東洋高圧工業は1933年4月1日、三井鉱山が大牟田に建てる硫安工場の担い手として、資本金2,000万円で発足した。当時の硫安の国内消費は年約85万tに対し国内生産は65万tで、不足分は輸入に依存していた。三井鉱山は同年2月、原料をコークス炉ガスに代えてコークスとし、1,400万円を投じて年産12万tの設備をつくる方針を固めた。水素はデュポンの加圧触媒転化法に拠ることにし、30万ドルの導入費に対して硫安1t当たりの原価が約11円下がる見通しを立てた。会長の牧田環氏が後年振り返ったとおり、技術面だけなら会社を分ける理由はなかった。それでも三池窒素の増設ではなく別会社を選んだのは、新しい工業に4年間認められる所得税と営業税の免除が狙いで、103万円の差が出ると試算されていた。
三井化学工業は1941年4月、三井鉱山の化学部門と目黒研究所を切り離し、資本金8,000万円で設立された。発端は1940年8月に置かれた三井総元方で、その企画部委員会が同年10月4日に新会社の設立を答申した。答申は、三池染料工業所も東洋高圧も三井鉱山の機構のもとでは伸びる余地が尽きたとみた。化学部門をまとめて独立させれば、三菱重工業や住友金属工業に並ぶ化学会社を組めるという読みだった。三井物産と三井鉱山が化学に投じた額は、この時点で合わせて1億3,707万円に積み上がっていた。資本金は当初1億円の計画だったが、大蔵・商工両省が有機合成と医薬品の新規事業を認めず、8,000万円に減らして発足した。会長には、三井同族のなかで化学工業に関心が深く、設立に大きく関わった三井高修氏が就任した。
大牟田の工場は1945年8月7日の爆撃で水道と送電を断たれ、終戦直前のアンモニア生産は平時の1割に低下していた。食糧増産のため肥料の増産が国策となるなか、常務の石毛郁治氏が1947年2月8日、公職追放で空席となった社長に就任した。北海道の砂川工場では建設中の硫酸工場が賠償に指定され、行き場を失うアンモニアを肥料用の尿素に振り向けることにした。それまで薬品用に日産数tしか作られていなかった尿素を硫安並みの値で量産する計画で、1948年8月に製品が出た。1950年11月には大牟田工業所にも年産1万5,000tの尿素設備が完成し、北海道分を加えた尿素の能力は年産3万3,000tに達した。尿素はこの後、東洋高圧の主要な収益源となった。
三井化学工業は1951年4月、名古屋に8億6,000万円を投じた塩化ビニル工場を動かし、タール系の有機合成にアセチレン系を加えた。塩化ビニルは戦後、ゴムや皮革、繊維の代わりとして使い道が急に広がり、戦時中に合成ゴムで積んだアセチレン化学の経験も生かせた。1949年6月に三池染料工業所で月産1.5tの試験生産を始め、翌月には米国のAFEと技術情報の契約を結んだ。本格工場を大牟田に置かなかったのは、九州では余剰電力が乏しくカーバイドを確保しにくいうえ、輸送の条件も悪かったからだった。全国6か所を比べた末に大同製鋼星崎東工場の跡を選び、カーバイドは揖斐川電気から全量を受ける契約を結んだ。本格生産に入った1951年には、国内の塩化ビニルメーカーは18社に達していた。
三井石油化学工業は1955年7月1日、三井系7社と興亜石油の出資により資本金2億5,000万円で発足した。起点は、三井化学工業社長の石田健氏が1954年末からの欧州行きで結んだチーグラー法ポリエチレンの独占特許契約で、特許料は120万ドルに上った。原料のエチレンを石油の分解で得るには装置だけで巨額の資金が要り、三井化学工業の単独事業ではリスクが大きいと判断された。通産省も岩国で先行していた三池合成の計画に対し、三井化学工業・東洋高圧との共同事業化を強く求めた。三井化学工業は1955年3月に単独での企業化をやめ、三井系各社の共同事業に切り替えた。発起人代表には石田健社長が立ち、新会社の社長を兼ねた。
