1873年〜 洋紙の国産化と、原料を求めた北海道・樺太への進出
- 1873年 渋沢栄一が「抄紙会社」を設立
- 1875年 東京府下王子村に工場が竣工
- 1893年 「王子製紙」に商号変更
- 1898年 藤原銀次郎が本社支配人に就任
- 1910年 苫小牧工場が竣工
抄紙会社の創立と、パルプ原料の転換
1873年2月、渋沢栄一氏らは資本金15万円で抄紙会社を創立した[1]。工場の敷地は東京・王子村に定められ、1875年6月に竣工[2]している。翌1876年には社名を製紙会社へ改めた[3]。当時の国内市場は安価な輸入洋紙に押され、明治初年の政府紙幣にはドイツ製、金札引換証券にはアメリカ製の紙が用いられていた[4]。関税自主権を持たない日本には高関税で輸入品を抑える道がなく[5]、洋紙の生産技術を自ら移入して対抗するほかない事情があった。創業から1875年までに4万円以上の赤字を出した抄紙会社を支えたのは、紙幣寮からの地券・印紙用紙の注文[6]である。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [1]1873年2月 渋沢栄一氏らが資本金15万円で抄紙会社を創立
- [2]工場敷地は東京・王子村、1875年6月に竣工
- [3]1876年 社名を「製紙会社」へ改称
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [4]明治初年の政府紙幣にドイツ製、金札引換証券にアメリカ製の紙を使用
- [5]関税自主権が無く高関税で輸入品を抑えられないため、洋紙の生産技術の導入で対抗
- [6]発足から1875年まで4万円以上の赤字、紙幣寮からの地券・印紙用紙の注文が経営を支えた
欧米の製紙はボロを主原料としており[7]、その入手が限界に達して値段も急騰していた。打開策として開発された麦わらを混ぜる技法を持ち帰ったのが、1879年にアメリカへ派遣された大川平三郎氏[8]である。渋沢栄一氏は後年、わらが紙になるとはその時分は思わなかったと回想している[9]。1883年2月にわら釜一式が完成し、1886年10月には天竜川上流の気多村大字気田に工場の新設が決まった[10]。わが国初の木材パルプ工場は1890年2月に完成し[11]、1893年11月、社名は王子製紙へ改まった。
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [7]欧米の製紙はボロが主原料で入手が限界に達し価格も急騰、打開策として麦わら混入法を開発
- [8]1879年 大川平三郎氏をアメリカへ派遣し、麦わらを混ぜる新技法を移入
- [9]渋沢栄一氏の回想「わらが紙になるなどそれこそ切支丹の法かとその時分は思った」
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [10]1883年2月 わら釜一式が完成、1886年10月 天竜川上流の気多村大字気田に工場新設を決定
- [11]1890年2月 わが国初の木材パルプ工場が完成、1893年11月 社名を「王子製紙株式会社」へ改称
三井が経営権を握る過程[12]は、社内の対立を伴った。1893年の設備拡張にあたり増資を三井へ相談したことを機に[13]、中上川彦次郎氏は渋沢栄一氏の握る実権を三井へ移そうと図り、送り込まれた藤山雷太氏と専務の大川平三郎氏が激しく対立した[14]。1898年、それまで藤山氏とともに専務であった大川氏が取締役へ格下げとなると、これに反対する技術者たちが工員をそそのかし、150余人によるストライキが起きた[15]。争議は渋沢栄一氏と大川平三郎氏の辞任で収拾され[16]、三井の計画は成功した。同年9月に本社支配人となった藤原銀次郎氏が争議の収拾にあたり[17]、王子は三井の系列下に入った。
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [12]三井による王子製紙の経営権掌握は、渋沢栄一氏の実権を奪う工作と社内対立を伴って進んだ
- [13]1893年の設備拡張で三井へ増資を相談したことが、三井による実権掌握の端緒
- [14]中上川彦次郎氏が渋沢栄一氏の実権を三井へ移そうと図り、派遣された藤山雷太氏と専務の大川平三郎氏が対立
- [15]1898年 大川平三郎氏が専務から取締役へ格下げ、技術者が工員を動かし150余人のストライキが発生
- [16]争議は渋沢栄一氏・大川平三郎氏の辞任で収拾し、三井の計画が成功
