協和キリン の歴史

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沿革

1936〜2025年 1936年に宝酒造など酒造3社の協和会のもとで研究を始めた協和化学研究所が起源。1959年に土壌の放線菌から得たマイトマイシンを発売し、骨の希少疾患薬クリースビータを北米と欧州で自ら販売する。キリンHDが議決権の50.10%を保有する製薬会社で、売上の半分を米州が占める。

沿革

1936年に宝酒造など酒造3社の協和会のもとで研究を始めた協和化学研究所が起源。

1959年に土壌の放線菌から得たマイトマイシンを発売し、骨の希少疾患薬クリースビータを北米と欧州で自ら販売する。キリンHDが議決権の50.10%を保有する製薬会社で、売上の半分を米州が占める。

1936年〜創業期協和発酵工業の設立とストレプトマイシンの製造開始

  1. 協和化学研究所を発足
  2. 協和発酵工業を設立(企業再建整備法に基づき旧会社を解散・第二会社として発足)
  3. 東京証券取引所に株式上場
  4. メルク社と提携・結核治療薬「ストレプトマイシン」の製造を開始
  5. 蒸留酒会社の買収を本格化
協和キリン売上高

1956年〜安定成長期発酵法グルタミン酸ソーダの製造とマイトマイシンの発売

  1. 発酵法によるグルタミン酸ソーダの製造を発明(味の素と競合へ)
  2. 山陽化学工業を合併・宇部工場を新設
  3. 医療用医薬品「マイトマイシン」を発売(渋谷区の土壌から放線菌を分離)
  4. 4事業部体制(医薬品・酒類・化学品・食品)
協和キリン売上高1980年12月期2,012億円

1981年〜転換期酒類事業のアサヒビールへの売却と化学品事業の分割

  1. 協和メディックスを設立
  2. 加藤弁三郎会長が逝去
  3. 高血圧症・狭心症治療剤「コニール」を発売
  4. ヤンセン協和をJ&Jに売却
  5. 酒類事業をアサヒビールに売却
  6. 化学品事業を分割・協和発酵ケミカルを設立
  7. 第一三共から「第一ファインケミカル」を買収
協和キリン売上高2007年3月期3,542億円

2008年〜転換期キリンHD傘下入りとProStrakan・Orchard Therapeuticsの買収

  1. キリンHDが協和発酵をTOBにより買収
  2. 協和発酵ケミカルをケイジェイHDに譲渡
  3. ProStrakan Group plcを買収
  4. 協和油化で不祥事が発覚(高圧ガス設備の点検で虚偽申請)
  5. Archimedes Pharma Limitedを買収
  6. 非注力事業の売却・協和発酵バイオをキリンHDに譲渡
  7. Orchard Therapeutics plcを買収
  8. Abdul Mullick氏が社長に就任
  9. Orchard Therapeuticsの解散・清算を決定
協和キリン売上高2025年12月期4,968億円

系譜

1949年に企業再建整備法に基づく第二会社として協和発酵工業が発足。2004年に化学品事業を分割して協和発酵ケミカルを設立し、2008年にキリンHDがTOBで協和発酵を買収した。2019年には協和発酵バイオをキリンHDへ譲渡。非注力事業を手放す選択と集中で、医薬品へ事業ポートフォリオを絞った。

系譜

1949年に企業再建整備法に基づく第二会社として協和発酵工業が発足。

2004年に化学品事業を分割して協和発酵ケミカルを設立し、2008年にキリンHDがTOBで協和発酵を買収した。2019年には協和発酵バイオをキリンHDへ譲渡。非注力事業を手放す選択と集中で、医薬品へ事業ポートフォリオを絞った。

1936年 1949年 1958年 2004年2007年 2008年 2011年 2019年2024年 2026年 協和化学研究所 1936年発足 協和発酵工業 1949年第二会社として設立 山陽化学工業 1958年協和発酵に合併 協和発酵ケミカル 2004年化学品事業を分割 第一ファインケミカル 2007年第一三共から買収 キリンHD 2008年TOBで買収 協和発酵ケミカル 2011年ケイジェイHDに譲渡 ProStrakan 2011年買収 協和発酵バイオ 2019年キリンHDに譲渡 Orchard 2024年買収
長期業績の推移 1949〜2025年

業績

協和キリン:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
1970年12月期〜2025年12月期

第1章 1936年〜 協和発酵工業の設立とストレプトマイシンの製造開始

1936年〜宝酒造など酒造3社の協和会と、代々木大山町1,400坪の協和化学研究所

1937年11月1日、宝酒造市川工場長の加藤辨三郎氏は、同業3社の共同機構である協和会へ出向した。協和会は宝酒造・大日本酒類醸造・合同酒精の3社が、経営の合理化と業界の安定を目的に設けた組織である。3大アルコールメーカーの間では販売競争が激化し、乱売が続いていたことが結成の背景にあった。会長には宝酒造社長の四方卯三郎氏が、副会長には森英示氏と野口喜一郎氏が就任し、事務局を東京・日比谷に置いた。3社は原料と容器を共同で購入し、受注した会社にかかわらず最寄りの工場から製品を出荷した。各社の独立を保ったまま調達から出荷までを一体で運営したことが、のちに共同の研究機関を生む土台になったとみられる。

  • 私の履歴書 経済人12「加藤辨三郎(協和醗酵工業・会長)」
    • [1]宝酒造市川工場長の加藤辨三郎は1937年11月1日に協和会へ出向。協和会は宝酒造・大日本酒類醸造・合同酒精の3社が経営合理化と業界安定のために設けた共同経営機構。会長四方卯三郎(宝酒造社長)、副会長森英示・野口喜一郎、事務局は東京・日比谷
    • [2]宝酒造市川工場長の加藤辨三郎は1937年11月1日に協和会へ出向。協和会は宝酒造・大日本酒類醸造・合同酒精の3社が経営合理化と業界安定のために設けた共同経営機構。会長四方卯三郎(宝酒造社長)、副会長森英示・野口喜一郎、事務局は東京・日比谷
    • [4]宝酒造市川工場長の加藤辨三郎は1937年11月1日に協和会へ出向。協和会は宝酒造・大日本酒類醸造・合同酒精の3社が経営合理化と業界安定のために設けた共同経営機構。会長四方卯三郎(宝酒造社長)、副会長森英示・野口喜一郎、事務局は東京・日比谷
  • 歴史をつくる人々 1966「光を仰いで(協和醗酵工業 加藤辨三郎)」
    • [3]当時3大アルコールメーカー間の販売競争が激化。協和会は原料の共同購入、容器の共同使用、最寄り工場からの交換出荷を実施
    • [5]当時3大アルコールメーカー間の販売競争が激化。協和会は原料の共同購入、容器の共同使用、最寄り工場からの交換出荷を実施

協和会は協調の成果で業界に余裕が生じたことから、活動を3社共同の研究に広げ、加藤辨三郎氏にその研究機関の設立を託した。当初は建物も設備もなく、加藤辨三郎氏は商工省所管の東京工業試験所で開放研究室を借用して研究を始めた。国家統制で試薬や人員の確保が難しくなり、題目は国策に沿うものへ移った。当時、合同酒精が計画していたのは、発酵法によるブタノール・アセトンの国産化。加藤辨三郎氏は同社専務の堀末治氏の勧めで、両者を航空燃料の助剤に加工する研究を引き受けた。研究所の建設を促したのは、ブタノールからイソオクタンを得る研究を評価した陸軍航空本部である。3社共同出資の日本共商の社長である野口喜一郎氏が即決し、1939年夏に渋谷区代々木大山町の用地1,400坪を購入した。

