歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1959年、問屋からの独立が珍しくない関西ニット業界で、光商会を退いた畑崎廣敏氏と木口衞氏が神戸でセーター卸の株式会社ワールドを創業した。転機は1962年の買取制で、売れ残りを問屋が引き取る返品制が常識の卸売業で、在庫リスクを小売店に負わせる代わりに、自社は売れる商品の企画開発に責任を負う。卸の競争を、在庫を抱える財務力から商品を当てる編集力へ反転させ、利益率15%前後の高収益問屋へ伸びた。
決断1992年に畑崎社長が掲げたスパークス構想が、いまに続く収益構造を決めた。買取制で築いた企画に責任を持つ卸を、製造から小売まで自社が担うSPAへ延ばし、年代やテイスト別のブランドを百貨店フロアに並べる多ブランド展開を確立した。連結3,000億円規模を生んだ一方、約40まで膨らんだブランドの乱立と百貨店依存で、利益率は往時の10%台から数%へ沈み、2005年のMBOでは多額の借入も抱え込んだ。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1962年に問屋の常識だった返品制を捨て買取制へ転じたのか
- A 1962年、ワールドの畑崎廣敏氏は、売れ残りを問屋が引き取る返品制では在庫リスクを自社が負い続けると見て、小売店に商品を買い取らせる買取制へ転じた。在庫リスクを小売へ移す代わりに、自社は売れる商品の企画開発に責任を負い、卸の競争を在庫を抱える財務力からヒット商品を当てる編集力へ反転させる狙いだった。1971年7月期に売上49億円・税込利益5.5億円だった単体は、1976年7月期に売上422億円・税込利益63.1億円へ伸び、利益率15%前後の高収益問屋となった。
- Q なぜ2005年に売上3,000億円規模の上場企業の座を捨てMBOで非公開化したのか
- A 2005年11月、寺井秀蔵社長と畑崎一族は、短期的な業績向上を求める投資家のもとでは変化に即した事業戦略を実行しにくく、中長期の収益基盤を築けないと判断し、MBOで上場を廃止した。「長期的、持続的な企業価値の最大化を図るため」と公表し、市場の短期圧力から離れて事業ポートフォリオの再構築を進める狙いだった。買収総額は約2,300億円に達し、その約80%を会社負担の銀行借入で賄った結果、無借金経営に近かった財務体質は有利子負債2,000億円規模を抱える構造へ変質した。
- Q なぜ2022年以降、自社で服を作る会社から買収で機能会社を束ねる事業持株会社へ転じたのか
- A 自社開発のSPAだけでは伸びにくくなった2010年代の構造不振を受け、鈴木信輝社長は不足する機能を外部企業の買収で補い、ファッション・エコシステムへ事業を組み替えた。2022年にナルミヤ・インターナショナルを33億円のTOBで子会社化し、2023年にストラスブルゴ、2025年にデジタルのOpenFashionと縫製のワールドソーイングを取り込んだ。旧三菱商事ファッションの取り込みでは負ののれん益52億円を計上し、自社で服を作り売る会社から、買い集めた機能会社を束ねる事業持株会社へ中身を入れ替えた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1959年〜1991年 セーター卸の独立から日本最大の利益率を誇るアパレル企業へ
「買取制」逆張りで作った企画卸の競争優位
1959年1月、神戸市生田区(現中央区)でセーター卸売業の株式会社ワールドが設立された[1]。創業者は当時22歳の畑崎廣敏氏と木口衞氏で、両名は神戸の繊維商社「光商会」(セーターの卸売業)を退職して独立した[2]。当時の関西ニット業界では卸売業からの独立は珍しい選択ではなく、メーカーと小売店を仲介する問屋業務は分業構造として確立していた。資本金200万円でスタートしたワールドは、[3]創業時から仕入れ面では国内ニットメーカーの開拓、販売面では全国の小売店の開拓をそれぞれ地道に進め、創業者2名が全国を回って取引先を広げる出発期を過ごした。神戸という立地は当時のアパレル業界では生産地と消費地のあいだに位置する中継地点であり、関東・関西・四国・九州の小売網にアプローチしやすい商業地としての強みを持っていた。
