住友化学の起点は化学工業ではなく公害対策だった。1913年、別子銅山の製錬所から出る亜硫酸ガスが周辺農地を傷めたため、住友総本店は新居浜でガスを回収して硫酸を作り、それを原料に肥料を製造する事業を立ち上げた。その110年後の2024年3月期、同社は営業赤字4,888億円・最終赤字3,118億円という戦後最大級の損失を計上する。化学産業は原料・景気・為替の循環に左右されるシクリカル事業であり、住友化学はそこに国家プロジェクト型の海外石化と北米医薬という大型の賭けを重ねた。煙害解決という出発点は戦後にアサハン・シンガポール・サウジラービグと続く海外石化事業に姿を変え、最後にその清算費用が経営を直撃した。
その110年の間に住友化学は1958年、他社に先駆けて愛媛工場でポリエチレンを立ち上げ石油化学へ踏み出した。その後は農薬スミチオンとピレスロイド系殺虫剤で世界シェアを握り、住友製薬を分離独立させて医薬の柱を育て、韓国の東友ファインケムでディスプレイ用カラーフィルターの有力地位を得た。石油化学・農薬・医薬・電子材料という4本の足を順に積み上げた結果、総合化学会社としての層は厚くなった。同時に各事業のサイクルが同じ年に重なるリスクも抱えた。多角化と縮みの判断は10年単位で振れ、その振幅の大きさが住友化学の歴史そのものになっている。
歴史概略
1913年〜1957年別子銅山の煙害対策から総合化学への拡大
別子銅山の公害処理から生まれた肥料事業
住友化学の起点は化学工業ではなく、別子銅山の公害処理にある。製錬所から出る亜硫酸ガスが周辺農地を傷め、住友本店は対応を迫られた。ガスを回収して硫酸にすれば、原料として肥料が作れる。1913年9月、住友総本店は新居浜に肥料製造所を設け、翌1914年から設備の試運転に入った。1915年10月から過燐酸石灰の出荷を始め、1925年6月には株式会社住友肥料製造所として独立する。公害解決と新事業を一体で立ち上げる発想は、当時の他社の合成化学とは出自が違っていた。化学工業が輸入特許や輸入原料から始まる業界構造のなかで、住友化学だけは自社銅山の副産物を出発点に据えた点が大きな特徴である。
住友化学にとって肥料は、原料である硫酸が先にあって生まれた事業だった。後の総合化学への多角化も、別子銅山という資源を起点に副産物を高付加価値化する住友本流の思想を引き継いでいる。硫酸から肥料、肥料からアンモニア、アンモニアから化成品へと、原料系列を一段ずつ下流へ広げる形で事業が積み上がった。戦後の石油化学進出にしても、原料を石炭から石油に差し替える発想で捉えれば同じ流れにある。110年後のラービグ・アサハン・シンガポールの海外石化もまた、原料立地を海外に求めたうえでの下流展開であり、出発点の思想そのものは形を変えて残り続けた。
- 有価証券報告書
- 日本会社史総覧 1995/11/1
アンモニア合成から総合化学会社への脱皮
肥料単独の事業はやがて頭打ちになる。硫酸と過燐酸石灰だけでは市場拡大が限られ、次の柱として国内自給率が低かったアンモニアに着目した。1928年、米ナイトロジェン・エンジニアリング社からアンモニア合成法の特許を導入し、1931年4月から新居浜で生産を始めた。これでアンモニアを軸に硫安・硝酸・化成品全般へ広がる足場ができ、1934年2月に商号を住友化学工業へ変更した。社名から「肥料」の文字が消え、化学工業会社のかたちが整った。原料一本足の肥料会社から、アンモニア誘導品を持つ総合化学会社へ、看板と実態の両方を書き換えた転換点だった。ここから住友化学は、原料系列を下流へ広げる多角化のパターンを身につけた。
1944年7月には日本染料製造を合併し、染料・医薬品分野へ踏み込んだ。同じ年の6月、住友本店は住友アルミニウム製錬の経営委託を受け、アルミナからアルミニウムまでの一貫生産も傘下に入れた。戦時統制経済のなかで財閥系各社の事業再編が進んだ時期でもあり、住友化学は肥料・有機化学・軽金属を抱える総合化学会社の輪郭を得た。肥料1本からスタートした会社が、硫酸・アンモニア・染料・医薬・軽金属までを含む5本足へ、わずか十数年で事業の幅を広げた格好である。戦時中という条件の下で拡張したため、設備の完成度や収益性はまちまちだったが、後年の石油化学参入に向けた化学技術者と生産現場の厚みは、この時期に蓄積された。総合化学会社という自己定義もこの頃に固まった。
