歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1913年、別子銅山の製錬所が出す亜硫酸ガスが周辺の農地を傷め、住友総本店は新居浜に肥料製造所を設けた。ガスを回収して硫酸にし、過燐酸石灰として農家へ売る事業である。輸入特許や輸入原料から立ち上がった化学各社と違い、自社銅山の副産物を原料に据えた。煙害という負債を肥料という製品へ転じる発想で出発し、硫酸からアンモニア、肥料から化成品へと原料を一段ずつ下流へ広げていった。
決断住友化学が選んだのは、硫酸からアンモニア、染料、医薬、軽金属、そして石油化学へと、原料の系列を一段ずつ下流へ伸ばす多角化だった。1934年に肥料専業から総合化学へ脱皮して以降、市況に揺れる汎用石化を、医薬・農薬・電子という高付加価値の3事業で相殺する設計を組んだ。一方で海外石化はアサハン、シンガポール、ラービグと政府間協定を背負って引き受け、採算とは別の理由で抱える事業も残った。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1913年に別子銅山の煙害対策から肥料事業を始めたのか
- A 1913年に住友化学が肥料事業を始めたのは、別子銅山の製錬所が出す亜硫酸ガスが周辺の農地を傷め、住友総本店が煙害への対応を迫られたためである。回収したガスを硫酸にし、過燐酸石灰として農家へ売れば、公害処理と新事業を一体で立ち上げられる。輸入特許や輸入原料から始まった他の化学各社と違い、住友化学は自社銅山の副産物を原料に据えた。1925年に資本金300万円の住友肥料製造所として独立した。
- Q なぜ1980年代に採算と別の論理で海外石化を引き受けたのか
- A 住友化学が政府間協定を背負って海外石化を引き受けたのは、戦後の重化学工業化を担う民間会社として国の経済外交の受け皿になったためである。電力高で国内アルミ製錬が成立しなくなる一方、1982年に日本・インドネシア経済協力事業のアサハン・アルミニウムが、1984年には年産30万トンのシンガポール石油化学コンビナートが日本・シンガポール経済協力事業として稼働した。採算とは別の論理で抱えた事業は、後の2009年のサウジ・ラービグへ繋がった。
- Q なぜ2023年に汎用石化を自ら手放す構造改革に踏み切ったのか
- A 2023年に住友化学が汎用石化を自ら手放したのは、ラービグの不振とラツーダ特許切れが重なって2023年3月期にIFRS導入後初の営業赤字に陥り、汎用品で稼ぐ前提が崩れたためである。2023年11月に聖域なき抜本的構造改革を掲げ、50年以上続けたカプロラクタムから撤退し、京葉エチレンの運営最適化を丸善石油化学と進めた。原料系列を下流へ伸ばして広げた会社が、出発点の汎用化学を手放す側に回った。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1913年〜1957年 別子銅山の煙害対策から総合化学への拡大
別子銅山の公害処理から生まれた肥料事業
住友化学の起点は化学工業ではなく、別子銅山の公害処理にある。住友の事業は愛媛県の別子銅山の開発とともに始まり、製錬所から出る亜硫酸ガスが周辺農地を傷め、住友本店は対応を迫られた[1][2]。ガスを回収して硫酸にすれば、原料として肥料が作れる。1913年9月、住友総本店は新居浜に肥料製造所を設け、翌1914年から設備の試運転に入った[3]。1915年10月から過燐酸石灰の出荷を始め、1925年6月には資本金300万円の株式会社住友肥料製造所として独立する[4][5]。公害解決と新事業を一体で立ち上げる発想は、当時の他社の合成化学とは出自が違っていた。化学工業が輸入特許や輸入原料から始まる業界構造のなかで、住友化学だけは自社銅山の副産物を出発点に据えた点が特徴である。
住友化学にとって肥料は、原料である硫酸が先にあって生まれた事業だった。後の総合化学への多角化も、別子銅山という資源を起点に副産物を高付加価値化する住友本流の思想を引き継いでいる。硫酸から肥料、肥料からアンモニア、アンモニアから化成品へと、原料系列を一段ずつ下流へ広げる形で事業が積み上がった。戦後の石油化学進出にしても、原料を石炭から石油に差し替える発想で捉えれば同じ流れにある。110年後のラービグ・アサハン・シンガポールの海外石化もまた、原料立地を海外に求めたうえでの下流展開であり、出発点の思想そのものは形を変えて残り続けた。