1962年、ワールドは小売店に対する「買取制」を導入した。当時の卸売業界の商習慣は、小売店が問屋から商品を仕入れたあと売れ残りを返品できる「委託販売制」「返品制」が中心で、在庫リスクは問屋側が負う構造だった。畑崎氏はこの商習慣に疑問を抱き、「小売店が買い取り、問屋は売れる商品の企画開発に責任を負う」という逆方向の役割分担を提案した。買取制は小売店側に在庫リスクを負わせる代わりに、問屋側は仕入れ品の選定と企画開発に専念し、ヒット商品を作る編集力で差別化する仕組みであった。導入から2年後の1965年頃から軌道に乗り、ワールドは「企画開発力のある異色の問屋」として業界内で頭角を現した。買取制は単なる商取引慣行の逆転にとどまらず、卸売の競争軸を「在庫リスクを引き受ける財務力」から「ヒット商品を企画する開発力」へ転換する経営戦略上の選択であった。
1970年代に入ると、ワールドは買取制の競争優位を活かして急成長軌道に乗った。1971年7月期の売上高49億円・税込利益5.5億円から、[4]1976年7月期には売上高422億円・税込利益63.1億円と5年間で売上を約9倍に伸ばした[5]。利益率は15%前後の高水準を保ち、[8]当時のアパレル業界では群を抜く収益性を確保していた。畑崎氏は「利益なき成長はリスク」という経営方針を貫き、規模を追わずに利益率重視の経営を選んだ。1976年時点のワールドは非上場のまま売上422億円・利益63億円という財務体質を持ち、関西アパレル界では「女子大生の間で就職先としての人気ナンバーワン」(日経ビジネス 1984/4/16)と言われる存在となっていた。1978年7月期の売上高は550億円・税込利益87億円、[6]1981年7月期には905億円・経常利益159億円と、[7]創業から22年で売上1,000億円を窺う規模に到達した。
製縫進出と神戸ポートアイランド本社竣工
1970年代後半から1980年代前半にかけて、ワールドは事業ドメインの垂直統合を進めた。1974年に子供服分野へ進出、[9]1975年に小売業の子会社「リザ」を設立して直営店展開を始めたが、[10]販売店からの猛反発を受けて本格投資は見送られた。1978年にはメンズ・スポーツウェア分野へ進出し、同年に縫製分野への垂直統合も開始した[11]。1980年には繊維商社の株式会社ワールドテキスタイル、1980年11月には縫製の株式会社ワールドインダストリーを相次いで設立し、[12]繊維素材から縫製までを内製化する構造を組み上げた。1981年4月には百貨店市場への進出を目的に株式会社ノーブルグーを設立し、[13]販路としても卸売中心から小売・百貨店向けへの拡張を進めた。
1982年4月、ワールド単体の売上高は1,000億円を突破した[14]。創業から23年での1,000億円達成は、利益率重視で規模を後追いさせるワールドの経営方針からすると相当に急速な伸びだった。1984年3月、神戸市中央区港島中町(ポートアイランド)に新社屋を竣工し、本社を移転した[15]。神戸市が開発した人工島ポートアイランドへの本社移転は、関西を代表する企業としての存在感を象徴する立地選択であった。社員向け福利厚生として月3,000円で社内食堂の食べ放題、スポーツ施設の無料利用などを整え、関西では「女子大生の就職人気No.1」企業となった。
ただし1984年7月期の半ばから、ワールドの主力レディースブランド「コルディア」「ルイシャンタン」の2大ブランドが減収に転じた。創業以来続いた急成長は1984年から1986年にかけて鈍化し、1986年7月期の売上高1,414億円・経常利益235億円を1つの天井として、[16]その後数年は横ばい〜微減基調に転じた。同時期、ワールドは1987年に上海世界時装有限公司を合弁設立し、生産機能の海外展開を開始した[17]。買取制で作ったヒット商品開発力が、生産網の海外化と並行して国内アパレル業界に広く模倣されるなかで、競争優位の源泉が相対的に薄れつつあった時期である。
「スパークス構想」とSPA転換の準備
