日本触媒の創業期におけるキーパーソン(ただし創業者ではない)は、八谷泰造氏であるが、その経歴や起業に至る経緯は複雑である。
1932年に八谷泰造氏は、大阪帝国大学の工学部を卒業したものの、経済不況により就職難に直面した。このため、和歌山県にある染料メーカー「由良精工」に入社するものの、仕事ができたが故に社員から嫉妬を買い、「あんな男がいたら、今に会社を乗っ取られる」と噂を立てられて会社を追われてしまった。このため、3年後の1935年に八谷泰造氏は同社を退社した。
時を同じくして、旧知の大学教授から、硫酸の研究者であった納五平氏の研究を手伝ってほしいという依頼を受けて、1935年に「ヲサメ硫酸研究所」に参画した。この研究所の創業者は、硫酸の研究者である納五平(おさめ・ごへい)氏であり、八谷泰造氏は「研究の手伝い」として創業時から関わる形となった。
この研究所では、当時普及しつつあった化学繊維「レーヨン」の製造に必要な硫酸関連の装置を製造しており、そのための触媒の製造も行っていた。
ヲサメ硫酸研究所では「硫酸触媒」の研究をメインで行なっていたが、八谷泰造氏は「無水フタル酸」に興味を抱き、自主的に研究を行なっていた。無水フタル酸は工業向け塗料の原料であり、バナジウムの触媒を用いて有機物を酸化させることで生成されるため。これを工業化することに挑戦した。ただし、ヲサメ研究所の納社長は市場が小さいことを理由に研究を反対するなど、順風満帆な開発ではなかった。
1941年に無水フタル酸の製造に成功。同年8月にヲサメ合成化学工業株式会社(現・日本触媒)を発足して、同年から無水フタル酸の量産を開始した。会社設立と同時に、納氏が社長に就任し、八谷氏は取締役となった。
| 日時 | 経歴 | 備考 |
| 1906 | 広島県庄原市生まれ | |
| 1932 | 大阪帝国大学工学部・卒業 | 応用化学科 |
| 1932 | 由良精工・入社 | 染色工場 |
| 1935 | ヲサメ硫酸研究所・入所 | 現・日本触媒 |
| 1935 | ヲサメ合成化学工業・取締役工場長 | 現・日本触媒 |
| 1949-04 | 日本触媒化学工業・社長 |
1935年、「ヲサメ硫酸研究所」を作り、硫酸触媒の研究を始めた。この仕事をやっているうちに、私にはどうしてもやりたいテーマが出て来た。バナジウムの触媒を使って有機物を酸化させると、ナフタリンから無水フタール酸ができる。そのフタール酸を製造するための研究をもっと突っ込んで、工業化してみたいと思ったのである。この時から私は、無水フタール酸に取り憑かれたのかもしれない。私は全てを忘れてこの仕事に打ち込んでいた。
かくて1941年、フタール酸製造に成功し、これをしおにヲサメ硫酸研究所をヲサメ合成科学と改め、その取締役工場長に就任した。
無水フタル酸の製造にあたって問題になったのが、爆発事故であった。
1944年にヲサメ合成化学では無水フタル酸の増産のために、手狭になった大阪市内の工場での拡張を諦め、吹田市内に工場を新設した。ところが、1944年3月に50tの新プラントを稼働したものの、稼働5日目に爆発事故が発生してプラントが破損した。この事故により死亡者も発生したため、無水フタル酸の生産を躊躇する声が会社内部であがったという。
この渦中において、八谷氏は事業の継続を決めた。無水フタル酸は、塗料原料として使用されており、特に戦時中の航空機などの塗料に使用されることから、生産をストップできなかったという事情もあった。
日本触媒は無水フタル酸の量産を開始した1950年代において、塩ビ可塑剤としての需要が急増したこともあり、大手化学メーカーなどが相次いで参入した。1950年頃には、三井化学、ダイセル、日本化成(三菱化成)、旭化成などが無水フタル酸の製造に携わっていた。
だが、気相酸化を伴う製造法のために、常にプラントで爆発事故が起こるリスクを各社とも抱えていた。このため、財閥系の化学メーカーも無水フタル酸からの製造を取りやめるなど、結果として日本触媒が市場シェア(1960年頃の国内生産量シェア70%)を確保することにつながった。
