創業1941八谷泰造・納五平(創業者)
上場1952-
創業地大阪府吹田市
2025/3 売上高4,093億円YoY+4.4%
2025/3 営業利益191億円YoY+15.1%
FY24 単体平均給与811万円前年度比▲7万円

八谷泰造はバナジウム触媒による無水フタル酸の工業化に単独で取り組み、1941年にヲサメ合成化学工業を立ち上げた。稼働5日目のプラント爆発事故と死亡者を出した経験を越えて事業継続を決断し、同じ無水フタル酸に参入した三井化学・ダイセル・旭化成が爆発リスクから順に手を引くなかで国内シェア70%を押さえた。単一製品への依存から抜け出すため、石油化学への原料転換とアクリル酸の国産化を進め、1985年に姫路工場で高吸水性樹脂(SAP)の製造を始めた。三洋化成に7年遅れた後発参入ながら、アクリル酸からSAPまでの原料一貫体制とP&Gという巨大顧客の確保が効き、わずか1年で国内生産量の首位に立った。

紙おむつ市場の世界的な拡大に乗ってSAPの輸出比率は売上の8割に達し、海外拠点も米国・欧州・インドネシアへ広げた。外部調達に頼る競合に対して、原料内製によるコスト競争力と供給安定性の双方で優位に立つ構図が続いた。ところが2019年に発表した三洋化成との経営統合は、コロナ禍による欧州SAP事業の悪化とベルギー関連119億円の減損によって業績格差が開き、2020年10月に白紙撤回された。触媒技術を基盤に化学品と機能性材料を展開する構図は変わらない。創業期の吹田工場の爆発から70年近くを経た2012年の姫路爆発事故が示すように、化学品製造に伴う爆発リスクと、原料一貫による構造優位をどう収益に結びつけるかが、現在の経営にとっての焦点である。

日本触媒:売上高の内訳と営業利益率(PL 分解 × 営業利益率)
売上高(億円)営業利益(億円)その他費用(億円)販管費(億円)売上原価(億円)営業利益率(%)
歴代社長
FY01
FY02
FY03
FY04
FY05
FY06
FY07
FY08
FY09
FY10
FY11
FY12
FY13
FY14
FY15
FY16
FY17
FY18
FY19
FY20
FY21
FY22
FY23
FY24
FY25
FY26
FY27
FY28
近藤忠夫
代表取締役社長
池田全德
代表取締役社長
五嶋祐治朗
代表取締役社長
野田和宏
代表取締役社長
歴代社長
FY05
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FY23
FY24
近藤忠夫
代表取締役社長
池田全德
代表取締役社長
五嶋祐治朗
代表取締役社長
野田和宏
代表取締役社長
日本触媒:投資CF(M&A・設備投資ほか/事業施策と紐付き)
投資CF(億円)
三洋化成との統合(撤回)2019
欧州で高吸水性樹脂の増産を決定2015
中国に現地法人を設立2003

歴史概略

1935年〜1960爆発事故を越えた無水フタル酸の残存者利益

八谷泰造の執念と吹田工場の爆発事故の克服

1935年にヲサメ硫酸研究所が発足し、八谷泰造は硫酸触媒の研究に携わる傍らで、バナジウム触媒による無水フタル酸の工業化に独自に取り組んだ。触媒化学の工業化は当時、海外技術に頼るのが一般的で、国産触媒で量産にこぎつける試みは常に事故リスクと隣り合わせだった。バナジウム触媒の気相酸化による無水フタル酸の合成は欧米でも工業化事例が限られ、独力の研究は周囲からほぼ無謀と見られた。塗料・可塑剤向けの無水フタル酸は当時輸入依存で、国産化できれば代替市場は大きいと八谷は踏んでいた。八谷は研究を続け、1941年に製造へ道筋をつけ、同年8月にヲサメ合成化学工業株式会社を設立した。創業そのものが国産触媒研究の延長線上にあった。

ところが1944年3月、吹田工場のプラントは稼働5日目に爆発事故を起こし死亡者を出した。社内からは製造中止を求める声が上がったが、八谷は事業継続を決めた。戦後の1945年6月には空襲で大阪市内の本社を焼失し、吹田工場へ移転した。1949年に八谷が社長に就任し、商号を日本触媒化学工業に改めて個人事業から脱却をはかった。1950年代に三井化学・ダイセル・旭化成が無水フタル酸に参入したが、爆発リスクから順に撤退し、1960年頃には日本触媒が国内シェア70%を確保した。先に事故を経験し、原料仕込み量の制御や反応器の冷却・安全弁といった工程管理のノウハウを積み上げたことが、結果として残存者利益につながった。