1992年1月、畑崎社長は中期経営ビジョン「スパークス(SPARCS)構想」を発表した[18]。SPARCSとは「Super(卓越した)・Production(生産)・Apparel(アパレル)・Retail(小売)・Customer Satisfaction(顧客満足)」の頭文字で、製造・小売・販売をすべてワールドが関与し、顧客起点で小売から生産までを一気通貫させる仕組みを意味した。当時の海外ではZARAやH&MがSPA(製造小売一体)モデルで急成長を始めており、ワールドはこの仕組みを日本アパレル市場に持ち込む構想を掲げた。畑崎氏が買取制で築いた「企画開発力に責任を持つ問屋」の延長線上に、製造・販売も自社で担うSPA企業への転換を位置付けた。スパークス構想は単なる新ブランド投入ではなく、ワールドの事業ドメインそのものを「卸売中心」から「製造小売一体型SPA」へ組み替える方針宣言であった。
スパークス構想の具現化策として、ワールドは1993年に新業態事業部を設置し、20代向けレディースファッション「OZOC」をSPAモデルで立ち上げた。当初は売上が低迷したものの、積極的なテレビCMと有名デザイナーの起用、ショッピングセンター中心の出店戦略が組み合わさり、1996年頃からOZOCは年間販売高100億円を突破する主力ブランドへ成長した。OZOCの成功はワールドのSPA転換の象徴であり、卸売主体の事業構造から自社ブランドのSPA展開を主力とする構造への転換が、1990年代を通じて進められた。並行してインディヴィ・タケオキクチ・アンタイトル・アンタイトルなど、年代・テイスト別に複数ブランドを並列展開する手法を確立し、デパート内のフロア区画ごとに異なるブランドを並べる「ブランドポートフォリオ展開」がワールドの代名詞となっていった。
1993年11月、ワールドは大阪証券取引所市場第2部に株式上場した[19]。創業から34年での上場であり、関西アパレル業界では遅めの上場時期にあたる。1995年3月期には創業以来初の最終赤字71億円に転落したが、これはゴルフ場開発の中止に伴う特別損失計上が主因だった[20]。1998年6月、畑崎氏の義弟である寺井秀蔵氏が代表取締役社長に就任した。同年12月には東京証券取引所市場第2部に上場、翌1999年9月には大証・東証ともに市場第1部銘柄に指定された[21]。上場から6年で東証一部入りした経緯であり、ワールドは関西の中堅アパレル企業から、東京中心の上場アパレル大手へと立ち位置を移した。1999年3月期の連結売上高2,061億円、純利益31億円という業績は、[22]創業40年で日本のアパレル業界における大手の一角としての規模を確立したことを意味した。
1992年〜2014年 MBOによる非上場化と寺井社長の体制で表面化した構造課題
2,300億円MBOで実現した非公開化と財務体質悪化
2000年代前半、ワールドは複数ブランドを束ねるSPA企業として連結売上高2,000億円超を維持していた。FY03(2004年3月期)の連結売上高2,362億円、純利益72.6億円、[23]FY05(2006年3月期)の売上高2,899億円、純利益157.8億円と業績は安定的に推移していた[24]。一方で、株式市場における株価は当時の業績水準に対して低位に置かれていたとされ、寺井社長と畑崎一族の経営陣は、上場維持コストと短期業績への市場圧力を回避する選択肢としてMBO(経営陣による買収)を検討した。買収総額約2,300億円という当時の日本企業のMBOとしては最大級の案件にあたり、[25]米系ファンドのバークレイズ・キャピタル・ジャパンなどがMBO参加ファンドとして関与した。
2005年11月、ワールドは「長期的、持続的な企業価値の最大化を図るため」と公表したMBOによる株式の公開買付を実施し、上場を廃止した[26]。株式の買い取り価格は約2,300億円規模に達し、そのうち約80%は銀行借入(会社負担)で調達した構造となった[27]。MBOによる非公開化は、株主構成を経営陣・畑崎一族・MBO参加ファンドに集約し、長期的視点での事業再構築を可能にする狙いだったが、買収資金の大半を会社負担の借入で賄ったため、ワールドのバランスシートは一気に重い財務レバレッジを抱える形に変わった。MBO直後のワールドの有利子負債は2,000億円規模に達し、創業以来培ってきた無借金経営に近い財務体質は、MBO実行を境に有利子負債2,000億円規模を抱える構造へ変質した。
