に徹して値崩れを受ける

1956年11月期に1億6,500万円、1957年5月期に7,800万円、1957年11月期に6,500万円と、三期続けて当期損失が並んだ。売上高は1956年11月期の101億円から1958年11月期の107億円まで、ほとんど動かない。石鹸は最終製品の広告で需要が動く商品でありながら、日本油脂が抱えていたのは硬化油・グリセリン・脂肪酸という原料の側だった。合併で継いだ塗料・火薬・溶接棒はそれぞれ別の市場を相手にしており、油脂の不振を埋める規模を持たない。会長の苫米地義三と社長の大橋退治のもとで、再建が経営の課題となった原料供給に徹した構造の弱さは、再設立から10年足らずで顕在化した。

  • 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)
    • [36]1956年11月期に1億6,500万円、1957年5月期に7,800万円、1957年11月期に6,500万円の当期損失を計上した
  • 上場会社総覧 1959年版(単体・半期合算)
    • [37]売上高は1956年11月期101億円、1957年11月期103億円、1958年11月期107億円
  • 株式会社年鑑 1953年版「日本油脂」
    • [38]主な事業内容は硬化油・グリセリン・脂肪酸・石鹸・人造バター・食用油等の製造、各種塗料の製造、火薬類の製造加工、電気溶接棒の製造であった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
    • [39]1955年時点の会長は苫米地義三、社長は大橋退治
参考文献[21]-[39]
  • 証券 1949年
    • [21]硬化分解用原料油の消費実績は1939年度が26万トンで最高、1947年度8,500トン、1948年度1万9,000トン
    • [22]硬化分解用原料油の消費実績は1939年度が26万トンで最高、1947年度8,500トン、1948年度1万9,000トン
    • [23]1949年度の計画4万9,000トンのうち石鹸へ回るのは4万トンで、一人50グラムのもの年10個の割当にとどまる
    • [24]原料油は輸入8割・国産2割で、椰子油は約20%がフィリピンおよび香港経由、大豆は約20%が米国・中国から入り、資金は従来大部分がガリオア・エロアに依存していた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
    • [25]石鹸主原料を魚油・鯨油から輸入牛脂へ転換し、尼崎工場に連続式油脂分解装置・連続式脂肪酸蒸溜装置・連続式石鹸製造装置を、王子工場に半連続脱脂装置・マーガリンボテーター・連続式石鹸製造装置を設置して、工場間の生産集中化を断行した
    • [26]石鹸主原料を魚油・鯨油から輸入牛脂へ転換し、尼崎工場に連続式油脂分解装置・連続式脂肪酸蒸溜装置・連続式石鹸製造装置を、王子工場に半連続脱脂装置・マーガリンボテーター・連続式石鹸製造装置を設置して、工場間の生産集中化を断行した
    • [27]石鹸主原料を魚油・鯨油から輸入牛脂へ転換し、尼崎工場に連続式油脂分解装置・連続式脂肪酸蒸溜装置・連続式石鹸製造装置を、王子工場に半連続脱脂装置・マーガリンボテーター・連続式石鹸製造装置を設置して、工場間の生産集中化を断行した
    • [28]戦後は軍用火薬の生産を中止し、産業用ダイナマイト等の製造を行っていた
    • [29]朝鮮動乱勃発を契機とする特需兵器用火薬の発注に伴い、武豊工場へ無煙火薬・TNT・テトリール等の設備を新増設し兵器用火薬の製造を再開した
    • [30]朝鮮動乱勃発を契機とする特需兵器用火薬の発注に伴い、武豊工場へ無煙火薬・TNT・テトリール等の設備を新増設し兵器用火薬の製造を再開した
    • [31]北海道におけるダイナマイト需要を賄うため1954年4月に美唄工場を新設した
    • [34]1955年5月期の売上高は52億1,000万円
    • [35]1951年6月に戦後酒類の製造へ転換した河内工場を現物出資して細雪酒造を設立した
    • [39]1955年時点の会長は苫米地義三、社長は大橋退治
  • 株式会社年鑑 1953年版「日本油脂」
    • [32]資本金は1952年1月に10億円となった
    • [33]1952年5月期の売上高は54億7,690万円、当期純利益は2億205万円
    • [38]主な事業内容は硬化油・グリセリン・脂肪酸・石鹸・人造バター・食用油等の製造、各種塗料の製造、火薬類の製造加工、電気溶接棒の製造であった
  • 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)
    • [36]1956年11月期に1億6,500万円、1957年5月期に7,800万円、1957年11月期に6,500万円の当期損失を計上した
  • 上場会社総覧 1959年版(単体・半期合算)
    • [37]売上高は1956年11月期101億円、1957年11月期103億円、1958年11月期107億円