参考文献
  • 産業フロンティア物語
  • 逆境を生きぬく(八谷泰造著)

赤字転落と富士製鐵の永野社長による救済

1952年、経済不況で塩ビ市場が縮小し、売上高の90%を無水フタル酸に頼っていた日本触媒は半期で最終赤字に転落した。資本金を上回る損失を出し、銀行借入も立ち行かない状況に追い込まれた。無水フタル酸の原料であるナフタリンを仕入れていた富士製鐵が筆頭株主でもあったため、八谷は永野重雄社長へ直談判に向かい、ナフタリンの現物出資で第三者割当増資を実現した。富士製鐵の社内で一度否決された増資案を、永野社長の判断で覆させた経緯だった。仕入先であり株主でもある富士製鐵との関係が、銀行借入という通常の資金調達手段を失った中小企業の存続を支えた。

不況が一巡して塩ビ市場が再び拡大に転じると、国内シェア首位の地位は確かなものとなった。八谷は「企業は公器なり」という信念のもと、同族経営を避け、広く株主を受け入れる資本政策を打ち出した。富士製鐵による資本救済はこの方針の延長線上にある。爆発事故の克服と資本面での救済という2つの危機を越え、単一製品への依存と資本の脆弱さという、創業期から抱えていた構造リスクが修正された。1952年の株式公開で資本市場からの調達手段も整え、銀行借入頼みではない事業拡張の経路を確保した。設立から20年近くを経て、日本触媒は単一事業への依存から抜け出すための土台を手に入れた。

参考文献
  • 産業フロンティア物語
  • 逆境を生きぬく(八谷泰造著)

1961年〜1981石油化学参入とアクリル酸国産化による原料一貫化

資本金の2倍を超える設備投資への踏み出し

1959年6月、日本触媒は日本石油化学の川崎コンビナートへ参画し、酸化エチレンプラントを新設した。投資額は9.8億円に上り、当時の資本金4.8億円の2倍を超えた。無水フタル酸という単一製品への依存から抜け出すには石油化学の原料を押さえるしかない、という八谷の判断だった。業界関係者からは「潰れる」と揶揄されたが、1960年に姫路工場を新設し、川崎と姫路の2拠点体制を築いた。1967年には川崎第二工場も稼働した。石炭化学から石油化学への原料転換期に、あえて石油コンビナート側へ身を置いた意思決定が、のちのアクリル酸とSAPの原料供給を可能にした。無水フタル酸だけに依拠していた時代から、酸化エチレン・エチレンオキサイドという石油化学誘導品を自社の収益軸に組み込む構造転換が、ここで始まった。

八谷は海外技術の導入が主流の時代に国産技術へこだわり、1951年に石油化学原料による無水フタル酸の工業化で世界初の成功を収めた。分相応の範囲に事業をとどめるべきだという周囲の声に反して、身の丈を超えた設備投資が企業の成長段階を引き上げた。1960年代の合成繊維ブームで売上は拡大し、川崎と姫路の両軸が次の時代の主力事業の土台となった。姫路は無水フタル酸と酸化エチレン誘導品を軸に据え、川崎は酸化エチレンとその下流製品の供給拠点として機能し、東西2拠点で原料と製品の相互補完が効く体制が整った。国産触媒技術へのこだわりと資本金を超える規模の設備投資の2つが、創業期の製品依存を抜け出すためのてことなってこの時期の日本触媒に揃った。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • 産業フロンティア物語
  • 証券調査

アクリル酸の国産化への本格的な挑戦

1970年、日本触媒は気相酸化技術を応用してアクリル酸の国産化に成功した。アクリル酸は塗料やインクの原料として需要があり、のちに高吸水性樹脂の原料としても欠かせない物質となる。当時の国内メーカーの多くは海外技術を導入してアクリル酸を調達したが、日本触媒は無水フタル酸で磨いたバナジウム触媒と気相酸化の技術をそのままアクリル酸の合成に応用する経路を選んだ。海外技術に頼らず自前で酸化触媒を育てた判断は、20年近い時間差を置いて紙おむつ市場で効いてきた。アクリル酸からSAPまでの一貫生産体制を国内で唯一持つことが、のちのSAP事業における構造的優位の源泉となった。