2006年4月には株式会社ハーバーホールディングスアルファ(同日付で商号をワールドに変更)と合併し、MBO後の組織再編を完了させた[28]。2007年4月には子会社の株式会社プライムキャストを「株式会社ワールドプロダクションパートナーズ(WP2)」に商号変更し、[29]生産機能のグループ内拠点として位置付け直した。同社の生産哲学「販売と生産における機会ロスと在庫ロスの削減を目的に、素材開発・生産から店頭への物流まで商品に関わるすべての流れを、店頭の動きと同期化する」というSPA構想を、組織構造として整える時期でもあった。FY06(2007年3月期)の連結売上高3,334億円、純利益51億円、[30]FY07(2008年3月期)の売上高3,582億円、純利益57億円と、[31]規模拡大は継続したが、純利益率は2%前後と過去の利益率10%水準から約8ポイント低下した。
2期連続最終赤字とブランド乱立の構造的不振
2010年代に入ると、ワールドの業績は悪化基調を強めた。FY10(2011年3月期)の連結純利益は1.5億円まで落ち込み、[32]FY12(2013年3月期)には日本基準で約7億円の最終赤字と、1995年3月期以来18年ぶりの最終赤字に転落した[33]。創業以来の経営判断の歪みが財務面に表面化した時期だった。背景には複数の構造課題が重なっていた。第1にブランドの乱立で、ワールドはSPARCS構想以降に約40ブランド規模まで自社ブランドを増やしていたが、ブランド間のターゲット顧客の重複と店舗運営コストの重さが既存店収益を圧迫した。第2に百貨店チャネルの構造的衰退で、ワールドの主力販路だった百貨店アパレル市場全体が縮小に転じた。
第3にユニクロ・ZARA・H&MなどファストファッションのSPA企業による低価格高品質競争の激化があり、ワールドの中価格帯SPAブランドは挟み撃ちを受ける構造に陥った。FY13(2014年3月期)の連結売上高3,041億円のうち、[34]約40ブランドの店舗網を維持するための販管費負担が重く、営業利益率は1〜2%程度の低水準まで低下した。MBO時に積み上げた2,000億円規模の借入残高も依然として重く、財務面からの再建余地は限られていた。2010年代前半には競合のオンワード樫山やレナウンも構造的な業績悪化に直面しており、日本のアパレル大手全体が百貨店モデルからの転換に苦しむ時期だった。
経営陣は2013年12月に外部人材として、コンサルティング企業出身の上山健二氏を入社させた。上山氏はMBOファンド出身の再建請負人で、ワールドの構造改革の旗振り役として迎えられた。寺井秀蔵社長は2015年4月に代表取締役会長へ移り、上山氏が代表取締役社長執行役員に就任する体制交代を実施した[35]。創業家以外で初の社長就任であり、創業者ファミリーから外部出身経営者への経営権の移譲は、ワールドの組織構造の転換点となった。1959年の創業から56年、寺井秀蔵社長への義弟継承から17年を経て、ワールドは初めて創業家・畑崎一族の血脈を離れた経営陣による再建期に入った。
外部出身社長による構造改革と新事業領域の準備
上山社長就任直後の2015年から2016年にかけて、ワールドは希望退職約500人・不採算ブランド10超撤退・店舗約500店舗閉鎖という構造改革を断行した。構造改革に伴う特別損失は95億円を計上し、FY15(2016年3月期)の純利益は7.4億円と低水準に押し下げられた[36]。ただし上山氏は利益を伴わない売上は追わないという方針を掲げ、セールの値引き幅を抑制して定価販売率を高める収益改善策が組み合わさり、FY16(2017年3月期)の売上高営業利益率は4.2%から5.6%に改善した。
上山社長は同時に「全社一丸となってお客様に向かう意識」を再構築するため、企画・生産部門も含めた全社員に対し、自分の仕事の延長線上に店と顧客があることを忘れてはならないと繰り返し求めた[37]。座右の銘として「やるべきことをやるべき時にやるべき人がやる。そのためには言うべきことを言うべき時に言うべき人が言う」を掲げ、組織内部に再建期に必要な意思決定の規律を持ち込んだ。クリエイティブ・マネジメント・センター、ワールドプロダクションパートナーズ、デジタルプラットフォーム本部などの組織を磨きながら「相互連携させる」体制を整え、SPARCS構想の延長線上に「小売り型SPA」の確立を目標として掲げた。
