王子ホールディングス の歴史

創業

1873年

創業者

渋沢栄一

創業地

東京都

直近売上高(2025/3)

18,492億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1873年に渋沢栄一氏は紙という単一品種に賭けたのか
A 1873年に渋沢栄一氏が抄紙会社を興したのは、洋紙が輸入頼みで、官庁と新聞という途切れない大口需要が国産品を待っていたからである。渋沢栄一氏は紙という単一品種に経営資源を集めて量産で採算を立てる稼ぎ方を選び、新聞用紙を主力に規模を伸ばした。1933年には富士製紙・樺太工業を合併して国内シェア8割・新聞用紙九割・34工場を握り、戦前の業界盟主となった。この品種集中のDNAが、戦後の苫小牧一極投資まで一貫して残った
Q なぜ1968年の3社合併頓挫後に段階合併へ切り替えたのか
A 1968年に王子・十條・本州の旧3社が合併覚書に調印して戦後分割の原状回復を図ったが、公正取引委員会の理解を得られず同年9月に取り下げに追い込まれた。そこで王子は一括統合を断念し、相手を一社ずつ吸収する段階合併へ切り替えた。北日本製紙(1970年)から神崎製紙(1993年)まで四半世紀かけて呑み込み、1996年に本州製紙と合併して王子製紙へ復名し、業界首位を回復した。独禁政策が一括復元を阻んだ結果、工場群と品種の蓄積を順次引き受ける遠回りを選んだ。
Q なぜ2024年に子供用紙おむつをやめ海外素材へ資金を移したのか
A 2024年に王子が子供用紙おむつをやめ海外素材へ資金を移したのは、国内の紙需要が縮み、海外の包装・素材市場に成長を求めたからである。王子ネピアは2024年9月末で国内子供用紙おむつの生産を終え、Genki・Whitoブランドの国内出荷から退いた。並行して2024年4月に欧州の包装資材メーカーWalkiを買収し、配当性向を30%から50%へ引き上げて年24円を下限とし、450億円規模の政策保有株式売却を進めた。国内に積んだ資金を海外と株主へ配り直す段階に入った。

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1873年〜 洋紙の国産化と、原料を求めた北海道・樺太への進出

  1. 1873年 渋沢栄一が「抄紙会社」を設立
  2. 1875年 東京府下王子村に工場が竣工
  3. 1893年 「王子製紙」に商号変更
  4. 1898年 藤原銀次郎が本社支配人に就任
  5. 1910年 苫小牧工場が竣工

抄紙会社の創立と、パルプ原料の転換

1873年2月、渋沢栄一氏らは資本金15万円で抄紙会社を創立した[1]。工場の敷地は東京・王子村に定められ、1875年6月に竣工[2]している。翌1876年には社名を製紙会社へ改めた[3]。当時の国内市場は安価な輸入洋紙に押され、明治初年の政府紙幣にはドイツ製、金札引換証券にはアメリカ製の紙が用いられていた[4]。関税自主権を持たない日本には高関税で輸入品を抑える道がなく[5]、洋紙の生産技術を自ら移入して対抗するほかない事情があった。創業から1875年までに4万円以上の赤字を出した抄紙会社を支えたのは、紙幣寮からの地券・印紙用紙の注文[6]である。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [1]1873年2月 渋沢栄一氏らが資本金15万円で抄紙会社を創立
    • [2]工場敷地は東京・王子村、1875年6月に竣工
    • [3]1876年 社名を「製紙会社」へ改称
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
    • [4]明治初年の政府紙幣にドイツ製、金札引換証券にアメリカ製の紙を使用
    • [5]関税自主権が無く高関税で輸入品を抑えられないため、洋紙の生産技術の導入で対抗
    • [6]発足から1875年まで4万円以上の赤字、紙幣寮からの地券・印紙用紙の注文が経営を支えた

欧米の製紙はボロを主原料としており[7]、その入手が限界に達して値段も急騰していた。打開策として開発された麦わらを混ぜる技法を持ち帰ったのが、1879年にアメリカへ派遣された大川平三郎氏[8]である。渋沢栄一氏は後年、わらが紙になるとはその時分は思わなかったと回想している[9]。1883年2月にわら釜一式が完成し、1886年10月には天竜川上流の気多村大字気田に工場の新設が決まった[10]。わが国初の木材パルプ工場は1890年2月に完成し[11]、1893年11月、社名は王子製紙へ改まった。

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
    • [7]欧米の製紙はボロが主原料で入手が限界に達し価格も急騰、打開策として麦わら混入法を開発
    • [8]1879年 大川平三郎氏をアメリカへ派遣し、麦わらを混ぜる新技法を移入
    • [9]渋沢栄一氏の回想「わらが紙になるなどそれこそ切支丹の法かとその時分は思った」
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [10]1883年2月 わら釜一式が完成、1886年10月 天竜川上流の気多村大字気田に工場新設を決定
    • [11]1890年2月 わが国初の木材パルプ工場が完成、1893年11月 社名を「王子製紙株式会社」へ改称

三井が経営権を握る過程[12]は、社内の対立を伴った。1893年の設備拡張にあたり増資を三井へ相談したことを機に[13]、中上川彦次郎氏は渋沢栄一氏の握る実権を三井へ移そうと図り、送り込まれた藤山雷太氏と専務の大川平三郎氏が激しく対立した[14]。1898年、それまで藤山氏とともに専務であった大川氏が取締役へ格下げとなると、これに反対する技術者たちが工員をそそのかし、150余人によるストライキが起きた[15]。争議は渋沢栄一氏と大川平三郎氏の辞任で収拾され[16]、三井の計画は成功した。同年9月に本社支配人となった藤原銀次郎氏が争議の収拾にあたり[17]、王子は三井の系列下に入った。

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
    • [12]三井による王子製紙の経営権掌握は、渋沢栄一氏の実権を奪う工作と社内対立を伴って進んだ
    • [13]1893年の設備拡張で三井へ増資を相談したことが、三井による実権掌握の端緒
    • [14]中上川彦次郎氏が渋沢栄一氏の実権を三井へ移そうと図り、派遣された藤山雷太氏と専務の大川平三郎氏が対立
    • [15]1898年 大川平三郎氏が専務から取締役へ格下げ、技術者が工員を動かし150余人のストライキが発生
    • [16]争議は渋沢栄一氏・大川平三郎氏の辞任で収拾し、三井の計画が成功
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [17]1898年9月 藤原銀次郎氏が本社支配人に就任してスト収拾にあたり、王子は三井の系列下に入った
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [1]1873年2月 渋沢栄一氏らが資本金15万円で抄紙会社を創立
    • [2]工場敷地は東京・王子村、1875年6月に竣工
    • [3]1876年 社名を「製紙会社」へ改称
    • [10]1883年2月 わら釜一式が完成、1886年10月 天竜川上流の気多村大字気田に工場新設を決定
    • [11]1890年2月 わが国初の木材パルプ工場が完成、1893年11月 社名を「王子製紙株式会社」へ改称
    • [17]1898年9月 藤原銀次郎氏が本社支配人に就任してスト収拾にあたり、王子は三井の系列下に入った
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
    • [4]明治初年の政府紙幣にドイツ製、金札引換証券にアメリカ製の紙を使用
    • [5]関税自主権が無く高関税で輸入品を抑えられないため、洋紙の生産技術の導入で対抗
    • [6]発足から1875年まで4万円以上の赤字、紙幣寮からの地券・印紙用紙の注文が経営を支えた
    • [7]欧米の製紙はボロが主原料で入手が限界に達し価格も急騰、打開策として麦わら混入法を開発
    • [8]1879年 大川平三郎氏をアメリカへ派遣し、麦わらを混ぜる新技法を移入
    • [9]渋沢栄一氏の回想「わらが紙になるなどそれこそ切支丹の法かとその時分は思った」
    • [12]三井による王子製紙の経営権掌握は、渋沢栄一氏の実権を奪う工作と社内対立を伴って進んだ
    • [13]1893年の設備拡張で三井へ増資を相談したことが、三井による実権掌握の端緒
    • [14]中上川彦次郎氏が渋沢栄一氏の実権を三井へ移そうと図り、派遣された藤山雷太氏と専務の大川平三郎氏が対立
    • [15]1898年 大川平三郎氏が専務から取締役へ格下げ、技術者が工員を動かし150余人のストライキが発生
    • [16]争議は渋沢栄一氏・大川平三郎氏の辞任で収拾し、三井の計画が成功

苫小牧工場という賭けと新聞用紙の自給

三井の資本が入っても業績は好転しなかった[18]。三井の首脳である益田孝氏は製紙業にはこりごりしたと嘆き[19]、大川平三郎氏に代わって専務となった藤山雷太氏は1902年に辞任した。後任の鈴木梅四郎氏のもとでも不振は続き、資本金200万円を50万円へ切り下げる措置[21]をとっている。事態を変えたのは日露戦争で、新聞・雑誌の発行が急増し、出版史上このときほど用紙の不足に悩んだことはないといわれるほどの需要が起きた[22]。1901年以来停滞していた洋紙の輸入量は以前の二倍へ戻り、既存の製紙会社の工場増設と新会社の設立が相次いだ[23][20]

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
    • [18]三井・岩崎など大資本の進出によっても製紙業経営の改善はただちには実現しなかった
    • [19]三井首脳の益田孝氏が「製紙業にはこりごりした」と嘆いた
    • [20]大川平三郎氏に代わり専務となった藤山雷太氏が1902年に辞任、後任は鈴木梅四郎氏
    • [21]業績不振により資本金200万円を50万円へ切り下げ
    • [22]日露戦争で新聞・雑誌の発行が著増し、出版史上まれな用紙不足が発生
    • [23]停滞していた洋紙輸入量が以前の二倍へ増加し、工場増設と新会社設立が相次いだ

