【筆者所感】 1918年に輸入アルカリの国産化を旗印として山口の港町で生まれた日本曹達工業は、ソーダ灰の市況崩壊で発足直後から赤字続きとなり、1932年に苛性ソーダへ転換して延命した。徳山工場の副生石灰がセメントを呼び、コンビナートの塩素がポリプロと塩ビを呼び、化成品・セメント・樹脂の3本柱が積み上がった。装置産業としての化学メーカーは原料と副生物の行き場で事業の形が決まる世界で、同社は徳山という1つの港に工程を集中させてこの制約を逆手に取った。副産物の出口探しが次の主力事業を生む構図は、この100年で何度も繰り返されている。1936年に徳山曹達へ改称し、1949年に東京証券取引所へ上場、戦前のソーダ会社が戦後の大手化学品メーカーへ育った。
1984年に始めた多結晶シリコンと1978年に種を蒔いた歯科器材は、30年後にまったく違う表情で実を結ぶ。太陽電池向けに賭けたマレーシア工場は2016年に1006億円の純損失を出して事実上ゼロ円譲渡で撤退する。同じ時期に、歯科のオムニクロマと半導体先端品向け多結晶シリコンは2020年代の再建を支える柱に育った。同じ「先端への賭け」が、なぜ片方では沈み、もう片方では浮いたのか。マレーシアは太陽電池グレードという汎用品市場で中国勢の価格競争に呑まれ、歯科と半導体先端品は用途と顧客を絞り込んだニッチで独自技術を掘り下げた。高純度精製と多角化の両立を掲げた装置産業の定石が、市場の広さと深さのどちらを選ぶかで結果を二分した。1918年以来のトクヤマの歴史は、装置と立地と市場の組み合わせを繰り返し組み直す試行の連続でもある。
歴史概略
1918年〜1979年輸入アルカリ代替から徳山コンビナートまで
読めない「曹達」── アルカリ国産化のために生まれた会社
設立の動機は経営者の野心ではなく国家的な輸入代替だった。1918年2月、鈴木岩井商店を主宰していた岩井勝次郎が、諸外国からの輸入に頼っていたアルカリ源を国産化するため、山口県徳山町に資本金200万円で日本曹達工業株式会社を設立し、アンモニア法によるソーダ灰の製造を始めた。ソーダ灰は板ガラス・石鹸・紡織など当時の基幹産業の土台であり、アルカリの輸入依存は国家的な弱点として繰り返し議論されていた。徳山港に面する立地は、石灰石・塩・豊富な用水という原料条件を同時に満たし、後年のコンビナート化にもつながる地の利だった。装置産業としての化学メーカーは、原料・エネルギー・港湾・廃熱処理の4条件が揃う場所でしか成立しない。徳山はその4条件を満たす数少ない候補地の1つとして選ばれた。
しかし発足直後から市況は崩れた。海外勢のダンピングで業績不振が続き、1932年頃にソーダ灰から事実上撤退して苛性ソーダの製造へ切り替える。ちょうど人絹工業が勃興し苛性ソーダ需要が拡大した時期に重なり、業績は回復、1931年には13年ぶりに5分配当を復活させた。創業時に掲げたソーダ灰国産化という大義名分を10年あまりで取り下げ、同じ製塩設備を苛性ソーダに振り向けて生き延びる。1936年に発祥地と製品名を組み込んで徳山曹達株式会社へ改称し、1949年に東京証券取引所へ上場、戦前期に始まったソーダ会社が大手化学品メーカーへの足場を固めた。装置産業の企業が、主力製品の看板を付け替えながら生き残る原型が、このときすでに現れている。
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- 日本会社史総覧 1995/11/1
副生石灰がセメントを呼んだ ── 1工場で日本有数の規模へ
セメント事業の起点は新規進出ではなく、ソーダ灰生産で出る副生炭酸石灰の処分先探しだった。1938年3月、徳山工場に湿式法によるポルトランドセメント1号キルンを設置したのを皮切りに、戦前戦後を通じて増設を繰り返し、単一工場として国内有数のセメント工場へ膨らむ。化学品の副産物が第二の柱に化けるパターンが、ここで生まれた。本業のアルカリで出る廃棄物が新事業の原料になる構図は、装置産業では珍しくない。しかし同社の場合は、この副生物処分を1工場の規模で日本有数のセメント生産へ積み上げた点が特異だった。徳山という1つの立地に工程を集中させた判断が、後のコンビナート化への布石にもなっていく。戦後の高度成長期の公共投資を背景に、セメントはソーダと並ぶ収益源へ育った。