すなわち、爆発というリスクを伴うことによって、工場運営の危険性を伴う代償として、競合企業からの事業障壁にもなった。
技術屋としての試練ですが、今も忘れません。1944年の3月7日に工場を吹っ飛ばした時です。もう私はその時自分の人生は終わりだと思いました。苦心して作った工場ですからね。
しかし、気を取り直して、またやった。あの頃は日本の敗戦が色濃くなって、前線では我々の同胞が命をマトに戦っている時だったでしょう。それで、銃後のわれわれも命を惜しんでは申し訳ないというので、それこそ決死の覚悟でやりました。
あのとき、あそこでやめておれば、うちの無水フタル酸はなかったし、第一、日本触媒そのものも今日なかったでしょう。
大阪市内の工場(田川通)を焼失。土地を稲畑産業に売却して、本社を吹田工場(1944年稼働)に移転
終戦後、ヲサメ合成化学の創業者(社長)であった納五平氏は会社の再建を諦めた。自らが保有する株式を第三者に売却するなど、事業を継続する意思に欠けた状態に陥ってしまう。
そこで、八谷泰造氏が社長に就任し、ヲサメ合成科学の株式との経営を引き継ぐとともに、商号を「日本触媒化学工業株式会社」に変更した。それまでは納氏の個人事業の色彩が濃い会社であったが、日本触媒への称号変更によってパブリックな企業として経営再建することを意図した。
なお、会社を引き継ぐ過程において、一時的に株式を保有していた「ある男(のちに破産)」がヲサメ合成の技術者7〜8名を引き抜いて、自身の会社を立ち上げてしまった。八谷氏からすれば騙された形となったが、これらの技術者は有能ではないと公言し、研究開発の体制を0ベースで作り直すことを決意したという。
終戦直後のこと、「ヲサメ合成」の社長は、もうほとんど会社を投げ出していた。ちょうど60万円の資本金を300万円にしようという時であったが、100万円か200万円の資金が作れず、ついに工場だけが手元に残るという状態だった。(略)こうして、私は資本金60万円のその会社を引き受けたのであった。一切を私のペースでスタートすることに決め、会社の名前も「ヲサメ合成」という個人的なものから、「日本触媒株式会社」というパブリックなものに変えた。
八谷泰造氏は社長就任とともに、同族経営による資本政策を避ける方向性を明確にした。これは、ヲサメ合成化学が納氏の個人経営であったがゆえに経営が成り立たなかったことの反省であり、日本触媒では八谷家の会社ではなく、上場企業として開かれた会社であることを目指した。
このため、日本触媒への商号変更を機に増資による資金調達を本格化した。増資を繰り返すことで、創業者の納氏や、八谷氏の保有比率を意図的に減らすことを選択した。
個人会社がたいてい資本金1億円以上に伸びないのは、会社が個人のものだという気持ちから抜け出さないからではないだろうか。「これはオレのものだ」という考えを捨てて経営者として目覚めることが必要なのではないだろうか。その場合、株式の過半数を自分が確保しておかねばという考えは、キッパリとやめなければならない。
個人会社から成長して大きくなった企業を持つ人は、過半数の株を独占し、経営権も世襲にしようと考えている場合が多いが、それではその会社は伸びないだろう。第一「息子に譲ってやろう」という考えは何かにつけて現れるから、息子以上の人材は決して集まらない。
この点は、アメリカに見習うべきだと思う。アメリカの繁栄はプレジデントにあると私は思っている。あらゆる人間の中から最も優れた人物をプレジデントにするから、おのずと人材が集まってっくるわけだ。
私自身も能力がなければ、いつ何時でも失脚しなければならないものと考えている。(略)ともかく、小さな企業から大企業に飛躍するためには、「企業は公器なり」ということを肝に銘じ、高所に立って経営を進めていくことが体制だと思う。
1950年前後から日本国内では「塩ビ」が樹脂系の材料として市場が急激に拡大した。積水化学を筆頭とした樹脂メーカーが塩ビ市場に参入したことで、塩ビの製造に利用する可塑剤として無水フタル酸への需要が高まった。
従来の無水フタル酸の市場は「工業用塗料」が中心であったが、塩ビ可塑剤という用途により「塩ビ」という巨大市場に用いられ、消費量が増加した。