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敗戦・財閥解体からの住友の名前の奪還
戦後は財閥解体の波に晒された。1946年2月、社名を日新化学工業へ改めて住友色を薄め、持株会社解体の対象からの離脱をはかった。1949年5月に東証・大証へ上場し、12月には旧住友アルミニウム製錬から全設備を譲り受け、アルミナからアルミニウムまでを社内で完結させる体制を築いた。1952年8月、サンフランシスコ講和条約発効を受けて住友化学工業の社名に復帰した。社名変更から復帰までの6年は、財閥色の払拭と事業一貫性の維持を同時に迫られた時期で、住友本流の原料系列型の事業編成はほぼそのまま保たれた。戦後の混乱期に事業そのものを縮小しなかったことが、1958年のポリエチレン工業化への余力を残した。
戦後復興期の住友化学は、肥料・染料・医薬・アルミという4本の足を持つ多角企業として立て直された。後の石油化学進出の前提となる愛媛工場の生産・技術基盤も、この時期に立て直されていた。事業の重心はまだアンモニアと肥料にあったが、原料を石炭から石油へ切り替える道筋も社内で議論が始まっていた。アンモニア合成の原料としてのナフサ、染料・医薬の原料としての芳香族、誘導品の原料としてのエチレンと、石炭化学と石油化学の接続点は複数存在した。1958年のポリエチレン工業化は、突発的な新規参入ではなく、戦前から連続する原料系列型多角化の延長線上にあった。
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1958年〜2007年石油化学とナショナルプロジェクトの時代
ICI高圧法を担いだ日本初のポリエチレン
1958年5月、愛媛工場でエチレンと低密度ポリエチレンの生産が始まった。英ICI社の高圧法を導入した日本最初の設備で、住友化学は他社に先んじて石油化学に踏み出した。1962年11月にはイタリアのモンテカチーニ社からポリプロピレン技術を入れ、1965年11月には千葉県市原市に住友千葉化学工業を設立する(1975年合併、現在の千葉工場)。愛媛と千葉の2拠点にエチレン設備を構え、ポリエチレンとポリプロピレンという汎用樹脂の基本商品を揃えた形である。戦後の石油化学立ち上げ期において、原料調達から製品化までを海外ライセンスで一気通貫に組んだのは国内でも早い部類だった。
1970年1月に千葉でエチレン年産30万トンと誘導品コンビナートが完成し、住友化学は本格的な石油化学メーカーになった。同じ時期に農薬の低毒性有機リン剤スミチオン(1969年大分工場で大型生産)と、家庭用殺虫剤のピレスロイド系ピナミン・ネオピナミンも世界市場へ広がった。エチレン生産と農薬・殺虫剤を並立させる、重い化学と軽い化学が併存する住友化学らしい事業構造の原型がここで作られた。汎用樹脂で原料バランスを取り、特殊化学品で利益を稼ぐ構造は、以後の総合化学会社のモデルにもなった。農薬・殺虫剤は1930年代のアンモニア合成で得た有機化学の技術蓄積を製品側へ応用した結果であり、原料系列型多角化のもう一つの成果だった。石油化学と特殊化学品の2軸を同時に育てた点は、国内化学メーカーのなかでも先行例である。
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アサハンとシンガポール、国を背負った海外進出
二度の石油危機で電力多消費のアルミ製錬が立ち行かなくなり、1976年7月に住友化学はアルミ事業を住友アルミニウム製錬として分離した。1981年10月には同事業から撤退し、1986年12月に同社を解散した。同じ時期の1982年2月には、日本・インドネシアの経済協力事業として年産22.5万トンのアサハン・アルミニウムが操業を開始した。国内では撤退、海外ではナショナルプロジェクトとして残すという相反する判断を、同じ時期に同時に下した形である。石油危機後の電力コスト上昇は国内製錬を事実上不可能にしたが、政府間協定を背負った海外案件からは抜けられなかった。戦後の重化学工業化を引き受けた会社が、経済合理性と国の要請の間で板挟みになる構図が、ここで表面化した。この矛盾は後のラービグ案件まで形を変えて持ち越された。