  • 歴史をつくる人々 1966「光を仰いで(協和醗酵工業 加藤辨三郎)」
    • [6]協和会の成果で業界に余裕が出て3社協同の研究機関設立へ。加藤辨三郎の出向はその設立のため。ブタノールからイソオクタンをつくる方法が軍の関心を集め、軍の支援で初めて土地・建物・設備を持った
    • [12]協和会の成果で業界に余裕が出て3社協同の研究機関設立へ。加藤辨三郎の出向はその設立のため。ブタノールからイソオクタンをつくる方法が軍の関心を集め、軍の支援で初めて土地・建物・設備を持った
  • 私の履歴書 経済人12「加藤辨三郎(協和醗酵工業・会長)」
    • [7]東京工業試験所の開放研究室を借りて研究開始。統制下で国策に沿う研究へ。合同酒精の堀末治専務の勧めでブタノール・アセトンの加工研究を引き受け、イソオクタン研究が陸軍航空本部に認められ研究所建設を促される。日本共商社長野口喜一郎が即決し、1939年夏に代々木大山町に用地1,400坪を購入
    • [8]東京工業試験所の開放研究室を借りて研究開始。統制下で国策に沿う研究へ。合同酒精の堀末治専務の勧めでブタノール・アセトンの加工研究を引き受け、イソオクタン研究が陸軍航空本部に認められ研究所建設を促される。日本共商社長野口喜一郎が即決し、1939年夏に代々木大山町に用地1,400坪を購入
    • [9]東京工業試験所の開放研究室を借りて研究開始。統制下で国策に沿う研究へ。合同酒精の堀末治専務の勧めでブタノール・アセトンの加工研究を引き受け、イソオクタン研究が陸軍航空本部に認められ研究所建設を促される。日本共商社長野口喜一郎が即決し、1939年夏に代々木大山町に用地1,400坪を購入
    • [10]東京工業試験所の開放研究室を借りて研究開始。統制下で国策に沿う研究へ。合同酒精の堀末治専務の勧めでブタノール・アセトンの加工研究を引き受け、イソオクタン研究が陸軍航空本部に認められ研究所建設を促される。日本共商社長野口喜一郎が即決し、1939年夏に代々木大山町に用地1,400坪を購入
    • [11]東京工業試験所の開放研究室を借りて研究開始。統制下で国策に沿う研究へ。合同酒精の堀末治専務の勧めでブタノール・アセトンの加工研究を引き受け、イソオクタン研究が陸軍航空本部に認められ研究所建設を促される。日本共商社長野口喜一郎が即決し、1939年夏に代々木大山町に用地1,400坪を購入
    • [13]東京工業試験所の開放研究室を借りて研究開始。統制下で国策に沿う研究へ。合同酒精の堀末治専務の勧めでブタノール・アセトンの加工研究を引き受け、イソオクタン研究が陸軍航空本部に認められ研究所建設を促される。日本共商社長野口喜一郎が即決し、1939年夏に代々木大山町に用地1,400坪を購入

1940年2月11日、加藤辨三郎氏らは代々木大山町に完成した木造の研究室へ移り、門柱に協和化学研究所の表札を掲げた。移転日は皇紀2600年の紀元節にあたる。軍の支援によって、研究機関は初めて自前の土地と建物と設備を持った。同年末にはイソオクタンの試料を陸軍航空技術研究所に提出し、試験に合格した。研究を強化するため、加藤辨三郎氏は京都大学から桑田猛氏を招き、研究員を発酵と合成の2班に分けた。研究所の方針として『醗酵と合成との有機的結合』を掲げ、この方針はのちに協和発酵工業の根本方針として引き継がれた。発酵で得た原料を化学合成で高付加価値品に変える発想が、戦後の事業の組み立て方を先取りしていたと考えられる。

  • 私の履歴書 経済人12「加藤辨三郎(協和醗酵工業・会長)」
    • [14]1940年2月11日(皇紀2600年の紀元節)に代々木大山町の新研究所へ移り「協和化学研究所」の表札を掲げる。同年末にイソオクタン試料が陸軍航空技術研究所の試験に合格。京都大学から桑田猛を招く。研究員を醗酵と合成の2グループとし「醗酵と合成との有機的結合」を掲げ、協和醗酵の根本方針に
    • [15]1940年2月11日(皇紀2600年の紀元節)に代々木大山町の新研究所へ移り「協和化学研究所」の表札を掲げる。同年末にイソオクタン試料が陸軍航空技術研究所の試験に合格。京都大学から桑田猛を招く。研究員を醗酵と合成の2グループとし「醗酵と合成との有機的結合」を掲げ、協和醗酵の根本方針に
    • [17]1940年2月11日(皇紀2600年の紀元節)に代々木大山町の新研究所へ移り「協和化学研究所」の表札を掲げる。同年末にイソオクタン試料が陸軍航空技術研究所の試験に合格。京都大学から桑田猛を招く。研究員を醗酵と合成の2グループとし「醗酵と合成との有機的結合」を掲げ、協和醗酵の根本方針に
    • [18]1940年2月11日(皇紀2600年の紀元節)に代々木大山町の新研究所へ移り「協和化学研究所」の表札を掲げる。同年末にイソオクタン試料が陸軍航空技術研究所の試験に合格。京都大学から桑田猛を招く。研究員を醗酵と合成の2グループとし「醗酵と合成との有機的結合」を掲げ、協和醗酵の根本方針に
    • [19]1940年2月11日(皇紀2600年の紀元節)に代々木大山町の新研究所へ移り「協和化学研究所」の表札を掲げる。同年末にイソオクタン試料が陸軍航空技術研究所の試験に合格。京都大学から桑田猛を招く。研究員を醗酵と合成の2グループとし「醗酵と合成との有機的結合」を掲げ、協和醗酵の根本方針に
  • 歴史をつくる人々 1966「光を仰いで(協和醗酵工業 加藤辨三郎)」
    • [16]軍の積極的な応援により、協和化学研究所は初めて土地・建物・設備を持った
参考文献[1]-[19]
  • 私の履歴書 経済人12「加藤辨三郎(協和醗酵工業・会長)」
    • [1]宝酒造市川工場長の加藤辨三郎は1937年11月1日に協和会へ出向。協和会は宝酒造・大日本酒類醸造・合同酒精の3社が経営合理化と業界安定のために設けた共同経営機構。会長四方卯三郎(宝酒造社長)、副会長森英示・野口喜一郎、事務局は東京・日比谷
    • [2]宝酒造市川工場長の加藤辨三郎は1937年11月1日に協和会へ出向。協和会は宝酒造・大日本酒類醸造・合同酒精の3社が経営合理化と業界安定のために設けた共同経営機構。会長四方卯三郎(宝酒造社長)、副会長森英示・野口喜一郎、事務局は東京・日比谷
    • [4]宝酒造市川工場長の加藤辨三郎は1937年11月1日に協和会へ出向。協和会は宝酒造・大日本酒類醸造・合同酒精の3社が経営合理化と業界安定のために設けた共同経営機構。会長四方卯三郎(宝酒造社長)、副会長森英示・野口喜一郎、事務局は東京・日比谷
    • [7]東京工業試験所の開放研究室を借りて研究開始。統制下で国策に沿う研究へ。合同酒精の堀末治専務の勧めでブタノール・アセトンの加工研究を引き受け、イソオクタン研究が陸軍航空本部に認められ研究所建設を促される。日本共商社長野口喜一郎が即決し、1939年夏に代々木大山町に用地1,400坪を購入
    • [8]東京工業試験所の開放研究室を借りて研究開始。統制下で国策に沿う研究へ。合同酒精の堀末治専務の勧めでブタノール・アセトンの加工研究を引き受け、イソオクタン研究が陸軍航空本部に認められ研究所建設を促される。日本共商社長野口喜一郎が即決し、1939年夏に代々木大山町に用地1,400坪を購入
    • [9]東京工業試験所の開放研究室を借りて研究開始。統制下で国策に沿う研究へ。合同酒精の堀末治専務の勧めでブタノール・アセトンの加工研究を引き受け、イソオクタン研究が陸軍航空本部に認められ研究所建設を促される。日本共商社長野口喜一郎が即決し、1939年夏に代々木大山町に用地1,400坪を購入
    • [10]東京工業試験所の開放研究室を借りて研究開始。統制下で国策に沿う研究へ。合同酒精の堀末治専務の勧めでブタノール・アセトンの加工研究を引き受け、イソオクタン研究が陸軍航空本部に認められ研究所建設を促される。日本共商社長野口喜一郎が即決し、1939年夏に代々木大山町に用地1,400坪を購入
    • [11]東京工業試験所の開放研究室を借りて研究開始。統制下で国策に沿う研究へ。合同酒精の堀末治専務の勧めでブタノール・アセトンの加工研究を引き受け、イソオクタン研究が陸軍航空本部に認められ研究所建設を促される。日本共商社長野口喜一郎が即決し、1939年夏に代々木大山町に用地1,400坪を購入
    • [13]東京工業試験所の開放研究室を借りて研究開始。統制下で国策に沿う研究へ。合同酒精の堀末治専務の勧めでブタノール・アセトンの加工研究を引き受け、イソオクタン研究が陸軍航空本部に認められ研究所建設を促される。日本共商社長野口喜一郎が即決し、1939年夏に代々木大山町に用地1,400坪を購入
    • [14]1940年2月11日(皇紀2600年の紀元節)に代々木大山町の新研究所へ移り「協和化学研究所」の表札を掲げる。同年末にイソオクタン試料が陸軍航空技術研究所の試験に合格。京都大学から桑田猛を招く。研究員を醗酵と合成の2グループとし「醗酵と合成との有機的結合」を掲げ、協和醗酵の根本方針に
    • [15]1940年2月11日(皇紀2600年の紀元節)に代々木大山町の新研究所へ移り「協和化学研究所」の表札を掲げる。同年末にイソオクタン試料が陸軍航空技術研究所の試験に合格。京都大学から桑田猛を招く。研究員を醗酵と合成の2グループとし「醗酵と合成との有機的結合」を掲げ、協和醗酵の根本方針に
    • [17]1940年2月11日(皇紀2600年の紀元節)に代々木大山町の新研究所へ移り「協和化学研究所」の表札を掲げる。同年末にイソオクタン試料が陸軍航空技術研究所の試験に合格。京都大学から桑田猛を招く。研究員を醗酵と合成の2グループとし「醗酵と合成との有機的結合」を掲げ、協和醗酵の根本方針に
    • [18]1940年2月11日(皇紀2600年の紀元節)に代々木大山町の新研究所へ移り「協和化学研究所」の表札を掲げる。同年末にイソオクタン試料が陸軍航空技術研究所の試験に合格。京都大学から桑田猛を招く。研究員を醗酵と合成の2グループとし「醗酵と合成との有機的結合」を掲げ、協和醗酵の根本方針に
    • [19]1940年2月11日(皇紀2600年の紀元節)に代々木大山町の新研究所へ移り「協和化学研究所」の表札を掲げる。同年末にイソオクタン試料が陸軍航空技術研究所の試験に合格。京都大学から桑田猛を招く。研究員を醗酵と合成の2グループとし「醗酵と合成との有機的結合」を掲げ、協和醗酵の根本方針に
  • 歴史をつくる人々 1966「光を仰いで(協和醗酵工業 加藤辨三郎)」
    • [3]当時3大アルコールメーカー間の販売競争が激化。協和会は原料の共同購入、容器の共同使用、最寄り工場からの交換出荷を実施
    • [5]当時3大アルコールメーカー間の販売競争が激化。協和会は原料の共同購入、容器の共同使用、最寄り工場からの交換出荷を実施
    • [6]協和会の成果で業界に余裕が出て3社協同の研究機関設立へ。加藤辨三郎の出向はその設立のため。ブタノールからイソオクタンをつくる方法が軍の関心を集め、軍の支援で初めて土地・建物・設備を持った
    • [12]協和会の成果で業界に余裕が出て3社協同の研究機関設立へ。加藤辨三郎の出向はその設立のため。ブタノールからイソオクタンをつくる方法が軍の関心を集め、軍の支援で初めて土地・建物・設備を持った
    • [16]軍の積極的な応援により、協和化学研究所は初めて土地・建物・設備を持った