日本触媒は塩ビ市場の拡大に合わせて、無水フタル酸の設備増設を決定した。
具体的には吹田工場において、真空蒸留工場を新設することで、無水フタル酸を増産するとともに、結晶構造を「針状結晶」から「純白フレーク状」にすることで、品質面で競合他社を引き離すことを狙った。
資金調達にあたって銀行が難色し示したため、日本触媒は増資による資金調達を実施した。
1950年の増資にあたって、引受先になったのが「富士製鐵(現在の日本製鉄)」であった。無水フタルさんの製造は「ナフタリン」であり、製鉄工場における副産物だった。このため、日本触媒は「富士製鐵」を仕入れ先として取引しており、この縁で富士製鐵が増資を引き受ける形となった。
なお、増資にあたって、富士製鐵は日本触媒の株式33%を保有した。この資本政策により、日本触媒は資本面において個人経営から脱却した。
ただし、当時の日本触媒は大阪の中小企業であり、一方の富士製鐵は日本随一の製鉄メーカーであったため、大企業がベンチャー企業に出資するという形態であった。日本触媒の八谷氏は増資に際して、富士製鉄の永野社長にアプローチするために、大学時代(大阪大学)のツテを色々と活用したという。
1952年に日本経済が一時的な経済不況に陥ると、塩ビを含めた工業製品全般の市場が縮小した。この結果、無水フタル酸の需要が減少し、価格が下落したことによって、日本触媒の業績が悪化した。
そして、1953年11月期(半期:5月〜11月)において、日本触媒は最終赤字に転落した。
日本触媒は銀行からの借入が難しい状況に陥り、増資(第三者割当)により財務体質を改善する道だけが残された。この時、大株主であった富士製鉄に対して、増資を引き受けるように依頼を図った。もともと富士製鉄が前回の増資を引き受けており、日本触媒にとってはナフタリン(製鉄工場で排出する原料)」を仕入れる取引関係にあった。
八谷社長は富士製鉄の永野社長にあうために、移動中に直談判で増資を依頼した。その後、富士製鉄の車内では日本触媒へ増資案は否決されたが、永野社長の意向により増資が決定されるに至った。ただし、富士製鉄も経済不況により苦しんでいたため、無水フタル酸の原料であるナフタリンを現物出資する形で増資に応じた。
この結果、日本触媒は富士製鐵に対して第三者割当増資を実施し、財務状況を改善した。これらの経緯から、八谷泰造氏は富士製鉄の永野社長に対して「足を向けて寝られない」と吐露し、その感謝を口にしている。
これは経営者としての試練でした。42〜43(注:歳)で社長になって3〜4年、技術者としての経験がありますが、まだ経営者の経験がない。スケールは小さいんだけれども、6000万円の資本金で資本金以上の赤字を出しましてね。あの時は人員整理もやって、ほんとうに嫌な思いをして経営者としての一大試練でした。
立ち行く道は増資するしかなかった。それで強引に富士製鉄の永野(重雄)さんに頼み込んで増資さしてもらって、やっと切り抜けたわけです。あれはやはり大きな試練でした。私はそれで、今でも永野さんの方に足を向けて寝られない思いでいるんです。
1953年の経済不況が一巡すると、塩ビの市場が再び拡大。同時に無水フタル酸の需要も拡大し、トップメーカーである日本触媒は国内シェア70%を確保した。
1950年代を通じて日本触媒の売上高のうち、90%が無水フタル酸が占めており、塩ビの原料供給企業として業容を拡大した。
無水フタル酸の副産物として製造。主な用途はポリエステル樹脂の塗料・農薬・医薬の原料など
1950年代を通じて日本触媒が製造する無水フタル酸はナフタリンであったが、1950年頃から石油化学原料(オルソキシレン)による製造法を検討し始めた。
日本触媒では、従来から培ってきた「気相酸化」の技術を応用して、1951年に石油化学原料による無水フタル酸の工業化に成功した(この方法では世界初)。当時の石油化学業界では海外からの技術導入が一般的であったが、日本触媒は研究開発により国産化に成功した形となった。
これを受けて、1955年にパイロとプラントを試作(月産3トン)して、石油化学由来の無水フタル酸の製造に関するデータを蓄えた。
