1941年設立。触媒技術を基盤にアクリル酸・高吸水性樹脂(SAP)で世界的シェアを獲得。無水マレイン酸から出発し、酸化エチレン・SAPへと主力製品を転換。グローバル展開を進める機能性化学品メーカー。
1941
決断
ヲサメ合成化学工業株式会社を設立
爆発リスクが生んだ参入障壁と国内シェア70%
1945
空襲で本社焼失。吹田工場に移転
1945空襲で本社焼失。吹田工場に移転
1950
決断
商号を日本触媒化学工業に変更
個人経営の破綻が生んだ「企業は公器なり」の資本設計
1952
大阪証券取引所第1部に株式上場
1952大阪証券取引所第1部に株式上場
1952
無水マイレン酸の製造開始
1952無水マイレン酸の製造開始
1952
決断
半期赤字に転落。富士製鐵が救済
仕入先が筆頭株主として救済した創業期の経営危機
1959
決断
酸化エチレンの量産開始
資本金の2倍を投じた「潰れる」と言われた石油化学転換
1960
姫路工場を新設
1960姫路工場を新設
1967
川崎第二工場を新設
1967川崎第二工場を新設
1970
追浜工場を新設(1978年休止)
1970追浜工場を新設(1978年休止)
1970
アクリル酸の製造を開始
1970アクリル酸の製造を開始
1981
姫路研究所・川崎研究所を設置
1981姫路研究所・川崎研究所を設置
1985
決断
高級水性樹脂(SAP)の製造を開始
後発参入でシェア逆転を実現した原料一貫生産の構造
1988
NA Industries Inc.を設立(米国法人)
1988NA Industries Inc.を設立(米国法人)
1990
10ヵ年総合経営計画「テクノアメニティ」を策定
199010ヵ年総合経営計画「テクノアメニティ」を策定
1996
インドネシアに現地法人を設立
1996インドネシアに現地法人を設立
1998
シンガポールに現地法人を設立
1998シンガポールに現地法人を設立
1999
欧州に現地法人を設立(ベルギー)
1999欧州に現地法人を設立(ベルギー)
2001
長期経営計画「テクノアメニティNV」を策定
2001長期経営計画「テクノアメニティNV」を策定
2002
住友化学と事業交換。アクリル酸を取得し、メチルメタクリレートを譲渡
2002住友化学と事業交換。アクリル酸を取得し、メチルメタクリレートを譲渡
2003
中国に現地法人を設立
2003中国に現地法人を設立
2012
姫路製造所で爆発事故が発生
2012姫路製造所で爆発事故が発生
2014
吹田工場を閉鎖(研究拠点として継続活用)
2014吹田工場を閉鎖(研究拠点として継続活用)
2015
欧州で高吸水性樹脂の増産を決定
2015欧州で高吸水性樹脂の増産を決定
2017
SAPの収益性が低下。サバイバルPJを開始
2017SAPの収益性が低下。サバイバルPJを開始
2019
決断
三洋化成との統合(撤回)
統合準備中の業績変動が破談させたSAP業界再編
2021
最終赤字108億円に転落
2021最終赤字108億円に転落
業績を見る
売上日本触媒:売上高
単体 | 連結(単位:億円)
4,093億円
売上高:2025/3
利益日本触媒:売上高_当期純利益率
単体 | 連結(単位:%)
4.2%
利益率:2025/3
業績を見る
区分売上高利益利益率
1951/11単体 売上高 / 当期純利益3億円0億円25.0%
1952/11単体 売上高 / 当期純利益4億円0億円11.9%
1953/11単体 売上高 / 当期純利益5億円0億円6.4%
1954/11単体 売上高 / 当期純利益7億円0億円12.5%
1955/11単体 売上高 / 当期純利益10億円1億円17.6%
1956/11単体 売上高 / 当期純利益16億円3億円17.9%
1957/11単体 売上高 / 当期純利益21億円3億円14.9%
1958/11単体 売上高 / 当期純利益22億円2億円11.2%
1959/11単体 売上高 / 当期純利益35億円3億円10.8%
1960/11単体 売上高 / 当期純利益55億円5億円9.5%
1961/11単体 売上高 / 当期純利益69億円4億円6.3%
1962/11単体 売上高 / 当期純利益69億円2億円3.0%
1963/11単体 売上高 / 当期純利益71億円2億円3.6%
1964/11単体 売上高 / 当期純利益83億円2億円3.1%
1965/11単体 売上高 / 当期純利益90億円2億円2.5%
1966/11単体 売上高 / 当期純利益104億円2億円2.5%
1967/11単体 売上高 / 当期純利益134億円7億円5.3%
1968/11単体 売上高 / 当期純利益155億円8億円5.4%
1969/11単体 売上高 / 当期純利益167億円9億円5.3%
1970/11単体 売上高 / 当期純利益202億円10億円5.0%
1971/11単体 売上高 / 当期純利益225億円9億円4.0%
1972/11単体 売上高 / 当期純利益244億円9億円4.0%
1973/11単体 売上高 / 当期純利益328億円17億円5.3%
1974/11単体 売上高 / 当期純利益569億円32億円5.6%
1975/11単体 売上高 / 当期純利益566億円20億円3.5%
1976/11単体 売上高 / 当期純利益656億円22億円3.3%
1977/11単体 売上高 / 当期純利益682億円19億円2.8%
1978/11単体 売上高 / 当期純利益695億円15億円2.2%
1979/11単体 売上高 / 当期純利益864億円28億円3.3%
1980/11単体 売上高 / 当期純利益997億円23億円2.3%
1981/11単体 売上高 / 当期純利益982億円12億円1.2%
1982/11単体 売上高 / 当期純利益956億円14億円1.5%
1983/11単体 売上高 / 当期純利益945億円12億円1.3%
1984/11単体 売上高 / 当期純利益1,011億円33億円3.3%
1985/11単体 売上高 / 当期純利益1,068億円31億円2.9%
1986/11単体 売上高 / 当期純利益1,026億円36億円3.5%
1987/11単体 売上高 / 当期純利益1,050億円56億円5.3%
1988/11単体 売上高 / 当期純利益1,171億円63億円5.4%
1989/11単体 売上高 / 当期純利益1,323億円99億円7.5%
1990/11単体 売上高 / 当期純利益---
1991/11単体 売上高 / 当期純利益---
1992/11単体 売上高 / 当期純利益---
1993/11単体 売上高 / 当期純利益---
1994/11連結 売上高 / 当期純利益---
1995/11連結 売上高 / 当期純利益---
1996/11連結 売上高 / 当期純利益1,584億円54億円3.4%
1997/3連結 売上高 / 当期純利益562億円15億円2.6%
1998/3連結 売上高 / 当期純利益1,718億円52億円3.0%
1999/3連結 売上高 / 当期純利益1,601億円44億円2.7%
2000/3連結 売上高 / 当期純利益1,624億円26億円1.6%
2001/3連結 売上高 / 当期純利益1,605億円12億円0.7%
2002/3連結 売上高 / 当期純利益1,597億円15億円0.9%
2003/3連結 売上高 / 当期純利益1,635億円55億円3.3%
2004/3連結 売上高 / 当期純利益1,697億円88億円5.1%
2005/3連結 売上高 / 当期純利益1,972億円157億円7.9%
2006/3連結 売上高 / 当期純利益2,324億円162億円6.9%
2007/3連結 売上高 / 当期純利益2,665億円139億円5.2%
2008/3連結 売上高 / 当期純利益3,026億円118億円3.8%
2009/3連結 売上高 / 当期純利益2,891億円-53億円-1.9%
2010/3連結 売上高 / 当期純利益2,443億円108億円4.4%
2011/3連結 売上高 / 当期純利益2,883億円211億円7.3%
2012/3連結 売上高 / 当期純利益3,207億円212億円6.6%
2013/3連結 売上高 / 当期純利益2,695億円84億円3.1%
2014/3連結 売上高 / 当期純利益3,021億円105億円3.4%
2015/3連結 売上高 / 当期純利益3,748億円190億円5.0%
2016/3連結 売上高 / 当期純利益3,231億円260億円8.0%
2017/3連結 売上高 / 当期純利益2,939億円193億円6.5%
2018/3連結 売上高 / 当期純利益3,228億円242億円7.4%
2019/3連結 売上高 / 当期純利益3,388億円238億円7.0%
2020/3連結 売上高 / 当期純利益3,021億円110億円3.6%
2021/3連結 売上高 / 当期純利益2,731億円-108億円-4.0%
2022/3連結 売上高 / 当期純利益3,692億円237億円6.4%
2023/3連結 売上高 / 当期純利益4,195億円193億円4.6%
2024/3連結 売上高 / 当期純利益3,920億円110億円2.8%
2025/3連結 売上高 / 当期純利益4,093億円173億円4.2%
経営方針:2026年3月期2028年3月期
日本触媒グループ 中期経営計画 2027