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [17]1898年9月 藤原銀次郎氏が本社支配人に就任してスト収拾にあたり、王子は三井の系列下に入った
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [1]1873年2月 渋沢栄一氏らが資本金15万円で抄紙会社を創立
- [2]工場敷地は東京・王子村、1875年6月に竣工
- [3]1876年 社名を「製紙会社」へ改称
- [10]1883年2月 わら釜一式が完成、1886年10月 天竜川上流の気多村大字気田に工場新設を決定
- [11]1890年2月 わが国初の木材パルプ工場が完成、1893年11月 社名を「王子製紙株式会社」へ改称
- [17]1898年9月 藤原銀次郎氏が本社支配人に就任してスト収拾にあたり、王子は三井の系列下に入った
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-輸入紙と苦しい戦い」
- [4]明治初年の政府紙幣にドイツ製、金札引換証券にアメリカ製の紙を使用
- [5]関税自主権が無く高関税で輸入品を抑えられないため、洋紙の生産技術の導入で対抗
- [6]発足から1875年まで4万円以上の赤字、紙幣寮からの地券・印紙用紙の注文が経営を支えた
- [7]欧米の製紙はボロが主原料で入手が限界に達し価格も急騰、打開策として麦わら混入法を開発
- [8]1879年 大川平三郎氏をアメリカへ派遣し、麦わらを混ぜる新技法を移入
- [9]渋沢栄一氏の回想「わらが紙になるなどそれこそ切支丹の法かとその時分は思った」
- [12]三井による王子製紙の経営権掌握は、渋沢栄一氏の実権を奪う工作と社内対立を伴って進んだ
- [13]1893年の設備拡張で三井へ増資を相談したことが、三井による実権掌握の端緒
- [14]中上川彦次郎氏が渋沢栄一氏の実権を三井へ移そうと図り、派遣された藤山雷太氏と専務の大川平三郎氏が対立
- [15]1898年 大川平三郎氏が専務から取締役へ格下げ、技術者が工員を動かし150余人のストライキが発生
- [16]争議は渋沢栄一氏・大川平三郎氏の辞任で収拾し、三井の計画が成功
苫小牧工場という賭けと新聞用紙の自給
三井の資本が入っても業績は好転しなかった[18]。三井の首脳である益田孝氏は製紙業にはこりごりしたと嘆き[19]、大川平三郎氏に代わって専務となった藤山雷太氏は1902年に辞任した。後任の鈴木梅四郎氏のもとでも不振は続き、資本金200万円を50万円へ切り下げる措置[21]をとっている。事態を変えたのは日露戦争で、新聞・雑誌の発行が急増し、出版史上このときほど用紙の不足に悩んだことはないといわれるほどの需要が起きた[22]。1901年以来停滞していた洋紙の輸入量は以前の二倍へ戻り、既存の製紙会社の工場増設と新会社の設立が相次いだ[23]。 [20]
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
- [18]三井・岩崎など大資本の進出によっても製紙業経営の改善はただちには実現しなかった
- [19]三井首脳の益田孝氏が「製紙業にはこりごりした」と嘆いた
- [20]大川平三郎氏に代わり専務となった藤山雷太氏が1902年に辞任、後任は鈴木梅四郎氏
- [21]業績不振により資本金200万円を50万円へ切り下げ
- [22]日露戦争で新聞・雑誌の発行が著増し、出版史上まれな用紙不足が発生
- [23]停滞していた洋紙輸入量が以前の二倍へ増加し、工場増設と新会社設立が相次いだ
鈴木梅四郎氏は新聞巻取紙の新工場を北海道に建てる決意を固め、三井を説得し続けた[24]。王子は1880年代に天竜川流域の山林を買収して気田・中部の両工場を建てたものの、たび重なる水害で損失を重ねており[25]、北海道への進出はその打開策でもあった。1904年ごろから準備に入り、水力発電の開発と原料木材の採取に最適の地として苫小牧を選び、1906年に建設地を決めて資本金を一挙に600万円へ引き上げた[26]。海岸にこぼれている砂利を拾い集めてコンクリートに充てるほどの難工事となり、当初400万円の予算はほぼ2倍へ膨らんだ[27]。資金難は三井銀行からの借入で凌ぎ、1910年9月に苫小牧工場が完成した[28]。据えられた142インチ幅の抄紙機はアメリカでも最大最新式とされ[29]、江別・苫小牧両工場の運転開始により製紙業は新聞用紙の自給を実現した[30]。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [24]鈴木梅四郎氏が新聞巻取紙の新工場を北海道に建設する決意を固め、三井を説得
