1918年 輸入アルカリ代替から徳山コンビナートまで
- 1918年日本曹達工業㈱として発足
- 1936年商号を徳山曹達㈱に変更
- 1938年徳山工場で湿式法ポルトランドセメント製造を開始
- 1949年東京証券取引所に上場
- 1964年プロピレンオキサイド工場を新設
- 1967年イオン交換膜製造工場を新設
- 1978年トーワ技研㈱(現 ㈱トクヤマデンタル)を設立
トクヤマの業績推移:単体
出所:有価証券報告書・会社四季報等
読めない「曹達」── アルカリ国産化のために生まれた会社
設立の動機は経営者の野心ではなく国家的な輸入代替だった。1918年2月、鈴木岩井商店を主宰していた岩井勝次郎が、諸外国からの輸入に頼っていたアルカリ源を国産化するため、山口県徳山町に資本金200万円で日本曹達工業株式会社を設立し、アンモニア法によるソーダ灰の製造を始めた。創立当時の社名「日本曹達工業」の頭文字N・S・Kを、ソーダの主原料である塩の結晶の六面体で囲んだ商標は、その後も同社の標章として引き継がれた。ソーダ灰は板ガラス・石鹸・紡織など当時の基幹産業の土台であり、アルカリの輸入依存は国家的な弱点として繰り返し議論されていた。徳山港に面する立地は、石灰石・塩・豊富な用水という原料条件を同時に満たし、後年のコンビナート化にもつながる地の利だった。装置産業としての化学メーカーは、原料・エネルギー・港湾・廃熱処理の4条件が揃う場所でしか成立しない。徳山はその4条件を満たす数少ない候補地の1つとして選ばれた。 [1][2][3][4][5][6]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]創立当時の社名「日本曹達工業」の頭文字N・S・Kを塩の結晶の六面体で囲んだ商標を採用しその後も引き継いだ
- トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
- [2]1918年2月に日本曹達工業株式会社が設立された
- [3]設立者は鈴木岩井商店を主宰していた岩井勝次郎
- [4]設立時の資本金は200万円だった
- [5]設立地は山口県徳山町で社名は日本曹達工業株式会社だった
- [6]創業時はアンモニア法によるソーダ灰の製造を行った
しかし発足直後から市況は崩れた。海外勢のダンピングで業績不振が続き、1932年頃にソーダ灰から事実上撤退して苛性ソーダの製造へ切り替える。ちょうど人絹工業が勃興し苛性ソーダ需要が拡大した時期に重なり、業績は回復、1931年には13年ぶりに5分配当を復活させた。創業時に掲げたソーダ灰国産化という大義名分を10年あまりで取り下げ、同じ製塩設備を苛性ソーダに振り向けて生き延びる。1936年に発祥地と製品名を組み込んで徳山曹達株式会社へ改称し、化成品の品目を広げた。1930年代後半には炭酸マグネシウム・塩化カルシウム・珪酸ソーダといった無機化学品の製造を相次いで立ち上げたが、第2次大戦が始まると原料確保難からソーダ部門を含め生産が停滞した。戦後復興のなかで設備を補強し、1949年に東京証券取引所へ上場、戦前期に始まったソーダ会社が大手化学品メーカーへの足場を固めた。装置産業の企業が、主力製品の看板を付け替えながら生き残る原型が、このときすでに現れている。 [7][8][9][10][11][12]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [7]1932年頃にソーダ灰から事実上撤退して苛性ソーダの製造へ切り替えた
- [8]1931年に13年ぶりの5分配当を復活させた
- [9]1930年代後半に炭酸マグネシウム・塩化カルシウム・珪酸ソーダなどの無機化学品の製造を立ち上げた
- [10]第2次大戦が始まると原料確保難からソーダ部門を含め生産が停滞した
- トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
- [11]1936年に徳山曹達株式会社へ改称した
- [12]1949年に東京証券取引所へ上場した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [1]創立当時の社名「日本曹達工業」の頭文字N・S・Kを塩の結晶の六面体で囲んだ商標を採用しその後も引き継いだ
- トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
- [2]1918年2月に日本曹達工業株式会社が設立された
- [3]設立者は鈴木岩井商店を主宰していた岩井勝次郎
- [4]設立時の資本金は200万円だった
- [5]設立地は山口県徳山町で社名は日本曹達工業株式会社だった
- [6]創業時はアンモニア法によるソーダ灰の製造を行った
- [11]1936年に徳山曹達株式会社へ改称した
- [12]1949年に東京証券取引所へ上場した
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [7]1932年頃にソーダ灰から事実上撤退して苛性ソーダの製造へ切り替えた
- [8]1931年に13年ぶりの5分配当を復活させた
- [9]1930年代後半に炭酸マグネシウム・塩化カルシウム・珪酸ソーダなどの無機化学品の製造を立ち上げた
