1926年〜 肥料会社の脱皮とシリコーン参入による素材メーカー化
信越化学工業の業績推移:単体
- 1926年 余剰電力を化学工業に転換、信越窒素肥料を設立
- 1927年 直江津工場で石灰窒素の製造を開始
- 1938年 磯部工場を新設、金属マンガンの製造を開始
- 1953年 米ゼネラル・エレクトリック社との技術提携によるシリコーンの事業化と、肥料中心の売上構成の入れ替え 売上の8割を肥料が占める会社が、なぜ5年間ほとんど売上に寄与しない事業を抱え続けられたか
- 1957年 直江津工場で塩化ビニルの製造を開始
- 1960年 磯部工場で高純度シリコン「スーパー・シリコン」の製造を開始
- 1967年 信越半導体を設立
石灰窒素の過当競争から小坂家再建への危機転換
1926年9月、信濃電気の越寿三郎と日本窒素肥料の野口遵が提携し、資本金500万円で信越窒素肥料株式会社を設立した。長野県で余剰化していた水力発電由来の安価な電力を、石灰窒素という肥料に転換する事業構想が出発点だった。信濃電気が安価な余剰電力を、日本窒素肥料が石灰窒素の製造技術をそれぞれ持ち寄る役割分担のもと、新潟県直江津の日本石油精油工場跡地に工場を建設した。日本窒素肥料は鏡工場および水俣工場の解体製造設備を直江津へ移設して工場を立ち上げた。1927年10月にはカーバイド、石灰窒素、黒鉛電極の製造を開始した。しかし石灰窒素業界は直後から過当競争に突入し、世界恐慌の波及と農村部の米価暴落で肥料需要も後退した。同社は1931年12月に直江津工場の操業を中止し、翌1932年2月には同工場を閉鎖して、創業から僅か数年で存続の危機に直面した。 [1][2][3]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]日本窒素肥料は鏡工場および水俣工場の解体製造設備を直江津に移して工場を立ち上げた
- [2]世界恐慌の波及と農村部の米価暴落で肥料需要が後退した
- [3]1931年12月に直江津工場の操業を中止し、翌1932年2月に同工場を閉鎖した
窮境のさなか、越寿三郎から株式を引き取り、長野電気社長であった小坂順造が1931年5月に社長に就任した。社是として「衆心維城」を掲げて再建に着手するとともに、資本の一本化を断行し、経営を安定させる方向へ方針を変えた。再建の転機となったのは1937年10月の直江津工場の操業再開であり、これを境に同社の経営は安定へ向かった。小坂家は以後約40年にわたって同社の経営を主導し、肥料一本槍の体質から脱皮する布石を打った。1940年には金属マグネシウムやメタリックシリコンといった肥料以外の新製品の比重が高まり、社名を現在に続く「信越化学工業」へ変更した。1945年5月には大同化学工業を合併して武生工場とし、石灰窒素とフェロアロイの製造拠点を加えた。創業時の単一事業モデルが僅か十数年で行き詰まった反省を踏まえ、多角化と資本規律の両立を追求する姿勢が、会社のDNAとして刻まれた。 [4][5][6]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [4]長野電気社長であった小坂順造が1931年5月に社長に就任した
- [5]1937年10月の直江津工場の操業再開を境に経営が安定へ向かった
- [6]1945年5月に大同化学工業を合併して武生工場とした
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]日本窒素肥料は鏡工場および水俣工場の解体製造設備を直江津に移して工場を立ち上げた
- [2]世界恐慌の波及と農村部の米価暴落で肥料需要が後退した
- [3]1931年12月に直江津工場の操業を中止し、翌1932年2月に同工場を閉鎖した
- [4]長野電気社長であった小坂順造が1931年5月に社長に就任した
- [5]1937年10月の直江津工場の操業再開を境に経営が安定へ向かった
- [6]1945年5月に大同化学工業を合併して武生工場とした
シリコーンと塩ビと半導体シリコンの連鎖展開の始まり
1953年1月、信越化学は米ゼネラル・エレクトリック社とシリコーン製造の技術契約を締結し、同年4月には日本で初となるシリコーンの量産を開始した。当時の副社長の小坂徳三郎は、シリコーン事業を矮小な盆栽に終わらせてはならず堂々たる大木に育てると宣言し、肥料メーカーからの構造転換を主導した。社報創刊号には従業員から肥料屋の名称はいつまでも抜けないだろうとの投書も掲載され、経営層と現場がともに危機感を共有していた時期にあたる。シリコーンは耐熱性・電気絶縁性・撥水性といった他素材では代替しにくい物性を持ち、半導体・建築・医療まで応用範囲を広げられる基盤素材として、同社の事業構造を変える可能性を秘めていた。
1957年には国内13番目という最後発で塩化ビニル事業に参入し、独自開発のノンスケール重合技術で生産性を差別化した。1960年にはシリコーン工場の副産物から半導体用高純度シリコン「スーパー・シリコン」の製造を開始し、半導体材料分野に足を踏み入れた。1967年にはダウコーニング社との合弁で信越半導体を設立し、シリコンウェハーという半導体デバイスの基盤材料を供給する企業としての地位を固めた。肥料からシリコーン、塩ビ、半導体シリコンへ、技術の隣接領域を一つずつ広げる成長パターンは、企業文化として定着した。小坂徳三郎は後年、シリコーン参入時の社内情勢を「企業化後も5年間はほとんど商品とは言えない状態で、売り上げに寄与するどころではなかった」(日経ビジネス 1980/9/22)と振り返っており、隣接領域への参入は長い不採算期を覚悟したうえでの規律ある選択だった。 [7][8]
- 信越化学工業100年史/信越化学工業 有価証券報告書
- [7]1967年にダウコーニング社との合弁で信越半導体を設立した
- 日経ビジネス 1980年9月22日号
- [8]小坂徳三郎が日経ビジネス(1980/9/22)でシリコーン参入時の不採算期について述べた
- 信越化学工業100年史/信越化学工業 有価証券報告書
- [7]1967年にダウコーニング社との合弁で信越半導体を設立した
- 日経ビジネス 1980年9月22日号
- [8]小坂徳三郎が日経ビジネス(1980/9/22)でシリコーン参入時の不採算期について述べた