日本触媒 の歴史

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沿革

1941〜2022年 1941年に八谷泰造氏と納五平氏が大阪市に設立したヲサメ合成化学工業が起源。1970年にアクリル酸を国産化し、1983年には紙おむつ用の高吸水性樹脂の量産に入った。高吸水性樹脂では先発の三洋化成工業を1年で上回り、世界首位の座に立った。

沿革

1941年に八谷泰造氏と納五平氏が大阪市に設立したヲサメ合成化学工業が起源。

1970年にアクリル酸を国産化し、1983年には紙おむつ用の高吸水性樹脂の量産に入った。高吸水性樹脂では先発の三洋化成工業を1年で上回り、世界首位の座に立った。

1935年〜創業期ヲサメ合成化学工業の設立と姫路工場の新設

  1. ヲサメ合成化学工業を設立
  2. 空襲で本社焼失。吹田工場に移転
  3. 商号を日本触媒化学工業に変更
  4. 大阪証券取引所第1部に株式上場
  5. 無水マイレン酸の製造開始
  6. 半期赤字に転落。富士製鐵が救済
  7. 酸化エチレンの量産開始
  8. 姫路工場を新設
日本触媒売上高1960年11月期55.4億円

1961年〜安定成長期アクリル酸の製造開始による石油化学への進出

  1. 本社を高麗橋に移転、吹田に研究所
  2. 川崎第二工場を新設
  3. アクリル酸の製造を開始
  4. 追浜工場を新設(1978年休止)
  5. セカンダリーアルコールエトキシレートの製造を開始
  6. 姫路研究所・川崎研究所を新設
日本触媒売上高1981年11月期982.52億円

1982年〜安定成長期高吸水性樹脂SAPの製造開始と住友化学からのアクリル酸事業取得

  1. メタクリル酸・同エステルの製造を開始
  2. 姫路製造所で高吸水性樹脂(SAP)の製造を開始
  3. 高吸水性樹脂(SAP)の製造を開始
  4. NA Industries Inc.を設立(米国法人)
  5. 10ヵ年総合経営計画「テクノアメニティ」を策定
  6. 社名を「日本触媒」に変更
  7. 子会社を設立
  8. 子会社を設立
  9. ベルギーに子会社を設立
  10. 長期経営計画「テクノアメニティNV」を策定
  11. 住友化学との事業交換によりアクリル酸事業を取得
  12. 住友化学にメチルメタクリレート事業を譲渡
  13. シンガポール・アクリリック等2社を取得
  14. 日本乳化剤と中日合成化學を取得
日本触媒売上高2011年3月期2,883億円

2012年〜不祥事姫路製造所の爆発事故と三洋化成統合の撤回

  1. 姫路製造所で爆発事故が発生
  2. 吹田工場を閉鎖(研究拠点として継続活用)
  3. 高吸水性樹脂の増産を決定
  4. SAPの収益性が低下。サバイバルPJを開始
  5. 三洋化成との統合(撤回)
  6. 最終赤字108億円に転落
  7. プライム市場に移行
日本触媒売上高2026年3月期3,999億円
長期業績の推移 1951〜2026年

業績

日本触媒:歴代社長と長期業績の推移売上高(億円)純利益率(%)
1970年11月期〜2026年3月期

第1章 1935年〜 ヲサメ合成化学工業の設立と姫路工場の新設

1935年〜月産15tの無水フタル酸プラントと、ヲサメ合成化学工業の独立

納五平氏は1926年、硫酸製造装置を設計・施工するヲサメ硫酸工業事務所を大阪に開設した。1935年3月に研究部へ入った後輩の八谷泰造氏は、1937年春にバナジウム触媒を国産化し、同年6月に研究所長となった。1938年秋、八谷泰造氏は同じ触媒でナフタリンを酸化し、無水フタル酸を造る案を納五平氏に提示。国内の生産は外国技術を導入した2社に限られ、日中戦争以降は軍用塗料の需要が拡大していた。納五平氏は当初反対したものの、研究所は1940年秋に月産1.5tの装置を動かし、1941年3月に月産15tのプラントへ着工した。触媒の技術を別の製品へ転用できたことが、装置の請負から化学品の製造へ移る起点になったとみられる。

  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「無水フタル酸を事業の軸に」
    • [1]納五平は1926年に大阪でヲサメ硫酸工業事務所を開設し、硫酸製造装置の設計・施工を業とした
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「15tプラントの稼働で順調な出足」
    • [2]1935年1月に研究部発足、同年3月八谷泰造が入所。1937年春に硫酸触媒を国産化し、同年6月ヲサメ硫酸研究所を新設して八谷が所長
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「戦時下の健闘と試練」
    • [3]1938年秋に八谷が同じ触媒によるナフタリン酸化で無水フタル酸の工業化を提言。国内は外国技術導入の2社のみ、日中戦争後は軍用塗料向け需要が拡大。1940年秋に月産1.5t、1941年3月に反応管320本・月産15tプラント着工
    • [4]1938年秋に八谷が同じ触媒によるナフタリン酸化で無水フタル酸の工業化を提言。国内は外国技術導入の2社のみ、日中戦争後は軍用塗料向け需要が拡大。1940年秋に月産1.5t、1941年3月に反応管320本・月産15tプラント着工
    • [6]1938年秋に八谷が同じ触媒によるナフタリン酸化で無水フタル酸の工業化を提言。国内は外国技術導入の2社のみ、日中戦争後は軍用塗料向け需要が拡大。1940年秋に月産1.5t、1941年3月に反応管320本・月産15tプラント着工
  • 産業フロンティア物語 1968「触媒〈日本触媒化学〉」
    • [5]納五平は無水フタル酸の工業化研究に当初反対した

