1912年に立川勇次郎氏は、岐阜県大垣市にて揖斐川電力株式会社(現イビデン)を設立した。立川氏は美濃を拠点とする裕福な元藩主であり、地元で鉄道ビジネス(養老鉄道)などを立ち上げる実業家であった。そこで、地元の一級河川である揖斐川の水力を活用した発電所を設置し、水力発電に参入した。
ただし、当時は電力に対する需要がそもそも多くなかったため、立川氏は紡績工場を大垣周辺に誘致することで顧客を確保した。大正時代は繊維産業が発展しつつあり、安い電力を活用できる点で紡績会社にもメリットがあった。大垣には大日本紡績などの大企業も進出し、地域の経済を潤した。
この結果、高度経済成長期まで、大垣では繊維産業が発展して、イビデンの目論見通りの展開となった。
このため、立川氏は、大垣の経済発展に寄与した人物として、歴史に記憶されている。また、イビデンは本社を構える地元大垣においては「名門企業」とされた。
1942年にイビデンはそれまでの主力事業であった水力発電による売電事業から撤退し、主力事業をカーバイド製造にシフトさせた。なお、すでに1917年にイビデンは、大垣工場を新設してカーバイドの製造を行っていた。
カーバイド製造におけるイビデンの強みは、水力発電を活用したコスト競争力にあった。
カーバイドは石灰石(CaO)とコークス(c)を反応させることによって製造され、肥料などの用途に使用された。この製造工程において、大量の電気を使用することから、自社で水力発電所をもつイビデンは、発電コストを自社でまかうというコスト競争力を獲得し、カーバイド製造を本格化させた。
1970年にイビデンは、当時普及しつつあたプリント配線板の参入を決めて研究開発を開始した。プリント配線板は半導体部品を載せる積層状の板であり、銅箔や樹脂でコーティングされる画期的な製品であった。
また、当時は集積回路(IC)が普及しつつあり、半導体部品の微細化とともにプリント配線板の需要の増大が予想されていた。
そこで、イビデンは、プリント配線板の開発を決定するとともに、すでに事業化していた建材(メラミン化粧板)で培ってきた印刷技術を応用した。いずれも、エッチングによって加工(化学薬品による腐食加工)する点で似ており、イビデンが培ってきた加工技術が生かされた。
この結果、1972年にプリント配線板の実用化に成功し、イビデンは半導体関連事業に参入した。2022年の現在におけるイビデンの主力事業であるパッケージ基板(プラスチック製)も、半導体向けの事業であり、イビデンが半導体部品メーカーに転身する契機となった。
1973年のオイルショックを契機に、それまでのイビデンの主力事業であった「カーバイド」に対する需要が減少した。加えて、業界内におけるカーバイドの過剰生産も問題となり、イビデンはそれまでの主力事業が行き詰まってしまう。
1976年にイビデンは、緊急合理化対策を発表し、社員200名のリストラを決定した。この決定について、のちにイビデンの社長に就任した遠藤氏は苦しい思いをしたことを述懐しており、今後は二度とリストラをしないことを誓ったという。
かつては炭素と石灰を高温で熱してカーバイドを製造するための電気炉が4基ありました。競争力がなくkなり、次々と電炉の火を落とし、91年、最後の1基の火も消えました。私がちょうど社長に就任する頃のことです。
よく「危機感」と言いますが、言葉だけの話ではありません。何せ、目の前で電炉の火が消えていくわけですから。社員もみんな、その光景を見ている。売り上げはなくなるし、「会社はこれからどうなるのだろう」と私自身、不安で仕方ありませんでした。
しかし今思うと、そうしたことが次のイビデンを作るきっかけになりました。瀬戸際に立たされて、私も社員も「これは、頑張らにゃいかん」と発奮したのです。電炉の火が消えて、社員の心に火がついた、とでも言いますか。
1980年代を通じてマイクロプロセッサー(MPU)やICが普及したが、これらの部品を覆うためのパケージ基板の市場が急成長していた。部品を覆う素材は「絶縁性を持つセラミック」が活用されており、京セラや日本特殊窯業といった先発企業が独壇場であった。
これに対して、1987年にイビデンはパッケージ基板への参入を決め、素材をセラミックではなくプラスチックに照準を絞った。プラスチック製のパッケージ基板の利用実績はほぼなく、イビデンにとっては冒険であったが、絶縁という電気特性が優れているという点で将来有望であると判断した。
また、イビデンは、プラスチックのパッケージ基板を日本国内だけではなく、シリコンバレーを中心としたアメリカで販売することを意図して、米国に現地法人の販売会社を設立した。この販売会社の営業努力もあって、1990年代までにIntelとの接触に成功したものと推察される。
ただし、1990年代前半のプラスチックパッケージは、5枚の板を積層化するための成形技術(プレス加工)が難しいため、価格の引き下げが困難であった。そのため、一部の高額な汎用コンピュータ向けに採用されるだけで、主戦場であるPC向けには採用されなかった。よって、1990年代前半の時点で、イビデンのパッケージ基板は、インテルのCPUに採用されなかった。