石化でも同じ構図が現れた。1983年1月に愛媛のエチレンを止めて千葉に集約するのと並行して、1984年3月には日本・シンガポール経済協力事業として年産30万トンのシンガポール石油化学コンビナートを稼働させた。住友化学は国の経済外交の受け皿として海外大型石化を引き受け続け、この姿勢が後にサウジ・ラービグへ繋がる。国内では能力縮減、海外では大型新設という非対称な意思決定は、収益判断というより政府案件の履行義務に近いものだった。1970年代から1980年代にかけての住友化学は、民間会社でありながら国家戦略の受け皿という二重の役回りを抱えていた。40年後に表面化する構造的赤字の原点は、この時期にすでに仕組みとして埋め込まれていたと言ってよい。海外石化は日本の化学メーカーにとって一種の制度的拘束となった。
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医薬の分離と農薬・電子化学への拡張
1984年2月、稲畑産業との合弁で住友製薬を設立し、同年10月に医薬品事業を譲渡した。本体から医薬を切り離し、専業体制で世界医薬と戦える形を作った判断である。研究開発費の規模が桁違いの医薬は、総合化学のなかの一部門として抱えるには無理があり、分離は住友化学自身の選択だった。2000年1月には米アボットラボラトリーズから生物農薬関連事業を買収してベーラントバイオサイエンスを設立、2001年5月には仏アベンティスから家庭用殺虫剤事業を取得し、ピレスロイドの世界シェアを固めた。スミチオンとピレスロイドの2系統で、農薬・殺虫剤は住友化学の稼ぎ頭の一つとして定着した。海外M&Aで足りないピースを補う動き方は、この頃から住友化学の特徴となった。
2001年10月には情報電子化学部門を新設し、2003年3月には韓国の東友STI(現東友ファインケム)で液晶ディスプレイ用カラーフィルターの大型生産が始まった。2004年10月に商号を住友化学に改めて本社を東京に移し、2005年10月には住友製薬と大日本製薬を合併させて大日本住友製薬を発足させた。総合化学のなかで医薬・農薬・電子という3つの専業軸を育てる形が、この20年でかたちになった。国内の競合他社が石油化学の集約や医薬分離を進めるなか、住友化学は3軸すべてを自陣に抱え込む道を選んだ点が特徴である。汎用石化のシクリカル性を高付加価値3軸で相殺するというポートフォリオ戦略は、次の十倉時代まで同社の基本方針となった。後年の連結業績が全社一斉に崩れる下地もここで形づくられた。
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2008年〜2022年ラービグ・ラツーダ・電子、三領域と隠れたリスク
リーマン・ショックと初の連結最終赤字
2008年6月、廣瀨博が社長に就任した。直後にリーマン・ショックが直撃し、2009年3月期は売上1兆7,882億円、営業利益わずか21億円、連結純損失591億円と、住友化学初の連結最終赤字に転落した。総合化学が抱えるシクリカル性が表に出た場面で、原料価格の急変動と需要急減が同時に効いた。高付加価値3軸を育てていたとはいえ、本体の石油化学が赤字に沈めば連結で損失が出る構造は変わっていなかった。化学産業は原油・ナフサ価格と川下需要の両方に左右されるため、外部ショックが来ると利幅と数量の両方が同時に縮む。リーマン・ショックはその典型例で、住友化学はポートフォリオ戦略の限界に初めて突き当たった。
同じ2009年4月、サウジアラムコと共同建設したペトロ・ラービグの基幹エタンクラッカーが操業を開始した。シンガポールに次ぐ大型海外石化拠点で、住友化学にとっては国家プロジェクト型海外進出の到達点だった。2009年10月には大日本住友製薬が米セプラコールを買収し、後に住友ファーマの主力薬となる統合失調症薬ラツーダの北米販売基盤を得た。リーマン後の傷を負ったまま、2つの大型賭けが同時に走り始めた形である。どちらも数千億円規模の投資を伴う案件で、成否が出るまで10年以上かかる。この2つは後年の2024年3月期赤字の主因として同じ年に跳ね返った。高付加価値3軸のうち医薬と石化の命運が、リーマン直後のこの時期に同時に仕込まれた点は住友化学の歴史を見るうえで見逃せない。
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医薬・農薬・電子化学、3本の高付加価値軸