1961年〜石油化学への進出と六事業部の独立採算

グリセリンの原料を石油へ移す

1961年、日本油脂は石油化学への進出を決め、川崎市に千鳥工場を新設した。油脂を分解して得ていたグリセリンや脂肪酸の隣に、石油を原料とする製品系列を並べる方針だった。同じ1961年には金属板の爆発成型事業を企業化し、火薬の技術を冶金機械の分野へ持ち出した。業績は1958年5月期に黒字へ回復し、1961年11月期には売上高85億円・当期純利益3億5,100万円まで回復する。ただし利益はそこが頂点で、1965年11月期には3,100万円まで細った。売上高が1961年11月期の160億円から1965年11月期の215億円へ伸びた同じ期間に、利益だけが逆へ動いていた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [40]1961年に川崎市へ千鳥工場を新設し、石油化学の分野へ進出した
    • [41]1961年に金属板の爆発成型事業を企業化し冶金機械方面へ進出した
  • 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)
    • [42]業績は1958年5月期に黒字へ戻り、1961年11月期に売上高85億円・当期純利益3億5,100万円まで回復した
    • [43]当期純利益は1965年11月期に3,100万円まで減少した
    • [44]売上高は1961年11月期160億円、1965年11月期215億円
油脂の外側へ添加剤と塗料を並べる

1964年、米国のザ・ルーブリゾール・コーポレイションと合弁会社「日本ルーブリゾール工業」を設立し、潤滑油添加剤の製造に進んだ。同年8月には横浜市へ戸塚工場を新設し、当時東洋一とされた設備で塗料の需要増に応えている。設備の近代化も並行して進み、1954年には北海道へ美唄工場を設けて品質改善と生産向上を図った。売上高は1965年11月期の215億円から1969年11月期の332億円へ伸びる。1967年11月期には売上高139億円強・税引純益2億円を計上し、年1割の配当を続けた。規模は着実に増えたが、利益の薄さは油脂を主力とする限り変わらなかった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [45]1964年に米ザ・ルーブリゾール・コーポレイションと合弁会社「日本ルーブリゾール工業」を設立し、同年8月に横浜市へ戸塚工場を新設した
    • [46]1964年に米ザ・ルーブリゾール・コーポレイションと合弁会社「日本ルーブリゾール工業」を設立し、同年8月に横浜市へ戸塚工場を新設した
    • [47]1954年に北海道へ美唄工場を新設し設備の近代化・品質改善・生産向上を図った
    • [49]1967年11月期に売上高139億円強・純益2億円(税引)を計上し年1割配当を継続した
  • 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)
    • [48]売上高は1965年11月期215億円、1969年11月期332億円
六つの事業部に独立採算を敷く

1965年9月、日本油脂は事業部制を実施した。油化・食用油脂・家庭品・塗料・化薬・溶接の六つが独立採算の単位となり、それぞれが生産から営業までを抱える。1969年11月期の売上構成を見ると、油化22.45%・塗料23.47%・食用油脂21.14%が上位に並ぶ。化薬16.61%・家庭品12.17%・溶接4.16%が続き、どの事業部も全体の4分の1に届かなかった。同期の売上高は177億2,192万円、当期純利益は3億1,303万円、在籍人員は3,975名である。1969年3月には大分県の鶴崎石油化学コンビナートへ進出し、子会社の日油化学を設立した六つの市場を六つの組織で追う体制は意思決定を速くする代わりに、全社の計画を誰も持たない構図をつくった。

  • 日本企業要覧 1970年版「日油」
    • [50]1965年9月から事業部制を実施した
    • [52]事業内容の構成は油化22.45%・塗料23.47%・食用油脂21.14%・化薬16.61%・家庭品12.17%・溶接4.16%
    • [53]事業内容の構成は油化22.45%・塗料23.47%・食用油脂21.14%・化薬16.61%・家庭品12.17%・溶接4.16%
    • [54]1969年11月期の売上高17,721,925千円・当期純利益313,034千円、在籍人員は男3,155名・女820名の計3,975名
    • [55]1969年3月に大分県鶴崎石油化学コンビナートへ進出し、子会社日油化学株式会社を設立した
  • 日経ビジネス 1992年3月2日号
    • [51]1965年に独立採算制の6事業部(油化・食用油脂・家庭品・塗料・化薬・溶接)を設立した
参考文献[40]-[55]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [40]1961年に川崎市へ千鳥工場を新設し、石油化学の分野へ進出した
    • [41]1961年に金属板の爆発成型事業を企業化し冶金機械方面へ進出した
    • [45]1964年に米ザ・ルーブリゾール・コーポレイションと合弁会社「日本ルーブリゾール工業」を設立し、同年8月に横浜市へ戸塚工場を新設した
    • [46]1964年に米ザ・ルーブリゾール・コーポレイションと合弁会社「日本ルーブリゾール工業」を設立し、同年8月に横浜市へ戸塚工場を新設した
    • [47]1954年に北海道へ美唄工場を新設し設備の近代化・品質改善・生産向上を図った
    • [49]1967年11月期に売上高139億円強・純益2億円(税引)を計上し年1割配当を継続した
  • 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)
    • [42]業績は1958年5月期に黒字へ戻り、1961年11月期に売上高85億円・当期純利益3億5,100万円まで回復した
    • [43]当期純利益は1965年11月期に3,100万円まで減少した
    • [44]売上高は1961年11月期160億円、1965年11月期215億円
    • [48]売上高は1965年11月期215億円、1969年11月期332億円
  • 日本企業要覧 1970年版「日油」
    • [50]1965年9月から事業部制を実施した
    • [52]事業内容の構成は油化22.45%・塗料23.47%・食用油脂21.14%・化薬16.61%・家庭品12.17%・溶接4.16%
    • [53]事業内容の構成は油化22.45%・塗料23.47%・食用油脂21.14%・化薬16.61%・家庭品12.17%・溶接4.16%
    • [54]1969年11月期の売上高17,721,925千円・当期純利益313,034千円、在籍人員は男3,155名・女820名の計3,975名
    • [55]1969年3月に大分県鶴崎石油化学コンビナートへ進出し、子会社日油化学株式会社を設立した
  • 日経ビジネス 1992年3月2日号
    • [51]1965年に独立採算制の6事業部(油化・食用油脂・家庭品・塗料・化薬・溶接)を設立した

