八谷泰造はバナジウム触媒による無水フタル酸の工業化に単独で取り組み、1941年にヲサメ合成化学工業を立ち上げた。稼働5日目のプラント爆発事故と死亡者を出した経験を越えて事業継続を決断し、同じ無水フタル酸に参入した三井化学・ダイセル・旭化成が爆発リスクから順に手を引くなかで国内シェア70%を押さえた。単一製品への依存から抜け出すため、石油化学への原料転換とアクリル酸の国産化を進め、1985年には姫路工場で高吸水性樹脂(SAP)の製造を始める。三洋化成に7年遅れた後発参入ながら、アクリル酸からSAPまでの原料一貫体制とP&Gという巨大顧客の確保が効き、わずか1年で国内生産量の首位に立った。
紙おむつ市場の世界的な拡大に乗ってSAPの輸出比率は売上の8割に達し、海外拠点も米国・欧州・インドネシアへ広げた。外部調達に頼る競合に対して、原料内製によるコスト競争力と供給安定性の双方で優位に立つ構図が続いた。ところが2019年に発表した三洋化成との経営統合は、コロナ禍による欧州SAP事業の悪化とベルギー関連119億円の減損によって業績格差が開き、2020年10月に白紙撤回される。触媒技術を基盤に化学品と機能性材料を展開する構図は変わらない一方で、創業期の吹田工場の爆発から70年近くを経た2012年の姫路爆発事故が示すように、化学品製造に伴う爆発リスクと、原料一貫による構造優位をどう収益に結びつけるかが現在の経営にとっての焦点となっている。【以上、筆者所感】
歴史概略
1935年〜1960年爆発事故を越えた無水フタル酸の残存者利益
八谷泰造の執念と吹田工場の爆発事故の克服
1935年にヲサメ硫酸研究所が発足し、八谷泰造は硫酸触媒の研究に携わる傍らで、バナジウム触媒による無水フタル酸の工業化に独自に取り組んだ。触媒化学の工業化は当時、海外技術に頼るのが一般的で、国産触媒で量産にこぎつける試みは常に事故リスクと隣り合わせにあった。バナジウム触媒の気相酸化による無水フタル酸の合成は欧米でも工業化事例が限られており、独力の研究は周囲からほぼ無謀と見られていた。八谷は研究を続け、1941年に製造へ道筋をつけ、同年8月にヲサメ合成化学工業株式会社を設立する。創業そのものが、国産触媒研究の延長線上にあったと言える。
ところが1944年3月、吹田工場のプラントは稼働5日目に爆発事故を起こし死亡者を出した。社内からは製造中止を求める声が上がったが、八谷は事業継続を決断する。戦後の1945年6月には空襲で大阪市内の本社を焼失し、吹田工場へ移転した。1949年に八谷が社長に就任し、商号を日本触媒化学工業に改めて個人事業からの脱却をはかる。1950年代に三井化学・ダイセル・旭化成が無水フタル酸に参入したが、爆発リスクから順に撤退し、1960年頃には日本触媒が国内シェア70%を確保した。先に事故を経験し、工程管理のノウハウを積み上げてきたことが、結果として残存者利益につながった。
- 産業フロンティア物語
- 逆境を生きぬく(八谷泰造著)
赤字転落と富士製鐵の永野社長による救済
1952年、経済不況で塩ビ市場が縮小し、売上高の90%を無水フタル酸に頼っていた日本触媒は半期で最終赤字に転落した。資本金を上回る損失を出し、銀行借入も立ち行かない状況に追い込まれる。無水フタル酸の原料であるナフタリンを仕入れていた富士製鐵が筆頭株主でもあったため、八谷は永野重雄社長へ直談判に向かい、ナフタリンの現物出資という形で第三者割当増資を実現した。富士製鐵の社内で一度否決された増資案を、永野社長の判断によって覆させた経緯だった。仕入先であり株主でもある富士製鐵との関係が、銀行借入という通常の資金調達手段を失った中小企業の存続を支える形となった。
不況が一巡して塩ビ市場が再び拡大に転じると、国内シェア首位の地位は確かなものとなっていく。八谷は「企業は公器なり」という信念のもと、同族経営を避け、広く株主を受け入れる資本政策を打ち出した。富士製鐵による資本救済はこの方針の延長線上にあったとも言える。爆発事故の克服と資本面での救済というふたつの危機を越えたことで、単一製品への依存と資本の脆弱さという、創業期から同時に抱えていた構造リスクがようやく修正されていく。設立から20年近くを経て、日本触媒は単一事業への依存から抜け出すための土台を手にした形となった。
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1961年〜1981年石油化学参入とアクリル酸国産化による原料一貫化
資本金の2倍を超える設備投資への踏み出し
1959年6月、日本触媒は日本石油化学の川崎コンビナートへ参画し、酸化エチレンプラントを新設した。投資額は9.8億円に上り、当時の資本金4.8億円の2倍を超える規模となる。無水フタル酸という単一製品への依存から抜け出すには、石油化学の原料を押さえるしかないという八谷の判断だった。業界関係者からは「潰れる」と揶揄されたが、1960年には姫路工場を新設し、川崎と姫路の2拠点体制を築いた。さらに1967年には川崎第二工場も稼働する。石炭化学から石油化学への原料転換期にあって、あえて石油コンビナート側へ身を置く意思決定が、のちのアクリル酸とSAPの原料供給を可能にする形となった。