計画策定の背景

日本触媒は戦後の化学工業成長期において、アクリル酸(AA)および高吸水性樹脂(SAP)といった基礎化学品を軸に事業基盤を確立し、需要拡大局面では設備増強と供給能力の拡大によって成長を遂げてきた。特に1980年代から本格展開しているSAPは、P&G向けの紙おむつ需要の拡大を背景に長期的な成長事業となり、同社の収益とキャッシュフローを支える中核事業として機能してきた。一方で、事業特性上、投資判断は市況や需給見通しに強く依存し、グローバルでの供給能力増強が進む中では価格変動リスクと、設備投資による資本効率の低下を内包する構造でもあった。

2000年代以降、中国を中心とした生産能力の急拡大や市況変動の影響により、マテリアルズ事業は安定収益源であると同時に、成長と資本効率の両立が難しい事業へと性格を変えていった。こうした環境変化に対し、日本触媒は機能性材料やライフサイエンス分野への展開を進めてきたが、事業化や収益貢献のスピードは限定的であり、前中期経営計画では利益目標やROE・ROAが未達となった。この結果を踏まえ、同社は従来の量的拡大を前提とした成長モデルを見直し、2030年を見据えた事業ポートフォリオ転換を本格化させる局面として、中期経営計画2027を策定した。

経営の基本方針

中期経営計画2027では、マテリアルズ事業に依存した収益構造から段階的に脱却し、ソリューションズ事業を成長の中核に据えることを経営の基本方針としている。スペシャリティ、エレクトロニクス、電池、健康・医療といった分野に対しては、研究開発と設備投資を一体で進め、事業化までのリードタイム短縮と収益貢献の早期化を図ることで、利益構成の転換を進める方針を明確にしている。

同時に、マテリアルズ事業については、需要動向を踏まえた生産体制の最適化とコスト競争力の強化を通じて、安定したキャッシュ創出力を維持し、その資金を成長事業へ再配分する役割を担わせる。各事業のROICをモニタリングし、投資回収を前提とした資本配分を徹底することで、2027年度に営業利益350億円、ROIC6%以上、ROE7%以上の達成を目指す。本計画は、市況回復を前提とした短期的な業績改善ではなく、日本触媒が長期的に持続成長できる事業構造へ移行するための転換点として位置づけられている。

Author's Insights

爆発・赤字・潰れる?
三度の危機を乗り越えた中小企業が残存者利益を得るまで

1944年3月、日本触媒の前身であるヲサメ合成化学は、吹田工場に新設した無水フタル酸プラントが稼働5日目に爆発し、死亡者を出した。社内からは製造中止を求める声が上がったが、八谷泰造氏は事業継続を決断した。この判断は結果として競合の撤退を招いた。1950年代に三井化学、ダイセル、旭化成など大手化学メーカーが無水フタル酸に参入したが、気相酸化に伴う爆発リスクから次々と撤退し、1960年頃には日本触媒が国内シェア70%を確保するに至った。爆発という生命に関わるリスクを制御し続けたことが、逆説的に参入障壁となり、残存者利益をもたらした。