第2章 1970年〜 事業部制で広げた間口と化学品事業部への統合

筆者考察y.sugiura, author

事業部制は、主力を持てない会社が選んだ次善の策だった。油脂・塗料・化薬・食用油脂・溶接・家庭品はそれぞれ別の顧客と別の競合を持ち、一つの号令で動かせる相手ではない。1970年6月に帝国火工品製造を合併してロケット推進薬まで抱えると、間口はさらに広がった。事業部長へ決定権を渡した形は狙いどおりに働き、1982年度から9年続けて増収増益が並ぶ。1984年11月期の売上高1,179億円は、1970年11月期の392億円の3倍にあたる。分けて競わせる仕組みは、伸びている限り正しく見えた。

ところがこの3倍は、六つの計画の合計であって会社の計画ではなかった。1990年11月に始めた210人・延べ290時間の聞き取りが映したのは、情報を出し渋る事業部と、20年動かない人事と、同じ顧客を三つの営業が別々に訪ねる非効率である。1991年11月に常務会の直下へ経営企画室を置き、翌年4月に油化・石化と化薬の化成品を化学品事業部へ統合したのは、事業部へ渡した決定権を一段だけ戻す作業だった。同じ1992年3月期、経常利益は10年ぶりの大幅減益となる。伸びが止まって初めて、誰が全社の資源を配るのかという問いが残された。

売上高の推移 1970年11月期〜1984年11月期(億円)

392 1970 426 1971 447 1972 548 1973 700 1974 596 1975 687 1976 722 1977 751 1978 846 1979 958 1980 976 1981 997 1982 1,062 1983 1,179 1984
  • 単体。1974年11月期までは年2回決算のため半期を合算した値。
  • 出所は日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)。

1970年〜帝国火工品の合併と石油危機が削った収益

火薬の系列会社を本体へ取り込む

1970年6月、日本油脂は関係会社の帝国火工品製造株式会社を吸収合併した。将来の化薬事業の発展と安定を図ることが狙いで、この合併によって宇宙開発と防衛関連の部門を抱える。合併に伴う3億3,800万円の増資で資本金は43億3,800万円となり、埼玉県の川越工場が加わった。六つの事業部が別々の市場を持つ構成に、ロケット推進薬という七つ目の市場が足された形である。1974年11月期には宇宙ロケットが売上の0.8%を占めるまでになった。1970年11月期の売上高は392億円で、1969年11月期の332億円から1年で18%増えている。油脂を母体とする会社が、火薬から宇宙へ届く間口を持つに至った。

  • 日油 有価証券報告書 第102期(2025年3月期)【沿革】
    • [56]1970年6月に帝国火工品製造株式会社を吸収合併した
  • 日本企業要覧 1970年版「日油」
    • [57]将来の化薬事業発展と安定化を図るため帝国火工品製造を合併し、宇宙開発・防衛関連部門へも進出することとなった
    • [58]1970年の帝国火工品製造合併に伴い3億3,800万円を増資し資本金は43億3,800万円となった
  • 日本企業要覧 1975年版「日油」
    • [59]川越工場は帝国火工品製造から引き継いだ工場で、1975年時点で同社の工場として記載されている
    • [60]1974年11月期の事業構成は油化22.9%・塗料27.0%・食用油脂21.6%・化薬17.1%・家庭品7.3%・溶接3.3%・宇宙ロケット0.8%
  • 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)
    • [61]売上高は1969年11月期332億円、1970年11月期392億円
石油危機で利益が消える

第1次石油危機は、輸入原料と石油化学の双方に足場を置く事業を直撃した。1974年5月期に16億9,400万円あった経常利益は、同年11月期に4億7,162万円へ減少する。同期の売上高は342億9,424万円、当期純利益は5億662万円で、配当は年1割に据え置かれた。関連産業の需要減退と購入資材の値上がりに対し、全社で固定費と諸経費の低減に努めたと記録されている。年1回決算へ移った最初の期にあたる1975年11月期は、売上高595億5,800万円に対して経常損益が4億1,900万円の損失となった原料油と石油原料をともに買う立場では、値上がりを製品価格へ移すまでに時間がかかった。