鈴木梅四郎氏は新聞巻取紙の新工場を北海道に建てる決意を固め、三井を説得し続けた[24]。王子は1880年代に天竜川流域の山林を買収して気田・中部の両工場を建てたものの、たび重なる水害で損失を重ねており[25]、北海道への進出はその打開策でもあった。1904年ごろから準備に入り、水力発電の開発と原料木材の採取に最適の地として苫小牧を選び、1906年に建設地を決めて資本金を一挙に600万円へ引き上げた[26]。海岸にこぼれている砂利を拾い集めてコンクリートに充てるほどの難工事となり、当初400万円の予算はほぼ2倍へ膨らんだ[27]。資金難は三井銀行からの借入で凌ぎ、1910年9月に苫小牧工場が完成した[28]。据えられた142インチ幅の抄紙機はアメリカでも最大最新式とされ[29]、江別・苫小牧両工場の運転開始により製紙業は新聞用紙の自給を実現した[30]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [24]鈴木梅四郎氏が新聞巻取紙の新工場を北海道に建設する決意を固め、三井を説得
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
    • [25]1880年代に天竜川流域の山林を買収し気田・中部両工場を建設したが水害で損失を重ね、北海道進出はその打開策
    • [26]1904年ごろ準備着手、水力発電と原料木材に最適の地として苫小牧を選定、1906年に建設地決定・資本金600万円へ増資
    • [27]苫小牧海岸の砂利を拾い集める難工事となり、当初予算400万円のほぼ2倍を投下
    • [28]資金難は三井銀行からの借入で解決し、1910年9月に苫小牧工場が完成
    • [29]苫小牧に据えた142インチ幅の抄紙機はアメリカでも最大最新式(従来の輸入抄紙機は100インチ幅)
    • [30]江別・苫小牧両工場の運転開始により、それまで輸入に依存していた新聞用紙の自給を実現
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
    • [18]三井・岩崎など大資本の進出によっても製紙業経営の改善はただちには実現しなかった
    • [19]三井首脳の益田孝氏が「製紙業にはこりごりした」と嘆いた
    • [20]大川平三郎氏に代わり専務となった藤山雷太氏が1902年に辞任、後任は鈴木梅四郎氏
    • [21]業績不振により資本金200万円を50万円へ切り下げ
    • [22]日露戦争で新聞・雑誌の発行が著増し、出版史上まれな用紙不足が発生
    • [23]停滞していた洋紙輸入量が以前の二倍へ増加し、工場増設と新会社設立が相次いだ
    • [25]1880年代に天竜川流域の山林を買収し気田・中部両工場を建設したが水害で損失を重ね、北海道進出はその打開策
    • [26]1904年ごろ準備着手、水力発電と原料木材に最適の地として苫小牧を選定、1906年に建設地決定・資本金600万円へ増資
    • [27]苫小牧海岸の砂利を拾い集める難工事となり、当初予算400万円のほぼ2倍を投下
    • [28]資金難は三井銀行からの借入で解決し、1910年9月に苫小牧工場が完成
    • [29]苫小牧に据えた142インチ幅の抄紙機はアメリカでも最大最新式(従来の輸入抄紙機は100インチ幅)
    • [30]江別・苫小牧両工場の運転開始により、それまで輸入に依存していた新聞用紙の自給を実現
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [24]鈴木梅四郎氏が新聞巻取紙の新工場を北海道に建設する決意を固め、三井を説得

樺太の森林資源の確保と、操短の常態化

1911年、藤原銀次郎氏が専務に復帰した[31]。日露戦争で日本領となった南樺太へ製紙業は北進し、三井は1913年に大泊へ紙料工場を建設したが、パルプ製造が計画通りに進まず、開業早々に王子製紙へ合併されて藤原氏の経営下に入った[32]。樺太庁長官が木材の無償給付を申し出たのに対し、藤原氏はただほど高いものはないとして、尺締め5銭で20年の契約を結んでいる[33]。長期かつ安価な払い下げを得た王子・富士・樺太工業の各社は、第一次大戦中のパルプ輸入難による値上がりのなかで他社に抜きんでた利益を上げた[34]。4分の配当を続けていた王子製紙は、1920年上期に5割の高配当を行っている[35]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [31]1911年 藤原銀次郎氏が専務に復帰
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
    • [32]1913年 三井が樺太・大泊に紙料工場を建設するもパルプ製造が計画通りに進まず、開業早々に王子製紙へ合併され藤原銀次郎氏の経営下に
    • [33]樺太庁長官の木材無償給付の申し出に対し、藤原銀次郎氏は尺締め5銭・20年の契約を結んだ
    • [34]パルプ自給体制を持つ王子・富士・樺太工業の各社が第一次大戦中のパルプ輸入難で他社にぬきんでた利益を計上
    • [35]4分配当を続けていた王子製紙が1920年上期に5割配当

大戦景気は1920年3月末の株式崩落で終わり[36]、製紙業界は操短の時代へ入った。日本製紙連合会は同年12月、滞貨の調整と市価維持のために業界初の生産制限へ踏み切り、主要12社が2割の義務操短に参加した[37]。効果は在庫の減少に表れ、1922年3月に1割へ切り替えたのち同年12月にいったん解除している[38]。1923年9月の関東大震災では製紙会社の損害は比較的軽く、大部分が1カ月たたずに運転を再開した[39]。焼失した紙がちょうど1カ月の生産高に相当したことと、為替暴落による輸出増が重なり、売れ行きは異常な増加を示した[40]

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-操短にあけくれ」
    • [36]1920年3月末の株式崩落で大戦景気が終わり、製紙業界は操短の時代へ
    • [37]1920年12月 日本製紙連合会が業界初の生産制限を決定、主要12社が義務操短率2割で参加
    • [38]在庫が減少し1922年3月に1割操短へ切り替え、同年12月にいったん解除
    • [39]1923年9月の関東大震災では製紙会社の損害は比較的軽く、大部分が1カ月たたずに運転再開
    • [40]焼失した紙は1カ月の生産高に相当し、在庫の激減と為替暴落による輸出増が重なって売れ行きが異常に増加

王子を去った大川平三郎氏は1913年に樺太工業を設立し、1919年には富士製紙の社長にも就いて王子へ対抗した[41]。王子が豊原工場を増設すれば真岡にパルプ工場を建てるという増設の応酬が続き、樺太工業は大増設と金解禁後の不況によって1億数千万円の負債を抱えた[42]。1930年初め、カナダの製紙会社が内地紙より2割安い値段で朝日・毎日などの大新聞へ新聞用紙のダンピングを仕掛け[43]、王子・富士・樺太工業の3社は申し出値どおりで受け渡すことを承知せざるをえなかった。最新鋭を誇る苫小牧工場までが安売り期間中は赤字を続ける[44]なか、藤原銀次郎氏は原因を三社分立の弱さと見て、三井財閥を後ろ盾に合併への志を固めた[45]

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-操短にあけくれ」
    • [41]大川平三郎氏が1913年に樺太工業を設立、1919年に富士製紙の社長へ就任して王子に対抗
    • [42]王子の豊原工場増設に大川平三郎氏が真岡のパルプ工場で応じる増設競争が続き、樺太工業は大増設と金解禁後の不況で1億数千万円の負債
    • [43]1930年初め カナダの製紙会社が内地紙より2割安い値段で朝日・毎日など大新聞へ新聞用紙をダンピング、王子・富士・樺太工業の3社は申し出値での受け渡しを承知
    • [44]安売り期間中は最新鋭の苫小牧工場も赤字が続いた
    • [45]藤原銀次郎氏が不振の原因を三社分立の弱さと考え、三井財閥を背景に合併への志を固めた
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [31]1911年 藤原銀次郎氏が専務に復帰
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
    • [32]1913年 三井が樺太・大泊に紙料工場を建設するもパルプ製造が計画通りに進まず、開業早々に王子製紙へ合併され藤原銀次郎氏の経営下に
    • [33]樺太庁長官の木材無償給付の申し出に対し、藤原銀次郎氏は尺締め5銭・20年の契約を結んだ
    • [34]パルプ自給体制を持つ王子・富士・樺太工業の各社が第一次大戦中のパルプ輸入難で他社にぬきんでた利益を計上
    • [35]4分配当を続けていた王子製紙が1920年上期に5割配当
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-操短にあけくれ」
    • [36]1920年3月末の株式崩落で大戦景気が終わり、製紙業界は操短の時代へ
    • [37]1920年12月 日本製紙連合会が業界初の生産制限を決定、主要12社が義務操短率2割で参加
    • [38]在庫が減少し1922年3月に1割操短へ切り替え、同年12月にいったん解除
    • [39]1923年9月の関東大震災では製紙会社の損害は比較的軽く、大部分が1カ月たたずに運転再開
    • [40]焼失した紙は1カ月の生産高に相当し、在庫の激減と為替暴落による輸出増が重なって売れ行きが異常に増加
    • [41]大川平三郎氏が1913年に樺太工業を設立、1919年に富士製紙の社長へ就任して王子に対抗
    • [42]王子の豊原工場増設に大川平三郎氏が真岡のパルプ工場で応じる増設競争が続き、樺太工業は大増設と金解禁後の不況で1億数千万円の負債
    • [43]1930年初め カナダの製紙会社が内地紙より2割安い値段で朝日・毎日など大新聞へ新聞用紙をダンピング、王子・富士・樺太工業の3社は申し出値での受け渡しを承知
    • [44]安売り期間中は最新鋭の苫小牧工場も赤字が続いた
    • [45]藤原銀次郎氏が不振の原因を三社分立の弱さと考え、三井財閥を背景に合併への志を固めた

1933年〜 大合同と占領下の解体、1社1工場からの再出発

  1. 1933年 富士製紙・樺太工業を合併
  2. 1945年 終戦により国内生産が激減
  3. 1949年 集中排除法により3分割、苫小牧製紙として再発足
  4. 1952年 商号を「王子製紙工業」に変更
  5. 1956年 林木育種研究所を新設
  6. 1957年 中央研究所を新設
  7. 1958年 王子労組が145日間のストライキに突入

世界屈指の王子製紙と、占領下の解体

1927年の金融恐慌で樺太工業の経営が行き詰まると、三井銀行の池田成彬氏と日本興業銀行の結城豊太郎氏が斡旋に立った[46]。1933年5月、王子製紙は富士製紙と樺太工業を合併し、資本金1億5000万円・24工場を擁する世界屈指の製紙会社として新発足した[47]。社長には藤原銀次郎氏が就いている[48]。合併後の王子は34工場を数え、国内生産の80%、新聞用紙では95%を占めた[49]。16の直系会社と40の傍系会社を抱えるコンツェルン[50]が、この合併で形を得た。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [46]1927年の金融恐慌で樺太工業の経営が苦境に陥り、三井銀行の池田成彬氏・日本興業銀行の結城豊太郎氏が斡旋
    • [49]合併後は34工場を擁し国内生産の80%、新聞用紙は95%を占めた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [47]1933年5月 富士製紙・樺太工業を合併し資本金1億5000万円・24工場の世界屈指の王子製紙が発足、藤原銀次郎氏が社長就任
    • [48]1933年の合併にあわせ藤原銀次郎氏が社長に就任
    • [50]三社合併により16の直系会社と40の傍系会社を持つコンツェルンが形成された

敗戦で失われたものは大きく、王子製紙が持つ資産の6割は外地にあり、なかでも製紙用パルプの約4割を生産していた樺太の喪失が重く[51]、その製造設備は内地のものよりはるかに優れていた。1946年1月、三井財閥と緊密な関係を持ち日本の製紙生産高の約半ばを生産していた王子製紙は、傍系40社とともにGHQの会社制限令を適用された[52]。当時の資本金は3億1000万円、総株数620万株、株主2万4459名[53]である。在外資産の全てと23の関係会社を分離され[54]、手元に残ったのは内地の15工場だけだった。

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-急追する新進企業」
    • [51]王子製紙の資産の6割は外地にあり、製紙用パルプの約4割を生産していた樺太の喪失が最大の打撃、その設備は内地より優れていた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [52]1946年1月 三井財閥と緊密な関係を持ち製紙生産高の約半ばを生産する王子製紙が傍系40社とともにGHQの会社制限令を適用された
    • [53]会社制限令適用時の王子製紙は資本金3億1000万円・総株数620万株・株主2万4459名
    • [54]在外資産の全てと23の関係会社を分離され、内地15工場だけが残った

