八谷泰造がバナジウム触媒による無水フタル酸の工業化に成功し、ヲサメ合成化学工業として創業した。爆発事故を乗り越えて国内シェア七〇パーセントを確保し、石油化学への原料転換とアクリル酸の国産化を経て、一九八五年に高吸水性樹脂の製造に参入した。紙おむつ市場の拡大に乗りグローバルなシェアを獲得したが、三洋化成との経営統合は業績格差の拡大により白紙撤回された。触媒技術を基盤に化学品と機能性材料を展開する。
歴史概略
第1期: 創業と無水フタル酸での残存者利益(1941〜1958)
八谷泰造の執念と爆発事故の克服
一九三五年にヲサメ硫酸研究所が発足し、八谷泰造は硫酸触媒の研究に従事する傍らバナジウム触媒による無水フタル酸の工業化に独自に着手した。一九四一年に製造に成功し、同年八月にヲサメ合成化学工業株式会社を設立した。しかし一九四四年三月に吹田工場のプラントが稼働五日目に爆発事故を起こし死亡者を出した。社内からは製造中止を求める声が上がったが、八谷は事業継続を決断した。
戦後の一九四五年六月には空襲で大阪市内の本社を焼失し、吹田工場に移転した。一九四九年に八谷が社長に就任し、商号を日本触媒化学工業に変更して個人事業からの脱却を図った。一九五〇年代に三井化学・ダイセル・旭化成が無水フタル酸に参入したが、爆発リスクから次々と撤退し、一九六〇年頃に日本触媒は国内シェア七〇パーセントを確保した。
赤字転落と富士製鐵による救済
一九五二年に経済不況で塩ビ市場が縮小し、売上高の九〇パーセントを無水フタル酸に依存していた日本触媒は半期で最終赤字に転落した。資本金を上回る損失を出し銀行借入も困難な状況に追い込まれた。八谷は筆頭株主の富士製鐵の永野重雄社長に直談判し、ナフタリンの現物出資という形で第三者割当増資を実現した。
富士製鐵社内では一度否決された増資案を永野社長の判断で覆させた。仕入先であり株主でもある富士製鐵との関係が、資金調達手段を持たない中小企業の存続を支えた。不況の一巡後に塩ビ市場が再び拡大し、国内シェア一位の地位が確固たるものとなった。八谷は「企業は公器なり」の信念のもと、同族経営を回避する資本政策を明確に打ち出した。
第2期: 石油化学転換とアクリル酸の国産化(1959〜1984)
資本金の二倍を超える設備投資
一九五九年六月に日本石油化学の川崎コンビナートに参画し、酸化エチレンプラントを新設した。投資額は九・八億円に上り、当時の資本金四・八億円の二倍を超える規模であった。業界関係者から「潰れる」と揶揄されたが、一九六〇年には姫路工場を新設して川崎と姫路の二拠点体制を構築した。一九六七年には川崎第二工場も稼働させた。
八谷は海外技術導入が主流の時代に国産技術にこだわり、一九五一年に石油化学原料による無水フタル酸の工業化に世界で初めて成功していた。「分相応のことをやっておれば良いのに」という周囲の声に反して、身の丈を超えた投資が企業の成長段階を引き上げた。一九六〇年代の合成繊維ブームを追い風に売上は拡大した。
アクリル酸の国産化
一九七〇年に日本触媒は気相酸化技術を応用してアクリル酸の国産化に成功した。アクリル酸は塗料やインクの原料として需要があり、後に高吸水性樹脂の原料としても不可欠な物質となる。アクリル酸からSAPまでの一貫生産体制を国内で唯一保有することが、後のSAP事業における構造的優位の源泉となった。
一九八一年三月には姫路研究所と川崎研究所を設置し、研究開発体制を強化した。この時期の日本触媒は無水フタル酸からアクリル酸へと主力製品を転換しつつあり、触媒技術という共通基盤のもとで製品ラインナップを拡大する戦略が定まりつつあった。石油化学転換と国産技術へのこだわりが、後のSAP事業の技術的基盤を形成した。
第3期: SAP事業の拡大と経営統合の挫折(1985〜現在)
後発参入でシェア逆転
一九八五年に姫路工場でSAPの製造を開始した。三洋化成に七年遅れての参入であったが、アクリル酸からSAPまでの原料一貫生産体制と、P&Gという世界最大の顧客を確保したことで、参入からわずか一年で国内生産量トップに立った。一九八六年度時点の生産量は日本触媒が二万トン、三洋化成が一万五千トンであった。
P&Gのグローバルなおむつ事業の拡大に伴い、日本触媒のSAP輸出比率は売上の八割に達した。米国・欧州・インドネシアに製造拠点を展開し、住友化学との事業交換でアクリル酸事業をさらに強化した。原料を内製できることで外部調達に依存する競合に対してコスト競争力と供給安定性の双方で優位に立った。
三洋化成との統合撤回と姫路の爆発事故
二〇一九年五月に三洋化成との経営統合を発表し、新会社「Synfomix」の設立を計画した。しかし統合準備中にコロナ禍で欧州SAP事業が急速に悪化し、ベルギー関連で百十九億円の減損損失を計上した。三洋化成の中国事業が相対的に安定していたため業績格差が拡大し、二〇二〇年十月に統合は白紙撤回された。
日本触媒にとっては二〇一二年の姫路製造所での爆発事故の経験もある。創業期の無水フタル酸プラント爆発から七十年近くを経ても、化学品製造に伴う爆発リスクは完全には排除できない構造的課題として残っている。SAP市場の成熟化と価格競争の激化の中で、原料一貫生産という構造的優位をどのように収益に結びつけるかが経営の焦点となっている。
日本触媒の創業期を規定したのは、無水フタル酸の製造に伴う爆発リスクであった。1944年のプラント爆発事故で死者を出しながらも事業を継続した判断は、結果として競合他社の撤退を招き、1960年頃には国内シェア70%という独占的地位につながった。危険性が参入障壁として機能するという逆説的な構造は、化学工業における技術蓄積と事業継続の意思決定が競争優位を規定した事例である。