2度目の危機は1952年に訪れた。経済不況により塩ビ市場が縮小し、売上高の90%を無水フタル酸に依存していた日本触媒は半期で最終赤字に転落した。資本金を上回る損失を出し、銀行借入も困難な状況に追い込まれた。八谷氏は筆頭株主であった富士製鐵の永野重雄社長に直談判し、ナフタリンの現物出資という形で第三者割当増資を実現した。社内で一度は否決された増資案を、永野社長の判断で覆させた。仕入先であり株主でもあった富士製鐵との関係が、資金調達手段を持たない中小企業の存続を支えた。

3度目の危機は、1959年の石油化学転換に伴う設備投資であった。川崎工場の新設に9.8億円を投じたが、当時の日本触媒の資本金は4.8億円であり、投資額は資本金の2倍を超えた。業界関係者からは「潰れる」と揶揄されたという。しかし、石油化学原料への転換と姫路工場の新設によって一貫生産体制が構築され、1960年代のポリエステル繊維ブームを追い風に売上は拡大した。「分相応のことをやっておれば良いのに」という周囲の声に反して、身の丈を超えた投資が企業の成長段階を引き上げた。

三度の危機は、それぞれ「爆発リスクの受容→競合撤退による残存者利益」「赤字転落→仕入先との資本関係による救済」「過大投資→石油化学転換と一貫生産体制の確立」という形で、危機の克服がそのまま構造的な競争優位に転化している。いずれの局面でも、撤退や縮小ではなく継続と投資を選んだ八谷氏の判断が、結果としてシェアと生産体制の優位をもたらした。三度の危機は、いずれも日本触媒を退場させる可能性があったが、実際には競合を先に退場させ、残存した日本触媒の事業基盤をより強固にした。

2026-02-16 | by author
後発参入でシェア逆転を実現
三洋化成と30年にわたるおむつ向けSAPの熾烈な競争

1978年に三洋化成が高吸水性樹脂(SAP)の工業化に成功し、1981年にユニチャームが紙おむつ「ムーニー」にSAPを採用した時点で、SAP市場の先発者は三洋化成であった。日本触媒がSAPの製造を開始したのは1985年であり、三洋化成に7年遅れての参入であった。1986年度時点の国内SAP生産量は三洋化成が15,000トン、日本触媒が20,000トンであり、後発であった日本触媒が参入からわずか1年で生産量トップに立った。この急速な逆転を可能にしたのは、アクリル酸からSAPまでの原料一貫生産体制と、P&Gという世界最大の顧客の存在であった。

日本触媒は1970年にアクリル酸の国産化に成功しており、SAPの原料を内製できる国内唯一のメーカーであった。三洋化成をはじめとする競合はアクリル酸を外部から調達する必要があり、原料コストと供給安定性の両面で日本触媒に劣位にあった。P&Gがユニチャームに対抗するためにSAP調達先として日本触媒を選んだ背景にも、この原料一貫生産による安定供給力があったと推察される。P&Gのグローバルなおむつ事業の拡大に伴い、日本触媒のSAP輸出比率は売上の8割に達し、国内市場にとどまらないスケールでの成長を実現した。

しかし、2010年代後半になるとSAP市場は成熟期に入り、両社ともに収益性の低下に直面した。2019年5月、日本触媒と三洋化成はかつての競合関係を超えて経営統合を発表し、新会社「Synfomix」の設立を計画した。ところが、統合準備中に日本触媒の欧州SAP事業がコロナ禍で急速に悪化し、ベルギー関連で119億円の減損損失を計上する事態に陥った。一方、三洋化成の中国向け事業は相対的に安定しており、両社の業績格差が拡大した結果、2020年10月に経営統合は白紙撤回された。

先発の三洋化成をシェアで逆転し、30年後に統合を試みるも業績格差で破談に至るという経緯は、SAP市場における競争構造の変遷を映している。日本触媒の優位は原料一貫生産という構造的要因に支えられていたが、欧州市場での値下げ競争に巻き込まれたことで、その優位が収益に直結しない局面が生まれた。原料統合による後発逆転は実現したが、グローバル展開における地域ポートフォリオのリスクは別の問題として残った。シェアを握ることと、そのシェアから安定的に利益を得ることは、異なる課題であることを示す30年間であった。

2026-02-16 | by author
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1941
8月

ヲサメ合成化学工業株式会社を設立

爆発リスクが生んだ参入障壁と国内シェア70%

日本触媒の創業期を規定したのは、無水フタル酸の製造に伴う爆発リスクであった。1944年のプラント爆発事故で死者を出しながらも事業を継続した判断は、結果として競合他社の撤退を招き、1960年頃には国内シェア70%という独占的地位につながった。危険性が参入障壁として機能するという逆説的な構造は、化学工業における技術蓄積と事業継続の意思決定が競争優位を規定した事例である。

背景八谷泰造氏と無水フタル酸への執念

日本触媒の実質的な創業者である八谷泰造氏の経歴は異色である。1932年に大阪帝国大学工学部を卒業したものの経済不況で就職難に直面し、和歌山県の染料メーカー由良精工に入社した。しかし社内で嫉妬を買い3年で退社に追い込まれた。その後、旧知の大学教授の紹介で、硫酸研究者の納五平氏が主宰する「ヲサメ硫酸研究所」に1935年から参画した。研究所ではレーヨン製造用の硫酸触媒を手がけていた。

八谷氏は硫酸触媒の研究に従事する傍ら、バナジウム触媒を用いた無水フタル酸の工業化に独自に着手した。無水フタル酸は工業用塗料の原料であり、市場が小さいとして納社長は研究に反対したが、八谷氏は自主的に開発を続けた。1941年に無水フタル酸の製造に成功し、同年8月にヲサメ合成化学工業株式会社を設立して量産を開始した。納氏が社長、八谷氏が取締役に就任した。