1941年〜東洋紡防府工場を転じた東亜化学興業と、「協和」へ戻した協和産業

1943年3月18日、東洋紡績の防府工場を引き継ぐ新会社、東亜化学興業の発足。前年8月にジャワ視察から帰国した加藤辨三郎氏は、陸軍省からイソオクタンを国内で年産2万キロリットル製造する工場の建設を命じられていた。合同酒精社長の野口喜一郎氏は自ら九州で用地を探し、大分県鶴崎と宮崎県細島を候補に挙げた。そこへ大学の同級生で東洋紡績取締役の富久力松氏が、防府工場の転用の可否について診断を求めてきた。加藤辨三郎氏は単身で工場を視察し、十分に転用できると結論づけた。払込資本金1,000万円の50%を東洋紡績が出資し、社長に野口喜一郎氏、常務に加藤辨三郎氏が就任した。同年12月には改装を終えたブタノール工場が操業を始めた。

  • 私の履歴書 経済人12「加藤辨三郎(協和醗酵工業・会長)」
    • [20]1942年8月帰国後、陸軍省から年産2万klのイソオクタン工場建設を命じられ、野口喜一郎が九州で鶴崎・細島を候補に。東洋紡取締役富久力松(大学同級生)から防府工場の転換診断を依頼され、転用可能と判断。1943年3月18日東亜化学興業成立、払込資本金1,000万円の50%を東洋紡、残りを第一生命・大日本麦酒・協和グループ3社。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。1943年12月ブタノール工場操業開始
    • [22]1942年8月帰国後、陸軍省から年産2万klのイソオクタン工場建設を命じられ、野口喜一郎が九州で鶴崎・細島を候補に。東洋紡取締役富久力松(大学同級生)から防府工場の転換診断を依頼され、転用可能と判断。1943年3月18日東亜化学興業成立、払込資本金1,000万円の50%を東洋紡、残りを第一生命・大日本麦酒・協和グループ3社。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。1943年12月ブタノール工場操業開始
    • [23]1942年8月帰国後、陸軍省から年産2万klのイソオクタン工場建設を命じられ、野口喜一郎が九州で鶴崎・細島を候補に。東洋紡取締役富久力松(大学同級生)から防府工場の転換診断を依頼され、転用可能と判断。1943年3月18日東亜化学興業成立、払込資本金1,000万円の50%を東洋紡、残りを第一生命・大日本麦酒・協和グループ3社。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。1943年12月ブタノール工場操業開始
    • [24]1942年8月帰国後、陸軍省から年産2万klのイソオクタン工場建設を命じられ、野口喜一郎が九州で鶴崎・細島を候補に。東洋紡取締役富久力松(大学同級生)から防府工場の転換診断を依頼され、転用可能と判断。1943年3月18日東亜化学興業成立、払込資本金1,000万円の50%を東洋紡、残りを第一生命・大日本麦酒・協和グループ3社。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。1943年12月ブタノール工場操業開始
    • [25]1942年8月帰国後、陸軍省から年産2万klのイソオクタン工場建設を命じられ、野口喜一郎が九州で鶴崎・細島を候補に。東洋紡取締役富久力松(大学同級生)から防府工場の転換診断を依頼され、転用可能と判断。1943年3月18日東亜化学興業成立、払込資本金1,000万円の50%を東洋紡、残りを第一生命・大日本麦酒・協和グループ3社。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。1943年12月ブタノール工場操業開始
    • [26]1942年8月帰国後、陸軍省から年産2万klのイソオクタン工場建設を命じられ、野口喜一郎が九州で鶴崎・細島を候補に。東洋紡取締役富久力松(大学同級生)から防府工場の転換診断を依頼され、転用可能と判断。1943年3月18日東亜化学興業成立、払込資本金1,000万円の50%を東洋紡、残りを第一生命・大日本麦酒・協和グループ3社。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。1943年12月ブタノール工場操業開始
    • [28]1942年8月帰国後、陸軍省から年産2万klのイソオクタン工場建設を命じられ、野口喜一郎が九州で鶴崎・細島を候補に。東洋紡取締役富久力松(大学同級生)から防府工場の転換診断を依頼され、転用可能と判断。1943年3月18日東亜化学興業成立、払込資本金1,000万円の50%を東洋紡、残りを第一生命・大日本麦酒・協和グループ3社。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。1943年12月ブタノール工場操業開始
  • 歴史をつくる人々 1966「光を仰いで(協和醗酵工業 加藤辨三郎)」
    • [21]東洋紡・合同酒精・日本酒類・宝酒造・第一生命・大日本麦酒の出資で東亜化学興業を設立し、東洋紡の防府工場を譲り受ける。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。南方の砂糖からブタノール、イソオクタンをつくる目的
    • [27]東洋紡・合同酒精・日本酒類・宝酒造・第一生命・大日本麦酒の出資で東亜化学興業を設立し、東洋紡の防府工場を譲り受ける。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。南方の砂糖からブタノール、イソオクタンをつくる目的

