福井精練加工を設立(5社合併)
羽二重の競争激化による品質問題
福井県の特産品であった「海外輸出向けの絹羽二重」が過当競争に陥ったことを受けて、羽二重の加工を請け負う精練業者も競争が激化。この結果、羽二重の品質が低下し、海外(欧州)で日本産の絹織物に対する評判が低下する事態に陥った。
このため、日本政府は外貨獲得の観点から、羽二重の品質低下を問題視した。そこで、羽二重の産地である福井県知事(中村純九郎氏)は、福井県内の精練業者を統一する方針を決定。1911年に福井県内の精練業者16工場の統合を促し、福井県精練を設立した。
創業者としての黒川栄次郎氏
福井県精練の発足にあたって、池松氏、松井氏、諸氏、黒川氏(精練会社を経営)の4名が合同を主導。福井県精練の設立時に「専務取締役」として黒川栄次郎氏が就任した。このため、セーレンの創業者の一人が黒川氏であり、のちに黒川家がセーレンの経営の主導権を握る布石となった。
福井撚糸染工を設立(セーレン本社工場)
福井県精練の黒川栄次郎氏は、染色加工の大規模工場の新設を決定。1917年に福井撚糸染工を設立し、1917年に福井市内に本社工場を新設した。なお、福井撚糸染工の本社工場は、1923年の福井精錬加工の発足時において主力工場として位置付けられ、セーレンの本社工場として継承された。
5社の合同で福井精練加工(セーレン)を設立
福井県内の精練加工業者の集約をさらに進め、1923年に福井県精練を含めた5社(福井県精練・福井撚糸染工・丸三染練・島崎織物加工部・福井県絹紬精練)が合同。1923年に福井精練加工(現セーレン)を発足した。発足時の従業員数は622名。生産拠点としては福井県内に5工場(本社工場・勝山工場・勝見工場・鯖江工場・武生工場)を稼働した。
74年前、福井県地方の絹織物は福井、鯖江、武生、勝山、大野といった生産地の機屋グループを中心にして単独の精練加工会社が生まれた。当時の絹織物の大半はアメリカに輸出されましたが・・・(略)
会社が乱立して競争が激しいために、品質上の問題、あるいは不当競争がその頃からあったのです。それで、国としても(当時の農商務省)輸出の振興、品質の統一向上の面から、県と共同で骨折って統合をやったわけです。染色加工会社というのは、たいてい個人経営で、経営が優秀な場合はぐんと伸び、そうでない会社はダウンした。それが明治時代にすでに中小企業合同というケースで個人企業でない会社として組織されてきたということです。(略)
2回目の合同が大正15年で初めて福井精練加工という名前になったのです。福井県にただ1つの工場というものができあがった。その目的が品質の向上、技術の向上にあり、それがこの会社の最高使命です。
レーヨン向け染色加工を開始
祖業は絹織物(羽二重)向けの染色加工を請け負っていたが、1929年からレーヨン織物向けの染色加工を開始
福井大空襲で3工場を焼失
クレポニーセレナイズ加工を開発
1953年にセーレンは染色加工技術「クレポニーセレナイズ加工」を開発。ベンベルグ織物およびアセテート織物の加工によって品質を高める技術として注目され、特に旭化成向けの販売への布石となった。
原糸メーカーの東レさんとか帝人さんとか旭化成産が、自分で作った糸を機屋さんに編んだり織らせたりします。そして、原糸メーカー産は、その白い生地を染工場に持ってきて染めて、染めた生地をアパレルや商社などに売ります。だから、われわれは、原糸メーカーとか一部商社から白い生地をお預かりして、おっしゃる通りの色、肌触りにしてお返しをします。委託されて、下請けで賃加工するのです。
勝見工場を帝人向けに特化
勝見工場について、帝人向けの「アセテート染色加工」に特化する方針を決定。
工場名 | 所在地 | 生産品目 | 従業員数 |
本社工場 | 福井県福井市毛屋町141 | - | 758名 |
勝山工場 | 福井県勝山市下元禄町18-9 | - | 233名 |
勝見工場 | 福井県吉野上町214 | 帝人向け(アセテート繊維) | 275名 |
鯖江工場 | 福井県鯖江市東鯖江町43-23 | - | 118名 |
大阪証券取引所第2部に株式上場
合成繊維・レーヨン織物の加工が好調
合成繊維向けの染色加工が好調に推移し、1962年12月にセーレンは大阪証券取引所第2部に株式を上場。上場時点における筆頭株主は帝人、第2位の株主は旭化成であり、合繊メーカーから出資を受けつつ染色加工を請け負うことで、安定的な取引を実現した。
大手合成繊維メーカーに売上依存
1968年5月期の売上高のうち、上位5社で全社売上高の約78%を占めた。売上高の36%を旭化成向け、同24%を帝人向け、同7.3%をユニチカ向け、同5.7%を東洋紡向けに販売しており、セーレンは大手繊維メーカーの下請け加工会社として業容を拡大した。
なお、1968年時点で合成繊維における染色加工では、セーレンは国内シェア2位(4.9%)を確保。染色の国内トップは酒伊繊維(シェア6.8%)、3位は小松精練(4.5%)であり、中小企業を含めた企業が群雄割拠する市場であった。このため、セーレンは大手繊維メーカーの委託加工業者であり、染色における競争も厳しい側面もあった。
順位 | 株主名称 | 保有比率 | 備考 |