三井石油化学工業は1958年4月、山口県岩国の旧陸軍燃料廠の跡地で、総合石油化学工場の操業に入った。国内初となるこの工場の用地は、1955年8月26日の閣議決定で31万9,000m2の払い下げが決まっていた。隣の興亜石油から分解原料油と熱分解ガスを受けられることが、岩国を選んだ前提だった。操業時のエチレン能力は年産2万tで、そこから誘導品までを一つの工場で一貫してつくる構成をとった。技術の大半は外から入れ、エチレン・プロピレンは米国ストーン・アンド・ウェブスター社、ポリエチレンはチーグラーの特許に拠った。工場は従業員600人足らずで年100億円を生産する見込みだったという。
三井石油化学工業は1961年3月、岩国に隣接する広島県大竹市の旧海兵団用地で第二次計画の建設を始め、1962年に完成させた。二度の計画で投じた設備資金は417億円に達し、岩国・大竹の能力はエチレン系製品で年8万tとなった。1961年度の売上高は131.4億円で、三菱油化の102.6億円を上回り業界首位に立った。一方で1962年3月期末の長期借入金は166億9,222万円と、資本金40億円の4倍を超えた。同年10月5日に東京・大阪両証券取引所の第二部へ上場し、公募を含む増資で資本金を50億円とした。同じ年の経済誌は、岩国・大竹を参加企業が少なく四日市より小ぶりなコンビナートと評した。借入に依存した設備拡張を続けるため、株式市場からの資本調達に踏み切ったと推察される。
三井石油化学工業は1967年3月、千葉県市原市の千葉工場でエチレン年産12万tの設備を動かし始めた。製品需要の半分以上が関東にあり、需要地で作れば岩国大竹から運ぶより輸送を合理化できた。用地は三井物産の勧めで五井姉崎の埋立地に決め、1961年5月に東洋レーヨンなどと並んで千葉県と分譲契約を結んだ。12万tは当時の国内で最大の規模で、西の岩国大竹と東の千葉の2拠点から製品を出せるようになった。ところが同年6月、通産省はエチレン設備の基準を年産30万tへ引き上げた。この局面で舵を取った社長は、東洋レーヨン出身の岩永巌氏だった。三井石油化学工業は単独での増設を避け、1967年11月に日本石油化学と折半で浮島石油化学を設立した。
三井化学工業は1962年4月に三池合成を合併し、戦時中に分かれていた三井系の石炭化学を一つに戻した。東洋高圧も1963年3月の長期経営計画で、三井系化学の合同を前提に堺での総合石油化学に注力する方針を定めた。ところが1965年の不況で三井化学工業の業績が悪化し、1966年11月29日に東洋高圧会長の石毛郁治氏が三井化学工業の社長に就任した。1967年6月に通産省がエチレン30万t基準を定めると、泉北の計画には誘導品まで含む巨額の投資と企業規模が必要になった。同月20日、東洋高圧社長の野村末一氏らと石毛郁治社長らが会談して合併に基本合意し、7月に基本覚書を交わした。三井化学工業は石油化学を別会社に出したことで自らの成長を鈍らせたと、1968年刊の企業史は評した。
三井東圧化学は、1968年10月1日に東洋高圧工業が三井化学工業を吸収合併し、商号を改めて発足した。旧三井化学の株式1株に新会社の株式1株を割り当て、社長には東洋高圧の野村末一氏が就任した。合併前の主な収益源は東洋高圧が化学肥料、三井化学が石炭系の化学品で、どちらもナフサ分解の設備を自前で持っていなかった。1967年6月にエチレン設備の新設基準が年産30万トンへ引き上げられ、両社の首脳はその直後の6月20日に早期合併で合意した。別々に投資するより、同じ三井系として一体で石油化学に参入するほうが効率的だという判断だった。発足時の売上高は、化学会社のなかで三菱化成、住友化学に次ぐ3位に並んだ。
合併で得た規模は、大阪・泉北に築く石油化学コンビナートへ振り向けられた。中核の大阪石油化学は関西石油化学グループとの共同出資で、年産30万トンのエチレン計画は1968年4月8日に通産省の認可を得た。認可に先立ち、三井化学・東洋高圧・三井石油化学工業など三井系5社は、両社の早期合併と三井石化との連携強化を通産省に約束していた。三井石化も1968年11月に泉北酸化エチレンへ70%を出資し、計画に加わった。泉北の各社は1970年4月に営業運転へ入り、5月14日に合同完工式を挙行した。一方で三井東圧はグループ内の競合を避けるためポリエチレンへ進出できず、余るエチレンを外へ売り、足りないプロピレンを他社から融通された。
