トクヤマ の歴史

更新:

1918年、岩井勝次郎氏が山口県周南市で日本曹達工業として創業。徳山コンビナート、1984年の多結晶シリコン参入、マレーシア事業の1006億円の損失までの沿革と経緯を執筆。

創業

1918年

創業者

岩井勝次郎

創業地

山口県周南市

直近売上高(2026/3)

3,495億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1918年に岩井勝次郎は徳山でソーダ会社を起こし、1932年にソーダ灰を手放したのか
A 1918年に岩井勝次郎が日本曹達工業を徳山町に設けたのは、板ガラスや石鹸の原料でありながら輸入に頼っていたアルカリを国産化するためだった。石灰石・塩・用水・港湾の揃う徳山にアンモニア法ソーダ灰の設備を据えた。ところが海外勢のダンピングで採算が崩れ、1932年頃にソーダ灰から退き、同じ製塩設備を苛性ソーダへ振り向けて人絹向け需要を取り込み持ち直した。1931年には13年ぶりに5分配当を復活させている。設備はそのままに、つくる製品を入れ替えて生き延びる原型がここで生まれた。
Q なぜ1938年以降、副生物を次の事業の原料へ回す連鎖型の多角化を選んだのか
A 副生物を次の製品の原料へ回す連鎖が、徳山一工場へ工程を寄せる構造を決めた。1938年、苛性ソーダ生産で出る副生炭酸石灰の処分先としてセメントを始め、これが高度成長の公共投資に乗って単一工場で国内有数の規模へ育った。1952年に電解法を導入して塩素を併産し、1964年発足の徳山新南陽コンビナートの配管で隣接工場へ送り、塩化ビニールやポリプロピレンへつなげた。化成品・セメント・樹脂の三事業は、構内のパイプライン網に沿って組み上がっている
Q なぜ2009年に多結晶シリコンへ巨額投資し、2017年にマレーシア事業を手放したのか
A 2009年にマレーシアへ多結晶シリコンの大型投資を決めたのは、リーマンショック後の太陽電池向け需要拡大に、徳山で培った精製技術ごと乗るためだった。だが建設遅延の間に中国勢の供給過剰で市況が急落し、想定価格の前提が崩れた。2013年3月期に純損失379億円、2016年3月期には純損失1006億円・特別損失1257億円という経営史最大級の赤字を計上する。2017年5月、Tokuyama Malaysiaの全株式を韓国OCIへ譲渡して完全撤退し、化成品・セメントと電子先端材料・ライフサイエンスの二軸へ事業を整理し直した

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1918年〜 輸入アルカリ代替から徳山コンビナートまで

トクヤマの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1918年 日本曹達工業として発足
  2. 1936年 商号を徳山曹達に変更
  3. 1937年 東京営業所を開設
  4. 1938年 徳山工場で湿式法ポルトランドセメント製造を開始
  5. 1949年 東京証券取引所に上場
  6. 1952年 徳山工場で電解苛性ソーダの製造を開始
  7. 1966年 サンアロー化学を設立し塩化ビニール製造を開始

読めない「曹達」── アルカリ国産化のために生まれた会社

設立の動機は経営者の野心ではなく国家的な輸入代替だった。1918年2月、鈴木岩井商店を主宰していた岩井勝次郎が、諸外国からの輸入に頼っていたアルカリ源を国産化するため、山口県徳山町に資本金200万円で日本曹達工業株式会社を設立し、アンモニア法によるソーダ灰の製造を始めた。創立当時の社名「日本曹達工業」の頭文字N・S・Kを、ソーダの主原料である塩の結晶の六面体で囲んだ商標は、その後も同社の標章として引き継がれた。ソーダ灰は板ガラス・石鹸・紡織など当時の基幹産業の土台であり、アルカリの輸入依存は国家的な弱点として繰り返し議論されていた。徳山港に面する立地は、石灰石・塩・豊富な用水という原料条件を同時に満たし、後年のコンビナート化にもつながる地の利だった。装置産業としての化学メーカーは、原料・エネルギー・港湾・廃熱処理の4条件が揃う場所でしか成立しない。徳山はその4条件を満たす数少ない候補地の1つとして選ばれた。 [1][2][3][4][5][6]