アンモニア合成から総合化学会社への脱皮
肥料単独の事業はやがて頭打ちになる。硫酸と過燐酸石灰だけでは市場拡大が限られ、次の柱として国内自給率が低かったアンモニアに着目した。1928年、米ナイトロジェン・エンジニアリング社からアンモニア合成法の特許を導入し、1931年4月から新居浜で生産を始めた。これでアンモニアを軸に硫安・硝酸・化成品全般へ広がる足場ができ、1934年2月に商号を住友化学工業へ変更した[6]。独立時に300万円だった資本金は、この社名変更の頃には2000万円まで増えている[7]。社名から「肥料」の文字が消え、化学工業会社のかたちが整った。原料一本足の肥料会社から、アンモニア誘導品を持つ総合化学会社へ、看板と実態の両方を書き換えた転換点だった。ここから住友化学は、原料系列を下流へ広げる多角化のパターンを身につけた。
1944年7月には日本染料製造を合併し、染料・医薬品分野へ踏み込んだ[8]。同じ年の6月、住友本店は住友アルミニウム製錬の経営委託を受け、アルミナからアルミニウムまでの一貫生産も傘下に入れた[9]。翌1945年には尾崎染料化学工業所も合併し、染料事業の裾野をさらに広げた[10]。戦時統制経済のなかで財閥系各社の事業再編が進んだ時期でもあり、住友化学は肥料・有機化学・軽金属を抱える総合化学会社の輪郭を得た。肥料1本からスタートした会社が、硫酸・アンモニア・染料・医薬・軽金属までを含む5本足へ、わずか十数年で事業の幅を広げた格好である。戦時中という条件の下で拡張したため、設備の完成度や収益性はまちまちだったが、後年の石油化学参入に向けた化学技術者と生産現場の厚みは蓄積された。総合化学会社という自己定義もこの頃に固まった。
敗戦・財閥解体からの住友の名前の奪還
戦後は財閥解体の波に晒された。1946年2月、社名を日新化学工業へ住友色を薄め、持株会社解体の対象からの離脱をはかった[11]。1949年5月に東証・大証へ上場し、12月には旧住友アルミニウム製錬から全設備を譲り受け、アルミナからアルミニウムまでを社内で完結させる体制を築いた[12][13]。1952年8月、サンフランシスコ講和条約発効を受けて住友化学工業の社名に復帰した[14]。社名変更から復帰までの6年は、財閥色の払拭と事業一貫性の維持を同時に迫られた時期で、住友本流の原料系列型の事業編成はほぼそのまま保たれた。戦後の混乱期に事業そのものを縮小しなかったことが、1958年のポリエチレン工業化への余力を残した。
戦後復興期の住友化学は、肥料・染料・医薬・アルミという4本の足を持つ多角企業として立て直された。新居浜製造所(現在の愛媛工場)では1945年10月にアンモニア・硫酸アンモニウム設備を復旧して生産を再開し、1948年にアルミニウム、1951年に苛性ソーダの生産も戻して塩化ビニール樹脂へ広げ、1955年には大型尿素設備の増設を終えた[15][16]。大阪製造所は染料・医薬品の生産を再開し、1950年に抗結核薬パスや抗ヒスタミン剤配合かぜ薬を上市、西島工場ではピレスロイド系の家庭用殺虫剤ピナミンを手がけた[17][18]。農薬でも1953年にパラチオン、1954年にマラソンの技術を米サイアナミッド社から導入し、後の農薬・殺虫剤の柱の土台を据えた[19]。後の石油化学進出の前提となる生産・技術基盤も、こうして整えられていった。
1958年〜2007年 石油化学とナショナルプロジェクトの時代
ICI高圧法を担いだ日本初のポリエチレン
1958年5月、愛媛工場でエチレンと低密度ポリエチレンの生産が始まった[20]。英ICI社の高圧法を導入した日本最初の設備で、住友化学は他社に先んじて石油化学に参入した[21]。1962年11月にはイタリアのモンテカチーニ社からポリプロピレン技術を入れ、1965年11月には千葉県市原市に住友千葉化学工業を設立する(1975年合併、現在の千葉工場)[22]。愛媛と千葉の2拠点にエチレン設備を構え、ポリエチレンとポリプロピレンという汎用樹脂の基本商品を揃えた形である。戦後の石油化学立ち上げ期において、原料調達から製品化までを海外ライセンスで一気通貫に組んだのは国内でも早い部類だった。
