創業1941年8月、八谷泰造が大阪でヲサメ合成化学工業を設立した。バナジウム触媒の気相酸化による無水フタル酸の工業化は欧米でも工業化事例が限られたなかで、海外技術に頼らず独力で量産にこぎつけた。1944年3月に吹田工場のプラントが稼働5日目で爆発・死亡者を出したが、八谷は事業継続を決め、1949年に商号を日本触媒化学工業へ改めた。
決断三井化学・ダイセル・旭化成が爆発リスクで撤退するなか1960年頃に国内シェア70%を握り、1959年6月に資本金4.8億円の2倍を超える9.8億円を投じて日本石油化学の川崎コンビナートに参画、酸化エチレンプラントを新設して石油化学への原料転換に踏み出した。1970年のアクリル酸国産化を経て、1985年に姫路工場で高吸水性樹脂(SAP)を後発参入。アクリル酸からSAPまでの原料一貫体制とP&G獲得を武器に、参入1年で国内首位に立った。
課題紙おむつ市場の拡大でSAP輸出比率は売上の8割に達し、米欧・インドネシアへ拠点を広げた。ただし2019年発表の三洋化成との経営統合は、コロナ禍と欧州SAP事業の119億円減損で2020年10月に白紙撤回された。中国メーカーの新規参入と価格競争激化のなかで、爆発リスクと原料一貫の構造優位を次世代の収益にどう結び直せるかが直近の主題である。
歴史概略
1935年〜1960年爆発事故を越えた無水フタル酸の残存者利益
八谷泰造の執念と吹田工場の爆発事故の克服
1935年にヲサメ硫酸研究所が発足し、八谷泰造は硫酸触媒の研究に携わる傍らで、バナジウム触媒による無水フタル酸の工業化に独自に取り組んだ。触媒化学の工業化は当時、海外技術に頼るのが一般的で、国産触媒で量産にこぎつける試みは常に事故リスクと隣り合わせだった。バナジウム触媒の気相酸化による無水フタル酸の合成は欧米でも工業化事例が限られ、独力の研究は周囲からほぼ無謀と見られた。塗料・可塑剤向けの無水フタル酸は当時輸入依存で、国産化できれば代替市場は大きいと八谷は踏んでいた。八谷は研究を続け、1941年に製造へ道筋をつけ、同年8月にヲサメ合成化学工業株式会社を設立した。創業そのものが国産触媒研究の延長線上にあった。
ところが1944年3月、吹田工場のプラントは稼働5日目に爆発事故を起こし死亡者を出した。社内からは製造中止を求める声が上がったが、八谷は事業継続を決めた。戦後の1945年6月には空襲で大阪市内の本社を焼失し、吹田工場へ移転した。1949年に八谷が社長に就任し、商号を日本触媒化学工業に改めて個人事業から脱却をはかった。1950年代に三井化学・ダイセル・旭化成が無水フタル酸に参入したが、爆発リスクから順に撤退し、1960年頃には日本触媒が国内シェア70%を確保した。先に事故を経験し、原料仕込み量の制御や反応器の冷却・安全弁といった工程管理のノウハウを積み上げたことが、結果として残存者利益につながった。
- 産業フロンティア物語
- 逆境を生きぬく(八谷泰造著)
赤字転落と富士製鐵の永野社長による救済
1952年、経済不況で塩ビ市場が縮小し、売上高の90%を無水フタル酸に頼っていた日本触媒は半期で最終赤字に転落した。資本金を上回る損失を出し、銀行借入も立ち行かない状況に追い込まれた。無水フタル酸の原料であるナフタリンを仕入れていた富士製鐵が筆頭株主でもあったため、八谷は永野重雄社長へ直談判に向かい、ナフタリンの現物出資で第三者割当増資を実現した。富士製鐵の社内で一度否決された増資案を、永野社長の判断で覆させた経緯だった。仕入先であり株主でもある富士製鐵との関係が、銀行借入という通常の資金調達手段を失った中小企業の存続を支えた。
不況が一巡して塩ビ市場が再び拡大に転じると、国内シェア首位の地位は確かなものとなった。八谷は「企業は公器なり」という信念のもと、同族経営を避け、広く株主を受け入れる資本政策を打ち出した。富士製鐵による資本救済はこの方針の延長線上にある。爆発事故の克服と資本面での救済という2つの危機を越え、単一製品への依存と資本の脆弱さという、創業期から抱えていた構造リスクが修正された。1952年の株式公開で資本市場からの調達手段も整え、銀行借入頼みではない事業拡張の経路を確保した。設立から20年近くを経て、日本触媒は単一事業への依存から抜け出すための土台を手に入れた。
- 産業フロンティア物語
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1961年〜1981年石油化学参入とアクリル酸国産化による原料一貫化
資本金の2倍を超える設備投資への踏み出し