八谷は海外技術の導入が主流の時代にあって国産技術へこだわり、1951年には石油化学原料による無水フタル酸の工業化に世界で初めて成功している。分相応の範囲に事業をとどめるべきだという周囲の声に反して、身の丈を超えた設備投資が企業の成長段階を引き上げた。1960年代の合成繊維ブームを追い風に売上は拡大し、川崎と姫路の両軸が次の時代の主力事業の土台となっていく。国産触媒技術へのこだわりと、資本金を超える規模の設備投資というふたつの特徴が、創業期の製品依存を抜け出すためのてこになった形で、この時期の日本触媒には揃っていた。
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アクリル酸の国産化への本格的な挑戦
1970年、日本触媒は気相酸化技術を応用してアクリル酸の国産化に成功した。アクリル酸は塗料やインクの原料として需要があり、のちに高吸水性樹脂の原料としても欠かせない物質となる。当時の国内メーカーの多くは海外技術を導入してアクリル酸を調達していたが、日本触媒は無水フタル酸で磨いたバナジウム触媒と気相酸化の技術をそのままアクリル酸の合成に応用する経路を選んだ。海外技術に頼らず自前で酸化触媒を育てた判断は、20年近い時間差を置いて紙おむつ市場で効いてくる。アクリル酸からSAPまでの一貫生産体制を国内で唯一持つことが、のちのSAP事業における構造的優位の源泉となった。
1981年3月には姫路研究所と川崎研究所を設置し、研究開発体制を強化した。この時期の日本触媒は無水フタル酸からアクリル酸へと主力製品を切り替えつつあり、触媒技術という共通基盤のうえで製品ラインナップを広げる戦略が定まっていく。無水フタル酸を含む複数の酸化反応でバナジウム触媒を育ててきた経験が、気相酸化でアクリル酸を作る工程にそのまま転用された。石油化学への参入と国産技術へのこだわりは、次の時代のSAP事業における原料優位の技術的基盤を形づくっていく。創業期の無水フタル酸依存から、川崎と姫路の2拠点と酸化エチレン・アクリル酸を軸とする構造へと、収益源の姿が切り替わっていった。
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1982年〜2026年後発参入から世界首位に立ったSAPと統合白紙撤回
後発参入から1年でのSAPシェア逆転
1985年、姫路工場で高吸水性樹脂(SAP)の製造を始めた。三洋化成に7年遅れての後発参入だったが、アクリル酸からSAPまでの原料一貫生産体制と、P&Gという世界最大の紙おむつメーカーを顧客に確保したことで、参入から1年で国内生産量の首位に立つ。1986年度時点の生産量は日本触媒が2万トン、三洋化成が1万5000トンだった。後発でありながら原料の内製という構造優位が、先行者の蓄積を上回る形となる。先行する三洋化成はアクリル酸を外部調達していたため、原料価格の変動や供給制約を自社内で吸収できない弱さを抱えていた。無水フタル酸で築いた残存者利益の構造が、製品を替えてSAPという新しい市場でも再現された形でもあった。
P&Gのグローバルな紙おむつ事業の拡大に伴い、日本触媒のSAP輸出比率は売上の8割に達した。米国・欧州・インドネシアに製造拠点を広げ、住友化学との事業交換によってアクリル酸事業をさらに強化する。原料を内製できることで、外部調達に頼る競合に対してコスト競争力と供給安定性の双方で優位に立った。1970年のアクリル酸国産化という判断から15年を経て、紙おむつという全く別の市場でその投資の意味が顕在化した格好となる。創業期の単一製品依存から抜け出すための国産触媒と石油化学への参入というふたつの選択が、無水フタル酸とSAPというふたつの世代の主力事業で、同じように残存者利益と原料一貫の構造優位を生む形となった。
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直近の動向と展望
三洋化成との経営統合の白紙撤回と姫路製造所の爆発事故
2019年5月、日本触媒は三洋化成との経営統合を発表し、新会社「Synfomix」の設立を計画した。両社はいずれもSAPで世界有数の生産量を持っており、統合すればアクリル酸からSAPにかけての原料一貫化を業界全体でさらに広げられるはずだった。しかし統合準備中にコロナ禍で欧州SAP事業が急速に悪化し、ベルギー関連で119億円の減損損失を計上する。三洋化成の中国事業が相対的に安定していたため両社のあいだで業績格差が広がり、2020年10月に統合は白紙撤回された。原料一貫化で築いた優位が、地域別の需要変動や減損リスクの前ではかならずしも万能ではないことを示した形となる。SAP事業の地理的な偏りが、統合交渉という経営判断の場面でそのまま両社の温度差として現れたとも言える。
日本触媒にとっては2012年の姫路製造所での爆発事故という記憶もある。創業期の吹田工場での無水フタル酸プラント爆発から70年近くを経ても、化学品製造に伴う爆発リスクは構造的な課題として残ったままだ。中国メーカーの新規参入によってSAP市場の成熟化と価格競争の激化が進むなかで、創業以来積み上げてきた触媒技術と、アクリル酸からSAPへの原料一貫生産という構造優位を、どのような形で収益に結びつけ直すかが現在の経営にとっての中心的な課題となっている。創業期の八谷泰造が無水フタル酸でたどった残存者利益の筋道を、世代を越えてSAPの世界でも描き続けられるかどうかが問われていると言える。
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