住友財閥は、明治時代を通じて別子銅山(愛媛県)への機械化投資を実行。従来は人力であった「排水」や「掘削」で機械を積極的に導入した結果、明治30年には3000トン/年、明治42年には6000トン/年を産出する日本有数の銅山に育て上げた。
そして住友財閥は、別子銅山における銅の産出で十分な利益を確保し、銀行(住友銀行)・保険(住友生命)・鉄(住友金属)といった多角事業に資本投下することで、財閥として発展した。このため、別子銅山における高収益が、住友家が財閥として発展するかどうかの鍵を握っており、銅の産出量の確保は至上命題であった。
ところが、産出量が増えるにつれて、精錬における公害問題(煙害)が顕在化した。別子銅山で産出した銅は、山を下った海辺の新居浜の製錬所で精製されたが、この時に「亜硫酸ガス」が発生。新居浜周辺の農作物に被害をもたらした。このため、近隣の農民は暴動を起こして抗議するなど、住友財閥としては公害問題への対処が急務となった。
そこで、住友財閥は農民への金銭補償を行いつつ、精錬所を新居浜から、瀬戸内海に浮かぶ島「四阪島」に移転することを決定した。当時は亜硫酸ガスの回収法が技術的に確立されておらず、工場移転が最善の策でもあった。
しかし、それでも煙は四国本土に流れ着いてしまい、課題解決には至らなかった。
1908年に住友財閥は抜本的な解決策として、亜硫酸ガスの発生を抑制するために、硫酸を原料とした過リン酸石灰(肥料)の生産を決定。これらを近隣の農家に配ることで公害による補償を行う意図もあった。ただし、当時の肥料の市場は限定的であり、採算を度外視した意思決定でもあった。
肥料製造を本格展開するために、1913年に住友総本店は肥料製造所を新設。工場は新居浜の海岸を埋め立てることで工場を新設した。この製造所が住友化学の発祥工場に相当しており、創業地は「新居浜」とされる。創業においては肥料(化学)における市場は限定的であり、独立した株式会社ではなく、住友総本店の1事業として運営された。