ヲサメ硫酸工業は1941年8月15日、研究所を分離・独立させたヲサメ合成化学工業の創立総会を開催した。無水フタル酸の試験製造に成功し、工業化のめどが立ったことが独立の理由である。資本金は18万円で、定款はバナジウム触媒を用いた工業薬品・染料中間体・合成樹脂の製造を目的に掲げた。納五平氏が代表取締役社長に就任し、取締役の八谷泰造氏は田川工場長として生産を指揮した。同年8月21日に設立登記を完了し、硫酸装置の設計・施工を続ける本体はヲサメ化学機械へ社名を変える。装置の受注と化学品の量産では資金も人も性格が異なり、会社を分けて製造の責任を明確にしたと推察される。

  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「無水フタル酸を事業の軸に」
    • [7]1941年8月15日にヲサメ合成化学工業の創立総会。ヲサメ硫酸研究所を分離・独立させ、無水フタル酸の工業化のめどがついたため
    • [8]1941年8月15日にヲサメ合成化学工業の創立総会。ヲサメ硫酸研究所を分離・独立させ、無水フタル酸の工業化のめどがついたため
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「15tプラントの稼働で順調な出足」
    • [9]資本金18万円、定款の目的はバナジウム触媒による工業薬品・染料中間体・合成樹脂の製造。納五平が代表取締役社長、八谷泰造が田川工場長。本体はヲサメ化学機械に社名変更
    • [10]資本金18万円、定款の目的はバナジウム触媒による工業薬品・染料中間体・合成樹脂の製造。納五平が代表取締役社長、八谷泰造が田川工場長。本体はヲサメ化学機械に社名変更
    • [12]資本金18万円、定款の目的はバナジウム触媒による工業薬品・染料中間体・合成樹脂の製造。納五平が代表取締役社長、八谷泰造が田川工場長。本体はヲサメ化学機械に社名変更
  • 株式会社年鑑 1957年版「日本触媒化学工業」
    • [11]日本触媒化学工業の設立年月日は1941年8月21日

月産15tのプラントは1941年12月に完成し、同月8日の太平洋戦争の開戦で軍用機塗料向けの需要が拡大した。当初2カ月の収率は30%余で、技術陣は1942年6月に74%まで引き上げ、商工省と大阪市から工業助成金を受けた。第1期(1942年5月期)は売上高14万2076円60銭・純利益2万1347円71銭で、年8%の配当を実施した。1942年の国内需要は月約170tと推定され、各社の生産計60tのうち30tがヲサメ合成化学工業の分である。業績は期を追って増大し、8%の配当を継続した。供給不足の市場で製造の立ち上げが軍需の拡大と重なり、出足から販売先を確保できたと思われる。

