歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1923年、福井の輸出向け絹織物が過当競争で品質を落とし欧州での評判を崩すなか、外貨獲得を急ぐ政府と県知事・中村純九郎氏の主導で、県内の精練業者5社が合同して福井精練加工が発足した。担うのは織り上がった生地を染める後工程で、何を作るかは織物産地が、のちには出資する合繊メーカーが決めた。自前で需要を起こさず、預かった糸を加工して料金を得る。受け身の立場が、この会社の始まりにあった。
決断委託加工で業界2位まで伸びたが、原糸を発注元から預かって加工料を得る無在庫の事業構造では、採算の決め手は発注側が握っていた。1973年の石油危機で発注が細ると、係長の川田達男氏が「異端」と揶揄されながら、1975年に自動車内装材へ踏み込んだ。糸を自ら仕入れ、在庫を抱え、トヨタや日産へ直接納める。受け身の加工業から、需要を自分で取りにいく製造業へと主力を移した。世界トップの車輌資材は、この一歩から育った。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1923年に発足したセーレンは、需要を自ら起こさない受け身の委託加工業として始まったのか
- A 1923年の発足は、輸出向け絹羽二重の品質低下で外貨獲得を急ぐ政府と福井県が県内精練業者の統合を主導した結果であり、需要を自ら起こすためではなかった。集約された福井精練加工が担ったのは織り上がった生地を染める後工程で、何を作るかは織物産地が、のちには出資する合繊メーカーが決めた。預かった生地を加工して料金を得る受け身の構造が、創業時から事業の性格を定めた。
- Q なぜ川田達男氏は1975年に、社内の反対を押し切って自動車内装材へ参入したのか
- A 川田達男氏が1975年に自動車内装材へ参入したのは、1973年の石油危機で合繊大手からの委託加工の発注が細り、加工料を発注側に握られる受け身の事業構造では収益源を失うと見たためである。当時の自動車シート材は塩化ビニールが主流で繊維は不向きとされていたが、石油危機で塩ビ価格が高騰して価格差が縮まり、繊維製シート材に価格競争力が生まれた。糸を自ら仕入れ在庫を抱えてトヨタへ直接納める製造業へ、主力を移した。
- Q なぜ近年のセーレンは、車輌資材で築いた一貫生産を半導体や人工衛星など繊維・自動車の外へ広げているのか
- A セーレンが近年、車輌資材で築いた一貫生産を半導体や人工衛星へ広げているのは、車輌資材が連結売上の約7割を占める一本柱への集中を経営課題と見たためである。原糸から織編・染色・縫製までグループ内で完結させる一貫生産は自動車内装材を世界トップへ押し上げた強みで、これを小ロットのエレクトロニクスやメディカルへ複製している。2022年就任の山田英幸社長は繊維企業の枠を超えた産業資材メーカーへ事業の幅を伸ばす方針を掲げた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1923年〜1973年 福井5社合併から大手合繊メーカーの委託加工2位まで
県知事主導の集約で誕生した染色加工会社
1923年5月、福井精練加工株式会社が設立された[1]。福井県の特産だった輸出向け「絹羽二重」が過当競争で品質低下を起こし、欧州市場で日本産絹織物の評判が落ちる事態を受け、外貨獲得を重視した政府と福井県知事の中村純九郎氏が県内精練業者の統合を主導したのが直接の契機だった[4]。1911年に16工場の統合で福井県精練が設立され[5]、1917年には黒川栄次郎氏が福井撚糸染工を発足、1923年にはこの2社に丸三染練、島崎織物加工部、福井県絹紬精練を加えた5社合同で福井精練加工が成立した[2]。資本金200万円、発足時従業員622名、本社・勝山・勝見・鯖江・武生の5工場体制で出発し、創業者の一角に位置した黒川家がのちに長期にわたって経営の中枢を占めた[3][6]。
設立当初の事業は絹羽二重向けの染色加工だったが、1929年からはレーヨン織物向けの染色加工へ移った。絹から人造繊維への原料転換が世界繊維産業全体で進む局面に乗った形で、戦間期の福井繊維業を支える地位を維持した。1945年7月の福井大空襲では3工場を焼失し、戦後復興期は工場再建と原糸調達の困難から再出発したが、1950年代に合成繊維時代が到来すると、染色加工技術の高度化に活路を見出した。1953年に開発した「クレポニーセレナイズ加工」はベンベルグ織物・アセテート織物の品質を高める技術として評価され、1956年には勝見工場を帝人向けのアセテート染色加工に特化させ、特定顧客向けの専用ラインを設けるビジネスモデルを定着させた。
合繊大手の下請けに依存した上場と委託加工2位の構造