泉北の操業開始から間もなく、三井東圧化学は1971年9月期に欠損を出して無配に転じた。石油化学と大型肥料設備への投資で借入金が膨らみ、1970年9月期から1972年9月期までは純金利負担が営業利益を上回った。第1次石油危機の前後に肥料と化学品の品不足で収益が戻り、1974年度上期に年1割の配当を再開した。ただ、この回復を支えた尿素輸出は、1976年に入ると数量・価格とも低下した。1976年度に再び無配となり、1977年1月に急逝した末吉俊雄社長の後を副社長の松葉谷誠一氏が継いで減量経営を進めた。同じ1977年1月には千葉工業所のアンモニア・尿素設備の1系列を止め、肥料から生産の縮小に着手した。
原料高が続くなかで、三井石油化学工業は自社開発の製造技術を競争優位の源に据えた。ポリプロピレンでは他社が米ハイモントの完成技術を導入したのに対し、自社の高密度ポリエチレン技術を土台に独自の製法を固めた。1975年にハイモントと互いの技術を使える提携を結び、翌1976年には生産効率を従来の20倍に高めた製法を確立した。同じ1976年の12月にはポリマー応用研究所を新設し、樹脂の用途開発を研究部門に加えた。一方、1975年度の本業は国内需給の崩れで減産を強いられ、43億7884万円の損失を計上した。ナフサは1970年の1キロリットル約6000円から、1979年末には約5万4000円へ上がった。淡輪就直社長は1980年の年頭、技術力を80年代の競争の焦点に掲げた。
第2次石油危機のあと、汎用樹脂の過剰設備は業界単位で整理されることになった。1983年5月施行の特定産業構造改善臨時措置法(産構法)は、エチレンやポリオレフィンを特定産業に指定した。施行に先立ち、審議会の小委員会はエチレンで36%の設備処理が要ると見積もっていた。1983年7月1日、三井石油化学工業は三井東圧化学、日本石油化学、三井ポリケミカルと均等に出資し、共同販売会社の三井日石ポリマーを設けた。三井東圧のポリプロピレンは需要が伸びていたため、処理の対象にならなかった。1981年6月に社長となった笠間祐一郎氏のもとで塩化ビニルなど3樹脂を大阪工業所へ寄せ、広島・大竹のコンビナートは閉じて売却した。
エチレンの設備処理で、三井石油化学工業は生産を浮島石油化学へ一本化した。浮島石油化学は、1967年に日本石油化学と折半出資で設けた会社だった。両社は1983年10月、浮島へエチレン生産を集める事業提携計画をつくり、通産大臣の承認を得た。1984年から1985年にかけ、岩国大竹工場で8万7000トン、千葉工場で14万3000トンのエチレン設備を廃棄した。集約で生じた処理枠のうち2万3000トンは、1系列しか持たない大阪石油化学に回した。1985年3月末に計画を終え、千葉は基礎化学品、岩国大竹は特殊化学品の拠点に改められた。炉を1か所に寄せれば、残す設備の稼働率を保ったまま処理量を満たせると判断したのだろう。
エチレンを浮島へ寄せた同じ1985年の10月、三井石油化学工業は「超石油化学」を目指す経営ビジョンを打ち出した。ビジョンの重点は事業の多角化、高付加価値化、国際化で、1987年10月には袖ケ浦研究開発センターを開設した。1987年には米エクソンケミカルと組み、メタロセン触媒でポリエチレンをつくる技術の共同開発に着手した。1992年に商業化のめどが立ち、1995年4月からは宇部興産へ技術を供与して休止中の同社設備で量産に入る段取りを整えた。研究開発には売上高の約7%を投じ、技術供与で得る技術料は1987年以降、毎年50億円を超えた。汎用品の販売量が減少した1993年3月期には、営業利益129億円の半分近くを技術料で稼いだ。