  • 日本企業要覧 1975年版「日油」
    • [62]経常利益は1974年5月期16億9,400万円、1974年11月期4億7,162万円(当時は年2回決算で、いずれも半期の値)
    • [63]1974年11月期(年2回決算の下期)の売上高342億9,424万円・当期純利益5億662万円、配当は年1割据置
    • [64]1974年11月期は関連産業の需要減退と購入資材の値上りに対処し、全社を挙げて固定費・諸経費の低減に努めた
  • 日本企業要覧 1980年版「日油」
    • [65]1975年11月期(年1回決算へ移行後の最初の期)の売上高595億5,800万円、経常損益は4億1,900万円の損失(△4億1,900万円)
家庭用石鹸から手を引く

1974年11月、日本油脂は家庭品事業部を分離した。子会社のニッサン洗剤工業とともにシスター石鹸グループへ合併させ、ニッサン石鹸株式会社として発足させている。家庭品は1969年11月期に売上の12.17%を占めていたが、1974年11月期には7.3%まで下がっていた。最終製品として消費者へ直に届く唯一の事業を手放したことで、日本油脂は原料と中間材の供給者へ戻る。残る事業の構成は、1979年11月期で油化30%・塗料27%・化薬21%・食用油脂15%・石油化学品3%・宇宙ロケット他1%となった。広告費を投じて店頭の棚を奪い合う市場から、日本油脂はここで退出した。

  • 日本企業要覧 1980年版「日油」
    • [66]1974年11月に家庭品事業部を分離し、子会社ニッサン洗剤工業とともにシスター石鹸グループと合併してニッサン石鹸株式会社として発足した
    • [67]1974年11月に家庭品事業部を分離し、子会社ニッサン洗剤工業とともにシスター石鹸グループと合併してニッサン石鹸株式会社として発足した
    • [70]1979年11月期の事業構成は油化30%・塗料27%・化薬21%・食用油脂15%・石油化学品部3%・宇宙ロケット他1%
  • 日本企業要覧 1970年版「日油」
    • [68]1969年11月期の家庭品の売上構成比は12.17%
  • 日本企業要覧 1975年版「日油」
    • [69]1974年11月期の家庭品の売上構成比は7.3%
参考文献[56]-[70]
  • 日油 有価証券報告書 第102期(2025年3月期)【沿革】
    • [56]1970年6月に帝国火工品製造株式会社を吸収合併した
  • 日本企業要覧 1970年版「日油」
    • [57]将来の化薬事業発展と安定化を図るため帝国火工品製造を合併し、宇宙開発・防衛関連部門へも進出することとなった
    • [58]1970年の帝国火工品製造合併に伴い3億3,800万円を増資し資本金は43億3,800万円となった
    • [68]1969年11月期の家庭品の売上構成比は12.17%
  • 日本企業要覧 1975年版「日油」
    • [59]川越工場は帝国火工品製造から引き継いだ工場で、1975年時点で同社の工場として記載されている
    • [60]1974年11月期の事業構成は油化22.9%・塗料27.0%・食用油脂21.6%・化薬17.1%・家庭品7.3%・溶接3.3%・宇宙ロケット0.8%
    • [62]経常利益は1974年5月期16億9,400万円、1974年11月期4億7,162万円(当時は年2回決算で、いずれも半期の値)
    • [63]1974年11月期(年2回決算の下期)の売上高342億9,424万円・当期純利益5億662万円、配当は年1割据置
    • [64]1974年11月期は関連産業の需要減退と購入資材の値上りに対処し、全社を挙げて固定費・諸経費の低減に努めた
    • [69]1974年11月期の家庭品の売上構成比は7.3%
  • 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)
    • [61]売上高は1969年11月期332億円、1970年11月期392億円
  • 日本企業要覧 1980年版「日油」
    • [65]1975年11月期(年1回決算へ移行後の最初の期)の売上高595億5,800万円、経常損益は4億1,900万円の損失(△4億1,900万円)
    • [66]1974年11月に家庭品事業部を分離し、子会社ニッサン洗剤工業とともにシスター石鹸グループと合併してニッサン石鹸株式会社として発足した
    • [67]1974年11月に家庭品事業部を分離し、子会社ニッサン洗剤工業とともにシスター石鹸グループと合併してニッサン石鹸株式会社として発足した
    • [70]1979年11月期の事業構成は油化30%・塗料27%・化薬21%・食用油脂15%・石油化学品部3%・宇宙ロケット他1%

1977年〜大分工場と日米合弁が開いた外への回路

コンビナートの中に石化の足場を作る

1969年3月に子会社の日油化学を置いた大分県の鶴崎石油化学コンビナートへ、1977年6月、日本油脂は自社の大分工場を新設した。1961年の千鳥工場に続く二つ目の石油化学の拠点であり、原料の入口を一か所に頼らない構えとなった。同じ時期、全額出資の日油エンタープライズを通じた不動産・レジャー事業も収穫期に入っていた。売上高は1975年11月期の595億円から1979年11月期の846億4,248万円へ戻り、過去最高を更新する。税引利益は11億6,955万円を計上した。この時期の大株主には昭和電工富士銀行が並び、日産系と芙蓉グループの双方に連なる資本構成をとっていた。石油危機で一度崩れた収益は、5年をかけて元の水準まで回復した。