1945年11月、前社長の野口喜一郎氏の指名を受けて加藤辨三郎氏が社長に就任し、社名を協和産業に改めた。東亜化学興業は1944年夏に軍の命令でブタノールから無水アルコールの製造へ転じ、終戦で軍需という目的が消えた。倉庫の砂糖も進駐軍の指令で住民に分配され、原料をすべて失った。1945年9月30日に約1,000名の社員をいったん全員退職とし、10月1日に約230名を改めて採用した。戦時色の強い「東亜」の名を外し、協和会に由来する「協和」の字を残したのは、加藤辨三郎氏の判断である。3工場は戦災を免れ、残ったアルコールで焼酎を造り、砂糖の空き袋から甘味液やアイスキャンデーを製造した。「産業」の2字に、主力が定まるまで何でも手がける意味を込めたのは、主力事業を決めかねていた当時の実情の反映だろう。

  • 私の履歴書 経済人12「加藤辨三郎(協和醗酵工業・会長)」
    • [29]軍命でブタノール・イソオクタンを中止し無水アルコールへ転換(1944年夏)。終戦で砂糖は進駐軍指令で住民に分配され原料を喪失。従業員は9月末に一斉退社。1945年11月に役員が全員辞任し、野口喜一郎の推薦で加藤辨三郎が協和産業(旧東亜化学興業)の社長となり、侵略的な響きの「東亜」を避け協和産業と改称。3工場は無事で、残ったアルコールで焼酎、砂糖袋の煎じ液で滋養糖、アイスキャンデーを製造
    • [31]軍命でブタノール・イソオクタンを中止し無水アルコールへ転換(1944年夏)。終戦で砂糖は進駐軍指令で住民に分配され原料を喪失。従業員は9月末に一斉退社。1945年11月に役員が全員辞任し、野口喜一郎の推薦で加藤辨三郎が協和産業(旧東亜化学興業)の社長となり、侵略的な響きの「東亜」を避け協和産業と改称。3工場は無事で、残ったアルコールで焼酎、砂糖袋の煎じ液で滋養糖、アイスキャンデーを製造
    • [33]軍命でブタノール・イソオクタンを中止し無水アルコールへ転換(1944年夏)。終戦で砂糖は進駐軍指令で住民に分配され原料を喪失。従業員は9月末に一斉退社。1945年11月に役員が全員辞任し、野口喜一郎の推薦で加藤辨三郎が協和産業(旧東亜化学興業)の社長となり、侵略的な響きの「東亜」を避け協和産業と改称。3工場は無事で、残ったアルコールで焼酎、砂糖袋の煎じ液で滋養糖、アイスキャンデーを製造
    • [35]軍命でブタノール・イソオクタンを中止し無水アルコールへ転換(1944年夏)。終戦で砂糖は進駐軍指令で住民に分配され原料を喪失。従業員は9月末に一斉退社。1945年11月に役員が全員辞任し、野口喜一郎の推薦で加藤辨三郎が協和産業(旧東亜化学興業)の社長となり、侵略的な響きの「東亜」を避け協和産業と改称。3工場は無事で、残ったアルコールで焼酎、砂糖袋の煎じ液で滋養糖、アイスキャンデーを製造
    • [37]軍命でブタノール・イソオクタンを中止し無水アルコールへ転換(1944年夏)。終戦で砂糖は進駐軍指令で住民に分配され原料を喪失。従業員は9月末に一斉退社。1945年11月に役員が全員辞任し、野口喜一郎の推薦で加藤辨三郎が協和産業(旧東亜化学興業)の社長となり、侵略的な響きの「東亜」を避け協和産業と改称。3工場は無事で、残ったアルコールで焼酎、砂糖袋の煎じ液で滋養糖、アイスキャンデーを製造
  • 歴史をつくる人々 1966「光を仰いで(協和醗酵工業 加藤辨三郎)」
    • [30]1945年9月30日に約1,000名近い社員が全員退職、10月1日に約230名を新規採用。11月総会で役員総退陣、野口喜一郎が加藤辨三郎一人を指名。「東亜」を避け、協和会にちなみ「協和」を残し、何でもやる意味で「産業」を付け協和産業に。アイスキャンデーなどを製造
    • [32]1945年9月30日に約1,000名近い社員が全員退職、10月1日に約230名を新規採用。11月総会で役員総退陣、野口喜一郎が加藤辨三郎一人を指名。「東亜」を避け、協和会にちなみ「協和」を残し、何でもやる意味で「産業」を付け協和産業に。アイスキャンデーなどを製造
    • [34]1945年9月30日に約1,000名近い社員が全員退職、10月1日に約230名を新規採用。11月総会で役員総退陣、野口喜一郎が加藤辨三郎一人を指名。「東亜」を避け、協和会にちなみ「協和」を残し、何でもやる意味で「産業」を付け協和産業に。アイスキャンデーなどを製造
    • [36]1945年9月30日に約1,000名近い社員が全員退職、10月1日に約230名を新規採用。11月総会で役員総退陣、野口喜一郎が加藤辨三郎一人を指名。「東亜」を避け、協和会にちなみ「協和」を残し、何でもやる意味で「産業」を付け協和産業に。アイスキャンデーなどを製造
    • [38]1945年9月30日に約1,000名近い社員が全員退職、10月1日に約230名を新規採用。11月総会で役員総退陣、野口喜一郎が加藤辨三郎一人を指名。「東亜」を避け、協和会にちなみ「協和」を残し、何でもやる意味で「産業」を付け協和産業に。アイスキャンデーなどを製造

1948年秋、協和産業はアルコールとブタノール・アセトンの2つの発酵事業を、委託先に頼らず自社で営み始めた。原料難を打開する手がかりとなったのは、戦時中にジャワの製糖工場で見た、川に捨てられる糖蜜である。加藤辨三郎氏はGHQに輸入を直接願い出て、1948年8月にマニラから糖蜜を積んだ第一船が防府に入港した。アルコールは1946年秋から、中央原料酒精の委託を受けて清酒添加用に製造していた。中央原料酒精は旧宝酒造市川工場を全国清酒組合中央会が取得した会社で、社長は元大蔵次官の松隈秀雄氏だった。1948年、松隈秀雄氏は公正取引委員会の発足で独占が認められなくなったとして、協和産業を独立させる方針を加藤辨三郎氏に伝えた。