  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「15tプラントの稼働で順調な出足」
    • [13]15tプラントは1941年12月完成・12月19日試運転。太平洋戦争で軍用機塗料向け需要拡大。収率は当初30%余から1942年6月74%。商工省・大阪市から工業助成金。第1期売上高14万2076円60銭・純利益2万1347円71銭・配当年8%
    • [14]15tプラントは1941年12月完成・12月19日試運転。太平洋戦争で軍用機塗料向け需要拡大。収率は当初30%余から1942年6月74%。商工省・大阪市から工業助成金。第1期売上高14万2076円60銭・純利益2万1347円71銭・配当年8%
    • [15]15tプラントは1941年12月完成・12月19日試運転。太平洋戦争で軍用機塗料向け需要拡大。収率は当初30%余から1942年6月74%。商工省・大阪市から工業助成金。第1期売上高14万2076円60銭・純利益2万1347円71銭・配当年8%
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「戦時下の健闘と試練」
    • [16]1942年当時の無水フタル酸需要は月約170t、各社総生産は約60t、ヲサメ合成はその半分の30tを生産するトップメーカー
  • 産業フロンティア物語 1968「触媒〈日本触媒化学〉」
    • [17]ヲサメ合成化学は売上高・利益とも期を追って増大し、8分配当を継続
参考文献[1]-[17]
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「無水フタル酸を事業の軸に」
    • [1]納五平は1926年に大阪でヲサメ硫酸工業事務所を開設し、硫酸製造装置の設計・施工を業とした
    • [7]1941年8月15日にヲサメ合成化学工業の創立総会。ヲサメ硫酸研究所を分離・独立させ、無水フタル酸の工業化のめどがついたため
    • [8]1941年8月15日にヲサメ合成化学工業の創立総会。ヲサメ硫酸研究所を分離・独立させ、無水フタル酸の工業化のめどがついたため
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「15tプラントの稼働で順調な出足」
    • [2]1935年1月に研究部発足、同年3月八谷泰造が入所。1937年春に硫酸触媒を国産化し、同年6月ヲサメ硫酸研究所を新設して八谷が所長
    • [9]資本金18万円、定款の目的はバナジウム触媒による工業薬品・染料中間体・合成樹脂の製造。納五平が代表取締役社長、八谷泰造が田川工場長。本体はヲサメ化学機械に社名変更
    • [10]資本金18万円、定款の目的はバナジウム触媒による工業薬品・染料中間体・合成樹脂の製造。納五平が代表取締役社長、八谷泰造が田川工場長。本体はヲサメ化学機械に社名変更
    • [12]資本金18万円、定款の目的はバナジウム触媒による工業薬品・染料中間体・合成樹脂の製造。納五平が代表取締役社長、八谷泰造が田川工場長。本体はヲサメ化学機械に社名変更
    • [13]15tプラントは1941年12月完成・12月19日試運転。太平洋戦争で軍用機塗料向け需要拡大。収率は当初30%余から1942年6月74%。商工省・大阪市から工業助成金。第1期売上高14万2076円60銭・純利益2万1347円71銭・配当年8%
    • [14]15tプラントは1941年12月完成・12月19日試運転。太平洋戦争で軍用機塗料向け需要拡大。収率は当初30%余から1942年6月74%。商工省・大阪市から工業助成金。第1期売上高14万2076円60銭・純利益2万1347円71銭・配当年8%
    • [15]15tプラントは1941年12月完成・12月19日試運転。太平洋戦争で軍用機塗料向け需要拡大。収率は当初30%余から1942年6月74%。商工省・大阪市から工業助成金。第1期売上高14万2076円60銭・純利益2万1347円71銭・配当年8%
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「戦時下の健闘と試練」
    • [3]1938年秋に八谷が同じ触媒によるナフタリン酸化で無水フタル酸の工業化を提言。国内は外国技術導入の2社のみ、日中戦争後は軍用塗料向け需要が拡大。1940年秋に月産1.5t、1941年3月に反応管320本・月産15tプラント着工
    • [4]1938年秋に八谷が同じ触媒によるナフタリン酸化で無水フタル酸の工業化を提言。国内は外国技術導入の2社のみ、日中戦争後は軍用塗料向け需要が拡大。1940年秋に月産1.5t、1941年3月に反応管320本・月産15tプラント着工
    • [6]1938年秋に八谷が同じ触媒によるナフタリン酸化で無水フタル酸の工業化を提言。国内は外国技術導入の2社のみ、日中戦争後は軍用塗料向け需要が拡大。1940年秋に月産1.5t、1941年3月に反応管320本・月産15tプラント着工
    • [16]1942年当時の無水フタル酸需要は月約170t、各社総生産は約60t、ヲサメ合成はその半分の30tを生産するトップメーカー
  • 産業フロンティア物語 1968「触媒〈日本触媒化学〉」
    • [5]納五平は無水フタル酸の工業化研究に当初反対した
    • [17]ヲサメ合成化学は売上高・利益とも期を追って増大し、8分配当を継続
  • 株式会社年鑑 1957年版「日本触媒化学工業」
    • [11]日本触媒化学工業の設立年月日は1941年8月21日

1943年〜吹田工場の100tプラント爆発と、八谷泰造氏の第2代社長就任

ヲサメ合成化学工業は1942年12月に月産100tの増産計画を商工省へ出し、1943年3月に資本金を60万円とした。建設資材の不足を受けて、反応管を二重管式から多管式に変え資材を節減。1944年3月7日の試運転で反応熱の不均一から未反応ナフタリンに引火し、結晶室が爆発した。本社工場次長の濱田喜久馬氏が死亡し、損害額は資本金と同じ約60万円に上った。社長の納五平氏は『七転び八起きという言葉があるではないか。ひるまずに一から出直そう』と従業員を励まし、常務の八谷泰造氏も工場の再建を主張した。翌8日に復旧へ着手し、月産30tに縮小した新プラントは1944年9月に稼働する。