私はへそ曲がりでも、単純な国粋主義者でもない。どうしても必要であり、どうしても自分の手に負えない技術なら、外国技術も入れる。しかし、努力もしてみないで、何でもかんでも外国の技術を入れるようなことは、科学技術者としての私の両親が許さないのだ。それ、やってみた。分不相応ともいうべき研究投資もした。そしたら、良い方法が見つかった。
酸化エチレンの国産化には成功したものの、課題はエチレンセンターへの参画にあった。1950年代は石油化学に参入する企業が相次いでおり、エチレンセンターの建設が相次いだが、いずれも財閥系や大手化学メーカーや、石油精製企業によって主導されており、相対的に事業規模が小さい日本触媒がコンビナートに参画することは困難を伴った。
日本触媒は、日本石油化学が川崎で新設するエチレンセンターの計画に参画することを決定した。日本石油化学(川崎)における原料共有先は、日本触媒に加えて、古河化学、昭和化学、旭ダウ(旭化成とダウの合弁)であり、いずれも財閥系に属さない化学メーカーによって構成された。この1社として、日本触媒は独立系の化学メーカーとして日本石油化学から誘致される形となった。
1958年に日本触媒は川崎にて工場の土地(2.6万m2)を取得して工場の新設に着手した。
1959年6月より日本触媒は川崎工場を稼働。酸化エチレンのプラント(年産5000トン)を新設して稼働した。
まだどこも相手にしてくれなかった頃に、日石化学が呼んでくれた。私はその義理を深く感じている。最近は方々から声をかけられるが・・・。鼻たれのころは蹴散らすようにしといて、17〜18できれいな女になったら、おれの彼女になれというようにね。しかし、そう簡単に浮気はできません
川崎工場の新設によって無水フタル酸の原料(酸化エチレン)の量産開始に合わせて、無水フタル酸の増産を行うことを決定。1960年7月に兵庫県姫路市網干の埋立地35万平方メートルの土地を取得し、同年10月に姫路工場(網干)を新設した。
以後、日本触媒においては姫路工場が無水フタル酸の量産拠点となり、川崎工場が原材料の酸化エチレンを原料を担当することで、2拠点体制を確立した。なお、吹田工場でも生産を継続した。
1959年の川崎工場の新設(第1期)にあたって、日本触媒は9.8億円を投資した。当時の日本触媒の資本金は4.8億円であり、資本金を大幅に超過する設備投資をとなった。
また、1960年には姫路工場の新設を行っており、石油化学への原料転換にあたって設備投資額が高まった。
このため、投資資金を確保するために、1959年12月に資本金10億円へと増資を実施。1961年2月には21億円へと再び増資を行っている。
なお、日本触媒にとっては「社運を賭けた投資」となり、業界関係者からは「潰れる」と揶揄されたという。
分相応のことをやっておれば良いのに、いずれ日本触媒化学は潰れるぞ、と人に言われたが、自分の力を信じてわがままを通してきた。成功してからはみんなが祝福してくれたが、栄光の中の孤独という心境だった
1960年代を通じて日本触媒は川崎工場(酸化エチレン=無水フタル酸原料)と姫路工場(無水フタル酸)の2拠点を稼働することで、生産量を拡大し、売上を拡大した。
需要面においては、無水フタル酸がポリエステル繊維の製造に用いられたことが追い風となった。1960年代を通じて繊維各社が合成繊維(ポリエステルなど)に参入したことで、製造に必要な無水フタル酸の需要が拡大した。この結果、無水フタル酸は、従来の「塗料・塩ビ」に加えて「ポリエステル繊維」という3つ目の新しい用途を獲得し、市場拡大の追い風となった。
気相酸化技術を応用してアクリル酸の製造を開始(国内初)
1980年代を通じて紙オムツにおいて、高吸水性樹脂(SAP = SUPERABSORBENT POLYMERS)が採用されたことで、SAPの市場が急速に拡大した。従来のおむつ原料は木質パルプであったが、SAPの吸収力が段違いであったため、吸水性素材としてSAPが定着する技術革新が起こった。
この領域で先鞭をつけたのは、三洋化成とユニチャームであった。1978年に三洋化成はSAPの工業化に成功し、ユニチャームがSAPを紙オムツ「ムーニー(1981年発売)」に採用。革命的ともいえる吸水力が支持され、ユニチャームは紙おむつ市場でシェアを拡大した。