  • 私の履歴書 経済人12「加藤辨三郎(協和醗酵工業・会長)」
    • [39]戦時中ジャワで糖蜜の川への放流を見たことが動機。GHQに糖蜜輸入を願い出て1948年8月に第一船が防府工場に入港、ブタノール・アセトン製造開始。1946年秋から中央原料酒精(旧宝酒造市川工場、全国清酒組合中央会が買収、社長松隈秀雄)の委託で清酒添加用アルコールを製造。1948年、公正取引委員会の発足で独占が許されず協和産業を独立させると松隈秀雄が伝える。1948年秋にはアルコールとブタノール・アセトンの2つの醗酵工業を営む
    • [40]戦時中ジャワで糖蜜の川への放流を見たことが動機。GHQに糖蜜輸入を願い出て1948年8月に第一船が防府工場に入港、ブタノール・アセトン製造開始。1946年秋から中央原料酒精(旧宝酒造市川工場、全国清酒組合中央会が買収、社長松隈秀雄)の委託で清酒添加用アルコールを製造。1948年、公正取引委員会の発足で独占が許されず協和産業を独立させると松隈秀雄が伝える。1948年秋にはアルコールとブタノール・アセトンの2つの醗酵工業を営む
    • [42]戦時中ジャワで糖蜜の川への放流を見たことが動機。GHQに糖蜜輸入を願い出て1948年8月に第一船が防府工場に入港、ブタノール・アセトン製造開始。1946年秋から中央原料酒精(旧宝酒造市川工場、全国清酒組合中央会が買収、社長松隈秀雄)の委託で清酒添加用アルコールを製造。1948年、公正取引委員会の発足で独占が許されず協和産業を独立させると松隈秀雄が伝える。1948年秋にはアルコールとブタノール・アセトンの2つの醗酵工業を営む
    • [44]戦時中ジャワで糖蜜の川への放流を見たことが動機。GHQに糖蜜輸入を願い出て1948年8月に第一船が防府工場に入港、ブタノール・アセトン製造開始。1946年秋から中央原料酒精(旧宝酒造市川工場、全国清酒組合中央会が買収、社長松隈秀雄)の委託で清酒添加用アルコールを製造。1948年、公正取引委員会の発足で独占が許されず協和産業を独立させると松隈秀雄が伝える。1948年秋にはアルコールとブタノール・アセトンの2つの醗酵工業を営む
    • [45]戦時中ジャワで糖蜜の川への放流を見たことが動機。GHQに糖蜜輸入を願い出て1948年8月に第一船が防府工場に入港、ブタノール・アセトン製造開始。1946年秋から中央原料酒精(旧宝酒造市川工場、全国清酒組合中央会が買収、社長松隈秀雄)の委託で清酒添加用アルコールを製造。1948年、公正取引委員会の発足で独占が許されず協和産業を独立させると松隈秀雄が伝える。1948年秋にはアルコールとブタノール・アセトンの2つの醗酵工業を営む
    • [46]戦時中ジャワで糖蜜の川への放流を見たことが動機。GHQに糖蜜輸入を願い出て1948年8月に第一船が防府工場に入港、ブタノール・アセトン製造開始。1946年秋から中央原料酒精(旧宝酒造市川工場、全国清酒組合中央会が買収、社長松隈秀雄)の委託で清酒添加用アルコールを製造。1948年、公正取引委員会の発足で独占が許されず協和産業を独立させると松隈秀雄が伝える。1948年秋にはアルコールとブタノール・アセトンの2つの醗酵工業を営む
  • 歴史をつくる人々 1966「光を仰いで(協和醗酵工業 加藤辨三郎)」
    • [41]GHQに糖蜜輸入を直訴し、1948年8月に糖蜜を積んだ第一船がマニラから防府港に入港。醗酵工業の前途に自信がつく
    • [43]GHQに糖蜜輸入を直訴し、1948年8月に糖蜜を積んだ第一船がマニラから防府港に入港。醗酵工業の前途に自信がつく
参考文献[20]-[46]
  • 私の履歴書 経済人12「加藤辨三郎(協和醗酵工業・会長)」
    • [20]1942年8月帰国後、陸軍省から年産2万klのイソオクタン工場建設を命じられ、野口喜一郎が九州で鶴崎・細島を候補に。東洋紡取締役富久力松(大学同級生)から防府工場の転換診断を依頼され、転用可能と判断。1943年3月18日東亜化学興業成立、払込資本金1,000万円の50%を東洋紡、残りを第一生命・大日本麦酒・協和グループ3社。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。1943年12月ブタノール工場操業開始
    • [22]1942年8月帰国後、陸軍省から年産2万klのイソオクタン工場建設を命じられ、野口喜一郎が九州で鶴崎・細島を候補に。東洋紡取締役富久力松(大学同級生)から防府工場の転換診断を依頼され、転用可能と判断。1943年3月18日東亜化学興業成立、払込資本金1,000万円の50%を東洋紡、残りを第一生命・大日本麦酒・協和グループ3社。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。1943年12月ブタノール工場操業開始
    • [23]1942年8月帰国後、陸軍省から年産2万klのイソオクタン工場建設を命じられ、野口喜一郎が九州で鶴崎・細島を候補に。東洋紡取締役富久力松(大学同級生)から防府工場の転換診断を依頼され、転用可能と判断。1943年3月18日東亜化学興業成立、払込資本金1,000万円の50%を東洋紡、残りを第一生命・大日本麦酒・協和グループ3社。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。1943年12月ブタノール工場操業開始
    • [24]1942年8月帰国後、陸軍省から年産2万klのイソオクタン工場建設を命じられ、野口喜一郎が九州で鶴崎・細島を候補に。東洋紡取締役富久力松(大学同級生)から防府工場の転換診断を依頼され、転用可能と判断。1943年3月18日東亜化学興業成立、払込資本金1,000万円の50%を東洋紡、残りを第一生命・大日本麦酒・協和グループ3社。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。1943年12月ブタノール工場操業開始
    • [25]1942年8月帰国後、陸軍省から年産2万klのイソオクタン工場建設を命じられ、野口喜一郎が九州で鶴崎・細島を候補に。東洋紡取締役富久力松(大学同級生)から防府工場の転換診断を依頼され、転用可能と判断。1943年3月18日東亜化学興業成立、払込資本金1,000万円の50%を東洋紡、残りを第一生命・大日本麦酒・協和グループ3社。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。1943年12月ブタノール工場操業開始
    • [26]1942年8月帰国後、陸軍省から年産2万klのイソオクタン工場建設を命じられ、野口喜一郎が九州で鶴崎・細島を候補に。東洋紡取締役富久力松(大学同級生)から防府工場の転換診断を依頼され、転用可能と判断。1943年3月18日東亜化学興業成立、払込資本金1,000万円の50%を東洋紡、残りを第一生命・大日本麦酒・協和グループ3社。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。1943年12月ブタノール工場操業開始
    • [28]1942年8月帰国後、陸軍省から年産2万klのイソオクタン工場建設を命じられ、野口喜一郎が九州で鶴崎・細島を候補に。東洋紡取締役富久力松(大学同級生)から防府工場の転換診断を依頼され、転用可能と判断。1943年3月18日東亜化学興業成立、払込資本金1,000万円の50%を東洋紡、残りを第一生命・大日本麦酒・協和グループ3社。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。1943年12月ブタノール工場操業開始