1947年7月9日、GHQは内地14工場を9社へ分ける九分割案を提示した[55]。苫小牧・釧路・十条江戸川・富士岩渕・中津伏木・都島淀川熊野・小倉・坂本・八代へ寸断する内容[56]で、王子側はまず七分割案を突きつけて引き延ばし、次に五分割案の追い討ちをかける交渉を重ねた[57]。国際環境の変化から集中排除法の運用に緩和の兆しが見えると、機を逃さず三分割案を持ち込んで当局の承認を取り付けている[58]。1949年1月7日、正式に王子製紙三分割の解体指令が下りた[59]。旧王子製紙の最後の社長である中島慶次氏は、占領下で断腸の思いで三分割に応じている[60]

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-急追する新進企業」
    • [55]1947年7月9日 GHQが王子製紙に九分割案を提示(外地工場を失った内地14工場を9社へ分割)
    • [56]九分割案の内訳は苫小牧・釧路・十条江戸川・富士岩渕・中津伏木・都島淀川熊野・小倉・坂本・八代の9社
    • [57]王子側は七分割案で引き延ばし、五分割案の追い討ちをかけ、集排法運用緩和の兆しをとらえて三分割案で当局の承認を取り付けた
    • [58]国際環境の変化で集中排除法の運用緩和の兆しが見え、王子側は機を逸せず三分割案を持ち込んで当局の承認を取り付けた
    • [59]1949年1月7日 正式に王子製紙三分割の解体指令
  • 私の履歴書 経済人22「田中文雄」(日本経済新聞社、1987年/日本経済新聞1983年10月連載)
    • [60]中島慶次氏は旧王子製紙の最後の社長で、占領下で断腸の思いで三分割に応じた
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [46]1927年の金融恐慌で樺太工業の経営が苦境に陥り、三井銀行の池田成彬氏・日本興業銀行の結城豊太郎氏が斡旋
    • [49]合併後は34工場を擁し国内生産の80%、新聞用紙は95%を占めた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [47]1933年5月 富士製紙・樺太工業を合併し資本金1億5000万円・24工場の世界屈指の王子製紙が発足、藤原銀次郎氏が社長就任
    • [48]1933年の合併にあわせ藤原銀次郎氏が社長に就任
    • [50]三社合併により16の直系会社と40の傍系会社を持つコンツェルンが形成された
    • [52]1946年1月 三井財閥と緊密な関係を持ち製紙生産高の約半ばを生産する王子製紙が傍系40社とともにGHQの会社制限令を適用された
    • [53]会社制限令適用時の王子製紙は資本金3億1000万円・総株数620万株・株主2万4459名
    • [54]在外資産の全てと23の関係会社を分離され、内地15工場だけが残った
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-急追する新進企業」
    • [51]王子製紙の資産の6割は外地にあり、製紙用パルプの約4割を生産していた樺太の喪失が最大の打撃、その設備は内地より優れていた
    • [55]1947年7月9日 GHQが王子製紙に九分割案を提示(外地工場を失った内地14工場を9社へ分割)
    • [56]九分割案の内訳は苫小牧・釧路・十条江戸川・富士岩渕・中津伏木・都島淀川熊野・小倉・坂本・八代の9社
    • [57]王子側は七分割案で引き延ばし、五分割案の追い討ちをかけ、集排法運用緩和の兆しをとらえて三分割案で当局の承認を取り付けた
    • [58]国際環境の変化で集中排除法の運用緩和の兆しが見え、王子側は機を逸せず三分割案を持ち込んで当局の承認を取り付けた
    • [59]1949年1月7日 正式に王子製紙三分割の解体指令
  • 私の履歴書 経済人22「田中文雄」(日本経済新聞社、1987年/日本経済新聞1983年10月連載)
    • [60]中島慶次氏は旧王子製紙の最後の社長で、占領下で断腸の思いで三分割に応じた

苫小牧1工場・資本金4億円からの再出発

1949年8月、過度経済力集中排除法により王子製紙は3社へ分割された。同社はそのうちの苫小牧製紙として発足し、資本金4億円・1工場を引き継いだ。十條製紙は資本金2億8000万円で7工場、本州製紙は資本金2億5000万円で7工場を得ており、社員の希望は本州に集中して苫小牧が最も少なかった[63]。終戦時に紙全体で67.5%あった王子製紙の市場占有率は、解体直後の1950年には旧王子3社を合わせても37.7%へ下がり、1955年には27.7%まで落ちた[64]。同年のトップメーカーである十條製紙の占有率は11.6%にすぎず、上位10社には大昭和製紙・中越パルプ・高崎製紙・日本紙業の新興4社が顔を出している[65][61][62]

  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [61]1949年8月 過度経済力集中排除法により王子製紙が3社へ分割され、苫小牧製紙株式会社として発足
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [62]苫小牧製紙は資本金4億円・1工場、十條製紙は資本金2億8000万円・7工場、本州製紙は資本金2億5000万円・7工場で発足
  • 私の履歴書 経済人22「田中文雄」(日本経済新聞社、1987年/日本経済新聞1983年10月連載)
    • [63]分割時、社員の希望は本州製紙に集中し苫小牧製紙が最も少なかった
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-急追する新進企業」
    • [64]終戦時に紙全体で67.5%あった王子製紙の市場占有率が1950年に旧王子3社合計で37.7%、1955年に27.7%へ低下
    • [65]1955年のトップメーカー十條製紙の市場占有率は11.6%、上位10社に大昭和製紙・中越パルプ・高崎製紙・日本紙業の新興4社が進出

1950年に始まった朝鮮動乱の特需が、新生の苫小牧製紙を押し上げた[66]。指定生産資材の統制は1949年から順次撤廃され、1951年5月の新聞および下級紙の公定価格廃止をもって全面的に解除されている[67]。紙パルプは糸へん景気に続く三白景気の主役となり、1951年の紙パルプ17社平均の総資本利益率は29%と製造業平均の約2倍を記録した[68]。王子製紙と十條製紙はこの年、いずれも年間約30億円の収益を上げて長者番付の上位に並んでいる[69]。1952年6月、愛知県の春日井工場建設に合わせて商号を王子製紙工業へ改め[70]、同工場で上質紙と包装紙の生産を始めた[71]

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-急追する新進企業」
    • [66]紙の需要は復興需要に朝鮮動乱の景気が加わり、紙パルプ産業は戦後最高のブームに恵まれた
    • [67]1949年から指定生産資材の統制が順次撤廃され、1951年5月の新聞・下級紙の公定価格撤廃で戦後統制が全面解除
    • [68]1951年の紙パルプ17社平均の総資本利益率は29%で製造業平均15%の約2倍
    • [69]1951年 王子製紙と十條製紙がいずれも年間約30億円の収益を上げ長者番付の上位に
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [70]1952年6月 商号を「王子製紙工業株式会社」へ変更
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [71]春日井工場で上質紙・包装紙の生産を開始

原料の制約が次の課題となり、原木の宝庫だった樺太を失い戦時中の乱伐も重なって、戦後の森林資源は面積で戦前の半分、蓄積量で7割へ落ちていた[72]。1952年ごろから木材価格は一般卸売物価を引き離し、1955年には戦前基準で卸売物価343倍に対し木材は510倍へ跳ね上がっている[73]。王子は1956年9月に林木育種研究所、1957年10月に中央研究所を設けて[74]原料の側から手を打った。1958年7月には王子労組が145日間のストライキに入り[75]、1960年12月、商号は由緒ある王子製紙へ戻った[76]

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-急追する新進企業」
    • [72]樺太の喪失と戦時中の乱伐により戦後の森林資源は面積で戦前の半分、蓄積量で7割へ減少
    • [73]1955年に戦前基準で卸売物価343倍に対し木材価格は510倍へ上昇
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [74]1956年9月 林木育種研究所、1957年10月 中央研究所を設置
    • [76]1960年12月 商号を「王子製紙株式会社」へ変更(復名)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [75]1958年7月 王子労組が145日間のストライキに突入
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [61]1949年8月 過度経済力集中排除法により王子製紙が3社へ分割され、苫小牧製紙株式会社として発足
    • [70]1952年6月 商号を「王子製紙工業株式会社」へ変更
    • [74]1956年9月 林木育種研究所、1957年10月 中央研究所を設置
    • [76]1960年12月 商号を「王子製紙株式会社」へ変更(復名)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [62]苫小牧製紙は資本金4億円・1工場、十條製紙は資本金2億8000万円・7工場、本州製紙は資本金2億5000万円・7工場で発足
    • [71]春日井工場で上質紙・包装紙の生産を開始
  • 私の履歴書 経済人22「田中文雄」(日本経済新聞社、1987年/日本経済新聞1983年10月連載)
    • [63]分割時、社員の希望は本州製紙に集中し苫小牧製紙が最も少なかった
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-急追する新進企業」
    • [64]終戦時に紙全体で67.5%あった王子製紙の市場占有率が1950年に旧王子3社合計で37.7%、1955年に27.7%へ低下
    • [65]1955年のトップメーカー十條製紙の市場占有率は11.6%、上位10社に大昭和製紙・中越パルプ・高崎製紙・日本紙業の新興4社が進出
    • [66]紙の需要は復興需要に朝鮮動乱の景気が加わり、紙パルプ産業は戦後最高のブームに恵まれた
    • [67]1949年から指定生産資材の統制が順次撤廃され、1951年5月の新聞・下級紙の公定価格撤廃で戦後統制が全面解除
    • [68]1951年の紙パルプ17社平均の総資本利益率は29%で製造業平均15%の約2倍
    • [69]1951年 王子製紙と十條製紙がいずれも年間約30億円の収益を上げ長者番付の上位に
    • [72]樺太の喪失と戦時中の乱伐により戦後の森林資源は面積で戦前の半分、蓄積量で7割へ減少
    • [73]1955年に戦前基準で卸売物価343倍に対し木材価格は510倍へ上昇
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [75]1958年7月 王子労組が145日間のストライキに突入

苫小牧への集中投資と、規模の劣位

復名後の王子は新聞用紙への投資を苫小牧に集め、1961年に春日井工場を増設して重包装用・軽包装用の両更クラフト紙へ乗り出し[77]、1964年8月には苫小牧新工場へ抄幅274インチというわが国最大の新1号抄紙機を据えた[78]。1970年4月には5本取りの新3号抄紙機が完成し、苫小牧は世界第1位の新聞用紙専抄工場となった[79]。1939年以降に大型新鋭機の増設を重ねた苫小牧は、新聞用紙で業界第一位を保ち続けている[80]。品目は印刷用紙・筆記図画用紙・包装用紙・青写真用紙へ広がり、原料面では広大な社有林を抱えて林木育種の研究開発に取り組んだ[81]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [77]1961年 春日井工場を増設し重包装用・軽包装用の両更クラフト紙の生産に着手
    • [80]苫小牧工場は新聞用紙専抄の大型新鋭機の増設を重ね、新聞用紙で業界第一位を維持
    • [81]主要製品は印刷用紙・筆記図画用紙・包装用紙・青写真用紙などに広がり、広大な社有林を持ち林木育種の研究開発に積極的だった
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [78]1964年8月 苫小牧新工場に抄幅274インチ・わが国最大の新1号抄紙機を増設
    • [79]1970年4月 新3号抄紙機(5本取り)が完成し、苫小牧が世界第1位の新聞用紙専抄工場となった