この趨勢に対して、国内の紙オムツでシェア1位であったP&Gは、市場シェアを大幅に低下させてトップの座をユニチャームに譲った。このため、P&Gはユニチャームへの対抗策として、SAPを採用した紙おむつの開発を進めたものの、原料である高吸水性樹脂の確保の必要性に迫られていた。
そこで、P&Gはアクリル酸のトップメーカーであった日本触媒に対して、紙おむつ向けのSAPの製造を要請した。
1985年に日本触媒は姫路工場において高吸水性樹脂(SAP)の製造を開始した。日本触媒はSAPの原材料であるアクリル酸の製造(1970年国産化に成功)を行なっており、原料からSAPの一貫生産体制を確立した。
この設備投資により、日本触媒のSAPの生産量は、従来の1000tから、30,000tへと、約30倍に増強されたと推定される。
製造したSAPについて、日本触媒は主にP&G向けに供給した。SAPの競合である三洋化成はユニチャームに対して供給したのに対し、日本触媒はP&Gに供給する体制をとった。
このため、おむつにおけるSAPの採用はユニチャームおよび三洋化成の陣営が先発したが、SAPの量産フェーズにおいて日本触媒はP&Gという大口顧客を確保した上で後発参入する形となった。
なお、P&Gは日本触媒からSAPを仕入れるのに合わせて、1985年にSAPを採用した新型オムツを日本で発売し、ユニチャームとか王に押されていた市場シェアを奪還している。
| SAP製造メーカー | 販売先のおむつメーカー |
| 三洋化成 | ユニチャーム、白十字 |
| 花王 | 花王(自家消費) |
| 製鉄化学 | ユニチャーム |
| 荒川化学 | ユニチャーム、白十字 |
| 日本触媒 | P&G、資生堂、大王製紙 |
1980年代後半を通じて、日本触媒はP&G向けのSAPで業容を拡大した。P&Gはおむつの原材料としてSAPをグローバルに採用しており、日本触媒は国内向けおよび海外向けのおむつのSAPを供給(=輸出)することで、国内生産量でトップに躍り出た。
日本触媒はSAPに加えて、原料であるアクリル酸を内製しており、原材料からの一貫供給を安定して行える点で、競合他社(三洋化成など)に対して優位に立った。
| 企業 | SAP | アクリル酸 |
| 日本触媒 | 20,000t(1位) | 60,000t(1位) |
| 三洋化成 | 15,000t(2位) | - |
| 住友化学 | 1,000t(5位) | 37,500t(2位) |
| 花王 | 6,000t(3位) | - |
| 三菱油化 | - | 25,000t(3位) |
| 製鉄化学 | 5,000t(4位) | - |
| 大分ケミカル | - | 15,000t(4位) |
| 日本合成化学 | 200t(6位) | - |
精密化学品成長の原動力となっているのは、高吸水性樹脂(アクアリック)である。高吸水性樹脂はアクリル酸の誘導品として開発された。アクリル酸から高吸水性樹脂までの一貫した商業生産を行っているのは、わが国で当社のみであり、この点が大きな特色となっている。
高吸水性樹脂は、紙おむつ向けに需要が急拡大している成長商品である(略)。当社は、世界最大の衛生用品メーカーであるPG(プロクター・アンド・ギャンブル)社と輸出契約(円建て)を結んでおり、同部門の売上高の8割が輸出で占められている。(略)
高吸水性樹脂は、先にも述べたように一貫生産であるため、競争力が強く、利益性も高い。大幅増益を続ける当社の主力製品と言っても過言ではない製品に育っている。
インドネシアに現地法人を設立し、現地生産を開始。日本触媒の東南アジアにおける主力生産拠点となった。
日本触媒はFY2001〜FY2006における長期経営ビジョンとして「テクノアメニティNV」を策定。グローバル展開の本格化を明言するとともに、「事業ポートフォリオ」を軸とした経営指針を策定した。
日本触媒は歴史的な経緯により、汎用樹脂を中心とする低収益事業と、高吸水性樹脂を中心とする高収益事業が混在する事業構成であった。これを是正して全社の収益性を改善するため、事業ポートフォリオの入れ替えを本格化した。