1962年12月、福井精練加工は大阪証券取引所第2部に株式を上場した[7]。上場時点の筆頭株主は帝人、第2位は旭化成だった。合繊メーカーから出資を受けたうえで染色加工を請け負う形は、安定取引と引き換えに発注側へ採算決定権を渡す関係でもあった。1968年5月期には売上高の36%を旭化成、24%を帝人、7.3%をユニチカ、5.7%を東洋紡向けに販売し、上位5社で売上の約78%を占めた。同年の合成繊維染色加工で福井精練加工の国内シェアは4.9%、業界2位の位置だった。首位は酒伊繊維(6.8%)、3位は小松精練(4.5%)であり、群雄割拠の市場で発注元が利益分配を握る下請けポジションを抜けられない状況にあった。
1969年12月には東京証券取引所第2部にも上場し[8]、合繊大手の下請けという地位を維持したまま流通市場での評価を拡張した。1973年4月には東証・大証ともに市場第一部へ指定替えとなり、二部上場から約10年で第一部入りを果たした[9]が、業績の安定はあくまで委託加工先である合繊各社の事業計画に連動する構造のうえに成り立っていた。同年2月、商号を「セーレン株式会社」に変更した[10]。「セーレン」は精練(せいれん)の口語化で、創業以来の染色加工の屋号を社名に昇格させたかたちだったが、1973年10月の第一次石油危機で合成繊維原料の価格が急騰し、合繊大手の生産調整が始まると、下請けの染色加工会社も発注減の影響を直に受ける構造的な脆弱さが露呈した。
1973年〜2011年 川田達男氏の異端起用と自動車内装材世界トップへの転身
「気違い」と呼ばれた係長の事業化判断
1973年のオイルショックは合繊大手から下請け各社へ発注減として伝播し、染色加工市場の縮小が始まった。委託加工に依存する事業構造のままでは収益源を失うとの認識が社内で広がるなか、ある係長が自前事業の必要性を唱えた。係長面談で黒川栄次郎会長が注目したのが、当時セーレンの係長だった川田達男氏である。1970年代に川田氏は新事業担当として抜擢されたが、社内では「異端」とみなされ、配属された部下は数名規模にとどまり、新規事業への注力は経営の合意事項ではなかった[11]。
川田氏は1975年、自動車内装材への参入を社内の反対を押し切って決断した。自動車シート材は当時、塩化ビニールが主流で、繊維は不向きとされていた[12]。委託加工は原糸を顧客から預かって加工料を得る無在庫モデルだったのに対し、自動車内装材は原糸を仕入れて織り上げ、在庫リスクを抱えてメーカーに納入する事業構造へ変わる。経営企画室は反対したが、川田氏は社内で「気違い」と揶揄されながらも事業化を遂行した。1975年にトヨタ自動車への販売を開始、1976年には日産自動車、1988年にはホンダへの納入も始め、国内大手自動車メーカー全社との取引を10年余で築いた。1973年のオイルショックで塩ビ価格が高騰した結果、合成繊維シート材との価格差が縮まり、起毛技術を活かしたセーレンの内装材に価格競争力が生まれた偶然も追い風になった。
1985年5月期、セーレンの単体売上高383億円のうち、委託加工(衣料)が57%、自動車内装材が31%、その他が12%という構成となり、自動車内装材は委託加工に次ぐ主力事業へ成長した。円高ドル安で輸出依存の国内繊維企業の多くが採算を落とすなか、車輌資材という新領域で輸出競争に晒されない国内自動車メーカー向けの安定取引を確保した形となり、業績好調は「セーレンの蘇生」として業界で注目された。委託加工2位の下請け体質から脱却する出口を、川田氏の事業化判断が用意した。
1987年社長就任と「Do or Die」経営
1987年8月、川田達男氏は47歳でセーレン社長に就任した。創業家・黒川家からの託しを受けた就任で、社長就任時に社員へ示した行動指針は「のびのび(自主性)、いきいき(責任感)、ぴちぴち(使命感)」だった。川田氏は入社直後から会社の経営を批判して左遷された経歴を持ち、自身を社内では異端者と称し続けた[13]。社内の本流ではない経歴から経営トップに就いた事実が、後の経営判断に一貫した独立性を与え、創業以来の下請け体質を変革する原動力となった。
川田社長は1987年に染色加工工程をコンピュータ制御する「ビスコテック」の開発を開始した。受託染色は発注元の指定通りに染めて納入する受け身の事業だったが、ビスコテックは無水・無染料の電子染色技術で、デジタルデータから直接生地に色柄を出力する仕組みである[14]。委託加工の発注元の指図書通りに染めるという従来モデルから、自社の技術を独自商品として外販する構造への転換を、技術開発の側面から進めた。1990年11月にはテクノポート福井(TPF)を新設し、ビスコテックの量産拠点を確保した。1995年のバブル崩壊後、川田社長は経営指針を「命がけでやろう」という意味の「Do or Die」へ変更し[15]、創業期から続いた下請け体質を解消する方針を社内に徹底した。
海外展開では1986年10月の米国法人 Seiren U.S.A. Corporation 設立を皮切りに[16]、1994年タイ(Saha Seiren)[17]、1997年ブラジル[18]、1998年米国(Viscotec U.S.A.)[19]、2002年中国・蘇州(世聯汽車内飾)[20]、2012年インドネシア・インド[21]、2014年メキシコ[22]、2017年中国・広州[23]、2021年ハンガリー[24]と、車輌資材を核とする現地生産拠点を継続的に新設した。2005年7月にはカネボウ㈱の繊維事業を買収してKBセーレン㈱を設立し、ナイロン繊維部門を取り込んだ。同月、大阪証券取引所市場第一部の上場を廃止し、東証一本化に整理した。2000年代半ばには連結子会社の吸収合併を進め、グループ事業を本体中心の構造へ集約した[25]。