それでも国際的な規模の差は開いたままで、1966年のインターナショナル・ペーパーの売上高5,220億円に対し、東京証券取引所一部上場の紙パルプ約20社の売上高合計は5,048億円にとどまり[82]、王子・十條・本州の3社を合わせても同社の半分に届かず、純益は8分の1以下であった[83]。設備の新設が過剰設備を生み、過当競争から製品価格の下落を招く循環が業界に定着し、企業の安定成長を妨げていた[84]。藤原銀次郎氏ら旧王子の先輩にとって分割前の姿へ戻ることは悲願であり[85]、資本自由化を控えた規模の劣位は旧王子3社に共通する課題として残った[86]

  • 証券アナリストジャーナル 1970年 第8巻第9号「紙パルプ業界と本州製紙――その現状と将来――」(本州製紙 栖原亮 講演)
    • [82]1966年 インターナショナル・ペーパーの売上高5,220億円に対し東証一部上場の紙パルプ約20社の売上高合計は5,048億円
    • [83]王子・十條・本州3社の売上高合計でもインターナショナル・ペーパーの半分以下、純益は8分の1以下
    • [84]日本の紙パルプ業界は設備の新設・過剰設備・過当競争・製品価格の下落という悪循環を繰り返し、企業の安定成長を妨げていた
  • 私の履歴書 経済人22「田中文雄」(日本経済新聞社、1987年/日本経済新聞1983年10月連載)
    • [85]藤原銀次郎氏ら旧王子の先輩にとって分割前の姿へ戻ることは悲願であった
    • [86]資本自由化を控え、3社を合わせても世界最大手に及ばない規模の劣位が旧王子3社に共通の課題となっていた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [77]1961年 春日井工場を増設し重包装用・軽包装用の両更クラフト紙の生産に着手
    • [80]苫小牧工場は新聞用紙専抄の大型新鋭機の増設を重ね、新聞用紙で業界第一位を維持
    • [81]主要製品は印刷用紙・筆記図画用紙・包装用紙・青写真用紙などに広がり、広大な社有林を持ち林木育種の研究開発に積極的だった
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [78]1964年8月 苫小牧新工場に抄幅274インチ・わが国最大の新1号抄紙機を増設
    • [79]1970年4月 新3号抄紙機(5本取り)が完成し、苫小牧が世界第1位の新聞用紙専抄工場となった
  • 証券アナリストジャーナル 1970年 第8巻第9号「紙パルプ業界と本州製紙――その現状と将来――」(本州製紙 栖原亮 講演)
    • [82]1966年 インターナショナル・ペーパーの売上高5,220億円に対し東証一部上場の紙パルプ約20社の売上高合計は5,048億円
    • [83]王子・十條・本州3社の売上高合計でもインターナショナル・ペーパーの半分以下、純益は8分の1以下
    • [84]日本の紙パルプ業界は設備の新設・過剰設備・過当競争・製品価格の下落という悪循環を繰り返し、企業の安定成長を妨げていた
  • 私の履歴書 経済人22「田中文雄」(日本経済新聞社、1987年/日本経済新聞1983年10月連載)
    • [85]藤原銀次郎氏ら旧王子の先輩にとって分割前の姿へ戻ることは悲願であった
    • [86]資本自由化を控え、3社を合わせても世界最大手に及ばない規模の劣位が旧王子3社に共通の課題となっていた

1968年〜 一括復元の頓挫と、同業を一社ずつ吸収する路線

王子ホールディングスの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1968年 旧王子3社の合併覚書の取り下げと、同業を一社ずつ吸収する路線への転換 分割前の姿へ一括で戻すか、一社ずつ束ね直すか——独占禁止政策が決めた四半世紀の遠回り
  2. 1970年 北日本製紙と合併
  3. 1973年 Carter Oji Kokusaku Pan Pacific Project稼働
  4. 1979年 日本パルプ工業と合併
  5. 1989年 東洋パルプと合併
  6. 1993年 神崎製紙と合併し「新王子製紙」に商号変更
  7. 1996年 本州製紙との合併と、47年ぶりの「王子製紙」への社名復帰 戦後分割の解消は何をもたらしたか——十條を除く2社の再統合と、直後に訪れた国内需要の頭打ち

183日で取り下げた3社合併覚書

1968年3月21日、王子・十條・本州の旧王子3社は合併覚書に調印した[87]。話を進めたのは中島慶次会長と旧王子の長老である加藤藤太郎氏で、3社の社長にも事前に相談していない[88]。中島氏が人を介して公正取引委員会へ極秘に打診したところ、出してごらんなさいという反応があったことが端緒[89]である。新発足する王子製紙は年間売上高約1,800億円・18工場・従業員約1万8,700人を見込んだが、それでも世界の紙パルプ業界では13位にすぎなかった[90]。通商産業省は国際競争力の強化に役立つとみて後押ししている[91]

  • 私の履歴書 経済人22「田中文雄」(日本経済新聞社、1987年/日本経済新聞1983年10月連載)
    • [87]1968年3月21日 王子・十條・本州の3社首脳が合併覚書に調印
    • [88]合併は中島慶次会長と旧王子の長老・加藤藤太郎氏が中心となり、3社の社長にも事前相談なく進められた
    • [89]中島慶次氏が人を介して公取委へ極秘に打診したところ「まあ、出してごらんなさいよ」という反応があったことが端緒
    • [90]新発足する王子製紙は年間売上高約1,800億円・18工場・従業員約1万8,700人を見込んだが世界では13位
    • [91]通商産業省は3社合併が国際競争力の強化に役立つとみて後押しした

公正取引委員会の反応は当初きわめて好意的で、新聞用紙のシェアが60%に達する点についても、資本自由化への体制固めという説明に理解を示していた[92]。潮目が変わったのは1968年4月16日、八幡製鉄と富士製鉄の合併構想が公表されてからである[93]。6月半ばには近代経済学者90人からなる独占禁止政策懇談会が、安易な合併は競争制限の機運を誘発し日本経済の成長の原動力を損なうおそれがあるとの声明を発表した[94]。鉄と紙の大型合併申請が二つ重なったこともあり、同業者やユーザーからも反対意見が書面で提出されている[95]

  • 私の履歴書 経済人22「田中文雄」(日本経済新聞社、1987年/日本経済新聞1983年10月連載)
    • [92]公取委は当初好意的で、新聞用紙のシェア60%についても資本自由化への体制固めという説明に理解を示していた
    • [93]1968年4月16日 八幡製鉄と富士製鉄の合併構想の公表で公取委の態度が慎重に転じた
    • [94]1968年6月半ば 近代経済学者90人の独占禁止政策懇談会が「安易な合併は競争制限の機運を誘発し、日本経済の成長の原動力をそこなう恐れがある」との声明を発表
  • 日経ビジネス 1979年2月26日号「資源がないのにムダな競争は禁物」
    • [95]鉄と紙の大型合併申請が二つ重なり、同業者やユーザーからも反対意見が書類で提出された

9月の合同審議会で、公取委が一両日中に3社合併の否認を結論づけるらしいとの内部報告が入った[96]。これ以上の事前審査は不利だとして覚書の取り下げが決まり、調印から183日目で一括復元の試みは終わった[97]。行政訴訟も検討されたが、独禁法に触れるかどうかは裁判所より公取委の判断が優先するため訴訟に勝てる見込みはないとされ、負ければ再申請が難しくなると見送られている[98]。公取委周辺が示唆した2社合併案にも、中島慶次会長は同意しなかった[99]

  • 私の履歴書 経済人22「田中文雄」(日本経済新聞社、1987年/日本経済新聞1983年10月連載)
    • [96]合同審議会で公取委が一両日中に3社合併否認の結論を出すとの内部報告があり、これ以上の事前審査は不利として取り下げを決定
    • [97]覚書の取り下げは調印から183日目
    • [98]独禁法違反の判断は裁判所より公取委が優先するため訴訟に勝てる見込みはなく、敗訴すれば再申請が困難になるとして行政訴訟を見送り
    • [99]公取委周辺が示唆した2社合併案に中島慶次会長は同意しなかった
  • 私の履歴書 経済人22「田中文雄」(日本経済新聞社、1987年/日本経済新聞1983年10月連載)
    • [87]1968年3月21日 王子・十條・本州の3社首脳が合併覚書に調印
    • [88]合併は中島慶次会長と旧王子の長老・加藤藤太郎氏が中心となり、3社の社長にも事前相談なく進められた
    • [89]中島慶次氏が人を介して公取委へ極秘に打診したところ「まあ、出してごらんなさいよ」という反応があったことが端緒
    • [90]新発足する王子製紙は年間売上高約1,800億円・18工場・従業員約1万8,700人を見込んだが世界では13位
    • [91]通商産業省は3社合併が国際競争力の強化に役立つとみて後押しした
    • [92]公取委は当初好意的で、新聞用紙のシェア60%についても資本自由化への体制固めという説明に理解を示していた
    • [93]1968年4月16日 八幡製鉄と富士製鉄の合併構想の公表で公取委の態度が慎重に転じた
    • [94]1968年6月半ば 近代経済学者90人の独占禁止政策懇談会が「安易な合併は競争制限の機運を誘発し、日本経済の成長の原動力をそこなう恐れがある」との声明を発表
    • [96]合同審議会で公取委が一両日中に3社合併否認の結論を出すとの内部報告があり、これ以上の事前審査は不利として取り下げを決定
    • [97]覚書の取り下げは調印から183日目
    • [98]独禁法違反の判断は裁判所より公取委が優先するため訴訟に勝てる見込みはなく、敗訴すれば再申請が困難になるとして行政訴訟を見送り
    • [99]公取委周辺が示唆した2社合併案に中島慶次会長は同意しなかった
  • 日経ビジネス 1979年2月26日号「資源がないのにムダな競争は禁物」
    • [95]鉄と紙の大型合併申請が二つ重なり、同業者やユーザーからも反対意見が書類で提出された

同業を一社ずつ吸収し続けた四半世紀

一括復元をあきらめた王子は相手を一社ずつ選ぶ手法へ移り、1970年9月に北日本製紙、1979年3月に日本パルプ工業と合併し[100]、1973年3月にはニュージーランドでCarter Oji Kokusaku Pan Pacific Projectが稼働している[101]。日本パルプ工業との合併は、長期不況を乗り切るうえで不安を感じた同社側の申し入れで実現した[102]。合併でシェアが25%を超える品種はなく、田中文雄社長は1968年と違って反対意見が一つも出なかったと述べている[103]。同じ場で、旧王子グループの大合同については不可能でしょうと語り、製紙業界は構造的にぜい弱で市況は絶えず乱れ設備は過剰だとの見方も示した[104]

  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [100]1970年9月 北日本製紙株式会社と合併、1979年3月 日本パルプ工業株式会社と合併
    • [101]1973年3月 ニュージーランドでCarter Oji Kokusaku Pan Pacific Project(現 Pan Pac Forest Products Ltd.)が稼働
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-不況カルテルから設備廃棄へ」
    • [102]日本パルプ工業との合併は長期不況への不安を抱えた同社側の申し入れで実現し、王子は業容を一気に拡大して業界トップの足場を固めた
  • 日経ビジネス 1979年2月26日号「資源がないのにムダな競争は禁物」
    • [103]日本パルプ工業との合併後もシェアが25%を超える品種はなく、田中文雄社長は1968年と違って反対意見が一つも出なかったと述べた
    • [104]田中文雄社長は旧王子グループの大合同を「これは不可能でしょう」と述べ、製紙業界は構造的にぜい弱で市況は絶えず乱れ設備は過剰との見方を示した