  • 日本企業要覧 1970年版「日油」
    • [71]1969年3月に大分県鶴崎石油化学コンビナートへ進出し子会社日油化学株式会社を設立した
  • 日油 有価証券報告書 第102期(2025年3月期)【沿革】
    • [72]1977年6月に大分工場を新設した
  • 日本企業要覧 1975年版「日油」
    • [73]全額出資の日油エンタープライズを通じた不動産・レジャー事業が収穫期に入っていた
    • [76]芙蓉グループに属し、1974年12月時点の大株主は昭和電工8.08%・富士銀行7.69%
  • 日本企業要覧 1980年版「日油」
    • [74]1979年11月期の売上高846億4,248万4,205円は過去最高で、税引利益は11億6,955万6,288円
    • [75]1979年11月期の売上高846億4,248万4,205円は過去最高で、税引利益は11億6,955万6,288円
防錆の技術を米国企業と組んで取る

1973年6月、米国のDIAMOND SHAMROCK社と合弁で日本ダクロシャムロックを設立し、金属の防錆処理へ進んだ。1984年9月には、同社の化学部門との合弁でMETAL COATINGS INTERNATIONAL INC.を米国に設けた。1988年12月にはNOF AMERICA CORPORATIONを置いている。1964年の日本ルーブリゾール工業に続く一連の日米合弁は、いずれも自社に無い技術を相手から受け、国内市場での製造販売を担う方式をとった。1970年代半ばには米国で丸紅と共同して塗料改質剤の生産を始め、マレーシアではパーム油加工の合弁会社を設立した。駐在員事務所も1974年末の2か所から、1979年末には3か所へ増えた

  • 日油 有価証券報告書 第102期(2025年3月期)【沿革】
    • [77]1973年6月にDIAMOND SHAMROCK社と合弁で日本ダクロシャムロックを設立した
    • [78]1984年9月にDIAMOND SHAMROCK CHEMICALSと合弁でMETAL COATINGS INTERNATIONAL INC.を設立した
    • [79]1988年12月にNOF AMERICA CORPORATIONを設立した
  • 日本企業要覧 1975年版「日油」
    • [80]米国で丸紅と共同して塗料改質剤の生産を開始し、マレーシアではパーム油加工の合弁会社を設立した
    • [81]1974年末時点の駐在員事務所はデュッセルドルフとロンドンの2か所
  • 日本企業要覧 1980年版「日油」
    • [82]1979年末時点の駐在員事務所はデュッセルドルフ、ロンドン、ニューヨークの3か所
火薬の工場を切り出して子会社にする

1980年12月、川越工場を分離して日油技研工業株式会社を設立した。川越工場は帝国火工品製造から引き継いだ57万平方メートルの敷地を持ち、周辺の市街地化によって1975年の時点から移転が課題となっていた。1983年2月には筑波研究所を新設し、六つの事業部がそれぞれ抱えていた研究を社外の一拠点へ置く場を設けている。在籍人員は1969年11月期の3,975名から1979年11月期の3,283名へ減り、同じ期間に売上高は177億円から846億円へ伸びた人を増やさずに規模を4.8倍にした裏側で、増えた仕事は子会社と合弁へ移されていた。

  • 日油 有価証券報告書 第102期(2025年3月期)【沿革】
    • [83]1980年12月に川越工場を分離し日油技研工業株式会社を設立した
    • [85]1983年2月に筑波研究所を新設した
  • 日本企業要覧 1975年版「日油」
    • [84]埼玉県の川越工場は周辺地域の市街地化により移転計画を持ち、敷地は57万平方メートルに及んだ
  • 日本企業要覧 1970年版「日油」
    • [86]1969年11月期の在籍人員は男3,155名・女820名の計3,975名
  • 日本企業要覧 1980年版「日油」
    • [87]1979年11月期の在籍人員は男2,679名・女604名の計3,283名で、売上高は846億4,248万円
    • [88]1979年11月期の在籍人員は男2,679名・女604名の計3,283名で、売上高は846億4,248万円
参考文献[71]-[88]
  • 日本企業要覧 1970年版「日油」
    • [71]1969年3月に大分県鶴崎石油化学コンビナートへ進出し子会社日油化学株式会社を設立した
    • [86]1969年11月期の在籍人員は男3,155名・女820名の計3,975名
  • 日油 有価証券報告書 第102期(2025年3月期)【沿革】
    • [72]1977年6月に大分工場を新設した
    • [77]1973年6月にDIAMOND SHAMROCK社と合弁で日本ダクロシャムロックを設立した
    • [78]1984年9月にDIAMOND SHAMROCK CHEMICALSと合弁でMETAL COATINGS INTERNATIONAL INC.を設立した
    • [79]1988年12月にNOF AMERICA CORPORATIONを設立した
    • [83]1980年12月に川越工場を分離し日油技研工業株式会社を設立した
    • [85]1983年2月に筑波研究所を新設した
  • 日本企業要覧 1975年版「日油」
    • [73]全額出資の日油エンタープライズを通じた不動産・レジャー事業が収穫期に入っていた
    • [76]芙蓉グループに属し、1974年12月時点の大株主は昭和電工8.08%・富士銀行7.69%
    • [80]米国で丸紅と共同して塗料改質剤の生産を開始し、マレーシアではパーム油加工の合弁会社を設立した
    • [81]1974年末時点の駐在員事務所はデュッセルドルフとロンドンの2か所
    • [84]埼玉県の川越工場は周辺地域の市街地化により移転計画を持ち、敷地は57万平方メートルに及んだ
  • 日本企業要覧 1980年版「日油」
    • [74]1979年11月期の売上高846億4,248万4,205円は過去最高で、税引利益は11億6,955万6,288円
    • [75]1979年11月期の売上高846億4,248万4,205円は過去最高で、税引利益は11億6,955万6,288円
    • [82]1979年末時点の駐在員事務所はデュッセルドルフ、ロンドン、ニューヨークの3か所
    • [87]1979年11月期の在籍人員は男2,679名・女604名の計3,283名で、売上高は846億4,248万円
    • [88]1979年11月期の在籍人員は男2,679名・女604名の計3,283名で、売上高は846億4,248万円