  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「吹田工場の建設と事故」
    • [18]1942年12月に100t増産計画書を商工省へ提出、1943年6月2日認可。1943年3月に資本金18万円→60万円。資材不足で反応管を二重管式から多管式へ。1944年3月7日試運転中、反応熱の不均一で未反応ナフタリンガスに引火し結晶室が爆発。濱田喜久馬本社工場次長が死亡、損害約60万円
    • [19]1942年12月に100t増産計画書を商工省へ提出、1943年6月2日認可。1943年3月に資本金18万円→60万円。資材不足で反応管を二重管式から多管式へ。1944年3月7日試運転中、反応熱の不均一で未反応ナフタリンガスに引火し結晶室が爆発。濱田喜久馬本社工場次長が死亡、損害約60万円
    • [20]1942年12月に100t増産計画書を商工省へ提出、1943年6月2日認可。1943年3月に資本金18万円→60万円。資材不足で反応管を二重管式から多管式へ。1944年3月7日試運転中、反応熱の不均一で未反応ナフタリンガスに引火し結晶室が爆発。濱田喜久馬本社工場次長が死亡、損害約60万円
    • [21]1942年12月に100t増産計画書を商工省へ提出、1943年6月2日認可。1943年3月に資本金18万円→60万円。資材不足で反応管を二重管式から多管式へ。1944年3月7日試運転中、反応熱の不均一で未反応ナフタリンガスに引火し結晶室が爆発。濱田喜久馬本社工場次長が死亡、損害約60万円
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「本社工場の被爆と終戦」
    • [22]納社長が従業員を励まし翌8日から復旧。100tを30tに縮小し、1944年9月に新30tプラント稼働、月産能力は計60t
    • [23]納社長が従業員を励まし翌8日から復旧。100tを30tに縮小し、1944年9月に新30tプラント稼働、月産能力は計60t
    • [25]納社長が従業員を励まし翌8日から復旧。100tを30tに縮小し、1944年9月に新30tプラント稼働、月産能力は計60t
  • 産業フロンティア物語 1968「触媒〈日本触媒化学〉」
    • [24]爆発後、八谷は工場再建を主張して譲らなかった

1945年6月15日の大阪空襲で本社工場はほぼ全焼し、ヲサメ合成化学工業は損害が総資産の70%に達するなか本社機能を吹田工場へ移した。8月15日の終戦に続き、GHQによる無水フタル酸と硫酸触媒の製造禁止。従業員は約50人から1945年末に20数人へ減り、残った社員は在庫のナフタリンを防虫剤として行商した。解散を求める声に対し、常務の八谷泰造氏は出征中の社員の帰る場所を理由に反対する。1946年6月の株主総会は吹田工場を正式に本社工場と決め、同年8月に特別経理会社の指定を受けた。1948年7月31日に企業再建整備計画の認可を得て資本金を300万円とし、同年12月20日に指定を解除された。

  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「本社工場の被爆と終戦」
    • [26]1945年6月15日の大阪空襲で本社工場ほぼ全焼、損害は総資産の70%。本社機能を吹田工場へ移す。終戦でGHQが無水フタル酸・硫酸触媒の製造を禁止。従業員約50人→20数人。ナフタリンを防虫剤として行商
    • [27]1945年6月15日の大阪空襲で本社工場ほぼ全焼、損害は総資産の70%。本社機能を吹田工場へ移す。終戦でGHQが無水フタル酸・硫酸触媒の製造を禁止。従業員約50人→20数人。ナフタリンを防虫剤として行商
    • [28]1945年6月15日の大阪空襲で本社工場ほぼ全焼、損害は総資産の70%。本社機能を吹田工場へ移す。終戦でGHQが無水フタル酸・硫酸触媒の製造を禁止。従業員約50人→20数人。ナフタリンを防虫剤として行商
  • 産業フロンティア物語 1968「触媒〈日本触媒化学〉」
    • [29]会社解散論に対し、八谷は出征中の社員が路頭に迷うとして反対した
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「「特別経理会社」として再建促進」
    • [30]1946年6月14日の株主総会で本社を吹田へ移転決議。1946年8月11日付で特別経理会社。1948年7月31日企業再建整備計画認可、資本金300万円、12月20日指定解除
    • [31]1946年6月14日の株主総会で本社を吹田へ移転決議。1946年8月11日付で特別経理会社。1948年7月31日企業再建整備計画認可、資本金300万円、12月20日指定解除

1947年ごろから肥料向けの硫酸触媒と、塩化ビニル可塑剤向けの無水フタル酸の受注が増え、再建のめどが立った。戦後に持株の大半を売却していた社長の納五平氏は、1949年2月28日の取締役会で辞意を表明した。取締役会は、1943年2月から代表取締役常務として実質的に経営を率いた専務の八谷泰造氏を第2代社長に選んだ。八谷泰造氏は就任2カ月後の4月23日、株主総会で日本触媒化学工業への社名変更の承認を得た。新社名の会社は5月1日に役員6人・従業員約80人で発足し、社章の中央にはナフタリンの構造式を置く。創業者の持株が減り、技術者が経営を担う体制を社名の変更で内外に示したのだろう。