    • [29]軍命でブタノール・イソオクタンを中止し無水アルコールへ転換(1944年夏)。終戦で砂糖は進駐軍指令で住民に分配され原料を喪失。従業員は9月末に一斉退社。1945年11月に役員が全員辞任し、野口喜一郎の推薦で加藤辨三郎が協和産業(旧東亜化学興業)の社長となり、侵略的な響きの「東亜」を避け協和産業と改称。3工場は無事で、残ったアルコールで焼酎、砂糖袋の煎じ液で滋養糖、アイスキャンデーを製造
    • [31]軍命でブタノール・イソオクタンを中止し無水アルコールへ転換(1944年夏)。終戦で砂糖は進駐軍指令で住民に分配され原料を喪失。従業員は9月末に一斉退社。1945年11月に役員が全員辞任し、野口喜一郎の推薦で加藤辨三郎が協和産業(旧東亜化学興業)の社長となり、侵略的な響きの「東亜」を避け協和産業と改称。3工場は無事で、残ったアルコールで焼酎、砂糖袋の煎じ液で滋養糖、アイスキャンデーを製造
    • [33]軍命でブタノール・イソオクタンを中止し無水アルコールへ転換(1944年夏)。終戦で砂糖は進駐軍指令で住民に分配され原料を喪失。従業員は9月末に一斉退社。1945年11月に役員が全員辞任し、野口喜一郎の推薦で加藤辨三郎が協和産業(旧東亜化学興業)の社長となり、侵略的な響きの「東亜」を避け協和産業と改称。3工場は無事で、残ったアルコールで焼酎、砂糖袋の煎じ液で滋養糖、アイスキャンデーを製造
    • [35]軍命でブタノール・イソオクタンを中止し無水アルコールへ転換(1944年夏)。終戦で砂糖は進駐軍指令で住民に分配され原料を喪失。従業員は9月末に一斉退社。1945年11月に役員が全員辞任し、野口喜一郎の推薦で加藤辨三郎が協和産業(旧東亜化学興業)の社長となり、侵略的な響きの「東亜」を避け協和産業と改称。3工場は無事で、残ったアルコールで焼酎、砂糖袋の煎じ液で滋養糖、アイスキャンデーを製造
    • [37]軍命でブタノール・イソオクタンを中止し無水アルコールへ転換(1944年夏)。終戦で砂糖は進駐軍指令で住民に分配され原料を喪失。従業員は9月末に一斉退社。1945年11月に役員が全員辞任し、野口喜一郎の推薦で加藤辨三郎が協和産業(旧東亜化学興業)の社長となり、侵略的な響きの「東亜」を避け協和産業と改称。3工場は無事で、残ったアルコールで焼酎、砂糖袋の煎じ液で滋養糖、アイスキャンデーを製造
    • [39]戦時中ジャワで糖蜜の川への放流を見たことが動機。GHQに糖蜜輸入を願い出て1948年8月に第一船が防府工場に入港、ブタノール・アセトン製造開始。1946年秋から中央原料酒精(旧宝酒造市川工場、全国清酒組合中央会が買収、社長松隈秀雄)の委託で清酒添加用アルコールを製造。1948年、公正取引委員会の発足で独占が許されず協和産業を独立させると松隈秀雄が伝える。1948年秋にはアルコールとブタノール・アセトンの2つの醗酵工業を営む
    • [40]戦時中ジャワで糖蜜の川への放流を見たことが動機。GHQに糖蜜輸入を願い出て1948年8月に第一船が防府工場に入港、ブタノール・アセトン製造開始。1946年秋から中央原料酒精(旧宝酒造市川工場、全国清酒組合中央会が買収、社長松隈秀雄)の委託で清酒添加用アルコールを製造。1948年、公正取引委員会の発足で独占が許されず協和産業を独立させると松隈秀雄が伝える。1948年秋にはアルコールとブタノール・アセトンの2つの醗酵工業を営む
    • [42]戦時中ジャワで糖蜜の川への放流を見たことが動機。GHQに糖蜜輸入を願い出て1948年8月に第一船が防府工場に入港、ブタノール・アセトン製造開始。1946年秋から中央原料酒精(旧宝酒造市川工場、全国清酒組合中央会が買収、社長松隈秀雄)の委託で清酒添加用アルコールを製造。1948年、公正取引委員会の発足で独占が許されず協和産業を独立させると松隈秀雄が伝える。1948年秋にはアルコールとブタノール・アセトンの2つの醗酵工業を営む
    • [44]戦時中ジャワで糖蜜の川への放流を見たことが動機。GHQに糖蜜輸入を願い出て1948年8月に第一船が防府工場に入港、ブタノール・アセトン製造開始。1946年秋から中央原料酒精(旧宝酒造市川工場、全国清酒組合中央会が買収、社長松隈秀雄)の委託で清酒添加用アルコールを製造。1948年、公正取引委員会の発足で独占が許されず協和産業を独立させると松隈秀雄が伝える。1948年秋にはアルコールとブタノール・アセトンの2つの醗酵工業を営む
    • [45]戦時中ジャワで糖蜜の川への放流を見たことが動機。GHQに糖蜜輸入を願い出て1948年8月に第一船が防府工場に入港、ブタノール・アセトン製造開始。1946年秋から中央原料酒精(旧宝酒造市川工場、全国清酒組合中央会が買収、社長松隈秀雄)の委託で清酒添加用アルコールを製造。1948年、公正取引委員会の発足で独占が許されず協和産業を独立させると松隈秀雄が伝える。1948年秋にはアルコールとブタノール・アセトンの2つの醗酵工業を営む
    • [46]戦時中ジャワで糖蜜の川への放流を見たことが動機。GHQに糖蜜輸入を願い出て1948年8月に第一船が防府工場に入港、ブタノール・アセトン製造開始。1946年秋から中央原料酒精(旧宝酒造市川工場、全国清酒組合中央会が買収、社長松隈秀雄)の委託で清酒添加用アルコールを製造。1948年、公正取引委員会の発足で独占が許されず協和産業を独立させると松隈秀雄が伝える。1948年秋にはアルコールとブタノール・アセトンの2つの醗酵工業を営む
  • 歴史をつくる人々 1966「光を仰いで(協和醗酵工業 加藤辨三郎)」
    • [21]東洋紡・合同酒精・日本酒類・宝酒造・第一生命・大日本麦酒の出資で東亜化学興業を設立し、東洋紡の防府工場を譲り受ける。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。南方の砂糖からブタノール、イソオクタンをつくる目的
    • [27]東洋紡・合同酒精・日本酒類・宝酒造・第一生命・大日本麦酒の出資で東亜化学興業を設立し、東洋紡の防府工場を譲り受ける。社長野口喜一郎、常務加藤辨三郎。南方の砂糖からブタノール、イソオクタンをつくる目的
    • [30]1945年9月30日に約1,000名近い社員が全員退職、10月1日に約230名を新規採用。11月総会で役員総退陣、野口喜一郎が加藤辨三郎一人を指名。「東亜」を避け、協和会にちなみ「協和」を残し、何でもやる意味で「産業」を付け協和産業に。アイスキャンデーなどを製造
    • [32]1945年9月30日に約1,000名近い社員が全員退職、10月1日に約230名を新規採用。11月総会で役員総退陣、野口喜一郎が加藤辨三郎一人を指名。「東亜」を避け、協和会にちなみ「協和」を残し、何でもやる意味で「産業」を付け協和産業に。アイスキャンデーなどを製造
    • [34]1945年9月30日に約1,000名近い社員が全員退職、10月1日に約230名を新規採用。11月総会で役員総退陣、野口喜一郎が加藤辨三郎一人を指名。「東亜」を避け、協和会にちなみ「協和」を残し、何でもやる意味で「産業」を付け協和産業に。アイスキャンデーなどを製造
    • [36]1945年9月30日に約1,000名近い社員が全員退職、10月1日に約230名を新規採用。11月総会で役員総退陣、野口喜一郎が加藤辨三郎一人を指名。「東亜」を避け、協和会にちなみ「協和」を残し、何でもやる意味で「産業」を付け協和産業に。アイスキャンデーなどを製造
    • [38]1945年9月30日に約1,000名近い社員が全員退職、10月1日に約230名を新規採用。11月総会で役員総退陣、野口喜一郎が加藤辨三郎一人を指名。「東亜」を避け、協和会にちなみ「協和」を残し、何でもやる意味で「産業」を付け協和産業に。アイスキャンデーなどを製造
    • [41]GHQに糖蜜輸入を直訴し、1948年8月に糖蜜を積んだ第一船がマニラから防府港に入港。醗酵工業の前途に自信がつく
    • [43]GHQに糖蜜輸入を直訴し、1948年8月に糖蜜を積んだ第一船がマニラから防府港に入港。醗酵工業の前途に自信がつく