決断爆発事故を乗り越えた事業継続の判断

無水フタル酸の製造は爆発リスクを伴った。1944年3月、増産のために吹田市内に新設した50トンプラントが稼働5日目に爆発事故を起こし、死亡者が発生した。社内からは無水フタル酸の製造を中止すべきとの声が上がったが、八谷氏は事業継続を決断した。戦時中の航空機用塗料として需要があり、生産を止められない事情もあった。

この爆発リスクは逆説的に参入障壁となった。1950年代に塩ビ可塑剤としての需要が急増すると、三井化学、ダイセル、旭化成など大手化学メーカーが相次いで無水フタル酸に参入したが、気相酸化に伴う爆発事故のリスクから撤退する企業が続出した。財閥系メーカーでさえ製造を取りやめる中、日本触媒は爆発リスクを制御しながら生産を継続した。

結果国内シェア70%の独占的地位を確立

競合他社が爆発リスクを理由に撤退したことで、日本触媒は1960年頃に無水フタル酸の国内生産量シェア70%を確保するに至った。危険性と引き換えに競合が退出し、残存者として独占的な地位を築いた形であった。創業期の技術的執念と爆発事故後の事業継続判断が、結果として日本触媒の事業基盤を形成した。

八谷氏自身も後年、「あのとき、あそこでやめておれば、うちの無水フタル酸はなかったし、日本触媒そのものも今日なかったでしょう」と振り返っている。爆発という生命に関わるリスクの中で事業を継続した判断が、日本触媒の原点となった。

八谷泰造氏の経歴
日時経歴備考
1906広島県庄原市生まれ
1932大阪帝国大学工学部・卒業応用化学科
1932由良精工・入社染色工場
1935ヲサメ硫酸研究所・入所現・日本触媒
1935ヲサメ合成化学工業・取締役工場長現・日本触媒
1949-04日本触媒化学工業・社長
日時
1906
経歴
広島県庄原市生まれ
爆発リスクが生んだ参入障壁と国内シェア70%

日本触媒の創業期を規定したのは、無水フタル酸の製造に伴う爆発リスクであった。1944年のプラント爆発事故で死者を出しながらも事業を継続した判断は、結果として競合他社の撤退を招き、1960年頃には国内シェア70%という独占的地位につながった。危険性が参入障壁として機能するという逆説的な構造は、化学工業における技術蓄積と事業継続の意思決定が競争優位を規定した事例である。

証言八谷泰造(日本触媒・実質創業者)

1935年、「ヲサメ硫酸研究所」を作り、硫酸触媒の研究を始めた。この仕事をやっているうちに、私にはどうしてもやりたいテーマが出て来た。バナジウムの触媒を使って有機物を酸化させると、ナフタリンから無水フタール酸ができる。そのフタール酸を製造するための研究をもっと突っ込んで、工業化してみたいと思ったのである。この時から私は、無水フタル酸に取り憑かれたのかもしれない。私は全てを忘れてこの仕事に打ち込んでいた。

かくて1941年、フタール酸製造に成功し、これをしおにヲサメ硫酸研究所をヲサメ合成科学と改め、その取締役工場長に就任した。

証言八谷泰造(日本触媒・実質創業者)

技術屋としての試練ですが、今も忘れません。1944年の3月7日に工場を吹っ飛ばした時です。もう私はその時自分の人生は終わりだと思いました。苦心して作った工場ですからね。

しかし、気を取り直して、またやった。あの頃は日本の敗戦が色濃くなって、前線では我々の同胞が命をマトに戦っている時だったでしょう。それで、銃後のわれわれも命を惜しんでは申し訳ないというので、それこそ決死の覚悟でやりました。

あのとき、あそこでやめておれば、うちの無水フタル酸はなかったし、第一、日本触媒そのものも今日なかったでしょう。

年表ヲサメ合成化学工業株式会社を設立に関する出来事
1935ヲサメ硫酸研究所が発足
1937バナジウム触媒の製造開始(硫酸製造用)
1941無水フタル酸の製造開始
19418月ヲサメ合成化学工業株式会社を設立
19443月無水フタル酸のプラントで爆発事故
死者1
1945
空襲で本社焼失。吹田工場に移転
1950
11月

商号を日本触媒化学工業に変更

個人経営の破綻が生んだ「企業は公器なり」の資本設計

日本触媒の再出発において八谷泰造氏が定めた方針は、同族経営の回避と増資による持分希薄化という資本政策であった。創業者の納氏が経営を放棄した経験から、八谷氏は企業の公器性を重視し、自身の保有比率を意図的に下げる道を選んだ。富士製鐵による33%出資は、仕入先との取引関係を資本関係に転換した事例でもある。個人経営の失敗を起点に、開かれた企業統治を志向した資本設計の原型が形成された。

背景創業者の経営放棄と八谷氏への経営移行

終戦後、ヲサメ合成化学の創業者である納五平氏は会社の再建を諦め、保有株式を第三者に売却するなど事業継続の意思を失った。資本金60万円の小企業は存続の危機にあった。この状況の中で、取締役であった八谷泰造氏が会社を引き受け、社長に就任した。商号を「日本触媒化学工業株式会社」に変更し、個人事業の色彩が濃い会社からパブリックな企業への転換を図った。

八谷氏は同族経営を回避する資本政策を明確に打ち出した。納氏の個人経営が行き詰まった反省から、八谷家の会社ではなく開かれた上場企業を目指す方針を定めた。増資を繰り返すことで創業者や自身の持分比率を意図的に低下させ、「企業は公器なり」という考えのもと、能力主義に基づく経営体制の構築を志した。

決断富士製鐵の出資受入と設備投資の実行

1950年前後から塩ビ市場が急拡大し、可塑剤としての無水フタル酸の需要が高まった。日本触媒は吹田工場に真空蒸留工場を新設して増産と品質改善を図る計画を立てたが、銀行からの借入は困難であった。そこで増資による資金調達を選択し、引受先として仕入先であった富士製鐵に依頼した。無水フタル酸の原料ナフタリンを供給する取引関係が縁となった。