1981年3月には姫路研究所と川崎研究所を設置し、研究開発体制を強化した。この時期の日本触媒は無水フタル酸からアクリル酸へと主力製品を切り替えつつあり、触媒技術という共通基盤のうえで製品ラインナップを広げる戦略が定まった。無水フタル酸を含む複数の酸化反応でバナジウム触媒を育てた経験が、気相酸化でアクリル酸を作る工程にそのまま転用された。石油化学への参入と国産技術へのこだわりは、次の時代のSAP事業における原料優位の技術的基盤を形づくる。創業期の無水フタル酸依存から、川崎と姫路の2拠点と酸化エチレン・アクリル酸を軸とする構造へと、収益源の姿が切り替わった。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • 産業フロンティア物語
  • 証券調査

1982年〜2026後発参入から世界首位に立ったSAPと統合白紙撤回

後発参入から1年でのSAPシェア逆転

1985年、姫路工場で高吸水性樹脂(SAP)の製造を始めた。三洋化成に7年遅れての後発参入だったが、アクリル酸からSAPまでの原料一貫生産体制と、P&Gという世界最大の紙おむつメーカーを顧客に確保したことで、参入から1年で国内生産量の首位に立った。1986年度時点の生産量は日本触媒が2万トン、三洋化成が1万5000トンだった。後発でありながら原料の内製という構造優位が、先行者の蓄積を上回った。先行する三洋化成はアクリル酸を外部調達していたため、原料価格の変動や供給制約を自社内で吸収できない弱さを抱えていた。無水フタル酸で築いた残存者利益の構造が、製品を替えてSAPという新しい市場でも再現された。

P&Gのグローバルな紙おむつ事業の拡大に伴い、日本触媒のSAP輸出比率は売上の8割に達した。米国・欧州・インドネシアに製造拠点を広げ、住友化学との事業交換によってアクリル酸事業を強化した。城野久義取締役は当時、欧米でP&Gがシェアを握った構図を「勝ち馬に乗れば、必然的に売り上げは増える」(日経産業新聞 1995/10/31)と端的に表現した。原料を内製できたことで、外部調達に頼る競合に対してコスト競争力と供給安定性の双方で優位に立った。1970年のアクリル酸国産化という判断から15年を経て、紙おむつという全く別の市場でその投資の意味が顕在化した。創業期の単一製品依存から抜け出すための国産触媒と石油化学への参入という2つの選択が、無水フタル酸とSAPという2世代の主力事業で、同じ残存者利益と原料一貫の構造優位を生んだ。

参考文献
  • ヤノレポート
  • 有価証券報告書
  • 証券調査
  • 日経産業新聞 1995/10/31

直近の動向と展望

三洋化成との経営統合の白紙撤回と姫路製造所の爆発事故

2019年5月、日本触媒は三洋化成との経営統合を発表し、新会社「Synfomix」の設立を計画した。両社はいずれもSAPで世界有数の生産量を持ち、統合すればアクリル酸からSAPにかけての原料一貫化を業界全体で広げられるはずだった。しかし統合準備中にコロナ禍で欧州SAP事業が急速に悪化し、ベルギー関連で119億円の減損損失を計上した。三洋化成の中国事業が相対的に安定していたため両社のあいだで業績格差が広がり、2020年10月に統合は白紙撤回された。原料一貫化で築いた優位は、地域別の需要変動や減損リスクの前では万能ではない。SAP事業の地理的な偏りが、統合交渉という経営判断の場面で両社の温度差として現れた。

NSE業績推移
  • ベルギー子会社NSEはFY2019に税引前損失28.65億円、FY2020に135.83億円へと損失が拡大した。
  • 欧州SAP事業の悪化が連結全体の減損計上と統合白紙撤回の引き金となった局面が、子会社単体の数字に現れる。
unit売上高経常利益売上収益税引前損失総資産利益率
億円368.47.5314.22
億円
億円
億円
億円346.1-28.6551.2-8.3
億円389.7-135.8446.4-34.9
億円493.8-22.8483.8-4.6
億円666.6-0.9467.9-0.1
出所有価証券報告書 (FY2015)