2017年4月には事業持株会社体制へ移行し、[38]同年6月には日本政策投資銀行と共同でファンド運営会社「W&Dインベストメントデザイン」を設立、ファッション特化型の共同ファンド「W&Dデザインファンド」を組成した[39]。2017年12月にはライフスタイル事業強化のため家具・雑貨輸入販売の株式会社アスプルンドを子会社化した[40]。これら一連の動きは、ブランド事業以外の収益源としてデジタル・プラットフォーム・投資の3つの新事業領域を組み上げる準備であり、構造改革で身軽になった本体に対して、新規事業ドメインを並走させる体制づくりにあたった。
2015年〜2026年 再上場とエコシステム構想による事業ポートフォリオ拡張
2018年9月再上場と4セグメント体制の確立
2018年9月、ワールドは東京証券取引所市場第一部に再上場した[41]。2005年11月のMBOから約13年ぶりの株式市場復帰であり、上山社長が13年に及ぶ非上場期の再建を導いた結果だった。再上場時の事業体制は、ブランド事業(自社アパレルブランド群)、投資事業(W&Dデザインファンドを通じた他社株式取得)、デジタル事業(ECモール運営・他社EC受託)、プラットフォーム事業(生産・物流機能の外部提供)の4セグメントに整理された。アパレル事業会社から複数事業ドメインを持つ事業持株会社への転換が、再上場時のIRストーリーの骨格となった。再上場と並行して、ワールドはMBO期に膨らんだ有利子負債の返済と資本構成の改善を順次進め、再上場時点で自己資本759億円・有利子負債747億円という、MBO直後の水準より相当に軽くなった財務体質を取り戻していた[42]。
FY17(2018年3月期)のセグメント構成は、ブランド事業が売上2,029億円・営業利益91億円と主力を維持しつつ、[43]投資事業が売上208億円・営業利益54億円、デジタル事業が売上42億円、プラットフォーム事業が売上179億円と、新規3事業も収益貢献を示した[44]。投資事業はW&Dデザインファンドを通じ、ヒロフ・ナルミヤ・ティンパンアレイ・オムニス(後のOpenFashion)など革製品・キッズ・古着・サブスクの各分野へ出資・買収を進めた。2019年8月にはゴードン・ブラザーズ・ジャパンと合弁で「アンドブリッジ」を設立して在庫処分品専門のオフプライスストア業態に参入し、[45]同年11月には高級バッグのシェアリングを手がけるラクサス・テクノロジーズを子会社化してシェアード・リユース事業の柱を加えた[46]。アパレル業界の「無駄やロス」を価値に変える上山社長のSPARCSコンセプトを具体化する動きであった。
2020年3月、上山社長は次期社長に45歳のコンサルティング企業出身の鈴木信輝氏を指名し、自身は代表取締役会長へ移った[47]。鈴木氏は同年6月の定時株主総会で代表取締役社長執行役員に就任した。再上場から世代交代までの2年間で、ワールドは構造改革で整えたブランド事業と、投資・デジタル・プラットフォームの3事業を並走させる4セグメント体制を運営の土台に据えた。創業以来の経営権の流れは、創業家の畑崎廣敏氏から義弟の寺井秀蔵氏、外部出身の再建請負人である上山健二氏、外部出身の次世代経営者である鈴木氏へと、4世代の連続的な交代を経た[48]。創業家による経営から外部出身経営者2代への移行を、ワールドは再上場後の事業持株会社体制のもとで進めた。
コロナ赤字171億円とプロパーシフト経営
2020年から2021年にかけて、ワールドはコロナ禍の直撃を受けた。FY20(2021年3月期)の売上高は1,803億円と前期比24%減、[49]親会社株主に帰属する当期純損益は171億円の赤字に転落した[50]。百貨店・ショッピングセンターの休業、インバウンド消費の蒸発、リアル店舗中心の販売構造が一斉に逆風に変わった結果だった。2020年4月に就任した鈴木社長は、コロナ禍下での緊急避難的なコスト削減と並行して、中長期的な事業ポートフォリオの再構築を進めた。当面の財務対応として、2022年3月には借入金800億円のリファイナンスを完了させ、コロナ禍で消耗した手元流動性を再構築する措置を取った。