八谷氏は富士製鐵の永野重雄社長に直談判で増資を持ちかけた。富士製鐵社内では否決されたものの、永野社長の意向により増資が決定された。この結果、富士製鐵が日本触媒の株式33%を保有する筆頭株主となり、日本触媒は資本面で個人経営から脱却した。大阪の中小企業に対して日本有数の製鉄メーカーが出資するという、当時としては異例の資本関係が成立した。

結果増資と品質改善による無水フタル酸の市場拡大

富士製鐵からの出資を得て財務基盤を強化した日本触媒は、吹田工場の設備増強を実行した。真空蒸留工場の新設により、無水フタル酸の結晶構造を従来の針状結晶から純白フレーク状に改良し、品質面で競合他社との差別化を図った。塩ビ市場の拡大とともに需要は伸び、1950年代を通じて日本触媒の売上高の90%を無水フタル酸が占めた。

八谷氏は後年、「私自身も能力がなければ、いつ何時でも失脚しなければならないものと考えている」と述べている。個人経営からの脱却と同族支配の回避という資本政策の方針は、創業期の経営破綻の教訓から生まれたものであり、日本触媒の企業統治の原型となった。

個人経営の破綻が生んだ「企業は公器なり」の資本設計

日本触媒の再出発において八谷泰造氏が定めた方針は、同族経営の回避と増資による持分希薄化という資本政策であった。創業者の納氏が経営を放棄した経験から、八谷氏は企業の公器性を重視し、自身の保有比率を意図的に下げる道を選んだ。富士製鐵による33%出資は、仕入先との取引関係を資本関係に転換した事例でもある。個人経営の失敗を起点に、開かれた企業統治を志向した資本設計の原型が形成された。

証言八谷泰造(日本触媒・実質創業者)

終戦直後のこと、「ヲサメ合成」の社長は、もうほとんど会社を投げ出していた。ちょうど60万円の資本金を300万円にしようという時であったが、100万円か200万円の資金が作れず、ついに工場だけが手元に残るという状態だった。(略)こうして、私は資本金60万円のその会社を引き受けたのであった。一切を私のペースでスタートすることに決め、会社の名前も「ヲサメ合成」という個人的なものから、「日本触媒株式会社」というパブリックなものに変えた。

証言八谷泰造(日本触媒・実質創業者)

個人会社がたいてい資本金1億円以上に伸びないのは、会社が個人のものだという気持ちから抜け出さないからではないだろうか。「これはオレのものだ」という考えを捨てて経営者として目覚めることが必要なのではないだろうか。その場合、株式の過半数を自分が確保しておかねばという考えは、キッパリとやめなければならない。

個人会社から成長して大きくなった企業を持つ人は、過半数の株を独占し、経営権も世襲にしようと考えている場合が多いが、それではその会社は伸びないだろう。第一「息子に譲ってやろう」という考えは何かにつけて現れるから、息子以上の人材は決して集まらない。

この点は、アメリカに見習うべきだと思う。アメリカの繁栄はプレジデントにあると私は思っている。あらゆる人間の中から最も優れた人物をプレジデントにするから、おのずと人材が集まってっくるわけだ。

私自身も能力がなければ、いつ何時でも失脚しなければならないものと考えている。(略)ともかく、小さな企業から大企業に飛躍するためには、「企業は公器なり」ということを肝に銘じ、高所に立って経営を進めていくことが体制だと思う。

年表商号を日本触媒化学工業に変更に関する出来事
19494月商号を「日本触媒化学工業株式会社」に変更
19515月第1真空蒸留工場を新設(吹田工場内)
195112月吹田工場の敷地を拡張
19521月第2真空蒸留工場を新設(吹田工場内)
195012月増資(1:3)
増資後の資本金3000万円
19516月倍額増資(1:1)
増資後の資本金6000万円
1952
大阪証券取引所第1部に株式上場
1952
無水マイレン酸の製造開始
1952
11月

半期赤字に転落。富士製鐵が救済

1952/11期(単体)売上高 4億円当期純利益 0億円
仕入先が筆頭株主として救済した創業期の経営危機

日本触媒の経営危機において、富士製鐵は仕入先と筆頭株主という二つの立場から救済に動いた。ナフタリンの現物出資という形式は、現金支出を伴わずに資本増強と原料確保を同時に実現する手法であった。取引関係を資本関係に転換した構造が、不況期の安全弁として機能した。売上の90%を無水フタル酸に依存する単一製品リスクが顕在化した局面で、サプライヤーとの資本的紐帯が企業存続を左右した事例である。

背景経済不況による塩ビ市場の縮小と赤字転落

1952年に日本経済が一時的な不況に陥ると、塩ビを含む工業製品全般の市場が縮小した。無水フタル酸の需要が減少して価格が下落し、売上高の90%を無水フタル酸に依存していた日本触媒の業績は直撃を受けた。1953年11月期(半期)に日本触媒は最終赤字に転落し、資本金を上回る規模の損失を計上した。

八谷泰造社長にとって社長就任から3〜4年目の試練であった。技術者としての経験はあったが経営者としての経験は浅く、人員整理にも踏み切らざるを得なかった。銀行からの借入は困難な状況にあり、財務改善の手段は増資による資金調達に限られていた。

決断富士製鐵・永野社長への直談判による増資の実現

八谷氏は筆頭株主であった富士製鐵に対して第三者割当増資の引受けを依頼した。無水フタル酸の原料であるナフタリンの仕入先として取引関係があり、前回の増資でも富士製鐵が引受けていた実績があった。八谷氏は富士製鐵の永野重雄社長に移動中の車内で直談判し、増資を依頼した。

富士製鐵の社内では増資案は一度否決されたが、永野社長の判断で最終的に承認された。ただし、富士製鐵自身も経済不況の影響を受けていたため、現金ではなくナフタリンの現物出資という形式で増資に応じた。原料の現物出資により、日本触媒は運転資金の負担を軽減しつつ資本を増強することができた。