同じ構図は塩素にも当てはまる。1952年に電解法苛性ソーダ工場を新設して塩素併産体制を整え、1964年の徳山新南陽石油化学コンビナートの発足を機に、塩素を起点とする石化製品(プロピレンオキサイド、塩化メチレン、四塩化炭素ほか)の生産を立ち上げた。1966年には鉄興社・ダイセル化学工業との共同出資でサンアロー化学を設立して塩化ビニールへ進出、1970年にポリプロピレンの自社生産を始めた。苛性ソーダと同時に出てくる塩素は単体では行き場のない副生物だが、コンビナート化でパイプラインを隣接工場に直結すれば、そのまま樹脂原料に変わる。化成品・セメント・樹脂の3本柱体制は、コンビナートという物理的な配管網に沿って組み上がった。1工場集中型の投資が、装置の共用と副生物の連鎖利用を同時に実現した。
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イオン交換膜と石油危機 ── 構造転換のきっかけ
1967年に独自開発したイオン交換膜は、水銀法から非水銀法への切り替えを迫られていた国内製塩業を支える存在となり、自前技術で社会インフラに食い込むという同社の原型を作った。資源大量消費型の事業を抱えた化学メーカーが、技術差別化で生き残りを模索する初期の成功例だった。装置産業のコモディティ競争を、プロセス特許とライセンスで逃げる発想の原点がここにある。イオン交換膜は後年、苛性ソーダ電解の主力プロセスとして国内外に普及し、同社はソーダ灰国産化から半世紀を経て、塩電解装置の技術ライセンサーという立ち位置を手に入れた。単なる大量生産型化学メーカーから、装置そのものを売る企業へ、事業構造の軸足がずれ始めた最初の徴候でもある。
しかし1973年と1979年の二度の石油危機は、ナフサ・電力・石炭に依存した同社の事業構造を根底から揺さぶった。原料コストの暴騰は既存3本柱の収益性を圧迫し、社内に「資源消費型からの脱却」という共通課題が立ち上がる。1980年代に火を噴くファインケミカル・エレクトロニクス・メディカルの新規事業は、この時期の危機感のなかで構想された。エネルギー価格の変動に左右されるコモディティ化学品から、付加価値の高い少量多品種の電子・医療向け製品へ軸足を移す必要があるという認識が、社内に広がった。徳山曹達は、ソーダ会社から多角化化学メーカーへ自己定義を書き換える助走期に入った。同じ時期に業界全体でも脱ナフサ依存の議論が進み、同社の方向転換は業界的な潮流とも重なっていた。
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1980年〜2008年5カ年計画と新規3分野 ── 多結晶シリコンが芽を出すまで
1982年・1983年・1984年 ── 3年連続で打った高付加価値の手
石油危機後の構造転換は、具体的な製品の連打として現れた。1982年にプラスチックレンズ材料と防湿剤、1983年にフロン・エタン代替を狙った電子工業向け高純度イソプロピルアルコールおよび塩化メチレン、1984年7月に東工場で多結晶シリコンの製造を始めた。半導体洗浄プロセスの脱フロン化という業界の課題に、ソーダ会社で培った精製技術を当て込む発想だった。汎用品の価格競争から、高純度ニッチへ逃げる戦術が、この3年に凝縮されている。多結晶シリコンは半導体ウエハーの原料で、参入時点では国内勢のほとんどが撤退し、信越化学・大阪チタニウムと並ぶ少数の国産サプライヤーが残る構図だった。同社の選んだ路線は、電子工業の下流で使われる薬品・材料を徳山のコンビナートから直接供給する、垂直統合型の高純度路線だった。
1985年には鹿島工場を新設して新規事業の生産基盤を固め、1988年から始まる「5カ年計画」でファインケミカル・エレクトロニクス・メディカルの3分野を重点育成事業に正式指定した。1978年に設立した歯科器材会社トーワ技研(後のトクヤマデンタル)、1989年に開いたつくば研究所、同年の米ゼネラル・セラミックス社買収による窒化アルミニウム技術の取り込みも、この大きな枠組みの一部だった。徳山の装置産業と鹿島の新規材料、つくばの研究機能、米国からの技術導入が1つの5カ年計画に束ねられ、長期投資の優先順位が社内で付け替えられた。多結晶シリコン・歯科・放熱材という現在の収益柱は、いずれもこの10年弱で種が蒔かれている。40年近く後の再建期の主役が、すべてこの時点で社内に配置されていた。
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「曹達」を捨てた1994年 ── ブランド再定義と海外網の構築