1970年1月に千葉でエチレン年産30万トンと誘導品コンビナートが完成し、住友化学は本格的な石油化学メーカーになった。同じ時期に農薬の低毒性有機リン剤スミチオン(1969年大分工場で生産)と、家庭用殺虫剤のピレスロイド系ピナミン・ネオピナミンも世界市場へ広がった。エチレン生産と農薬・殺虫剤を並立させる、重い化学と軽い化学が併存する住友化学らしい事業構造の原型がここで作られた。汎用樹脂で原料バランスを取り、特殊化学品で利益を稼ぐ構造は、以後の総合化学会社のモデルにもなった。農薬・殺虫剤は1930年代のアンモニア合成で得た有機化学の技術蓄積を製品側へ応用した結果であり、原料系列型多角化のもう一つの成果だった。石油化学と特殊化学品の2軸を同時に育てた点は、国内化学メーカーのなかでも先行例である。
アサハンとシンガポール、国を背負った海外進出
二度の石油危機で電力多消費のアルミ製錬が立ち行かなくなり、1976年7月に住友化学はアルミ事業を住友アルミニウム製錬として分離した[23]。1981年10月には同事業から撤退し、1986年12月に同社を解散した[24]。同じ時期の1982年2月には、日本・インドネシアの経済協力事業として年産22.5万トンのアサハン・アルミニウムが操業を開始した[25]。国内では撤退、海外ではナショナルプロジェクトとして残すという相反する判断を、同じ時期に同時に下した形である。石油危機後の電力コスト上昇は国内製錬を事実上不可能にしたが、政府間協定を背負った海外案件からは抜けられなかった。戦後の重化学工業化を引き受けた会社が、経済合理性と国の要請の間で板挟みになる構図が、ここで表面化した。この矛盾は後のラービグ案件まで形を変えて持ち越された。
石化でも同じ構図が現れた。1983年1月に愛媛のエチレンを止めて千葉に集約するのと並行して、1984年3月には日本・シンガポール経済協力事業として年産30万トンのシンガポール石油化学コンビナートを稼働させた[26][27]。住友化学は国の経済外交の受け皿として海外石化を引き受け続け、この姿勢が後にサウジ・ラービグへ繋がる。国内では能力縮減、海外では新設という非対称な意思決定は、収益判断というより政府案件の履行義務に近いものだった。1970年代から1980年代にかけての住友化学は、民間会社でありながら国家戦略の受け皿という二重の役回りを抱えていた。40年後に表面化する構造的赤字の原点は、すでにこの時期から仕組みとして埋め込まれていた。海外石化は日本の化学メーカーにとって一種の制度的拘束となった。
医薬の分離と農薬・電子化学への拡張
1984年2月、稲畑産業との合弁で住友製薬を設立し、同年10月に医薬品事業を譲渡した[28]。本体から医薬を切り離し、専業体制で世界医薬と戦える形を作った判断である。研究開発費の規模が桁違いの医薬は、総合化学のなかの一部門として抱えるには無理があり、分離は住友化学自身の選択だった。2000年1月には米アボットラボラトリーズから生物農薬関連事業を買収してベーラントバイオサイエンスを設立、2001年5月には仏アベンティスから家庭用殺虫剤事業を取得し、ピレスロイドの世界シェアを固めた[29][30]。スミチオンとピレスロイドの2系統で、農薬・殺虫剤は住友化学の稼ぎ頭の一つとして定着した。海外M&Aで足りないピースを補う動き方は、この頃から住友化学の特徴となった。
2001年10月には情報電子化学部門を新設し、2003年3月には韓国の東友STI(現東友ファインケム)で液晶ディスプレイ用カラーフィルターの量産が始まった[31][32]。2004年10月に商号を住友化学に本社を東京に移し、2005年10月には住友製薬と大日本製薬を合併させて大日本住友製薬を発足させた[33][34]。総合化学のなかで医薬・農薬・電子という3つの専業軸を育てる形が、この20年でかたちになった。国内の競合他社が石油化学の集約や医薬分離を進めるなか、住友化学は3軸すべてを自陣に抱え込む道を選んだ点が特徴である。汎用石化のシクリカル性を高付加価値3軸で相殺するというポートフォリオ戦略は、次の十倉時代まで同社の基本方針となった。後年の連結業績が全社一斉に崩れる下地もここで形づくられた。
2008年〜2022年 ラービグ・ラツーダ・電子、三領域と隠れたリスク
リーマン・ショックと初の連結最終赤字