日本触媒にとっては2012年の姫路製造所での爆発事故の記憶もある。アクリル酸タンクの異常反応で死傷者を出した事故で、同社は安全対策の強化と生産体制の見直しに取り組んだ。創業期の吹田工場での無水フタル酸プラント爆発から70年近くを経ても、化学品製造に伴う爆発リスクは構造的な課題として残った。中国メーカーの新規参入でSAP市場の成熟化と価格競争の激化が進むなかで、創業以来積み上げた触媒技術と、アクリル酸からSAPへの原料一貫生産という構造優位を、どう収益に結びつけ直すかが現在の経営の中心課題である。創業期の八谷泰造が無水フタル酸でたどった残存者利益の筋道を、世代を越えてSAPの世界でも描き続けられるかが問われている。

参考文献
  • 有価証券報告書
  • ヤノレポート

重要な意思決定

1941年8月

ヲサメ合成化学工業株式会社を設立

日本触媒の創業期を規定したのは、無水フタル酸の製造に伴う爆発リスクであった。1944年のプラント爆発事故で死者を出しながらも事業を継続した判断は、結果として競合他社の撤退を招き、1960年頃には国内シェア70%という独占的地位につながった。危険性が参入障壁として機能するという逆説的な構造は、化学工業における技術蓄積と事業継続の意思決定が競争優位を規定した事例である。

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1950年11月

商号を日本触媒化学工業に変更

日本触媒の再出発において八谷泰造氏が定めた方針は、同族経営の回避と増資による持分希薄化という資本政策であった。創業者の納氏が経営を放棄した経験から、八谷氏は企業の公器性を重視し、自身の保有比率を意図的に下げる道を選んだ。富士製鐵による33%出資は、仕入先との取引関係を資本関係に転換した事例でもある。個人経営の失敗を起点に、開かれた企業統治を志向した資本設計の原型が形成された。

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1952年11月

半期赤字に転落。富士製鐵が救済

日本触媒の経営危機において、富士製鐵は仕入先と筆頭株主という二つの立場から救済に動いた。ナフタリンの現物出資という形式は、現金支出を伴わずに資本増強と原料確保を同時に実現する手法であった。取引関係を資本関係に転換した構造が、不況期の安全弁として機能した。売上の90%を無水フタル酸に依存する単一製品リスクが顕在化した局面で、サプライヤーとの資本的紐帯が企業存続を左右した事例である。

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1959年6月

酸化エチレンの量産開始

日本触媒の石油化学転換は、資本金4.8億円の企業が9.8億円の設備投資を決断するという規模の判断であった。海外技術導入が主流の時代に国産技術で酸化エチレンの工業化に成功し、独立系コンビナートへの参画で量産体制を構築した。川崎と姫路の2拠点体制は、原料から製品までの一貫生産を可能にし、後のアクリル酸・SAP事業の基盤ともなった。身の丈を超えた投資判断が企業の成長段階を引き上げた事例である。

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1985年4月

高級水性樹脂(SAP)の製造を開始

日本触媒のSAP事業は、三洋化成とユニチャームが先行する市場に後発で参入しながら、短期間でシェア1位を獲得した。その要因は、アクリル酸からSAPまでの一貫生産体制にある。原料を内製できることで、外部調達に依存する競合に対してコスト競争力と供給安定性の双方で優位に立った。P&Gという世界最大の顧客を確保した上での参入も、量産規模の確保に寄与した。原料統合による構造的優位が後発逆転を可能にした事例である。

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2019年5月

三洋化成との統合(撤回)

日本触媒と三洋化成の経営統合は、SAP市場の成熟化に対する業界再編として構想された。しかし、統合準備期間中に日本触媒の欧州事業が急速に悪化し、ベルギー関連で119億円の減損を計上したことで、統合比率の前提が崩壊した。三洋化成の中国事業が安定していたことが業績格差を際立たせ、破談の直接的要因となった。統合判断時の業績と実行時の業績が乖離するリスクを示した事例である。

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歴史的証言

勝ち馬に乗れば、必然的に売り上げは増える

城野久義(日本触媒・取締役)

日経産業新聞 1995/10/31

4、5年後に需要が出てくるだろう

城野久義(日本触媒・取締役)

日経産業新聞 1995/10/31

参考文献・出所

有価証券報告書
産業フロンティア物語
逆境を生きぬく(八谷泰造著)
証券調査
ヤノレポート
日経産業新聞 1995/10/31
日経産業新聞