1949年〜企業再建整備法の第二会社・協和発酵工業と、メルク社と提携したストレプトマイシン

1949年7月1日、協和産業を母体とする第二会社の協和発酵工業が発足し、加藤辨三郎氏が社長に就任した。2つの発酵事業がそろったのを受けて、加藤辨三郎氏は企業再建整備法に基づく整備計画を政府に提出し、同年5月31日に認可を得た。協和産業は整理会社として発展的に解消し、事業は新会社へ移った。常務には研究所時代から加わった桑田猛氏が就任し、役員は協和産業と同じ顔ぶれで新会社を始めた。発足時、加藤辨三郎氏は50歳、他の役員は30歳代と40歳代である。糖蜜の入手で発酵事業の見通しが立ち、協和産業の段階で社長を務めた期間を含めると、加藤辨三郎氏の社長在任は1966年時点で満20年に及んだ。戦時の旧会社を整理会社として切り離したことで、新会社は発酵事業だけを引き継いで出発できたと推察される。

  • 私の履歴書 経済人12「加藤辨三郎(協和醗酵工業・会長)」
    • [47]企業再建整備法に基づく整備計画を提出し1949年5月31日認可。1949年7月1日、協和産業の第二会社として協和醗酵工業が発足。社長加藤辨三郎、常務桑田猛。加藤辨三郎50歳、他は30〜40歳代
    • [49]企業再建整備法に基づく整備計画を提出し1949年5月31日認可。1949年7月1日、協和産業の第二会社として協和醗酵工業が発足。社長加藤辨三郎、常務桑田猛。加藤辨三郎50歳、他は30〜40歳代
    • [51]企業再建整備法に基づく整備計画を提出し1949年5月31日認可。1949年7月1日、協和産業の第二会社として協和醗酵工業が発足。社長加藤辨三郎、常務桑田猛。加藤辨三郎50歳、他は30〜40歳代
    • [53]企業再建整備法に基づく整備計画を提出し1949年5月31日認可。1949年7月1日、協和産業の第二会社として協和醗酵工業が発足。社長加藤辨三郎、常務桑田猛。加藤辨三郎50歳、他は30〜40歳代
  • 歴史をつくる人々 1966「光を仰いで(協和醗酵工業 加藤辨三郎)」
    • [48]糖蜜輸入で醗酵工業に自信がつき、1949年に協和産業を整理会社とし第二会社協和醗酵工業を設立。役員は協和産業と同じ。協和産業から数えて満20年社長(1966年時点)
    • [50]糖蜜輸入で醗酵工業に自信がつき、1949年に協和産業を整理会社とし第二会社協和醗酵工業を設立。役員は協和産業と同じ。協和産業から数えて満20年社長(1966年時点)
    • [52]糖蜜輸入で醗酵工業に自信がつき、1949年に協和産業を整理会社とし第二会社協和醗酵工業を設立。役員は協和産業と同じ。協和産業から数えて満20年社長(1966年時点)
    • [54]糖蜜輸入で醗酵工業に自信がつき、1949年に協和産業を整理会社とし第二会社協和醗酵工業を設立。役員は協和産業と同じ。協和産業から数えて満20年社長(1966年時点)

1949年8月、協和発酵工業の東京証券取引所への上場。清酒原料用のアルコールは生産開始後に需要が毎年倍増し、事業の拡大に資金の調達が追いつかなかった。防府工場は機銃掃射を受けた程度で生産能力を保っており、原料さえ入れば製品はすぐに売れた。加藤辨三郎氏は株式公開に先立ち、創立時と増資時に従業員が保有しやすい株数を割り当てた。割り当てた株をすぐに転売する従業員も現れ、加藤辨三郎氏は株式の自由売買を原則とすべきだと考えを改めた。糖蜜の輸入を担った外国商社も出資し、経営には関与しない約束のもと、1966年時点では第2位の株主にあたる。1950年にはアロスパス式蒸留機を他社に先駆けて導入し、アルコールの品質を高めた。

  • 私の履歴書 経済人12「加藤辨三郎(協和醗酵工業・会長)」
    • [55]アルコールは生産開始後需要が毎年倍増、1950年にアロスパス式蒸留機を率先導入。急速な発展で資金集めに追われ株式を公開し、1949年8月に東京の取引所に上場。公開前に創立時・増資時に従業員へ持ちやすい株数を割当、転売する者もあり自由売買が原則と悟る
    • [56]アルコールは生産開始後需要が毎年倍増、1950年にアロスパス式蒸留機を率先導入。急速な発展で資金集めに追われ株式を公開し、1949年8月に東京の取引所に上場。公開前に創立時・増資時に従業員へ持ちやすい株数を割当、転売する者もあり自由売買が原則と悟る
    • [58]アルコールは生産開始後需要が毎年倍増、1950年にアロスパス式蒸留機を率先導入。急速な発展で資金集めに追われ株式を公開し、1949年8月に東京の取引所に上場。公開前に創立時・増資時に従業員へ持ちやすい株数を割当、転売する者もあり自由売買が原則と悟る
    • [59]アルコールは生産開始後需要が毎年倍増、1950年にアロスパス式蒸留機を率先導入。急速な発展で資金集めに追われ株式を公開し、1949年8月に東京の取引所に上場。公開前に創立時・増資時に従業員へ持ちやすい株数を割当、転売する者もあり自由売買が原則と悟る
    • [61]アルコールは生産開始後需要が毎年倍増、1950年にアロスパス式蒸留機を率先導入。急速な発展で資金集めに追われ株式を公開し、1949年8月に東京の取引所に上場。公開前に創立時・増資時に従業員へ持ちやすい株数を割当、転売する者もあり自由売買が原則と悟る
  • 歴史をつくる人々 1966「光を仰いで(協和醗酵工業 加藤辨三郎)」
    • [57]防府工場は機銃掃射程度で生産能力に支障なし。原料さえ入れば作れば売れる時代。糖蜜を入れた商社が第2位株主(1966年時点)で「金は出すが口は出さない」約束
    • [60]防府工場は機銃掃射程度で生産能力に支障なし。原料さえ入れば作れば売れる時代。糖蜜を入れた商社が第2位株主(1966年時点)で「金は出すが口は出さない」約束

1950年夏、加藤辨三郎氏は渡米し、米メルク社との間でストレプトマイシンを製造する契約を結んだ。同じ渡航で、コマーシャル・ソルベンツ社からブタノール発酵の技術と菌も導入した。ストレプトマイシンは発酵で得る結核の治療薬であり、加藤辨三郎氏は自社の発酵技術で国産すべきだと考えた。当時は各医薬品会社が高値で輸入しており、輸入業者の抵抗と、一社独占に対する厚生省の反対を招いた。メルク社の調査員は防府工場の大型発酵タンク群を視察し、協和発酵工業一社への技術供与を決めた。厚生省がGHQに異議を申し立てた結果、許可は協和発酵工業と明治製菓の2社に下りた。医薬品の製造経験がない会社が発酵設備の規模を根拠に技術供与を得たことが、医薬を事業の一角に加える起点になったのだと思われる。