- [10]第2次大戦が始まると原料確保難からソーダ部門を含め生産が停滞した
副生石灰がセメントを呼んだ ── 1工場で日本有数の規模へ
セメント事業の起点は新規進出ではなく、ソーダ灰生産で出る副生炭酸石灰の処分先探しだった。1938年3月、徳山工場に湿式法によるポルトランドセメント1号キルンを設置したのを皮切りに、戦前戦後を通じて増設を繰り返し、単一工場として国内有数のセメント工場へ膨らむ。化学品の副産物が第二の柱に化けるパターンが、ここで生まれた。本業のアルカリで出る廃棄物が新事業の原料になる構図は、装置産業では珍しくない。しかし同社の場合は、この副生物処分を1工場の規模で日本有数のセメント生産へ積み上げた点が特異だった。徳山という1つの立地に工程を集中させた判断が、後のコンビナート化への布石にもなった。戦後の高度成長期の公共投資により、セメントはソーダと並ぶ収益源へ育った。 [13][14]
- トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
- [13]1938年3月に徳山工場で湿式法ポルトランドセメント1号キルンを設置した
- [14]徳山工場は単一工場として国内有数のセメント工場へ成長した
同じ構図は塩素にも当てはまる。1952年に電解法苛性ソーダ工場を新設して塩素併産体制を整え、1964年の徳山新南陽石油化学コンビナートの発足により、塩素を起点とする石化製品(プロピレンオキサイド、塩化メチレン、四塩化炭素ほか)の生産を立ち上げた。コンビナート化は単独投資ではなく同業との共同出資で進み、1963年に旭硝子・東洋曹達と日本合同肥料を、1964年には東洋曹達と資本金5億円で周南石油化学を設立して石化原料の供給網を整えた。1966年には鉄興社・ダイセル化学工業との共同出資でサンアロー化学を設立して塩化ビニールへ進出、1970年にポリプロピレンの自社生産を始めた。相次ぐ設備投資を支えるため資本金も積み増し、1965年に32億1000万円、1967年に32億5000万円へと増資した。苛性ソーダと同時に出てくる塩素は単体では行き場のない副生物だが、コンビナート化でパイプラインを隣接工場に直結すれば、そのまま樹脂原料に変わる。化成品・セメント・樹脂の3本柱体制は、こうして配管網に沿って組み上がった。 [15][16][17][18][19]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [15]1963年に旭硝子・東洋曹達と日本合同肥料を設立した
- [16]1964年に東洋曹達と資本金5億円で周南石油化学を設立した
- [17]資本金を1965年に32億1000万円、1967年に32億5000万円へ増資した
- トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
- [18]1952年に電解法苛性ソーダ工場を新設して塩素併産体制を整えた
- [19]1970年にポリプロピレンの自社生産を始めた
- トクヤマ 有価証券報告書【沿革】
- [13]1938年3月に徳山工場で湿式法ポルトランドセメント1号キルンを設置した
- [14]徳山工場は単一工場として国内有数のセメント工場へ成長した
- [18]1952年に電解法苛性ソーダ工場を新設して塩素併産体制を整えた
- [19]1970年にポリプロピレンの自社生産を始めた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [15]1963年に旭硝子・東洋曹達と日本合同肥料を設立した
- [16]1964年に東洋曹達と資本金5億円で周南石油化学を設立した
- [17]資本金を1965年に32億1000万円、1967年に32億5000万円へ増資した
イオン交換膜と石油危機 ── 構造転換のきっかけ
1967年に独自開発したイオン交換膜は、水銀法から非水銀法への切り替えを迫られていた国内製塩業を支える存在となり、自前技術で社会インフラに食い込むという同社の原型を作った。資源大量消費型の事業を抱えた化学メーカーが、技術差別化で生き残りを模索する初期の成功例だった。装置産業のコモディティ競争を、プロセス特許とライセンスで逃げる発想の原点がここにある。イオン交換膜は後年、苛性ソーダ電解の主力プロセスとして国内外に普及し、同社はソーダ灰国産化から半世紀を経て、塩電解装置の技術ライセンサーという立ち位置を手に入れた。単なる大量生産型化学メーカーから、装置そのものを売る企業へ、事業構造の重心がずれ始めた最初の徴候でもある。
しかし1973年と1979年の二度の石油危機は、ナフサ・電力・石炭に依存した同社の事業構造を根底から揺さぶった。原料コストの暴騰は既存3本柱の収益性を圧迫し、社内に「資源消費型からの脱却」という共通課題が立ち上がる。1980年代に火を噴くファインケミカル・エレクトロニクス・メディカルの新規事業は、こうした危機感のなかで構想された。エネルギー価格の変動に左右されるコモディティ化学品から、付加価値の高い少量多品種の電子・医療向け製品へ主力を移す必要があるという認識が、社内に広がった。徳山曹達は、ソーダ会社から多角化化学メーカーへ自己定義を書き換える助走期に入った。同じ時期に業界全体でも脱ナフサ依存の議論が進み、同社の方向転換は業界的な潮流とも重なっていた。