結果不況の一巡と無水フタル酸シェア1位の確立

1953年の経済不況が一巡すると、塩ビ市場は再び拡大に転じた。無水フタル酸のトップメーカーとして日本触媒は需要回復の恩恵を受け、国内シェア70%を確保するに至った。不況期を富士製鐵の支援で乗り切ったことが、その後の市場拡大局面での優位につながった。

八谷氏は後年、「富士製鉄の永野さんに頼み込んで増資さしてもらって、やっと切り抜けた。今でも永野さんの方に足を向けて寝られない」と語っている。仕入先であり筆頭株主でもあった富士製鐵との関係が、創業間もない日本触媒の存続を支えた。単一製品への依存リスクが顕在化した局面で、取引関係に基づく資本関係が安全弁として機能した事例であった。

1952/11期(単体)売上高 4億円当期純利益 0億円
仕入先が筆頭株主として救済した創業期の経営危機

日本触媒の経営危機において、富士製鐵は仕入先と筆頭株主という二つの立場から救済に動いた。ナフタリンの現物出資という形式は、現金支出を伴わずに資本増強と原料確保を同時に実現する手法であった。取引関係を資本関係に転換した構造が、不況期の安全弁として機能した。売上の90%を無水フタル酸に依存する単一製品リスクが顕在化した局面で、サプライヤーとの資本的紐帯が企業存続を左右した事例である。

証言八谷泰造(日本触媒・実質創業者)

これは経営者としての試練でした。42〜43(注:歳)で社長になって3〜4年、技術者としての経験がありますが、まだ経営者の経験がない。スケールは小さいんだけれども、6000万円の資本金で資本金以上の赤字を出しましてね。あの時は人員整理もやって、ほんとうに嫌な思いをして経営者としての一大試練でした。

立ち行く道は増資するしかなかった。それで強引に富士製鉄の永野(重雄)さんに頼み込んで増資さしてもらって、やっと切り抜けたわけです。あれはやはり大きな試練でした。私はそれで、今でも永野さんの方に足を向けて寝られない思いでいるんです。

年表半期赤字に転落。富士製鐵が救済に関する出来事
196011月無水フタル酸で国内シェア1位
国内シェア70%
1959
6月

酸化エチレンの量産開始

1959/11期(単体)売上高 35億円当期純利益 3億円
資本金の2倍を投じた「潰れる」と言われた石油化学転換

日本触媒の石油化学転換は、資本金4.8億円の企業が9.8億円の設備投資を決断するという規模の判断であった。海外技術導入が主流の時代に国産技術で酸化エチレンの工業化に成功し、独立系コンビナートへの参画で量産体制を構築した。川崎と姫路の2拠点体制は、原料から製品までの一貫生産を可能にし、後のアクリル酸・SAP事業の基盤ともなった。身の丈を超えた投資判断が企業の成長段階を引き上げた事例である。

背景石油化学への原料転換と国産技術の開発

1950年代を通じて日本触媒の無水フタル酸はナフタリンを原料としていたが、石油化学原料(オルソキシレン)による製造法の検討が1950年頃から始まった。日本触媒は創業以来培ってきた気相酸化の技術を応用し、1951年に石油化学原料による無水フタル酸の工業化に世界で初めて成功した。当時の石油化学業界では海外からの技術導入が一般的であったが、八谷泰造氏は国産技術にこだわった。

1955年にはパイロットプラント(月産3トン)を稼働させ、石油化学由来の無水フタル酸に関する製造データを蓄積した。しかし、量産にはエチレンセンターへの参画が不可欠であり、財閥系や大手化学メーカーが主導するコンビナート計画に、相対的に規模の小さい日本触媒が加わることは容易ではなかった。

決断川崎工場の新設と資本金の2倍を超える設備投資

日本触媒は、日本石油化学が川崎で新設するエチレンセンターへの参画を決断した。同コンビナートの参画企業は古河化学、昭和化学、旭ダウなど財閥系に属さない独立系メーカーで構成されており、日本触媒もその一社として誘致された。1958年に川崎で2.6万㎡の土地を取得し、1959年6月に酸化エチレンのプラント(年産5,000トン)を新設して稼働を開始した。

投資額は9.8億円に上り、当時の日本触媒の資本金4.8億円の2倍を超える規模であった。業界関係者からは「潰れる」と揶揄されたという。さらに1960年には姫路工場を新設し、川崎で製造した酸化エチレンを原料に無水フタル酸を増産する2拠点体制を構築した。投資資金を確保するため、1959年に資本金10億円、1961年に21億円への増資を相次いで実施した。

結果石油化学転換による売上拡大と新市場の獲得

川崎工場と姫路工場の2拠点体制の確立により、日本触媒は1960年代を通じて生産量と売上高を拡大した。需要面では、無水フタル酸がポリエステル繊維の製造にも用いられるようになり、従来の塗料・塩ビに加えて3つ目の用途が加わった。1960年代の合成繊維ブームが追い風となり、市場拡大を享受した。

八谷氏は「分相応のことをやっておれば良いのに、いずれ潰れるぞと言われたが、自分の力を信じてわがままを通してきた」と振り返っている。資本金の2倍を超える設備投資は文字通り社運を賭けた判断であったが、石油化学への原料転換と国産技術による一貫生産体制の構築が、日本触媒を中小企業から中堅化学メーカーへと成長させた。

1959/11期(単体)売上高 35億円当期純利益 3億円
資本金の2倍を投じた「潰れる」と言われた石油化学転換

日本触媒の石油化学転換は、資本金4.8億円の企業が9.8億円の設備投資を決断するという規模の判断であった。海外技術導入が主流の時代に国産技術で酸化エチレンの工業化に成功し、独立系コンビナートへの参画で量産体制を構築した。川崎と姫路の2拠点体制は、原料から製品までの一貫生産を可能にし、後のアクリル酸・SAP事業の基盤ともなった。身の丈を超えた投資判断が企業の成長段階を引き上げた事例である。

証言八谷泰造(日本触媒・実質創業者)