1959年6月、日本触媒は日本石油化学の川崎コンビナートへ参画し、酸化エチレンプラントを新設した。投資額は9.8億円に上り、当時の資本金4.8億円の2倍を超えた。無水フタル酸という単一製品への依存から抜け出すには石油化学の原料を押さえるしかない、という八谷の判断だった。業界関係者からは「潰れる」と揶揄されたが、1960年に姫路工場を新設し、川崎と姫路の2拠点体制を築いた。1967年には川崎第二工場も稼働した。石炭化学から石油化学への原料転換期に、あえて石油コンビナート側へ身を置いた意思決定が、のちのアクリル酸とSAPの原料供給を可能にした。無水フタル酸だけに依拠していた時代から、酸化エチレン・エチレンオキサイドという石油化学誘導品を自社の収益軸に組み込む構造転換が、ここで始まった。
八谷は海外技術の導入が主流の時代に国産技術へこだわり、1951年に石油化学原料による無水フタル酸の工業化で世界初の成功を収めた。分相応の範囲に事業をとどめるべきだという周囲の声に反して、身の丈を超えた設備投資が企業の成長段階を引き上げた。1960年代の合成繊維ブームで売上は拡大し、川崎と姫路の両軸が次の時代の主力事業の土台となった。姫路は無水フタル酸と酸化エチレン誘導品を軸に据え、川崎は酸化エチレンとその下流製品の供給拠点として機能し、東西2拠点で原料と製品の相互補完が効く体制が整った。国産触媒技術へのこだわりと資本金を超える規模の設備投資の2つが、創業期の製品依存を抜け出すためのてことなってこの時期の日本触媒に揃った。
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アクリル酸の国産化への本格的な挑戦
1970年、日本触媒は気相酸化技術を応用してアクリル酸の国産化に成功した。アクリル酸は塗料やインクの原料として需要があり、のちに高吸水性樹脂の原料としても欠かせない物質となる。当時の国内メーカーの多くは海外技術を導入してアクリル酸を調達したが、日本触媒は無水フタル酸で磨いたバナジウム触媒と気相酸化の技術をそのままアクリル酸の合成に応用する経路を選んだ。海外技術に頼らず自前で酸化触媒を育てた判断は、20年近い時間差を置いて紙おむつ市場で効いてきた。アクリル酸からSAPまでの一貫生産体制を国内で唯一持つことが、のちのSAP事業における構造的優位の源泉となった。
1981年3月には姫路研究所と川崎研究所を設置し、研究開発体制を強化した。この時期の日本触媒は無水フタル酸からアクリル酸へと主力製品を切り替えつつあり、触媒技術という共通基盤のうえで製品ラインナップを広げる戦略が定まった。無水フタル酸を含む複数の酸化反応でバナジウム触媒を育てた経験が、気相酸化でアクリル酸を作る工程にそのまま転用された。石油化学への参入と国産技術へのこだわりは、次の時代のSAP事業における原料優位の技術的基盤を形づくる。創業期の無水フタル酸依存から、川崎と姫路の2拠点と酸化エチレン・アクリル酸を軸とする構造へと、収益源の姿が切り替わった。
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1982年〜2026年後発参入から世界首位に立ったSAPと統合白紙撤回
後発参入から1年でのSAPシェア逆転
1985年、姫路工場で高吸水性樹脂(SAP)の製造を始めた。三洋化成に7年遅れての後発参入だったが、アクリル酸からSAPまでの原料一貫生産体制と、P&Gという世界最大の紙おむつメーカーを顧客に確保したことで、参入から1年で国内生産量の首位に立った。1986年度時点の生産量は日本触媒が2万トン、三洋化成が1万5000トンだった。後発でありながら原料の内製という構造優位が、先行者の蓄積を上回った。先行する三洋化成はアクリル酸を外部調達していたため、原料価格の変動や供給制約を自社内で吸収できない弱さを抱えていた。無水フタル酸で築いた残存者利益の構造が、製品を替えてSAPという新しい市場でも再現された。
P&Gのグローバルな紙おむつ事業の拡大に伴い、日本触媒のSAP輸出比率は売上の8割に達した。米国・欧州・インドネシアに製造拠点を広げ、住友化学との事業交換によってアクリル酸事業を強化した。城野久義取締役は当時、欧米でP&Gがシェアを握った構図を「勝ち馬に乗れば、必然的に売り上げは増える」(日経産業新聞 1995/10/31)と端的に表現した。原料を内製できたことで、外部調達に頼る競合に対してコスト競争力と供給安定性の双方で優位に立った。1970年のアクリル酸国産化という判断から15年を経て、紙おむつという全く別の市場でその投資の意味が顕在化した。創業期の単一製品依存から抜け出すための国産触媒と石油化学への参入という2つの選択が、無水フタル酸とSAPという2世代の主力事業で、同じ残存者利益と原料一貫の構造優位を生んだ。
- ヤノレポート
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- 証券調査
- 日経産業新聞 1995/10/31