1994年4月、徳山曹達は商号を株式会社トクヤマへ変更した。社名変更の理由として、事業の実態が「曹達(ソーダ)」に収まらなくなったことに加え、若年層を中心に「曹達」という漢字が読めなくなっている点が公式に挙げられた。化学品メーカーとしての自己定義を、創業製品から事業ポートフォリオへ移す宣言だった。1995年3月期の連結売上高は1680億円規模に達し、改称はブランド刷新と同時に対外アピールの枠組み変更でもあった。社名から「曹達」を落としたことで、採用・IR・海外アピールが同一ブランドで括りやすくなる効果も期待されていた。創業から76年を経て、社名が指し示す領域と実態が一致しなくなったことに、経営陣はようやく正面から向き合った形だった。
同じ年に医療診断システムの株式会社エイアンドティーを設立、1995年に新第一塩ビ、1996年にシンガポールと台湾、2005年に中国の浙江と上海、2007年に窒化アルミ放熱材のTDパワーマテリアル、2008年に韓国へと、子会社・現地法人の設立が連なる。電子材料・診断・歯科のそれぞれが、顧客産業のグローバル化に追随する形で海外網を広げた。同じ時期、本業のソーダ・セメントは横ばいから緩やかな縮小に転じ、ポートフォリオの重心は静かに新規分野へ移った。装置産業である同社にとって、海外拠点は原料・電力・人件費の安い地域で装置を回すコスト戦略の一部でもあった。国内の大型装置は減価償却と更新投資の両面で重荷になり、海外小型拠点との組み合わせで収益を維持する構造転換が少しずつ進んだ。
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2009年3月期 ── 堅実経営の会社が初めて出した純損失
リーマンショックの直撃を受けた2009年3月期、トクヤマは56億円の純損失を計上した。堅実経営と評されてきた同社にとって戦後初の純損失であり、新規事業群の収益化スピードが、伝統事業の市況変動を吸収できる水準にまだ達していない事実を露呈した数字でもあった。多角化の「数」と「規模」は増えても、化成品・セメント依存の体質は残っていた。クロルアルカリ・セメントの市況変動は10年単位で繰り返し起きており、そのたびに新規事業の利益が相殺される構図が見えた。5カ年計画から20年を経ても、装置産業としての性格を完全に脱却するには至っていない。構造転換は、事業の連打だけでは足りず、コモディティ事業の整理を伴う必要があった。
この時期、社内には2つの方向感が同居していた。1つは半導体・太陽電池の需要拡大を見越した多結晶シリコンへの大型増強、もう1つはコモディティ化するクロルアルカリ・セメントの構造合理化である。前者の象徴が、2009年8月のマレーシア多結晶シリコン製造販売会社Tokuyama Malaysia Sdn. Bhd.の設立であり、当時としては成長セグメントへのアクセルだった。後者の答えはこの時点でまだ出ていない。両方を同時に踏み込んだ判断が、次の10年を決めた。戦後初の赤字の翌年に、本業とは別の次元で過去最大級の海外投資へ踏み込む決断は、社内でも議論を呼んだはずである。縮小と拡大を同時に走らせる経営は、どちらか一方が行き詰まれば全体のバランスを崩す危うさを抱えていた。
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2009年〜2017年マレーシアの賭けと、1006億円の幕引き
太陽電池の波に乗るための海外大型投資
2009年に設立したTokuyama Malaysia Sdn. Bhd.は、太陽電池グレードの多結晶シリコンを大量供給する新拠点とされた。リーマンショック後の世界的な再エネ投資と中国系太陽電池メーカーの拡大を、徳山工場で培った精製技術ごとマレーシアに展開する構想だった。シリコン精製は装置投資とエネルギー単価が勝負を決める事業で、海外の安価な電力とコスト優位の土地が呼び水となった。当時の社内想定では、徳山の既存装置に加えマレーシアの大型装置を併設し、世界需要の拡大に合わせて供給量を倍増させる計画だった。設備建設額は累計で数千億円規模、同社史上最大の単発投資だった。先端半導体グレードではなく汎用の太陽電池グレードを主戦場に選んだ点が、のちの損失規模を左右する決定的な選択になっている。
しかし計画は最初から狂い続けた。建設遅延と試運転トラブルでフル稼働が遠のくあいだに、太陽電池向け多結晶シリコン市況は中国勢の供給過剰で急落し、想定価格の前提が崩れた。立ち上げ時期に市況がピークを打ち、供給過剰のただ中に製品を投入する最悪のタイミングに重なった。2013年3月期には特別損失323億円を計上して純損失379億円、設備の減損処理に踏み込まざるを得なくなった。戦後初の赤字から4年で、過去に類のない規模の損失が現れた。計画時点で織り込んだ市況サイクルは上振れ想定が中心で、中国勢の大量参入と価格崩壊という下振れシナリオへの備えは乏しかった。装置産業の宿命として、立ち上がった工場は簡単には止まらない。