同じころ三井東圧化学は、汎用品の合理化を終えて新規事業に資金を回し始めた。1985年度に累積損失を一掃し、1986年度の復配で長い再建に区切りをつけた。1981年に社長となった笠間祐一郎氏は、合併時に約1万2000人いた人員を5500人前後まで減らした。会長に退く際には、技術系の沢村治夫氏を後任の社長に選んだ。1987年度は研究開発に170億円を投じ、その7割強を機能製品とバイオに充てた。電子材料など3分野の新規製品は、1982年3月期の32億円から1988年3月期に450億円へ伸び、売上高の12%強に達した。1991年には世界的な総合化学企業を目指す21世紀ビジョンを定めた。
汎用樹脂の単独運営は1990年代に入って一段と難しくなり、三井石油化学工業は1995年10月に宇部興産とポリプロピレン事業を統合した。折半出資でグランドポリマーを設け、物流費と開発費を削減して国際競争力を高める狙いだった。ポリプロピレンなどにかかる保護関税は2005年までに軽減される予定で、海外品の流入が見込まれていた。三井東圧化学との合併は1992年ごろに検討されたものの、存続会社をどちらにするかで折り合わず凍結された。1993年6月に社長となった幸田重教氏は、凍結中の合併を変革の最大の課題に据えた。1995年3月期の連結売上高は三井石化が3613億円、三井東圧が4955億円で、合わせても8500億円程度にとどまった。
1997年10月、三井石油化学工業は三井東圧化学と合併し、商号を三井化学に改めた。規模を求めた合併だったが、1999年3月期の連結売上高は8559億円で、1兆円を超える三菱化学や旭化成工業に届かなかった。会社は発足後の3年間を合併効果の実現に充てた期間と位置づけ、1998年度の経常利益を439億円と示した。2000年度には、売上高9500億円・経常利益500億円まで伸ばす見通しを立てた。描いたのは、石油化学・基礎化学と機能性材料を2本の柱とし、製品と技術の相乗効果を追う総合化学の形だった。二つの三井系が統合したのは工場や販路にとどまらず、単独では過当競争から抜け出せない汎用品の塊だったとみられる。
1999年6月、合併準備を率いた副社長の中西宏幸氏が社長に就任した。中西宏幸氏は三井石化の予算管理で設備維持費を140億円から70億円へ半減させた人物で、合併後は整理の旗を振った。就任直後、中西宏幸社長は方針をこう語った『今後は機能性樹脂などの中核となる事業に焦点を絞り、今年中に不採算事業の再編など後ろ向きの仕事にめどをつける。そして、来年からは前向きの改革へアクセルを踏み込む』。研究拠点は1998年4月の10地区1456人から、2001年3月には7地区1350人に減った。工場は8から5へ絞り、電解の停止や三井製薬の日本シェーリングへの譲渡など、不採算事業の手放しも重ねた。攻めに転じる前に、固定費と不採算品の削減を先に済ませる順序を選んだのだろう。
2000年11月17日、三井化学は住友化学工業と事業統合の基本合意書を結んだ。グローバルな競争が激しくなるなか、全面統合が企業価値を高める最善の選択だと両社は判断した。まず2001年10月に汎用樹脂を統合し、2003年10月までに全面統合する段取りだった。両社のキャッシュフローを足すと世界の化学で5位に入る計算だったが、首位のBASFとの差はなお大きかった。ポリプロピレンの能力も、BASFとシェルの合弁の年640万トン前後に対し、両社計で165万トンにとどまった。三井化学は2001年3月の中期経営計画で、2003年度に売上高1兆1500億円を置き、その先に住友化学との統合を据えた。
