畑崎廣敏氏(当時22歳)と木口衛氏の2名は、勤務先の光商会(セーターの卸売業)を退職。セーターの卸を行うワールドを神戸市内に設立した。当時のニット製品の卸売業は独立が当たり前の業界であり、起業は珍しい選択ではなかった。仕入れ面ではメーカー開拓、販売面では小売店舗の開発をそれぞれ地道に行い、全国を飛び回ったという。
従来のセータ卸の商習慣では「小売店は在庫リスクを負わずに、売れた時に問屋に支払う」のが一般的だったが、ワールドは「小売店が返品する商習慣」に疑問を抱いた。そこで、小売店に対して「買取制」を導入。ワールドは売れる商品の企画に注力することで、企画開発力のある異色の問屋として、徐々に業容を拡大した。買取制の売上は、開始から2年後の1965年頃から軌道に乗ったという。
1975年に小売店リザの展開を開始したが、販売店からの猛反発により本格投資は見送りへ
1976年7月期にワールド(当時非上場)は、売上高422億円・税引前利益63億円を達成。高収益と急成長を両立するアパレル企業として注目を浴びた。利益を重視する経営方針は、畑崎氏の「利益なき成長はリスク」という考えに基づく。
会社にしても、売上にしても、うちは大きくしたという気持ちで全然やってきてないんですよ。売り上げが、300億円から500億円になったとしますね。これは、大変、危険が増すわけです。もし、利益を伴わなかったら大変なことになる。よく、あなたのところは大きくなったわりに利益率が落ちませんね、なんて行ってもらうが、そこが私にはわからない。利益が伴わずに大きくなったら最悪ですよ。何か問題があったら、危険も大きいわけです。利益率を落としてまでも売ってはいけないと思っています。
神戸市が開発した人工島「ポートアイランド」に本社を新設。この頃の社員向けの福利厚生は、月3000円で社内食堂の食べ放題、スポーツ施設の利用自由など。関西圏においてワールドは「女子大生の間で就職先としての人気ナンバーワン」(1984/4/16日経ビジネス)の会社となった。
ワールドの売上を牽引してきた「コルディア」「ルイシャンタン」の2つのブランドが減収。急成長に終止符を打った
減収減益に歯止めをかけるために、畑崎社長は経営方針「スパークス構想」を公表。製造・小売・販売を全てワールドが関与することで、顧客ニーズにあった商品の投入を目論んだ。この具現化策として「25歳以下の女性」「販路は百貨店・ショッピングセンター」をターゲットに据え、新しい独自ブランドによるSPAに基づく小売業への参入準備を進めた。
20代向けレディースファッションブランドとして展開。当初は売り上げが低迷するも、積極的なTVCM、有名デザイナーの起用などにより1996年頃から成長軌道に
1959年の会社設立以来、初となる最終赤字に転落。
ワールドはMBOを決定。株式の買い取り価格2300億円のうち、80%は銀行借入(会社負担)による捻出としたため、財務体質の悪化を伴った上場廃止となった。