1970年代後半以降の業界は、需給ギャップの調整に追われた[105]。1977年9月に段ボール原紙、1978年末からクラフト紙が不況カルテルを結び[106]、成長品種と見られていた上質紙・コート紙も初の減産へ追い込まれている[107]。1981年、王子製紙・本州製紙・十條製紙・神崎製紙の4社は社長会に加えて副社長会を設け、企画管理・販売流通・原材料・研究技術などの専門部会を置いた[108]。1980年から1981年にかけて経営危機に見舞われたクラフト紙メーカーの東洋パルプは王子製紙の傘下で再建の道を歩み[109]、1989年4月に合併している[110]

  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-不況カルテルから設備廃棄へ」
    • [105]1970年代後半以降の紙・パルプ産業は生産能力が需要を大幅に上回る需給ギャップの調整に明け暮れた
    • [106]1977年9月 段ボール原紙業界が不況カルテルを結成、1978年末からクラフト紙も同様のカルテル減産に突入
    • [107]成長品種と見られていた上質紙・コート紙も初のカルテル減産に追い込まれた
    • [109]1980年から1981年にかけ経営危機に陥ったクラフト紙メーカーの東洋パルプが王子製紙の傘下で再建
  • 日経ビジネス 1981年10月19日号「“紙の新日鉄”めざし再結集へ 王子系4社が新たに副社長会」
    • [108]1981年 王子製紙・本州製紙・十條製紙・神崎製紙の4社が社長会に加えて副社長会を設置し、企画管理・販売流通・原材料・研究技術などの専門部会を設けた
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [110]1989年4月 東洋パルプ株式会社と合併

1993年4月、十條製紙と山陽国策パルプが合併して日本製紙が発足し、売上高で業界首位に立った[111]。王子は同年10月に神崎製紙と合併して新王子製紙となり[112]、板紙を除くあらゆる品種を抱えるトップメーカーとなっている。両社の紙・板紙シェアは新王子11.9%、日本製紙10.2%で、世界ランキングでは日本製紙が5位、新王子が8位へ一気に浮上した[113]。ところが合併直後、旧神崎製紙の取締役財務部長が発足前の半年間に簿外で株式の先物・オプション取引を行い75億円の損失を出していたことが判明する[114]。責任を取って旧神崎社長の河村俊彦・新王子会長が代表権のない取締役相談役へ退き、支柱を失った旧神崎勢の力は急速に衰えた[115]

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-増設ラッシュで不況に」
    • [111]1993年4月 十條製紙と山陽国策パルプが合併して日本製紙が発足し売上高で業界トップに、同年10月に王子製紙と神崎製紙の合併で新王子製紙が誕生
    • [113]1992年ベースの紙・板紙シェアは新王子製紙11.9%、日本製紙10.2%、世界ランキングは日本製紙5位・新王子8位
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [112]1993年10月 神崎製紙株式会社と合併し商号を「新王子製紙株式会社」へ変更
  • 日経ビジネス 1993年11月29日号「旧神崎の財テク損失露見 『信頼』の風土がアダに」
    • [114]1993年10月1日の合併直後、旧神崎製紙の取締役財務部長が発足前の半年間に簿外で株式の先物・オプション取引を行い75億円の損失を出していたことが判明
  • 日経ビジネス 1996年4月8日号「新王子製紙 連続合併で見せた『王子』の意地」
    • [115]損失問題の責任を取り旧神崎社長の河村俊彦・新王子会長が代表権のない取締役相談役へ退き、旧神崎勢の力は急速に衰えた
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [100]1970年9月 北日本製紙株式会社と合併、1979年3月 日本パルプ工業株式会社と合併
    • [101]1973年3月 ニュージーランドでCarter Oji Kokusaku Pan Pacific Project(現 Pan Pac Forest Products Ltd.)が稼働
    • [110]1989年4月 東洋パルプ株式会社と合併
    • [112]1993年10月 神崎製紙株式会社と合併し商号を「新王子製紙株式会社」へ変更
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-不況カルテルから設備廃棄へ」
    • [102]日本パルプ工業との合併は長期不況への不安を抱えた同社側の申し入れで実現し、王子は業容を一気に拡大して業界トップの足場を固めた
    • [105]1970年代後半以降の紙・パルプ産業は生産能力が需要を大幅に上回る需給ギャップの調整に明け暮れた
    • [106]1977年9月 段ボール原紙業界が不況カルテルを結成、1978年末からクラフト紙も同様のカルテル減産に突入
    • [107]成長品種と見られていた上質紙・コート紙も初のカルテル減産に追い込まれた
    • [109]1980年から1981年にかけ経営危機に陥ったクラフト紙メーカーの東洋パルプが王子製紙の傘下で再建
  • 日経ビジネス 1979年2月26日号「資源がないのにムダな競争は禁物」
    • [103]日本パルプ工業との合併後もシェアが25%を超える品種はなく、田中文雄社長は1968年と違って反対意見が一つも出なかったと述べた
    • [104]田中文雄社長は旧王子グループの大合同を「これは不可能でしょう」と述べ、製紙業界は構造的にぜい弱で市況は絶えず乱れ設備は過剰との見方を示した
  • 日経ビジネス 1981年10月19日号「“紙の新日鉄”めざし再結集へ 王子系4社が新たに副社長会」
    • [108]1981年 王子製紙・本州製紙・十條製紙・神崎製紙の4社が社長会に加えて副社長会を設置し、企画管理・販売流通・原材料・研究技術などの専門部会を設けた
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-増設ラッシュで不況に」
    • [111]1993年4月 十條製紙と山陽国策パルプが合併して日本製紙が発足し売上高で業界トップに、同年10月に王子製紙と神崎製紙の合併で新王子製紙が誕生
    • [113]1992年ベースの紙・板紙シェアは新王子製紙11.9%、日本製紙10.2%、世界ランキングは日本製紙5位・新王子8位
  • 日経ビジネス 1993年11月29日号「旧神崎の財テク損失露見 『信頼』の風土がアダに」
    • [114]1993年10月1日の合併直後、旧神崎製紙の取締役財務部長が発足前の半年間に簿外で株式の先物・オプション取引を行い75億円の損失を出していたことが判明
  • 日経ビジネス 1996年4月8日号「新王子製紙 連続合併で見せた『王子』の意地」
    • [115]損失問題の責任を取り旧神崎社長の河村俊彦・新王子会長が代表権のない取締役相談役へ退き、旧神崎勢の力は急速に衰えた

47年ぶりに戻した「王子製紙」の社名

1995年6月、大国昌彦氏が新王子製紙の社長に就いた[116]。1929年に山形県で生まれ、1953年に東京大学工学部機械工学科を卒業して王子製紙工業へ入社し、中越パルプ工業へ9年半出向したのち1987年に東洋パルプ社長として再建に携わった[117]技術者である。プラント設計など技術畑を歩んだ大国氏は、120年余りの王子の歴史で初の技術屋社長にあたり、目指したのは意思決定のスピードアップだった[118]。1995年3月期の単体売上高は5,525億円、大手8工場体制で業界トップの地位にあった[119]。75億円の損失問題は旧神崎勢の勢いを削ぎ、結果として経営は旧王子主導で一本化して、次の合併相手との融和に専念できる状態が整っていた[120]

  • 日経ビジネス 1995年12月25日号「大国昌彦氏[新王子製紙]再建の名手、『日本的経営』に新風」
    • [116]1995年6月 大国昌彦氏が新王子製紙の社長に就任
    • [117]大国昌彦氏は1929年8月山形県生まれ、1953年に東京大学工学部機械工学科を卒業して王子製紙工業へ入社、1987年に東洋パルプ社長
    • [118]プラント設計など技術畑を歩んだ大国昌彦氏は120年余りの王子の歴史で初の技術屋社長で、目指したのは意思決定のスピードアップ
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [119]1995年3月期 単体売上高5,525億円・大手8工場体制で業界トップ(資本金642億円・従業員9,090人)
  • 日経ビジネス 1996年4月8日号「新王子製紙 連続合併で見せた『王子』の意地」
    • [120]75億円の損失問題が結果として旧王子主導への一本化を招き、旧神崎勢とのバランスに気を使わず次の合併相手との融和に専念できる状態が生まれた

1996年3月29日、新王子製紙は板紙最大手の本州製紙との合併を発表した[121]。合併比率は本州株6株に対し新王子株5株[122]である。本州製紙は1988年に釧路工場を子会社へ1,198億円で譲渡して借入金の返済などに充てており[123]、これを本体へ戻すことが首脳陣の悲願だった。米澤義信会長は釧路を戻すまでは合併はできないと語っており、本州は合併に先立ち876億円で釧路工場を子会社から買い取ることを決めている[124]。洋紙メーカーの新王子と板紙中心の本州は生産品種がほとんど重複せず、海外植林の資金力拡充と原料調達のスケールメリットによる国際競争力の強化が効果に挙げられた[125]

    • [121]1996年3月29日 新王子製紙と本州製紙が同年10月1日付の合併を発表
  • 日経ビジネス 1996年4月8日号「新王子製紙 連続合併で見せた『王子』の意地」
    • [122]合併比率は本州株6株に対し新王子株5株
    • [123]本州製紙は1988年に釧路工場を子会社へ1,198億円で譲渡し借入金返済などに充てていた
    • [124]米澤義信会長は「釧路を戻すまでは合併はできない」と語り、本州は合併前に876億円で釧路工場を子会社から買い取ることを決めた
    • [125]洋紙メーカーの新王子と板紙中心の本州は生産品種がほとんど重複せず、海外植林の資金力拡充と原料調達のスケールメリットによる国際競争力の強化が合併効果に挙げられた

1996年10月1日、両社は合併し、存続会社の新王子製紙は商号を王子製紙へ戻した。1949年8月の分割から47年である。社名を早々に戻す決定について新王子側は、本州製紙も元をたどれば王子製紙であり違和感はないと説明したが、旧神崎の幹部からは新を外すのはしゃくにさわるとの不満も出た[127]。合併により日本の紙パルプ産業で初めて連結売上高1兆円を超える会社となり[128]、1997年3月期の連結売上高は1兆1,332億円、経常利益は498億円を計上している[129][126]