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純損失1006億円 ── 経営史最大級の赤字
赤字は1度では止まらなかった。2014年6月、幸後和壽から横田浩へ社長交代が行われ、再建期のトップが立つ。それでも2015年3月期に純損失653億円、2016年3月期にはついに純損失1006億円・特別損失1257億円を計上する。マレーシア事業の太陽電池向け市場が事実上崩壊し、累計の減損処理は同社経営史で最大級の規模に達した。2013年以降3期連続の巨額赤字は、単年の市況悪化ではなく、事業そのものの前提が消えた構造要因によるものだった。同社のピーク時連結売上高は3000億円前後で、1000億円超の単年赤字は自己資本比率と有利子負債比率の両面で同社を資本構成の観点からも危機的な状態に追い込んだ。
ピーク時に連結売上高3000億円規模の会社が単年で1000億円超の赤字を出す損失は、コーポレートガバナンス上も資本構成上も看過できないものだった。ただし同じ時期にも、多結晶シリコンの「先端半導体向け」事業や歯科器材・窒化アルミニウム放熱材といった新規分野は事業として育ち続けていた。徳山の先端半導体向けラインは中国勢の価格攻勢の外に置かれ、歯科のオムニクロマは2013年の発売後に米国でシェアを伸ばし始めていた。再建のシナリオは、成長分野を残しつつコモディティ向けの賭けを清算するという形に絞られた。同じ多結晶シリコンでも、汎用太陽電池向けは捨て、先端半導体向けは残すという、用途別の取捨選択が軸になった。
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2017年5月 ── マレーシア事業を手放した日
2017年5月、トクヤマはTokuyama Malaysia Sdn. Bhd.の全株式を韓国OCIへ譲渡し、マレーシア多結晶シリコン事業から完全撤退した。譲渡条件は実質的に同社にとって事業からの幕引きを優先した内容となり、累損の処理にひと区切りがついた。ここで同社が選んだのは、海外大型生産で太陽電池グレードを供給するという2009年の構想そのものを否定する道だった。譲渡先のOCIは太陽電池向けシリコン市況の回復に賭けていたが、同社は同じ市場から降りる判断を下した。装置産業において、巨額の減損後に残った工場をそのまま持ち続けるか、損失を確定して手放すかは、経営判断として大きな分岐点になる。同社は後者を選び、マレーシアの10年を清算に変えた。
撤退後の事業構造は、化成品・セメントの伝統事業と、電子先端材料・ライフサイエンスの成長事業という2軸へ整理し直された。2018年7月の徳山海陸運送買収で物流のインソース化を進める一方、研究開発投資はマレーシアで失った10年を取り戻すように先端半導体向け・歯科向けへ集中した。経営危機のさなかに1988年の5カ年計画で蒔いた種が枯れずに残った事実が、後の再建を可能にした条件だった。もしこの時期に歯科のオムニクロマや先端半導体向け多結晶シリコンの事業基盤まで解体していれば、その後の成長ドライバは失われていた。巨額の減損処理の陰で、社内の研究開発ラインはむしろ温存され、再建期の主役候補として保全された。
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直近の動向と展望
半導体先端品への集中 ── 台湾FTACとベトナム新工場
再建後の電子先端材料セグメントは、汎用品ではなく先端半導体向けに用途を絞り直す戦略を取っている。2020年10月、台湾に電子工業用高純度IPAの製造販売会社・台塑德山精密化學股份有限公司(FTAC)を設立し、2022年8月には韓国にもSTAC Co., Ltd.を設立した。「6nm以下の先端品に向けて大手デバイスメーカーで採用が進んでいる」(決算説明会 FY23)という認識のもと、地産地消の供給体制を主要顧客の隣で組む構成である。マレーシア撤退後の海外拠点は、用途と顧客を絞り込んだ隣接供給型へ舵を切っている。汎用太陽電池グレードで大型装置を海外に据える2009年型の発想から、特定顧客の工場に隣接して供給する2020年型の発想へ、同じ「海外展開」でも構造がまったく異なる。