私はへそ曲がりでも、単純な国粋主義者でもない。どうしても必要であり、どうしても自分の手に負えない技術なら、外国技術も入れる。しかし、努力もしてみないで、何でもかんでも外国の技術を入れるようなことは、科学技術者としての私の両親が許さないのだ。それ、やってみた。分不相応ともいうべき研究投資もした。そしたら、良い方法が見つかった。

証言八谷泰造(日本触媒・実質創業者)

まだどこも相手にしてくれなかった頃に、日石化学が呼んでくれた。私はその義理を深く感じている。最近は方々から声をかけられるが・・・。鼻たれのころは蹴散らすようにしといて、17〜18できれいな女になったら、おれの彼女になれというようにね。しかし、そう簡単に浮気はできません

証言八谷泰造(日本触媒・実質創業者)

分相応のことをやっておれば良いのに、いずれ日本触媒化学は潰れるぞ、と人に言われたが、自分の力を信じてわがままを通してきた。成功してからはみんなが祝福してくれたが、栄光の中の孤独という心境だった

年表酸化エチレンの量産開始に関する出来事
1951酸化エチレンの研究を開始
1955パイロットプラントを新設
19596月川崎工場の新設(第1工場)
投資額9.8億円
19672月川崎第2工場を稼働)
19607月網干にて土地取得
取得用地53.5万㎡
196010月姫路工場の新設
19613月姫路工場の増設
195912月増資
増資後資本金10億円
19616月増資
増資後資本金21億円
1960
姫路工場を新設
1967
川崎第二工場を新設
1970
追浜工場を新設(1978年休止)
1970
アクリル酸の製造を開始
1981
姫路研究所・川崎研究所を設置
1985
4月

高級水性樹脂(SAP)の製造を開始

1985/11期(単体)売上高 1,068億円当期純利益 31億円
後発参入でシェア逆転を実現した原料一貫生産の構造

日本触媒のSAP事業は、三洋化成とユニチャームが先行する市場に後発で参入しながら、短期間でシェア1位を獲得した。その要因は、アクリル酸からSAPまでの一貫生産体制にある。原料を内製できることで、外部調達に依存する競合に対してコスト競争力と供給安定性の双方で優位に立った。P&Gという世界最大の顧客を確保した上での参入も、量産規模の確保に寄与した。原料統合による構造的優位が後発逆転を可能にした事例である。

背景紙おむつへのSAP採用と三洋化成・ユニチャーム陣営の先行

1980年代、紙おむつにおいて高吸水性樹脂(SAP)が採用されたことで市場が急速に拡大した。従来のおむつ原料は木質パルプであったが、SAPの吸収力が段違いであったため、吸水性素材として定着する技術革新が起きた。先鞭をつけたのは三洋化成とユニチャームであり、1978年に三洋化成がSAPの工業化に成功し、1981年にユニチャームがSAP採用の紙おむつ「ムーニー」を発売して市場シェアを拡大した。

この趨勢の中で苦境に立ったのがP&Gであった。国内紙おむつでシェア1位であったP&Gは、SAP採用で先行したユニチャームにトップの座を奪われた。P&Gは対抗策としてSAP採用の紙おむつ開発を急いだが、原料となる高吸水性樹脂の安定調達が課題であった。そこでP&Gは、SAPの原料であるアクリル酸の国内トップメーカーであった日本触媒に対して、SAP製造を要請した。

決断P&G向けSAP供給と原料一貫生産体制の構築

1985年に日本触媒は姫路工場においてSAPの製造を開始した。日本触媒は1970年にアクリル酸の国産化に成功しており、原料のアクリル酸からSAPまでの一貫生産体制を確立した点が競合との最大の差別化要因であった。設備投資によりSAPの生産能力は従来の1,000トンから30,000トンへと約30倍に増強されたと推定される。

製造したSAPは主にP&Gに供給された。三洋化成がユニチャーム陣営に供給する一方、日本触媒はP&G陣営に供給する構図が形成された。P&Gは世界最大の衛生用品メーカーであり、日本触媒はグローバル規模でのSAP供給を担うこととなった。後発参入ではあったが、世界最大の顧客を確保した上での参入であった。

結果アクリル酸・SAP一貫生産でシェア1位を獲得

1980年代後半を通じて、日本触媒はP&G向けのSAP供給で業容を急拡大した。P&Gがグローバルにおむつ事業を展開する中で、日本触媒は国内向けに加えて輸出によるSAP供給を拡大し、1986年度に国内SAP生産量1位(20,000トン)およびアクリル酸生産量1位(60,000トン)を達成した。売上高に占めるSAP関連の輸出比率は8割に達した。

アクリル酸からSAPまでの一貫生産は、原料調達の安定性とコスト競争力の双方で優位をもたらした。三洋化成など競合他社はアクリル酸を外部調達する必要があったのに対し、日本触媒は原料を内製することで利益率を高く維持できた。後発参入ながら、原料一貫生産という構造的優位がシェア逆転を可能にした。

SAPの供給経路(1986年時点)
SAP製造メーカー販売先のおむつメーカー
三洋化成ユニチャーム、白十字
花王花王(自家消費)
製鉄化学ユニチャーム
荒川化学ユニチャーム、白十字
日本触媒P&G、資生堂、大王製紙
SAP製造メーカー
三洋化成
販売先のおむつメーカー
ユニチャーム、白十字
出所ヤノレポート(722) | 1986/11
国内各社のSAP・アクリル酸の生産状況(1986年度・t/年)
企業SAPアクリル酸
日本触媒20,000t(1位)60,000t(1位)
三洋化成15,000t(2位)-
住友化学1,000t(5位)37,500t(2位)
花王6,000t(3位)-
三菱油化-25,000t(3位)
製鉄化学5,000t(4位)-
大分ケミカル-15,000t(4位)
日本合成化学200t(6位)-
企業
日本触媒
SAP
20,000t(1位)
アクリル酸
60,000t(1位)
出所証券調査(198) | 1987/3
1985/11期(単体)売上高 1,068億円当期純利益 31億円
後発参入でシェア逆転を実現した原料一貫生産の構造

