1920年代に、三菱合資会社の社員であった池田亀三郎氏は、三菱本社に対して化学事業(石炭化学)に参入することを提案。長らく実現しなかったが、1934年に三菱財閥は化学への参入を決め、発案者である池田亀三郎氏を新規事業の担当者として任命した。
池田亀三郎氏は、下記の条件を提示し、三菱の創業家が要求を認めたことで、化学事業の立ち上げを引き受けた。
・会社を成長させるべく「三菱」の称号を用いないこと
・銀行借入によって事業を拡大すること
・10年間は赤字を許容すること(配当なし)
これらの要求を創業家は許容した。これは、三菱財閥としては、化学分野において「三井・住友」の両社に対して出遅れており、挽回のためにも積極投資を許容したものと推定される。
そして1934年に三菱鉱業と旭硝子の共同出資により「日本タール工業(のちの三菱化成)」を設立。初代社長は空席扱いとし、経営トップに発案者である池田亀三郎氏が「常務」として就任した。
創業工場の建設にあたって、池田亀三郎氏は100万坪の敷地の確保を目指した。そこで、三菱財閥が製鉄所建設を予定して確保していた北九州市の黒崎地区に立地を決定。
もともと三菱財閥は製鉄所への参入を計画した時期があり、黒崎に60万坪の土地を取得したが、第一次世界大戦の終結による不況を受けて計画を中止。その後は約10年以上にわたり、利用用途が見つからずに放置されていたが、石炭化学への進出を受けて、黒崎にあった「空き地」を活用することを決定した。このため、100万坪には及ばなかったが、相応の面積を確保するに至った。
このため、日本タール工業は、会社設立時点から広大な工場の敷地を確保することに成功。総合化学メーカーとして増産や生産品目を拡大するうえで、広大なスペースが効果を発揮した。
「コークス」および副産物である「染料」の製造を開始した。このため、創業期における大口顧客は、八幡製鉄所(製鉄で使用するコークスの販売)であった。
なお、戦前の北九州地区は石炭産地であり、北九州には八幡製鐵所が存在して製鉄メーカー向けの石炭の需要も旺盛に存在することから、黒崎は石炭化学の事業展開の上で必要な立地条件が揃っている土地であった。
1939年以降、日本タール工業は「染料・薬品・肥料」の生産に従事し、石炭原料による化学製品(無機化学)の製造に従事した。これらの複数の生産品目を、広大な面積をもつ黒崎工場の1箇所で行うことによって、戦前を通じて総合化学メーカーへと発展。戦前には「コークス部門」「無機部門(染料など)」「有機部門(アンモニアなど)」の3部門を抱えた。
私は石炭化学の重要性を痛感し、欧米旅行から帰るとすぐにその趣意を三菱本社に訴えたが、それが10年目で日の目を見たのだ。(略)ある日、大先輩の三谷一二さんが来られて「お前、一つ石炭化学をやれ」と言われた。それからまもなく総帥の岩崎さん(注:三菱財閥の創業家)にも言われ、どうせ私が言い出しっぺなので、引き受けることにした。(略)
私は岩崎さんにお願いした。「社名の件と、資金は借金主義でやらせていただきたい。それからあと10年は利益が出ないかもしれないし、また出さないかもしれないから配当には期待しないでください」と。さすがにあまりいい顔はされなかったが、翌日「池田君、昨日の話は全部君の意見に任せるよ」という。そのとき私は、喜びで胸がいっぱいになると同時に、岩崎という人は大きい人がだなあと、心から打たれた。
次は工場の敷地だ。私はどうしても100万坪欲しかった。原料を輸入したり、製品を輸出したりするんだから海に近くなければならない。また石炭化学だから、炭鉱も近くなければならない。そこで目をつけたのが黒崎である。ここはかつて三菱が製鉄所をやろうとして買ったものらしいが、結局、場所はそこになった。
こうして日本タールが発足し、この日本タールが昭和11年に日本化成と社名変更し、さらに19年、三菱化学と名乗り、ここにはじめて「三菱」の名を出したのである。
戦後の財閥解体に伴う企業再建整備令に基づき、三菱財閥であった「三菱化成」について会社分割を決定。1950年6月に旧三菱化成を「日本化成」「旭硝子」「新光レイヨン」に分割し、化学部門は「日本化成」に継承された。同社は、1952年に財閥商号の利用解禁を受けて三菱化成に商号変更し、三菱財閥における化学事業会社として経営された。
