1937年11月1日、宝酒造市川工場長の加藤辨三郎氏は、同業3社の共同機構である協和会へ出向した。協和会は宝酒造・大日本酒類醸造・合同酒精の3社が、経営の合理化と業界の安定を目的に設けた組織である。3大アルコールメーカーの間では販売競争が激化し、乱売が続いていたことが結成の背景にあった。会長には宝酒造社長の四方卯三郎氏が、副会長には森英示氏と野口喜一郎氏が就任し、事務局を東京・日比谷に置いた。3社は原料と容器を共同で購入し、受注した会社にかかわらず最寄りの工場から製品を出荷した。各社の独立を保ったまま調達から出荷までを一体で運営したことが、のちに共同の研究機関を生む土台になったとみられる。
協和会は協調の成果で業界に余裕が生じたことから、活動を3社共同の研究に広げ、加藤辨三郎氏にその研究機関の設立を託した。当初は建物も設備もなく、加藤辨三郎氏は商工省所管の東京工業試験所で開放研究室を借用して研究を始めた。国家統制で試薬や人員の確保が難しくなり、題目は国策に沿うものへ移った。当時、合同酒精が計画していたのは、発酵法によるブタノール・アセトンの国産化。加藤辨三郎氏は同社専務の堀末治氏の勧めで、両者を航空燃料の助剤に加工する研究を引き受けた。研究所の建設を促したのは、ブタノールからイソオクタンを得る研究を評価した陸軍航空本部である。3社共同出資の日本共商の社長である野口喜一郎氏が即決し、1939年夏に渋谷区代々木大山町の用地1,400坪を購入した。
1940年2月11日、加藤辨三郎氏らは代々木大山町に完成した木造の研究室へ移り、門柱に協和化学研究所の表札を掲げた。移転日は皇紀2600年の紀元節にあたる。軍の支援によって、研究機関は初めて自前の土地と建物と設備を持った。同年末にはイソオクタンの試料を陸軍航空技術研究所に提出し、試験に合格した。研究を強化するため、加藤辨三郎氏は京都大学から桑田猛氏を招き、研究員を発酵と合成の2班に分けた。研究所の方針として『醗酵と合成との有機的結合』を掲げ、この方針はのちに協和発酵工業の根本方針として引き継がれた。発酵で得た原料を化学合成で高付加価値品に変える発想が、戦後の事業の組み立て方を先取りしていたと考えられる。
1943年3月18日、東洋紡績の防府工場を引き継ぐ新会社、東亜化学興業の発足。前年8月にジャワ視察から帰国した加藤辨三郎氏は、陸軍省からイソオクタンを国内で年産2万キロリットル製造する工場の建設を命じられていた。合同酒精社長の野口喜一郎氏は自ら九州で用地を探し、大分県鶴崎と宮崎県細島を候補に挙げた。そこへ大学の同級生で東洋紡績取締役の富久力松氏が、防府工場の転用の可否について診断を求めてきた。加藤辨三郎氏は単身で工場を視察し、十分に転用できると結論づけた。払込資本金1,000万円の50%を東洋紡績が出資し、社長に野口喜一郎氏、常務に加藤辨三郎氏が就任した。同年12月には改装を終えたブタノール工場が操業を始めた。
1945年11月、前社長の野口喜一郎氏の指名を受けて加藤辨三郎氏が社長に就任し、社名を協和産業に改めた。東亜化学興業は1944年夏に軍の命令でブタノールから無水アルコールの製造へ転じ、終戦で軍需という目的が消えた。倉庫の砂糖も進駐軍の指令で住民に分配され、原料をすべて失った。1945年9月30日に約1,000名の社員をいったん全員退職とし、10月1日に約230名を改めて採用した。戦時色の強い「東亜」の名を外し、協和会に由来する「協和」の字を残したのは、加藤辨三郎氏の判断である。3工場は戦災を免れ、残ったアルコールで焼酎を造り、砂糖の空き袋から甘味液やアイスキャンデーを製造した。「産業」の2字に、主力が定まるまで何でも手がける意味を込めたのは、主力事業を決めかねていた当時の実情の反映だろう。
1948年秋、協和産業はアルコールとブタノール・アセトンの2つの発酵事業を、委託先に頼らず自社で営み始めた。原料難を打開する手がかりとなったのは、戦時中にジャワの製糖工場で見た、川に捨てられる糖蜜である。加藤辨三郎氏はGHQに輸入を直接願い出て、1948年8月にマニラから糖蜜を積んだ第一船が防府に入港した。アルコールは1946年秋から、中央原料酒精の委託を受けて清酒添加用に製造していた。中央原料酒精は旧宝酒造市川工場を全国清酒組合中央会が取得した会社で、社長は元大蔵次官の松隈秀雄氏だった。1948年、松隈秀雄氏は公正取引委員会の発足で独占が認められなくなったとして、協和産業を独立させる方針を加藤辨三郎氏に伝えた。
1949年7月1日、協和産業を母体とする第二会社の協和発酵工業が発足し、加藤辨三郎氏が社長に就任した。2つの発酵事業がそろったのを受けて、加藤辨三郎氏は企業再建整備法に基づく整備計画を政府に提出し、同年5月31日に認可を得た。協和産業は整理会社として発展的に解消し、事業は新会社へ移った。常務には研究所時代から加わった桑田猛氏が就任し、役員は協和産業と同じ顔ぶれで新会社を始めた。発足時、加藤辨三郎氏は50歳、他の役員は30歳代と40歳代である。糖蜜の入手で発酵事業の見通しが立ち、協和産業の段階で社長を務めた期間を含めると、加藤辨三郎氏の社長在任は1966年時点で満20年に及んだ。戦時の旧会社を整理会社として切り離したことで、新会社は発酵事業だけを引き継いで出発できたと推察される。
1949年8月、協和発酵工業の東京証券取引所への上場。清酒原料用のアルコールは生産開始後に需要が毎年倍増し、事業の拡大に資金の調達が追いつかなかった。防府工場は機銃掃射を受けた程度で生産能力を保っており、原料さえ入れば製品はすぐに売れた。加藤辨三郎氏は株式公開に先立ち、創立時と増資時に従業員が保有しやすい株数を割り当てた。割り当てた株をすぐに転売する従業員も現れ、加藤辨三郎氏は株式の自由売買を原則とすべきだと考えを改めた。糖蜜の輸入を担った外国商社も出資し、経営には関与しない約束のもと、1966年時点では第2位の株主にあたる。1950年にはアロスパス式蒸留機を他社に先駆けて導入し、アルコールの品質を高めた。
1950年夏、加藤辨三郎氏は渡米し、米メルク社との間でストレプトマイシンを製造する契約を結んだ。同じ渡航で、コマーシャル・ソルベンツ社からブタノール発酵の技術と菌も導入した。ストレプトマイシンは発酵で得る結核の治療薬であり、加藤辨三郎氏は自社の発酵技術で国産すべきだと考えた。当時は各医薬品会社が高値で輸入しており、輸入業者の抵抗と、一社独占に対する厚生省の反対を招いた。メルク社の調査員は防府工場の大型発酵タンク群を視察し、協和発酵工業一社への技術供与を決めた。厚生省がGHQに異議を申し立てた結果、許可は協和発酵工業と明治製菓の2社に下りた。医薬品の製造経験がない会社が発酵設備の規模を根拠に技術供与を得たことが、医薬を事業の一角に加える起点になったのだと思われる。
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事実根拠:出所(協和キリン)