2011年〜2025年 創業家後継候補の登場と「繊維企業の枠を超える」戦略
24年の社長期から会長兼CEOへ、技術畑社長が引き継ぐ
2011年6月、川田達男社長は社長と会長を兼務する体制に移った[26]。1987年8月の社長就任から24年弱、創業家以外の経営者として、染色加工の委託受託から自動車内装材世界トップシェアへ事業構造を作り替えた在任期となった。2014年6月、坪田光司氏が社長に就任した。坪田氏は1971年入社の技術畑出身で、川田氏は代表取締役会長兼CEOとして経営に残り[27]、創業期からの長期ビジョン設定と日常の事業執行を会長・社長で分担する体制となった。
坪田社長期の2018年に発表された繊研新聞「新社長」記事では、坪田氏は1971年入社、副社長執行役員を経て社長へ昇格、代表権付き社長として8年弱在任した。2018年12月にKBセーレン・DTY㈱を子会社化[28]、2019年3月にはケイ・エス・ティ・ワールド㈱(現セーレンKST㈱)を子会社化し、繊維加工の周辺領域や検査・計測分野へ事業範囲を広げた[29]。2020年8月には広州特拓汽車内飾を広東世聯美仕汽車内飾へ社名変更[30]、2020年11月にはセーレンソーテック㈱をセーレンアルマ㈱が吸収合併するなど、グループ法人の整理を進めた[31]。FY18(2019年3月期)連結売上高は1,227億円、営業利益105億円・売上高営業利益率8.6%と、車輌資材を中心とする5事業領域の組み合わせで安定収益を確保する構造を維持した。
2022年4月、山田英幸氏が社長に就任した[32]。1987年入社、研究開発センター長を経ての就任で、福井大学大学院工学研究科修了、越前市出身の技術畑後継者だった。山田社長は就任直後から、繊維企業の枠を超えた産業資材メーカーへ変えていく方針を打ち出し、長年開発してきた新規事業の芽を次の収益柱に育てる構想を示した[33]。半導体加工部材・人工衛星向け部材といった新規領域を「次の柱」と位置付ける方針を公表し、車輌資材1本柱からの分散を経営課題として明示した。同年4月、東京証券取引所の市場区分見直しで市場第一部からプライム市場へ移行した[34]。社長交代発表時に川田達男会長は、コロナ禍から出口が見えた局面を次の百年を見据えた方向転換の時期と位置づけ、新体制で臨む方針を表明していた[35]。回復局面を世代交代のタイミングに重ねる経営判断となった。
車輌資材世界トップと5事業構成、創業家後継の登場
セーレンは現在、車輌資材・ハイファッション・エレクトロニクス・環境・生活資材・メディカルの5事業を展開する。FY24(2025年3月期)の連結売上高は1,597億円、営業利益179億円・売上高営業利益率11.2%、純利益139億円。同期セグメント別売上では車輌資材1,098億円(構成比69%)、ハイファッション219億円、エレクトロニクス107億円、環境・生活資材97億円、メディカル68億円となり、車輌資材の比重が一段と高まる構造である。セグメント営業利益でも車輌資材139億円が最大で、5事業合計の78%を稼ぐ。FY10(2011年3月期)の連結売上863億円・営業利益37億円から、FY24の売上1,597億円・営業利益179億円へ、14年で売上1.85倍・営業利益4.8倍と、利益拡大の傾きが売上拡大を上回るかたちで業容を伸ばした。
2025年、山田社長から結川孝一氏への社長交代が公表された。元副社長からの昇格で、日刊工業新聞「新社長登場」インタビューで結川社長は「一貫生産、ニッチにも力」を強調した(日刊工業新聞電子版 2025年)。一方、川田達男氏は2024年6月時点で85歳、依然として代表取締役会長兼CEOとして経営トップの座にあった[36]。2024年6月の株主総会では川田氏の取締役選任議案への賛成比率が85%まで低下し、取締役候補者中の最低水準を記録した。長期在任への株主側からの異論が顕在化したかたちで、創業家以外の中興の祖からの世代交代を、結川社長就任で先に進めるかが2025年以降の経営課題となった。
創業家側からは川田達男氏の長男・川田浩司氏が代表取締役副社長執行役員として戦略・マーケティング責任者を担う立場にあり、2025年1月のTCG REVIEWインタビュー(タナベコンサルティンググループ媒体)で経営方針を語った。技術畑の坪田・山田・結川という3代の社長が川田達男氏の長期ビジョンを日常運営で支える体制と並行して、創業家後継候補の川田浩司副社長が長期的な経営の中核を担う候補として登場している。1923年の5社合併で県内集約として出発し[37]、1975年に「異端」の係長が立ち上げた自動車内装材で世界トップに到達した会社は、車輌資材依存から半導体加工部材・人工衛星向け部材を含む5事業構成への展開を、新世代の経営チームに託す段階に入った。