三井関係者が出資した北海カーバイド製造所(工学博士・藤山常一氏が創業)を譲り受ける形で、1915年5月に電気化学工業株式会社が設立された。出資者は同じく三井関係者(三井銀行常務など21名)であり、需要が増大するカーバイドを増産するために株式会社の発足を決め、電気化学工業の設立に至った。
この経緯から、デンカは三井色の濃い企業として設立されたことから、創業には三井財閥系の企業からの協力を得られた。ただし、三井財閥における「化学部門」としての位置付けではなく、あくまでも三井関係者の有志によって設立された企業であり「三井」の商号は採用されなかった。
設立当初は北海カーバイドから継承した苫小牧工場を稼働したが、電力供給源であった王子製紙(三井系の製紙会社)の電力余剰が小さくなったことで、大正11年に同工場を王子製紙に売却した。カーバイドの生産には大量の電力を消費することから、安価な電力供給の途絶は、事業継続が困難になることを意味した。
そこで、電気化学工業は、新工場として福岡県の大牟田を選定。1916年10月に大牟田工場として新設稼働した。このため、会社設立からすぐに、事業拠点を「北海道」から「九州」へとシフトさせた。
大牟田に選定した理由は、三井鉱山の三池炭鉱が存在しており、工場新設の用地提供で三井鉱山が協力したこと、炭素原料(コークス)・硫酸といった材料を調達しやすかったことが理由であった。
カーバイド生産を本格化するために、新潟県糸魚川において青梅工場の新設を決定。黒姫山で産出(埋蔵量の推定500億トン)する石灰石を活用し、カーバイドの生産を行うことが目的であった。
なお、すでに日本窒素が青海工場の新設を計画していたが、姫川の洪水による水害によって計画していた発電所の新設と工場新設を中止していた。そこで、青海地区の人々は工場を誘致すべく、電気化学工業に工場新設を依頼。そこで、電気化学は日本窒素が放棄した「青海工場」について、地元からの要請を受けて工場新設を決定した。
また、青海工場の稼働とともに、デンカは水力を中心とした発電所を自社で新設。これにより、青海工場において、発電および石灰石の採掘から肥料生産までの一環生産体制を樹立した。生産量ベースでも大牟田工場を凌駕し、青海工場はデンカにおける基幹工場となった。
自分どもの会社は歴史が大変古いのですが、北陸地方は非常に水力電気が豊富であるし、工場の所在地の青梅というところが、後ろに典型的な大原石山(注:黒姫山の石灰石)があるなどの環境でして、そこでいわゆる電気化学という工業を始めたわけです。そしてできたものがカーバイドでして、このカーバイドから肥料の石灰窒素ができますし、有機合成、セメント、そのほか電炉製品ができるわけです。だいたいこういった原石の利用工業ということからスタートしたのです。
カーバイド製造の際の副産物として屑石が発生しており、1952年頃において100万トンの規模に達していた。そこで屑石の有効活用のために、セメント製造への進出を決定。1953年9月12日に「電化セメント」を設立してセメント事業に参入した。
設備投資の面では、1954年3月に青海工場の「原石山泥水沈殿池」の土地にセメント工場を新設。キルン(F.L.Smidth社製)およびミル(神戸製鋼製)を設置してセメント製造を開始した。
2022年10月にデンカの取締役会においてセメント事業からの完全撤退を決議。同日に「セメント事業からの撤退及びカーバイドチェーン再構築によるポートフォリオ変革」を発表し、デンカのかつての主力事業であった「石灰石の自社採掘・セメント製造」から2025年度までに完全撤退することを発表した。
デンカにおけるセメント事業は、石灰石のうちカーバイド向けに適さないものを「セメント」として活用する副産物の有効活用によって1954年からスタートしたが、競争激化や需要低迷を受けて撤退を決定した。主力拠点は青海工場(新潟県糸井川)であり、黒姫山で産出する石灰石の採掘と、セメント製造を一貫体制で行なっていた。
セメントからの撤退にあたって、事業を太平洋セメントに売却する方針も発表した。デンカの主力拠点である青海工場(糸魚川市)と同じ地域に太平洋セメントも拠点を擁していることが理由であった。すでに、2018年からデンカは太平洋セメントと共同で、黒姫山における石灰石採掘で協力しており、統合の布石を打っていた。
事業撤退の決定を受けて、2023年3月期に「事業撤退整理損(青海工場ほか・自社鉱山及びセメント製造設備)」として175億円を計上。