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
- [25]1880年代に天竜川流域の山林を買収し気田・中部両工場を建設したが水害で損失を重ね、北海道進出はその打開策
- [26]1904年ごろ準備着手、水力発電と原料木材に最適の地として苫小牧を選定、1906年に建設地決定・資本金600万円へ増資
- [27]苫小牧海岸の砂利を拾い集める難工事となり、当初予算400万円のほぼ2倍を投下
- [28]資金難は三井銀行からの借入で解決し、1910年9月に苫小牧工場が完成
- [29]苫小牧に据えた142インチ幅の抄紙機はアメリカでも最大最新式(従来の輸入抄紙機は100インチ幅)
- [30]江別・苫小牧両工場の運転開始により、それまで輸入に依存していた新聞用紙の自給を実現
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
- [18]三井・岩崎など大資本の進出によっても製紙業経営の改善はただちには実現しなかった
- [19]三井首脳の益田孝氏が「製紙業にはこりごりした」と嘆いた
- [20]大川平三郎氏に代わり専務となった藤山雷太氏が1902年に辞任、後任は鈴木梅四郎氏
- [21]業績不振により資本金200万円を50万円へ切り下げ
- [22]日露戦争で新聞・雑誌の発行が著増し、出版史上まれな用紙不足が発生
- [23]停滞していた洋紙輸入量が以前の二倍へ増加し、工場増設と新会社設立が相次いだ
- [25]1880年代に天竜川流域の山林を買収し気田・中部両工場を建設したが水害で損失を重ね、北海道進出はその打開策
- [26]1904年ごろ準備着手、水力発電と原料木材に最適の地として苫小牧を選定、1906年に建設地決定・資本金600万円へ増資
- [27]苫小牧海岸の砂利を拾い集める難工事となり、当初予算400万円のほぼ2倍を投下
- [28]資金難は三井銀行からの借入で解決し、1910年9月に苫小牧工場が完成
- [29]苫小牧に据えた142インチ幅の抄紙機はアメリカでも最大最新式(従来の輸入抄紙機は100インチ幅)
- [30]江別・苫小牧両工場の運転開始により、それまで輸入に依存していた新聞用紙の自給を実現
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [24]鈴木梅四郎氏が新聞巻取紙の新工場を北海道に建設する決意を固め、三井を説得
樺太の森林資源の確保と、操短の常態化
1911年、藤原銀次郎氏が専務に復帰した[31]。日露戦争で日本領となった南樺太へ製紙業は北進し、三井は1913年に大泊へ紙料工場を建設したが、パルプ製造が計画通りに進まず、開業早々に王子製紙へ合併されて藤原氏の経営下に入った[32]。樺太庁長官が木材の無償給付を申し出たのに対し、藤原氏はただほど高いものはないとして、尺締め5銭で20年の契約を結んでいる[33]。長期かつ安価な払い下げを得た王子・富士・樺太工業の各社は、第一次大戦中のパルプ輸入難による値上がりのなかで他社に抜きんでた利益を上げた[34]。4分の配当を続けていた王子製紙は、1920年上期に5割の高配当を行っている[35]。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [31]1911年 藤原銀次郎氏が専務に復帰
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
- [32]1913年 三井が樺太・大泊に紙料工場を建設するもパルプ製造が計画通りに進まず、開業早々に王子製紙へ合併され藤原銀次郎氏の経営下に
- [33]樺太庁長官の木材無償給付の申し出に対し、藤原銀次郎氏は尺締め5銭・20年の契約を結んだ
- [34]パルプ自給体制を持つ王子・富士・樺太工業の各社が第一次大戦中のパルプ輸入難で他社にぬきんでた利益を計上
- [35]4分配当を続けていた王子製紙が1920年上期に5割配当
大戦景気は1920年3月末の株式崩落で終わり[36]、製紙業界は操短の時代へ入った。日本製紙連合会は同年12月、滞貨の調整と市価維持のために業界初の生産制限へ踏み切り、主要12社が2割の義務操短に参加した[37]。効果は在庫の減少に表れ、1922年3月に1割へ切り替えたのち同年12月にいったん解除している[38]。1923年9月の関東大震災では製紙会社の損害は比較的軽く、大部分が1カ月たたずに運転を再開した[39]。焼失した紙がちょうど1カ月の生産高に相当したことと、為替暴落による輸出増が重なり、売れ行きは異常な増加を示した[40]。