  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]設立者は鈴木岩井商店を主宰していた岩井勝次郎
    • [2]創業時はアンモニア法によるソーダ灰の製造を行った
    • [3]設立時の資本金は200万円だった
    • [4]1918年2月に日本曹達工業株式会社が設立された
    • [5]設立地は山口県徳山町で社名は日本曹達工業株式会社だった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [6]創立当時の社名「日本曹達工業」の頭文字N・S・Kを塩の結晶の六面体で囲んだ商標を採用しその後も引き継いだ

しかし発足直後から市況は崩れた。海外勢のダンピングで業績不振が続き、1932年頃にソーダ灰から事実上撤退して苛性ソーダの製造へ切り替える。ちょうど人絹工業が勃興し苛性ソーダ需要が拡大した時期に重なり、業績は回復、1931年には13年ぶりに5分配当を復活させた。創業時に掲げたソーダ灰国産化という大義名分を10年あまりで取り下げ、同じ製塩設備を苛性ソーダに振り向けて生き延びる。1936年に発祥地と製品名を組み込んで徳山曹達株式会社へ改称し、化成品の品目を広げた。1930年代後半には炭酸マグネシウム・塩化カルシウム・珪酸ソーダといった無機化学品の製造を相次いで立ち上げたが、第2次大戦が始まると原料確保難からソーダ部門を含め生産が停滞した。戦後復興のなかで設備を補強し、1949年に東京証券取引所へ上場、戦前期に始まったソーダ会社が大手化学品メーカーへの足場を固めた。装置産業の企業が、主力製品の看板を付け替えながら生き残る原型が、このときすでに現れている。 [7][8][9][10][11][12]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [7]1932年頃にソーダ灰から事実上撤退して苛性ソーダの製造へ切り替えた
    • [8]1931年に13年ぶりの5分配当を復活させた
    • [10]1930年代後半に炭酸マグネシウム・塩化カルシウム・珪酸ソーダなどの無機化学品の製造を立ち上げた
    • [11]第2次大戦が始まると原料確保難からソーダ部門を含め生産が停滞した
  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1936年に徳山曹達株式会社へ改称した
    • [12]1949年に東京証券取引所へ上場した
  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]設立者は鈴木岩井商店を主宰していた岩井勝次郎
    • [2]創業時はアンモニア法によるソーダ灰の製造を行った
    • [3]設立時の資本金は200万円だった
    • [4]1918年2月に日本曹達工業株式会社が設立された
    • [5]設立地は山口県徳山町で社名は日本曹達工業株式会社だった
    • [9]1936年に徳山曹達株式会社へ改称した
    • [12]1949年に東京証券取引所へ上場した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [6]創立当時の社名「日本曹達工業」の頭文字N・S・Kを塩の結晶の六面体で囲んだ商標を採用しその後も引き継いだ
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [7]1932年頃にソーダ灰から事実上撤退して苛性ソーダの製造へ切り替えた
    • [8]1931年に13年ぶりの5分配当を復活させた
    • [10]1930年代後半に炭酸マグネシウム・塩化カルシウム・珪酸ソーダなどの無機化学品の製造を立ち上げた
    • [11]第2次大戦が始まると原料確保難からソーダ部門を含め生産が停滞した

副生石灰がセメントを呼んだ ── 1工場で日本有数の規模へ

セメント事業の起点は新規進出ではなく、ソーダ灰生産で出る副生炭酸石灰の処分先探しだった。1938年3月、徳山工場に湿式法によるポルトランドセメント1号キルンを設置したのを皮切りに、戦前戦後を通じて増設を繰り返し、単一工場として国内有数のセメント工場へ膨らむ。化学品の副産物が第二の柱に化けるパターンが、ここで生まれた。本業のアルカリで出る廃棄物が新事業の原料になる構図は、装置産業では珍しくない。しかし同社の場合は、この副生物処分を1工場の規模で日本有数のセメント生産へ積み上げた点が特異だった。徳山という1つの立地に工程を集中させた判断が、後のコンビナート化への布石にもなった。戦後の高度成長期の公共投資により、セメントはソーダと並ぶ収益源へ育った。 [13][14]

  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1938年3月に徳山工場で湿式法ポルトランドセメント1号キルンを設置した
    • [14]徳山工場は単一工場として国内有数のセメント工場へ成長した