  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [126]1996年10月 本州製紙株式会社と合併し商号を「王子製紙株式会社」へ変更(1949年8月の分割から47年)
  • 日経ビジネス 1996年4月8日号「新王子製紙 連続合併で見せた『王子』の意地」
    • [127]社名復帰について新王子側は「本州製紙も元をたどれば『王子製紙』であり、違和感はない」と説明したが、旧神崎幹部からは「新」を外すことへの不満が出た
    • [128]合併により日本の紙パルプ産業で初めて連結売上高1兆円超の会社となった
  • 王子製紙 会社年鑑(連結業績)
    • [129]1997年3月期 連結売上高1兆1,332億円・経常利益498億円
  • 日経ビジネス 1995年12月25日号「大国昌彦氏[新王子製紙]再建の名手、『日本的経営』に新風」
    • [116]1995年6月 大国昌彦氏が新王子製紙の社長に就任
    • [117]大国昌彦氏は1929年8月山形県生まれ、1953年に東京大学工学部機械工学科を卒業して王子製紙工業へ入社、1987年に東洋パルプ社長
    • [118]プラント設計など技術畑を歩んだ大国昌彦氏は120年余りの王子の歴史で初の技術屋社長で、目指したのは意思決定のスピードアップ
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [119]1995年3月期 単体売上高5,525億円・大手8工場体制で業界トップ(資本金642億円・従業員9,090人)
  • 日経ビジネス 1996年4月8日号「新王子製紙 連続合併で見せた『王子』の意地」
    • [120]75億円の損失問題が結果として旧王子主導への一本化を招き、旧神崎勢とのバランスに気を使わず次の合併相手との融和に専念できる状態が生まれた
    • [122]合併比率は本州株6株に対し新王子株5株
    • [123]本州製紙は1988年に釧路工場を子会社へ1,198億円で譲渡し借入金返済などに充てていた
    • [124]米澤義信会長は「釧路を戻すまでは合併はできない」と語り、本州は合併前に876億円で釧路工場を子会社から買い取ることを決めた
    • [125]洋紙メーカーの新王子と板紙中心の本州は生産品種がほとんど重複せず、海外植林の資金力拡充と原料調達のスケールメリットによる国際競争力の強化が合併効果に挙げられた
    • [127]社名復帰について新王子側は「本州製紙も元をたどれば『王子製紙』であり、違和感はない」と説明したが、旧神崎幹部からは「新」を外すことへの不満が出た
    • [121]1996年3月29日 新王子製紙と本州製紙が同年10月1日付の合併を発表
    • [128]合併により日本の紙パルプ産業で初めて連結売上高1兆円超の会社となった
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [126]1996年10月 本州製紙株式会社と合併し商号を「王子製紙株式会社」へ変更(1949年8月の分割から47年)
  • 王子製紙 会社年鑑(連結業績)
    • [129]1997年3月期 連結売上高1兆1,332億円・経常利益498億円

1997年〜 国内需要の飽和と、海外資源・素材への転換

王子ホールディングスの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2001年 「王子板紙」を設立
  2. 2005年 森紙業グループ各社の株式を取得
  3. 2006年 北越製紙への敵対的TOB(日本初の本格的敵対的買収) 国内市場の頭打ちを前に業界首位が仕掛けた統合は、なぜ不成立に終わったか
  4. 2007年 中国・江蘇省南通への一貫生産工場の建設と、排水パイプライン計画の撤回 成長市場に工場を建てるという解はどこで狂ったか——総投資約2,000億円と、地元の反対で覆った前提
  5. 2009年 初の純損失を計上
  6. 2012年 持株会社制に移行し「王子HD」に商号変更
  7. 2014年 Carter Holt Harvey Pulp & Paperを取得

首位陥落と、アジア300万トン計画

1999年、債務超過に陥っていた段ボール原紙大手の中央板紙が再建案を示し、王子製紙を主な引受先とする60億円の第三者割当増資と、十六銀行など金融機関への114億円の債権放棄要請を柱に据えた[130]。増資後の王子の持株比率は40%程度へ高まり[131]、社長を含む役員を送り込んでいる。中央板紙の傘下入りで王子グループの板紙シェアは28%に達し、首位に立った[132]。2002年には北陽製紙・中央板紙・高崎三興の3社で段ボール原紙の抄紙機3台を休廃止し、生産能力の1割にあたる設備を削っている[133]

  • 週刊東洋経済 1999年5月22日号「再編成 王子製紙が中央板紙を傘下に、板紙業界再編 次の焦点はどこか」
    • [130]1999年 債務超過の中央板紙が王子製紙を主な引受先とする60億円の第三者割当増資と、十六銀行など金融機関への114億円の債権放棄要請を柱とする再建案を発表
    • [131]増資後の王子の持株比率は40%程度に高まり、社長を含む役員を派遣
    • [132]中央板紙の王子傘下入りで王子グループの板紙シェアは28%に達し首位に
  • 週刊東洋経済 2002年6月1日号「製紙業界 生産過剰の段ボール原紙で王子製紙も設備休止へ それでも「川下」は苦境続く」
    • [133]2002年 北陽製紙・中央板紙・高崎三興の3社で段ボール原紙の抄紙機3台を休停止し、生産能力の1割にあたる設備を縮小

首位の座は長く続かず、2000年3月、日本製紙と大昭和製紙が共同持株会社での経営統合を発表し、洋紙シェア32.2%・連結売上高1兆2,174億円で王子製紙を抜いて首位に立つ見通しとなった[134]。2001年6月に大國昌彦前社長からバトンタッチした鈴木正一郎社長[135]は、年間5万トン程度だったアジアでの現地生産を5年後に100万トン、10年後に300万トンへ拡大する中長期計画[136]を打ち出した。当時の洋紙・板紙生産はグループ全体で年間870万トンとそのほとんどが国内で[137]、増産分をほぼ全てアジアの現地生産で賄う内容である。伸びの見込めない内需に対し、アジア市場を取り込むことが成長に必要だという判断であった[138]

  • 週刊東洋経済 2000年4月8日号「再編 日本製紙と大昭和製紙が持株会社で経営を統合 どう出る王子、大王製紙」
    • [134]2000年3月 日本製紙と大昭和製紙が共同持株会社での統合を発表、洋紙シェア32.2%・連結売上高1兆2,174億円で王子製紙を抜き首位となる見通し
  • 週刊東洋経済 2001年7月7日号「紙パ アジアで300万トン生産。野心的な中長期計画打ち出す 王子製紙の本音は首位奪還?」
    • [135]2001年6月 大國昌彦前社長から鈴木正一郎氏へ社長交代
    • [136]アジアでの現地生産を年5万トン程度から5年後に100万トン、10年後に300万トンへ拡大する中長期計画
    • [137]当時の洋紙・板紙生産はグループ全体で年間870万トンでほとんどが国内、増産分をほぼ全てアジアの現地生産で賄う計画
    • [138]伸びの見込めない内需に対しアジア市場の取り込みが成長に必要と判断してアジア生産へ急シフト

国内では品種別に生産・販売を一元化する再編が続き、2001年5月、持分法適用関連会社の高崎三興、連結子会社の中央板紙・北陽製紙との共同出資で段ボール原紙の共同販売会社である王子板紙を設立し[139]、同年10月には全国7地区の段ボール子会社7社を王子コンテナーへ統合している[140]。2002年10月には王子板紙へ王子製紙の段ボール原紙製造部門と高崎三興・中央板紙・北陽製紙・オーアイアールを統合し[141]、生産・販売体制を一元化した。2003年4月に家庭用紙事業を王子ネピアへ、2004年10月に特殊紙・フィルム事業を王子特殊紙へまとめている[142]

  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [139]2001年5月 高崎三興・中央板紙・北陽製紙との共同出資で段ボール原紙の共同販売会社「王子板紙株式会社」(現 王子マテリア)を設立
    • [140]2001年10月 全国7地区の段ボール子会社7社を1社に統合し商号を「王子コンテナー株式会社」へ変更
    • [141]2002年10月 王子板紙へ段ボール原紙製造部門と高崎三興・中央板紙・北陽製紙・オーアイアールを統合し、段ボール原紙の生産・販売体制を一元化
    • [142]2003年4月 家庭用紙事業を「王子ネピア株式会社」へ統合、2004年10月 特殊紙・フィルム事業を「王子特殊紙株式会社」(現 王子エフテックス)へ統合
  • 週刊東洋経済 1999年5月22日号「再編成 王子製紙が中央板紙を傘下に、板紙業界再編 次の焦点はどこか」
    • [130]1999年 債務超過の中央板紙が王子製紙を主な引受先とする60億円の第三者割当増資と、十六銀行など金融機関への114億円の債権放棄要請を柱とする再建案を発表
    • [131]増資後の王子の持株比率は40%程度に高まり、社長を含む役員を派遣
    • [132]中央板紙の王子傘下入りで王子グループの板紙シェアは28%に達し首位に
  • 週刊東洋経済 2002年6月1日号「製紙業界 生産過剰の段ボール原紙で王子製紙も設備休止へ それでも「川下」は苦境続く」
    • [133]2002年 北陽製紙・中央板紙・高崎三興の3社で段ボール原紙の抄紙機3台を休停止し、生産能力の1割にあたる設備を縮小
  • 週刊東洋経済 2000年4月8日号「再編 日本製紙と大昭和製紙が持株会社で経営を統合 どう出る王子、大王製紙」
    • [134]2000年3月 日本製紙と大昭和製紙が共同持株会社での統合を発表、洋紙シェア32.2%・連結売上高1兆2,174億円で王子製紙を抜き首位となる見通し
  • 週刊東洋経済 2001年7月7日号「紙パ アジアで300万トン生産。野心的な中長期計画打ち出す 王子製紙の本音は首位奪還?」
    • [135]2001年6月 大國昌彦前社長から鈴木正一郎氏へ社長交代
    • [136]アジアでの現地生産を年5万トン程度から5年後に100万トン、10年後に300万トンへ拡大する中長期計画
    • [137]当時の洋紙・板紙生産はグループ全体で年間870万トンでほとんどが国内、増産分をほぼ全てアジアの現地生産で賄う計画
    • [138]伸びの見込めない内需に対しアジア市場の取り込みが成長に必要と判断してアジア生産へ急シフト
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [139]2001年5月 高崎三興・中央板紙・北陽製紙との共同出資で段ボール原紙の共同販売会社「王子板紙株式会社」(現 王子マテリア)を設立
    • [140]2001年10月 全国7地区の段ボール子会社7社を1社に統合し商号を「王子コンテナー株式会社」へ変更
    • [141]2002年10月 王子板紙へ段ボール原紙製造部門と高崎三興・中央板紙・北陽製紙・オーアイアールを統合し、段ボール原紙の生産・販売体制を一元化
    • [142]2003年4月 家庭用紙事業を「王子ネピア株式会社」へ統合、2004年10月 特殊紙・フィルム事業を「王子特殊紙株式会社」(現 王子エフテックス)へ統合

日本初の敵対的TOBと、南通の2,000億円

2006年3月期、王子製紙の経常利益は707億円と13%の減益に落ちた[143]。国内需要は頭打ちで、割安な輸入紙の台頭により原燃料高を十分に価格転嫁できなかった[144]ためである。中国での大型進出は政府の許認可の遅れで停滞し、その間に日本製紙・大王製紙・北越製紙がそれぞれ30万トン級の塗工紙設備の増設を発表して、王子は増設競争に出遅れた[145]。2006年7月23日、王子製紙は業界6位の北越製紙に対し、1株860円で発行済株式の50.1%以上を取得する公開買付の方針を発表した[146]。同年3月に打診した経営統合と7月3日のTOB案の申し入れがいずれも受け入れられなかった[147]ことを受けた、日本の大企業間で初の本格的な敵対的買収であった。

