1887年2月
東京人造肥料会社を設立

1887年に国内の財界人(高峰譲吉・渋沢栄一・益田孝)が化学肥料の国産化を計画し、東京人造肥料会社を設立した。しかし、明治時代を通じて肥料会社が全国各地に出現して競争が激化。大正時代の第一次世界大戦後の経済不況により業界再編が進行し、1923年に東京人造肥料会社・関東酸曹・日本化学肥料の3社が合併した。

1887年
2月
東京人造肥料会社を設立
1907年
12月
小松川工場を新設
1910年
7月
大日本人造肥料株式会社に商号変更
1923年
5月
大日本人造肥料・関東酸曹・日本化学肥料が3社合併
1937年12月
日産化学工業の発足(日産財閥傘下へ)
1949年5月
東京証券取引所に株式上場
1949年
企業再建整備法により油脂部門を「日油」として分離
1965年
日産化学石油を設立・石油化学に進出

1965年に日産化学は子会社「日産化学石油」を設立して石油化学への進出を決定した。すでに財閥化学メーカー(三井・住友・三菱)が石油化学に参入していたが、日産化学は日産財閥の完全な解体により財務的な後ろ盾を持たず、巨額投資に踏み切れなかったことも影響し、結果として1960年代に後発参入する道を選択した。

先発企業と差別化するため、日産化学は石油化学において比較的技術難易度が高いとされる「塩化ビニール・ポリエチレン・C8(高級アルコール)」の製造を主軸に置いた。

決算
日産化学の業績
1966年4月期(単体)
売上高
233
億円
当期純利益
2.6
億円
1969年
埼玉工場を新設
1969年
王子工場の閉鎖・袖ヶ浦工場の新設

東京王子の隅田川沿いにあった主力生産拠点「王子工場」について、周辺の宅地化により拡張が困難なことや、設備が老朽化しつつあったことを受けて閉鎖を決定。日産化学の旧王子工場は土地を日本住宅公団に売却し、工場跡地は大規模な集合住宅「豊島5丁目団地」として再開発された。

決算
日産化学の業績
1970年4月期(単体)
売上高
397
億円
当期純利益
6
億円
1983年4月
2期連続の最終赤字に転落

1973年のオイルショックを機に石油化学における過剰生産の問題が業界全体で発生。日産化学も販売不振や売価下落に直面し、1970年代から1980年代にかけて業績が悪化。1982年4月期および1982年4月期の2期連続で最終赤字に転落し、同年度末には累計損失が57億円に達した。

決算
日産化学の業績
1983年4月期(単体)
売上高
1121
億円
当期純利益
-23
億円
1988

石油化学から完全撤退(塩ビ・ポリエチレン・高級アルコール)

中井社長による撤退の決断

1988年に日産化学の社長であった中井武夫氏(興銀出身)は、競争が激化した石油化学事業「塩ビ部門・ポリエチレン部門・高級アルコール部門」の全3部門からの完全撤退を決断。各事業の開発・販売人員と、その設備を丸ごと同業他社に売却した。当時は同業他社も石油化学の慢性的な低収益に苦しんでいたが、完全な事業撤退を決めた日産化学の決断は異色であった。

すでに1980年から各事業について合弁方式による事業の移管を開始していたが、これらの合弁会社の売却を実施。塩ビ部門は東ソー、高級アルコール部門は協和発酵、ポリエチレン部門は丸善石油化学に譲渡することで、日産化学は石油化学部門から撤退を完了した。

撤退を実施した1987年〜1988年は、一時的に石油化学製品の市況が好転したこともあり、売却交渉は順調に進んだ。

撤退における従業員への配慮

撤退にあたっては、社内のコンサルタントを交えた特別チームを組成して対応。事業縮小を伴う撤退ではあったが、各部門の従業員は雇用が保証し、OBにも対する説明を丁寧に実施。労務を担当した徳島氏(日産化学・副社長)は、約1000人の社員と直接対話し、改革の必要性を現場に浸透させた。

経営層のコミットにより、OBおよび社員が理解を示したため、社員が反発するといった悲劇的な撤退には至らなかった。

事業展開の変化

石油化学および関連事業の切り離しにより、日産化学の売上は減少したが収益性の改善を達成。1993年3月期には過去最高益となる経常利益54億円を達成した。

石油化学の分離によって、日産化学は「農薬・医薬品・機能性材料」といった開発が鍵を握る高付加価値な化学メーカーを志向。日産化学の歴史において「石油化学の撤退」は、主力事業を丸ごと手放すという、石油化学業界でも類を見ない意思決定となった。