同じ構図は塩素にも当てはまる。1952年に電解法苛性ソーダ工場を新設して塩素併産体制を整え、1964年の徳山新南陽石油化学コンビナートの発足により、塩素を起点とする石化製品(プロピレンオキサイド、塩化メチレン、四塩化炭素ほか)の生産を立ち上げた。コンビナート化は単独投資ではなく同業との共同出資で進み、1963年に旭硝子・東洋曹達と日本合同肥料を、1964年には東洋曹達と資本金5億円で周南石油化学を設立して石化原料の供給網を整えた。1966年には鉄興社・ダイセル化学工業との共同出資でサンアロー化学を設立して塩化ビニールへ進出、1970年にポリプロピレンの自社生産を始めた。相次ぐ設備投資を支えるため資本金も積み増し、1965年に32億1000万円、1967年に32億5000万円へと増資した。苛性ソーダと同時に出てくる塩素は単体では行き場のない副生物だが、コンビナート化でパイプラインを隣接工場に直結すれば、そのまま樹脂原料に変わる。化成品・セメント・樹脂の3本柱体制は、こうして配管網に沿って組み上がった。 [15][16][17][18][19]

  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1952年に電解法苛性ソーダ工場を新設して塩素併産体制を整えた
    • [18]1970年にポリプロピレンの自社生産を始めた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [16]1963年に旭硝子・東洋曹達と日本合同肥料を設立した
    • [17]1964年に東洋曹達と資本金5億円で周南石油化学を設立した
    • [19]資本金を1965年に32億1000万円、1967年に32億5000万円へ増資した
  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1938年3月に徳山工場で湿式法ポルトランドセメント1号キルンを設置した
    • [14]徳山工場は単一工場として国内有数のセメント工場へ成長した
    • [15]1952年に電解法苛性ソーダ工場を新設して塩素併産体制を整えた
    • [18]1970年にポリプロピレンの自社生産を始めた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [16]1963年に旭硝子・東洋曹達と日本合同肥料を設立した
    • [17]1964年に東洋曹達と資本金5億円で周南石油化学を設立した
    • [19]資本金を1965年に32億1000万円、1967年に32億5000万円へ増資した

イオン交換膜と石油危機 ── 構造転換のきっかけ

1967年に独自開発したイオン交換膜は、水銀法から非水銀法への切り替えを迫られていた国内製塩業を支える存在となり、自前技術で社会インフラに食い込むという同社の原型を作った。資源大量消費型の事業を抱えた化学メーカーが、技術差別化で生き残りを模索する初期の成功例だった。装置産業のコモディティ競争を、プロセス特許とライセンスで逃げる発想の原点がここにある。イオン交換膜は後年、苛性ソーダ電解の主力プロセスとして国内外に普及し、同社はソーダ灰国産化から半世紀を経て、塩電解装置の技術ライセンサーという立ち位置を手に入れた。単なる大量生産型化学メーカーから、装置そのものを売る企業へ、事業構造の重心がずれ始めた最初の徴候でもある。

しかし1973年と1979年の二度の石油危機は、ナフサ・電力・石炭に依存した同社の事業構造を根底から揺さぶった。原料コストの暴騰は既存3本柱の収益性を圧迫し、社内に「資源消費型からの脱却」という共通課題が立ち上がる。1980年代に火を噴くファインケミカル・エレクトロニクス・メディカルの新規事業は、こうした危機感のなかで構想された。エネルギー価格の変動に左右されるコモディティ化学品から、付加価値の高い少量多品種の電子・医療向け製品へ主力を移す必要があるという認識が、社内に広がった。徳山曹達は、ソーダ会社から多角化化学メーカーへ自己定義を書き換える助走期に入った。同じ時期に業界全体でも脱ナフサ依存の議論が進み、同社の方向転換は業界的な潮流とも重なっていた。

1980年〜 5カ年計画と新規3分野 ── 多結晶シリコンが芽を出すまで

トクヤマの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1982年 プラスチックレンズ材料を発売
  2. 1983年 電子工業用高純度溶剤(IPA・塩化メチレン)を発売
  3. 1984年 多結晶シリコンと乾式シリカへの参入と、東工場での製造開始 ソーダとセメントの会社が半導体材料を手がけるか——企画部員の起案を、完成度と速度のどちらを取って立ち上げたか
  4. 1985年 鹿島工場を新設
  5. 1989年 ゼネラル・セラミックス社を買収
  6. 1994年 商号をトクヤマに変更
  7. 1994年 エイアンドティーを設立