日本触媒のSAP事業は、三洋化成とユニチャームが先行する市場に後発で参入しながら、短期間でシェア1位を獲得した。その要因は、アクリル酸からSAPまでの一貫生産体制にある。原料を内製できることで、外部調達に依存する競合に対してコスト競争力と供給安定性の双方で優位に立った。P&Gという世界最大の顧客を確保した上での参入も、量産規模の確保に寄与した。原料統合による構造的優位が後発逆転を可能にした事例である。

証言業界雑誌(証券調査)

精密化学品成長の原動力となっているのは、高吸水性樹脂(アクアリック)である。高吸水性樹脂はアクリル酸の誘導品として開発された。アクリル酸から高吸水性樹脂までの一貫した商業生産を行っているのは、わが国で当社のみであり、この点が大きな特色となっている。

高吸水性樹脂は、紙おむつ向けに需要が急拡大している成長商品である(略)。当社は、世界最大の衛生用品メーカーであるPG(プロクター・アンド・ギャンブル)社と輸出契約(円建て)を結んでおり、同部門の売上高の8割が輸出で占められている。(略)

高吸水性樹脂は、先にも述べたように一貫生産であるため、競争力が強く、利益性も高い。大幅増益を続ける当社の主力製品と言っても過言ではない製品に育っている。

年表高級水性樹脂(SAP)の製造を開始に関する出来事
1978三洋化成がSAP(高級水性樹脂)の工業化に成功
1981ユニチャームが紙オムツにSAPを採用
1985姫路工場でSAPの製造を開始(P&G向けに供給)
198612月アクリル酸とSAPで国内シェアトップ
国内生産量1
1988
NA Industries Inc.を設立(米国法人)
1990
10ヵ年総合経営計画「テクノアメニティ」を策定
1996
インドネシアに現地法人を設立
1998
シンガポールに現地法人を設立
1999
欧州に現地法人を設立(ベルギー)
2001
長期経営計画「テクノアメニティNV」を策定
2002
住友化学と事業交換。アクリル酸を取得し、メチルメタクリレートを譲渡
2003
中国に現地法人を設立
2012
姫路製造所で爆発事故が発生
2014
吹田工場を閉鎖(研究拠点として継続活用)
2015
欧州で高吸水性樹脂の増産を決定
2017
SAPの収益性が低下。サバイバルPJを開始
2019
5月

三洋化成との統合(撤回)

2019/3期(連結)売上高 3,388億円当期純利益 238億円
統合準備中の業績変動が破談させたSAP業界再編

日本触媒と三洋化成の経営統合は、SAP市場の成熟化に対する業界再編として構想された。しかし、統合準備期間中に日本触媒の欧州事業が急速に悪化し、ベルギー関連で119億円の減損を計上したことで、統合比率の前提が崩壊した。三洋化成の中国事業が安定していたことが業績格差を際立たせ、破談の直接的要因となった。統合判断時の業績と実行時の業績が乖離するリスクを示した事例である。

背景SAP市場の収益性低下と業界再編の模索

2010年代後半、紙おむつ向けSAP市場は成熟期に入り、日本触媒と三洋化成はともに収益性の低下に直面していた。両社はSAP事業で競合関係にあったが、市場の成長鈍化と価格競争の激化により、単独での収益改善には限界が見え始めていた。特に日本触媒は欧州市場でのSAP事業においてベルギー拠点を中心に値下げ競争に巻き込まれていた。

一方、三洋化成は中国向けを中心としたSAP事業で相対的に安定した収益を維持していた。両社の事業ポートフォリオは補完関係にあり、統合によってSAP事業の規模拡大とコスト構造の改善を図る余地があると判断された。SAP市場における競合同士の統合は、業界再編による生き残り策として構想された。

決断新会社「Synfomix」設立による経営統合の発表

2019年5月、日本触媒と三洋化成は経営統合によって新会社「Synfomix(シンフォミクス)」を設立する計画を公表した。株式移転方式による統合を予定し、実施時期は2020年10月に設定された。SAP事業における競合2社の統合は、原料から製品までのサプライチェーンを再編し、グローバル市場での競争力を強化する狙いがあった。

しかし、統合に向けた準備期間中に事業環境が急変した。2020年に新型コロナウイルスの影響が拡大し、日本触媒の欧州SAP事業が不振に陥った。2020年10月に日本触媒は業績の下方修正を発表し、ベルギー関連で119億円の減損損失を計上することとなった。

結果業績格差の拡大により経営統合を白紙撤回

日本触媒の業績悪化により、統合比率の前提が崩れた。三洋化成の中国向けSAP事業は相対的に安定していたのに対し、日本触媒の欧州事業は大幅な減損を計上する状態にあった。両社の業績格差が拡大したことで、三洋化成から日本触媒に対して統合中止の申し入れがなされたとされる。

2020年10月21日、日本触媒と三洋化成は経営統合の白紙撤回を発表した。日本触媒は2021年3月期に経営統合の中止に伴う関連費用17億円を特別損失として計上した。SAP事業の収益性改善を目的とした業界再編は、統合準備期間中の業績変動によって頓挫した。統合の前提となる業績見通しの安定性が確保できない中での経営統合判断のリスクが顕在化した事例であった。

2019/3期(連結)売上高 3,388億円当期純利益 238億円
統合準備中の業績変動が破談させたSAP業界再編

日本触媒と三洋化成の経営統合は、SAP市場の成熟化に対する業界再編として構想された。しかし、統合準備期間中に日本触媒の欧州事業が急速に悪化し、ベルギー関連で119億円の減損を計上したことで、統合比率の前提が崩壊した。三洋化成の中国事業が安定していたことが業績格差を際立たせ、破談の直接的要因となった。統合判断時の業績と実行時の業績が乖離するリスクを示した事例である。

年表三洋化成との統合(撤回)に関する出来事
201912月三洋化成との経営統合を発表
20208月日本触媒が業績の下方修正を発表
202010月経営統合の中止
20213月経営統合の中止に伴う関連費用を計上
特別損失17億円
2021
最終赤字108億円に転落