なお、新光レイヨンは三菱レイヨンに商号を変更し、2010年に三菱化成が再び連結子会社化を実施しており、約半世紀後に三菱化成の傘下に戻る形となった。一方、旭化成はガラス事業として、三菱化成とは独立して経営されて現在に至る。
三菱化成の再発足により継承された事業のうち、終戦直後の主力事業であったのが「硫酸アンモニウム」の製造であった。戦後の食糧難による肥料の増産が国家的に遂行され、原料となる硝酸アンモニウムの需要が増加したことで、三菱化成も増産で対応した。
1950年代後半には生産品目を「合繊繊維材料」「可塑剤原料」に参入し、総合化学メーカーとして業容を拡大した。ただし、これらの原料は非石油であり、1950年代の時点で三菱化学は「石油化学メーカー」ではなかった。
1994年に三菱グループにおける石油化学2社「三菱化成」と「三菱油化」が合併して三菱化学を設立した。エチレンプラントとしては、旧三菱化学の「水島工場」、旧三菱油化の「四日市工場」「鹿島工場」の3拠点が継承された。
合併に至った背景は、石油化学製品(エチレン)の過剰生産に対処するため、設備廃棄を伴った減産を行うためであった。もともと、三菱グループ内では、1950年代から三菱油化がエチレンプラントを新設し、1960年代からは三菱化成も「水島工場」を新設して石油化学に進出した結果、長らく「三菱油化」と「三菱化成」が競合するという問題に直面。そこで、長年にわたる競合問題を解決しつつ、生産量を適正化するために合併に至った。
1956年に三菱グループ企業とシェアルグループの共同出資により三菱油化を設立し、三菱財閥として石油化学に参入した。共同出資の形式をとった理由は、コンビナートの形成には欧米メジャーの技術が必要であったことや、莫大な投資負担を1社では背負いきれないためであった。このため、三菱グループとしての石油化学への参入は「三菱化成」ではなく、「三菱油化」の設立によって実施された。
1959年に三菱油化は四日市にエチレンプラントを新設して、石油化学メーカーとして事業を開始。1965年までに誘導品にも参入し、化学メーカーとして生産品目を拡大した。また、1964年には関東地区における拠点新設のために、鹿島への進出を決定。1971年に鹿島工場(第1期)を新設し、石油化学メーカーとして業容を拡大していた。
しかし、1973年のオイルショックを機に業界全体でエチレンの過剰生産が顕在化し、三菱油化としても設備投資をストップ。業績が低迷するに至った。
子会社のMKMを通じて、光ディスクの色素製造事業を展開。担当責任者であった小林喜光氏は、海外メーカーとの価格競争が激化したことを受けて、2001年からは自社製造ではなく製造の特許実施権をグローバル(台湾メーカーなど)に付与することでロイヤリティ収入を確保。収益性を改善し、2003年にMMKは年間150億円の営業利益を確保した。
記録メディア事業の連結経常利益推移を振り返って見ると、2000年にがたっと落ちています。台湾勢やインド勢との争いによって価格が急落し、年間で約50億円の赤字が出ました。しかしその後、最終的には2003年に150億円の営業利益へとひっくり返すことが出来ました。
ここまで挽回出来たのには新しいビジネスモデルを構築したことが大きい。「新しいビジネスモデル」という呼び方には正直「後付け」の感もありますが、人間、必死になると色々と知恵が出るものです。以前とはまったく逆の施策を打ちました。
そもそもDVD-RやCD-Rの事業では、情報を記憶させる素子となる「色素」がポイントなのですが、以前はそれを売らずに自社で囲い込んで製造していました。それをすべて、相手が台湾であろうがインドであろうがどこへでも売ることに変更しました。彼らに「色素」を売ってディスクをつくって貰う。そこで「色素」の売上や、ディスク製造技術供与のロイヤリティ収入を稼ぐんです。そして最終的に出来た商品は、つまりディスクですが、それをまた自分のブランドで売って、さらに稼ぐというモデルへ転換していきました。