レンゴーの創業者は井上貞治郎氏(明治14年生まれ)である。姫路の農家に生まれ育ったが、丁稚奉公を通じて生家を後にして職を得た。ただし、特定の専門職を極めるのではなく、商家・中華料理屋・石炭屋を転々とするなど、生活基盤は安定しなかった。一時的に石炭屋では収入を得て「遊ぶ金」も工面できたというが長続きはせず、10代から20代にかけて職を転々とした。
井上貞治郎氏は職業が安定しない中で、20代前半で「お雪」と結婚。それでも職が安定せず、貧しい生活を送った。貧乏生活から脱却するため「お雪」を実家に帰し、一才のツテが無い中、単身で中国大陸(満州)に渡ることを決意。4年間にわたり中国大陸で雑用を請け負うことで日銭を得たが、この間、病気がち(結核)であった「お雪」は日本で亡くなってしまった。
中国大陸でも雑用が中心であり、うだつが上がらなかった。宿賃が払えずに、オーストラリアで真珠貝の採集(10人中3人が亡くなると言われた)に従事する寸前に至った。幸運にも、中国から日本に帰国する際も、無一文であったため、偶然宿の隣部屋にいた阪大佐太郎氏(偽名)が若い日本人の女性(一説には日清紡の女工)を人身売買する場面を目撃し、その弱みを握って脅し、船の運賃を確保した。なお、井上貞治郎は「大阪に帰れば家も金もある」と嘘を言い、借りた金を踏み倒すつもりで悪党と共に日本への帰途についた。
このため、井上貞治郎氏は、青年期において、蓄財に失敗し、さらには家族を失うなど、思い通りにいかない「波瀾万丈の人生」を歩んだ。井上貞治郎氏がレンゴーの創業者として著名な存在になった戦後、同氏の人生の歩みがテレビドラマ化(作品名『流転』)され、高視聴率を記録した。
流浪していた井上貞治郎氏にとって転機になったのが、1910年4月の日本帰国であった。悪党・阪大佐太郎から手渡された手切金としての10銭を握り、井上貞治郎氏は桜の咲き誇る上野公園にて起業を決断する。このエピソードから、レンゴーの創立記念日は「井上貞治郎氏が起業を決意した日」とされ、1910年4月と定義されている。
事業内容については「メリケン粉(パン屋)と紙屋」の2つで迷った末に、紙で起業する事を決意。そして、偶然東京で目にした「ボール紙をシワ寄せした電球梱包紙」に関心を抱き、段ボールとして売り出す事を決めた。
わたしは足かけ4年、あてもなく放浪し続けた大陸をあとに、博多丸の特別3等船室におさまって、いよいよ内地への帰途についたのであった。法網をくぐって生きている悪党の情に縋って、内地へ帰る私の心の中は、反省と悔根に満たされ、今更ながら「金無くして人生なし」という私なりの人生哲学を強いられるようになったのである。
それにしても、鮮・満・中、長年にわたる私の流浪生活は、思えば、すべて恥ずかしいことの連続だった。無謀というより、無茶苦茶であった。危ない橋渡りばかりで、我ながら慄然とする。おまけに、この異郷の生活で得たものは何一つなく、ただいたずらに歳をとったというにすぎない。今こうして尾羽打ち枯らして日本へ帰っていくというのも、実を申せば自分の金、自分の力ではない。相手が悪党と知りつつ、その不純の金を借りての帰国なのだ。情けないなんとも言いようがないではないか。金がなければこそ、婦女誘拐の男をも、恩人としなければならないのである。
「ああ、金が欲しい。それも不浄な金でなく、真面目に儲けた美しい金が欲しい・・・」
金がなくては、人間一匹、どうすることもできぬ。金を離れて人生なしと、船の上での思いはいつもそこへ落ち着いた。
1910年に梱包材の製造機械を改造し、井上貞治郎氏はこの梱包材を「段ボール」と名付けて売り出した。このため、レンゴーは日本国内における「段ボール」の創始者とされるが、ボール紙にシワをつけた紙はドイツ製の製品が国内に出回っていたのが先である。
井上貞治郎氏が会社を立ち上げたのは、1910年8月に発足した「三盛社」であった。共同設立の形態をとり、段ボール製造機械を用いて電球やタバコの梱包材の生産を開始。ただし立ち上げ直後は経営が軌道に乗らず、赤字続きであったため共同設立者が離れ、最後は井上貞治郎氏だけが残された。それでも事業を継続し、島田洋紙店から借金をして大量生産のためにドイツから製造機械を輸入。これにより量産を実現し、段ボールの事業を軌道に乗せた。