1位 | 帝人 | 7.2% | 取引先 |
2位 | 旭化成 | 6.9% | 取引先 |
3位 | 黒川誠三郎 | 3.8% | セーレン社長 |
チコザ社から技術導入
イタリアのチコザ社より染色整理に関する技術を導入
多角化を遂行
商号をセーレン株式会社に変更
自動車内装材の生産開始
川田達男係長による新事業の推進
当時、セーレンの係長であった川田達男氏は、セーレンが大手繊維メーカー向けの委託加工業に従事する点を問題視し、新規事業の展開を社内で訴えていた。このため、当時の黒川会長が係長面談で川田氏の存在に注目し、1970年代に川田達男氏を新事業担当として抜擢した。ただし、川田氏はセーレンの社内において「異端」とみなされており、新規事業に配属された社員も数名であり、セーレンとして新規事業に注力する方向性は確定していなかった。
繊維を生かした新事業を模索する中で、自動車向けの合成繊維シートの事業化を発案した。
1975年時点で、自動車向けの内装材は「塩化ビニール」が多く、繊維は不向きとされていた。そこで、セーレンは起毛技術を活かして、自動車内装材に適した合成繊維のシート資材を開発し、大手自動車メーカーへの売り込みを開始した。
セーレン本社(経営企画室)による事業化反対
自動車用内装材の事業では、在庫リスクを持たない委託加工とは異なり、原糸を仕入れて、織物としてシートを生産し、在庫リスクを抱えた上で、メーカーに納入する事業であった。このため、従来の委託加工とは異なる事業であったため、セーレンの経営企画室は自動車用内装材の事業化に反対した。
これに対して、川田達男氏は社内の反対を押し切り、自動車用内装材の事業化を遂行した。このため、川田氏はセーレンの社内において「気違い」と呼ばれたという。
大手自動車メーカーを開拓
1973年のオイルショックにより石油価格が高騰すると、それまで自動車シート材として使用されてきた塩ビの価格も高騰。合成繊維を用いたシート材との価格差異が縮まり、セーレンのシート材が価格競争力を持つに至った。
1970年代から1980年代にかけて、大手自動車メーカー(トヨタ・三菱自動車など)はセーレンの自動車内装材を新型車種に採用。1975年にトヨタ自動車への販売を開始し、翌1976年には日産自動車、1988年にはホンダへの納入を開始し、国内大手自動車メーカーとの取引を拡大した。
自動車内装材で事業成長
1980年代を通じてセーレンの売上高のうち、自動車向け事業で増収基調を達成。1985年5月期におけるセーレンの単体売上高383億円のうち、委託加工(衣料)が57%・自動車内装材が31%・そのほかが12%となり、委託加工に次ぐ主力事業に成長した。
円高ドル安により、輸出安業であった国内の繊維企業の多くが苦境に陥る中で、セーレンの業績好調は「セーレンの蘇生」として注目を浴びた。
私は、やはり自分で物を企画して、開発して、作って、自分で売る仕事をしないと会社の将来はない。そういう会社にしなければ、と思いました。本当にお駄賃商売で、言われたことをやっているだけでは、会社そのものも発展しません。
入社した時に「これはおかしい」という感覚を持ちましたから、これは何とかそういう会社にしなければならない、ということで、徐々に私自身がそういうことをやろうという気になっていったのです。
それで、いろいろありまして、結局、「おまえは主流の仕事をしなくていい。もう、勝手にやれ」と言われて、窓際へやられて、そこで勝手にやったわけです。やはり何か売ることはやらないかんということで、いろいろなことをうやりました。傘地とか、あの頃は自動車が出たころで車庫はありませんから、自動車のカバーとか、靴の裏地、あるいはベビーカーの生地とか、いろいろなことをやった中で、たまたま自動車の仕事があったのです。(略)
その頃の内装は、全て塩化ビニールだったのです。これはすぐに破れますし、吸湿性がなく、安物くさくて、何か付加価値の高いものを内装材として探しているところでした。そこで、繊維はどうかという話をしたのです。
セーレンケーピーを設立
米国に現地法院を設立
ビスコテックの開発開始
委託加工から脱却するために、染色加工をコンピュータ化した新技術「ビスコテック」の開発を開始
川田達男氏が社長就任
自動車向けシート(合成繊維内装材)の新事業を推進した川田達男氏(当時47歳)がセーレンの社長に就任。
TPFを新設(テクノポート福井)
タイに現地法人を設立
勝見工場を閉鎖
中国で自動車内装材の現地生産を開始
カネボウの繊維事業を買収
Viscotec U.S.Aを清算
人員削減を決定
タイに衣料一貫生産工場を新設
川田達男氏が会長就任
電導素材メタフレックスの販売開始
川田達男氏の選任賛成比率低下
セーレンの中興の祖である川田達男氏は、2014年に社長から会長に就任したものの、代表取締役として経営トップの座にとどまった。2024年における川田氏は85歳と高齢でありながらも代表取締役としてセーレンの経営に従事した。このため、株主総会における川田氏の取締役選任議案の賛成比率が低下。2024年の株主総会において、川田氏への賛成比率は85%となり、セーレンの全取締役候補者のうち最低水準の賛成比率となった。