1982年・1983年・1984年 ── 3年連続で打った高付加価値の手

石油危機後の構造転換は、具体的な製品の連打として現れた。1982年にプラスチックレンズ材料と防湿剤、1983年にフロン・エタン代替を狙った電子工業向け高純度イソプロピルアルコールおよび塩化メチレン、1984年7月に東工場で多結晶シリコンの製造を始めた。半導体洗浄プロセスの脱フロン化という業界の課題に、ソーダ会社で培った精製技術を当て込む発想だった。汎用品の価格競争から、高純度ニッチへ逃げる戦術が、この3年に凝縮されている。多結晶シリコンは半導体ウエハーの原料で、参入時点では国内勢のほとんどが撤退し、信越化学・大阪チタニウムと並ぶ少数の国産サプライヤーが残る構図だった。同社の選んだ路線は、電子工業の下流で使われる薬品・材料を徳山のコンビナートから直接供給する、垂直統合型の高純度路線だった。 [20]

  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1984年7月に東工場で多結晶シリコンの製造を始めた

1985年には鹿島工場を新設して新規事業の生産基盤を固め、1988年から始まる「5カ年計画」でファインケミカル・エレクトロニクス・メディカルの3分野を重点育成事業に正式指定した。1978年に設立した歯科器材会社トーワ技研(後のトクヤマデンタル)、1989年に開いたつくば研究所、同年の米ゼネラル・セラミックス社買収による窒化アルミニウム技術の取り込みも、この枠組みの一部だった。徳山の装置産業と鹿島の新規材料、つくばの研究機能、米国からの技術導入が1つの5カ年計画に束ねられ、長期投資の優先順位が社内で付け替えられた。多結晶シリコン・歯科・放熱材という現在の収益柱は、いずれもこの10年弱で種が蒔かれている。40年近く後の再建期の主役が、すべて1980年代終盤までに社内に配置されていた。 [21][22][23]

  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [21]1985年に鹿島工場を新設した
    • [22]1978年に歯科器材会社トーワ技研(後のトクヤマデンタル)を設立した
    • [23]1989年につくば研究所を開設した
  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1984年7月に東工場で多結晶シリコンの製造を始めた
    • [21]1985年に鹿島工場を新設した
    • [22]1978年に歯科器材会社トーワ技研(後のトクヤマデンタル)を設立した
    • [23]1989年につくば研究所を開設した

「曹達」を捨てた1994年 ── ブランド再定義と海外網の構築

1994年4月、徳山曹達は商号を株式会社トクヤマへ変更した。社名変更の理由として、事業の実態が「曹達(ソーダ)」に収まらなくなったことに加え、若年層を中心に「曹達」という漢字が読めなくなっている点が公式に挙げられた。化学品メーカーとしての自己定義を、創業製品から事業ポートフォリオへ移す宣言だった。1995年3月期の連結売上高は1680億円規模に達し、改称はブランド刷新と同時に対外アピールの枠組み変更でもあった。社名から「曹達」を落としたことで、採用・IR・海外アピールが同一ブランドで括りやすくなる効果も期待されていた。創業から76年を経て、社名が指し示す領域と実態が一致しなくなったことに、経営陣はここで向き合った。 [24][25][26][27]

  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1994年4月に徳山曹達は商号を株式会社トクヤマへ変更した
    • [25]社名変更の理由として若年層を中心に「曹達」という漢字が読めなくなっている点が公式に挙げられた
    • [27]創業から76年を経て社名を株式会社トクヤマへ変更した
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [26]1995年3月期の連結売上高は1680億円規模に達した

同じ年に医療診断システムの株式会社エイアンドティーを設立、1995年に新第一塩ビ、1996年にシンガポールと台湾、2005年に中国の浙江と上海、2007年に窒化アルミ放熱材のTDパワーマテリアル、2008年に韓国へと、子会社・現地法人の設立が連なる。電子材料・診断・歯科のそれぞれが、顧客産業のグローバル化に追随する形で海外網を広げた。同じ時期、本業のソーダ・セメントは横ばいから緩やかな縮小に転じ、ポートフォリオの重心は新規分野へ移った。装置産業である同社にとって、海外拠点は原料・電力・人件費の安い地域で装置を稼働させるコスト戦略の一部でもあった。国内の装置は減価償却と更新投資の両面で採算上の負担となり、海外小型拠点との組み合わせで収益を維持する構造転換が少しずつ進んだ。 [28][29][30][31][32][33]