  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「「特別経理会社」として再建促進」
    • [32]1947年ごろから肥料工業向け硫酸触媒と塩化ビニル可塑剤向け無水フタル酸の受注が増加
  • 産業フロンティア物語 1968「触媒〈日本触媒化学〉」
    • [33]終戦後、納五平は持株の大半を他者に売却していた
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「納社長の退陣と八谷新社長の登板」
    • [34]1949年2月28日の取締役会で納五平が辞意、八谷泰造専務を第2代社長に決議。八谷は1943年2月に常務取締役(代表取締役)となり実質的な経営責任者
    • [35]1949年2月28日の取締役会で納五平が辞意、八谷泰造専務を第2代社長に決議。八谷は1943年2月に常務取締役(代表取締役)となり実質的な経営責任者
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「社名変更と体制の強化」
    • [36]1949年4月23日の臨時株主総会で日本触媒化学工業への社名変更を承認、5月1日発足。役員6人・従業員約80人。社章の中央にナフタリンの構造式
    • [37]1949年4月23日の臨時株主総会で日本触媒化学工業への社名変更を承認、5月1日発足。役員6人・従業員約80人。社章の中央にナフタリンの構造式
参考文献[18]-[37]
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「吹田工場の建設と事故」
    • [18]1942年12月に100t増産計画書を商工省へ提出、1943年6月2日認可。1943年3月に資本金18万円→60万円。資材不足で反応管を二重管式から多管式へ。1944年3月7日試運転中、反応熱の不均一で未反応ナフタリンガスに引火し結晶室が爆発。濱田喜久馬本社工場次長が死亡、損害約60万円
    • [19]1942年12月に100t増産計画書を商工省へ提出、1943年6月2日認可。1943年3月に資本金18万円→60万円。資材不足で反応管を二重管式から多管式へ。1944年3月7日試運転中、反応熱の不均一で未反応ナフタリンガスに引火し結晶室が爆発。濱田喜久馬本社工場次長が死亡、損害約60万円
    • [20]1942年12月に100t増産計画書を商工省へ提出、1943年6月2日認可。1943年3月に資本金18万円→60万円。資材不足で反応管を二重管式から多管式へ。1944年3月7日試運転中、反応熱の不均一で未反応ナフタリンガスに引火し結晶室が爆発。濱田喜久馬本社工場次長が死亡、損害約60万円
    • [21]1942年12月に100t増産計画書を商工省へ提出、1943年6月2日認可。1943年3月に資本金18万円→60万円。資材不足で反応管を二重管式から多管式へ。1944年3月7日試運転中、反応熱の不均一で未反応ナフタリンガスに引火し結晶室が爆発。濱田喜久馬本社工場次長が死亡、損害約60万円
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「本社工場の被爆と終戦」
    • [22]納社長が従業員を励まし翌8日から復旧。100tを30tに縮小し、1944年9月に新30tプラント稼働、月産能力は計60t
    • [23]納社長が従業員を励まし翌8日から復旧。100tを30tに縮小し、1944年9月に新30tプラント稼働、月産能力は計60t
    • [25]納社長が従業員を励まし翌8日から復旧。100tを30tに縮小し、1944年9月に新30tプラント稼働、月産能力は計60t
    • [26]1945年6月15日の大阪空襲で本社工場ほぼ全焼、損害は総資産の70%。本社機能を吹田工場へ移す。終戦でGHQが無水フタル酸・硫酸触媒の製造を禁止。従業員約50人→20数人。ナフタリンを防虫剤として行商
    • [27]1945年6月15日の大阪空襲で本社工場ほぼ全焼、損害は総資産の70%。本社機能を吹田工場へ移す。終戦でGHQが無水フタル酸・硫酸触媒の製造を禁止。従業員約50人→20数人。ナフタリンを防虫剤として行商
    • [28]1945年6月15日の大阪空襲で本社工場ほぼ全焼、損害は総資産の70%。本社機能を吹田工場へ移す。終戦でGHQが無水フタル酸・硫酸触媒の製造を禁止。従業員約50人→20数人。ナフタリンを防虫剤として行商
  • 産業フロンティア物語 1968「触媒〈日本触媒化学〉」
    • [24]爆発後、八谷は工場再建を主張して譲らなかった
    • [29]会社解散論に対し、八谷は出征中の社員が路頭に迷うとして反対した
    • [33]終戦後、納五平は持株の大半を他者に売却していた
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「「特別経理会社」として再建促進」
    • [30]1946年6月14日の株主総会で本社を吹田へ移転決議。1946年8月11日付で特別経理会社。1948年7月31日企業再建整備計画認可、資本金300万円、12月20日指定解除
    • [31]1946年6月14日の株主総会で本社を吹田へ移転決議。1946年8月11日付で特別経理会社。1948年7月31日企業再建整備計画認可、資本金300万円、12月20日指定解除
    • [32]1947年ごろから肥料工業向け硫酸触媒と塩化ビニル可塑剤向け無水フタル酸の受注が増加
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「納社長の退陣と八谷新社長の登板」
    • [34]1949年2月28日の取締役会で納五平が辞意、八谷泰造専務を第2代社長に決議。八谷は1943年2月に常務取締役(代表取締役)となり実質的な経営責任者
    • [35]1949年2月28日の取締役会で納五平が辞意、八谷泰造専務を第2代社長に決議。八谷は1943年2月に常務取締役(代表取締役)となり実質的な経営責任者
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「社名変更と体制の強化」
    • [36]1949年4月23日の臨時株主総会で日本触媒化学工業への社名変更を承認、5月1日発足。役員6人・従業員約80人。社章の中央にナフタリンの構造式
    • [37]1949年4月23日の臨時株主総会で日本触媒化学工業への社名変更を承認、5月1日発足。役員6人・従業員約80人。社章の中央にナフタリンの構造式