住友化学との統合を待つ間の2001年4月、三井化学は武田薬品工業とポリウレタン材料事業を統合し、三井武田ケミカルを設立した。2001年度の中期経営計画は機能性材料分野に1200億円の投資を充て、その筆頭に同社の設立を置いた。同じ計画には、大牟田工場でのTDIの増強と、韓国の錦湖三井でのMDIの増強も並んだ。住友化学のプロピレンオキサイドを三井のポリオール原料へつなぐ一貫生産も、統合の相乗効果に数えられた。増強は統合の行方と切り離して進み、2003年8月には同社の鹿島工場で新しいTDI設備が商業運転に入った。統合が成っても流れても、ウレタン原料で国内の主導的な位置を確保できる布陣だったと推察される。
2003年3月31日、三井化学と住友化学は、同年10月に予定した全面統合を見送ると発表した。分科会を設けて準備を重ね、財務顧問も交えて協議したが、最も重要な統合比率で見解の隔たりが埋まらなかった。先行統合も遅れ、中期経営計画が2001年10月としたポリオレフィンの統合は、2002年4月の合弁設立にずれ込んだ。見送りを受け、三井化学は自社の立場を次のように示した『事業統合の見送りにともない、ある程度の戦略見直しは必要となりますが、基本戦略に変更はありません。』。住友化学とは個別事業の連携を探りつつ、互いの制約を受けず独立に運営すると定めた。同年は2001年からの3カ年計画の最終年で、会社はその成果を2004年度の計画へつなぐとした。統合を前提に組んだ戦略の骨組みを、単独のまま使い続ける選択だったといえよう。
単独に戻った三井化学は2004年2月3日、汎用樹脂の相手に出光グループを選び、包括提携の検討で意向書を交わした。同年5月17日には、出光興産・出光石油化学とポリオレフィン事業の統合で基本合意した。提携は石油化学のコストを構造から下げる策の一つで、分解原料の多様化やプロピレンセンター化と組になっていた。2005年4月、両社のポリオレフィン事業を統合したプライムポリマーが発足した。資本金は200億円、出資は三井65・出光35で、年産能力はポリプロピレン136万トン・ポリエチレン71.4万トンを見込んだ。同時期の4カ年計画は汎用品から機能品への移行を掲げ、2008年3月期に経常利益1000億円、うち機能材料で5割以上を狙った。
2008年、藤吉建二社長は2011年度を最終年とする4カ年の中期経営計画を出した。前の計画は4年間の累計営業利益3200億円に対し、実績が3081億円で終わった。機能性材料が営業利益の5割を超えた一方、起点となる2007年度の営業利益は772億円にとどまった。新計画の目標は、次のとおり置かれた『08中計では、2011年度に営業利益1,300億円、ROA7.5%を目指します。』。その先の2015年近傍には、営業利益1500億円以上・ROA10%以上を長期目標に掲げた。資源は機能性ポリマーズへ集中して投じ、農業化学品やビジョンケア、触媒をM&Aで第3の柱へ育てる構想だった。2009年4月には、三井武田ケミカルから改称した三井化学ポリウレタンを本体に吸収した。
2008年秋の世界同時不況で、主要顧客である自動車と電子情報材料の需要が急減した。2009年3月期は営業損失455億円、当期純損失952億円となった。2002年3月期から7期続いた連結純利益の黒字は、ここで途切れた。2009年1月から報酬や経費の削減、投資案件の見直しを始め、3月までに50億円を削減した。2009年、藤吉建二社長は会長に回り、田中稔一氏が社長に就任した。田中稔一社長は緊急対策の目標をこう定めた『まずは2009年度下期の黒字回復、次に、2010年度の黒字化定着を必達目標とする緊急対策を策定しました。』。2009年度に300億円のコストダウンを見込み、投融資も2年間で1320億円圧縮する計画だった。2010年3月期も純損失280億円を出したが、上期の営業損失190億円から、下期は営業利益95億円へ黒字化した。