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-操短にあけくれ」
- [36]1920年3月末の株式崩落で大戦景気が終わり、製紙業界は操短の時代へ
- [37]1920年12月 日本製紙連合会が業界初の生産制限を決定、主要12社が義務操短率2割で参加
- [38]在庫が減少し1922年3月に1割操短へ切り替え、同年12月にいったん解除
- [39]1923年9月の関東大震災では製紙会社の損害は比較的軽く、大部分が1カ月たたずに運転再開
- [40]焼失した紙は1カ月の生産高に相当し、在庫の激減と為替暴落による輸出増が重なって売れ行きが異常に増加
王子を去った大川平三郎氏は1913年に樺太工業を設立し、1919年には富士製紙の社長にも就いて王子へ対抗した[41]。王子が豊原工場を増設すれば真岡にパルプ工場を建てるという増設の応酬が続き、樺太工業は大増設と金解禁後の不況によって1億数千万円の負債を抱えた[42]。1930年初め、カナダの製紙会社が内地紙より2割安い値段で朝日・毎日などの大新聞へ新聞用紙のダンピングを仕掛け[43]、王子・富士・樺太工業の3社は申し出値どおりで受け渡すことを承知せざるをえなかった。最新鋭を誇る苫小牧工場までが安売り期間中は赤字を続ける[44]なか、藤原銀次郎氏は原因を三社分立の弱さと見て、三井財閥を後ろ盾に合併への志を固めた[45]。
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-操短にあけくれ」
- [41]大川平三郎氏が1913年に樺太工業を設立、1919年に富士製紙の社長へ就任して王子に対抗
- [42]王子の豊原工場増設に大川平三郎氏が真岡のパルプ工場で応じる増設競争が続き、樺太工業は大増設と金解禁後の不況で1億数千万円の負債
- [43]1930年初め カナダの製紙会社が内地紙より2割安い値段で朝日・毎日など大新聞へ新聞用紙をダンピング、王子・富士・樺太工業の3社は申し出値での受け渡しを承知
- [44]安売り期間中は最新鋭の苫小牧工場も赤字が続いた
- [45]藤原銀次郎氏が不振の原因を三社分立の弱さと考え、三井財閥を背景に合併への志を固めた
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [31]1911年 藤原銀次郎氏が専務に復帰
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-原料求め北へ北へ」
- [32]1913年 三井が樺太・大泊に紙料工場を建設するもパルプ製造が計画通りに進まず、開業早々に王子製紙へ合併され藤原銀次郎氏の経営下に
- [33]樺太庁長官の木材無償給付の申し出に対し、藤原銀次郎氏は尺締め5銭・20年の契約を結んだ
- [34]パルプ自給体制を持つ王子・富士・樺太工業の各社が第一次大戦中のパルプ輸入難で他社にぬきんでた利益を計上
- [35]4分配当を続けていた王子製紙が1920年上期に5割配当
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製紙-操短にあけくれ」
- [36]1920年3月末の株式崩落で大戦景気が終わり、製紙業界は操短の時代へ
- [37]1920年12月 日本製紙連合会が業界初の生産制限を決定、主要12社が義務操短率2割で参加
- [38]在庫が減少し1922年3月に1割操短へ切り替え、同年12月にいったん解除
- [39]1923年9月の関東大震災では製紙会社の損害は比較的軽く、大部分が1カ月たたずに運転再開
- [40]焼失した紙は1カ月の生産高に相当し、在庫の激減と為替暴落による輸出増が重なって売れ行きが異常に増加
- [41]大川平三郎氏が1913年に樺太工業を設立、1919年に富士製紙の社長へ就任して王子に対抗
- [42]王子の豊原工場増設に大川平三郎氏が真岡のパルプ工場で応じる増設競争が続き、樺太工業は大増設と金解禁後の不況で1億数千万円の負債
- [43]1930年初め カナダの製紙会社が内地紙より2割安い値段で朝日・毎日など大新聞へ新聞用紙をダンピング、王子・富士・樺太工業の3社は申し出値での受け渡しを承知
- [44]安売り期間中は最新鋭の苫小牧工場も赤字が続いた
- [45]藤原銀次郎氏が不振の原因を三社分立の弱さと考え、三井財閥を背景に合併への志を固めた