1985年〜9年続いた増収増益と事業部制の硬直

事業部の成績を賞与に結び付ける

1982年度から9年間、日本油脂は連続して増収増益を記録した。1982年には事業部別業績連動賞与制度を導入した。各事業部が人件費や減価償却費に対して上げた利益を数値に換算し、全事業部の平均を上回った事業部の社員の賞与を上げる仕組みである。1991年下期の組合員平均賞与は約77万円で、事業部間の業績によって最大10万円の差がついた。導入時には労働組合が半日ストで反発している。1988年3月には決算期日を11月30日から3月31日へ変更した。1991年3月期の売上高は1,374億円に達した。内訳は油化32.0%・塗料27.3%・化薬24.7%・食品9.5%・石化4.0%・溶接2.5%である。事業部長に計画の決定権を与えた形は、競合と競う場面で機動力を生んだ

  • 日経ビジネス 1992年3月2日号
    • [89]1982年度から9年間連続で増収増益を記録した
    • [90]1982年に事業部別業績連動賞与制度を導入し、各事業部が人件費・減価償却費等の費用に対して上げた利益を数値に換算し、全事業部平均を上回った事業部の社員の賞与を上げる仕組みをとった
    • [91]1982年に事業部別業績連動賞与制度を導入し、各事業部が人件費・減価償却費等の費用に対して上げた利益を数値に換算し、全事業部平均を上回った事業部の社員の賞与を上げる仕組みをとった
    • [92]1991年下期の賞与は組合員平均で約77万円、事業部間の業績によって最大10万円の差がついた
    • [93]事業部別業績連動賞与制度の導入時に労働組合は半日ストを打って反発した
    • [95]1991年3月期の売上高1,374億円の事業別構成は油化32.0%・塗料27.3%・化薬24.7%・食品9.5%・石化4.0%・溶接2.5%
    • [96]1991年3月期の売上高1,374億円の事業別構成は油化32.0%・塗料27.3%・化薬24.7%・食品9.5%・石化4.0%・溶接2.5%
    • [97]事業部長に計画の決定権を与えて意思決定を早くし、競合と競う際に機動力を発揮できた
  • 日油 有価証券報告書 第102期(2025年3月期)【沿革】
    • [94]1988年3月に決算期日を11月30日から3月31日に変更した
事業部の壁が顧客の前に現れる

1990年11月、日本油脂は神島郎副社長を委員長とする組織改革推進委員会を設けた。1年をかけ、社員のほか顧客や代理店まで合計210人、延べ290時間の聞き取り調査を行っている。浮かび上がったのは、1965年9月に敷いた独立採算の事業部制が育てた壁だった。自分の事業部が儲かればよいという考えから、情報や技術は他へ出し渋られた。事業部間の人事異動はほとんどなく、入社して20年間同じ事業部に在籍する社員もいた。単年度の収益目標にとらわれて中長期の投資に消極的となり、複数の事業部が同じ分野の研究を重ねていた。プラスチックの改質剤では三つの事業部の営業が同じ顧客を別々に訪ね、1回で済ませてほしいという不満が続出した

  • 日経ビジネス 1992年3月2日号
    • [98]1990年11月に神島郎副社長を委員長とする組織改革推進委員会を設け、1年かけて社員・顧客・代理店の合計210人、延べ290時間の聞き取り調査を行った
    • [99]1990年11月に神島郎副社長を委員長とする組織改革推進委員会を設け、1年かけて社員・顧客・代理店の合計210人、延べ290時間の聞き取り調査を行った
    • [101]事業部間に高い壁ができ、情報や技術を他の事業部へ出し渋り、人事異動もほとんどなく、入社して20年間同じ事業部に在籍する社員もいた
    • [102]事業部間に高い壁ができ、情報や技術を他の事業部へ出し渋り、人事異動もほとんどなく、入社して20年間同じ事業部に在籍する社員もいた
    • [103]単年度の収益目標の達成にとらわれ中長期的な投資に消極的となり、複数の事業部が同じ分野の研究を行う非効率が生じていた
    • [104]プラスチックの改質剤で油化事業部・石化事業部・化薬事業部化成品営業部の営業が同じ顧客を別々に訪問し、1回で済ませてほしいとの不満が顧客から続出した
  • 日本企業要覧 1970年版「日油」
    • [100]1965年9月から独立採算の事業部制を実施していた
事業部の上に計画を作る部屋を置く