  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1994年に医療診断システムの株式会社エイアンドティーを設立した
    • [29]1995年に新第一塩ビを設立した
    • [30]1996年にシンガポールと台湾に拠点を設立した
    • [31]2005年に中国の浙江と上海に拠点を設立した
    • [32]2007年に窒化アルミ放熱材のTDパワーマテリアルを設立した
    • [33]2008年に韓国へ拠点を設立した
  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1994年4月に徳山曹達は商号を株式会社トクヤマへ変更した
    • [25]社名変更の理由として若年層を中心に「曹達」という漢字が読めなくなっている点が公式に挙げられた
    • [27]創業から76年を経て社名を株式会社トクヤマへ変更した
    • [28]1994年に医療診断システムの株式会社エイアンドティーを設立した
    • [29]1995年に新第一塩ビを設立した
    • [30]1996年にシンガポールと台湾に拠点を設立した
    • [31]2005年に中国の浙江と上海に拠点を設立した
    • [32]2007年に窒化アルミ放熱材のTDパワーマテリアルを設立した
    • [33]2008年に韓国へ拠点を設立した
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [26]1995年3月期の連結売上高は1680億円規模に達した

2009年3月期 ── 堅実経営の会社が初めて出した純損失

リーマンショックの直撃を受けた2009年3月期、トクヤマは56億円の純損失を計上した。堅実経営と評されてきた同社にとって戦後初の純損失であり、新規事業群の収益化スピードが、伝統事業の市況変動を吸収できる水準にまだ達していない事実を露呈した数字でもあった。多角化の「数」と「規模」は増えても、化成品・セメント依存の体質は残っていた。クロルアルカリ・セメントの市況変動は10年単位で繰り返し起きており、そのたびに新規事業の利益が相殺される構図が見えた。5カ年計画から20年を経ても、装置産業としての性格を脱却するには至っていない。構造転換は、事業の連打だけでは足りず、コモディティ事業の整理を伴う必要があった。 [34][35]

  • トクヤマ 有価証券報告書(連結財務諸表)
    • [34]2009年3月期にトクヤマは56億円の純損失を計上した
  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [35]2009年3月期の純損失は同社にとって戦後初の純損失だった

社内には2つの方向感が同居していた。1つは半導体・太陽電池の需要拡大を見越した多結晶シリコンへの増強、もう1つはコモディティ化するクロルアルカリ・セメントの構造合理化である。前者の象徴が、2009年8月のマレーシア多結晶シリコン製造販売会社Tokuyama Malaysia Sdn. Bhd.の設立であり、当時としては成長セグメントへのアクセルだった。後者の答えは2009年時点でまだ出ていない。両方を同時に踏み込んだ判断が、次の10年を決めた。戦後初の赤字の翌年に、本業とは別の次元で過去最大級の海外投資へ踏み込む決断は、社内でも議論を呼んだはずである。縮小と拡大を同時に走らせる経営は、どちらか一方が行き詰まれば全体のバランスを崩す危うさを抱えていた。 [36]

  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [36]2009年8月にマレーシア多結晶シリコン製造販売会社Tokuyama Malaysia Sdn. Bhd.を設立した
  • トクヤマ 有価証券報告書(連結財務諸表)
    • [34]2009年3月期にトクヤマは56億円の純損失を計上した
  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [35]2009年3月期の純損失は同社にとって戦後初の純損失だった
    • [36]2009年8月にマレーシア多結晶シリコン製造販売会社Tokuyama Malaysia Sdn. Bhd.を設立した

2009年〜 マレーシアの賭けと、1006億円の幕引き

トクヤマの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2009年 初の純損失を計上
  2. 2009年 Tokuyama Malaysia Sdn. Bhd.を設立
  3. 2013年 純損失379億円を計上
  4. 2015年 横田浩が代表取締役社長執行役員に就任
  5. 2016年 純損失1006億円を計上
  6. 2017年 マレーシア多結晶シリコン事業からの完全撤退 ── 減損を確定し韓国OCIへ全株譲渡 太陽電池グレードの海外大型投資をどう畳んだか——減損後の工場を持ち続けるか、損失を確定して手放すか