1950年〜富士製鉄の永野重雄氏の資本参加と、酸化エチレンで入った石油化学

日本触媒化学工業は1950年1月に第2フタル酸工場を新設し、月産能力を60tとした直後に資金繰りが悪化した。銀行は融資に応じず、大阪瓦斯など大手への資本参加の要請も断られた。八谷泰造氏は原料ナフタリンの仕入れ先である富士製鉄の社長で、同郷の永野重雄氏に出資を求めた。1950年12月1日の増資で資本金は3000万円となり、筆頭株主は3分の1を持つ富士製鉄である。同時期に参入した大手の多くは爆発の危険と需給の不安定から生産を中止し、日本触媒化学工業は1951年末に月産能力を250tとした。1954年には住友化学が増設を断念して出資し、日本触媒化学工業の国内シェアは約70%に達する。

  • 産業フロンティア物語 1968「触媒〈日本触媒化学〉」
    • [38]1950年1月第2フタル酸で月産60t、資金的に行き詰まり。銀行融資も大阪瓦斯への提携申入れも断られた。新規参入の大会社の多くは爆発の危険と需給不安定で生産を中止
    • [39]1950年1月第2フタル酸で月産60t、資金的に行き詰まり。銀行融資も大阪瓦斯への提携申入れも断られた。新規参入の大会社の多くは爆発の危険と需給不安定で生産を中止
    • [43]1950年1月第2フタル酸で月産60t、資金的に行き詰まり。銀行融資も大阪瓦斯への提携申入れも断られた。新規参入の大会社の多くは爆発の危険と需給不安定で生産を中止
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「富士製鉄の資本参加と増産」
    • [40]銀行融資・大手数社への資本参加要請は不調。ナフタリン入手先の富士製鉄・永野重雄社長が同郷の広島県人で、資本参加を承諾。1950年12月1日資本金1000万円→3000万円、富士製鉄が1/3出資の筆頭株主。1951年12月に総月産能力250t。1951年通期売上高3億7790万124円(前年の約3倍)
    • [41]銀行融資・大手数社への資本参加要請は不調。ナフタリン入手先の富士製鉄・永野重雄社長が同郷の広島県人で、資本参加を承諾。1950年12月1日資本金1000万円→3000万円、富士製鉄が1/3出資の筆頭株主。1951年12月に総月産能力250t。1951年通期売上高3億7790万124円(前年の約3倍)
    • [42]銀行融資・大手数社への資本参加要請は不調。ナフタリン入手先の富士製鉄・永野重雄社長が同郷の広島県人で、資本参加を承諾。1950年12月1日資本金1000万円→3000万円、富士製鉄が1/3出資の筆頭株主。1951年12月に総月産能力250t。1951年通期売上高3億7790万124円(前年の約3倍)
    • [44]銀行融資・大手数社への資本参加要請は不調。ナフタリン入手先の富士製鉄・永野重雄社長が同郷の広島県人で、資本参加を承諾。1950年12月1日資本金1000万円→3000万円、富士製鉄が1/3出資の筆頭株主。1951年12月に総月産能力250t。1951年通期売上高3億7790万124円(前年の約3倍)
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「住友化学との業務・資本提携」
    • [45]1954年に総月産能力380t・国内シェア約70%。住友化学に増設断念と製品供給を提案し7月提携、10月増資で住友化学が第2位株主
  • 株式会社年鑑 1957年版「日本触媒化学工業」
    • [46]大株主は富士製鉄1,200,000株、住友化学工業800,000株

1952年に入ると朝鮮戦争の終結に向けた動きで需要が鈍り、無水フタル酸の価格は1t約30万円から年末に11万円程度へ下がった。無水フタル酸が総売上高の90%以上を占めたため在庫は670tに達し、1952年10〜11月の希望退職者は83人にのぼる。社長の八谷泰造氏は永野重雄氏と列車内で2度面談し、原料6カ月分の代金を増資に充てる約束を得た。1952年10月6日、資本金は1億2000万円となり、銀行も救済融資に応じた。並行して同年8月31日、ベンゼンの接触気相酸化による無水マレイン酸の月産13tプラントを国内で初めて稼働させた。同じ酸化技術で原料と用途の異なる製品を持ち、単一製品の市況に左右される度合いを下げる狙いがあったと考えられる。