コロナ後の業績回復局面では、鈴木社長はプロパーシフトとOMO、そして何よりMDの三点を経営重点に掲げた[51]。プロパーシフトとは、セール販売・値引きで消化していた在庫を、定価販売(プロパー販売)の比率を高めて消化する販売戦略への転換を意味する。商品投入サイクルをワンサイクル早めた戦い方を仕掛ける方針も示し、[52]セール期前の販売量を増やすMD設計に踏み込んだ。OMOの観点ではワールドオンラインストアと店舗全体の相互送客の活性化、およびブランドごとの相互送客という二つのテーマを並行で進め、[53]リアル店舗とECチャネル間の顧客回遊を経営課題に据えた。
2022年2月にはW&Dデザインファンドが持分法適用関連会社化していた株式会社ナルミヤ・インターナショナルを33億円のTOBで完全子会社化し、[54]ショッピングセンター向け子供服を本体ブランド事業に組み込んだ。2022年4月には東京証券取引所の市場区分の見直しでプライム市場へ移行し、同時にプラットフォーム事業のB2B外販強化のため株式会社ワールドプラットフォームサービスを設立した[55]。2023年3月にはW&Dデザインファンドからラグジュアリーセレクト「ストラスブルゴ」を運営する株式会社ストラスブルゴの100%株式を取得して子会社化し、[56]高価格帯ブランドポートフォリオを補強した。鈴木社長は高価格帯をM&Aで取得したストラスブルゴや自社立ち上げで補強しつつ、20〜30代向けにも「ギャレスト」「コードA」などを育てており、[57]価格帯別のブランドポートフォリオ補強を進めた。
PLAN-Wからエコシステム運営者へのモデル再定義
2024年3月、鈴木社長は中期経営計画「PLAN-W」(2024年2月期〜2026年2月期)を始動させた。3セグメント体制(ブランド事業・デジタル事業・プラットフォーム事業)のもと、PBR1倍割れの解消に向けてROE・ROIC・DOEの目標を提示し、財務資本戦略を前面に出した。PLAN-Wの基本構想は、生産・販売・空間設計・デジタル・二次流通といったワールドが持つ機能を他社にも提供してファッション産業全体の無駄やロスを減らすという、自社事業と他社向け機能提供を組み合わせた「ファッション・エコシステム」を中核に据える設計だった[58]。鈴木社長はチャネル戦略について、消費者がECとリアルをまたいで購入する以上より早期に取り組むべきだったとの認識を示し、[59]チャネル別の戦い方の必要性を強調した。
エコシステム構想の具現化策として、ワールドは複数のM&Aを重ねた。2024年3月にオフプライスストアの株式会社アンドブリッジを完全子会社化、2024年12月に子会社ラクサス・テクノロジーズをIPOで持分法適用関連会社化し、[60]2025年2月にデジタル事業の株式会社OpenFashionとプラットフォーム事業のエムシーファッション株式会社(旧三菱商事ファッション)を、2025年3月に国内生産のワールドソーイングを相次いで子会社化した[61]。これらを織り込んだFY24(2025年2月期)の売上高は2,256億円、営業利益168億円、純利益111億円と再上場後の通期最高益を更新し、[62]MCファッション子会社化に伴う負ののれん益52億円とライトオン(衣料品チェーン)TOB成立による持分法適用関連会社化も同期間に実現した[63]。期末劣後ローンの1年前倒し借り換えも完了させ、財務体質の改善を同時に進めた。
2026年4月、ワールドは次期中期経営計画「VISION-W」を始動させた。3セグメントを「B2C事業(ブランド事業)」「B2B事業(プラットフォーム・デジタル事業の機能提供)」の2大セグメントへ再編し、[64]B2B機能の集約のため中間持株会社を「ワールド・ソリューションズ」へ商号変更した。配当方針は配当性向40%とDOE5%の高いほうを採用し、財務目標としてROE12%、CIRCRIC素材活用率20%(2026年末)などのサステナビリティ目標も掲げた。1962年に畑崎社長が小売店に在庫リスクを引き取らせる代わりに自社の企画開発力で差別化した発想は、2026年のVISION-Wで「自社のSPA運営機能を業界他社に提供する」B2B事業として再定義された。創業時のセーター卸から事業持株会社、そしてファッション産業全体へ機能を提供する事業者へと、ワールドの自己定義は67年をかけて作り替えられてきた。