太陽電池の波に乗るための海外投資

2009年に設立したTokuyama Malaysia Sdn. Bhd.は、太陽電池グレードの多結晶シリコンを大量供給する新拠点とされた。リーマンショック後の世界的な再エネ投資と中国系太陽電池メーカーの拡大を、徳山工場で培った精製技術ごとマレーシアに展開する構想だった。シリコン精製は装置投資とエネルギー単価が勝負を決める事業で、海外の安価な電力とコスト優位の土地が呼び水となった。当時の社内想定では、徳山の既存装置に加えマレーシアの装置を併設し、世界需要の拡大に合わせて供給量を倍増させる計画だった。設備建設額は累計で数千億円規模、同社史上最大の単発投資だった。先端半導体グレードではなく汎用の太陽電池グレードを主戦場に選んだ点が、のちの損失規模を左右する決定的な選択になっている。

しかし計画は最初から狂い続けた。建設遅延と試運転トラブルでフル稼働が遠のくあいだに、太陽電池向け多結晶シリコン市況は中国勢の供給過剰で急落し、想定価格の前提が崩れた。立ち上げ時期に市況がピークを打ち、供給過剰のただ中に製品を投入する最悪のタイミングに重なった。2013年3月期には特別損失323億円を計上して純損失379億円、設備の減損処理に踏み込まざるを得なくなった。戦後初の赤字から4年で、過去に類のない規模の損失が現れた。計画時点で織り込んだ市況サイクルは上振れ想定が中心で、中国勢の大量参入と価格崩壊という下振れシナリオへの備えは乏しかった。装置産業の宿命として、立ち上がった工場は簡単に止められない。 [37]

  • トクヤマ 有価証券報告書(連結財務諸表)
    • [37]2013年3月期に特別損失323億円を計上し純損失379億円となった
  • トクヤマ 有価証券報告書(連結財務諸表)
    • [37]2013年3月期に特別損失323億円を計上し純損失379億円となった

純損失1006億円 ── 経営史最大級の赤字

赤字は1度では止まらなかった。2015年6月、幸後和壽から横田浩へ社長交代が行われ、再建期のトップが立つ。それでも2015年3月期に純損失653億円、2016年3月期にはついに純損失1006億円・特別損失1257億円を計上する。マレーシア事業の太陽電池向け市場が事実上崩壊し、累計の減損処理は同社経営史で最大級の規模に達した。2013年以降3期連続の赤字は、単年の市況悪化ではなく、事業そのものの前提が消えた構造要因によるものだった。同社のピーク時連結売上高は3000億円前後で、1000億円超の単年赤字は自己資本比率と有利子負債比率の両面で同社を資本構成の観点からも危機的な状態に追い込んだ。 [38][39][40]

  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [38]2015年6月に幸後和壽から横田浩へ社長交代が行われた
  • トクヤマ 有価証券報告書(連結財務諸表)
    • [39]2015年3月期に純損失653億円を計上した
    • [40]2016年3月期に純損失1006億円・特別損失1257億円を計上した

ピーク時に連結売上高3000億円規模の会社が単年で1000億円超の赤字を出す損失は、コーポレートガバナンス上も資本構成上も看過できないものだった。ただし同じ時期にも、多結晶シリコンの「先端半導体向け」事業や歯科器材・窒化アルミニウム放熱材といった新規分野は事業として育ち続けていた。徳山の先端半導体向けラインは中国勢の価格攻勢の外に置かれ、歯科のオムニクロマは2013年の発売後に米国でシェアを伸ばし始めていた。再建のシナリオは、成長分野を残しつつコモディティ向けの賭けを清算するという形に絞られた。同じ多結晶シリコンでも、汎用太陽電池向けは捨て、先端半導体向けは残すという、用途別の取捨選択が軸になった。 [41]

  • トクヤマ 2023年度第2四半期 決算説明会
    • [41]オムニクロマは米国でシェアを伸ばした
  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [38]2015年6月に幸後和壽から横田浩へ社長交代が行われた
  • トクヤマ 有価証券報告書(連結財務諸表)
    • [39]2015年3月期に純損失653億円を計上した
    • [40]2016年3月期に純損失1006億円・特別損失1257億円を計上した
  • トクヤマ 2023年度第2四半期 決算説明会
    • [41]オムニクロマは米国でシェアを伸ばした

2017年5月 ── マレーシア事業を手放した日

2017年5月、トクヤマはTokuyama Malaysia Sdn. Bhd.の全株式を韓国OCIへ譲渡し、マレーシア多結晶シリコン事業から完全撤退した。譲渡条件は同社にとって事業からの幕引きを優先した内容となり、累損の処理にひと区切りがついた。ここで同社が選んだのは、海外生産で太陽電池グレードを供給するという2009年の構想そのものを否定する道だった。譲渡先のOCIは太陽電池向けシリコン市況の回復に賭けていたが、同社は同じ市場から降りる判断を下した。装置産業において、減損後に残った工場をそのまま持ち続けるか、損失を確定して手放すかは、経営判断として分岐点になる。同社は後者を選び、マレーシアの10年を清算に変えた。 [42]

