1873
2月

抄紙会社を創立(旧王子製紙)

国内初の製紙会社を発足

政財界の大物であった渋沢栄一氏は、明治時代初頭において、日本国内に「洋式製紙・印刷」の産業がないことに課題意識を持った。そこで、明治政府に対して官営として製紙事業の立ち上げを立案するものの却下されたため、三井組(のちの三井財閥)・小野組・島田組といった当時の有力商家に出資を働きかけた。

そして、明治5年に三井組・小野組・島田組を中心とした12名の発起人により、王子製紙の前身会社である「抄紙会社(明治9年に製紙会社に商号変更)」を設立した。技術面では、イギリス・アメリカから技術者と機械を導入。生産面では水運の利便性が高い「東京・王子村」に選定し、明治8年5月から王子に新設した製紙工場を稼働した。

なお、設立当時の洋紙原料は「ボロ布」であり、これらの原料が調達しやすい東京に工場を新設する判断に至った。明治時代の諸島において、木材パルプから洋紙を製造する技術は、国内では確立されていなかった。

輸入紙との競争問題

王子製紙は日本初の製紙会社として生産を開始したものの、国内では和紙および輸入紙との競争に直面した。明治時代の初頭は、新聞・雑誌・書籍といった洋紙を大量消費する需要がなく、結果として慢性的な供給過剰に陥った。

加えて、国内の製紙会社による洋紙の品質は、輸入洋紙に比べて低意という課題も存在した。この点に関しては、明治12年に王子製紙は技術者(大川平三郎氏・日本初の製紙技師)を米国に派遣し、技術移転によって解決を試みた。

1873年
2月
抄紙会社を創立(旧王子製紙)
設立発起人 12
1876年
東京・王子に製紙工場を新設
1877年
製紙会社に商号変更
1887年12月
木材パルプ工場を新設(国内初)

明治20年に王子製紙は洋紙原料となる「木材パルプ」を生産するために、静岡県に「気田工場」を新設した。製紙原料が「ボロ布」から「木材パルプ」へと移り変わる転機となり、製紙工場が「大都市」から「木材産出地域」に移転する契機となった。

1893年
商号を王子製紙に変更
1898

国内初のストライキが発生

明治時代を通じて、王子製紙は増資によって経営支配が三井家に推移。三井から専務として藤山雷太氏が派遣され、王子製紙は三井出身の藤山氏・叩き上げの大川氏の2名が専務として経営に従事する体制をとった。

ところが、藤山氏と大川氏の間で意見対立が発生し、深刻な亀裂が生じた。そこで技師として現場に精通していた大川氏は、従業員約100名と共にストライキを実施した上で、技術者を連れて王子製紙を退職。大川氏は独自で製紙会社を全国各地で立ち上げることで、王子製紙と競合関係となった。

なお、藤山雷太専務は、大川氏の離反後の立て直しに苦戦。多くの技師が離反したため、新工場における生産体制が軌道に乗らなかった。

株主である三井財閥は王子製紙の不振を問題視し、増資を通じて株式を取得。王子製紙は三井系の企業として経営支配されるに至った。

1910

苫小牧工場の新設・過剰投資で倒産危機へ

巨額投資により財務体質が悪化。ボロ会社と形容へ

王子製紙は木材パルプ原料を活用した新聞紙の量産を目的として、木材資源が豊富な北海道に工場の新設を決定。原料には蝦夷松などの針葉樹を活用。支笏湖の水利権を獲得した上で、海上輸送の利便性が高い苫小牧に「苫小牧工場」を新設した。

苫小牧工場は新聞用抄紙機を導入して、新聞紙向けの生産に注力する計画であった。しかし、工場新設の設備投資額が当初予定の400万円から、実際には800万円へと膨れ上がったため、王子製紙の財務状況が悪化。王子製紙は「ボロ会社」と呼ばれた。