積極投資の面では、アクリル酸とS高吸水性樹脂を「コア事業」と定義して、グローバル生産体制のための投資を決定。P&Gへの供給責任を果たすべく、積極投資の姿勢を鮮明に打ち出した。
事業整理の観点では、樹脂事業(不飽和ポリエステル事業など)について事業再構築の方針を表明した。ただし、不飽和ポリエステルからの撤退(合弁会社による運営)に移行したのは2014年であり、撤退判断が遅れる形となっている。
長期経営計画にあたって、全社管理目標としてROA、事業管理目標として営業キャッシュフローおよび販売貢献利益(日本触媒が独自定義)を選定した。全社面では、資産効率を意識した投資効率の最適化、事業面では各事業への利益責任を明確化することを意図した。
日本触媒のグローバル戦略によって、2000年代および2010年代を通じて海外を中心に売上高を拡大した。ただし、日本国内では樹脂事業など不採算事業の占める割合が多く、売上高が長期的に低迷。結果として、売上構成の面では「海外の成長で、国内の低迷をカバー」する形となり、全社視点での売上成長は限定的となった。
アクリル酸タンクの温度上昇による爆発事故が発生。消火活動にあたっていた消防士1名が死亡し、その他30名が重軽傷となった。
1943年に開設した吹田工場(大阪府)について、製品生産の終了を決定。生産品目の不飽和ポリエステル樹脂について、三井化学との合弁会社に事業譲渡したことで、生産設備の維持が困難となった。
工場閉鎖後は、引き続き日本触媒の研究開発拠点として継続活用へ
欧州における高吸水性樹脂および、その原料であるアクリル酸の増産を決定。ベルギーの子会社NSEを通じて、新工場の新設を決定した。
投資額は455億円を予定し、2017年10月からの稼働開始を目標に据えた。
戦略パートナー顧客(=P&G)からの値下げ圧力により、主力の高吸水性樹脂(SAP)収益性が低迷。特に、欧州子会社のNSEについて慢性的な赤字に転落しており、経営改革が急務な状況であった。そこで、日本触媒は利益率改善のために「サバイバルPJ」を発足して経営改革をスタートさせた。
日本触媒は2020年度までの4ヵ年にわたり積極投資の方針を決定。設備投資に900億円、戦略投資に600億円、研究開発費に570億円を累計で投資する方針を公表した。事業観点では高吸水性樹脂事業における収益力の回復と、新規事業の創出加速を掲げた。
2019年5月に日本触媒と三洋化成は、両社の経営統合によって新会社「Synfomix(シンフォミクス)」を設立する計画を公表した。三洋化成と日本触媒は、主におむつ向けの高吸水性樹脂で競合関係にあり、両社ともに収益性の低下に歯止めをかけるべく経営統合を選択した。経営統合の予定日は2020年10月に設定した。
2020年10月21日に日本触媒と三洋化成は、経営統合の白紙撤回を発表した。
理由は新型コロナウイルスによって、日本触媒のSAP(主に欧州)が事業不振に陥ったことであった。日本触媒は欧州におけるSAPの値下げ競争に巻き込まれて業績が悪化し、2020年10月8日に業績の下方修正を発表。2020年度末に減損損失119億円(ベルギー関連)を計上した。
一方、三洋化成のSAPは中国向けが中心であり相対的に業績が安定していた。このため、業績を前提とした経営統合の比率が決定できず、三洋化成から日本触媒に対して、統合中止の申し入れがあったとされる。
この結果、2021年3月期に日本触媒は「経営統合の中止に伴う関連費用」を特別損失として17億円計上した。
2021年3月期に日本触媒は108億円の最終赤字に転落。子会社(欧州および米国)における減損損失を計上したことが影響した。
日本触媒のヨーロッパ子会社(NSE)について、119億円の減損損失を計上。欧州地区における高吸水性樹脂の競争激化による収益低下により、設備(固定資産)の減損計上に至った。
米国の子会社SIRRUS Inc.(2017年買収)について、92億円の減損損失を計上。同社は接着剤の開発ベンチャー企業であったが、事業が軌道にのらず減損に至る。