1980年
6月
ポリエチレン部門を丸善石油との合弁会社に移管
1983年
塩ビ部門を東ソーとの合弁会社に移管
1987年
塩ビ部門を東ソーに売却
1987年
ポリエチレン部門を丸善石油に売却
1988年
高級アルコール部門を協和発酵に売却
証言
中井武夫(日産化学工業・当時会長)

撤退が円滑に行った最大の理由は、企業経営者として身も心も失わない撤退を心がけたことにあります。企業のアイデンティティーを失わずに方向転換することができたからだと思います。具体的に言えば、まず事業撤退の必要性を組織内部に周知徹底し、OBも含めた全員に納得してもらうことです。これは選択肢が限られていたため比較的容易でした。撤退が単なる縮小ではなく、転換であることを理解してもらうには、撤退後のシナリオを明示することが必要です。社外のコンサルタントを加えた特別チームを編成して、既存事業を洗い直しました。農薬事業を核にしたファイン化路線で個性的な企業を目指すという方向性を示し、再スタートしたわけです。

1994/5/2 日経ビジネス
1989

中期5カ年計画の策定・高機能材に積極投資

高機能材に集中投資

1989年に中井武夫氏(日産科学・当時社長)は中期五カ年計画を策定。石油化学からの撤退と同時に「農薬・医薬品・液晶材料」などの高機能化学品を中心に投資を行う方針を明確にし、売上ではなく利益を重視する経営に舵を切った。

方針が明確になったことで、日産化学に残った社員は「目の色を変えて」新規事業の研究開発にコミットしたという。この結果、1980年代後半以降に、日産化学は主力製品を次々と開発した。

農薬における新製品の展開

農薬部門では、1989年に「シリウス(水稲向け除草剤)」、1991年に「サンマイト(果樹・野菜向け殺虫剤)」、1994年に「パーミット(トウモロコシ向け除草剤)」を相次いで発売。ニッチな領域だが、それゆえに高収益な製品を展開した。

医薬品における新製品の展開

医薬品分野では1986年から血液硬化剤に関する診療試験を開始。1994年に初の医薬品となる「ランデル(血圧降下剤)」を発売したのを皮切りに、2003年に「リバロ(高コレステロール血症治療薬)」を発売して、安定的な利益を稼ぐ事業となった。

機能性材料における新製品の展開

機能性材料分野では、1989年に液晶パネル向けの配向膜材料、1998年には半導体向けのコーディング材料にそれぞれ参入。2000年代を通じた半導体と液晶パネルの需要増加という追い風を受けて、日産化学の高成長・高収益事業に育った。

1989年
中期5カ年計画の策定
1989年
農薬:シリウス(水稲向け除草剤)を発売
1994年
医薬品:ランデル(血圧降下剤)を発売
1989年
機能性材料:液晶向け:配向膜材料に参入
証言
中井武夫(日産化学工業・当時会長)

当社の場合、撤退後に好況がきて新規事業が立ち上がるまでの時間を稼げた幸運もあります。しかし、会社存亡の危機にあって社員の士気が急速に高まり、農薬事業で優れた新製品を4つ開発できました。医薬部門で自社開発第1号の血液硬化剤を4月から発売しています。目の色を変えて新規事業に取り組んだ結果です。撤退という辛い決断によって、個人能力を引き出すような組織の活性化ができたからだと思っています。

1994/5/2 日経ビジネス
2001年
研究開発組織を再編

液晶パネルおよび半導体材料向けの研究開発体制を強化するために、2001年に研究開発組織の再編を実施した。

2000年代を通じて液晶パネルの普及や、半導体の需要増加という追い風を受けて、機能材料が日産化学の成長を牽引した。

決算
日産化学の業績
2002年3月期(連結)
売上高
1381
億円
当期純利益
32
億円
従業員数
2401
営業CF
116
億円
投資CF
-156
億円
財務CF
56
億円
2001年
韓国に現地法人を新設
2002年7月
日本モンサントから農薬除草剤事業を買収
2008年6月
木下小次郎氏が代表取締役社長に就任
2010年1月
米DowAgroScienceより農薬殺菌剤事業を買収
2010年10月
台湾に現地法人を新設
2014年1月
中国(上海)に現地法人を新設
2017年7月
中国(蘇州)に現地法人を新設
2018年
「日産化学工業」から「日産化学」へ商号変更
2019年11月
米Corteva社より殺菌剤「キノキシフェイン」事業を買収
2022年6月
基礎化学品メラミンの生産停止
2023年4月
日本燐酸株式会社を買収
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