山口県宇部において、渡辺祐策氏(宇部興産・創業者)を中心に地元の人々(村人)が出資する形で「沖ノ山炭鉱」を匿名組合として設立。宇部で産出する石炭の採掘業を開始した。
宇部周辺においては、瀬戸内海の海底を含めて石炭を豊富に存在しており、明治時代から終戦直後まで石炭採掘は宇部における主要産業として育ち、1949年までに「沖ノ山、東見初、山陽無煙、本山、長澤、西沖ノ山」の6箇所の炭鉱で採掘を実施。これらの経緯から、宇部興産は「石炭」が祖業に相当し、1950年代までは日本を代表する石炭会社の1社として知られた。
創業者の渡辺祐策氏は、将来的に石炭が枯渇することを見据えて、宇部において石炭以外の産業を根付かせるために経営の多角化を志向した。
1914年に炭鉱向け機械を製造するために宇部新川鉄工所を設立したことを皮切りに、1923年には宇部セメント製造、1933年には宇部窒素工業を設立して「機械・セメント・化学」の3領域に進出した。これらの会社は宇部の人々の出資により設立され、宇部の発展のために経営された。
戦時中に日本政府は企業合同を主導したため、宇部セメント製造が他社と合併する可能性が浮上した。これに対して、宇部で発祥した主要4社を合併して国策統合を回避する方向性を志向した。
1942年3月に4社(沖ノ山炭鉱・宇部新川鉄工所・宇部セメント製造・宇部窒素工業)が合併して宇部興産を設立。石炭事業を主力としつつ、宇部において多角的に事業を展開する企業として発足した。
(創業者の渡辺氏は)常に先へさきへとものを考える人だったので、炭鉱の将来についても、非常に厳しい見通しを持っていた。
「炭をナマで出すことはいけん。石炭を使って事業をおこさにゃあ。炭を掘り尽くせば、また元の農漁村になってしまう。そうなったら宇部の町は滅びたも同然じゃ。炭を掘れるうちに、関連企業をやるんじゃ。そして宇部の繁栄は宇部の人間で築くんじゃ」とおりにふれ、会う人ごとに言っておられたそうだ。
今でこそ、宇部といば、産業都市として大発展を遂げ、その名も知られているが、当時は、山口県でも辺鄙の1寒村に過ぎなかった。渡辺さんが資本金4.5万円の匿名組合・沖の山炭鉱を創業したのが明治30年。最初の株主は全て村人だった。つまり、組合員が出資者であると同時に、従業員でもあるという、独特の共同組織体で経営を始めたのである。したがって、宇部における企業は、宇部人のための企業であり、宇部の人の利益に奉仕するものでなければならないという大原則が、初めから存在していた。
1949年に東京証券取引所に株式を上場。1950年4月期における売上高の構成は「石炭3.0億円・硫安2.5億円・セメント0.8億円」であり、多角経営を志向しつつも石炭が主力事業であった。
従業員の内訳についても、石炭部門が約12,000名、肥料部門が約4000名、セメント部門が約1000名、機械部門が約800名であり、石炭部門が最大勢力であった。このため、1949年の上場時点における宇部興産は「炭鉱会社」として認知された。
化学事業における多角化の一環として、合成繊維ナイロンの原料である「カプロラクタム」の生産を開始。販売先は日本レイヨン(ユニチカ)であった。
1960年前後から日本国内においてエネルギー革命が進行。原油の輸入自由化によって、エネルギー源としての石炭の競争力が喪失し、高コスト体質な国内の炭鉱メーカーは企業の存続が厳しい状況に陥った。ただし、石炭産業の従事者数が多く、全国各地でストライキや炭鉱閉鎖の反対運動が活発化するなど、石炭を取り巻く厳しい環境は社会問題となった。
この過程で、財閥系を含む、国内全ての炭鉱会社が、ほぼ全て経営危機に陥った。
石炭産業の趨勢が厳しい中で、宇部興産も石炭からの事業撤退を開始。1957年から石炭部門の人員のうち約7000名について多角化事業への配置転換を実施。残りの従業員についても退職による減少となり、1970年代までに石炭事業の従事者数は0名となった。
撤退の過程で、宇部興産でも石炭部門から存続を求める声がボトムアップで上がった。経営陣は石炭の将来性を見限っていたが、現場の声に押されて、常磐炭田への進出を決定。相応の設備投資を実施したが出水が多いことなどにより成果を得られず失敗。この投資により、化学部門などの多角事業への投資が抑制されてしまった。
この点に関しては、宇部興産の経営陣は、のちに後悔の念を述べている。
1960年代を通じて宇部興産は紆余曲折を経つつも石炭事業の撤退を遂行し、1970年代までに石炭事業からの完全撤退を完了。多角事業(化学・セメント・機械)に注力する体制を整えた。
国内の炭鉱会社の多くが消滅ないし事業規模を大幅に縮小する中で、宇部興産は多角化により売上を拡大した数少ない企業となった。
企業が進むべき方向と、社員の目指す方向とがいつも同じなら、問題は生じない。しかし転換期には往々にして両者の間にズレが生じる。例えば、環境が激変し、ある部門が業容の縮小を迫られたとする。当然のことながらその部門の社員たちは挽回を図ろうと意欲を燃やす。だから、その部門の勢力が強いほど、企業の転換は遅れがちになる。そういう場合、トップは社員の意欲に惑わされず、冷静な判断を下すべきなのだが、それは言うべくして実際には容易ではない。
実を言えば、当社は昭和20年代後半に非常に苦い経験をしている。その頃、当社の主力炭鉱だった宇部の冲ノ山炭鉱は鉱脈が薄くなり、採算が急速に悪化し始めた。危機を感じた石炭部門では、現場の坑夫と本社のスタッフとが一緒になり「鉱脈の豊かな常磐炭田に進出しよう」と社内で運動し始めた。常磐炭田に大きな希望があったわけではない。彼らは自分の職場と現在の地位を守ることだけに必死だったのだ。