1991年11月1日、製品別に分かれた六つの事業部を指揮する経営企画室を新設した。各事業部から部長・課長クラスの専任10人を集め、宇野泰常務が室長として率い、最高意思決定機関である常務会のすぐ下に置かれた。資本金営業利益率の指標を各事業部へ示し、上がってきた単年度と3年の計画を練り直す権限を持つ。1992年4月には油化事業部・石化事業部と化薬事業部化成品営業部を統合し、化学品事業部を作った。売上高の半分と従業員の3分の1を抱える単位である。売上高は1984年11月期の1,179億円から1992年3月期の1,375億円へ伸びた。しかし同期の経常利益は、前年比22%減の61億円へ低下する見通しとなる10年ぶりの大幅減益が、事業部制の手直しと重なった。

  • 日経ビジネス 1992年3月2日号
    • [105]1991年11月1日に製品別の6事業部を指揮する経営企画室を新設した
    • [106]経営企画室は各事業部から部長・課長クラスの専任メンバー10人を集め、宇野泰常務が室長として指揮し、常務会のすぐ下に置かれた恒久組織とされた
    • [107]経営企画室は年1回、各事業部の内部資本金に対する資本金営業利益率の指標を示し、各事業部が作った単年度と向こう3年間の中期計画を練り直して修正を加える
    • [108]1992年4月に油化事業部・石化事業部と化薬事業部化成品営業部を統合して化学品事業部を新設し、その売上は総売上高の半分、人員は全従業員の3分の1に達した
    • [109]1992年4月に油化事業部・石化事業部と化薬事業部化成品営業部を統合して化学品事業部を新設し、その売上は総売上高の半分、人員は全従業員の3分の1に達した
    • [111]1992年3月期の売上高は1,375億円で前年並みにとどまり、経常利益は前年比22%減の61億円へ落ち込む見通しで、10年ぶりの大幅減益となる
    • [112]1992年3月期の売上高は1,375億円で前年並みにとどまり、経常利益は前年比22%減の61億円へ落ち込む見通しで、10年ぶりの大幅減益となる
  • 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)
    • [110]1984年11月期の売上高は1,179億円
参考文献[89]-[112]
  • 日経ビジネス 1992年3月2日号
    • [89]1982年度から9年間連続で増収増益を記録した
    • [90]1982年に事業部別業績連動賞与制度を導入し、各事業部が人件費・減価償却費等の費用に対して上げた利益を数値に換算し、全事業部平均を上回った事業部の社員の賞与を上げる仕組みをとった
    • [91]1982年に事業部別業績連動賞与制度を導入し、各事業部が人件費・減価償却費等の費用に対して上げた利益を数値に換算し、全事業部平均を上回った事業部の社員の賞与を上げる仕組みをとった
    • [92]1991年下期の賞与は組合員平均で約77万円、事業部間の業績によって最大10万円の差がついた
    • [93]事業部別業績連動賞与制度の導入時に労働組合は半日ストを打って反発した
    • [95]1991年3月期の売上高1,374億円の事業別構成は油化32.0%・塗料27.3%・化薬24.7%・食品9.5%・石化4.0%・溶接2.5%
    • [96]1991年3月期の売上高1,374億円の事業別構成は油化32.0%・塗料27.3%・化薬24.7%・食品9.5%・石化4.0%・溶接2.5%
    • [97]事業部長に計画の決定権を与えて意思決定を早くし、競合と競う際に機動力を発揮できた
    • [98]1990年11月に神島郎副社長を委員長とする組織改革推進委員会を設け、1年かけて社員・顧客・代理店の合計210人、延べ290時間の聞き取り調査を行った
    • [99]1990年11月に神島郎副社長を委員長とする組織改革推進委員会を設け、1年かけて社員・顧客・代理店の合計210人、延べ290時間の聞き取り調査を行った
    • [101]事業部間に高い壁ができ、情報や技術を他の事業部へ出し渋り、人事異動もほとんどなく、入社して20年間同じ事業部に在籍する社員もいた
    • [102]事業部間に高い壁ができ、情報や技術を他の事業部へ出し渋り、人事異動もほとんどなく、入社して20年間同じ事業部に在籍する社員もいた
    • [103]単年度の収益目標の達成にとらわれ中長期的な投資に消極的となり、複数の事業部が同じ分野の研究を行う非効率が生じていた
    • [104]プラスチックの改質剤で油化事業部・石化事業部・化薬事業部化成品営業部の営業が同じ顧客を別々に訪問し、1回で済ませてほしいとの不満が顧客から続出した
    • [105]1991年11月1日に製品別の6事業部を指揮する経営企画室を新設した
    • [106]経営企画室は各事業部から部長・課長クラスの専任メンバー10人を集め、宇野泰常務が室長として指揮し、常務会のすぐ下に置かれた恒久組織とされた
    • [107]経営企画室は年1回、各事業部の内部資本金に対する資本金営業利益率の指標を示し、各事業部が作った単年度と向こう3年間の中期計画を練り直して修正を加える
    • [108]1992年4月に油化事業部・石化事業部と化薬事業部化成品営業部を統合して化学品事業部を新設し、その売上は総売上高の半分、人員は全従業員の3分の1に達した
    • [109]1992年4月に油化事業部・石化事業部と化薬事業部化成品営業部を統合して化学品事業部を新設し、その売上は総売上高の半分、人員は全従業員の3分の1に達した
    • [111]1992年3月期の売上高は1,375億円で前年並みにとどまり、経常利益は前年比22%減の61億円へ落ち込む見通しで、10年ぶりの大幅減益となる
    • [112]1992年3月期の売上高は1,375億円で前年並みにとどまり、経常利益は前年比22%減の61億円へ落ち込む見通しで、10年ぶりの大幅減益となる
  • 日油 有価証券報告書 第102期(2025年3月期)【沿革】
    • [94]1988年3月に決算期日を11月30日から3月31日に変更した
  • 日本企業要覧 1970年版「日油」
    • [100]1965年9月から独立採算の事業部制を実施していた
  • 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)
    • [110]1984年11月期の売上高は1,179億円