  • 週刊東洋経済 2006年8月5日号「製紙再編 敵対的買収を選んだ王子製紙の“焦燥”」
    • [143]2006年3月期 経常利益707億円・13%の減益。国内需要の頭打ちと割安な輸入紙の台頭で原燃料高を価格転嫁できず
    • [144]国内需要は頭打ちで割安な輸入紙が台頭し、原燃料高を十分に価格転嫁できなかった
    • [145]中国大型進出が中国政府の許認可の遅れで停滞する間に日本製紙・大王製紙・北越が30万トン級の塗工紙設備の増設を発表し、王子は増設競争に出遅れた
    • [147]王子は2006年3月に北越へ経営統合を打診し、7月3日にTOB案を申し入れたが受け入れられなかった
    • [146]2006年7月23日 王子製紙が北越製紙への敵対的TOBの方針を発表、買付価格1株860円・買付予定数の下限は発行済株式の50.1%

買付価格860円は7月21日終値に35%のプレミアムを乗せた水準[148]である。紙パルプ世界7位の王子は北越の買収で世界5位に浮上するとし、篠田和久社長は自社の老朽設備を止めて効率の高い北越の新潟工場を活用することなどで3年後の統合効果を75億円と試算[149]し、十分な国際競争力が得られると強調した。北越製紙は三菱商事への第三者割当増資で応じ、時価を7%下回る価格の300億円を引き受けた三菱商事が24.44%の筆頭株主となった[150]。業界2位の日本製紙もTOB阻止を掲げて150億円を投じ北越株を8.85%まで買い集め[151]、王子は9月4日に断念を表明している[152]

  • 週刊東洋経済 2006年8月5日号「製紙再編 敵対的買収を選んだ王子製紙の“焦燥”」
    • [148]買付価格860円は2006年7月21日終値に35%のプレミアムを乗せた水準
    • [149]紙パルプ世界7位の王子は北越買収で世界5位へ浮上、篠田和久社長は老朽設備の停止と北越新潟工場の活用で3年後の統合効果を75億円と試算
  • 週刊東洋経済 2006年9月23日号「際立つ日本紙パ市場の特異性 海外勢も及び腰 悪夢の消耗戦再来」
    • [150]北越製紙は時価を7%下回る価格で三菱商事の第三者割当増資300億円を受け入れ、三菱商事が24.44%の筆頭株主となった
    • [151]日本製紙が「TOB阻止」を掲げて150億円を投じ北越株を8.85%まで買い集めた
  • 日本経済新聞 2006年9月(王子製紙のTOB断念報道)
    • [152]2006年9月4日 王子製紙が北越製紙へのTOB断念を表明

不成立の後、北越製紙は日本製紙連合会の会長を兼ねる王子製紙の鈴木正一郎会長へ辞任を要求し、大王製紙も同調して理事会をボイコットした[153]。王子は2007年10月、中国江蘇省南通市に現地合弁会社の江蘇王子製紙を設立している[154]。計画上の総投資額は約2,000億円で、クラフトパルプからの一貫生産により印刷用紙を主体に年産能力120万トンを見込み[155]、2005年に国家環境保護総局の環境アセスメント認可、2006年に国務院の事業認可を得ていた[156]。中国側との折衝で1号抄紙機の稼働は当初計画の2006年から2011年へずれ込み、生産規模も年60万トンから40万トンへ縮んでいる[157]

  • 週刊東洋経済 2006年11月18日号「ミタルvs.王子製紙 二つのTOB 二つの経営者像」
    • [153]TOB不成立後、北越製紙が日本製紙連合会会長を兼ねる王子製紙の鈴木正一郎会長へ辞任を要求し、大王製紙も同調して理事会をボイコット
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [154]2007年10月 中国江蘇省南通市に現地合弁会社の江蘇王子製紙有限公司を設立
  • 週刊東洋経済 2012年8月3日号「王子製紙を襲った中国リスクの正体」
    • [155]南通プロジェクトの計画上の総投資額は約2,000億円、クラフトパルプからの一貫生産で印刷用紙主体の年産能力120万トン
    • [156]2005年に国家環境保護総局から環境アセスメント認可、2006年に国務院から事業認可を取得
    • [157]中国側との折衝で1号抄紙機の稼働が当初計画の2006年から2011年へ遅れ、生産規模も年60万トンから40万トンへ縮小
  • 週刊東洋経済 2006年8月5日号「製紙再編 敵対的買収を選んだ王子製紙の“焦燥”」
    • [143]2006年3月期 経常利益707億円・13%の減益。国内需要の頭打ちと割安な輸入紙の台頭で原燃料高を価格転嫁できず
    • [144]国内需要は頭打ちで割安な輸入紙が台頭し、原燃料高を十分に価格転嫁できなかった
    • [145]中国大型進出が中国政府の許認可の遅れで停滞する間に日本製紙・大王製紙・北越が30万トン級の塗工紙設備の増設を発表し、王子は増設競争に出遅れた
    • [147]王子は2006年3月に北越へ経営統合を打診し、7月3日にTOB案を申し入れたが受け入れられなかった
    • [148]買付価格860円は2006年7月21日終値に35%のプレミアムを乗せた水準
    • [149]紙パルプ世界7位の王子は北越買収で世界5位へ浮上、篠田和久社長は老朽設備の停止と北越新潟工場の活用で3年後の統合効果を75億円と試算
    • [146]2006年7月23日 王子製紙が北越製紙への敵対的TOBの方針を発表、買付価格1株860円・買付予定数の下限は発行済株式の50.1%
  • 週刊東洋経済 2006年9月23日号「際立つ日本紙パ市場の特異性 海外勢も及び腰 悪夢の消耗戦再来」
    • [150]北越製紙は時価を7%下回る価格で三菱商事の第三者割当増資300億円を受け入れ、三菱商事が24.44%の筆頭株主となった
    • [151]日本製紙が「TOB阻止」を掲げて150億円を投じ北越株を8.85%まで買い集めた
  • 日本経済新聞 2006年9月(王子製紙のTOB断念報道)
    • [152]2006年9月4日 王子製紙が北越製紙へのTOB断念を表明
  • 週刊東洋経済 2006年11月18日号「ミタルvs.王子製紙 二つのTOB 二つの経営者像」
    • [153]TOB不成立後、北越製紙が日本製紙連合会会長を兼ねる王子製紙の鈴木正一郎会長へ辞任を要求し、大王製紙も同調して理事会をボイコット
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [154]2007年10月 中国江蘇省南通市に現地合弁会社の江蘇王子製紙有限公司を設立
  • 週刊東洋経済 2012年8月3日号「王子製紙を襲った中国リスクの正体」
    • [155]南通プロジェクトの計画上の総投資額は約2,000億円、クラフトパルプからの一貫生産で印刷用紙主体の年産能力120万トン
    • [156]2005年に国家環境保護総局から環境アセスメント認可、2006年に国務院から事業認可を取得
    • [157]中国側との折衝で1号抄紙機の稼働が当初計画の2006年から2011年へ遅れ、生産規模も年60万トンから40万トンへ縮小

森林資源企業への組み替えと、国内外損益の逆転

南通の一貫生産は排水の処理を前提としており、誘致の条件として南通市が約100億円を負担する排水パイプライン[158]は、日量15万トンの排水を黄海へ流す計画である。2012年7月28日、排水先の塘蘆港への影響を懸念する群衆が啓東の政府庁舎へ押しかけ、市政府は当日午前中に建設計画の白紙撤回を表明した[159]。王子製紙は同日、南通市の工場の操業を停止したことを明らかにしている[160]。一貫生産の開始は2015年へずれ込み、2016年3月期、王子ホールディングスは中国工場で減損損失551億円を計上した[161]

中国と並行して、王子は原料と包装の拠点を国外へ広げ、2005年12月に段ボール業界第3位の森紙業グループ各社[162]、2010年4月にマレーシアのGS Paper & Packagingの持株会社Paperbox Holdings、2011年8月に同国Harta Packagingグループの持株会社HPI Resourcesの株式を取得している[163]。2011年9月にはブラジルの感熱記録紙・ノーカーボン用紙の製造販売拠点を取得してOji Papéis Especiaisへ商号を変更し[164]、2012年6月に市販パルプメーカーCENIBRAを100%子会社として持つ日伯紙パルプ資源開発を連結子会社化した[165]。2014年12月にはニュージーランド・オーストラリアを拠点とするCarter Holt Harvey Pulp & Paperを取得している[166]。この間の2009年3月期には分割後初の連結純損失63億円を計上し[167]、2012年10月には各事業群の経営責任を明確にするため会社分割で事業を100%子会社へ承継させ、持株会社制へ移行して商号を王子ホールディングスへ改めた[168]

  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [162]2005年12月 段ボール業界第3位(生産量)の森紙業グループ各社の株式を取得
    • [163]2010年4月 マレーシアのGS Paper & Packagingの持株会社Paperbox Holdings、2011年8月 Harta Packagingグループの持株会社HPI Resourcesの株式を取得
    • [164]2011年9月 Fibria Celuloseよりブラジルの感熱記録紙・ノーカーボン用紙の製造販売拠点を取得し「Oji Papéis Especiais Ltda.」へ商号変更
    • [165]2012年6月 国際協力機構よりCENIBRAを100%子会社に持つ日伯紙パルプ資源開発の株式を取得し連結子会社化
    • [166]2014年12月 Carter Holt Harvey Ltd.からニュージーランド・オーストラリアを拠点とするCarter Holt Harvey Pulp & Paper(現 Oji Fibre Solutions)を取得
    • [168]2012年10月 各事業群の経営責任を明確にするため会社分割で事業を100%子会社へ承継させ、持株会社制へ移行し商号を「王子ホールディングス株式会社」へ変更
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)(連結損益計算書)
    • [167]2009年3月期 分割後初の連結純損失63億円(当期純損失6,324百万円)

2019年4月に加来正年[169]、2022年4月に磯野裕之氏が社長に就いた[170]。2022年9月には東南アジア及び中国の6カ国に事業拠点を持つ高機能ラベル印刷加工のAdampakグループの親会社を[171]、2024年4月には世界に先駆けて環境規制が進む欧州のサステナブル包装資材メーカーであるWalkiグループの持株会社を取得している[172]磯野裕之社長は2022年11月のインタビューで、森林資源に根付いた事業運営で代替プラスチック製品や環境配慮型商品を送り出すのがこれからの王子だと語り[173]、2024年7月には次の150年も時代を先取りする方針を掲げた[174]。2024年3月期には国内事業会社の営業利益が648億円と前年比460億円の増益になる一方、海外事業会社は78億円と582億円の減益に落ち、国内外の損益が逆転している[175]。海外の減益はニュージーランドのPanPac社の災害影響70億円と、パルプ市況下落による販売・市況要因358億円[176]が主な内訳である。2025年3月期の連結売上高はWalki社の新規連結やPanPac社の回復などにより1兆8,493億円と1,530億円の増収になった[177]が、国内営業利益はコスト差197億円が値上げ効果を相殺して[178]476億円と172億円の減益に戻り、海外売上高比率は40.8%へ上がった[180][179]

