高峰譲吉・渋沢栄一らが東京人造肥料会社として設立し、日本初の化学肥料メーカーとして出発した。日産財閥傘下を経て戦後に独立し、一九六五年に石油化学に進出したが二期連続赤字を経験して一九八八年に完全撤退した。撤退後は農薬・医薬品・機能性材料への集中投資に転換し、インテル向け半導体材料や液晶配向膜材料で高収益体質を確立した化学メーカーである。
歴史概略
第1期: 化学肥料から石油化学へ(1887〜1987)
東京人造肥料の設立と日産財閥傘下
一八八七年二月に高峰譲吉・渋沢栄一・益田孝ら財界人が化学肥料の国産化を計画し、東京人造肥料会社を設立した。明治時代を通じて肥料会社が全国各地に出現し競争が激化する中、一九二三年に東京人造肥料・関東酸曹・日本化学肥料の三社が合併した。一九三七年十二月には日産財閥傘下に入り「日産化学工業」として再出発した。
一九四九年に東京証券取引所に上場し、企業再建整備法により油脂部門を「日油」として分離した。戦後は基礎化学品と農薬を両輪とする事業構造で成長を続けたが、他の財閥系化学メーカーが石油化学に参入する中、日産財閥の完全解体により財務的後ろ盾を持たない日産化学は後発参入の道を選ばざるを得なかった。
石油化学への後発参入と二期連続赤字
一九六五年に日産化学石油を設立して石油化学に進出し、技術難易度の高い塩化ビニール・ポリエチレン・高級アルコールに特化することで先発企業との差別化を図った。しかし一九六九年には埼玉工場を新設し、同年に王子工場を閉鎖して袖ヶ浦工場に移転するなど生産体制の再編に追われた。
一九七三年のオイルショックを機に石油化学業界全体で過剰生産が深刻化し、日産化学も販売不振と売価下落に直面した。一九八二年三月期と一九八三年三月期の二期連続で最終赤字に転落し、累計損失は五十七億円に達した。後発参入企業として規模の経済で対抗する見込みが乏しく、石油化学事業の存続可否そのものが経営の焦点となった。
第2期: 石油化学撤退と高付加価値路線への転換(1988〜2009)
中井社長の決断と完全撤退
一九八八年に社長の中井武夫氏は石油化学の全三部門からの完全撤退を決断した。塩ビ部門は東ソー、高級アルコール部門は協和発酵、ポリエチレン部門は丸善石油化学にそれぞれ事業ごと売却する方式を採った。一九八〇年から合弁方式による段階的な事業移管を開始しており、八年間の準備期間を経て市況好転期に売却を完了した。
中井社長は「撤退は単なる縮小ではなく転換である」と位置づけ、農薬事業を核としたファイン化路線を撤退後のシナリオとして社内に明示した。副社長の徳島氏が約千名の社員と直接対話して改革の必要性を浸透させ、社員の反発を招くことなく撤退を完了した。主力事業を丸ごと手放すという石油化学業界でも類を見ない意思決定であった。
農薬・医薬品・機能性材料の三本柱
撤退後の一九八九年に中期五カ年計画を策定し、農薬・医薬品・機能性材料の三分野に集中投資する方針を打ち出した。農薬部門では一九八九年にシリウス、一九九一年にサンマイト、一九九四年にパーミットを相次いで発売した。医薬品分野では一九九四年にランデル、二〇〇三年にリバロを投入し安定的な収益基盤を構築した。
機能性材料分野では一九八九年に液晶向け配向膜材料、一九九八年に半導体向けコーティング材料に参入した。二〇〇一年に研究開発組織を再編し、液晶パネルと半導体材料の開発体制を強化した。一九九三年三月期には過去最高益となる経常利益五十四億円を達成し、石油化学撤退からわずか五年で収益構造の転換が数字に表れた。
第3期: グローバル展開と事業の深化(2010〜現在)
農薬事業の海外買収と拡充
二〇〇一年に韓国、二〇一〇年に台湾、二〇一四年に中国上海、二〇一七年に中国蘇州と相次いで現地法人を新設し、アジアを中心としたグローバル展開を進めた。農薬事業では二〇〇二年に日本モンサントから除草剤事業を買収し、二〇一〇年には米ダウアグロサイエンスから殺菌剤事業を取得した。二〇一九年には米コルテバ社から殺菌剤「キノキシフェイン」事業を買収した。
農薬の海外買収は自社開発品の販路を拡大するとともに、外部から製品ラインナップを補強する両面の効果を持った。ニッチな作物・用途に特化した製品群により、市場規模は限定的ながらも高い利益率を確保する戦略が一貫して維持されている。
基礎化学品の整理と商号変更
二〇一八年に「日産化学工業」から「日産化学」へ商号を変更し、工業会社としての旧来のイメージからの脱却を図った。二〇二二年には基礎化学品であるメラミンの生産を停止し、石油化学撤退後に残った基礎化学品事業の整理をさらに進めた。二〇二三年には日本燐酸株式会社を買収して肥料事業の基盤を補強した。
二〇二四年三月期の売上高は二千二百六十七億円、営業利益は三百八十億円であり、営業利益率は約一七パーセントに達する。石油化学からの撤退と高付加価値品への転換により、規模ではなく利益率を重視する経営方針が数字に結実している。農薬・機能性材料・医薬品の三分野で研究開発力を競争力の源泉とする体制は、中井社長の撤退決断から三十五年を経て確固たるものとなった。
日産化学の石油化学撤退が円滑に進んだ要因の一つは、1987年から1988年の市況好転期に売却を完了した点にある。不況期に撤退の布石を打ち好況期に売却を実行するという時間差は、1980年から合弁方式で段階的に事業を移管していた8年間の準備期間があって初めて可能となった。後発参入ゆえに規模の経済で対抗できないという構造的劣位の認識が撤退判断の根底にあり、この認識が農薬・機能性材料を核とする高収益体質への転換起点となった。