  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「増資の成功で苦境脱出」
    • [47]1952年、無水フタル酸は1t約30万円から年末11万円程度へ急落。売上の90%以上が無水フタル酸、在庫670t。1952年10〜11月に83人(約26%)退職。八谷が永野社長と列車で2度面談、ナフタリン6カ月分の代金を増資に充てる約束。1952年10月6日資本金1億2000万円、銀行も救済融資
    • [48]1952年、無水フタル酸は1t約30万円から年末11万円程度へ急落。売上の90%以上が無水フタル酸、在庫670t。1952年10〜11月に83人(約26%)退職。八谷が永野社長と列車で2度面談、ナフタリン6カ月分の代金を増資に充てる約束。1952年10月6日資本金1億2000万円、銀行も救済融資
    • [49]1952年、無水フタル酸は1t約30万円から年末11万円程度へ急落。売上の90%以上が無水フタル酸、在庫670t。1952年10〜11月に83人(約26%)退職。八谷が永野社長と列車で2度面談、ナフタリン6カ月分の代金を増資に充てる約束。1952年10月6日資本金1億2000万円、銀行も救済融資
    • [50]1952年、無水フタル酸は1t約30万円から年末11万円程度へ急落。売上の90%以上が無水フタル酸、在庫670t。1952年10〜11月に83人(約26%)退職。八谷が永野社長と列車で2度面談、ナフタリン6カ月分の代金を増資に充てる約束。1952年10月6日資本金1億2000万円、銀行も救済融資
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「新製品の拡充と組織・制度の整備」
    • [51]1952年8月31日、ベンゼンの接触気相酸化による無水マレイン酸の月産13tプラント稼働。日本初の企業化で通産省から工業化設備資金
  • 産業フロンティア物語 1968「触媒〈日本触媒化学〉」
    • [52]1952年、ベンゾールの接触気相酸化で無水マレイン酸の大量生産技術を確立し月産13t設備を新設

高分子化学工業の原料が不足するなか、日本触媒化学工業は1951年10月に酸化エチレンの研究を始め、1953年に触媒を見いだした。当時の製法は海外の2方式に限られ、社長の八谷泰造氏は技術導入によらず自社開発を選んだ。1957年10月1日には、財閥系でない日本石油化学とエチレン売買の覚書を結んだ。川崎工場は1959年2月に着工し、同年6月2日に年産5000tの酸化エチレンプラントが完成した。投資額9億8000万円は、当時の資本金4億8000万円の2倍を超える額である。石油化学への参入は自社の酸化触媒を新しい原料へ広げる試みであり、次の研究体制の拡充につながったと推測される。