段ボールの製造における転機は、大正時代に勃発した第一次世界大戦による好景気であった。このうち特に重要であったのが、東京電気(現・東芝)からの受注であった。
1914年頃から東京電気はウラジオストック経由で電球の海外輸出を本格化し、井上貞治郎氏は梱包用の材料として段ボール(包み紙)を受注した。この経緯により、東京電気としては電球輸出のための段ボールが必需品となり、同社が段ボールメーカーに接近する布石となった。
一貫生産体制へ
古紙回収で全国をカバーするために、地方工場の新設を積極化
労働争議を鎮静化するために、1968年に山野社長は経営を正常化するために「3ヵ年計画」を策定。職工・工員制度の廃止や、新入社員合宿教育・完全月給制など、レンゴーの組織改革を実施
オイルショックにより段ボール業界(原紙)において、供給過剰が発生。業界内では協調的な設備廃棄が進行し、レンゴーも原紙生産の縮小や、業界内の不況カルテルへの参加を決定した。
摂津板紙(セッツ)とレンゴーの合併に際して、調整役として奔走した大坪氏がレンゴーの社長に就任。レンゴーの創業家である長谷川薫氏による要請であり、レンゴーとしては住友商事という社外から社長を迎え入れる代表異動となった。
https://www.rengo.co.jp/news/2005/20050518.html
住友商事及び住友不動産に対して、子会社である大和紙器の神奈川工場の跡地を売却。譲渡価格は59億円であり、レンゴーは特別利益として固定資産売却益55億円を計上した。跡地は住友不動産による分譲マンション「パークスクエア湘南茅ヶ崎(2008年竣工)」として再開発された
2006年11月にレンゴー・日本製紙・住友商事の3社は「戦略提携の締結」を発表。3社間で株式を持ち合うことで連携を強化しつつ、レンゴーと日本製紙は将来の経営統合の可能性を模索するために提携を決定した。
背景は、製紙業界におけるTOBを通じた再編可能性が浮上したことにある。2006年7月に業界トップ企業の王子製紙が、北越製紙へのTOBを宣言するなど、買収を通じた再編可能性が高まりつつあった。このため、レンゴーと日本製紙の戦略的提携は、これらの買収に対する防衛策という側面も存在した。2008年には一部報道で「レンゴーと日本製紙の経営統合」が報じられるなど、再編の動きに注目が集まった。
ところが、レンゴーと日本製紙における連携は思うように進まず、リーマンショックによる景気悪化もあり、2009年に提携解消を決定した。これにより、レンゴーは単独企業として段ボール市場の飽和に向き合う形となった。
2002年に買収した完全子会社・ハマダ印刷機械の業績悪化により同社の解散を決定。2010年3月期に事業整理損失として29億円(単体ベースでは49億円の損失)を特別損失として計上
川崎工場の跡地(2007年10月閉鎖)をオリックス不動産に売却。レンゴーは固定資産売却益65億円を計上。ハマダ印刷機械の損失を補填する形となり、FY2009の当期純利益は78億円に着地した。
なお、川崎工場の跡地は商業施設「EARTHクロスガーデン川崎店」として再開発された
リーマンショックからの景気回復を受けて、基準価格を値上げ改定
段ボールおよび原紙について、公正取引委員会がレンゴーを「独占禁止法」の疑いで立ち入り調査を実施。この結果、違反が認められたことから、レンゴーは約60億円の課徴金の支払い義務を負った。これを受けて、特別損失として59億円を計上へ
中国では段ボールの需要が急増したが、現地企業が優勢となり、レンゴーは苦戦。2013年7月に現地合弁会社の株式を一部売却し、中国事業を縮小
名古屋市東区砂田橋4-1-52に存在した名古屋工場の跡地を住友不動産に売却。簿価2億円に対して、譲渡価格は96億円となり、売却益として90億円を計上
レンゴーは2009年に日本マタイを子会社化し、重包装事業に進出していた。その後、重包装事業における海外展開を本格化するために、2016年10月に香港企業「トライウォール」を買収。同社の買収価格は244億円であり、レンゴーとしては最大規模の買収となった。
2016年には欧州(ドイツ)における事業展開を強化するために、現地企業2社を合計323億円で取得。トライウォールを通じて経営することにより、レンゴーは同社を通じた重包装事業の海外展開を推進した。