2010年6月に十倉雅和が社長に就任し、リーマン後の建て直しを担った。2013年3月期には欧州景気低迷とラービグ不振で再び純損失510億円を計上したが、2010年代後半は医薬・農薬・電子の3軸が同時に機能した。住友ファーマのラツーダが米国で売上を大きく伸ばし、東友ファインケムは中国・韓国ディスプレイ各社の偏光板需要を取り込み、農薬事業は南米を中心に売上を伸ばした。基礎化学のシクリカル性を3軸で相殺する構造が、この時期にようやく数字として見えてきた。1990年代から続けた医薬・農薬・電子化学の3軸育成が、世代交代を経てようやく収益で報われた時期である。だが各軸は成長を続けながらも、それぞれに個別のリスクを抱えていた点は社内でも認識されていた。
2015年4月には基礎化学・石油化学を再編し、石油化学部門とエネルギー・機能材料部門に改組した。2018年6月には岩田圭一が社長に就任した。2019年12月、住友ファーマは欧州ロイバント社と戦略的提携を結び、ラツーダの後継となるパイプライン獲得を狙った。2020年4月には豪州ニューファーム社の南米農薬子会社4社を買収し、後にインディフリンなど自社品の南米展開につなげる足場を固めた。医薬と農薬の双方で次の柱づくりに動いた時期だが、どちらも短期的な償却負担と長期の不確実性を同時に抱えていた。ロイバント提携は巨額ののれん計上を伴い、ニューファーム買収は為替と現地収益性に左右される。高付加価値3軸を次の世代でも維持するための布石だったが、同時にのちの減損ポテンシャルを高めた動きでもあった。
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コア営業利益2,000億円体制と隠れたリスク
2017年3月期にIFRSへ移行したのち、2018年3月期にはコア営業利益に相当する営業利益が2,509億円と過去最高水準に達した。十倉時代後半の住友化学は「医薬+農薬+情電」の高付加価値三領域で稼ぐ会社にみえていた。2021年3月期もコロナ禍の医薬・農薬需要と円安で、売上収益2兆7,653億円、親会社利益1,621億円を出した。外部環境の追い風もあり、ポートフォリオ戦略が成功した時期として社内外に受け止められた。基礎化学のシクリカル性は3軸が順調に稼ぐ限りにおいて見えなくなり、連結全体としては安定した高収益体質に見えていた。投資家向けの説明でも、3軸モデルの優位性が繰り返し強調された時期である。
しかしこの裏で、ラービグの石油精製マージン低迷とラツーダの2023年特許切れが将来の損失要因として積み上がっていた。2022年3月期にはエッセンシャルケミカルズが交易条件悪化で前年比▲877億円と急落、2023年3月期は営業損益が▲310億円と、IFRS導入後で初の営業赤字になる。岩田体制が抱えた最大の課題は、稼ぎ頭3本柱の同時失速だった。シクリカル性を相殺するはずの高付加価値軸までもが同じ年に崩れる事態は、ポートフォリオ戦略そのものの前提を覆すものだった。3軸のうちどれか1つが沈んでも残りで支える想定で組まれた構造が、3つ同時に沈めば全く機能しない。石油化学・医薬・電子の3軸は、実は共通の景気循環要素を抱えており、リスクの独立性が保証されていなかった点が改めて浮き彫りになった。
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直近の動向と展望
ラツーダクリフと2024年3月期の戦後最大赤字
2023年5月、岩田圭一は2022年度決算と同時に中計目標を下方修正した。当初コア営業利益3,000億円の計画を2,000億円に引き下げ、2024年のV字回復を掲げ直す。だが半年後の2023年11月、住友化学は通期コア営業利益を400→▲700億円、最終損益を100→▲950億円に再修正し、「聖域なき抜本的構造改革」を宣言した。2年でキャッシュ創出5,000億円、約30件のビジネスユニットを再構築する規模の動きである。この数字は後に7,000億円へ上方修正され、対象ユニットも順次拡大した。下方修正を2段階で重ねる異例の展開は、社内でも3軸同時失速の深刻さが当初の想定を超えていたことを示しており、2024年3月期に向けて決算予想そのものの信頼性が問われる事態に入った。