  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「石油化学工業への進出」
    • [53]1951年10月から酸化エチレンの調査・基礎研究、1953年に製造用触媒を発見。高分子化学工業の発達でタール系石炭化学だけでは原料供給が足りず石油化学に求めた
  • 産業フロンティア物語 1968「触媒〈日本触媒化学〉」
    • [54]酸化エチレンの製法はシェル法とSD法のみで、八谷は自社技術を選択。川崎工場は1959年2月着工、6月2日年産5000tプラント完成、投資9億8000万円(当時資本金4億8000万円)
    • [56]酸化エチレンの製法はシェル法とSD法のみで、八谷は自社技術を選択。川崎工場は1959年2月着工、6月2日年産5000tプラント完成、投資9億8000万円(当時資本金4億8000万円)
    • [57]酸化エチレンの製法はシェル法とSD法のみで、八谷は自社技術を選択。川崎工場は1959年2月着工、6月2日年産5000tプラント完成、投資9億8000万円(当時資本金4億8000万円)
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「日本石油化学と組んで企業化へ」
    • [55]4センターのうち3つは旧財閥系のため、日本石油化学からエチレン受給を計画し1957年10月1日に覚書締結
参考文献[38]-[57]
  • 産業フロンティア物語 1968「触媒〈日本触媒化学〉」
    • [38]1950年1月第2フタル酸で月産60t、資金的に行き詰まり。銀行融資も大阪瓦斯への提携申入れも断られた。新規参入の大会社の多くは爆発の危険と需給不安定で生産を中止
    • [39]1950年1月第2フタル酸で月産60t、資金的に行き詰まり。銀行融資も大阪瓦斯への提携申入れも断られた。新規参入の大会社の多くは爆発の危険と需給不安定で生産を中止
    • [43]1950年1月第2フタル酸で月産60t、資金的に行き詰まり。銀行融資も大阪瓦斯への提携申入れも断られた。新規参入の大会社の多くは爆発の危険と需給不安定で生産を中止
    • [52]1952年、ベンゾールの接触気相酸化で無水マレイン酸の大量生産技術を確立し月産13t設備を新設
    • [54]酸化エチレンの製法はシェル法とSD法のみで、八谷は自社技術を選択。川崎工場は1959年2月着工、6月2日年産5000tプラント完成、投資9億8000万円(当時資本金4億8000万円)
    • [56]酸化エチレンの製法はシェル法とSD法のみで、八谷は自社技術を選択。川崎工場は1959年2月着工、6月2日年産5000tプラント完成、投資9億8000万円(当時資本金4億8000万円)
    • [57]酸化エチレンの製法はシェル法とSD法のみで、八谷は自社技術を選択。川崎工場は1959年2月着工、6月2日年産5000tプラント完成、投資9億8000万円(当時資本金4億8000万円)
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「富士製鉄の資本参加と増産」
    • [40]銀行融資・大手数社への資本参加要請は不調。ナフタリン入手先の富士製鉄・永野重雄社長が同郷の広島県人で、資本参加を承諾。1950年12月1日資本金1000万円→3000万円、富士製鉄が1/3出資の筆頭株主。1951年12月に総月産能力250t。1951年通期売上高3億7790万124円(前年の約3倍)
    • [41]銀行融資・大手数社への資本参加要請は不調。ナフタリン入手先の富士製鉄・永野重雄社長が同郷の広島県人で、資本参加を承諾。1950年12月1日資本金1000万円→3000万円、富士製鉄が1/3出資の筆頭株主。1951年12月に総月産能力250t。1951年通期売上高3億7790万124円(前年の約3倍)
    • [42]銀行融資・大手数社への資本参加要請は不調。ナフタリン入手先の富士製鉄・永野重雄社長が同郷の広島県人で、資本参加を承諾。1950年12月1日資本金1000万円→3000万円、富士製鉄が1/3出資の筆頭株主。1951年12月に総月産能力250t。1951年通期売上高3億7790万124円(前年の約3倍)
    • [44]銀行融資・大手数社への資本参加要請は不調。ナフタリン入手先の富士製鉄・永野重雄社長が同郷の広島県人で、資本参加を承諾。1950年12月1日資本金1000万円→3000万円、富士製鉄が1/3出資の筆頭株主。1951年12月に総月産能力250t。1951年通期売上高3億7790万124円(前年の約3倍)
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「住友化学との業務・資本提携」
    • [45]1954年に総月産能力380t・国内シェア約70%。住友化学に増設断念と製品供給を提案し7月提携、10月増資で住友化学が第2位株主
  • 株式会社年鑑 1957年版「日本触媒化学工業」
    • [46]大株主は富士製鉄1,200,000株、住友化学工業800,000株
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「増資の成功で苦境脱出」
    • [47]1952年、無水フタル酸は1t約30万円から年末11万円程度へ急落。売上の90%以上が無水フタル酸、在庫670t。1952年10〜11月に83人(約26%)退職。八谷が永野社長と列車で2度面談、ナフタリン6カ月分の代金を増資に充てる約束。1952年10月6日資本金1億2000万円、銀行も救済融資
    • [48]1952年、無水フタル酸は1t約30万円から年末11万円程度へ急落。売上の90%以上が無水フタル酸、在庫670t。1952年10〜11月に83人(約26%)退職。八谷が永野社長と列車で2度面談、ナフタリン6カ月分の代金を増資に充てる約束。1952年10月6日資本金1億2000万円、銀行も救済融資
    • [49]1952年、無水フタル酸は1t約30万円から年末11万円程度へ急落。売上の90%以上が無水フタル酸、在庫670t。1952年10〜11月に83人(約26%)退職。八谷が永野社長と列車で2度面談、ナフタリン6カ月分の代金を増資に充てる約束。1952年10月6日資本金1億2000万円、銀行も救済融資
    • [50]1952年、無水フタル酸は1t約30万円から年末11万円程度へ急落。売上の90%以上が無水フタル酸、在庫670t。1952年10〜11月に83人(約26%)退職。八谷が永野社長と列車で2度面談、ナフタリン6カ月分の代金を増資に充てる約束。1952年10月6日資本金1億2000万円、銀行も救済融資
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「新製品の拡充と組織・制度の整備」
    • [51]1952年8月31日、ベンゼンの接触気相酸化による無水マレイン酸の月産13tプラント稼働。日本初の企業化で通産省から工業化設備資金
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「石油化学工業への進出」
    • [53]1951年10月から酸化エチレンの調査・基礎研究、1953年に製造用触媒を発見。高分子化学工業の発達でタール系石炭化学だけでは原料供給が足りず石油化学に求めた
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「日本石油化学と組んで企業化へ」
    • [55]4センターのうち3つは旧財閥系のため、日本石油化学からエチレン受給を計画し1957年10月1日に覚書締結

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出典・参考 16件
出典・参考
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「無水フタル酸を事業の軸に」
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「15tプラントの稼働で順調な出足」
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「戦時下の健闘と試練」
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「吹田工場の建設と事故」
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「本社工場の被爆と終戦」
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「「特別経理会社」として再建促進」
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「納社長の退陣と八谷新社長の登板」
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「社名変更と体制の強化」
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「富士製鉄の資本参加と増産」
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「住友化学との業務・資本提携」
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「増資の成功で苦境脱出」
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「新製品の拡充と組織・制度の整備」
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「石油化学工業への進出」
  • 日本触媒化学工業50年のあゆみ(1991)「日本石油化学と組んで企業化へ」
  • 株式会社年鑑 1957年版「日本触媒化学工業」
  • 産業フロンティア物語 1968「触媒〈日本触媒化学〉」

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