1994年にイビデンの社内でプラスチック製のパッケージ基板をインテルに売り込むためのプロジェクトチームが発足した。インテルはCPUの性能向上とともに購買する部品メーカーを変える企業であり、2〜3年ごとに顧客をスイッチしていたため、イビデンにも参入のチャンスがあった。具体的には、2年後に発売予定のインテルの次世代CPUに部材が採用されることを目標とした。
イビデン社内では遠藤社長の直轄プロジェクトを発足し、若手とみなされた40代のエース社員が中心となって、インテル向けのパッケージ基板の開発に着手した。遠藤社長がプロジェクトチームに対して「原則2年で量産化に持ち込む」ことを至上命題とし「1日でも遅延したらプロジェクトを解散する(ただし終身雇用は保証する)」方針を通達し、開発スピードを重視した。
加えて、チーム編成の人事については、藤川社長室長(米国駐在経験が長い)と伊藤次長(電子関連事業本部技術部)に一任し、50名のチームを作り上げた。さらに、プロジェクトチームが開発に専念できるように、遠藤社長の命令として、他の事業部署との仕事の掛け持ちを一切禁止した。加えて、社内の研究開発費の予算を、研究開発本部から剥奪し、ほぼ全額、パッケージ基板の開発に一点集中した。
この結果、組織の仕組みを大きく変えることによって、パッケージ基板の開発チームは、通常5〜6年かかるプロジェクトを最大のスピードで遂行する態勢を整えた。一説によれば「遠藤社長はプロジェクトと心中するのでは?」と思われたほどであったという。
病気になると、頑張ろうとする力が体内から湧いてくるように、人は追い詰められると色々知恵が出てきます。それまで培ってきた電気関係の技術に生き残りをかけて、半導体のパッケージを生産し、それが米インテルの目に留まって、96年に供給契約を結びました。(略)おかげで、何とか電子工業で飯が食えるようになった次第です。
それにしても修羅場の連続でしたね。私が入社した頃は電力会社の雰囲気で、のんびりした社風でした。田舎(岐阜県大垣市)とはいえ名門企業と言われ、倒産することなどあり得ないと思っていました。それが経営破綻と隣り合わせのあゆみになったわけですから、社長時代は、いつも刃の上に乗っているような緊張感がありました。でも。そのくらいの緊張感がなければ、経営に携わるべきではないのでしょう。社員は経営者の姿勢をよく見ています。
1995年にIntelはCPU向けのパッケージ基板について、従来のセラミック製から、新しいプラスチック製に切り替える方針を発表。1996年にイビデンはインテルからパッケージ基板の大量受注(数百万個)に成功し、1998年に大垣工場にパッケージ基板を製造する工場新棟を新設した。
FY1996およびFY1997の2期連続で、イビデンは過去最高収益を達成した。いずれもインテル向けのパッケージ基板の販売が好調であったことが主要因であった。
2008年にイビデンは、パッケージ基板・プリント配線板・DPFの需要がそれぞれ伸びると判断し、大規模な設備投資を実施した。FY2008における設備投資額は累計618億円に及んだ、主な内訳は、(1)パッケージ基板向けに282億円、プリント配線板向けに129億円、自動車向けDFPに35億円であった。
このうち、パッケージ基板及びプリント配線板向けの投資が最大であった。主な投資内容は、マレーシアにおける生産拠点の立ち上げ(2008年にイビデンはマレーシアに現地子会社を設立・2011年に工場稼働)であった。
なお、600億円に及ぶ巨額投資に対して、イビデンは投資額の全額を自己資金によってまかない、銀行や資本市場からの調達は見送った。2000年代を通じてパッケージ基板が好調だったことから、これらの利益を追加投資に回す形になった。
FY2017にイビデンは約600億円の事業改革構造費用を特別損失として計上し、最終赤字628億円を計上した。損失の主な内訳は、グループ会社の事業用資産の減損であった。電子セグメントでは、マレーシアを中心としたパッケージ基板の製造設備に関する減損が累計約381億円に及んだ。
2010年代後半からAWSなどのクラウドサービスが世界的に普及し、データセンターの増設ラッシュが沸き起こった。このため、半導体業界ではデータセンター向けのプロセッサーの生産が急増し、イビデンの顧客であるインテルはの半導体生産量の増大が予想された。
そこで、2018年にイビデンは、3年間でICパッケージ基板に投資する方針を示した。特に、FY2020における設備投資額を従来計画よりも250億円増大させた900億円に修正し、その大半をパッケージ基板向けの投資に当てる方針を決定した。
イビデンとしては、2017年に最終赤字を計上していたものの、すぐに投資を再開するという異色の決断を下す形となった。そもそも、赤字を計上したもののイビデンの財務体質が良好であり、設備投資にあたって借入金に依存していなかったため、巨額投資を追加決定しやすかったものと推察される。