このため、王子製紙の大株主であった三井財閥は、王子製紙の再建に着手する必要が生じた。

三井物産木材部長・藤原銀次郎氏による再建

三井家は経営危機に瀕していた王子製紙を再建するために、三井物産の木材部長であった藤原銀次郎氏を王子製紙の専務に据えた。藤原銀次郎氏は再建にあたって、設備の縮小ではなく、新設した苫小牧工場の稼働率の改善に着手。あくまで生産性向上によって、収益を好転させることを目論んだ。

この直後、1914年から1919年にかけて第一次世界大戦が勃発し、輸入品途絶により国産品需要が増加すると、王子製紙の業績が好転。戦争が勃発したことによりメディア(新聞紙)の需要が増大し、結果として新聞紙を量産する王子製紙の行政も拡大した。

1919年までに輸入品による新聞紙を駆逐し、王子製紙は国内新聞紙における生産シェア「70%(1919/10/1実業の世界)」を確保するに至った。

1910年
苫小牧工場の新設・財務体質の悪化
企業価値 0
1911年
藤原銀次郎が専務就任
1911年
新聞紙の国内シェア1位
新聞紙・生産シェア 70 %
証言
藤原銀次郎(王子製紙・専務)

(一部現代語訳)そうこうしていると、たまたま王子製紙が、どうにもこうにも、立ち行かぬようになってしまった。何しろ、日露戦争後の反動(不況)の時、苫小牧工場を400万円の予算で作ったものが、実際には800万円もかかって、王子製紙が金融難にぶつかり、にっちもさっちも行かない。(略)うまく行かない。仕方がないからというので、人を物色した結果、僕はその選にあたった。これが、今日の王子と縁を結んだ始まりである。(略)

苫小牧工場が完成して、国内の神の需要に充分応じることができるようになって、外国新聞紙は、輸入しなくなった。一時は外国の紙が少しもこなくなったことさえある。

なんせ、王子製紙を引き受けた時は、王子製紙の株がタダになったことがあるくらいだから、負債ばかりが多くて、収益の上がらないこと甚だしいものであったから、並々ならぬ苦心をしたわけだ。

1933年5月
王子製紙・藤誠志・樺太工業の3社合併
1949年8月
苫小牧製紙(王子製紙)・本州製紙・十條製紙の3社に分割

戦後の財閥解体によって、製紙の国内シェア80%を握る独占企業であった旧王子製紙の解体が決定。苫小牧製紙(1952年に商号を王子製紙に変更)・本州製紙・十條製紙の3社に分割され、14工場が割り振られた。このうち、王子製紙は1工場(苫小牧)、十條製紙は7工場(十條・伏木・都島・小倉・八代・坂本・釧路)、本州製紙には6工場(江戸川・富士・岩淵・中津・淀川・熊野)が継承された。

王子製紙が継承したのは、旧王子製紙における最大の製紙工場であった「苫小牧工場」であり、大規模拠点であるため1工場のみの継承となった。

1952年6月
商号を「王子製紙工業」に変更

財閥商号使用禁止令の廃止を受けて、1952年に商号を「苫小牧製紙」から「王子製紙工業」に変更

1952年
6月
商号を「王子製紙工業」に変更
1960年
12月
商号を「王子製紙」に変更
1953年3月
愛知県に春日井工場を新設

王子製紙は財閥解体によって「苫小牧工場」の1拠点体制であったため、拠点を拡大するために愛知県に工場新設を決定。1953年に春日井工場を新設し、晒クラフト法による上質紙の量産を開始した。

1970年9月
北日本製紙と合併
1979年3月
日本パルプ工業と合併
1989年4月
東洋パルプと合併
1993年10月
神崎製紙と合併・商号を新王子製紙に変更
1996年10月
本州製紙と合併・商号を王子製紙に変更
2001年5月
段ボール原紙メーカーを再編
2005年
森紙業グループの株式取得(段ボール製造)
2006年7月
北越製紙へのTOBを宣言(不成立)
2008年
中国に現地法人「江蘇王子製紙」を設立
2012年10月
持ち株会社制に移行・商号を王子ホールディングスに変更
2014年4月
CHH社の紙パルプ段ボール事業を買収(923億円)
2022年
Adampakの株式取得