納五平氏は1926年、硫酸製造装置を設計・施工するヲサメ硫酸工業事務所を大阪に開設した。1935年3月に研究部へ入った後輩の八谷泰造氏は、1937年春にバナジウム触媒を国産化し、同年6月に研究所長となった。1938年秋、八谷泰造氏は同じ触媒でナフタリンを酸化し、無水フタル酸を造る案を納五平氏に提示。国内の生産は外国技術を導入した2社に限られ、日中戦争以降は軍用塗料の需要が拡大していた。納五平氏は当初反対したものの、研究所は1940年秋に月産1.5tの装置を動かし、1941年3月に月産15tのプラントへ着工した。触媒の技術を別の製品へ転用できたことが、装置の請負から化学品の製造へ移る起点になったとみられる。
ヲサメ硫酸工業は1941年8月15日、研究所を分離・独立させたヲサメ合成化学工業の創立総会を開催した。無水フタル酸の試験製造に成功し、工業化のめどが立ったことが独立の理由である。資本金は18万円で、定款はバナジウム触媒を用いた工業薬品・染料中間体・合成樹脂の製造を目的に掲げた。納五平氏が代表取締役社長に就任し、取締役の八谷泰造氏は田川工場長として生産を指揮した。同年8月21日に設立登記を完了し、硫酸装置の設計・施工を続ける本体はヲサメ化学機械へ社名を変える。装置の受注と化学品の量産では資金も人も性格が異なり、会社を分けて製造の責任を明確にしたと推察される。
月産15tのプラントは1941年12月に完成し、同月8日の太平洋戦争の開戦で軍用機塗料向けの需要が拡大した。当初2カ月の収率は30%余で、技術陣は1942年6月に74%まで引き上げ、商工省と大阪市から工業助成金を受けた。第1期(1942年5月期)は売上高14万2076円60銭・純利益2万1347円71銭で、年8%の配当を実施した。1942年の国内需要は月約170tと推定され、各社の生産計60tのうち30tがヲサメ合成化学工業の分である。業績は期を追って増大し、8%の配当を継続した。供給不足の市場で製造の立ち上げが軍需の拡大と重なり、出足から販売先を確保できたと思われる。
ヲサメ合成化学工業は1942年12月に月産100tの増産計画を商工省へ出し、1943年3月に資本金を60万円とした。建設資材の不足を受けて、反応管を二重管式から多管式に変え資材を節減。1944年3月7日の試運転で反応熱の不均一から未反応ナフタリンに引火し、結晶室が爆発した。本社工場次長の濱田喜久馬氏が死亡し、損害額は資本金と同じ約60万円に上った。社長の納五平氏は『七転び八起きという言葉があるではないか。ひるまずに一から出直そう』と従業員を励まし、常務の八谷泰造氏も工場の再建を主張した。翌8日に復旧へ着手し、月産30tに縮小した新プラントは1944年9月に稼働する。
1945年6月15日の大阪空襲で本社工場はほぼ全焼し、ヲサメ合成化学工業は損害が総資産の70%に達するなか本社機能を吹田工場へ移した。8月15日の終戦に続き、GHQによる無水フタル酸と硫酸触媒の製造禁止。従業員は約50人から1945年末に20数人へ減り、残った社員は在庫のナフタリンを防虫剤として行商した。解散を求める声に対し、常務の八谷泰造氏は出征中の社員の帰る場所を理由に反対する。1946年6月の株主総会は吹田工場を正式に本社工場と決め、同年8月に特別経理会社の指定を受けた。1948年7月31日に企業再建整備計画の認可を得て資本金を300万円とし、同年12月20日に指定を解除された。
1947年ごろから肥料向けの硫酸触媒と、塩化ビニル可塑剤向けの無水フタル酸の受注が増え、再建のめどが立った。戦後に持株の大半を売却していた社長の納五平氏は、1949年2月28日の取締役会で辞意を表明した。取締役会は、1943年2月から代表取締役常務として実質的に経営を率いた専務の八谷泰造氏を第2代社長に選んだ。八谷泰造氏は就任2カ月後の4月23日、株主総会で日本触媒化学工業への社名変更の承認を得た。新社名の会社は5月1日に役員6人・従業員約80人で発足し、社章の中央にはナフタリンの構造式を置く。創業者の持株が減り、技術者が経営を担う体制を社名の変更で内外に示したのだろう。
日本触媒化学工業は1950年1月に第2フタル酸工場を新設し、月産能力を60tとした直後に資金繰りが悪化した。銀行は融資に応じず、大阪瓦斯など大手への資本参加の要請も断られた。八谷泰造氏は原料ナフタリンの仕入れ先である富士製鉄の社長で、同郷の永野重雄氏に出資を求めた。1950年12月1日の増資で資本金は3000万円となり、筆頭株主は3分の1を持つ富士製鉄である。同時期に参入した大手の多くは爆発の危険と需給の不安定から生産を中止し、日本触媒化学工業は1951年末に月産能力を250tとした。1954年には住友化学が増設を断念して出資し、日本触媒化学工業の国内シェアは約70%に達する。
1952年に入ると朝鮮戦争の終結に向けた動きで需要が鈍り、無水フタル酸の価格は1t約30万円から年末に11万円程度へ下がった。無水フタル酸が総売上高の90%以上を占めたため在庫は670tに達し、1952年10〜11月の希望退職者は83人にのぼる。社長の八谷泰造氏は永野重雄氏と列車内で2度面談し、原料6カ月分の代金を増資に充てる約束を得た。1952年10月6日、資本金は1億2000万円となり、銀行も救済融資に応じた。並行して同年8月31日、ベンゼンの接触気相酸化による無水マレイン酸の月産13tプラントを国内で初めて稼働させた。同じ酸化技術で原料と用途の異なる製品を持ち、単一製品の市況に左右される度合いを下げる狙いがあったと考えられる。
高分子化学工業の原料が不足するなか、日本触媒化学工業は1951年10月に酸化エチレンの研究を始め、1953年に触媒を見いだした。当時の製法は海外の2方式に限られ、社長の八谷泰造氏は技術導入によらず自社開発を選んだ。1957年10月1日には、財閥系でない日本石油化学とエチレン売買の覚書を結んだ。川崎工場は1959年2月に着工し、同年6月2日に年産5000tの酸化エチレンプラントが完成した。投資額9億8000万円は、当時の資本金4億8000万円の2倍を超える額である。石油化学への参入は自社の酸化触媒を新しい原料へ広げる試みであり、次の研究体制の拡充につながったと推測される。
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事実根拠:出所(日本触媒)