  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第95期(2019年3月期)【役員の状況】
    • [169]2019年4月 加来正年氏が代表取締役社長に就任
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第98期(2022年3月期)【役員の状況】
    • [170]2022年4月 磯野裕之氏が代表取締役社長に就任
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [171]2022年9月 東南アジア及び中国の6カ国に事業拠点を有するAdampakグループの親会社Adampak Pte. Ltd.の株式を取得
    • [172]2024年4月 世界に先駆けて環境規制が進む欧州のサステナブル包装資材メーカーWalkiグループの持株会社Walki Holding Oyの株式を取得
    • [173]磯野裕之社長の発言「森林資源に根付いた事業運営で、代替プラスチック製品や環境配慮型商品などを送り出していくのがこれからの王子」(経済界2022年11月)
    • [174]2024年7月 「次の150年も時代先取り」の方針を表明
  • 王子ホールディングス 2023年度決算説明会資料(2024年5月14日)
    • [175]2024年3月期 国内事業会社の営業利益648億円(前年比+460億円)・海外事業会社78億円(前年比▲582億円)で国内外の損益が逆転
    • [176]2024年3月期 海外減益の内訳はPanPac社(ニュージーランド)の災害影響▲70億円とパルプ市況下落による販売・市況要因▲358億円
  • 王子ホールディングス 2024年度決算説明会(2025年5月13日)
    • [177]2025年3月期 連結売上高1兆8,493億円(前年度比+1,530億円)。Walki社の新規連結・PanPac社の回復・CENIBRA社のパルプ市況上昇が主因
    • [178]2025年3月期 国内コスト差▲197億円(物流費・人件費125億円、グループ本社費55億円、効率他20億円)が値上げ効果を相殺
    • [179]2025年3月期 国内営業利益476億円(前年度比▲172億円)。物流費・人件費などのコスト増が要因
    • [180]2025年3月期 海外売上高比率40.8%(中期経営計画の目標40%を達成)
  • 週刊東洋経済 2012年8月3日号「王子製紙を襲った中国リスクの正体」
    • [158]排水パイプラインは誘致条件として南通市が約100億円を負担して建設し、日量15万トンの排水を黄海へ流す計画
    • [159]2012年7月28日 排水先の塘蘆港への影響を懸念する群衆が啓東の政府庁舎へ押しかけ、市政府は当日午前中に建設計画の白紙撤回を表明
    • [160]2012年7月28日 王子製紙が南通市の製紙工場の操業停止を公表
    • [161]一貫生産の開始は2015年へずれ込み、2016年3月期に中国工場で減損損失551億円を計上
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
    • [162]2005年12月 段ボール業界第3位(生産量)の森紙業グループ各社の株式を取得
    • [163]2010年4月 マレーシアのGS Paper & Packagingの持株会社Paperbox Holdings、2011年8月 Harta Packagingグループの持株会社HPI Resourcesの株式を取得
    • [164]2011年9月 Fibria Celuloseよりブラジルの感熱記録紙・ノーカーボン用紙の製造販売拠点を取得し「Oji Papéis Especiais Ltda.」へ商号変更
    • [165]2012年6月 国際協力機構よりCENIBRAを100%子会社に持つ日伯紙パルプ資源開発の株式を取得し連結子会社化
    • [166]2014年12月 Carter Holt Harvey Ltd.からニュージーランド・オーストラリアを拠点とするCarter Holt Harvey Pulp & Paper(現 Oji Fibre Solutions)を取得
    • [168]2012年10月 各事業群の経営責任を明確にするため会社分割で事業を100%子会社へ承継させ、持株会社制へ移行し商号を「王子ホールディングス株式会社」へ変更
    • [171]2022年9月 東南アジア及び中国の6カ国に事業拠点を有するAdampakグループの親会社Adampak Pte. Ltd.の株式を取得
    • [172]2024年4月 世界に先駆けて環境規制が進む欧州のサステナブル包装資材メーカーWalkiグループの持株会社Walki Holding Oyの株式を取得
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)(連結損益計算書)
    • [167]2009年3月期 分割後初の連結純損失63億円(当期純損失6,324百万円)
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第95期(2019年3月期)【役員の状況】
    • [169]2019年4月 加来正年氏が代表取締役社長に就任
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第98期(2022年3月期)【役員の状況】
    • [170]2022年4月 磯野裕之氏が代表取締役社長に就任
    • [173]磯野裕之社長の発言「森林資源に根付いた事業運営で、代替プラスチック製品や環境配慮型商品などを送り出していくのがこれからの王子」(経済界2022年11月)
    • [174]2024年7月 「次の150年も時代先取り」の方針を表明
  • 王子ホールディングス 2023年度決算説明会資料(2024年5月14日)
    • [175]2024年3月期 国内事業会社の営業利益648億円(前年比+460億円)・海外事業会社78億円(前年比▲582億円)で国内外の損益が逆転
    • [176]2024年3月期 海外減益の内訳はPanPac社(ニュージーランド)の災害影響▲70億円とパルプ市況下落による販売・市況要因▲358億円
  • 王子ホールディングス 2024年度決算説明会(2025年5月13日)
    • [177]2025年3月期 連結売上高1兆8,493億円(前年度比+1,530億円)。Walki社の新規連結・PanPac社の回復・CENIBRA社のパルプ市況上昇が主因
    • [178]2025年3月期 国内コスト差▲197億円(物流費・人件費125億円、グループ本社費55億円、効率他20億円)が値上げ効果を相殺
    • [179]2025年3月期 国内営業利益476億円(前年度比▲172億円)。物流費・人件費などのコスト増が要因
    • [180]2025年3月期 海外売上高比率40.8%(中期経営計画の目標40%を達成)

王子ホールディングスの沿革1873〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
渋沢栄一が「抄紙会社」を設立
東京府下王子村に工場が竣工
「王子製紙」に商号変更
藤原銀次郎が本社支配人に就任
苫小牧工場が竣工
富士製紙・樺太工業を合併★★
終戦により国内生産が激減
集中排除法により3分割、苫小牧製紙として再発足★★
商号を「王子製紙工業」に変更
林木育種研究所を新設
中央研究所を新設
王子労組が145日間のストライキに突入★★
商号を由緒ある「王子製紙」に復活
苫小牧新工場に新1号抄紙機を増設
旧王子3社の合併覚書の取り下げと、同業を一社ずつ吸収する路線への転換分割前の姿へ一括で戻すか、一社ずつ束ね直すか——独占禁止政策が決めた四半世紀の遠回り 詳細を読む★★★
北日本製紙と合併
Carter Oji Kokusaku Pan Pacific Project稼働
日本パルプ工業と合併
千葉一男東洋パルプと合併
千葉一男神崎製紙と合併し「新王子製紙」に商号変更★★
大国昌彦本州製紙との合併と、47年ぶりの「王子製紙」への社名復帰戦後分割の解消は何をもたらしたか——十條を除く2社の再統合と、直後に訪れた国内需要の頭打ち 詳細を読む★★★
鈴木正一郎「王子板紙」を設立
篠田和久森紙業グループ各社の株式を取得★★
篠田和久北越製紙への敵対的TOB(日本初の本格的敵対的買収)国内市場の頭打ちを前に業界首位が仕掛けた統合は、なぜ不成立に終わったか 詳細を読む★★★
篠田和久中国・江蘇省南通への一貫生産工場の建設と、排水パイプライン計画の撤回成長市場に工場を建てるという解はどこで狂ったか——総投資約2,000億円と、地元の反対で覆った前提 詳細を読む★★★
篠田和久初の純損失を計上★★
進藤清貴感熱記録紙拠点を取得
進藤清貴進藤清貴が代表取締役社長に就任
進藤清貴日伯紙パルプ資源開発(CENIBRA親会社)を子会社化
進藤清貴持株会社制に移行し「王子HD」に商号変更★★
矢嶋進Carter Holt Harvey Pulp & Paperを取得★★
磯野裕之磯野裕之が代表取締役社長に就任
磯野裕之Walkiグループ(フィンランド)の株式取得
磯野裕之FY23決算発表、海外パルプ事業が大幅減益
磯野裕之中長期経営計画と連動し配当性向30%→50%へ引き上げ
出典・参考
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-操短にあけくれ」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-急追する新進企業」
  • 私の履歴書 経済人22「田中文雄」(日本経済新聞社、1987年/日本経済新聞1983年10月連載)
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)【沿革】
  • 証券アナリストジャーナル 1970年 第8巻第9号「紙パルプ業界と本州製紙――その現状と将来――」(本州製紙 栖原亮 講演)
  • 日経ビジネス 1979年2月26日号「資源がないのにムダな競争は禁物」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-不況カルテルから設備廃棄へ」
  • 日経ビジネス 1981年10月19日号「“紙の新日鉄”めざし再結集へ 王子系4社が新たに副社長会」
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-増設ラッシュで不況に」
  • 日経ビジネス 1993年11月29日号「旧神崎の財テク損失露見 『信頼』の風土がアダに」
  • 日経ビジネス 1996年4月8日号「新王子製紙 連続合併で見せた『王子』の意地」
  • 日経ビジネス 1995年12月25日号「大国昌彦氏[新王子製紙]再建の名手、『日本的経営』に新風」
  • 日本経済新聞 1996年3月29日「新王子製紙と本州製紙が合併発表、国内トップに」
  • 王子製紙 会社年鑑(連結業績)
  • 週刊東洋経済 1999年5月22日号「再編成 王子製紙が中央板紙を傘下に、板紙業界再編 次の焦点はどこか」
  • 週刊東洋経済 2002年6月1日号「製紙業界 生産過剰の段ボール原紙で王子製紙も設備休止へ それでも「川下」は苦境続く」
  • 週刊東洋経済 2000年4月8日号「再編 日本製紙と大昭和製紙が持株会社で経営を統合 どう出る王子、大王製紙」
  • 週刊東洋経済 2001年7月7日号「紙パ アジアで300万トン生産。野心的な中長期計画打ち出す 王子製紙の本音は首位奪還?」
  • 週刊東洋経済 2006年8月5日号「製紙再編 敵対的買収を選んだ王子製紙の“焦燥”」
  • 日本経済新聞 2006年7月23日「北越製紙に敵対的TOB、王子製紙が方針発表」
  • 週刊東洋経済 2006年9月23日号「際立つ日本紙パ市場の特異性 海外勢も及び腰 悪夢の消耗戦再来」
  • 日本経済新聞 2006年9月(王子製紙のTOB断念報道)
  • 週刊東洋経済 2006年11月18日号「ミタルvs.王子製紙 二つのTOB 二つの経営者像」
  • 週刊東洋経済 2012年8月3日号「王子製紙を襲った中国リスクの正体」
  • 日本経済新聞 2012年7月28日「王子製紙工場の操業を一時停止」
  • 日本経済新聞 2016年2月「王子HD、中国工場で減損損失551億円 16年3月期」
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第101期(2025年3月期)(連結損益計算書)
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第95期(2019年3月期)【役員の状況】
  • 王子ホールディングス 有価証券報告書 第98期(2022年3月期)【役員の状況】
  • 経済界(2022年11月)
  • 日本経済新聞(2024年7月8日)
  • 王子ホールディングス 2023年度決算説明会資料(2024年5月14日)
  • 王子ホールディングス 2024年度決算説明会(2025年5月13日)

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