多結晶シリコンも、レガシー向けではなく先端ウエハー向けに集中する。「2024年度の販売数量は対2023年度比で20%強の増量を見込んでいる。大手ウエハーメーカーの在庫調整はレガシー向けが中心となっており、当社の多結晶シリコンの多くは先端部分に使用されているため、在庫調整がある中でも引き続き消費される」(決算説明会 FY25-3Q)。2024年8月にはベトナムに半導体用多結晶シリコンの製造販売子会社TOKUYAMA VIETNAM CO., LTD.を設立し、マレーシアで一度否定した海外大型生産を、用途と顧客を絞った形で取りに行っている。先端半導体の需要は、生成AIとデータセンター投資を背景に数量・単価の両面で堅調に推移しており、同社の多結晶シリコンは用途特化の付加価値型として数量増と利益率の改善が同時に進んでいる。
- 有価証券報告書
- 決算説明会 FY23
- 決算説明会 FY23-2Q
- 決算説明会 FY24
- 決算説明会 FY25-2Q
- 決算説明会 FY25-3Q
- 日本経済新聞 2021/12/20
- 化学工業日報 2021
歯科器材オムニクロマと鹿島工場MD-8棟
ライフサイエンス事業の成長を引っ張っているのは歯科器材オムニクロマである。米国のシェアは2Q決算時点で1%から6%へ拡大し、欧州・南米・中東・アジアへも拡販が進む(決算説明会 FY23-2Q)。「歯科材料は2024年度下期以降伸びていく前提で考えているが、現時点でフル販売であり、需要に追い付いていない。2024年度上期は売るものがない状況」(決算説明会 FY24)と需給逼迫を社長自身が認める状況が続いた。化学メーカーの事業説明会で供給制約が主題になる場面は珍しく、装置投資で解決する論点と、市場の広げ方の論点が同時に俎上に載る。歯科器材は少量高付加価値の典型で、装置産業としての巨大装置ビジネスの対極にある事業である。
供給制約を解くのが鹿島工場のMD-8棟で、当初2024年10月の本格稼働を目指していたが、機器搬入遅延で2025年2月に後ろ倒しされた(決算説明会 FY25-2Q)。1978年にトーワ技研として設立した歯科器材子会社が、約半世紀を経てトクヤマ全体の再建ストーリーの一翼を担う構図である。創業期の副生石灰がセメントを呼んだ構図と対照的に、ここでは小さく種を蒔いた子会社が親会社を支える。稼働時期の後ろ倒しは供給制約の解消を遅らせる要因だが、同時に歯科材料の需要が工事スケジュールを上回る速度で伸びている証拠でもある。装置の遅延と市場の拡大が同時に進む状況は、再建期の同社にとって贅沢な悩みでもあった。
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- 決算説明会 FY23-2Q
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- 決算説明会 FY25-2Q
- 決算説明会 FY25-3Q
- 日本経済新聞 2021/12/20
- 化学工業日報 2021
中計2025とポートフォリオ転換の到達点
中期経営計画2025は売上高4000億円・営業利益450億円を最終年度(2025年度)の目標に置く。「基本的には達成できるという手ごたえがある。特に化成品、セメント、ライフサイエンスは計画どおりに進捗する見込み。あとは電子先端材料がどこまで仕上がるかがポイント」(決算説明会 FY25-2Q)と社長は述べた。実績では、2025年3月期売上高3430億円・営業利益299億円・純利益233億円まで戻し、マレーシア損失計上前の収益水準を回復している。売上規模はピーク時には届かないものの、事業構成は大きく入れ替わり、かつてのコモディティ中心のポートフォリオとはまったく違う利益の出方に変わった。電子先端材料とライフサイエンスが収益の中心にせり上がり、装置産業の看板は裏方へ回っている。
横田浩は再建期のトップとして「自社技術にこだわるあまりアライアンスへの積極性が不足していた。オープンイノベーション&アライアンスをキーワードに変革する」(日本経済新聞 2021/12/20)と語った。同時期には「電子・健康・環境の3分野を成長ドライバーに、ポートフォリオの転換を図る」(化学工業日報 2021)とも述べ、成長事業の連結売上高比率を2026年3月期に50%超へ引き上げる目標を掲げている。2025年4月の決算説明会では経営企画ラインが杉村英男専務から井上智弘常務へ交代し、米国関税の間接影響など新たな外部リスクを警戒する運営に入っている。1918年にアルカリ国産化のため生まれた会社は、半導体先端品と歯科先端材料を主軸とする化学メーカーへ組み替わりつつある。徳山の1工場集中から分散型の隣接供給へと、装置のあり方も組み替わっている。
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