2008年6月、廣瀨博が社長に就任した[35]。直後にリーマン・ショックが直撃し、2009年3月期は売上1兆7,882億円、営業利益わずか21億円、連結純損失591億円と、住友化学初の連結最終赤字に転落した[36]。総合化学が抱えるシクリカル性が表に出た場面で、原料価格の急変動と需要急減が同時に効いた。高付加価値3軸を育てていたとはいえ、本体の石油化学が赤字に沈めば連結で損失が出る構造は変わっていなかった。化学産業は原油・ナフサ価格と川下需要の両方に左右されるため、外部ショックが来ると利幅と数量の両方が同時に縮む。リーマン・ショックはその典型例で、住友化学はポートフォリオ戦略の限界に初めて突き当たった。
同じ2009年4月、サウジアラムコと共同建設したペトロ・ラービグの基幹エタンクラッカーが操業を開始した[37]。シンガポールに次ぐ海外石化拠点で、住友化学にとっては国家プロジェクト型海外進出の到達点だった。2009年10月には大日本住友製薬が米セプラコールを買収し、後に住友ファーマの主力薬となる統合失調症薬ラツーダの北米販売基盤を得た[38]。リーマン後の傷を負ったまま、2つの賭けが同時に走り始めた形である。どちらも数千億円規模の投資を伴う案件で、成否が出るまで10年以上かかる。この2つは後年の2024年3月期赤字の主因として同じ年に跳ね返った。高付加価値3軸のうち医薬と石化の命運が、リーマン直後に同時に仕込まれた点は住友化学の歴史を見るうえで見逃せない。
医薬・農薬・電子化学、3本の高付加価値軸
2010年6月に十倉雅和が社長に就任し、リーマン後の建て直しを担った[39]。2013年3月期には欧州景気低迷とラービグ不振で再び純損失510億円を計上したが、2010年代後半は医薬・農薬・電子の3軸が同時に稼ぎ頭となった[40]。住友ファーマのラツーダが米国で売上を伸ばし、東友ファインケムは中国・韓国ディスプレイ各社の偏光板需要を取り込み、農薬事業は南米を中心に売上を伸ばした。基礎化学のシクリカル性を3軸で相殺する構造が、ようやく数字として見えてきた。1990年代から続けた医薬・農薬・電子化学の3軸育成が、世代交代を経てようやく収益で報われた時期である。だが各軸は成長を続けながらも、それぞれに個別のリスクを抱えていた点は社内でも認識されていた。
2015年4月には基礎化学・石油化学を再編し、石油化学部門とエネルギー・機能材料部門に改組した[41]。2018年6月には岩田圭一が社長に就任した[42]。2019年12月、住友ファーマは欧州ロイバント社と戦略的提携を結び、ラツーダの後継となるパイプライン獲得を狙った[43]。2020年4月には豪州ニューファーム社の南米農薬子会社4社を買収し、後にインディフリンなど自社品の南米展開につなげる足場を固めた[44]。医薬と農薬の双方で次の柱づくりに動いた時期だが、どちらも短期的な償却負担と長期の不確実性を同時に抱えていた。ロイバント提携は数千億円規模ののれん計上を伴い、ニューファーム買収は為替と現地収益性に左右される。高付加価値3軸を次の世代でも維持するための布石だったが、同時にのちの減損ポテンシャルを高めた動きでもあった。
コア営業利益2,000億円体制と隠れたリスク
2017年3月期にIFRSへ移行したのち、2018年3月期にはコア営業利益に相当する営業利益が2,509億円と過去最高水準に達した[45]。十倉時代後半の住友化学は「医薬+農薬+情電」の高付加価値三領域で稼ぐ会社にみえていた。2021年3月期もコロナ禍の医薬・農薬需要と円安で、売上収益2兆7,653億円、親会社利益1,621億円を出した[46]。外部環境の追い風もあり、ポートフォリオ戦略が成功した時期として社内外に受け止められた。基礎化学のシクリカル性は3軸が稼ぐ限りにおいて見えなくなり、連結全体としては安定した高収益体質に見えていた。投資家向けの説明でも、3軸モデルの優位性が繰り返し強調された時期である。
しかしこの裏で、ラービグの石油精製マージン低迷とラツーダの2023年特許切れが将来の損失要因として積み上がっていた[47]。2022年3月期にはエッセンシャルケミカルズが交易条件悪化で前年比▲877億円と急落、2023年3月期は営業損益が▲310億円と、IFRS導入後で初の営業赤字になる[48]。岩田体制が抱えた最大の課題は、稼ぎ頭3本柱の同時失速のだった。シクリカル性を相殺するはずの高付加価値軸までもが同じ年に崩れる事態は、ポートフォリオ戦略そのものの前提を覆すものだった。3軸のうちどれか1つが沈んでも残りで支える想定で組まれた構造が、3つ同時に沈めば全く機能しない。石油化学・医薬・電子の3軸は、実は共通の景気循環要素を抱えており、リスクの独立性が保証されていなかった点が浮き彫りになった。