田中稔一社長は不況下でも稼ぎを保った事業を次の収益源に選び、年報にその根拠を次のように記した『先端化学品事業における、農業化学品、ビジョンケアなどは、このような厳しい環境下においても安定的な収益を確保しており』。2009年4月、三共アグロと自社の農業化学品事業を統合し、原体と製剤を一体で担う三井化学アグロを発足させた。農薬では、2015年に売上高1000億円を達成する目標を置いた。有報の沿革は、両社の農業化学品事業の統合による同社の設立を2010年10月と記している。2011年3月期には営業利益405億円まで戻し、次の3カ年計画で戦略的M&A1000億円を含む3500億円の投融資を掲げた。市況に振られる汎用品の損益を、農薬と機能材料で支える方針が次の計画の前提になったと考えられる。
2012年3月期の三井化学は、営業利益216億円、当期純損失10億円で決算を終えた。2011年度の営業利益は上期の287億円から下期に▲71億円へ悪化し、PTAとフェノールの利幅縮小が基礎化学品セグメントを赤字にした。欧州金融危機でアジアの需要が急減したところへ、タイの洪水と歴史的な円高が重なった。最終損益を悪化させたのはリーマン・ショック以来赤字が続くポリウレタン材料事業で、第3四半期に減損処理を行った。連結の純損失は2009年3月期の952億円に続くもので、2013年3月期に81億円、2014年3月期に251億円と3期続いた。同じ年度にタイとブラジルの農薬会社へ資本参加していたが、市況製品の損失を埋める規模には遠かったとみられる。
赤字に転じた三井化学は、2012年度から経営資源を3つの重点強化分野に集め、その筆頭に健康・高齢化や食糧確保に応える高機能製品群を置いた。この分野はM&Aや提携で早く事業を広げる方針とし、同年度に韓国KOC社を買収してメガネレンズ材料を強めた。さらにメガネレンズ材料と不織布に続くヘルスケア材料の第3の柱として、歯科材料事業の大型買収を決めた。この時期の中期経営計画はポートフォリオ変革を掲げ、その中身は景気の波を受けにくい事業の比重を上げることだった。その動きとして、2013年6月にドイツのHeraeus HoldingからHeraeus Kulzerを含む歯科材料事業を買収し、同月には米国DENTCA社の株式も手に入れて、歯科の事業の土台を広げた。
2013年3月期は岩国大竹工場の事故と基礎化学品の市況低迷が響き、営業利益は43億円に縮んだ。事業再構築の特別損失も加わり、純損失は81億円に膨らんだ。同期の年報で当時の社長は『痛みを伴う改革をやり遂げる決断が出来るかどうか、これがマネジメントの責任だと思っている。』と記し、低収益の大型事業に手を入れる方針を示した。2014年2月に発表した大型市況製品の再構築では、インドネシアのPTA事業をBPへ売ることを決めた。千葉のフェノール25万トンと市原のBPAを止め、鹿島工場のTDIも閉じる計画だった。再構築の費用は約600億円に及び、2014年3月期の純損失は251億円となった。同年5月の14中期経営計画説明会で、新社長の淡輪敏氏は再構築の完遂と財務体質の早期改善を計画の使命に掲げた。
再構築を終えても、ポリウレタン材料は需要の停滞と中東・アジアの能力増強による供給過剰で、海外の市況が崩れたままだった。三井化学は2015年7月、韓国SKCとポリウレタン材料事業を統合した。受け皿として持分法適用の合弁会社Mitsui Chemicals & SKC Polyurethanes(MCNS)を設けた。国内では鹿島工場のTDI設備を止め、生産能力も削減した。業界再編について問われた淡輪敏社長は『キーワードは規模のメリットがあるのかないのかだと思います。』と答え、統合の効果は事業ごとに見極めるべきだとした。しかし事業を移した後も、MCNS向けの製造受託は市況の低迷で収益を落とした。この合弁は、7年後の2022年7月に解消した。
2016年、三井化学は2025年度までを見通す長期経営計画VISION 2025を策定した。計画が注力したのは、14中計で定めたモビリティ、ヘルスケア、フード&パッケージングの3つのターゲット事業領域だった。基盤素材は、産業と社会を支える事業領域として別に位置づけた。14中計は作り手の発想から市場の発想への転換を掲げ、最終消費者にとっての使用価値から製品とサービスを組み立てる方針をとっていた。VISION 2025は2016年度から10年間で成長投資1兆円を見込み、うち4,000億円を戦略投資に充てた。研究開発費も倍の700億円へ増やす計画だった。市況製品の値動きに業績を預ける体質から離れることが、この計画の狙いだったと思われる。