  • 私の履歴書 経済人12「加藤辨三郎(協和醗酵工業・会長)」
    • [62]1950年夏に渡米し、メルク社とストレプトマイシン製造に関する契約を結び、コマーシャル・ソルベント社からブタノール醗酵の技術と菌を導入。交渉はメルク側提案をほぼ受け入れる結果に
    • [64]1950年夏に渡米し、メルク社とストレプトマイシン製造に関する契約を結び、コマーシャル・ソルベント社からブタノール醗酵の技術と菌を導入。交渉はメルク側提案をほぼ受け入れる結果に
  • 歴史をつくる人々 1966「光を仰いで(協和醗酵工業 加藤辨三郎)」
    • [63]1950年に渡米しストマイ技術導入とブタノール醗酵菌導入。醗酵の産物であり自社でやるべきと考えた。輸入薬品メーカーの抵抗と厚生省の独占反対。メルク調査員が防府の醗酵タンクを見て一社供与を決めるが、厚生省がGHQに異議、協和醗酵と明治製菓の2社に許可
    • [65]1950年に渡米しストマイ技術導入とブタノール醗酵菌導入。醗酵の産物であり自社でやるべきと考えた。輸入薬品メーカーの抵抗と厚生省の独占反対。メルク調査員が防府の醗酵タンクを見て一社供与を決めるが、厚生省がGHQに異議、協和醗酵と明治製菓の2社に許可
    • [66]1950年に渡米しストマイ技術導入とブタノール醗酵菌導入。醗酵の産物であり自社でやるべきと考えた。輸入薬品メーカーの抵抗と厚生省の独占反対。メルク調査員が防府の醗酵タンクを見て一社供与を決めるが、厚生省がGHQに異議、協和醗酵と明治製菓の2社に許可
    • [67]1950年に渡米しストマイ技術導入とブタノール醗酵菌導入。醗酵の産物であり自社でやるべきと考えた。輸入薬品メーカーの抵抗と厚生省の独占反対。メルク調査員が防府の醗酵タンクを見て一社供与を決めるが、厚生省がGHQに異議、協和醗酵と明治製菓の2社に許可
    • [68]1950年に渡米しストマイ技術導入とブタノール醗酵菌導入。醗酵の産物であり自社でやるべきと考えた。輸入薬品メーカーの抵抗と厚生省の独占反対。メルク調査員が防府の醗酵タンクを見て一社供与を決めるが、厚生省がGHQに異議、協和醗酵と明治製菓の2社に許可
    • [69]1950年に渡米しストマイ技術導入とブタノール醗酵菌導入。醗酵の産物であり自社でやるべきと考えた。輸入薬品メーカーの抵抗と厚生省の独占反対。メルク調査員が防府の醗酵タンクを見て一社供与を決めるが、厚生省がGHQに異議、協和醗酵と明治製菓の2社に許可
参考文献[47]-[69]
  • 私の履歴書 経済人12「加藤辨三郎(協和醗酵工業・会長)」
    • [47]企業再建整備法に基づく整備計画を提出し1949年5月31日認可。1949年7月1日、協和産業の第二会社として協和醗酵工業が発足。社長加藤辨三郎、常務桑田猛。加藤辨三郎50歳、他は30〜40歳代
    • [49]企業再建整備法に基づく整備計画を提出し1949年5月31日認可。1949年7月1日、協和産業の第二会社として協和醗酵工業が発足。社長加藤辨三郎、常務桑田猛。加藤辨三郎50歳、他は30〜40歳代
    • [51]企業再建整備法に基づく整備計画を提出し1949年5月31日認可。1949年7月1日、協和産業の第二会社として協和醗酵工業が発足。社長加藤辨三郎、常務桑田猛。加藤辨三郎50歳、他は30〜40歳代
    • [53]企業再建整備法に基づく整備計画を提出し1949年5月31日認可。1949年7月1日、協和産業の第二会社として協和醗酵工業が発足。社長加藤辨三郎、常務桑田猛。加藤辨三郎50歳、他は30〜40歳代
    • [55]アルコールは生産開始後需要が毎年倍増、1950年にアロスパス式蒸留機を率先導入。急速な発展で資金集めに追われ株式を公開し、1949年8月に東京の取引所に上場。公開前に創立時・増資時に従業員へ持ちやすい株数を割当、転売する者もあり自由売買が原則と悟る
    • [56]アルコールは生産開始後需要が毎年倍増、1950年にアロスパス式蒸留機を率先導入。急速な発展で資金集めに追われ株式を公開し、1949年8月に東京の取引所に上場。公開前に創立時・増資時に従業員へ持ちやすい株数を割当、転売する者もあり自由売買が原則と悟る
    • [58]アルコールは生産開始後需要が毎年倍増、1950年にアロスパス式蒸留機を率先導入。急速な発展で資金集めに追われ株式を公開し、1949年8月に東京の取引所に上場。公開前に創立時・増資時に従業員へ持ちやすい株数を割当、転売する者もあり自由売買が原則と悟る
    • [59]アルコールは生産開始後需要が毎年倍増、1950年にアロスパス式蒸留機を率先導入。急速な発展で資金集めに追われ株式を公開し、1949年8月に東京の取引所に上場。公開前に創立時・増資時に従業員へ持ちやすい株数を割当、転売する者もあり自由売買が原則と悟る
    • [61]アルコールは生産開始後需要が毎年倍増、1950年にアロスパス式蒸留機を率先導入。急速な発展で資金集めに追われ株式を公開し、1949年8月に東京の取引所に上場。公開前に創立時・増資時に従業員へ持ちやすい株数を割当、転売する者もあり自由売買が原則と悟る
    • [62]1950年夏に渡米し、メルク社とストレプトマイシン製造に関する契約を結び、コマーシャル・ソルベント社からブタノール醗酵の技術と菌を導入。交渉はメルク側提案をほぼ受け入れる結果に
    • [64]1950年夏に渡米し、メルク社とストレプトマイシン製造に関する契約を結び、コマーシャル・ソルベント社からブタノール醗酵の技術と菌を導入。交渉はメルク側提案をほぼ受け入れる結果に
  • 歴史をつくる人々 1966「光を仰いで(協和醗酵工業 加藤辨三郎)」
    • [48]糖蜜輸入で醗酵工業に自信がつき、1949年に協和産業を整理会社とし第二会社協和醗酵工業を設立。役員は協和産業と同じ。協和産業から数えて満20年社長(1966年時点)
    • [50]糖蜜輸入で醗酵工業に自信がつき、1949年に協和産業を整理会社とし第二会社協和醗酵工業を設立。役員は協和産業と同じ。協和産業から数えて満20年社長(1966年時点)
    • [52]糖蜜輸入で醗酵工業に自信がつき、1949年に協和産業を整理会社とし第二会社協和醗酵工業を設立。役員は協和産業と同じ。協和産業から数えて満20年社長(1966年時点)
    • [54]糖蜜輸入で醗酵工業に自信がつき、1949年に協和産業を整理会社とし第二会社協和醗酵工業を設立。役員は協和産業と同じ。協和産業から数えて満20年社長(1966年時点)
    • [57]防府工場は機銃掃射程度で生産能力に支障なし。原料さえ入れば作れば売れる時代。糖蜜を入れた商社が第2位株主(1966年時点)で「金は出すが口は出さない」約束
    • [60]防府工場は機銃掃射程度で生産能力に支障なし。原料さえ入れば作れば売れる時代。糖蜜を入れた商社が第2位株主(1966年時点)で「金は出すが口は出さない」約束
    • [63]1950年に渡米しストマイ技術導入とブタノール醗酵菌導入。醗酵の産物であり自社でやるべきと考えた。輸入薬品メーカーの抵抗と厚生省の独占反対。メルク調査員が防府の醗酵タンクを見て一社供与を決めるが、厚生省がGHQに異議、協和醗酵と明治製菓の2社に許可
    • [65]1950年に渡米しストマイ技術導入とブタノール醗酵菌導入。醗酵の産物であり自社でやるべきと考えた。輸入薬品メーカーの抵抗と厚生省の独占反対。メルク調査員が防府の醗酵タンクを見て一社供与を決めるが、厚生省がGHQに異議、協和醗酵と明治製菓の2社に許可
    • [66]1950年に渡米しストマイ技術導入とブタノール醗酵菌導入。醗酵の産物であり自社でやるべきと考えた。輸入薬品メーカーの抵抗と厚生省の独占反対。メルク調査員が防府の醗酵タンクを見て一社供与を決めるが、厚生省がGHQに異議、協和醗酵と明治製菓の2社に許可
    • [67]1950年に渡米しストマイ技術導入とブタノール醗酵菌導入。醗酵の産物であり自社でやるべきと考えた。輸入薬品メーカーの抵抗と厚生省の独占反対。メルク調査員が防府の醗酵タンクを見て一社供与を決めるが、厚生省がGHQに異議、協和醗酵と明治製菓の2社に許可
    • [68]1950年に渡米しストマイ技術導入とブタノール醗酵菌導入。醗酵の産物であり自社でやるべきと考えた。輸入薬品メーカーの抵抗と厚生省の独占反対。メルク調査員が防府の醗酵タンクを見て一社供与を決めるが、厚生省がGHQに異議、協和醗酵と明治製菓の2社に許可
    • [69]1950年に渡米しストマイ技術導入とブタノール醗酵菌導入。醗酵の産物であり自社でやるべきと考えた。輸入薬品メーカーの抵抗と厚生省の独占反対。メルク調査員が防府の醗酵タンクを見て一社供与を決めるが、厚生省がGHQに異議、協和醗酵と明治製菓の2社に許可

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出典・参考 2件
出典・参考
  • 歴史をつくる人々 1966「光を仰いで(協和醗酵工業 加藤辨三郎)」
  • 私の履歴書 経済人12「加藤辨三郎(協和醗酵工業・会長)」

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