第3章 1994-2006 (気が向いたら執筆します!) 溶接・塗料事業の撤退とライフサイエンス・DDS事業の立ち上げ

第4章 2007-2026 (気が向いたら執筆します!) 日本油脂から日油への改称とDDS・機能材料への集中

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歴史年表 1937〜2024年

日油の沿革1937〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1937〜1969年4社合併から戦後分離独立、油脂主力期の構造危機日本油脂の発足(合同油脂・ベルベット石鹸・国産工業不二塗料製造所等の合併)★★
企業再建整備法に基づく第二会社としての分離独立と、日本油脂の再設立

1949年7月、日産化学工業は集中排除法と企業再建整備法の適用を受け、油脂・塗料・火薬・溶接棒に関する事業を継承する第二会社を分離独立させた。社名は1937年から1945年まで使っていた日本油脂を踏襲し、本社は日本橋の白木屋に置かれた。存続会社には肥料を中心とする化学部門が残り、現在の日油はこの第二会社を法人上の設立としている。

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★★★
連続赤字下で踏み切った新工場の建設と主力事業の入れ替え

1956年11月期から三期続けて当期損失を計上した日本油脂は、赤字を抜けたのち、1961年に川崎市へ千鳥工場を新設して石油化学の分野へ進出した。油脂を出発点とする化学から石油系原料を扱う設備へ手を伸ばし、あわせて冶金機械・潤滑油添加剤・塗料にも投資を並べた再建であった。

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★★★
石油化学事業に参入★★
1970〜1993年事業部制で広げた間口と化学品事業部への統合帝国火工品製造を吸収合併★★
DIAMOND SHAMROCK社と合弁で日本ダクロシャムロックを設立
大分工場を新設
川越工場を分離し日油技研工業を設立
筑波研究所を新設
DIAMOND SHAMROCK CHEMICALSと合弁METAL COATINGS INTERNATIONAL INC.を設立
決算期日を11月30日から3月31日に変更
NOF AMERICA CORPORATIONを設立
1994〜2006年溶接・塗料事業の撤退とライフサイエンス・DDS事業の立ち上げ美唄工場を閉鎖し子会社へ業務移管
ベルギーにNOF EUROPE N.V.を設立
ジャペックスを合弁設立
日本工機の発行済株式95%を取得★★
新規事業開発部を「ライフサイエンス事業部」へ名称変更
タセトへ溶接事業を譲渡し溶接事業部廃止・神明工場閉鎖★★
塗料事業をBASF系合弁へ営業譲渡★★
「DDS事業開発部」を新設★★
2007〜2026年日本油脂から日油への改称とDDS・機能材料への集中大池弘一社名を「日本油脂」から「日油」に変更
大池弘一「機能フィルム事業部」を新設、「DDS事業部」へ名称変更
大池弘一日油技研工業を株式交換により完全子会社化
大池弘一日油(上海)商貿有限公司を設立
小林明治「機能フィルム事業部」と「電材事業開発部」を統合
小林明治「ディスプレイ材料事業部」を新設
小林明治NOF EUROPE GmbHを設立
宮道建臣「ディスプレイ材料事業部」を「化成事業部」に統合
宮道建臣「機能材料事業部」を新設
宮道建臣「ライフサイエンス事業部」と「DDS事業部」を統合
沢村孝司北海道日油を日本工機に吸収合併
出典・参考 11件
出典・参考
  • 日油 有価証券報告書 第102期(2025年3月期)【沿革】
  • 株式会社年鑑 1953年版「日本油脂」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「その他化学・日本油脂」
  • 上場会社総覧 1959年版(単体・半期合算)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 日本油脂 会社年鑑(単体・半期業績)
  • 日経ビジネス 1992年3月2日号
  • 証券 1949年
  • 日本企業要覧 1970年版「日油」
  • 日本企業要覧 1975年版「日油」
  • 日本企業要覧 1980年版「日油」

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