最終的に2024年3月期は売上2兆4,469億円、営業損失4,888億円、純損失3,118億円となり、住友化学史上最大の最終赤字に沈んだ。要因は3つが重なる。住友ファーマのラツーダ独占販売期間終了によるラツーダクリフ、ペトロ・ラービグの石油精製マージン崩壊、国内外石化の交易条件悪化である。1980年代に引き受けた国家プロジェクト型海外石化と、2000年代に買収した北米医薬の双方が、同じ年に債権放棄や減損を要求した。高付加価値3軸の相殺効果が効かないどころか、3軸そのものが同時に沈んだ形である。1913年の創業以来初めて、住友化学は原料系列型多角化と海外大型案件という戦後の勝ち筋そのものの見直しを迫られた。赤字の規模と広がりは戦後最大級で、経営体制の刷新が避けられなくなった。
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水戸新体制と4部門制への事業組み替え
2024年6月、水戸信彰が代表取締役社長に就任した。同年8月、ペトロ・ラービグへの債権放棄を含む財務改善プランを発表し、住友化学は通期で約1,098億円の貸付金債権放棄損失を計上した。30年来のサウジ拠点に対して、追加出資ではなく損失処理で線を引く判断である。2024年10月には事業部門を再編し、アグロ&ライフソリューション・ICT&モビリティソリューション・アドバンストメディカルソリューション・エッセンシャル&グリーンマテリアルズの4部門制へ組み替えた。農薬・医薬・電子・石化の4軸を明示的に並べ直す組織である。旧来の「基礎化学+機能化学+医薬」という三分割から、事業ごとの独立採算を前面に押し出す体制へ移った点に水戸体制の意思が現れている。
2025年3月期は売上2兆6,062億円、営業利益1,930億円と黒字を回復した。住友ファーマが基幹3製品(オルゴビクス・ジェムテサ・マイフェンブリー)の拡販と北米合理化(7社→1社、年▲400Mドル)で復調し、ICT&モビリティもディスプレイと半導体材料の出荷増で寄与した。岩田時代の構造改革プランをほぼそのまま実行に移した結果である。水戸体制の初年度は、前任者が設計した聖域なき構造改革の執行役に徹する形で始まり、数字の上では速い立ち直りを示した。ただしラービグ問題の根本解決や国内石化の再編は途上であり、黒字回復は構造改革の完了ではなく、緊急止血が効いたにすぎない。住友化学の経営陣は、数字の回復と事業再編の継続を同時に進める難しい舵取りを引き受けている。
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国内石化からの撤退と次の柱の模索
水戸体制が向き合っているのは、エッセンシャル&グリーンマテリアルズの位置づけである。2024年10月には丸善石油化学と京葉エチレン運営最適化で合意し、国内石化の共同運営を具体化させた。住友化学は2015年に自社エチレンを停止しており、京葉地区(国内エチレン能力の約3割)はバイオエタノール由来エチレン新設や複数社共同運営化の検討対象となる。シンガポールではS-SBR撤退、メチオニンは2024年度末までに2018年度末比約3割削減と、海外石化の縮みも並行して進む。1958年に他社に先駆けて踏み出した石油化学事業は、70年近くを経て縮小フェーズへ入った。1970年代から抱え続けた国家プロジェクト型海外石化は、最後の1つであるラービグを含めて縮小の対象となり、住友化学の基礎化学は本格的な再編期を迎えている。
次の柱はリジェネラティブ農業(化学農薬×バイオラショナル)と先端医薬関連事業である。2025年2月には再生・細胞医薬の株式会社RACTHERA(住友ファーマ100%子会社)に出資し、2030年代に1,000億円超の事業規模を目指す。1913年に別子銅山の煙から始まった会社は、2025年には肥料・染料・アルミ・ラツーダ・ラービグを順に手放しながら、次の100年の事業形を模索している。110年前の出発点と同じく、公害処理と資源系列の発想からバイオ・再生医療という次の原料系列へ接続できるかが焦点となっている。化学から細胞・遺伝子へという転換は、住友化学にとって過去の原料系列型多角化の延長にも見えるし、全く異質な専門領域への跳躍にも見える。この両義性こそが、水戸体制が背負う住友化学の次の10年を規定する。
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