営業利益は2016年3月期に709億円まで戻った。淡輪敏社長はこのとき『2020年近傍での1000億円のターゲットも前倒しで達成できる確信を深めているところです。』と語った。実際に2017年3月期の営業利益は1,021億円となり、14中計が2020年近傍に置いた1,000億円を4年早く上回った。2019年の説明会では、基盤素材も再構築の結果、営業利益300億円近傍で安定する体質になったと説明した。他方で歯科材料は2018年3月期に、Kulzerののれん等の無形固定資産143億円を減損し、純利益を95億円押し下げた。東欧・ロシアでの社名変更の承認遅れとドイツでのアナログ製品の減販に、小型デジタル製品の立ち上げ遅れが重なったためだった。
VISION 2025が折り返し点を迎えた2020年6月、橋本修社長はポートフォリオ変革の速度を一段と上げる方針を示し、その最初の一手に、自動車向けに設計・試作・金型を手がける開発支援会社アークの完全子会社化を据えた。アークは2018年1月の公開買付けですでに三井化学の連結子会社となっており、2020年5月に株式交換契約を結んだうえで8月に完全子会社とされた。自動車産業の急変で顧客の要求が変わり続けるなか、素材の知識とアークの開発支援の知見を一体で動かす必要があるという判断だった。同じ説明会では、タフマーの能力増強や半導体向けEUVペリクルの新設備と並べて、アークの取得を成長投資の一覧に載せた。材料・設計・金型・試作をまとめて提供する、ソリューション強化の中核という位置づけだった。
2021年5月、三井化学は三井物産と共同で本州化学工業への公開買付けを始め、同社を非公開化したうえで9月に連結子会社とした。本州化学はクレゾール誘導品や特殊ビスフェノールで需要の伸びが見込まれ、機動的な設備増強と開発力の強化が課題とされていた。同じ年、三井化学は長期経営計画VISION 2030を新たに策定した。策定の背景は『VISION 2025 策定時から大きく変容した外部環境と、成長戦略の限界が見えつつある内部環境を踏まえ』と説明した。計画はライフ&ヘルスケア、モビリティ、ICTを成長領域とし、M&Aを含む資源を投じる方針を示した。一方で基盤素材はベーシック&グリーン・マテリアルズに組み直し、低収益事業の再構築を別の軸で進めた。
残る課題は、国内に抱えた石化設備の過剰だった。2025年9月の説明会で三井化学は、人口減と生活習慣の変化で国内のポリオレフィン必要能力が半減するとみて、再編は不可避とした。同時に、出光興産との合弁会社プライムポリマーに住友化学の国内PP・LLDPE事業を統合し、住友化学を株主に迎える案を出した。11月の説明会で橋本修社長は、千葉地区のクラッカーを2027年度に自社設備へ集約する協議が出光興産と進んでいると述べた。そのうえで『国内の石油化学企業は最終的には数社に収斂して行くものと見ており、その早期の実現に向け再編に取り組んでいきます。』と語った。汎用品を他社と統合して縮小し、成長領域に資源を回す構図は、2014年の再構築の延長にあるとみてよいだろう。
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|---|---|---|---|---|
| 1933〜1967年東洋高圧工業と三井化学工業の設立、三井石油化学工業による石油化学への進出 | 東洋高圧工業設立 | ★ | ||
| 三井化学工業設立 | ★ | |||
| 三井化学工業が名古屋工場操業開始 | ★ | |||
| 三井石油化学工業を設立 | ★★ | |||