  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [42]2017年5月にTokuyama Malaysiaの全株式を韓国OCIへ譲渡しマレーシア多結晶シリコン事業から完全撤退した

撤退後の事業構造は、化成品・セメントの伝統事業と、電子先端材料・ライフサイエンスの成長事業という2軸へ整理し直された。2018年7月の徳山海陸運送買収で物流のインソース化を進める一方、研究開発投資はマレーシアで失った10年を取り戻すように先端半導体向け・歯科向けへ集中した。経営危機のさなかに1988年の5カ年計画で蒔いた種が枯れずに残った事実が、後の再建を支えた条件だった。もしこの時期に歯科のオムニクロマや先端半導体向け多結晶シリコンの事業基盤まで解体していれば、2010年代以降の成長ドライバは失われていた。減損処理の陰で、社内の研究開発ラインはむしろ温存され、再建期の主役候補として保全された。 [43]

  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [43]2018年7月に徳山海陸運送を買収した
  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
    • [42]2017年5月にTokuyama Malaysiaの全株式を韓国OCIへ譲渡しマレーシア多結晶シリコン事業から完全撤退した
    • [43]2018年7月に徳山海陸運送を買収した

トクヤマの沿革1918〜2026年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
日本曹達工業として発足
商号を徳山曹達に変更
東京営業所を開設
徳山工場で湿式法ポルトランドセメント製造を開始★★
東京証券取引所に上場
徳山工場で電解苛性ソーダの製造を開始
南陽工場を新設
プロピレンオキサイド工場を新設
サンアロー化学を設立し塩化ビニール製造を開始★★
イオン交換膜製造工場を新設
東工場を新設
東工場でポリプロピレンの製造を開始
東工場でイソプロピルアルコールの製造を開始
技術研究所を新設
トーワ技研を設立
プラスチックレンズ材料を発売
電子工業用高純度溶剤(IPA・塩化メチレン)を発売★★
多結晶シリコンと乾式シリカへの参入と、東工場での製造開始ソーダとセメントの会社が半導体材料を手がけるか——企画部員の起案を、完成度と速度のどちらを取って立ち上げたか 詳細を読む★★★
鹿島工場を新設
ゼネラル・セラミックス社を買収★★
商号をトクヤマに変更
エイアンドティーを設立
新第一塩ビを設立
Tokuyama Electronic Chemicals Pte Ltdを設立
台湾徳亞瑪を設立
中原茂明徳山化工(浙江)有限公司を設立
中原茂明TDパワーマテリアルを設立
中原茂明Tokuyama Korea Co., Ltd.を設立
幸後和壽初の純損失を計上★★
幸後和壽Tokuyama Malaysia Sdn. Bhd.を設立★★
幸後和壽純損失379億円を計上
横田浩横田浩が代表取締役社長執行役員に就任
横田浩純損失1006億円を計上★★
横田浩マレーシア多結晶シリコン事業からの完全撤退 ── 減損を確定し韓国OCIへ全株譲渡太陽電池グレードの海外大型投資をどう畳んだか——減損後の工場を持ち続けるか、損失を確定して手放すか 詳細を読む★★★
横田浩徳山海陸運送の全株式を取得
横田浩韓国OCIとの折半合弁によるマレーシアでの半導体用多結晶シリコン生産と、ベトナム子会社の設立撤退した土地へ、買い手だった相手と戻るか——単独で汎用を量産するか、折半で先端の半製品に絞るか 詳細を読む★★★
横田浩セメントキルン1系列を停止★★
横田浩合弁会社OCI Tokuyama Semiconductor Materials Sdn. Bhd.を設立
井上智弘セメント・固化材の国内販売事業の太平洋セメントへの譲渡と、製造停止の検討着手88年続いた「第2の祖業」をいつ畳むか——廃棄物処理の要として持ち続けるか、引き受け手がいるうちに手放すか 詳細を読む★★★
出典・参考
  • トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • トクヤマ 有価証券報告書(連結財務諸表)
  • トクヤマ 2023年度第2四半期 決算説明会

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