| 岩国工場操業開始 | ★ | |||
| 安居喜造 | 岩国大竹工場へ拡張 | ★ | ||
| 安居喜造 | 東京証券取引所・大阪証券取引所2部に上場 | ★ | ||
| 岩永巌 | 千葉工場操業開始 | ★ | ||
| 岩永巌 | 浮島石油化学を設立 | ★ | ||
| 1968〜1996年三井東圧化学の発足とエチレン設備の縮小・浮島への集約 | 岩永巌 | 東洋高圧工業が三井化学工業を吸収合併し三井東圧化学に商号変更 | ★★ | |
| 鳥居保治 | 東京セロファン紙に資本参加 | ★ | ||
| 鳥居保治 | 独自触媒技術によるポリオレフィン技術を確立 | ★ | ||
| 中野精紀 | 構造改革によりエチレン設備を大幅縮小 | ★★ | ||
| 中野精紀 | エチレン生産を浮島石油化学に集約完了 | ★ | ||
| 竹林省吾 | エチレン生産の一極化と、汎用品からの脱却を掲げたビジョンの提示 1985年、三井石油化学工業が産構法に基づく過剰設備処理でエチレン生産を浮島石油化学へ全量集約し、同年10月に"超石油化学"を掲げる経営ビジョンを打ち出した経営判断。汎用の量産型石油化学から、特殊化学品と機能性素材へ事業構造を転換する転機となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 竹林省吾 | 新技術研究開発センター設置 | ★ | ||
| 竹林省吾 | Mitsui Toatsu Chemicals (Asia) Pte.Ltd.設立 | ★ | ||
| 竹林省吾 | Mitsui Petrochemical Industries Europe GmbH設立 | ★ | ||
| 幸田重教 | 宇部興産との折半出資でグランドポリマーを設立 | ★ | ||
| 1997〜2011年三井化学への合併と武田・出光との事業統合による誘導品の再編 | 佐藤彰夫 | 三井東圧化学と合併し三井化学に商号変更 | ★★ | |
| 佐藤彰夫 | 三井化学(上海)有限公司設立 | ★ | ||
| 中西宏幸 | 武田薬品工業のポリウレタン材料事業を統合し三井武田ケミカル設立 | ★ | ||
| 中西宏幸 | 業界再編を狙った合意の解消と、単独路線への引き返し 2000年に発表された三井化学と住友化学の全面的事業統合。実現すれば三菱化学を抜き国内最大級の総合化学会社が生まれるはずだったが、2003年3月に統合比率で折り合えず白紙撤回された。 詳細を読む | |||
| 中西宏幸 | Advanced Composites Inc.発足 | ★ | ||
| 中西宏幸 | 大阪証券取引所1部上場廃止(東京証券取引所1部上場は継続) | ★ | ||
| 中西宏幸 | 出光興産とのJVプライムポリマーを設立 | ★★ | ||
| 藤吉建二 | 三井化学ポリウレタンを吸収合併 | ★ | ||
| 田中稔一 | 三共アグロの農業化学品事業を統合し三井化学アグロ設立 | ★ | ||
| 2012〜2026年連結純損失から歯科材料・農業化学品への事業入れ替え | 田中稔一 | 初の連結純損失計上 | ★★ | |
| 淡輪敏 | 収益力大幅回復 | ★ | ||
| 淡輪敏 | Heraeus Kulzerの歯科材料事業を買収 | ★★ | ||
| 橋本修 | 橋本修氏が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 橋本修 | SKC Co. Ltd.とポリウレタン材料事業を統合 | ★★ | ||
| 橋本修 | アーク・本州化学工業を子会社化 | ★ | ||
| 橋本修 | SKCとのポリウレタンJVを解消 | ★ | ||
| 市村聡 | 市村聡氏が代表取締役社長に就任予定 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(三井化学)